はじめに
本稿に先立って筆者は,別稿にて,我が国における子どもの権利論の特徴と問題点を「親の教育権」
論との関連から検討を加えた(1)。ここで示した,我が国の子どもの権利論及び親の教育権論の特徴 については,アメリカにおけるそれらとの対比によって明確化されるであろう。すなわちアメリカで は,イギリスの思想家J.ロック(John Locke, 1632–1704)流の伝統的家族観のもと,親の教育権は「自 然権の一種」として見なされてきた歴史的・文化的基盤が存在する。そこでは,国家に先立って親に 子の教育の第一次的な権限があるとされ,そしてその権限は,合衆国憲法修正14条により憲法レベ ルで保障されることが判例上確認されている(2)。
それゆえアメリカにおける子どもの権利論は,森田が指摘するように,このような文化的特質の裏 返しとして,つまり児童虐待や離婚の急増といった「家族の崩壊」が社会問題化した際における,こ の親の教育権への不信や批判の表明という形で展開されたものであった(3)。そのため,例えば19世 紀後半から20世紀前半に高揚した子ども保護論は,文字通り「親代わり」としてのパレンス・パト リエ(Parens Patriae,国親)思想の形態をとっているし,また1960年代以降の子ども解放論的思潮 も,「子と親の利益は一致しないので,もはや子どもの自己決定に委ねたほうがよい」という,親へ の不信を背景として提起されているのである(4)。このようにアメリカでは,子どもの権利の保障と 親の教育権の擁護は,しばしば正反対のベクトルを持ち得るものとして理解されていると言える。
一方,我が国における子どもの権利論と親の教育権論は,その両議論が提起された時期を見る限り では,上述のアメリカの場合とはかなり異なった関係性にあるものと考えられる。と言うのも,我が 国で(今日的な)子どもの権利論が高まりを見せるのはとりわけ1980年代の管理教育批判以降であ るが,同じく親の教育権論も,まさにこの時期に今橋(5)らによって盛んに主張され出しているので ある。そこではむしろ,子どもの善を最もよく保障し得るのは,国家でも教師でもなく親であるとい う認識のもと,教師や国家による過剰な教育権限行使から子どもの権利を守る「防波堤」として,親 の教育権が積極的に位置付けられていると解釈できるであろう。そしてこの親の教育権論は,その後 結城(6)や西原(7)らによって継承・発展されており,今日の教育法学界においても(必ずしも主流と は言い得ないとしても)一定の影響力を有するものとなっている。
このような「親の教育権擁護型」の議論は,我が国における子どもの権利論の一特徴であると考え
H. ラフォレットの「親のライセンス化」論
―
児童虐待と親の教育権規制を巡る一議論として
―帖 佐 尚 人
られ,これまで我が国で十分に認められてこなかった親の教育権を正当に評価していこうとする点で は,肯定的な意味を持ち得るものである。しかしながら近年の,親による児童虐待やネグレクトの社 会問題化,あるいは学校や教師に対して理不尽な要求をする親の存在の顕在化といった状況を鑑みた 場合,この論に内在化されている親子間の楽観的・予定調和的な推定については,多かれ少なかれ懐 疑的とならざるを得ないであろう。そしてこのことを前提として踏まえるのであれば,親による教育 権限の不当な行使や放棄―端的には虐待やネグレクト―をどのように規制し,子の養育に関する 親の資質・能力をいかに確保していくのかという問題は,今後の極めて重要な課題の一つとして位置 付けられると考えられる。
この点に関して,児童虐待問題のいわば「先進国」であるアメリカでは,既に1980年頃から,親 の教育権限の適正な管理を巡っての極めてラディカルな主張が提起されつつある。すなわち,親とい う地位・権限をライセンス制にすることで,その一定の資質・能力を担保していこうという「親のラ イセンス化」(licensing parents, parental licensing)の議論であり,1980年に倫理学者のH.ラフォレッ ト(Hugh LaFollette, 1948–)(8)が提唱して以降,賛否両論の活発な論議が展開されているのである。
この主張は極めて突飛なものであり,そのためこれまで我が国では,この論が取り上げられることは 皆無であった。しかしながらこの種の論も,上述した親の教育権論の高揚及び児童虐待問題の深刻化 という,我が国の今日的状況を踏まえるならば,今後は十分な検討が加えられるべきものであるよう に思われる。少なくとも,このような提案に対し我々がどのような立場を取っていくのかについて,
その何らかの回答を用意しておく必要はあろう。
