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(1)

1.はじめに

本稿は、前年に本誌に公表した拙稿「タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の

Setangamani 仏像について」

(1)

(古山 2010、以下「前稿」と略記)

の続編であり、

タイ北部の中心都市チエンマイ

(Á·¥ŠÄ®¤n)

の旧市街

(城域)

内北側にある、Wat

Chiang Mun

(ª´—Á·¥Š¤´ ɜ)

の本堂

(ª·®µ¦)(2)

において、

Phra Setangamani(3)

仏像ととも

に並祀されている、

Phra Sila

と呼ばれる石板像について、同寺が、タイ仏暦

2539 年

(A.D.1996)

の創建 700 年記念に発行した小冊子 Legend. の英訳部の翻訳

により、その故事来歴を紹介することを目的とする。

先述の前稿においては、Phra Setangamani の伝来記を紹介することに紙幅を

費やし、その故事来歴がこの仏像の持つ聖性

(宗教性)

と政治性を主張するも

のである、と漠然と評したのみで、その仔細な分析は別の機会とした

(4)

。そこで、

自らの前言を負うべく、早々にこの作業を完遂しなければならないのであるが、

そのためには、この Phra Setangamani と同一処に並祀され、雨を降らす力があ

る仏像としてチエンマイのソンクラーン

(­Š„¦µœˆr < Skt. saূkrƗnti)

祭において重

要な役割を果たす、Phra Sila の伝来記にも注意する必要があろうかと考える。

このような筆者

(古山)

の問題意識から、Phra Sila の故事来歴を紹介する。

筆者の無知なる点については、識者諸賢のご教示・ご指摘を乞いたい。なお、

タイ語の固有名詞についてはアルファベットにより音表記し、適宜「タイ文字」

による表記も加えた

(ただしチエンマイ地方固有のラーン・ナー文字は用いない)

2.Phra Sila とは、いかなる仏像か

Phra Sila の故事来歴を示す前に、これがいかなる仏像であるかということに

ついて、簡単に紹介しておきたい。

この Phra Sila

(¡¦³«· ¨µ、«· ¨µ < Pali. silƗ:石。タイ語で ¡¦³®·œ°n°œ とも言う)

は、仏立像

を石板に浅浮き彫りした彫像

(bas-relief)

である。像の高さは 36cm 程で、Wat

タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の

Phra Sila(石板像)について

(2)

Chiang Mun の境内北側にある旧本堂内部の須弥壇の奥の、ガラス張りの格

子付き厨子に、

Phra Setangamani

とともに祀られている

(向かって右側に Phra Setangamani、左側に Phra Sila が安置されている)

石板像の中央には、立った釈尊の姿

が彫られている

(5)

。正面右下には足

を屈した象がおり、釈尊は右手をさし

だしてこの象の頭を撫でている。左下

に は、 右 手 に 錫 伺

(Pali. khakkhara)

持ち、左手に紐にぶらさがった鉢を提

げている、釈尊の侍者 Ɩnanda が立っ

ている

[Cf. Lohuizen. p.327]

この石板に象られた図像は、例え

ば パ ー リ 律 蔵 Cnjۜavagga の

NƗশƗgiri-pesanaূ

(7)

に見られる、「酔象調伏」

(「醉象調伏」とも)

として知られている説話

中のものであり、釈尊が、Devadatta により放たれた酔った狂象 NƗশƗgiri を従

順にし、その頭の瘤を撫でながら法を説いている場面である。これは、イン

ド以来しばしば仏教美術の題材となったものの 1 つであり、いわゆる「八大勝

利」

(8)

の 1 つに数えられる説話である。

石板表面の釈尊の上半身の背面には、半円状に文字のようなものが刻まれて

いる。E.W. Hutchinson は、この刻銘

(lettering)

について、

〈解読不能(undecipherable) であると考えられている。像は、もとの文字をよく知らない職人によってつくられた複写 (copy)であり、それ故に、文字を読みやすいかたちに複製しそこなった、と提言する。ま た、タイ(Siam)からセイロンに訪れた者たちが、そこでこの石板のオリジナルを見て、彼 らの力の限りを尽くして、それを複写したのであろう、ということを提言する。とはいえ、 我々の現在の知識の状況では、そう言われる刻銘がたんに装飾のかたちや彫刻家のノミがと り残したしるしではなかったであろう、ということは、確かではない〉[Hutchinson. p.118]

と述べている。その後、J.E. van Lohuizen-de Leeuw が、この刻銘を解読し、そ

れが A.D.10c の文字

(中世時代の北インドの書体の特徴を有しているとも)(9)

であり、

Ye dha(r)mmƗ hetuprabhavƗ hetunteৢƗ(ূ) (tathƗ)gato hyavadatteৢƗñca yo nirodha eva(ূ) vƗdƯ mahƗĞrama৆a(10)

と書かれていることを示した

[Lohuizen. pp.326-328]

。これは「縁

起法頌」と呼ばれる仏典の詩句に相当する。言語はサンスクリット語である。

Donald K. Swearer は、Phra Sila の縁起法頌について、

〈仏の法身(dhammakƗya)と

Wat Chiang Mun 発行の Phra Sila のプラクルアン(6)

(3)

しての像に証明を与える〉[Donald. p.197]

ものと述べている。

Phra Sila には、その背面と、この石板をはめ込んでいる台座付きの木枠にも、

文字が刻まれている。これは、Kawila 王

(¡¦³Á‹oµ„µª·¨³)

が CnjশasakkarƗja 暦 1152 年

(A.D.1791 /※ CnjশasakkarƗja 暦+ 639 年=西暦)

に刻ませたものである

(11)

この石板像は、後に示すその故事来歴にあるように、2500 年前にインドか

ら将来されたものとされる。しかしながら、Carol Stratton は、Lohuizen. を踏

まえつつ

(12)

〈タイ北部における最初期の年代測定可能な像は、その地域に固有のもので はなく、輸入品である。崇敬されている Phra Sila は、形式的に(stylistically)、A.D.10c のビハー ルかパーラの系統に属するものと同定されている。どのようにして、そして、いつ、Phra Sila 石像が北部インドからタイに来たのかということについては、未だに推測の事柄である〉 [Sculp. p.104]

と述べている。目下、学問的見地が提示している見方は、Phra Sila

が 2500 年前のものであるとする話は史実ではない、というものである。とは

言うものの、チエンマイの人びとの Phra Sila 信仰においては、古今を通じて、

このような伝説が、それをして崇敬なさしめるところの基盤となっているであ

ろうと推察される

(13)

この Phra Sila には雨を降らす力がある、と信じられており、日照りの時に

雨乞の祈願がなされると言う

[Cf. Donald. p.197]

