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このようにして 日本列島には三つの民族集団が移動してきた 西の集団は 新人が西アジアからヒマラヤの北部を通って中国北部に辿り着いた集団すなわち最初期の北方古モンゴロイドを先祖とする集団 (C3) である 東の集団 (D2) は 中国北部に辿り着いた集団から更に遠くアメリカ大陸など北部を目指した集団の

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1,現生人類のアフリカから東アジアまでの道のり

 アフリカを出立した人類(新人)の一部は東へ拡散し40000年前頃、イランもしく は中央アジア南部の平原のあたりでひとつの遺伝子マーカーが出現し、M9(KR) と名付けられた。このM9の遺伝子こそ、以後3万年間にわたって地球の果てまで その領域を拡大することになる現生人類の主要な系統である。このユーラシア族が さらに東へ、内陸部へ進もうとしたとき深刻な地理的障壁に遭遇した。それは中央 アジア南部の山岳地帯だった。この時、ヒンズークシ山脈の北へと移動しようとする グループとパキスタン・インド亜大陸に南下しようとするグループに分かれた。  ヒンズークシ山脈の北に移動し、中央アジアの奥地に向かったグループの中で、 ユーラシア族の中にもう一つの突然変異が起こった。M45(PR)の出現である。 このM45(PR)は、中央アジアと中央アジア由来の人々だけにみられるので、中央 アジア族と定義される。このグループの一部がバイカル湖周辺まで移動し南シベリア 族C3と定義される。  M45(PR)が出現した頃、天山山脈の北側に沿って移動し、ジュンガル盆地経由 して中国にたどり着いたグループがいた。このグループは西アジアとヨーロッパに 全く見られないY染色体マーカーM175(O)の子孫を残した。この系統は、その後 ヒンズークシ山脈とヒマラヤ山脈より東側に住むアジア人の大多数を占めるほど繁栄 し、東アジア族D2と定義される。  また、アフリカを出てから、インド南部を経由し、東南アジア、オーストラリアま で達したM130(C)のグループ、沿岸氏族C1がいる。このグループの一部はその 後、東南アジアを北上し何千年もかけて北東アジアにまで拡散していった。

2,日本列島への流入

 日本列島には、バイカル湖周辺にいた南シベリア族C3が北方と朝鮮半島を経由 し、中国大陸にいた東アジア族D2が朝鮮半島を経由し、沿岸氏族C1が南方(フイ リッピン・台湾・沖縄・奄美諸島)から、移動してきた。  日本列島へ移動して来た主体は東アジア族D2であるが、中国北部から朝鮮半島経 由で、3万年前から1万2千年前までのあいだに断続的に流入した。それ以後は大規 模の渡来はなかったので、日本列島人はこの期間に形成された。そしてその時期は、 ナイフ型石器文化の伝播や、その後の細石刃文化の伝播の時期に一致している。

クリニックだより

第 9 3 号

平 成 2 5 年 9 月 1 日 高森内科クリニック

「日本人の起源と日本国家の成り立ち

(前編)

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中国大陸(江南地方)  このようにして、日本列島には三つの民族集団が移動してきた。西の集団は、新人 が西アジアからヒマラヤの北部を通って中国北部に辿り着いた集団すなわち最初期の 北方古モンゴロイドを先祖とする集団(C3)である。東の集団(D2)は、中国 北部に辿り着いた集団から更に遠くアメリカ大陸など北部を目指した集団の中で、 豊富な食糧資源をもつバイカル湖地域に落ち着いた集団を起源としていた。そして、 その二つの集団は、いずれも古モンゴロイドの形質をもち、見た目にはさしたる差異 はなかった。  そして、少ないながらも、沿岸氏族C1の中で南方(フイリッピン・台湾・沖縄・ 奄美諸島)を経由して移動してきたグループもいた。  日本列島において、縄文人はこのようにして形成されてきた。

