岡山大学経済学会雑誌31(1),1999, 19‑ 61
中国東北 の戦後情勢
‑ 国共 内戦 の帰結 と鞍 山の政治情勢‑
松 本 俊 郎
第 1節 は じ め に
(1) 本稿では
,
「満洲国」 (以下 ,カ ッコを とる)が倒壊す る前後か らの中国 東北における国共内戦の推移 ,すなわち鞍山の戦後情勢を規定 していた軍事 情勢を概観す る。中国国民党 と中国共産党の間の内戦は,1949年10月 1日, 毛沢東が天安門で中華人民共和国の建国を宣言 した ことで,一応の決着を見 た。 しか し,東北では これに約11ヶ月 も先立 って,共産党側が勝利を手中に おさめていた。人民解放軍東北野戦軍はI ,1948年9月‑11月 の遼渚戦役(1) で,長春 ,洛陽 ,営 口,錦西な ど残 されていた国民党側 の支配都市を一気に 奪取 した。追いつめ られた国民党軍は11月2日に営 口か ら,錦州周辺の別部 隊は11月9日に萌鹿島か ら,それぞれ海路で天津な ど‑退却 した。 この時点(1)遠洋戦役は,共産党等の内戦勝利を決定づけた三大戦役の第1番 目といわれる。第2 の戦役は1948年11月6日か ら1949年1月10日にかけて徐州 ,海州 (連雲港)周辺を舞台 に戦われた准海戦役であ り,第3の戦役は1948年11月29日から1949年1月31日に北辛 (北京),天津 ,張家 ロの周辺で展開された平津戦役である。各戦役の経過については, 多 くの書籍の中で語 られているOさしあた り,中国人民政治協商会議全国委員会文史資 料研究委員会遠洋戦役親歴記編審組編(1982,1985,1988),中国人民革命軍軍事博物館 編輯 (1987)を参照。三書はいずれ も1995年に復刻 されたが,各書に収録 された主要な 回想記は,台北でも杜孝明等 (1991) として出版 された。
か ら,東北における国民党軍の行動は一部の地下活動に限定 され,東北の軍 事支配権は共産党軍の掌握す るところとなった。
第1図は,遠洋戦役の概略を示 した ものである。同図に添付 された小地図 紘,会戦前の勢力分布を示 している。太 い実線で囲 まれた点在す る諸地域 は,この戦役の直前 まで国民党軍によって支配 されていた。東北最大の工莱 都市渚陽 (奉天) と政治上の拠点都市長春 (新京)は,この会戦が始まる段 階では,いずれ も国民党軍の勢力範囲にあった。そ して鞍山もまた,この遼 渚戦役の中で重要な決戦場の一つ となった。
(2)1945年8月以降の中国東北では,軍事情勢が大要 ,第1表のように推移 したO支配勢力は,第I期の関東軍か ら第 II期の ソヴィニ ト軍‑ と移 り,第
Ⅲ期 ,第 Ⅳ期ではそれぞれ国民党軍 と共産党軍が内戦の指導権を振 った。第
Ⅱ期の支配者は ソ連軍であったが,序盤にあたる1945年9月には共産党軍が 国民党軍に先行 して東北‑の進駐に成功 し,その地盤を強化 したo後れを とった国民党軍 も同時期の中盤にあたる1945年10月下旬か ら東北‑の派兵を 実現 し,1946年1月か らは本格的に進軍を押 し進めた。
国民党軍は,同年3‑ 4月にはソ連軍が撤退 した後 を襲 って勢力を拡大 し,東北の中心地洛陽 (3月13日),長春 (4月18日)な どを掌握 した (唐培 吉主編,1997:483,486ページ)。ソ連軍は松江 ,合江 ,赦江 ,黒竜江 ,興安 の北部5省を除 くと,1946年5月には撤退を完了 し,国民党は東北で優勢な 地位を築 くことに成功 した (第 Ⅲ期)0
共産党軍は1947年5月か らの連続的攻勢に よって劣勢を跳ね返 し,1948年 9‑11月の遠洋戦役 (9月1日〜11月2日)で,東北の支配権を完全に奪還 した (第 Ⅳ期)(2)。
各時期に戦われた主要な戦役は,第
1