。それは、この石板像の故事来

歴に由来するものである。ゆえに、ソンクラーン祭で重要な役割を果たす。祭

りの初日、チエンマイの多くの寺院から仏像を集め、御輿に乗せて市街を巡る。

人びとはこれらの仏像にソムボーイと呼ばれるマメ科植物の花と実で香り付け

した浄水をかけるが、その中に Phra Sila および Phra Setangamani がある

(Cf. 『Chao 「ちゃ∼お」』No.192、Bridge International Foundation(Chiangmai)、2011 年 4 月 10 日)

また、前稿に示した Phra Setangamani の伝説では、Tilokarat 王治世期に、チ

エンマイの Wat Chedi Luang

(ª´—Á‹—¸¥r®¨ªŠ)

の仏塔に、エメラルド仏

¡¦³Â„oª¤¦„˜

、Emerald

Buddha )

、シヒン仏

(¡¦³¡»š›­· ®·Š‡r、 Simhala Buddha )

、Phra Setangamani、そして Phra

Sila が祀られていたとあった

(前稿 p.306)

。エメラルド仏は現在、首都バンコク

の王宮寺院 Wat Phra Kaew

(ª´—¡¦³Â„oª)

に、タイ王国の守護仏として安置されてい

るが、これ以外の 3 体はチエンマイにある。これらはチエンマイの守護仏とし

て尊崇されている。Sculp. には、

〈Phra Sila は、ラーン・ナー王国における最も重要な 諸像のうちに位置づけられており、チエンマイの護持者(guardian)たちの 1 つ、あるいは 守護像(palladia)と見なされて〉

おり、

〈この守護的な役割(protective role)を、シヒン仏(シ ンハラ仏)と Phra Kaeo Setankha Mani(水晶像)とともに分担している〉[Sculp. p.104]

とある。

(4)

3.Phra Sila の伝説を語る文献資料

次に、Phra Sila の伝説

(˜Îµœµœ)

を語る文献資料について簡単に触れておく。

Phra Sila の伝説を初めて詳細に分析した E.W. Hutchinson によれば、Phra

Setangamani と Phra Sila の貝葉に記された伝来記

(palm-leaf chronicle)

は、転写

されてきたもので、当時のチエンマイにおいてパーリ語の読める学者であった

Wat Hô T am の P ra Maha Mün

(¡¦³¤®µ®¤º œ)

師が、パーリ語で書かれていたのをラ

オ文字(

Lao characters

)で写し取ったものである、と言う

[Hutchinson. p.115](14)

そのリソースとなったパーリ語資料は、CnjশasakkarƗja 暦 1146 年

(A.D.1785)

の 11 月 白 分 第 14 日 目 に、Wat Pa Sang

(ª´—Áª¸¥ŠžnµŽµŠ)(15)

に お い て、P ra Maha

P ǀt a Langka[ra] 師

(¡¦³¤®µÃ¡›µ¨´Š„µÃ¦Á‹oµ)

が 書 い た も の で あ る と い う。 そ れ は、

CnjশasakkarƗja 暦 1284 年

(A.D.1922、p.118 には「1383 年」とあるが p.137 により「1284 年」に修正)

の北部暦 5 月白分第 13 日目午後 1 時に、P ra Wutiyãn

(¡¦³ª»•·µ– = P ra Maha Mün)

師により翻訳された

(16)

。P ra Maha Mün 師は、このパーリ語資料を、

Wat Chiang Mun で Phra Sila とともに発見し、伝来記の記述内容と石板像があ

らゆる点で一致していることを知った

[Hutchinson. p.118]

。E.W. Hutchinson は、

この P ra Maha Mün 師のテキストをもとに、タイ文字によるタイ語テキストと

英訳を付した研究論文を出した。

その後、Donald K. Swearer が 2004 年に、自著に Phra Sila の伝記の英訳を掲

載している

[Donald. pp.205-210]

。これは、Wat Chiang Mun が仏暦 2515 年

(A.D.1975)

に 発 行 し た TamnƗn Phra KƗewkhƗw (Seta۪gama۬Ư) kap PhrasilƗ (Phrahinǀn) と

いう表題のタイ語小冊子を底本に翻訳したものである

[Cf.Donald. p.289(footnote 133)]

E.W. Hutchinson の出したタイ語テキスト、および、Donald K. Swearer が使

用した仏暦 2515 年発行の小冊子の伝来記は、その内容が Legend. のそれより

も詳細で、分量も幾分か多い。タイ語テキストを見ると、冒頭部において釈尊

の入滅と舎利分配、石板像の制作の話が詳しく語られているようである。前二

者が完全なかたちのものであり、Legend. のそれは、そのこれを要約したもの

なのではなかろうかと思う。

4.Legend. の翻訳

Legend. の構成は、前稿

(pp.308-309)

に示したごとく、6 つの章から成る。以

下に Phra Sila の故事来歴に相当する Legend. の⑤と⑥の章を翻訳する。拙訳中

(5)

の * を付した角括弧[* ]は、訳者

(古山)