そこで本稿では,まず①アメリカにおける児童虐待問題の歴史的展開を略述した後,「親のライセ ンス化」論がこの児童虐待問題,あるいは「家族の崩壊」問題のアンチ・テーゼとして提起され出し たものであることを確認した上で,②この論の先駆的論者であるラフォレットの主張の要点を整理・
検討する。そしてこれらの考察を通して,③この論に示されるような児童虐待問題の(事後的対応レ ベルではなく)事前規制レベルでの議論が,今後我が国でも,理論面・実践面双方において十分に論 じられる必要があることを指摘する。
1.アメリカにおける「親のライセンス化」論成立の背景
(1)アメリカにおける児童虐待問題とその契機
アメリカにおける児童虐待の事例は,1874年ニューヨーク市で起こった「メアリー・エレン事 件」(the Mary Ellen child abuse case)(9)にまで遡ることができる。しかしながら,これが単なる局 所的な問題としてではなく広く社会問題として捉えられ出したのは,とりわけ1960年代に入って 小児科医H.ケンプ(Henry Kempe, 1922–1984)らが,これを「被打撲児症候群」(Battered Child
Syndrome)という呼称で報告して以降のことである(10)。勿論それまでも,child abuse(あるいは
child maltreatment,いずれも児童虐待の意味)という用語は使われていたが,それは特殊な問題を 抱えた家庭の中で起こる例外的なもの,という認識が一般的であった(11)。これに対しケンプらの報
告は,①親による子どもへの暴力が決して例外的なものではないこと,②そのため今後,虐待の疑い のあるケースについては,公的機関への通告を義務付ける法律を制定すべきであることを主張するな ど,極めて革新的な内容を含むものであったのである。そしてこれを一つの契機として,その後アメ リカでは,この児童虐待の防止とその対策が喫緊の課題として認識されるようになる。
尚,このような1960年代以降の「家族の崩壊」の問題は,先述したようにアメリカにおける子ど もの権利論の高揚を用意するものともなっている。とは言え,この点についてはここでは検討せず,
次にこれ以降アメリカで為された児童虐待対応施策について簡潔に整理しておくこととしたい。
(2)アメリカにおける児童虐待問題への対応と「親のライセンス化」論
1960年代以降のアメリカでの,児童虐待防止への取り組みは多岐にわたるが,ここでは便宜的に
①立法・制度面での整備,②親教育,親支援に関する研究・開発という二つの側面から把握すること とし,以下でその各々について概観していこう。
①立法・制度面での整備
児童虐待の防止とその対策として,アメリカにおいてまず取り組みが開始されたのは,先述のケン プらもその重要性を指摘しているような,児童虐待の発見・通告のシステムを構築していくことで あった。すなわちケンプらの報告から間もなく,1963年から1967年の間にアメリカ全州で制定され た「児童虐待通告法」(child abuse reporting laws)(12)がその最初の立法群であり,またこれと同時期 に全米各地に設立された「児童保護機関」(Child Protective Services, CPS)が,その虐待通報の窓口 及び事実関係の調査に当たることとなった。
さらに1970年代に入ると,州レベルのみならず連邦レベルでの法制度の拡充が図られるようにな る。特に,1974年には「児童虐待防止・対策法」(Child Abuse Prevention and Treatment Act)が制 定されているが,これは連邦政府の州政府に対する補助金給付を規定するとともに,児童虐待が疑 われる全てのケースについて通報を義務付け,かつそれを調査・対処するシステムを構築すること を,連邦法レベルで確認したものである。また同年には,それらを統括する機関として,保健福祉 省(Department of Health and Human Services)内に「児童虐待・ネグレクトに関する全米対策セン ター」(National Center on Child Abuse and Neglect, NCCAN)が設立されている。
このようにアメリカでは,1970年代半ばまでには児童虐待に対する一定の法的・制度的枠組みが 整えられ,さらにその後には,以下で示すようなより実践的な取り組みが為されていくことになる。
②親教育,親支援に関する研究・開発
上述した児童虐待防止法に基づく各州への助成金をもとに,1970年代から盛んに進められ出した のが,親教育や親支援に関する研究,いわゆる「ペアレンティング」(parenting)についての研究で ある。このペアレンティングという語は,これまで述べてきたような児童虐待問題の文脈で多く用い られるようになったもので,単に「親であること」を意味する parentage などとは異なり,「親と
