1.はじめに
本稿は、前年に本誌に公表した拙稿「タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の
Setangamani 仏像について」
(1)(古山 2010、以下「前稿」と略記)
の続編であり、
タイ北部の中心都市チエンマイ
(Á·¥Ä®¤n)の旧市街
(城域)内北側にある、Wat
Chiang Mun
(ª´Á·¥¤´ É)の本堂
(ª·®µ¦)(2)において、
Phra Setangamani(3)仏像ととも
に並祀されている、
Phra Silaと呼ばれる石板像について、同寺が、タイ仏暦
2539 年
(A.D.1996)の創建 700 年記念に発行した小冊子 Legend. の英訳部の翻訳
により、その故事来歴を紹介することを目的とする。
先述の前稿においては、Phra Setangamani の伝来記を紹介することに紙幅を
費やし、その故事来歴がこの仏像の持つ聖性
(宗教性)と政治性を主張するも
のである、と漠然と評したのみで、その仔細な分析は別の機会とした
(4)。そこで、
自らの前言を負うべく、早々にこの作業を完遂しなければならないのであるが、
そのためには、この Phra Setangamani と同一処に並祀され、雨を降らす力があ
る仏像としてチエンマイのソンクラーン
(¦µr < Skt. saূkrƗnti)祭において重
要な役割を果たす、Phra Sila の伝来記にも注意する必要があろうかと考える。
このような筆者
(古山)の問題意識から、Phra Sila の故事来歴を紹介する。
筆者の無知なる点については、識者諸賢のご教示・ご指摘を乞いたい。なお、
タイ語の固有名詞についてはアルファベットにより音表記し、適宜「タイ文字」
による表記も加えた
(ただしチエンマイ地方固有のラーン・ナー文字は用いない)。
2.Phra Sila とは、いかなる仏像か
Phra Sila の故事来歴を示す前に、これがいかなる仏像であるかということに
ついて、簡単に紹介しておきたい。
この Phra Sila
(¡¦³«· ¨µ、«· ¨µ < Pali. silƗ:石。タイ語で ¡¦³®·°n° とも言う)は、仏立像
を石板に浅浮き彫りした彫像
(bas-relief)である。像の高さは 36cm 程で、Wat
タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の
Phra Sila(石板像)について
Chiang Mun の境内北側にある旧本堂内部の須弥壇の奥の、ガラス張りの格
子付き厨子に、
Phra Setangamaniとともに祀られている
(向かって右側に Phra Setangamani、左側に Phra Sila が安置されている)。
石板像の中央には、立った釈尊の姿
が彫られている
(5)。正面右下には足
を屈した象がおり、釈尊は右手をさし
だしてこの象の頭を撫でている。左下
に は、 右 手 に 錫 伺
(Pali. khakkhara)を
持ち、左手に紐にぶらさがった鉢を提
げている、釈尊の侍者 Ɩnanda が立っ
ている
[Cf. Lohuizen. p.327]。
この石板に象られた図像は、例え
ば パ ー リ 律 蔵 Cnjۜavagga の
NƗশƗgiri-pesanaূ
(7)に見られる、「酔象調伏」
(「醉象調伏」とも)として知られている説話
中のものであり、釈尊が、Devadatta により放たれた酔った狂象 NƗশƗgiri を従
順にし、その頭の瘤を撫でながら法を説いている場面である。これは、イン
ド以来しばしば仏教美術の題材となったものの 1 つであり、いわゆる「八大勝
利」
(8)の 1 つに数えられる説話である。
石板表面の釈尊の上半身の背面には、半円状に文字のようなものが刻まれて
いる。E.W. Hutchinson は、この刻銘
(lettering)について、
〈解読不能(undecipherable) であると考えられている。像は、もとの文字をよく知らない職人によってつくられた複写 (copy)であり、それ故に、文字を読みやすいかたちに複製しそこなった、と提言する。ま た、タイ(Siam)からセイロンに訪れた者たちが、そこでこの石板のオリジナルを見て、彼 らの力の限りを尽くして、それを複写したのであろう、ということを提言する。とはいえ、 我々の現在の知識の状況では、そう言われる刻銘がたんに装飾のかたちや彫刻家のノミがと り残したしるしではなかったであろう、ということは、確かではない〉[Hutchinson. p.118]と述べている。その後、J.E. van Lohuizen-de Leeuw が、この刻銘を解読し、そ
れが A.D.10c の文字
(中世時代の北インドの書体の特徴を有しているとも)(9)であり、
Ye dha(r)mmƗ hetuprabhavƗ hetunteৢƗ(ূ) (tathƗ)gato hyavadatteৢƗñca yo nirodha eva(ূ) vƗdƯ mahƗĞramaa(10)
と書かれていることを示した
[Lohuizen. pp.326-328]。これは「縁
起法頌」と呼ばれる仏典の詩句に相当する。言語はサンスクリット語である。
Donald K. Swearer は、Phra Sila の縁起法頌について、
〈仏の法身(dhammakƗya)とWat Chiang Mun 発行の Phra Sila のプラクルアン(6)
しての像に証明を与える〉[Donald. p.197]
ものと述べている。
Phra Sila には、その背面と、この石板をはめ込んでいる台座付きの木枠にも、
文字が刻まれている。これは、Kawila 王
(¡¦³Áoµµª·¨³)が CnjশasakkarƗja 暦 1152 年
(A.D.1791 /※ CnjশasakkarƗja 暦+ 639 年=西暦)に刻ませたものである
(11)。
この石板像は、後に示すその故事来歴にあるように、2500 年前にインドか
ら将来されたものとされる。しかしながら、Carol Stratton は、Lohuizen. を踏
まえつつ
(12)、
〈タイ北部における最初期の年代測定可能な像は、その地域に固有のもので はなく、輸入品である。崇敬されている Phra Sila は、形式的に(stylistically)、A.D.10c のビハー ルかパーラの系統に属するものと同定されている。どのようにして、そして、いつ、Phra Sila 石像が北部インドからタイに来たのかということについては、未だに推測の事柄である〉 [Sculp. p.104]と述べている。目下、学問的見地が提示している見方は、Phra Sila
が 2500 年前のものであるとする話は史実ではない、というものである。とは