による簡略な

記である。詳細な

説明等を付す必要があると考えた場合は、本稿の文末脚注において、これをお

こなっている。また、訳者による補完語句は、〔 〕を用いて、そこに記した。

なお、 記すべきタイ語の原文表記が Legend. のタイ語文中に見出せなかった

ことがあったが、その場合は Hutchinson. のタイ語テキストを参照して付した。

【翻訳】

石板像の伝説

私は、太陽なる仏世尊に、蓮華を開花させて善き信仰の中にすべての従順な者たちを招き いれる、四聖諦を覚った者に、礼拝する。私は、9 つの卓越した法[* 九分教]に、すなわち、 迷妄の闇を払い除けるところの聖典に、礼拝する。私はまた、8 つの聖衆[* 四双八輩の聖者 の衆]に、すなわち、五魔に勝利した者たる仏の胸から生まれた、仏世尊の弟子たちに、礼 拝する。金色の石でつくられた、げにも素晴らしき仏像は、AjƗtasattu 王[* ¡¦³Á‹oµ°µ˜«´˜˜»、阿 闍世王]が造らせた。多くの有徳の人びとの喜悦のため、その像の由来についての伝承物語を、 私は話そう。 仏 世 尊 の 入 滅 か ら、 ち ょ う ど 7 年 7 ヶ 月 と 7 日 の 後、 名 高 き AjƗtasattu 王 は、Kassapa [*¡¦³¤®Æ„´­­ž³、摩訶 葉]長老を上首とするすべての僧たちを招き、最高の尊敬とともに、仏 世尊の身体の舎利に、一同そろって礼拝した。そして、聖者がたに常に食を給した。その時、 ラージャガハ市[* Áª¸¥Š¦µ‡§®r、王舎城]の人びとの君主たる、賢き AjƗtasattu 王は、称賛に値 する気持ちを満たし、仏像の造像を願った。王は、その時、大海の底より金色の石を持ち来 らせ、「〈仏世尊がラージャガハ市において托鉢している時に、世尊の慈しみにより、発情し た NƗশƗgiri[* œµ¯µ‡·¦¸ ]象が従順になった。象は世尊の右側でちぢこまり、Ɩnanda[* ¡¦³°µœœšr、 Ɩnanda:阿難]長老は世尊の左側で世尊の鉢を持っている〉という、これらすべての姿かた ちを石の表面に彫るべし」と、職人に仏世尊の仏像を彫るよう告げた。 像の高さは 14 インチ、幅 10 インチで、3 つの姿かたち[* 釈尊・NƗশƗgiri 象・Ɩnanda 長老] がそこに彫られた。その時、すべての聖者がたと、AjƗtasattu 王は、一同そろって、祭壇に 像をのせ、金の容器に 7 片の身体舎利[* ¡¦³¦¤­µ¦¸¦·„›µ˜»、=遺骨]を置いた。すると、彼ら全 員は五体投地の礼拝を 3 回おこない、真実の決意をなして、身体舎利が 1 つの像の中にとど まるように、と勧誘の言葉を発した。その瞬間、7 つの舎利のうち、1 つは頭の中に、1 つは 額の中に、1 つは胸に、2 つは両肩に、2 つは仏の石板像の膝の中に入った[*「決意」によ り 7 つの舎利が頭・額・胸・両肩・両膝に入るという話は、Jkm. の Ratanapa৬imƗ-kathƗ にも 見られる]。

(6)

7 つの身体の舎利が石板像の中に安置されると、像は、その霊的な力により、すべての人 びとに見える高さのところまで空中に上昇した。そして、もとのように祭壇に降りて来た。 AjƗtasattu 王は、この奇跡を見ると、大いなる喜悦が生じた。すると、王は、そこに足で登 ることのできない、ある高い断崖のところに、石板像のための安置場所をつくるよう、また、 その場所に礼拝しようとする巡礼者のため、下に祭壇をつくるよう、命じた。 後のこと、3 人の長老は、説法のために各地を遊行し、多くの場所において諸々の身体舎 利と諸々の仏像に礼拝した。3 人の長老とは、SƯlavaূsa[*¡¦³¤®µ­¸ ¨³ª´ŠÃ­]、Revata[*¡¦³Á¦ªª´ˆˆ: Revatta]、そして ÑƗ৆agambhƯra[* ¡¦³µ–‡´¤£¸¦³]である(17) 。3 人の長老は、ラージャガハに到 着するまで、諸々の身体舎利と諸々の仏像を礼拝するために諸所に詣でた。そして〔ラージャ ガハに着くと〕、高い断崖に安置された石板像を、皆で礼拝した。像が降りて来ますように、 と祈ると、彼らは重衣[* 原文:the upper robes、Donald. p.207 では saৄghƗtƯ との 記入り で their outer robes と訳されている]を地面に 1 枚ずつ重ねて置き、皆で五体投地を 3 回お こない、賛仏の詩句を唱え、「いやしくも仏なるものは、学び理解されるべき 5 つの事柄で あるところの全知を宣言され、五魔を征服され、従順な者たちへの憐れみに れ、最後の至 福の領域に生きものを導くお方である。世界を庇護する石板像よ、力みなぎるお方よ、覚ら れたお方の似像よ、私たちは、遠くの国々にいる、その支配者たる王たちを含む大群衆に諸々 の恵み深き事柄をなすよう、あなた様にお祈りいたします」と言った。 するとその時、石板像は、神通力を現じて空中に昇り、3 人の長老たちの重衣[* 原文:

the upper robes]の上に降りて来た。3 人の長老たちは、この奇跡を見てとても幸せになり、

AjƗtasattu 王に、王はそのことについて知るべきである、と知らせるべく、行った。すると、 王は、3 人の長老たちに、「尊者がたよ、石板像が、それらの国々の人びとに対してそれほど 哀れみ深いのならば、像は善く行くことになるでしょう。あなた様はみな、〔石板像〕運ぶ ことができるのであるならば、あなた様がたのご随意になさってください」と言った。 3 人の長老たちは「そういたします」と言った。AjƗtasattu 王は、3 人の長老と石板像に礼 拝し、彼らを船に送った。長老たちは、セイロンに到着するまで[* 原文 unti. は until の誤植 と思われる]、何昼夜も船で旅をした。AnurƗdha 王[* ¡¦³Á‹oµ°œ»¦µ›、Donald. p.207 では the king

of AnurƗdhapura と訳されている]は、3 人の長老が石板像を携えて自分の国に到着したこ とを知ると、彼らと石板像を王宮に招き、像に礼拝し、像に芳香のある水で潅水した。まさ にその瞬間、石板像の力で、大雨が降り注いだ。AnurƗdha 王はとても幸せになり、歓喜して、 3 人の長老たちとともにその石板像が自分の国に住まうよう、願った。 「王よ、この石板像は、海を越えて、大小の国々の王たちと人びとを助けに行こうとされ ておられます。いま、私たち 3 人は、諸々の功徳を望む人びとへの利益のために、ハリブンチャ

(7)

イ[* 原文:Haribhunchai(Á¤º°Š®¦·£»´¥、Jkm.:Haripuñjaya)、ランプーンにあったモン族の国家] へと像を運ぼうと思います」 王は、それを聞くと、石板像と 3 人の長老に礼拝し、船に送った。船は、彼らが飲み水と 真水を使い果たした大海の真っ只中にあるまで、何昼夜か進んだ。彼らには、いまや、飲 む水も使う水もなくなった。すると、3 人の長老たちは、崇敬と礼拝の支度をし[* 原文 pepared は prepared の誤植と思われる]、彼らが持参していた香水で像に潅水した。たちまち にして、石板像の力によって大雨が起こり、船上の人びとは飲む水と使う水とを十分に得た のであった。彼らはみな、歓喜し、幸せになった。 船は、港に到着するまで、何昼夜か旅をした。その時、SƯlavaূsa 長老は、像を彼の托鉢 の鉢の中に入れると、彼らがラコーン[* Á¤º°Š¨³Á…º ɰŠ、ナコンシータンマラート]という名の町 に到着するまで、像を携行したままぐんぐんと経路を進み行き、諸々の方向に曲がった。ラ コーンの王[* Hutchinson. p.141 には the prince of Chalieng とある]は、そのことについて 知ると、彼ら全員を町の中に招かせ、様ざまな方法で繰り返し像に芳香ある水で潅水し、礼 拝した。まさにその瞬間、町に激しく降雨した。