3,東日本民族の西日本への移動

 縄文後期の「東日本民族の西日本への移動」という事件は極めて重要なものであっ た。紀元前4000年頃に起こった気候の寒冷化は、比較的冷涼な植生に大きな打撃を 与え、温暖な地域の植生にはあまり影響を及ぼさなかった。東日本の落葉広葉樹林帯 (ナラ林帯)は、高温期から寒冷化が進む3000年の間に、温暖帯系のクヌギ・コナ ラ・クリなどの森から、冷温帯系のブナ・ミズナラなどの森に大きく姿を変えた。 その結果、落葉広葉樹林帯での食物(栗、栃の実、どんぐり)の収量が激減したため に、照葉樹林帯の西日本地区に住民が移動してきた。その結果、東日本の人口は 1000年間にほぼ半減した。 東日本人の南下、西日本地区への流入が大規模で起こったようで、旧石器時代以来、 かなり独立した集団であった東日本の縄文人と西日本の縄文人が、縄文後期に、東と 西の文化を融合させ、互いの言語・語彙が共通化し、遺伝子の融合も進んだ。ここに おいて、東日本人と西日本人の混合・混成化が起こり、初めて「基層日本人」が形成 された。  すなわち、日本列島の西部地区には、文化的にも民族的にも列島平準的な、新たな 西日本人が誕生したのである。

4,渡来人の登場

 その後、日本列島には、水田稲作農耕技術や金属器製作技術を携えた渡来人が、 や朝鮮半島からやってくる。新たな遺伝子を取り込んだ西日本 の遠賀川式文化圏の弥生日本人は、東日本の亀ヶ岡文化圏へ浸透し本土日本人の形成 が進展する。その過程で新しい文化に馴染まなかった東日本の縄文人は、北方の文化 を包含しつつ独立した民族集団・アイヌ民族としての道を進むことになる。  古墳時代に入ると、特に朝鮮半島の南部や北部から新たな集団が、先進文化を携え て渡来してくる。中国東北部に起こった騎馬民族も華やかな文化と遺伝子を列島にも たらし、奈良時代初期には現代本土日本人の祖型が完成する。

5,「日本語の成立」

 日本語はオーストロネシア語とツングース語の混合言語であると考えられている。 すなわち、縄文時代には、日本列島ではすでに原始ツングース語を話す人がいたが、

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その後、渡来したオーストロネシアンとお互いに混じり合うなかで、日本語の原型が 形成された。オーストロネシアンの移動の歴史から考えて、今から5000年前頃・ 縄文中期以降にこの混合言語-日本語が成立したと考えられる。すなわち、日本語の 中の単語の多くはオーストロネシア語に、助詞や助動詞という文法要素は大部分を ツングース語に負い、奈良時代まで盛んに用いられていた接頭語はオーストロネシア 語の要素を受け継いでいる。 1)華北文化センターからナイフ型石器文化を伴って、プリミティブな原始ツングー   ス系言語が朝鮮半島や日本列島(津軽海峡まで)に展開した。20000~30000年   前のことである。 2)12500~13000年前ごろ、荒屋型彫器を伴う、クサビ型細石器文化が、極東方面   に怒濤のように押し寄せた。彼らは原始アイヌ系言語を使っていたらしい。 3)6000年前、縄文前期の頃、同じツングース系の言語であった、古日本語と古朝   鮮語方言レベルから別の言語に分裂したと、言語年代学から推定される。  古日本語には、東アジアにおける位置的関係から、照葉樹林文化(雑穀)や古栽培 民の文化(芋)、熱帯ジャポニカを含む文化などを持つ、様々な民族や集団が断続的 に流入し、多くの南方系言語の語彙をもたらした。  弥生時代、水田稲作農耕技術をもたらした渡来人は、予想以上に高度な日本基語を 習得し、いわばその北部九州方言「倭人語」をもって勢力を拡大し、西日本一帯に 遠賀川式文化圏を確立する。これにより、倭人語は「日本祖語」といえる標準的存在 となった。中部・関東地域でも農耕文化を受け入れた集団は、日本祖語を受け入れ る。一方、旧東日本地区であくまで狩猟採集文化に拘った集団は、東北地区に後退 し、独自の文化・東日本縄文文化を継承していく。  そして、日本祖語は中国語から、文字という記録媒体を手に入れ、文化や思想語を 大量に日本語の中に取り入れ、奈良時代に「上代(上古)日本語」が成立した。