言うものの、チエンマイの人びとの Phra Sila 信仰においては、古今を通じて、
このような伝説が、それをして崇敬なさしめるところの基盤となっているであ
ろうと推察される
(13)。
この Phra Sila には雨を降らす力がある、と信じられており、日照りの時に
雨乞の祈願がなされると言う
[Cf. Donald. p.197]。それは、この石板像の故事来
歴に由来するものである。ゆえに、ソンクラーン祭で重要な役割を果たす。祭
りの初日、チエンマイの多くの寺院から仏像を集め、御輿に乗せて市街を巡る。
人びとはこれらの仏像にソムボーイと呼ばれるマメ科植物の花と実で香り付け
した浄水をかけるが、その中に Phra Sila および Phra Setangamani がある
(Cf. 『Chao 「ちゃ∼お」』No.192、Bridge International Foundation(Chiangmai)、2011 年 4 月 10 日)。
また、前稿に示した Phra Setangamani の伝説では、Tilokarat 王治世期に、チ
エンマイの Wat Chedi Luang
(ª´Á¸¥r®¨ª)の仏塔に、エメラルド仏
(¡¦³Âoª¤¦
、EmeraldBuddha )
、シヒン仏
(¡¦³¡»· ®·r、 Simhala Buddha )、Phra Setangamani、そして Phra
Sila が祀られていたとあった
(前稿 p.306)。エメラルド仏は現在、首都バンコク
の王宮寺院 Wat Phra Kaew
(ª´¡¦³Âoª)に、タイ王国の守護仏として安置されてい
るが、これ以外の 3 体はチエンマイにある。これらはチエンマイの守護仏とし
て尊崇されている。Sculp. には、
〈Phra Sila は、ラーン・ナー王国における最も重要な 諸像のうちに位置づけられており、チエンマイの護持者(guardian)たちの 1 つ、あるいは 守護像(palladia)と見なされて〉おり、
〈この守護的な役割(protective role)を、シヒン仏(シ ンハラ仏)と Phra Kaeo Setankha Mani(水晶像)とともに分担している〉[Sculp. p.104]とある。
3.Phra Sila の伝説を語る文献資料
次に、Phra Sila の伝説
(εµ)を語る文献資料について簡単に触れておく。
Phra Sila の伝説を初めて詳細に分析した E.W. Hutchinson によれば、Phra
Setangamani と Phra Sila の貝葉に記された伝来記
(palm-leaf chronicle)は、転写
されてきたもので、当時のチエンマイにおいてパーリ語の読める学者であった
Wat Hô T am の P ra Maha Mün
(¡¦³¤®µ®¤º )師が、パーリ語で書かれていたのをラ
オ文字(
Lao characters)で写し取ったものである、と言う
[Hutchinson. p.115](14)。
そのリソースとなったパーリ語資料は、CnjশasakkarƗja 暦 1146 年
(A.D.1785)の 11 月 白 分 第 14 日 目 に、Wat Pa Sang
(ª´Áª¸¥nµµ)(15)に お い て、P ra Maha
P ǀt a Langka[ra] 師
(¡¦³¤®µÃ¡µ¨´µÃ¦Áoµ)が 書 い た も の で あ る と い う。 そ れ は、
CnjশasakkarƗja 暦 1284 年
(A.D.1922、p.118 には「1383 年」とあるが p.137 により「1284 年」に修正)の北部暦 5 月白分第 13 日目午後 1 時に、P ra Wutiyãn
(¡¦³ª»·µ = P ra Maha Mün)師により翻訳された
(16)。P ra Maha Mün 師は、このパーリ語資料を、
Wat Chiang Mun で Phra Sila とともに発見し、伝来記の記述内容と石板像があ
らゆる点で一致していることを知った
[Hutchinson. p.118]。E.W. Hutchinson は、
この P ra Maha Mün 師のテキストをもとに、タイ文字によるタイ語テキストと
英訳を付した研究論文を出した。
その後、Donald K. Swearer が 2004 年に、自著に Phra Sila の伝記の英訳を掲
載している
[Donald. pp.205-210]。これは、Wat Chiang Mun が仏暦 2515 年
(A.D.1975)に 発 行 し た TamnƗn Phra KƗewkhƗw (Seta۪gama۬Ư) kap PhrasilƗ (Phrahinǀn) と
いう表題のタイ語小冊子を底本に翻訳したものである
[Cf.Donald. p.289(footnote 133)]。
E.W. Hutchinson の出したタイ語テキスト、および、Donald K. Swearer が使
用した仏暦 2515 年発行の小冊子の伝来記は、その内容が Legend. のそれより
も詳細で、分量も幾分か多い。タイ語テキストを見ると、冒頭部において釈尊
の入滅と舎利分配、石板像の制作の話が詳しく語られているようである。前二
者が完全なかたちのものであり、Legend. のそれは、そのこれを要約したもの
なのではなかろうかと思う。
4.Legend. の翻訳
Legend. の構成は、前稿
(pp.308-309)に示したごとく、6 つの章から成る。以
下に Phra Sila の故事来歴に相当する Legend. の⑤と⑥の章を翻訳する。拙訳中
の * を付した角括弧[* ]は、訳者
(古山)による簡略な
記である。詳細な
説明等を付す必要があると考えた場合は、本稿の文末脚注において、これをお
こなっている。また、訳者による補完語句は、〔 〕を用いて、そこに記した。
なお、 記すべきタイ語の原文表記が Legend. のタイ語文中に見出せなかった
ことがあったが、その場合は Hutchinson. のタイ語テキストを参照して付した。
【翻訳】
石板像の伝説