すると、賢きラコーンの王は、とても幸せになり、彼の町に像が永く立派に安置されます ようにと願った。長老たちは王に、彼らの意向に重きを置いて語り、彼らの重衣[* 原文:

their upper robes]を地面に敷き、かつてしたのと同じことをした。像はまた、かつてのよう

に神通力を現じ、王と人びとは、再び奇跡を目撃した。

ラコーンの王はそれに注目すると、彼はとても幸せになり、長老たちを送り出した。 SƯlavaূsa 長老は、鉢の中に像を置くと、サッジャナーライ[* 原文:Sajjanalai(Á¤º°Š­´œµ¨´¥)。 Jkm.:SajjanƗlƗya]すなわちジャリアン[* 原文:Jaliang。 Chaliang とも表記される。現ス コータイ県シーサッチャナライ郡]の町(18)に到着するまで、さらに旅をした。サッジャナー ライの王は、浄信[* 原文:joyous Faith、«¦´š›µž­µš³]を込めて像を礼拝し、彼らがランパーン の都[* Á¤º°Šœ‡¦(¨ÎµžµŠ)]に到着するまで、彼らを送り届けた。彼らは、像を永く崇拝し礼拝し ようとする人びとのために、その都[* =ランパーン]に像を安置した。〔時が移り、〕Mune Dongnakorn[* ®¤º ɜ—oŠœ‡¦(19) ]がその場所の統治者となると、彼はチエンマイ[* Á¤º°ŠÁ¸ ¥ŠÄ®¤n]の Tilokaraja 王[* ¡¦³Á‹oµÃ¨„˜·¨„¦µ、= Tilokarat]に使者を送り、その出来事について、すべて報告 した。すると、〔Tilokaraja〕王は、その像を手に入れるべく人を遣わし、その像は Wat Pa Dang[* ª´—žnµÂ—Š、Jkm.:RattavanamahƗvihƗra](20)

に安置されるのがよいと考えた。

その時、MahƗñƗ৆abodhi [* ¤®µ–á›· ](21)長老が、Wat Pa Dang に善く住していた。すると、王は、 Mune Kambaviengdin[* ®¤ºÉœ‡Îµ£µÁª¸¥Š—·œ](22)

に、行って、長老に像を贈るよう命じた。長老は、 長老がたの流儀でその像を受け取った。王たちと人びとは、すでに述べたようにした。すると、

(8)

再び激しく降雨した。その時、Mune Nangsuevimalakiti[* ®¤º ɜ®œ´Š­º š°ª·¤¨³„·˜·、Mune Nangsu は位 階で Vimalakiti が名前]という名の、高位にある、国王の私的顧問官が、宗教行政官[* 原文:

the of¿ cer of the religious affairs(­´Š‰„µ¦¸œ´Êœ)]であった。彼は、Wat Munesara[* ª´—¤ºÉœ­µ¦](23) に 堂宇を建立した。そして、Wat Pa Dang から石板像を貰い受けに行き、未来におけるさらな る栄光のために、Wat Munesara に像を安置した。Wat Munesara にいた、BuddhañƗ৆a[* ¡»š›µ–³] (24)

という名の、僧長[* 原文:the patriarch(¤®µ­µ¤¸Á‹oµ˜œÁžÈ œ­´Š‰ž¦·œµ¥„)]であった大長老は、Wat Suandokmai[*ª´—­ªœ—°„Ťo](25) に滞在すべく〔Wat Munesara を〕去った際に、礼拝すべく像を持っ ていったままであったが、その後、かつてのように Wat Munesara に像を戻した。 ナバプリ[* 原文:Nabhapuri(œ¡»¦¸ )=チエンマイ]の Tilokaraja 王陛下は、勇敢であり、 冷静沈着であり、栄光に満ち、賢く、すべての敵を征服した。彼は、仏教への強い信仰とと もにある、正義の王であった。王は、彼の王宮に安置するべく、石板像を招来したいと望ん だ。そのため、自分の王宮から Wat Munesara までの街路に沿って、バナナの木とサトウキビ を植え、街灯柱を立てて幡と幟でそれらを飾りつけるよう命じた。そして、一般大衆を含め た、高位の者から下級の者までの、兵士と官人で組まれた祭列とともに来るようにして、石 板像を招来した。こうして、像は、仏暦 2018 年[* A.D.1475](26)に、王宮の Haw Phra Keo[* ®°¡¦³Â„oª]に安置された。石板像が王宮に安置されると、まさにその日の夕方、石板像は、王 の率いる群集の目に、奇跡を現じた。王と人びとは、石板像が飾りつけられた街路の上空を あちらこちらへと漂うのを目にしたのであった。 すると、その瞬間、人びとの大多数は、とても愉悦した。彼らは、手と手をつなぎ、賛 仏として、大声で賛美し、大声で賛嘆した。王はというと、彼はさらに悦び、うれしくな り、そのため、大いなる礼拝を石板像になしたのであった。彼の治世期のあいだ、彼は像 に対してとても注意深く[* 原文 hecdful は heedful の誤植と思われる]あり、四資具でもっ て僧たちと見習い僧たちとを支援し、僧たちはとても善く養われ軽視されることはなかっ た。爾来、適当な祭礼のある時は、宗教的な供養儀礼が執りおこなわれた。白石英像[*Phra Setangamani 像のこと]と石板像に礼拝し、芳香ある水を潅水する祭儀は、毎年おこなわれた。 どの年でも、国土が乾き、雨季に雨が降らないならば、王は、雨乞い儀礼と、石板像への芳 香ある水の潅水とを執りおこなうよう命じたのであった。 彼の治世期の後、彼の王統の継承者たちは、この王家の慣習に、断絶させることなくした がった。ゆえに、賢者は、石板像に対していやしくも注意深くあるべきであり、真の浄信[* 原文:joyous Faith(«¦´š›µž­µš³)]をもって礼拝すべきである。それらは、最終的な至福たる涅 槃に入るまで、世間・出世間の功徳となるはずである。

(9)

石板像への礼仏偈[

*

‡ÎµÅ®ªo¡¦³«·¨µÁ‹oµªnµ] 善き姿にて、神通の威光あり、大いなる力ある、 石板像を礼拝するものは、実に涅槃に至るであろう。 それゆえ、私は、かの仏像を常に拝する。 私の一切の病は消えますように、一切の怖畏は私に生じませんように。 仏の石板〔像〕の威力により、一切の利得が私に生じますように。(27)