表中に示 してある。舞台 となった地 域については, 1)秀水河子戦役を除 く各戦役の概略図を,末尾に附録 として一括掲載 した。参照 されたい。
国民党軍の進軍が本格化 した第 Ⅰ期の終盤には 1)秀水河子戦役 (1946年
中国東北 の戦後 情勢 21
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2月13日〜14日)が戦われ ,第 Ⅲ期では2)保衛 四平戦役 (1946年4月17 日〜 5月18日,附録第1囲), 3)新開嶺戦役 (1946年10月31日〜11月2日, 附録第2図),4)三下江南臨江戦役 (1946年12月〜1947年4月3日,附録第
3図) と,大規模 な会戦 が続 いた。第 Ⅳ期 では共産 党軍 が 5) 夏季攻 勢 (1947年5月13日〜 7月1日,附録第4図),6)秋季攻勢 (1947年9月15 日〜11月5日,附録第5図), 7)冬季攻勢 (1947年12月15日〜1948年3月 15日,附録第6図)を連続的に遂行 し,8)遠洋戦役 (1948年9月12日〜11 月2日,第 1図)に よって東北におけ る国共内戦は,ようや く終息 した。
各戦役 の概況については後述す るが,最初の
4
つの戦役は,国民党軍が攻 勢的に北上す る中で戦われたO秀水河子戦役の ように共産党軍の反撃が成功 した こともあったが ,戦線は基本的に,国民党軍に よって北方へ押 し上げ ら れていった。戦場は第 Ⅱ期の後半に東北の中部か ら松花江の沿線にまで北上し,第 Ⅲ期の末期にな って一時 ,豚著 したO
残 りの
4
つの戦役は,共産党軍が行 った本格的な反攻であった。 ここで も 国民党軍の側か らの反撃に よって共産 党軍 が斥け られ る ことは何度か あ っ た。 しか し,戦線は洛陽 ,長春 ,鏑州 ,営 口‑ と,基本的に南方に向か って 収縮を繰 り返 した(3)0第 2 節 日本の降伏 とソ連軍の東北支配
(1) 8月8日,ソヴィニ トは 日本に対 して宣戦を布告す ると,9日未明,顔
(2)国共内戦の全国状況については,① 「平和 と民主主義の新段階」(1945年8月〜1946
年6月),②国民党軍の進攻時期 (1946年7月〜1948年6月),③ 中共軍 の反攻 の時期
(1947年7月〜1948年6月),④中共軍が戦略的な決戦に出て全面的な勝利を収めた時 期 (1948年7月〜1949年9月),とい う4時期に区分 されることが多い (音沢,1978:
16‑17ページ)。 しか し,本稿が これか ら指摘す るように,東北における国共 の力関係
‑軍事情勢には,特に第①期 ,第②期の途中において,米 ソの戦略が絡んだ大 きな質的 変化があった0
中国東北 の戦後情 勢 23
第1表 東北な らびに畷山におけ る国共 内戦の推移
東北情勢 (大時期区分) 重 要 戦 役 敬山情勢 (中時期区分) 桜山情勢 (小時期区分)
Ⅰ期 :関東軍 1期 :関東支配期 (む関東〜45軍年 8月中旬 1l期 :ソ連軍 2期 :ソ連軍支配期 ②ソ連軍
cf.46年 10月
1
2日 , 東
北行営,長春月1党軍に洛陽かを要9日,ソ連軍求.
進 ら 駐 , の 共 撤 . 産 退 l l
45年 8月21日〜cf.46年3月14日, ソ 1)秀水河子戦役 ③共産党軍 (東北人民自
連軍,渚陽撤退.4月 46年2月13日 沿革)
14日,長春撤退. 〜 2月14日 43月上旬6年 2月下旬 .中旬〜
m
期: 攻 勢 的 国 民 党 軍
2)保衛四平戦役 3期 :国民党軍支配期 ④国民党革cf.4
6 年 5 月 3 日 ,
ソ 46年 4月17日 46年 4月 2日〜連
写 , 東 北 か ら の 撤退 〜 5月18日 ⑤共産党軍 (東北民主聯
完
了 を 宜 言 . 4 6 年 6 月 翠)
中 下 旬 , 戦 線 は 一 時 屡 46年5月25日〜 着 .