私は、太陽なる仏世尊に、蓮華を開花させて善き信仰の中にすべての従順な者たちを招き いれる、四聖諦を覚った者に、礼拝する。私は、9 つの卓越した法[* 九分教]に、すなわち、 迷妄の闇を払い除けるところの聖典に、礼拝する。私はまた、8 つの聖衆[* 四双八輩の聖者 の衆]に、すなわち、五魔に勝利した者たる仏の胸から生まれた、仏世尊の弟子たちに、礼 拝する。金色の石でつくられた、げにも素晴らしき仏像は、AjƗtasattu 王[* ¡¦³Áoµ°µ«´»、阿 闍世王]が造らせた。多くの有徳の人びとの喜悦のため、その像の由来についての伝承物語を、 私は話そう。 仏 世 尊 の 入 滅 か ら、 ち ょ う ど 7 年 7 ヶ 月 と 7 日 の 後、 名 高 き AjƗtasattu 王 は、Kassapa [*¡¦³¤®Æ´³、摩訶 葉]長老を上首とするすべての僧たちを招き、最高の尊敬とともに、仏 世尊の身体の舎利に、一同そろって礼拝した。そして、聖者がたに常に食を給した。その時、 ラージャガハ市[* Áª¸¥¦µ§®r、王舎城]の人びとの君主たる、賢き AjƗtasattu 王は、称賛に値 する気持ちを満たし、仏像の造像を願った。王は、その時、大海の底より金色の石を持ち来 らせ、「〈仏世尊がラージャガハ市において托鉢している時に、世尊の慈しみにより、発情し た NƗশƗgiri[* µ¯µ·¦¸ ]象が従順になった。象は世尊の右側でちぢこまり、Ɩnanda[* ¡¦³°µr、 Ɩnanda:阿難]長老は世尊の左側で世尊の鉢を持っている〉という、これらすべての姿かた ちを石の表面に彫るべし」と、職人に仏世尊の仏像を彫るよう告げた。 像の高さは 14 インチ、幅 10 インチで、3 つの姿かたち[* 釈尊・NƗশƗgiri 象・Ɩnanda 長老] がそこに彫られた。その時、すべての聖者がたと、AjƗtasattu 王は、一同そろって、祭壇に 像をのせ、金の容器に 7 片の身体舎利[* ¡¦³¦¤µ¦¸¦·µ»、=遺骨]を置いた。すると、彼ら全 員は五体投地の礼拝を 3 回おこない、真実の決意をなして、身体舎利が 1 つの像の中にとど まるように、と勧誘の言葉を発した。その瞬間、7 つの舎利のうち、1 つは頭の中に、1 つは 額の中に、1 つは胸に、2 つは両肩に、2 つは仏の石板像の膝の中に入った[*「決意」によ り 7 つの舎利が頭・額・胸・両肩・両膝に入るという話は、Jkm. の Ratanapa৬imƗ-kathƗ にも 見られる]。7 つの身体の舎利が石板像の中に安置されると、像は、その霊的な力により、すべての人 びとに見える高さのところまで空中に上昇した。そして、もとのように祭壇に降りて来た。 AjƗtasattu 王は、この奇跡を見ると、大いなる喜悦が生じた。すると、王は、そこに足で登 ることのできない、ある高い断崖のところに、石板像のための安置場所をつくるよう、また、 その場所に礼拝しようとする巡礼者のため、下に祭壇をつくるよう、命じた。 後のこと、3 人の長老は、説法のために各地を遊行し、多くの場所において諸々の身体舎 利と諸々の仏像に礼拝した。3 人の長老とは、SƯlavaূsa[*¡¦³¤®µ¸ ¨³ª´Ã]、Revata[*¡¦³Á¦ªª´: Revatta]、そして ÑƗagambhƯra[* ¡¦³µ´¤£¸¦³]である(17) 。3 人の長老は、ラージャガハに到 着するまで、諸々の身体舎利と諸々の仏像を礼拝するために諸所に詣でた。そして〔ラージャ ガハに着くと〕、高い断崖に安置された石板像を、皆で礼拝した。像が降りて来ますように、 と祈ると、彼らは重衣[* 原文:the upper robes、Donald. p.207 では saৄghƗtƯ との 記入り で their outer robes と訳されている]を地面に 1 枚ずつ重ねて置き、皆で五体投地を 3 回お こない、賛仏の詩句を唱え、「いやしくも仏なるものは、学び理解されるべき 5 つの事柄で あるところの全知を宣言され、五魔を征服され、従順な者たちへの憐れみに れ、最後の至 福の領域に生きものを導くお方である。世界を庇護する石板像よ、力みなぎるお方よ、覚ら れたお方の似像よ、私たちは、遠くの国々にいる、その支配者たる王たちを含む大群衆に諸々 の恵み深き事柄をなすよう、あなた様にお祈りいたします」と言った。 するとその時、石板像は、神通力を現じて空中に昇り、3 人の長老たちの重衣[* 原文:
the upper robes]の上に降りて来た。3 人の長老たちは、この奇跡を見てとても幸せになり、
AjƗtasattu 王に、王はそのことについて知るべきである、と知らせるべく、行った。すると、 王は、3 人の長老たちに、「尊者がたよ、石板像が、それらの国々の人びとに対してそれほど 哀れみ深いのならば、像は善く行くことになるでしょう。あなた様はみな、〔石板像〕運ぶ ことができるのであるならば、あなた様がたのご随意になさってください」と言った。 3 人の長老たちは「そういたします」と言った。AjƗtasattu 王は、3 人の長老と石板像に礼 拝し、彼らを船に送った。長老たちは、セイロンに到着するまで[* 原文 unti. は until の誤植 と思われる]、何昼夜も船で旅をした。AnurƗdha 王[* ¡¦³Áoµ°»¦µ、Donald. p.207 では the king
of AnurƗdhapura と訳されている]は、3 人の長老が石板像を携えて自分の国に到着したこ とを知ると、彼らと石板像を王宮に招き、像に礼拝し、像に芳香のある水で潅水した。まさ にその瞬間、石板像の力で、大雨が降り注いだ。AnurƗdha 王はとても幸せになり、歓喜して、 3 人の長老たちとともにその石板像が自分の国に住まうよう、願った。 「王よ、この石板像は、海を越えて、大小の国々の王たちと人びとを助けに行こうとされ ておられます。いま、私たち 3 人は、諸々の功徳を望む人びとへの利益のために、ハリブンチャ
イ[* 原文:Haribhunchai(Á¤º°®¦·£»´¥、Jkm.:Haripuñjaya)、ランプーンにあったモン族の国家] へと像を運ぼうと思います」 王は、それを聞くと、石板像と 3 人の長老に礼拝し、船に送った。船は、彼らが飲み水と 真水を使い果たした大海の真っ只中にあるまで、何昼夜か進んだ。彼らには、いまや、飲 む水も使う水もなくなった。すると、3 人の長老たちは、崇敬と礼拝の支度をし[* 原文 pepared は prepared の誤植と思われる]、彼らが持参していた香水で像に潅水した。たちまち にして、石板像の力によって大雨が起こり、船上の人びとは飲む水と使う水とを十分に得た のであった。彼らはみな、歓喜し、幸せになった。 船は、港に到着するまで、何昼夜か旅をした。その時、SƯlavaূsa 長老は、像を彼の托鉢 の鉢の中に入れると、彼らがラコーン[* Á¤º°¨³Á º ɰ、ナコンシータンマラート]という名の町 に到着するまで、像を携行したままぐんぐんと経路を進み行き、諸々の方向に曲がった。ラ コーンの王[* Hutchinson. p.141 には the prince of Chalieng とある]は、そのことについて 知ると、彼ら全員を町の中に招かせ、様ざまな方法で繰り返し像に芳香ある水で潅水し、礼 拝した。まさにその瞬間、町に激しく降雨した。
すると、賢きラコーンの王は、とても幸せになり、彼の町に像が永く立派に安置されます ようにと願った。長老たちは王に、彼らの意向に重きを置いて語り、彼らの重衣[* 原文:
their upper robes]を地面に敷き、かつてしたのと同じことをした。像はまた、かつてのよう
に神通力を現じ、王と人びとは、再び奇跡を目撃した。
ラコーンの王はそれに注目すると、彼はとても幸せになり、長老たちを送り出した。 SƯlavaূsa 長老は、鉢の中に像を置くと、サッジャナーライ[* 原文:Sajjanalai(Á¤º°´µ¨´¥)。 Jkm.:SajjanƗlƗya]すなわちジャリアン[* 原文:Jaliang。 Chaliang とも表記される。現ス コータイ県シーサッチャナライ郡]の町(18)に到着するまで、さらに旅をした。サッジャナー ライの王は、浄信[* 原文:joyous Faith、«¦´µµ³]を込めて像を礼拝し、彼らがランパーン の都[* Á¤º°¦(¨Îµµ)]に到着するまで、彼らを送り届けた。彼らは、像を永く崇拝し礼拝し ようとする人びとのために、その都[* =ランパーン]に像を安置した。〔時が移り、〕Mune Dongnakorn[* ®¤º Éo¦(19) ]がその場所の統治者となると、彼はチエンマイ[* Á¤º°Á¸ ¥Ä®¤n]の Tilokaraja 王[* ¡¦³ÁoµÃ¨·¨¦µ、= Tilokarat]に使者を送り、その出来事について、すべて報告 した。すると、〔Tilokaraja〕王は、その像を手に入れるべく人を遣わし、その像は Wat Pa Dang[* ª´nµÂ、Jkm.:RattavanamahƗvihƗra](20)
に安置されるのがよいと考えた。
その時、MahƗñƗabodhi [* ¤®µÃ¡· ](21)長老が、Wat Pa Dang に善く住していた。すると、王は、 Mune Kambaviengdin[* ®¤ºÉε£µÁª¸¥·](22)
に、行って、長老に像を贈るよう命じた。長老は、 長老がたの流儀でその像を受け取った。王たちと人びとは、すでに述べたようにした。すると、
再び激しく降雨した。その時、Mune Nangsuevimalakiti[* ®¤º É®´º °ª·¤¨³··、Mune Nangsu は位 階で Vimalakiti が名前]という名の、高位にある、国王の私的顧問官が、宗教行政官[* 原文:
the of¿ cer of the religious affairs(´µ¦¸´Ê)]であった。彼は、Wat Munesara[* ª´¤ºÉµ¦](23) に 堂宇を建立した。そして、Wat Pa Dang から石板像を貰い受けに行き、未来におけるさらな る栄光のために、Wat Munesara に像を安置した。Wat Munesara にいた、BuddhañƗa[* ¡»µ³] (24)
という名の、僧長[* 原文:the patriarch(¤®µµ¤¸ÁoµÁÈ ´¦·µ¥)]であった大長老は、Wat Suandokmai[*ª´ª°Å¤o](25) に滞在すべく〔Wat Munesara を〕去った際に、礼拝すべく像を持っ ていったままであったが、その後、かつてのように Wat Munesara に像を戻した。 ナバプリ[* 原文:Nabhapuri(¡»¦¸ )=チエンマイ]の Tilokaraja 王陛下は、勇敢であり、 冷静沈着であり、栄光に満ち、賢く、すべての敵を征服した。彼は、仏教への強い信仰とと もにある、正義の王であった。王は、彼の王宮に安置するべく、石板像を招来したいと望ん だ。そのため、自分の王宮から Wat Munesara までの街路に沿って、バナナの木とサトウキビ を植え、街灯柱を立てて幡と幟でそれらを飾りつけるよう命じた。そして、一般大衆を含め た、高位の者から下級の者までの、兵士と官人で組まれた祭列とともに来るようにして、石 板像を招来した。こうして、像は、仏暦 2018 年[* A.D.1475](26)に、王宮の Haw Phra Keo[* ®°¡¦³Âoª]に安置された。石板像が王宮に安置されると、まさにその日の夕方、石板像は、王 の率いる群集の目に、奇跡を現じた。王と人びとは、石板像が飾りつけられた街路の上空を あちらこちらへと漂うのを目にしたのであった。 すると、その瞬間、人びとの大多数は、とても愉悦した。彼らは、手と手をつなぎ、賛 仏として、大声で賛美し、大声で賛嘆した。王はというと、彼はさらに悦び、うれしくな り、そのため、大いなる礼拝を石板像になしたのであった。彼の治世期のあいだ、彼は像 に対してとても注意深く[* 原文 hecdful は heedful の誤植と思われる]あり、四資具でもっ て僧たちと見習い僧たちとを支援し、僧たちはとても善く養われ軽視されることはなかっ た。爾来、適当な祭礼のある時は、宗教的な供養儀礼が執りおこなわれた。白石英像[*Phra Setangamani 像のこと]と石板像に礼拝し、芳香ある水を潅水する祭儀は、毎年おこなわれた。 どの年でも、国土が乾き、雨季に雨が降らないならば、王は、雨乞い儀礼と、石板像への芳 香ある水の潅水とを執りおこなうよう命じたのであった。 彼の治世期の後、彼の王統の継承者たちは、この王家の慣習に、断絶させることなくした がった。ゆえに、賢者は、石板像に対していやしくも注意深くあるべきであり、真の浄信[* 原文:joyous Faith(«¦´µµ³)]をもって礼拝すべきである。それらは、最終的な至福たる涅 槃に入るまで、世間・出世間の功徳となるはずである。
石板像への礼仏偈[
*
εŮªo¡¦³«·¨µÁoµªnµ] 善き姿にて、神通の威光あり、大いなる力ある、 石板像を礼拝するものは、実に涅槃に至るであろう。 それゆえ、私は、かの仏像を常に拝する。 私の一切の病は消えますように、一切の怖畏は私に生じませんように。 仏の石板〔像〕の威力により、一切の利得が私に生じますように。(27)5.むすび
Legend. における Phra Sila の故事来歴の分析と考察は、Phra Setangamani の
それと同じく、別の機会にこれをおこないたいと考えるが、最後に、両仏像の
伝説の特徴を 2 つほど挙げ、この小稿のむすびにかえたい。
まず、これら 2 つの仏像は、エメラルド仏、シヒン仏とともに、チエンマイ
の守護仏とされるが、エメラルド仏とシヒン仏の伝来が Jkm. に語られている
(28)のに対して、Phra Sila と Phra Setangamani のことは片鱗も言及されていない。
それは CƗmadevƯvaۨsa にも見られない。それがいかなる理由によるのかを
解くことは、Wat Chiang Mun にある 2 体の仏像の「真の伝来」を解明するこ
とに資するかもしれない。
Phra Setangamani には、Sudeva
(VƗsudeva)仙人、ラワ族、ハリブンジャイ王国