5.むすび

Legend. における Phra Sila の故事来歴の分析と考察は、Phra Setangamani の

それと同じく、別の機会にこれをおこないたいと考えるが、最後に、両仏像の

伝説の特徴を 2 つほど挙げ、この小稿のむすびにかえたい。

まず、これら 2 つの仏像は、エメラルド仏、シヒン仏とともに、チエンマイ

の守護仏とされるが、エメラルド仏とシヒン仏の伝来が Jkm. に語られている

(28)

のに対して、Phra Sila と Phra Setangamani のことは片鱗も言及されていない。

それは CƗmadevƯvaۨsa にも見られない。それがいかなる理由によるのかを

解くことは、Wat Chiang Mun にある 2 体の仏像の「真の伝来」を解明するこ

とに資するかもしれない。

Phra Setangamani には、Sudeva

(VƗsudeva)

仙人、ラワ族、ハリブンジャイ王国

との結びつきが語られていた。これに対し、Phra Sila の伝説は、インド・スリ

ランカ、そして、スリランカからタイ北部に仏教が伝来した経路との結びつき

に関心が寄せられているようであり、また、Wat Suan Dok 派(

Lankavamsa

)と

Wat Pa Daeng 派(

new Lankavamsa

)の対立を暗示するような記述も見られる。

(2011 年 6 月 5 日脱稿) 参考文献とその略号

Cama. : The Legend of Queen CƗma, Bodhiraۨsi’s CƗmadevƯvaۨsa, A Translation and Commentary. Trans. Donald K. Swearer & Sommai Premchit. New York : State University of NewYork Press,1998.

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(œÎµœ ª´—Á‹—¸¥r®¨ªŠª¦ª·®µ¦). Trans. Sommai Premchit. Chiang Mai : Bunsiri Printing Nonghoi, 2006(4th

published).

Chronicle. : The Chiang Mai Chronicle, Second Edition. Trans. David Wyatt & Aroonrut Wichienkeeo. Chiang Mai : Silkworm Books, 1998.

(10)

Daniel. : Daniel M. Veidlinger. Spreading the Dhamma, Writing, Orality, and Textual Transmission

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(11)

Trans. Thaw Kaung & Ni Ni Myint.Yangon : Universities Historical Research Centre, 2003. タイ日 : 冨田竹二郎編『タイ日大辞典』、日本タイクラブ・めこん、1997 年

古山 2010 : 古山健一「タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の Setangamani 仏像について」(『駒 澤大学仏教学部論集』第 41 号、2010 年 10 月所収) 註 (1) 前稿においては、筆者(古山)の誤解および校正ミスが計 2 箇所あったので、ここにお いて訂正しておきたい。 [1] p.305上から 9 行目「南西の都[* =ランプーン]」→「都の南西[* =チエンマイ郊外]」 に訂正。 [2] p.300 下から 4 行目「 Jayabhnjmi に当たる。」→「 Jayabhnjmi に当たるか。」に訂正。 ※なお、Wiang Kum Kam は Jkm. に KumƗmanagara という名で現れる。 (2) 「本堂」と訳した ª·®µ¦ (< Pali. vihƗra)について、Carol Stratton は、説法堂(preaching

hall)、勤行や読経のような諸々の僧院儀式(monastic ceremonies)の用地、しばしば説

法がおこなわれる聖なる日にコミュニティーと僧侶らが協同することのできる集合場 所(gathering place)、といった機能があると述べている(Carol Stratton. What’s What in

a Wat, Thai Buddhist Temple : Their Purpose and Design. Chiang Mai : Silkworm Books, 2010.

p.21 )。英語では Assembly Hall などと訳されている。

(3) ¡¦³Á­ˆ´Š‡¤–¸(< PƗli. Setaৄgama৆Ư[ Seta-aৄga-ma৆Ư]):「白き肢体の摩尼〔仏〕」の意。タイ語 で Phra Keo Khao (¡¦³Â„oª…µª)すなわち「白き透明石の仏」とも呼ばれる。

(4) 前稿の「むすびにかえて」においては、Phra Setangamani 仏像の伝説について、Legend. が述べるものとは異なる話が E.W.Hutchinson の論文に示されていることを、Donald. の 紹介を通して指摘したが、氏が「大雑把なあらまし」(a rough abstract)として示す、そ の話の全体は次のごとくである(※印のついた注記は古山による)。:〈仏世尊は、Wat Khetawanaram(Wat Pa Tan)で、聖職者として 25 年を過ごすと、ある日、Raming(Ping 川) の川岸に沿って、Ussu 山すなわち Doi Suthep の南に向かい、彼が遊行の後で休息するた めに 5 本の樹木の木立の下で坐った場所である、ガムの樹のあるところまで、托鉢に出 た。/ Khun Sên Tông は、5 人の乙女を連れてきて、彼自身とともに彼女らを奴隷とし て差し出したが、我々の世尊はその提供を拒絶し、彼に、彼の 7 歳の姪を尼僧(a nun) として入道させるべきである、と説法した。/我々の世尊は、入滅後 837 年にチーマイ (Chimai、※チエンマイのこと)と呼ばれる都がそこに建都される、と予言した。すると、

(12)

(prophesy)とを、石に彫り、Doi Sut ep(※= Doi Suthep)の西側の、Kha 川の水源に埋 めた。/後に、帝釈天が、二番目の天界から水晶を持ってきて、ラワ族の国の王である、 P ya RƗm(※= Ramarat)に与え、5 月の白分 8 日に仏像を彫るよう命じた。/その後、 Nang Cham T evi(※= Chamadevi)は、ラウォの国から水晶像を持ってきて、ランプー ンに安置した。/ P ya Mangrai(※= Mungrai 王)がチエンマイを征服すると、彼は水 晶仏をチエンマイに安置すべく招来し、像は、P ya Suriyawong(※= Suriyavongsa)がア ユタヤにひそかに持ち出すまで、そこにあった。/後に、P ra Muang Yot(※= Phra Yod Chiangrai)は、像を取り戻し、それを再び聖なる場所に置いた。像は、P ra Müong Sam P ya が、CnjশasakkarƗja 暦 741 年(※ A.D.1380)から代々受け継がれ、5 月の白分 8 日から 満月までの期間に毎年おこなわれているところの、儀式(the ceremonial)を確立するまで、 そこに保存された。祭礼(festival)のあいだ、像は、Wieng Chet Lin(※ Wiang Jet Lin とも。 「7 つの小川の町」の意。チエンマイ旧市街西北の Rajamangala 工科大学やチエンマイ