6,「縄文稲作は中国江南地方から来た」

 縄文時代の稲作は、縄文前期以来3000年に亘って、焼畑技術の延長線上の稲作か、 低湿地を利用した水陸未分化の粗放稲作であった。それに対して、次元の違う稲作技 術、すなわち「水田稲作農耕」の技術を誰がどこに持ち込んだのであろうか。  稲作の伝播ルートは四つ考えられている。 ①華北から北朝鮮を経て北九州に達する北回りのルート ②華北から山東半島を経て、黄海を渡って韓半島の西海岸に伝播し、北九州に伝播す  るルート ③華南の揚子江下流域から東シナ海を渡って、直接、韓半島の南部ならびに北九州  に、ほぼ同時に伝播するコース ④華南から台湾そして南西諸島を経て、南九州に達する南回りのコース  ①と④の説は過去のものになりつつあり、②または③の説が有力視されている。 稲作発祥地は、東亜半月弧から長江中・下流域に大きく変わったが、日本列島への 伝播ルートについては、考古学者は、南部朝鮮からの伝播(②のルート)が確実だと 主張し、考古学者以外は、長江下流域・江南地方からの直接伝播(③のルート)の 可能性が大きいと見ている。

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 水田稲作農耕技術が「菜畑や曲り田」などの西九州へ伝播したが、それは「山東半 島→西朝鮮→南部朝鮮」のルート、すなわち朝鮮南部からの伝播であった可能性が 極めて高いと見られている。  縄文時代の遺跡から出土する、イネのプラントオパールが熱帯ジャポニカであるこ とと、河姆渡村を含む中国江南地方から、長江文明(含む熱帯ジャポニカ種のイネ) が、セットとなってこの列島に流入していたこともわかってきた。  長江文明は稲作農耕と漁労の融合をベースとして興り、その担い手はいわゆる「越 人」であったと思われる。彼らは農耕・漁撈技術とともに、長江や沿岸海域を利用し た水運技術にも長じていた。江南人・越人たちは、長江中・下流域ないし東亜稲作半 月弧から、偶発的にたまたま日本列島に漂着したのではなく、当時すでに高い水準に あった渡海航法を駆使し、瀬戸内海(岡山など)や有明海の一定地点を目指して渡来 してきたようである。相互交流が長期に亘って存在していたと思われる。  この日本列島に水田稲作文化が、高度な農耕土木技術や農具・工具などのクラス ター(一塊のセット)として伝播し、弥生時代が開かれた。その伝播のルートは、   はじめに:(長江中・下流域→山東半島→西朝鮮→)朝鮮半島南部→北部九州   少し遅れて:長江中・下流域→→→(直接ルート)→→→北部九州 この二つのルートが主であった。  水田稲作農耕の伝播には、当初、縄文人が主体的役割を果たしたとみられるが、 縄文文化から弥生文化への大変革が起こった背景には、渡来人が集団で渡来しこの 列島で生活を始めたことがあると考えられる。