して子どもを(適切に)育てること」,「親としての資質や責任,役割」といった,より広範な意味内 容を含む概念として理解されている(13)。本稿後半部で検討する「親のライセンス化」論も,このう ちの「親としての資質や責任」に関する議論として,このペアレンティング研究の一部として解釈す ることができよう(14)。
ただし,あくまでペアレンティング研究の主軸は,基本的には児童虐待防止教育や育児支援教育な どの「ペアレンティング教育」(parenting education)のプログラム開発にあるため,ここでその開 発の動向を略述しておくことにしたい。この種のプログラムは,1970年代にその開発に向けての基 礎的研究が開始され,主として1980年代以降,実際に様々なプログラムが考案され出している。そ の代表的なものとしては,「共感の根」(Roots of Empathy, 1981),「子どもの発達,ペアレンティング,
親の発達」(Child Development, Parenting, Parent Development, 1984),「ペアレンティングへの教育:
ケア・カリキュラム方法の学習」(Education for Parenting: Learning How to Care Curriculum, 1989),
「子どもは父親で変わる」(Dads Make a Difference, 1995)などが挙げられる(15)が,これらはその後 学校教育のカリキュラムにも組み込まれ,「将来の親」へ向けての準備教育として実践が展開されつ つある。例えば「ペアレンティングへの教育」は,毎年約150人のインストラクターのもと288校
5,000人の子どもがこのプログラムを受けているし,「子どもは父親で変わる」は1994年から2007年
の13年間で2,691人のトレーナーが養成され,162校62,000人の中学生を対象に実施されている(16)。 以上のようにアメリカでは,児童虐待の問題に対して,法制度的整備のみならず様々な教育プログラ ムの開発・実践が進められるなど,かなり先進的・精力的な取り組みが為されていると言えよう。
しかしこのような取り組みにもかかわらず,児童虐待問題は解決へと向かうどころか,むしろます ます深刻化の様相を呈しているというのが実情である。つまり,先述の各CPSから集められた統計 によれば,1974年の全米調査開始時には約70万件であった虐待の通報数は,20年後の1994年には 300万件に達し,さらに2005年以降は毎年350万を超える件数で推移しているのである(17)。その中 には,軽微な虐待についての通告や誤報も多く含まれるが,現在でも年間約80万人の子どもが虐待・
ネグレクトを受けていることが,2010年に出された報告書で示されている(18)。このようにアメリカ では,児童虐待問題に対して,未だその有効な手立てを十分に講じることができないでいる。そして このことが,ラフォレットの1980年論文を経て今日に至るまで,「もはや親という地位をライセンス 制にして,その権限の適正な管理を図っていくべきなのではないのか」という主張が盛んに提起され る,その主な背景になっていると考えられるのである。
2.H.ラフォレットの「親のライセンス化」論
(1)ラフォレットの主張の要点とその正当化の根拠
そこで以下では,ラフォレットの論稿「親のライセンス化」(“Licensing Parents”, 1980)について 検討していくことにしたい。ラフォレットは,これまで述べてきたような児童虐待の深刻化を問題意 識とし,その解決の一手法としての「親のライセンス化」を本格的に提唱した,その最初の論者であ
る。まず彼は,冒頭でこの論文の目的を次のように述べ,論を展開している。
本稿で筆者は,国家が全ての親に対し,親たるのライセンスを要求すべきであると主張する。
ここで筆者は,実行可能で適正なライセンス・プログラム(licensing program)が実際に確立可 能であることもまた論じるが,あくまで本稿の主たる目的は,親のライセンス化が理論的に妥当 であることを示す点にある。
ただしここで注意しなければならないのは,このような親の出産・育児等の行為に対して一定の制限 を加えるべきとする主張が,彼以前に全く存在しなかったわけではない,ということである。とりわ け,19世紀末から20世紀前半にかけて世界的規模で台頭した優生思想(eugenics)からは,国家が 親を管理・統制するという発想を容易に見てとることができる(19)。しかしながらこの優生思想では,