動物園、チエンマイ大学がある一帯。これはハリプンチャイ王国時代以前の A.D.11c に 建てられた都市(Wiang)の跡とも言われている(Cf. Moobun. pp.24ff)。なお、この都 市は、Mae Ku 王(¡¦³Á‹´µÁ¤„»’­»š›·ªŠ«、治世期:A.D.1551-1564。ミャンマーの精霊 Yun Bayin Nat の起源ともされる)が即位式の際に身を清める場所として用いた、旧市街内南側に ある Wat Jed Lin(A.D.15c 末期から A.D.16c 初頭の創建か?)とは関係ないようである。(Cf. His-WJed. pp.37))からの水で沐浴される。/この像は、シヒン仏像、Phra Sila とともに、 チエンマイの繁栄に関係づけられている。これら 3 つの仏像を保有する都は、栄えるで あろう〉[Hutchinson. p.116-117]。なお、この Setangamani 仏像の伝説について、同氏は、 〈この像にまつわる伝来記(chronicle)は、歴史的な正確さを多少装った、とりとめのな い説話である。その主な関心事は、像と、農民が収穫に依存するところの雨が降り始め る頃の、5 月のウィサーカー祭との結びつきにある〉[Hutchinson. p116]と評し、また、 Jkm. pp.109-111 にある SikhƯbuddhapa৬imƗ-kathƗ との〈あるはっきりしない諸々の偶然の 一致〉があると述べている[Hutchinson.p.122]。

(5) Phra Sila に彫られている仏立像は、スコータイの「遊行仏」(¡¦³¡»š›¦¼žžµŠ¨¸¨µ、 Walking

Buddha )のような、腰を右側にくねらせた姿形をとっている。このような姿形の仏像は

タイ北部にはあまり見られない。Robert L. Brown は、Phra Sila はスコータイの遊行仏の 発達を促進させる諸像の 1 つではなかったかと推測している(Robert L. Brown. God on

Earth : The Walking Buddha in the Art of South and Southeast Asia. Artibus Asiae 50 No.1/2

(1990) : p.103;Cf. Sculp. p.104]。なお、この Phra Sila の立像の模倣と思しき仏像が、チエ ンマイのいくつかの寺院において見られる[Hutchinson.pp.118-119](Michael Sullivan. The

(13)

P’ra Sila of Chiangmai and Its Replicas. Ba Shin; Jean Boiseelier, A. B. Grisworld, eds. Essays

Offered to G. H. Luce by His Colleagues and Friends in Honour of His Seventy-Fifth Birthday. Artibus Asiae Supplementum Series Vol. 23 No. 2(1966): pp.175-178 に新しい報告がある)。 (6) いずれも筆者所蔵。左側は Wat Chiang Mun の創建 700 年を記念してタイ仏暦 2539 年に

発行された鋳造のプラクルアン。右側は発行年不詳の「リアン」(Á®¦¸¥)と呼ばれるメ ダル状の金属製プラクルアン(反対の面には Phra Setangamani が描かれている)。 (7) Vinayapiܒaka Cnjۜavagga ビルマ第六結集版 pp.356ff(Cf.『南伝大蔵経』第 4 巻 pp.298ff)。 な お、 前 稿 で は、 こ の 説 話 の 出 典 の 例 と し て、JƗtaka-aܒܒhakathƗ(『 本 生 』) の CnjশahaূsajƗtaka-va৆৆anƗ(ビルマ第六結集版 vol.5,pp.354-377、Cf. 中村元監修・補注『ジャー タカ全集』、春秋社、2008 年(新装版第 1 刷)pp.175-192(片山一良訳「小ガチョウ前生 物語」))を示したが、PƗli(聖典)のレヴェルでの出典を示すならば、Vinaya の NƗশƗgiri-pesanaূ である。

(8) 「八大勝利」とは、① MƗra、② Ɩlavaka 夜伹、③ NƗশƗgiri 象、④ AৄgulimƗla、⑤ CiñcƗ、 ⑥ Saccaka、⑦ Nanda-Upananda 龍王兄弟、⑧ Baka 梵天に対する調伏の事跡を指す。 (9) この縁起法頌について Daniel. は〈北インド・パーラ朝期の書体によるサンスクリット

語で書かれている〉[Daniel. p.196]と説明している。なお、同書では、タイ発見の縁起 法頌をともなう多数の銘文のうちには、北部からもたらされたものや、ラーン・ナーの タム文字(Dhamma script = Tham scrip、Tham < Pali. dhamma)で書かれたものは、殆 ど存在せず、Phra Sila の刻銘 1 つのみがその例として知られている、と述べられている。 (10) teৢƗ(ূ) の後の tathƗ- が脱落している理由については、中世時代の北インドの書体

においては ৢa と tha の文字が酷似していたため、像を彫った人物が teৢƗ(ূ) と彫っ た時点で tathƗ- を彫り終えたと思い込み(原文は he had believed... とある)、結果と して脱落が起きたのである、と述べている[Lohuizen. p.328]。

(11) 刻銘はCurpus of LƗn NƗ Inscriptions vol.2 King Kawila Inscription(ž¦³»¤‹µ¦¹„¨oµœœµ Á¨n¤ Ӌµ¦¹„¡¦³Á‹oµ„µª·¨³). Chiang Mai : Archive of Lan Na Inscriptions, Social Research Institute Chiang University, 1998. pp. 15ff に収載されている。そこには、Kawila 王が王妃と弟 2 人とともに石版像の 台座付きの木枠を寄進したこと、その功徳により善き来世と涅槃が得られるよう願い、 またその功徳を祖父母および両親、使役したり殺したりした動物に 向し、さらには五 魔を滅ぼし八明(vijjƗ)を得て十五行(cara৆a)にしたがって暮らすことを望むことが 記されている。 なお、Kawila 王は、A.D.1782 にラーマ 1 世よりチエンマイの統治者に任命されたが、 この時チエンマイは戦乱で荒廃しており、周囲にはビルマ王朝の勢力が残存していたた

(14)

め、都に入らず、ランプーン南郊の Wiang Pa Sang に本拠を置いた。Kawila 王がチエン マイに入ったのは A.D.1797 のことである[Cf. History. pp.131-132;Hans.pp.69-73]。ゆえに、 この刻銘がなされたのは、王がチエンマイに入る以前ということになる。

(12) J.E. van Lohuizen-de Leeuw は、E.W. Hutchinson の「Phra Sila がスリランカで造られた」 とする提言を否定し、インドのビハールで造られたと述べている[Lohuizen. p.328]。また、 年代に関して、〈それの形式的な諸々の細かな点(stylistic details)が、大雑把に言って 大凡 A.D.10c の初めに造られた、ということを示しているようである。そして、刻銘の 古文字書体(the paleography of the script)と、彫像の形式(the style of the sculpture)の 双方が、同じ年代を指している〉[Lohuizen. p.329]と論じている。