7,「寒冷化がもたらした中国大陸の動乱」

 気候の寒冷化は、当然ながら日本列島だけに起こったのではない。世界的な気候の 寒冷化が世界各地を襲った。そして、気候の寒冷化・乾燥化が世界各地で民族の南下 や移動を誘発し、他の民族の逃避や文明の崩壊を引き起こしたのである。  中国大陸も例外ではない。4000年前、北方の畑作牧畜民(黄河中流域の漢民族) が長江流域の江漢平原(湖北省)に南下した。北方の民が馬に乗り青銅の武器を携え ていたのに対し、石器しか持っていなかった長江の民の抵抗は空しかった。度重なる 北方民の侵入により、長江を追われて雲南省や貴州省の山奥に逃れる民族も出てき た。  長江流域の民が向かったのは中国の奥地ばかりではなく、東南アジアにも向かった し、台湾島にも向かった。そして、その向かった地の一つが、同じ照葉樹林の森を 持つ日本列島であり、南部朝鮮であった。  水田稲作という技術を高度に完成されたシステムとして、温帯ジャポニカという 水田稲作に適した種籾と水田耕作用の道具を携えて日本列島に渡来してきたと考えら れる。そして、縄文前期~縄文後期まで、縄文稲作や照葉樹林文化を伴った江南人が 継続的に北部九州と往来していたことはほぼ確実である。  北部九州では旧石器時代から住み着いていた華北系の集団に、南方系の江南地方の 集団が流入し、かなりのウエイトで南方の遺伝子を持った集団が形成されていた。 そこへまた、バイカル湖系の、すなわち北方の遺伝子を持った東日本人がどっと押し 寄せた。おそらく、北部九州の集団は、東日本縄文人を50%に近い割合で受け入れ

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ることで、南方的性質を弱め、かなり列島平準的な基層人になったといえるであろ う。

8,「渡来人の故郷はどこか」

「金属器文化を伴う渡来の波」  中国の青銅器は夏の時代(4000年前)に始まり、殷(商)代から周代(3500~ 2800年前)には最盛期をむかえている。この時代には主に祭祀用として使われ、 春秋戦国時代には観賞用として使われることが多かった。その後は実用的なものにも 使われた。春秋戦国期(2800~2200年前)には戦闘用の銅剣としても使われた。  鉄器については、まず人工的に鉄が作られるようになったのが周代(西周)の後期 であり、およそ2800年前といわれる。武器や農耕具として使われるのは春秋末ない し戦国時代の初め(2400年前)からである。  北部九州に大陸や半島から渡来した文化要素は一度に来たものではなく、何回にも 分かれて伝わってきた。そのたびに渡来人の集団も出身地を異にした可能性がある。  「菜畑・曲り田」に朝鮮南部からの渡来が、稲作技術・磨製石器・支石墓・遼寧青 銅器文化をもたらしたが、これらが渡来人の第一波とみられる。  渡来の第二波は弥生前期末から中期初頭という比較的短期間に衝撃的に起きた。 匈奴(=胡)の東側に勢力を張っていた東胡民族の一部が朝鮮半島西北部に侵入した ことを契機に、朝鮮半島で武力闘争が激化し故郷を捨てなければならない人が出てき た。戦禍を避けた彼らは北部から玉突き式に移動したのではなく、長躯朝鮮半島を 縦断して南部に達し、大部分の人たちはその地に落ち着き、その一部の人たちは海峡 を越えて北部九州にまで達した。そして、この朝鮮北部の人たちは、弥生前期末期に 北部九州に東胡ー朝鮮系の青銅器や石廓墓、それと鉄器の文化を持ち込んだといわれ ている。  また、第二波の渡来人の登場と同時期に北部九州平野部に出現し、弥生中期中葉に 最盛期を迎えた甕棺墓の被葬者はその80~90%が渡来系弥生人である。この事実は 新来の渡来人との混血によって縄文人の弥生人化が極点まで進むと同時に、渡来形質 を一段と強化された弥生人集団ができあがったことを示している。  この集団は人口が爆発的に急増する弥生中期前半から遠賀川式土器拡散の跡をなぞ るように西日本各地へと拡散・移動し、本土日本人の主要な構成要素となる(ただし 甕棺墓の墓制は北部九州平野部だけの風習に止まっている)。  朝鮮南部からの渡来人といっても、①朝鮮南部の古くからの在地人もいれば、②山 東半島から稲作をもたらした移住民、そして③中国東北部から青銅器文化を伝えた集 団の一部もあった。  玄界灘沿岸地方、すなわち早良平野を含む唐津から福岡平野に到る地域では、稲作 を受け入れるだけでなく、クニの形成と首長間の熾烈な権力闘争が繰り広げられ、彼 らは威信をかけて、朝鮮製の青銅器武器や鏡を入手しようと努めていた、とみられて いる。