もっぱらその目的は「人口統制」(population control)や「人類の改良」(human betterment)等に置 かれているのであって,この点でラフォレット以降の議論とは明確に区別されるべきであろう。と言 うのもラフォレットは,以下で述べるように,あくまでJ.S.ミル(John Stuart Mill, 1806–1873)流の リベラリズムの原則に基づいてこのライセンス化の主張を展開しているのである。このことを明らか にするために,ここで彼の主張を要約するならば,それは次の四点にまとめられるであろう(20)。
① 我々の社会では,一般に「潜在的な他者危害性」(potentially harmfulness toothers)を含む行為 に対しては,ライセンス制度を設けることにより,その行為遂行に一定の制限を課すことが許容 されている(例えば,自動車の運転免許や医師免許など)。
② そして今日(1980年)の児童虐待の増加を考慮するならば,運転行為や医療行為と同様,親に よる子の養育もまた,「潜在的な他者危害性」を有する行為であると言わざるを得ない。
③ それゆえ社会は,出産・育児に先立って,親にライセンス取得を要求することでその危害性を除 去し,子どもの保護と親の教育権限行使の適正化を図っていくべきである。
④ この主張は一見すると突飛なもののように思われるが,実のところ理論的整合性の面でも,実現 可能性の面でも妥当性を有する。
このうちの③に示されるように,彼は「親のライセンス化」の目的を,親の行き過ぎた教育権限行 使を防止することによる,「子どもの保護」に限定して述べている。そしてその際,その規制の根拠 として挙げられているのが育児・養育行為の「潜在的な他者危害性」であり,換言すれば彼は,(古 典的)リベラリズムにおいて唯一正当な介入原理とされる「侵害原理」(harm principle,「他者への 危害の防止」という理由による介入の説明原理)(21)から,その正当化を図っているのである。その上 でラフォレットは,それでもなお我々がこの提案に対して反対の姿勢を貫くのであれば,それは次の 二つの論法を取る以外にないであろう,とする。すなわち,「たとえ育児が潜在的に他者危害的であ るとしても,親のライセンス化が理論的に妥当でない特別な理由がある」とする理論面への批判か,
もしくは「ライセンス・プログラムを実施する上での,信頼に足る適正な手続きが存在しない」とい
う実践面での批判のいずれかである(22)。この両者の批判に対して,彼は以下のように再批判を試み ることで,改めてライセンス化の妥当性を主張している。
(2)「親のライセンス化」批判に対するラフォレットの応答
①理論的批判への応答
上で述べたような,「親のライセンス化が理論的に妥当でない特別な理由」として,ラフォレット は次の三つを想定し,その各々について検討している(23)。第一に,親が子どもを持つことは,言論 や信教の自由と同じく生来的な権利であるとする主張である。これについて,彼はたとえ人がこれら の権利を有するとしてもそれは無制限のものではなく,時にそれらは罪なき人を保護するために制限 され得ることを指摘する。例えば言論の自由の保障は,他者を誹謗中傷(slander)することまで許 容するものではない。そのため,たとえ人が子どもを持つ権利を有するとしても,その権利もまた罪 なき人(ここでは子ども)を保護するために制限され得る,としている。
第二に,「親のライセンス化」は個人の生への多大な介入を招きかねない,とする批判である。こ のような批判に対しラフォレットは,確かに個人の生に対する不必要な公権力の介入の惧れには,慎 重を期さねばならないと述べる一方で,しかしながらこの親のライセンス規制の場合,その親に対す る介入はさほど深刻なものとはならないであろう,という見解を示している。と言うのも,ラフォ レットによれば,あくまでこれは子どもを虐待するような不適格な親への規制が目的であり,それ以 外の通常の親は,(ライセンス審査を受けるなど)僅かな介入を被るに過ぎないのである。
また第三は,これら二つの議論を受けて為され得るであろう,親の教育権擁護のやや弱まったバー ジョンの主張である。つまりたとえ親の権利が無制限のものではないにしても,子の養育に関する最 低限の基準を満たしている限りで,親は子どもを養育する権利を保障されるべきである,という条件 付きの権利擁護がこれに当たる。しかしながら彼は,このタイプの親の権利擁護であれば,それは不 適格な親を規制すべきであるとする「親のライセンス化」の主張と必ずしも矛盾するものではなく,