との結びつきが語られていた。これに対し、Phra Sila の伝説は、インド・スリ
ランカ、そして、スリランカからタイ北部に仏教が伝来した経路との結びつき
に関心が寄せられているようであり、また、Wat Suan Dok 派(
Lankavamsa)と
Wat Pa Daeng 派(
new Lankavamsa)の対立を暗示するような記述も見られる。
(2011 年 6 月 5 日脱稿) 参考文献とその略号
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古山 2010 : 古山健一「タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の Setangamani 仏像について」(『駒 澤大学仏教学部論集』第 41 号、2010 年 10 月所収) 註 (1) 前稿においては、筆者(古山)の誤解および校正ミスが計 2 箇所あったので、ここにお いて訂正しておきたい。 [1] p.305上から 9 行目「南西の都[* =ランプーン]」→「都の南西[* =チエンマイ郊外]」 に訂正。 [2] p.300 下から 4 行目「 Jayabhnjmi に当たる。」→「 Jayabhnjmi に当たるか。」に訂正。 ※なお、Wiang Kum Kam は Jkm. に KumƗmanagara という名で現れる。 (2) 「本堂」と訳した ª·®µ¦ (< Pali. vihƗra)について、Carol Stratton は、説法堂(preaching
hall)、勤行や読経のような諸々の僧院儀式(monastic ceremonies)の用地、しばしば説
法がおこなわれる聖なる日にコミュニティーと僧侶らが協同することのできる集合場 所(gathering place)、といった機能があると述べている(Carol Stratton. What’s What in
a Wat, Thai Buddhist Temple : Their Purpose and Design. Chiang Mai : Silkworm Books, 2010.
p.21 )。英語では Assembly Hall などと訳されている。
(3) ¡¦³Á´¤¸(< PƗli. SetaৄgamaƯ[ Seta-aৄga-maƯ]):「白き肢体の摩尼〔仏〕」の意。タイ語 で Phra Keo Khao (¡¦³Âoª µª)すなわち「白き透明石の仏」とも呼ばれる。
(4) 前稿の「むすびにかえて」においては、Phra Setangamani 仏像の伝説について、Legend. が述べるものとは異なる話が E.W.Hutchinson の論文に示されていることを、Donald. の 紹介を通して指摘したが、氏が「大雑把なあらまし」(a rough abstract)として示す、そ の話の全体は次のごとくである(※印のついた注記は古山による)。:〈仏世尊は、Wat Khetawanaram(Wat Pa Tan)で、聖職者として 25 年を過ごすと、ある日、Raming(Ping 川) の川岸に沿って、Ussu 山すなわち Doi Suthep の南に向かい、彼が遊行の後で休息するた めに 5 本の樹木の木立の下で坐った場所である、ガムの樹のあるところまで、托鉢に出 た。/ Khun Sên Tông は、5 人の乙女を連れてきて、彼自身とともに彼女らを奴隷とし て差し出したが、我々の世尊はその提供を拒絶し、彼に、彼の 7 歳の姪を尼僧(a nun) として入道させるべきである、と説法した。/我々の世尊は、入滅後 837 年にチーマイ (Chimai、※チエンマイのこと)と呼ばれる都がそこに建都される、と予言した。すると、
(prophesy)とを、石に彫り、Doi Sut ep(※= Doi Suthep)の西側の、Kha 川の水源に埋 めた。/後に、帝釈天が、二番目の天界から水晶を持ってきて、ラワ族の国の王である、 P ya RƗm(※= Ramarat)に与え、5 月の白分 8 日に仏像を彫るよう命じた。/その後、 Nang Cham T evi(※= Chamadevi)は、ラウォの国から水晶像を持ってきて、ランプー ンに安置した。/ P ya Mangrai(※= Mungrai 王)がチエンマイを征服すると、彼は水 晶仏をチエンマイに安置すべく招来し、像は、P ya Suriyawong(※= Suriyavongsa)がア ユタヤにひそかに持ち出すまで、そこにあった。/後に、P ra Muang Yot(※= Phra Yod Chiangrai)は、像を取り戻し、それを再び聖なる場所に置いた。像は、P ra Müong Sam P ya が、CnjশasakkarƗja 暦 741 年(※ A.D.1380)から代々受け継がれ、5 月の白分 8 日から 満月までの期間に毎年おこなわれているところの、儀式(the ceremonial)を確立するまで、 そこに保存された。祭礼(festival)のあいだ、像は、Wieng Chet Lin(※ Wiang Jet Lin とも。 「7 つの小川の町」の意。チエンマイ旧市街西北の Rajamangala 工科大学やチエンマイ
動物園、チエンマイ大学がある一帯。これはハリプンチャイ王国時代以前の A.D.11c に 建てられた都市(Wiang)の跡とも言われている(Cf. Moobun. pp.24ff)。なお、この都 市は、Mae Ku 王(¡¦³Á´µÁ¤»»·ª«、治世期:A.D.1551-1564。ミャンマーの精霊 Yun Bayin Nat の起源ともされる)が即位式の際に身を清める場所として用いた、旧市街内南側に ある Wat Jed Lin(A.D.15c 末期から A.D.16c 初頭の創建か?)とは関係ないようである。(Cf. His-WJed. pp.37))からの水で沐浴される。/この像は、シヒン仏像、Phra Sila とともに、 チエンマイの繁栄に関係づけられている。これら 3 つの仏像を保有する都は、栄えるで あろう〉[Hutchinson. p.116-117]。なお、この Setangamani 仏像の伝説について、同氏は、 〈この像にまつわる伝来記(chronicle)は、歴史的な正確さを多少装った、とりとめのな い説話である。その主な関心事は、像と、農民が収穫に依存するところの雨が降り始め る頃の、5 月のウィサーカー祭との結びつきにある〉[Hutchinson. p116]と評し、また、 Jkm. pp.109-111 にある SikhƯbuddhapa৬imƗ-kathƗ との〈あるはっきりしない諸々の偶然の 一致〉があると述べている[Hutchinson.p.122]。