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魏志倭人伝にいう、「倭国乱れる」 「二重構造人(=本土日本人)の形成過程」 西日本:基層人は西日本(華北系)縄文人、基層文化は突帯文土器文化 東日本:基層人は東日本(バイカル湖系)縄文人、基層文化は亀ヶ岡土器文化 第一次:倭人の形成(渡来人+北部九州縄文人) 第二次:北部九州弥生人の急速拡散 第三次:弥生人の東日本地区への漸進的分散

9,「クニの形成」

 水田稲作農耕という生産手段が列島全体に波及していく一方で、先進地域では富の 蓄積を背景に「国」の形成が進行していた。クニの形成・成長を通じて、古墳時代が 到来し、新たな渡来人がこの日本列島に移住し、現代日本人の先祖が形作られていっ た。  クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことに あった。村の数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用 が強く求められたからである。紀元前1世紀頃の「漢書」には、倭には100余国ある と書かれていることより、西日本全体に100以上の小国があったと考えられる。  伊都国は国際的な港湾国家として、航行ルートに当たる対馬国、一支国、松廬国と 伊都国連合を組んでいたと考えられる。奴国はテクノポリス国家として青銅器や鉄器 の大供給基地として、粕屋や胸肩(=今は、宗像)と奴国連合を組んでいた。  倭国王は伊都国王であったと推定されている。しかし、後漢のもとで外交を一手に 握り、政治的にも経済的にも優位に立っていた伊都国も、その後ろ盾の後漢の力が 弱体化するにしたがって、自らの権威も衰え、倭国連合を掌握する力は減弱していっ た。倭国連合の盟主伊都国の権威が失墜するなか、日本列島の主要な国々は、新たな 国際外交を推進しうる国家の枠組みとその盟主を模索した。  従来のような奴国や伊都国を盟主とする緩やかな部族連合的な国家では、もはや外 交的に通用しない、すなわち中国が混迷する当時の国際社会にあって、国の総合力が 問われる時代が訪れていた。 とはこういう状況を 語ったと思われる。  新しい国際情勢に対応できる、新しい思想をそれなりの力を兼ね備えた国々が、 共同して新生統一政権を樹立しようという動きに出た。それこそ「邪馬台国」の樹立 であり、これまでの「王」に代わる王の中の王「大王」卑弥呼の擁立であったと考え られる。この新邪馬台国王権の誕生は、その後の7世紀後半の律令国家の成立とい う、大和朝廷の完成に向けての画期となったと思われる。  倭ないし邪馬台国は、中国王朝に対して朝貢を続け、冊封を受けて、東アジアの おける交易と安全の保障を求めるという外交方針を続けた。日本列島はいろんな試練 に直面しながらも、王権の強化を進めていった。このころ(266年)、倭国内では 巨大前方後円墳の築造が始まるが、これは「邪馬台国王権」が、より広域を統括する ようになったか、もしくはより多くの地方王権を掌握した「ヤマト王権」に成長した

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証ではないかと考えられている。  当時の倭では、朝鮮系や中国系の渡来人の血が、すでに全体の80%程度の高い 割合で混血していた考えられる。しかし、そのうち江南系(≒越人系)の割合はそれ ほど高くなく、せいぜい高くて20~30%程度とみられる。

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「空白の4世紀のヤマト王権」

 倭国が歴史に記載されていない空白の4世紀といわれる時代、中国は五胡十六国 時代であった。また、朝鮮半島は強大な高句麗と馬韓(百済へ)、辰韓(新羅へ)、 弁韓(伽耶へ)の時代である。  邪馬台王権は台与の死後衰え、「ヤマト王権」の時代に移ったと思われている。 それは、3~4世紀にかけて邪馬台王権時代、朝鮮半島の伽耶地区との交流の実権 (すなわち外交・交易の利権)を伊都国王が握っていたが、それがヤマト王権の時代 となって外交・交易権も畿内に移ったと考えられる。すなわち、4世紀半ばまでに、 朝鮮半島と倭を結ぶ最短ルート「海北道中」をヤマト王権を掌握したのであるが、 それだけでなく、4世紀はヤマトの勢力による列島主要部の政治的統合が実現した 世紀でもあった。