むしろ調和的関係になるであろうと指摘する。それ故,これはもはやライセンス化に対する批判とし て成立していないとし,この批判の妥当性を否定している。
②実践的批判に対する応答
続けてラフォレットは,「親のライセンス化」に対する実践面での批判として,次のような五つの タイプを挙げている(24)。まず,第一に「よき親」(a good parent)についての妥当な基準など存在し ないであろうし,あるいはたとえ存在したとしても,我々はその基準を明らかにすることなどできな いであろう,という批判である。これに対して彼は,この指摘を率直に受け入れた上で,しかしこの ライセンス化の提案は,そのような「よき親」と「悪しき親」の純然たる区分を為すよう要求するも のではない,として反論する。つまりライセンス化は,①でも述べたように,子どもを虐待・ネグレ クトする劣悪な親の排除のみを企図しているのであり,そしてそのような悪しき親を特定することだ
けであれば間違いなく可能である,というのがラフォレットの見解である。
第二に,どの人が将来子どもを虐待するのかを予測する,信頼に足る審査方法が存在しないという 批判である。その場合,ライセンス化は単に不当であるだけでなく,時間の浪費でもあるということ になる。そしてこの問題については,彼は自身が心理学者や社会学者ではなく,哲学・倫理学の研究 者であるため十分な回答能力を持たないとして,その明確な回答を打ち出せていない。そのためここ での彼の回答は,その今後の研究の進展に期待すべきといったものにとどまっており,この点は後の 論者から多くの批判が為されている(25)。
第三の批判は,誰が望ましい親であるかを確かめるための信頼に足るテストがたとえ利用可能であ るとしても,管理者がそのテストを意図せず悪用してしまう危険性についてであり,また第四の批判 はそのライセンス付与の手続きにおける,権力濫用の危険性についてである。しかしながら彼は,こ のような危険性とは他のライセンス審査手続きにおいても同様に起こり得るものであって,親ライセ ンス審査が運転免許試験や他の規制手続きよりも悪用されやすいとする根拠が不明瞭であると述べ,
この批判を退けている(26)。
第五の批判はその実行上の問題点・難点を指摘するもので,例えばライセンスのない親から生まれ た赤ん坊をどう扱うのかなど,様々な困難な事態が生じ得るというものである。これに対し彼は,「間 違いなくここには難問が存在するが,しかしそれらは必ずしも克服不可能なものではない」(27)と述 べ,上記の場合であれば現行の養子縁組(adoption)制度を活用することなどを提案している。
このようにラフォレットは,「親のライセンス化」論に対する理論面・実践面双方からの反論に応 答した上で,最後に幾つかの留意点を述べている(28)。以下にこれらを列挙し,彼の所論についての 検討を終えることとしたい。
(a)ここで述べた提案は,必ずしも厳格なライセンス化を推奨しているわけではないこと。
(b) そのため,より制約的でない代替的な親の管理方法があるのであれば,そちらを支持するであ ろうこと。
(c) しかしながら,いずれにせよ「親は自身の子どもを所有,あるいは統治する自然的権利を持つ」
といった信条は放棄されるべきであり,「親はその子どもの,将来の大人としての生を確保しな ければならない」という信念へと取って代わられなければならないこと。
以上が,ラフォレットによる「親のライセンス化」論の概要である。このような彼の議論は極めて 突飛なものであり,通常の我々の直観にも著しく反するものではあろうが,そこには必ずしも一笑に 付することのできない何らかの含蓄があるようにも思われる。そこで最後に,この論の意義と今後の 研究課題を整理し,本稿での考察を終えることとしたい。
まとめにかえて―「親のライセンス化」論の意義と今後の研究課題
これまで筆者は,アメリカにおいて1980年代以降提起されている「親のライセンス化」論に関し て,その背景としての児童虐待問題を概観した上で,ラフォレットによるその先駆的論稿を整理・検
討してきた。ここで取り上げたラフォレットの論稿は,この「親のライセンス化」を巡る議論の端緒 として,その後延べ15冊もの編書・論文集に再掲される(29)など,今なお多くの人々の耳目に触れる ものとなっている。そしてこのラフォレット以降の議論としては,とりわけ1990年代に入って児童 精神医学者J.ウェストマン(Jack C. Westman, 1927–)が,その著書『親のライセンス化』(Licensing
Parents, 1994)(30)において具体的な親ライセンス制度構想を提示しており,さらに近年でも,J.ロー