(13) ただし、前稿 p.301 脚注(10)に示したように、Wat Chiang Mun 境内の案内板(①)には、 Phra Sila は the craftsmen of Pala School(タイ語原文は nµŠžµ¨³ )によって彫られたとあっ た。このように、現在は伝説だけでなく学問的な見地からの紹介もなされている。 (14) ここに言う Wat Hô T am、P ra Maha Mün、Wat Ram P œng については目下詳細不明。 (15) Wat Pasang は、 ラ ン プ ー ン の 南 南 西 約 10 マ イ ル の と こ ろ に あ る、PƗk Bong 地 区

(˜Îµ¨žµ„n°Š)の重要な村 Pasang(žnµŽµŠ)の寺院である。ここは、前注(11)に述べたように、 Kawila 王がチエンマイに入城する以前に本拠を置いた場所である。

(16) Phra Setangamani の伝来記は、P ra Maha Mün 師がチエンマイの歴史に関心を寄せる人び とのために、1920 年 8 月 7 日に Wat Ram P œng においてラオ(Lao)の写本から写した ものであると言う[Hutchinson. p.116]。

(17) この 3人の長老は AjƗtasattu 王時代の比丘のようであるが、人物の詳細はよく分からない。 (18) Hutchinson.p.135 には ­ª¦¦‡Ã¨„ (スワンカローク、Skt. Svargaloka)との括弧書きの注記

が入っている。なお、サッジャナーライ(Sajjanalai)に同定されるべき場所に関する議 論は、Jkm-Ind. pp.161ff. を参照されたい。

(19) Mune Dongnakorn(®¤º ɜ—oŠœ‡¦)の事跡は Chronicle. pp.89-94 にある(Mün Dong または Mün Dong Nakhòn と表記されている)。その中の A.D.1461/62 の記事に同年 Mune Dongnakorn は ラ ン パ ー ン と チ ャ リ エ ン(Chaliang = Jaliang) の 統 治 者 と な っ た と あ る。 ま た、 Chronicle. p.102 に は、A.D.1474/75 に Chiang Chün( = Jaliang) の 統 治 者 で あ る Mün Dong が亡くなったとある。

(20) Wat Pa Dang(ª´—žnµÂ—Š、Wat Pa Daeng とも表記) ないし RattavanamahƗvihƗra と呼ばれ る寺院は Jkm. や Chronicle. に複数見られる[Cf. Jkm-Ind. pp.224-240]。ここに言うそれは、 その文脈から推してチエンマイの Wat Pa Dang を指していると見るのがよいと考える。 それは A.D.15c 前半の Tilokarat 王治世期にチエンマイにやって来たスリランカ修学僧

(15)

(Jkm. によれば MahƗdhammagambhƯra ら諸長老。MsP. によれば MahƗñƗ৆agambhƯra 長老) により興起せしめられた、いわゆる new Lankavamsa や Sihala School 、 Sihon School と呼ばれる派(ga৆a)の、チエンマイにおける拠点の 1 つとなった寺院である。この new

Lankavamsa という呼称は、A.D.14c の Kuena 王治世期に、モン族の支配するラーマン

ニャ地方(ミャンマー南部)で Udumbara MahƗsƗmi 師に就いて修学した Sumana 長老の チエンマイ来訪により興きたスリランカ系仏教の派を Lankavamsa(あるいは Ramanya

School や Mon School )と呼ぶのに対する。 new Lankavamsa の成立については Jkm.

pp.92ff. および Ms. pp.86ff.、Zinme. pp.44ff. に記述があるが、内容には相違が見られる。 また、ミャンマーの史書にも見られる(SƗsanavaۨsa(PTS 版)p.50(生野善應『ビルマ 上座部仏教史』、山喜房佛書林、1980 年 p.107)、池田正隆『ミャンマー上座仏教史伝 『ター タナー・リンガーヤ・サーダン』を読む』、法蔵館、2007 年 p.123)。

Jkm. によれば、Wat Pa Dang は、A.D.1431 に Tilokarat によって創建された。A.D.1447 には Tilokarat 王がここで一時出家している。この寺院は、旧市街(城域)の西郊、ス テ ー プ 山 の 麓 に あ る Wat Pa Daeng Luang(ª´—žµÂ—Š®¨ªŠ) に 当 た る  た だ し、 往 時 の 寺 院は、現在の位置より少し離れた東側にあったようである(Cf. Hans Penth. Note :

A Brick from Old Wat Pa Däng (Chiang Mai). The Journal of the Siam Society 63.1. 1975 :

p.176 (footnote 1))。

(21) Jkm. を見ると、① A.D.1432 の MahƗdhammagambhƯra らによる授具足戒の記事(pp.93-94) に ÑƗ৆abodhi-mahƗthƗra、② A.D.1493/94 の PallaৄkadƯpa の部分結界浄化の記事(pp.103-104)に ÑƗ৆abodhi-mahƗsƗmi、③ A.D.1518 の記事(pp.118-119)中に MahƗcetiyƗrƗma(Wat Chedi Luang)の施捨を受けた ÑƗ৆abodhi-thera、というように、ÑƗ৆abodhi という比丘の 名が 3 箇所に現れるが、それらが Phra Sila の伝説中の MahƗñƗ৆abodhi かは不明。 (22) Mune Kambaviengdin(®¤º ɜ‡Îµ£µÁª¸¥Š—·œ または ®¤º ɜ‡ÎµžµÁª¸¥Š—·¤)という人物の詳細は目下のところ

不明。Donald. p.209 には a government minister との 記が入れられている。

(23) Wat Munesara(ª´—¤º ɜ­µ¦)は、旧市街(城域)の南側、Kha 川沿いに設けられていた昔の 防御塁の内側に位置する。寺院の創建に関する事柄の詳細は不明であるが、MsP. pp.94-100 の記事にその名が見える。 Somdet RƗjaguru の地位にあった MahƗdhammakitti 長 老の弟子で、スリランカでの修学を終えた [MahƗ-]ÑƗ৆agambhƯra が、各地を経てチエ ンマイに到着すると、 new Lankavamsa の流儀にしたがった授具足戒式がおこなわれ、 多くの出家希望者が出た。ÑƗ৆agambhƯra はまず、王妃から都の〔南〕西に Wat PƗ TƗn (ª´—žnµˆµ¨、Jkm.:TƗlavanamahƗvihƗra。旧市街南西外側の Watthanathai Payap School の辺 りにあった寺院で、現存せず。Cf. Jkm-Ind. pp.241-242)の建立寄進を受けた、次いで

(16)