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「半島の動乱とヤマト王権の成長」

 倭王権は半島からの鉄素材供給ルートを掌握し、列島各地の首長への分配をコント ロールすることを通して、覇権を握っていった。半島ルートを掌握し、伽耶にはおそ らく拠点まで確保したヤマト王権に建国後間もない百済が接近を図り、一種の軍事 同盟が結ばれた。強国高句麗が南下策をとりはじめ、それに脅威を感じた百済は軍事 的パートナーが必要であったからである。一方、ヤマト王権にとっても百済は先進の 文物の供給先として有用な存在であった。百済には高句麗に占拠された楽浪郡や帯方 郡の遺民すなわち中国系人士が少なからず移住していたからである。  軍事援助の見返りとして多くのヒト資源やモノ資源がこの列島にもたらされ、これ らの知識人や技術者、鉄素材や先進文物を独占したヤマト王権はその再配分を通して 各地の首長たちへの支配力を強めていった。  そして、百済とヤマト王権との関係が軍事同盟にまで発展したことは、やがて百済 の要請を受けてその宿敵高句麗と倭が直接戦火を交えることにつながっていった。

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「冊封体制からの離脱と半島情勢」

   5世紀の始めから終わりまで(421年から478年まで)、半世紀以上を費やして、 倭の五王は宋王朝の冊封体制のなかで、朝鮮半島に対する支配権を強めようと、遣使 を繰り返す。最後の倭王武の時、入念に練り上げた上表文を添えて要求した官爵は 高句麗王と対等のものであった。高句麗の広開土王のとき、4世紀末から5世紀初め、 すでに強国として現れた倭は、農耕技術の革新を経て5世紀後半にはさらなる強国に なっていた。力をつけ、それを認識していたヤマト王権は、倭国と半島南部地域の 小世界の支配者であり、且つ高句麗に伍する強国であることを内外に認めさせようと したかったのであろう。  この時期、朝鮮半島でも勢力図が大きく変わる。倭と緊密な関係の伽耶では金官国

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が衰退し、代わって大伽耶が有力となる。また、475年百済は都の漢城を高句麗に 攻め落とされ、熊津(忠淸南道公州)に遷都し、倭の援助を受けてかろうじて国を 再建する。この戦乱の余波を受けて、今来漢人(いまきのあやひと)と呼ばれる百済 系の渡来人が多数来朝した。  彼らはいわば第2波の渡来人で、第1波渡来人(5世紀初頭)の有力な一族である 東漢(やまとのあや)氏の管掌下におかれ、陶部・鞍部・画部・錦部・訳部(おさ) などに編成され、その技術を倭王権に活用された。倭王権は彼らの持つ先進技術を 独占することにより、一層列島全体への支配力を強化することになった。  朝鮮半島ではその後も百済、新羅、高句麗の三つ巴、あるいは伽耶を含めて四つ巴 の戦いが続く。百済はこういう戦いの間、倭国に頻繁に救援要請を申し入れる。538 年、百済から倭国へ聖明王の「仏教公伝」も、百済が倭国は供与した先進文化の一つ であった。その聖明王も554年に戦死してしまう。それはただちに半島南部の戦線に も影響を与え、ヤマト王権が「任那」最後の拠点としていた阿羅伽耶はほどなく新羅 に併呑され、倭国は半島の足がかりをすべて失う。