ルズ(John Rawls, 1921–2002)流の正義論者の幾人かが,改めてこれを政治哲学的観点から取り上げ ている(31)。
しかしながらこのような議論の蓄積にもかかわらず,上述のラフォレットが挙げた第二の実践的批 判,つまり信頼に足る親審査方法の不在という問題に関しては,筆者が確認した限りでは十分な研究 成果は上がっていないように見受けられる(32)。また現実の制度への応用という面においても,ラフォ レットの論稿から30年を経た今日において尚,いまだこの親ライセンス制度が導入されたという実 例は存在しない,というのが現状である。その意味ではこの「親のライセンス化」論は,現実に応用 可能なものというよりも,むしろあくまで思考実験レベルでの議論として捉えるのが妥当であるのか もしれない。
とは言えこのことは,この「親のライセンス化」論が全く無意味な議論である,ということを意味 するものではない。特にこの論が,現行の児童虐待・ネグレクト対策―ひいては親の教育権限の不 当な行使や放棄への対応策―が概して事後的レベルのものに終始してしまっており,事前的レベル での規制施策がほとんど為されていないことを明確な論点として提起した点では,極めて示唆的であ ると言うことができよう。すなわち,上で触れたウェストマンが指摘するように,「子どもは虐待に よる危害を加えられた後よりも,それ以前の社会的な保護をこそ必要としている」(33)のであって,そ のために親の教育権限に(正当化される範囲内での)制限を課すことは,全くもって不合理なことで も,不当なことでもないと考えられるのである。このことを踏まえるならば,今後においてはこの「親 のライセンス化」の代替策,つまり親の権利制約をより少ない次元にとどめつつも,一方で児童虐待 を事前的レベルで抑制し得る理論・制度の探求こそが,重要な課題となるであろう。
この点に関しては,その後ウェストマンが2009年の著作『青年期‐親サイクルの打破』(Breaking the Adolescent Parent Cycle)(34)の中で,全ての親に一定の制約を課すのではなく,(福祉依存の親の代 表格としての)「青年期の親」に焦点を当てた規制理論を考案している。そこで今後はこのウェスト マンの著作の分析を中心に,児童虐待の事前規制理論についてさらなる考究を重ねていきたい。
注⑴ 拙稿「我が国における子どもの権利論の特徴と問題点:『親の教育権』論との関連から」『早稲田大学教育 学会研究大会紀要』11,2010,pp. 91–97
⑵ 特に,Meyer v. Nebraska, 262 U.S. 390(1923),及びPierce v. Society of Sisters, 268 U.S. 510(1925)の両 判決において確認された。例えば後者のピアス判決は,8才から16才の全児童は公立学校に就学しなければ ならないとしたオレゴン州義務教育法の改正(1923)に際し,2つの学校法人がこの州法に対する事前の禁 止命令を求めたものである。これを受けて連邦最高裁は,この州法が合衆国憲法修正14条の保障する「親の
教育の自由」を侵すものであるとして,これを違憲とする判決を下している。
⑶ 森田明『未成年者保護法と現代社会保護と自律のあいだ』有斐閣,1999,pp. 217–218を参照。
⑷ 徳永幸子「子どもの権利保障における関係的概念としての自己決定権の固有性」『活水論文集. 人間関係学 科編』48,2005,p. 22を参照。
⑸ 今橋盛勝「父母の教育権と教育の自由」『教育法と法社会学』三省堂,1983,pp. 125–237 ⑹ 結城忠『学校教育における親の権利』海鳴社,1994
⑺ 西原博史『子どもは好きに育てていい:「親の教育権」入門』日本放送出版協会,2008 ⑻ Hugh LaFollette, “Licensing Parents”, in Philosophy and Public Affairs, 9: 2, 1980, pp. 182–97
⑼ 当時8歳であったメアリー・エレンが,養父母のコノリー夫妻によって約6年間,身体的・心理的な虐待 を受けていたことが問題となった事件。この事件がきっかけとなって,同年の1874年に世界初の児童虐待対 策機関であるニューヨーク児童虐待防止協会が創立された。
⑽ C. Henry Kempe, Frederic N. Silverman, Brandt F. Steele, William Droegemuller, Henry K. Silver, “The Battered Child Syndrome”, in Journal of the American Medical Association, 181, 1962, pp. 17–24