(5) Phra Sila に彫られている仏立像は、スコータイの「遊行仏」(¡¦³¡»¦¼µ¨¸¨µ、 Walking
Buddha )のような、腰を右側にくねらせた姿形をとっている。このような姿形の仏像は
タイ北部にはあまり見られない。Robert L. Brown は、Phra Sila はスコータイの遊行仏の 発達を促進させる諸像の 1 つではなかったかと推測している(Robert L. Brown. God on
Earth : The Walking Buddha in the Art of South and Southeast Asia. Artibus Asiae 50 No.1/2
(1990) : p.103;Cf. Sculp. p.104]。なお、この Phra Sila の立像の模倣と思しき仏像が、チエ ンマイのいくつかの寺院において見られる[Hutchinson.pp.118-119](Michael Sullivan. The
P’ra Sila of Chiangmai and Its Replicas. Ba Shin; Jean Boiseelier, A. B. Grisworld, eds. Essays
Offered to G. H. Luce by His Colleagues and Friends in Honour of His Seventy-Fifth Birthday. Artibus Asiae Supplementum Series Vol. 23 No. 2(1966): pp.175-178 に新しい報告がある)。 (6) いずれも筆者所蔵。左側は Wat Chiang Mun の創建 700 年を記念してタイ仏暦 2539 年に
発行された鋳造のプラクルアン。右側は発行年不詳の「リアン」(Á®¦¸¥)と呼ばれるメ ダル状の金属製プラクルアン(反対の面には Phra Setangamani が描かれている)。 (7) Vinayapiܒaka Cnjۜavagga ビルマ第六結集版 pp.356ff(Cf.『南伝大蔵経』第 4 巻 pp.298ff)。 な お、 前 稿 で は、 こ の 説 話 の 出 典 の 例 と し て、JƗtaka-aܒܒhakathƗ(『 本 生 』) の CnjশahaূsajƗtaka-vaanƗ(ビルマ第六結集版 vol.5,pp.354-377、Cf. 中村元監修・補注『ジャー タカ全集』、春秋社、2008 年(新装版第 1 刷)pp.175-192(片山一良訳「小ガチョウ前生 物語」))を示したが、PƗli(聖典)のレヴェルでの出典を示すならば、Vinaya の NƗশƗgiri-pesanaূ である。
(8) 「八大勝利」とは、① MƗra、② Ɩlavaka 夜伹、③ NƗশƗgiri 象、④ AৄgulimƗla、⑤ CiñcƗ、 ⑥ Saccaka、⑦ Nanda-Upananda 龍王兄弟、⑧ Baka 梵天に対する調伏の事跡を指す。 (9) この縁起法頌について Daniel. は〈北インド・パーラ朝期の書体によるサンスクリット
語で書かれている〉[Daniel. p.196]と説明している。なお、同書では、タイ発見の縁起 法頌をともなう多数の銘文のうちには、北部からもたらされたものや、ラーン・ナーの タム文字(Dhamma script = Tham scrip、Tham < Pali. dhamma)で書かれたものは、殆 ど存在せず、Phra Sila の刻銘 1 つのみがその例として知られている、と述べられている。 (10) teৢƗ(ূ) の後の tathƗ- が脱落している理由については、中世時代の北インドの書体
においては ৢa と tha の文字が酷似していたため、像を彫った人物が teৢƗ(ূ) と彫っ た時点で tathƗ- を彫り終えたと思い込み(原文は he had believed... とある)、結果と して脱落が起きたのである、と述べている[Lohuizen. p.328]。
(11) 刻銘はCurpus of LƗn NƗ Inscriptions vol.2 King Kawila Inscription(¦³»¤µ¦¹¨oµµ Á¨n¤ Óµ¦¹¡¦³Áoµµª·¨³). Chiang Mai : Archive of Lan Na Inscriptions, Social Research Institute Chiang University, 1998. pp. 15ff に収載されている。そこには、Kawila 王が王妃と弟 2 人とともに石版像の 台座付きの木枠を寄進したこと、その功徳により善き来世と涅槃が得られるよう願い、 またその功徳を祖父母および両親、使役したり殺したりした動物に 向し、さらには五 魔を滅ぼし八明(vijjƗ)を得て十五行(caraa)にしたがって暮らすことを望むことが 記されている。 なお、Kawila 王は、A.D.1782 にラーマ 1 世よりチエンマイの統治者に任命されたが、 この時チエンマイは戦乱で荒廃しており、周囲にはビルマ王朝の勢力が残存していたた
め、都に入らず、ランプーン南郊の Wiang Pa Sang に本拠を置いた。Kawila 王がチエン マイに入ったのは A.D.1797 のことである[Cf. History. pp.131-132;Hans.pp.69-73]。ゆえに、 この刻銘がなされたのは、王がチエンマイに入る以前ということになる。
(12) J.E. van Lohuizen-de Leeuw は、E.W. Hutchinson の「Phra Sila がスリランカで造られた」 とする提言を否定し、インドのビハールで造られたと述べている[Lohuizen. p.328]。また、 年代に関して、〈それの形式的な諸々の細かな点(stylistic details)が、大雑把に言って 大凡 A.D.10c の初めに造られた、ということを示しているようである。そして、刻銘の 古文字書体(the paleography of the script)と、彫像の形式(the style of the sculpture)の 双方が、同じ年代を指している〉[Lohuizen. p.329]と論じている。
(13) ただし、前稿 p.301 脚注(10)に示したように、Wat Chiang Mun 境内の案内板(①)には、 Phra Sila は the craftsmen of Pala School(タイ語原文は nµµ¨³ )によって彫られたとあっ た。このように、現在は伝説だけでなく学問的な見地からの紹介もなされている。 (14) ここに言う Wat Hô T am、P ra Maha Mün、Wat Ram P œng については目下詳細不明。 (15) Wat Pasang は、 ラ ン プ ー ン の 南 南 西 約 10 マ イ ル の と こ ろ に あ る、PƗk Bong 地 区