13,

「白村江での大敗と半島経営の終わり」

 7世紀中ほど、朝鮮半島では高句麗・百済連合と新羅・唐連合が対立していた。 唐は毎年、高句麗征討を試みるがさしたる成果はなかった。唐は作戦を変えて、まず 高句麗の同盟国を討ち、しかる後に高句麗を攻略する作戦に出た。この巧妙な作戦の 結果、600年、百済王国はあえなく滅ぶ。  ところが百済滅亡の直後から百済の遺臣を中心に百済復興をめざして蜂起が起こ る。そして長い間友好関係にあった倭国に百済復興のための救援軍の派遣を要請して きた。ヤマト王権の時の大王、斉明女帝はこれを承諾する。救援軍を承諾すること が、唐をも敵に回すことがわかっていながらのこの判断はあまりにも常軌を逸する ものであった。663年、救援軍(倭の大軍2万7千といわれる)は白村江で新羅・唐 連合軍と会戦し、大敗を喫する。  度重なる外交政策の失敗、そして最後に外交判断の甘さによって倭による「半島支 配(幻想)」は終わりを告げる。これら一連の出来事は昭和時代前半の大日本帝国に 似ているように感じられる。  これ以後、半島から渡来人の流入も途絶えることになる。すなわち、現代日本人の 祖型形成がこれをもって完了するのである。この5年後、668年、さしもの強国・ 高句麗も滅び、新羅が朝鮮半島を統一するのである。

14,

「辰王と征服王朝説」

 江上波夫の征服王朝説が成り立つためには、三韓の時代、南部朝鮮を広く支配し た、なんらかの王がいなければならない。それが辰王であったと江上はいう。3世紀 後半、魏の半島南下政策と衝突し辰王の勢力は衰えて、4世紀前半には百済が建国 され、後半には新羅が成立する。支配地域が弁韓(=任那)だけに縮小した辰王ある いはその系統は打開策として、海を渡って倭国(筑紫)に進出し、いわゆる倭韓連合 王国の王になったという、説である。   しかし、ヤマト王権(大和朝廷)を征服王朝と捉えるよりも、倭王の側近に辰王系

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の人々が主要な位置を占めて外交政策を推し進めていた可能性があるとも考えられ る。その人々が立案した、上記の外交政策を倭王は採用・推進したとも思われる。 辰王の血脈であったり、あるいは伺候していた人々が、馬韓(百済)や弁韓(任那) から招聘されたり逃避したりして倭国に入り、ヤマト王権の側近として重用され、 国際社会の情報蒐集や外交政策の立案に力をふるったことは充分に想定されるのであ る。  古墳時代の渡来人は、主に百済や伽耶から来た。百済や伽耶の支配階層は扶余系の 騎馬民族であった。中国の史書や古墳群などの遺跡からみて、朝鮮南部の土着の民族 集団が支配層に引き連れられて渡来したこともあったであろうが、主要な渡来集団は あくまで、大陸の統治技術や工作技術を身に付けた騎馬民族であったことは間違いな い。  では騎馬民族を中心とした渡来人は、結果としてどれほどの渡来系氏名を倭国に 残し、日本人として同化していったのであろうか。これを教えてくれるのが新撰姓氏 録である。これは平安時代初期、815年に成立したものである。それによると、渡来 系の内訳は次のようになっている。白村江の大敗で半島からの渡来が途切れてから 150年、平安初期段階で渡来系だと申告した貴族はこの畿内圏で326氏族、全体の28 %であった。且つ、扶余系の騎馬民族と見られる氏族は百済系・高麗系・任那系合わ せて、ほぼ60%に達していた。  江上波夫が言うように、「天皇家が辰王系であり、辰王に率いられた騎馬民族が、 大挙して襲来し倭国を征服したという」騎馬民族征服王朝説にはすべて同意すること はできないが、多数の騎馬民族由来の集団が渡来して、日本人の遺伝子にかなりの 影響を及ぼしたということは、事実として証明されたと考えられる。