⑾ 花田裕子,永江誠治,山崎真紀子,大石和代「児童虐待の歴史的背景と定義」『保健学研究』19: 2,2007,p. 2 を参照。
⑿ これは,1963年のカリフォルニア州の立法がその最初のものである。このカリフォルニア州の場合,当 初は医者だけであった通報義務者は,その後の改正で現在は教員を始めとする教育関係者や,福祉・医療・
警察関係者などへと拡大されている。そして通報があった際には,郡児童福祉部局(county child welfare
agency)が調査を行ない,児童の保護が必要と考えられる場合に少年裁判所に保護の申立てをすることとなっ
ている。これに関しては,Official California Legislative Information内の Penal Code Section 11164–11174.3 のページを参照(最終確認2011年4月15日)。http://www.leginfo.ca.gov/cgi-bin/waisgate?WAISdocID=7503 7614894+3+0+0&WAISaction=retrieve
⒀ Cf. Cowan, P. A., Powell, D., & Cowan, C. P., “Parenting Interventions: A Family Systems Perspective”, in William Damon, Irving Sigel, & Ann Renninger (Eds.), Handbook of Child Psychology, 5th ed., Vol. 4, Wiley, John
& Sons, Incorporated, 1997, pp. 3–4
⒁ ただし,親のライセンス化論者や虐待防止研究者の中には,このペアレンティングという語の使用を極力 避けようとする者もいる。例えば,後に触れるJ. ウェストマン(Jack C. Westman)は,2009年の著書の中 で,このペアレンティングとは実のところ(例えば児童福祉機関や里親,或いは学校等の)「他の者に委託す ることができる」次元のものであり,とりたてて特別な意味を付与すべきものではないとし,むしろ「ペア レントフッド」(parenthood)という概念こそ,「親になること」そのものが内包する多様な意味の広がりを,
十分に表現し得るものであるとしている(cf. Jack C. Westman, Breaking the Adolescent Parent Cycle: Valuing Fatherhood and Motherhood, University Press of America, 2009, p. 25)。
⒂ Cf. Judith Schiffer (Ed.), Preparing Tomorrow’s Parents Today, 2002, The Parenting Project , pp. 34–67 ⒃ Cf. Ibid., pp. 74–78, 81–85. 尚,これらについては,後藤悦子「青年期を対象としたペアレンティング教育の
導入:アメリカのペアレンティングプログラムの例」『日本家庭科教育学会誌』47: 3,2004,pp. 248–254に よる紹介がある。
⒄ 礒部美也子「アメリカ合衆国東部の児童虐待対応の実態」『大阪体育大学短期大学部研究紀要』1,2001,
p. 109を参照。
⒅ Cf. the Children’s Bureau, Child Maltreatment 2008, Government Printing Office, 2010, p. 38
⒆ 例えば,William Josephus Robinson, Eugenics, Marriage and Birth Control: Practical Eugenics, New York,
The Critic and Guide Company, 1917など。尚,この時期アメリカでは,1907年のインディアナ州以降,最大
32州で「断種法」が制定され,犯罪者や精神病者への不妊治療が行なわれており,例えば1913年のアイオ ワ州の断種法は,「犯罪者,強姦者,白痴,精神薄弱者,痴愚,精神異常者,大酒呑み,麻薬常用者,てんか ん,梅毒患者,道徳的性的倒錯者そして変質者の生殖を防止」する目的で制定されている。この点に関しては,
立岩真也『私的所有論』勁草書房,1997,p. 261を参照。
⒇ Cf. Hue LaFollette, “Licensing Parents”, op. cit., pp. 182–186