(娵n°)の重要な村 Pasang(nµµ)の寺院である。ここは、前注(11)に述べたように、 Kawila 王がチエンマイに入城する以前に本拠を置いた場所である。
(16) Phra Setangamani の伝来記は、P ra Maha Mün 師がチエンマイの歴史に関心を寄せる人び とのために、1920 年 8 月 7 日に Wat Ram P œng においてラオ(Lao)の写本から写した ものであると言う[Hutchinson. p.116]。
(17) この 3人の長老は AjƗtasattu 王時代の比丘のようであるが、人物の詳細はよく分からない。 (18) Hutchinson.p.135 には ª¦¦Ã¨ (スワンカローク、Skt. Svargaloka)との括弧書きの注記
が入っている。なお、サッジャナーライ(Sajjanalai)に同定されるべき場所に関する議 論は、Jkm-Ind. pp.161ff. を参照されたい。
(19) Mune Dongnakorn(®¤º Éo¦)の事跡は Chronicle. pp.89-94 にある(Mün Dong または Mün Dong Nakhòn と表記されている)。その中の A.D.1461/62 の記事に同年 Mune Dongnakorn は ラ ン パ ー ン と チ ャ リ エ ン(Chaliang = Jaliang) の 統 治 者 と な っ た と あ る。 ま た、 Chronicle. p.102 に は、A.D.1474/75 に Chiang Chün( = Jaliang) の 統 治 者 で あ る Mün Dong が亡くなったとある。
(20) Wat Pa Dang(ª´nµÂ、Wat Pa Daeng とも表記) ないし RattavanamahƗvihƗra と呼ばれ る寺院は Jkm. や Chronicle. に複数見られる[Cf. Jkm-Ind. pp.224-240]。ここに言うそれは、 その文脈から推してチエンマイの Wat Pa Dang を指していると見るのがよいと考える。 それは A.D.15c 前半の Tilokarat 王治世期にチエンマイにやって来たスリランカ修学僧
(Jkm. によれば MahƗdhammagambhƯra ら諸長老。MsP. によれば MahƗñƗagambhƯra 長老) により興起せしめられた、いわゆる new Lankavamsa や Sihala School 、 Sihon School と呼ばれる派(gaa)の、チエンマイにおける拠点の 1 つとなった寺院である。この new
Lankavamsa という呼称は、A.D.14c の Kuena 王治世期に、モン族の支配するラーマン
ニャ地方(ミャンマー南部)で Udumbara MahƗsƗmi 師に就いて修学した Sumana 長老の チエンマイ来訪により興きたスリランカ系仏教の派を Lankavamsa(あるいは Ramanya
School や Mon School )と呼ぶのに対する。 new Lankavamsa の成立については Jkm.
pp.92ff. および Ms. pp.86ff.、Zinme. pp.44ff. に記述があるが、内容には相違が見られる。 また、ミャンマーの史書にも見られる(SƗsanavaۨsa(PTS 版)p.50(生野善應『ビルマ 上座部仏教史』、山喜房佛書林、1980 年 p.107)、池田正隆『ミャンマー上座仏教史伝 『ター タナー・リンガーヤ・サーダン』を読む』、法蔵館、2007 年 p.123)。
Jkm. によれば、Wat Pa Dang は、A.D.1431 に Tilokarat によって創建された。A.D.1447 には Tilokarat 王がここで一時出家している。この寺院は、旧市街(城域)の西郊、ス テ ー プ 山 の 麓 に あ る Wat Pa Daeng Luang(ª´µÂ®¨ª) に 当 た る た だ し、 往 時 の 寺 院は、現在の位置より少し離れた東側にあったようである(Cf. Hans Penth. Note :
A Brick from Old Wat Pa Däng (Chiang Mai). The Journal of the Siam Society 63.1. 1975 :
p.176 (footnote 1))。
(21) Jkm. を見ると、① A.D.1432 の MahƗdhammagambhƯra らによる授具足戒の記事(pp.93-94) に ÑƗabodhi-mahƗthƗra、② A.D.1493/94 の PallaৄkadƯpa の部分結界浄化の記事(pp.103-104)に ÑƗabodhi-mahƗsƗmi、③ A.D.1518 の記事(pp.118-119)中に MahƗcetiyƗrƗma(Wat Chedi Luang)の施捨を受けた ÑƗabodhi-thera、というように、ÑƗabodhi という比丘の 名が 3 箇所に現れるが、それらが Phra Sila の伝説中の MahƗñƗabodhi かは不明。 (22) Mune Kambaviengdin(®¤º Éε£µÁª¸¥· または ®¤º ÉεµÁª¸¥·¤)という人物の詳細は目下のところ
不明。Donald. p.209 には a government minister との 記が入れられている。
(23) Wat Munesara(ª´¤º ɵ¦)は、旧市街(城域)の南側、Kha 川沿いに設けられていた昔の 防御塁の内側に位置する。寺院の創建に関する事柄の詳細は不明であるが、MsP. pp.94-100 の記事にその名が見える。 Somdet RƗjaguru の地位にあった MahƗdhammakitti 長 老の弟子で、スリランカでの修学を終えた [MahƗ-]ÑƗagambhƯra が、各地を経てチエ ンマイに到着すると、 new Lankavamsa の流儀にしたがった授具足戒式がおこなわれ、 多くの出家希望者が出た。ÑƗagambhƯra はまず、王妃から都の〔南〕西に Wat PƗ TƗn (ª´nµµ¨、Jkm.:TƗlavanamahƗvihƗra。旧市街南西外側の Watthanathai Payap School の辺 りにあった寺院で、現存せず。Cf. Jkm-Ind. pp.241-242)の建立寄進を受けた、次いで