15,

『記紀』の由来と日本神話

 663年、白村江で新羅・唐連合軍に大敗したヤマト政権は、東軍の日本侵攻を防ぐ ため、急遽防衛力を強化した。しかし、国力のすべてを投入して戦った白村江の戦 以後、列島内では、想像以上の民衆の疲弊、豪族の不平不満などが高まっていた。 当時の王権としては、国内の人身安定や体制の整備こそ喫緊の課題であった。  壬申の乱に勝利した大海人皇子・天武天皇は、強力なリーダーシップのもと、より 中央集権的な律令国家の建設を急ぐのである。中央官僚機構の創設、広域行政単位と しての“国”の建設と国司という中央行政官の派遣、そして自らをはじめて、大王に 替えて天皇と称すなど、改革を一挙に進める。  こういう状況の下、統治者として、自らの天皇として正当性と、日本国民のアイデ ンティティを確立することを考えるのは当然であった。その思いから、天武天皇は 太安万侶に命じ、稗田阿礼が暗誦していた「帝紀」(天皇の系譜)や「旧辞」(古い伝 承)をもとに編集させたのが、712年(元明天皇)に完成した「古事記」である。 「日本神話の特徴」 ①雑穀や芋など縄文農耕に伴って流入したハイヌウェレ型神話が、インドネシアや メラネシアなど南洋の島嶼部を源流にしているのに対し、日本神話の多くの説話が

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中国南部からインド東部のアッサム地方の伝説や民話に源を発している可能性が強く 示唆されている。 ②イザナギ、イザナミ神話は水界との密接な関係がみられ、江蘇省・浙江省という 長江の両岸の地域の漁労民が携えて来た可能性がある。江南の稲作文化をもたらした 人たちが「呉越の民」とよばれ、水稲農耕を営むと共に、漁労を盛んに営む人たちで あった。 ③ヤマタノオロチ退治の神話は、東は日本から西はスカンジナヴィアや西アフリカま で及ぶ広大な地域に分布する「ペルセウスとアンドロメダ型神話」と呼ばれる神話の タイプである。  日本のこの神話は、中国東南部から直接にか、朝鮮半島の南部を経由して、鉄器文 化と結びついて伝播したものと推定されている。それは、浙江省の民間伝説にヤマタ ノオロチ神話とよく似た話があるからである。江南の水田稲作農耕文化を日本列島へ 持ち込んだ集団が、高床式倉庫や鉄器技術などとともにその神話を持ち込んだと考え られる。 ④ギリシャ神話との類似  たとえば、「イザナギの黄泉の国訪問神話」と「ギリシャのオルペウス伝説」の 類似である。ギリシャをはじめとするインド・ヨーロッパ語族系諸民族の神話をユー ラシアのステップ地帯で活躍したスキュタイ騎馬民族が東方の遊牧民に伝え、それが 騎馬民族・扶余族に伝わり、さらにこの日本列島に流入したものとみられている。  縄文時代、弥生時代に入ってきた江南・南洋の説話の上に重なって、印欧語の神話 が入ってきて、それらが融合・再構成を経て、日本神話が成立したと考えられる。 また中国東北部、江南地方、朝鮮半島、フイリッピン、南方諸島から多数の民族が 日本に来住しており、それぞれが持つ神話も融合・再構成されていると考えられる。

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「日本神話のイデオロギー」

 記紀が成立した時代は、統治者であった天皇は、急進的な改革を進めねばならない 時代にあった。この困難な作業を遂行するためには、理論的背景、すなわち過半の 人々を納得させられる普遍的思想が必要であったと思われる。日本列島に最初に政治 的思想が導入されたのは弥生時代であった。それが環濠集落やクニを生み、そして その発展が邪馬台国・卑弥呼の祭祀政治を基本とした連合王国体制である。  その次に登場したのは、各地の勢力・豪族に支えられた古墳時代の大王体制であっ た。この体制は地方分権体制であり、大王の権力は一部に限られており、国としての 総合力も弱く、中国の冊封体制に頼る必要もあったと思われる。そして、小独立国と して力を結集しなければならなくなったこの国は、大王から天皇になった絶対権力の 統治者が、強力な中央集権の国家創造の理論的思想を求めていたのである。  その体系の中に列島各地に伝わった、それぞれの集団あるいは地方の様々な伝承や 説話を拾い集め、統治者としての気配りを織り込んで撰したものが、「記紀」であっ た。天皇のブレーン集団が、扶余族の出身者や扶余族の王(すなわち辰王)らに仕え た官僚エリート層であり、側近として彼らの立案した政策が天皇に採用され、記紀の 編集にもそのイデオロギーが強く貫かれたと考えられる。

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参照

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