このような侵害原理,及び他の介入の諸説明原理については,拙稿「子どもに対する教育的介入の正当化 に関する一考察:今日的なパターナリズムを巡る議論をもとに」『早稲田大学教育学会紀要』10,2008,p. 110 などを参照。
Cf. Hue LaFollette, “Licensing Parents”, op. cit., p. 186 Cf. Ibid., p. 186–189
Cf. Ibid., p. 190–193
特にL. フリッシュ(Lawrence Frisch)は,「現在」の行為遂行能力を計測する他の一般のライセンス審査 とは異なり,「将来」親となる者の資質・能力を問題にする親ライセンスは,その審査の際に明らかな不正 確性を孕まざるを得ないとし,このラフォレットの楽観的な見通しを批判している(Lawrence Frisch, “On Licentious Licensing: A Reply to Hugh LaFollette”, in Philosophy and Public Affairs, 11: 2, 1982, pp. 173–180)。
尚,これに対するラフォレットの再批判として,Hugh LaFollette, “A Reply to Frisch”, in Philosophy and Public Affairs, 11: 2, 1982, pp. 181–183がある。
ただしラフォレットは,その後2010年の論文「親のライセンス化再考」(“Licensing Parents Revisited”)
においては,この権力濫用の危険性をより重大視するようになっており,そのためより慎重かつ限定的な親 ライセンス制度を模索する方向へと,論を転換している(cf. Hugh LaFollette, “Licensing Parents Revisited”, in Journal of Applied Philosophy, 27: 4, 2010, pp. 327–343)。
Hue LaFollette, “Licensing Parents”, op. cit., p. 193 Cf. ibid., pp. 195–196
例えばJohn Arthur (Ed.), Morality and Moral Controversies (2nd Ed.), Prentice-Hall, 1986; Michael Freeman
(Ed.), Family, State, and Law, Ashgate Publishing, 2000, Peg Tittle (Ed.), Should Parents Be Licensed?,
Prometheus Books, 2004など。尚,これら編書・著作集の改定版への再録も合わせると,計28冊に掲載され
ていることになる。
Jack C. Westman, Licensing Parents: Can We Prevent Child Abuse and Neglect?, Insight Books, 1994
Harry Adams, “Intervention in the Family: A Parental LicensingModel”, in Justice for Children: Autonomy Development and the State, State University of NewYork Press, 2008; Michael T McFall, Licensing Parents:
Family, State, and Child Maltreatment, Lexington Books, 2009
C. マンゲル(Claudia P. Mangel)のように,CAP調査票(Child Abuse Potential Inventory)を始めとする 既存の潜在的虐待リスクのアセスメントツールが,親ライセンス審査にも応用可能とする議論は存在する
(“Licensing Parents: How Feasible?”, in Familylaw quarterly, 22: 1, pp. 17–39)が,いまだ親ライセンス審査用 に独自に考案・作成されたテストは,管見の限り存在しない。
Jack C. Westman, “The Rationale and Feasibility of Licensing Parents”, in Society, 34: 1, 1996, p. 49 Jack C. Westman, Breaking the Adolescent Parent Cycle: Valuing Fatherhood and Motherhood, op. cit.