Tilokarat 王より Wat Pa Dang(前注(20)参照)の寄進を受けた。その後、ÑƗagambhƯra は、Wat Monthian(ª´¤Áp¥、Wat Mornthean とも表記。Tilokarat 王創建の寺院で、旧市 街内北西の Si Phum Rd. 沿いにある)に住した。そして、ともにスリランカに修学した Medhaৄkara を Wat PƗ TƗn に住まわせ、同じく Candaraূsi を Wat Pa Dang の長に任じ、 同じく RattanƗga には、Wat Phan Law、Wat Ku৬i Kham、Wat CedƯ Kham、Wat Mun SƗra の権限を与えつつ Wat NandƗrƗma(Wat Munesara から徒歩 5 分ほどの南東側にある。こ こはかつて MahƗdhammakitti が住していた寺院でもある)に住まわせた。ここに言う Wat Mun SƗra が Wat Munesara に当たる。この寺院が RattanƗga の権限下に置かれたという ことは new Lankavamsa 系の寺院になったことを意味するであろう。
(24) BuddhañƗa(¡»µ³)は、MsP. p.85 にある「Wat Suang Dok の住職リスト」によれば、
Lankavamsa の祖 Sumana[-raূsi] から数えて第 4 代の住職とされる。CnjশasakkarƗja 暦
787 年(A.D.1425)に住職位を継ぎ(同寺は Lankavamsa の中心拠点であるため、その 住職位は同派の僧長の地位と同義である)、19 年間そこに住していた、とある(ただし、 G.L.Luce & Ba Shin A Chiang Mai MahƗthera Visits Pagan (1393 A.D.). Artibus Asiae 24 No.3/4(1961) : p.336 には、BuddhañƗa の在位期間は A.D.1418-1428 とある)。
(25) Wat Suandokmai(ª´ª°Å¤o、Wat Suan Dok と も 言 う。Jkm.:PupphƗrƗma) は、 旧 市 街 (城域)外西側に位置する。Jkm. p.91 によれば、CnjশasakkarƗja 暦 733 年(A.D.1371)に KilanƗ 王(= Kuena 王)が自分の庭園(uyyƗna)を mahƗvihƗra にし、Haripuñjaya から Sumana 長老を連れて来て住まわせた、とある(MsP. p.82 にも同様の記述あり)。その 後、A.D.1373 に[Cf.History. p.75]、この寺院の界隈は Wieng Suan Dok という名の町と なった。同寺はかつて、チエンマイにおける Lankavamsa の拠点となった寺院である。 なお、この Lankavamsa とは、Mungrai 王によるチエンマイ建都(精確には Wieng Lek の拡充再開発とでも言うべきであろう)以前から存在していた「既成仏教」、すなわち、 ハリブンジャイ(Haripuñjaya)王国建国にともなって CƗmadevƯ 女王が故郷ラワ(Lava-pura、現在の Lop Buri)からもたらした、モン族仏教の系統に対する呼称である(Jkm. p.73 には、CƗmadevƯ は Lava-pura から 500 人の三蔵憶持の大長老を連れて Haripuñjaya 都に 入った、とある。Cama. も同様。このモン族仏教については、Daniel. pp.31-41 を参照さ れたい)。ところで、Wat Munesara は前 (23)に述べたように、RattanƗga のもと new
Lankavamsa 系寺院になっていたと思われるが、同時期にここに住していた BuddhañƗƯa
が Lankavamsa の本拠 Wat Suandokmai(後述)に入り住職となったことを考えると、 住僧が必ずしも戒脈上 new Lankavamsa に属していなかったのかもしれない。
¡¦³Âoª/Phra Keo =エメラルド仏の堂宇?)に移されることになった理由は分からないが、 この移動により Phra Sila が国王ないし王朝の守護仏化されたと言えよう。なお、Jkm. p.98 に は、SakarƗja 暦 840-843 年(A.D.1478-1481、Chronicle. p.102 は、CnjশasakkarƗja 暦 837-841 年(A.D.1475/76-1479)とする。Chedi Luang. pp.19-20 には A.D.1479-1481 とある) の期間に、RƗja-knj৬a(Wat Chedi Luang の仏塔)の大規模な拡張工事がおこなわれた。工 事の終わった SakarƗja 暦 843 年に KheশƗৄganagara(ランパーン)から無量の威光と神通 を持つ Ratanapa৬imƗ(宝石の仏像=エメラルド仏)を運び、RƗja-knj৬a に安置した、とあ る(Zinme. p.49 は、その年を SakarƗja 暦 840 年としている。また、Diskul Subhadradis.
The History of the Temple of the Emerald Buddha. Bangkok: Bureau of the Royal Household,
1982. p.18 には A.D.1468 にエメラルド仏がランパーンからチエンマイに運ばれたとある)。 Phra Sila の Haw Phra Keo への移動年というのは、エメラルド仏がチエンマイにもたら された時期に近い。この点を考えると、この移動は、エメラルド仏との並祀に、史実と して関わっている、あるいは故事来歴譚構成の必要として関わらせている、のではない かとも思えてくる。
(27) 原文:silƗbimbaূ surnjpañca iddhitejaূ mahabbalaূ, yo ve buddhaূ namassanto nibbƗnaূ so gamissati. tenetaূ buddhabimbañca ahaূ vandƗmi sabbadƗ, nassantu me sabbarogƗ sabbabhayƗ mƗ me hontu, buddhasilƗnubhƗvena sabbalƗbhƗ bhavantu me.
(28) エメラルド仏の伝来は Jkm. に Ratanapa৬imƗ-kathƗ(pp.98-103)として、シヒン仏のそ れは SƯhaۜapaܒimƗ-kathƗ(pp.86-91)として語られている。他に、CƗmadevƯvaۨsa の編纂 者 と し て 知 ら れ る Bodhiraূsi の シ ヒ ン 仏 伝 来 記 Sihi۪ga-(buddharnjpa)-nidƗna (A.D.15c 初頭)、BrahmarƗjapañña のエメラルド仏伝来記 Ratanabimbavaۨsa (年代不詳)がある (Wyatt1976. pp.14-15)。