Tilokarat 王より Wat Pa Dang(前注(20)参照)の寄進を受けた。その後、ÑƗ৆agambhƯra は、Wat Monthian(ª´—¤–Á”p¥Š、Wat Mornthean とも表記。Tilokarat 王創建の寺院で、旧市 街内北西の Si Phum Rd. 沿いにある)に住した。そして、ともにスリランカに修学した Medhaৄkara を Wat PƗ TƗn に住まわせ、同じく Candaraূsi を Wat Pa Dang の長に任じ、 同じく RattanƗga には、Wat Phan Law、Wat Ku৬i Kham、Wat CedƯ Kham、Wat Mun SƗra の権限を与えつつ Wat NandƗrƗma(Wat Munesara から徒歩 5 分ほどの南東側にある。こ こはかつて MahƗdhammakitti が住していた寺院でもある)に住まわせた。ここに言う Wat Mun SƗra が Wat Munesara に当たる。この寺院が RattanƗga の権限下に置かれたという ことは new Lankavamsa 系の寺院になったことを意味するであろう。

(24) BuddhañƗ৆a(¡»š›µ–³)は、MsP. p.85 にある「Wat Suang Dok の住職リスト」によれば、

Lankavamsa の祖 Sumana[-raূsi] から数えて第 4 代の住職とされる。CnjশasakkarƗja 暦

787 年(A.D.1425)に住職位を継ぎ(同寺は Lankavamsa の中心拠点であるため、その 住職位は同派の僧長の地位と同義である)、19 年間そこに住していた、とある(ただし、 G.L.Luce & Ba Shin A Chiang Mai MahƗthera Visits Pagan (1393 A.D.). Artibus Asiae 24 No.3/4(1961) : p.336 には、BuddhañƗ৆a の在位期間は A.D.1418-1428 とある)。

(25) Wat Suandokmai(ª´—­ªœ—°„Ťo、Wat Suan Dok と も 言 う。Jkm.:PupphƗrƗma) は、 旧 市 街 (城域)外西側に位置する。Jkm. p.91 によれば、CnjশasakkarƗja 暦 733 年(A.D.1371)に KilanƗ 王(= Kuena 王)が自分の庭園(uyyƗna)を mahƗvihƗra にし、Haripuñjaya から Sumana 長老を連れて来て住まわせた、とある(MsP. p.82 にも同様の記述あり)。その 後、A.D.1373 に[Cf.History. p.75]、この寺院の界隈は Wieng Suan Dok という名の町と なった。同寺はかつて、チエンマイにおける Lankavamsa の拠点となった寺院である。 なお、この Lankavamsa とは、Mungrai 王によるチエンマイ建都(精確には Wieng Lek の拡充再開発とでも言うべきであろう)以前から存在していた「既成仏教」、すなわち、 ハリブンジャイ(Haripuñjaya)王国建国にともなって CƗmadevƯ 女王が故郷ラワ(Lava-pura、現在の Lop Buri)からもたらした、モン族仏教の系統に対する呼称である(Jkm. p.73 には、CƗmadevƯ は Lava-pura から 500 人の三蔵憶持の大長老を連れて Haripuñjaya 都に 入った、とある。Cama. も同様。このモン族仏教については、Daniel. pp.31-41 を参照さ れたい)。ところで、Wat Munesara は前 (23)に述べたように、RattanƗga のもと new

Lankavamsa 系寺院になっていたと思われるが、同時期にここに住していた BuddhañƗƯa

が Lankavamsa の本拠 Wat Suandokmai(後述)に入り住職となったことを考えると、 住僧が必ずしも戒脈上 new Lankavamsa に属していなかったのかもしれない。

(17)

¡¦³Â„oª/Phra Keo =エメラルド仏の堂宇?)に移されることになった理由は分からないが、 この移動により Phra Sila が国王ないし王朝の守護仏化されたと言えよう。なお、Jkm. p.98 に は、SakarƗja 暦 840-843 年(A.D.1478-1481、Chronicle. p.102 は、CnjশasakkarƗja 暦 837-841 年(A.D.1475/76-1479)とする。Chedi Luang. pp.19-20 には A.D.1479-1481 とある) の期間に、RƗja-knj৬a(Wat Chedi Luang の仏塔)の大規模な拡張工事がおこなわれた。工 事の終わった SakarƗja 暦 843 年に KheশƗৄganagara(ランパーン)から無量の威光と神通 を持つ Ratanapa৬imƗ(宝石の仏像=エメラルド仏)を運び、RƗja-knj৬a に安置した、とあ る(Zinme. p.49 は、その年を SakarƗja 暦 840 年としている。また、Diskul Subhadradis.

The History of the Temple of the Emerald Buddha. Bangkok: Bureau of the Royal Household,

1982. p.18 には A.D.1468 にエメラルド仏がランパーンからチエンマイに運ばれたとある)。 Phra Sila の Haw Phra Keo への移動年というのは、エメラルド仏がチエンマイにもたら された時期に近い。この点を考えると、この移動は、エメラルド仏との並祀に、史実と して関わっている、あるいは故事来歴譚構成の必要として関わらせている、のではない かとも思えてくる。

(27) 原文:silƗbimbaূ surnjpañca iddhitejaূ mahabbalaূ, yo ve buddhaূ namassanto nibbƗnaূ so gamissati. tenetaূ buddhabimbañca ahaূ vandƗmi sabbadƗ, nassantu me sabbarogƗ sabbabhayƗ mƗ me hontu, buddhasilƗnubhƗvena sabbalƗbhƗ bhavantu me.

(28) エメラルド仏の伝来は Jkm. に Ratanapa৬imƗ-kathƗ(pp.98-103)として、シヒン仏のそ れは SƯhaۜapaܒimƗ-kathƗ(pp.86-91)として語られている。他に、CƗmadevƯvaۨsa の編纂 者 と し て 知 ら れ る Bodhiraূsi の シ ヒ ン 仏 伝 来 記 Sihi۪ga-(buddharnjpa)-nidƗna (A.D.15c 初頭)、BrahmarƗjapañña のエメラルド仏伝来記 Ratanabimbavaۨsa (年代不詳)がある (Wyatt1976. pp.14-15)。

参照

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(自分で感じられ得る[もの])という用例は注目に値する(脚注 24 ).接頭辞の sam は「正しい」と

討することに意義があると思われる︒ 具体的措置を考えておく必要があると思う︒

そうした開拓財源の中枢をになう地租の扱いをどうするかが重要になって

40m 土地の形質の変更をしようとす る場所の位置を明確にするた め、必要に応じて距離を記入し

これも、行政にしかできないようなことではあるかと思うのですが、公共インフラに