④国民党46年6革月1日〜
/ /
3)46新年、開嶺戦役1101月31月 2日日〟
4)三下江南四保4〜6臨江戦役年147年 42月1月7日3日Ⅳ期 :攻勢的共産党軍 5)夏季攻勢第4第477年〜年〜1段階2段56月上旬67月1階月1月 1日3日1日
′ ′
6)秋季攻勢47年 9月1〜11月 55日日/ /
7)冬季攻勢第 14〜 第
7年4 2 8
段階年1段2月1階1月5日7日 4期 :共産党軍 (東北人 ⑦共産党軍 (東北人民解 48年〜 31月月1315日日 民解放軍)支配期 放軍)48年2月19日〜註記.共産党軍の名称の変更については,本文を参照.
資料.着実察文芸研究会編輯(1992)120,142,168.194,238ページ,中国人民革命軍事博物館編輯 (1987)137‑138,159‑160,173‑174,189‑190,199‑200,205‑208ページ,李英主編 (1995)1410‑1413,1446‑1448,1456‑1459,1493‑1496,1509‑1512,1537‑1540,1597‑
1604ページ,郁 ・王 ・劉(1987)209,224,236‑238,246‑248,256‑259,272‑274ページ, 等 よ り作成 .
甲兵力を以て東 ,北 ,西の三正面か ら電撃戦を開始 した。 ソ連軍は戦後の対 米交渉を有利に導 くために,進攻作戦を迅速に遂行す ることに こだわ った。
当初の数 日間の全力進攻を終 えると,機 甲部隊の多 くは水 とガソリンの不足 か ら進軍の足が鈍 った。 しか し,極東軍総司令部は突撃が可能な快速車両を か き集めて先遣支隊を魁織 し,突貫的 な前進作戦 を強行 した (中山隆志 , 1990:432ペ ージ ;徐煩,1993:105ページ)。空挺部隊に よる拠 点都市 の確 保 も,敏速に行われた。 ソ連軍は8月18日に吟爾潰 (‑ル ビン)杏,19日に 長春 (新京),渚陽 (奉天),斉斉吟ホ (チチ‑ル),永徳 ,書林を,8月22日 には旅順 ,大連を占領 した。 ソ連軍は進攻作戦の開始か ら約2週間 ,日本の 敗戦か らはわずかに
1
週間の うちに,東北の枢要地を最南端部に到 るまで席 巻 した(4)0関東軍総司令部が置かれていた長春は,8月19日に ソ連軍に よって占領 さ れた。関東軍に よる抵抗はその後 も8月末 まで局地的に続いたが ,関東軍総 司令部は8月22日に ソ連軍に よって接収 され ,同 日,関東軍総参謀長秦彦三 郎中将 と極東 ソ連軍総司令官 ア ・エム ・ワシ レフスキー元帥の間で停戦協定 が結ばれたo関東軍24個師団の内,主力が戦闘に加わ ったのは6個師団で, 一部が交戦 した部隊が6個師団,残 りの12個 師 団は参戦 にいた らなか った (中山隆志,1990:46‑48ペ ージ)。総司令官 山田乙三大将以下 の幕僚たち
(3)鞍山は ,国民党に よって支配 された時期が ,東北諸地域の多 くに比べ ると,相対的に 長か った。鞍山は,東北にあっては南方に属 し,かつそ こには巨大な鉄鋼基地が存在 し ていたか らである。国民党軍は篠山を,1946年4月2日 (第 m期の初期)か ら1948年2 月19日 (第 Ⅳ期の中盤)の時期にわた って占領 した。共産党軍は1946年5月25‑30日の 畷海戦役 (桜山 .海域)で数 日,桜山を占拠 したが,国民党は第 In期についてはほ とん ど全期間にわた って同市を支配 したO牧山はその後 ,第 Ⅳ期の中盤に共産党軍に よって 奪取 された (1949年2月19日)01948年10月6日か ら10月31日 (第 Ⅳ期の終盤) にか け て ,国民党軍は再び 同地 を一 時的 に奪還 したが ,国民党 に よる鞍 山支 配 は基本 的に 1948年2月19日の時点で終了 した (松本,1997)。
(4)日本の敗戦に前後す る極東 ソ連軍 と関東軍の動向については,中山隆志 (1990)が部 隊別の戦闘状況を詳細 に明らかに している。
中国東北の戦後情勢 25
は, 9月6日,瞭爾演を経 由 して‑バ ロフス クへ連行 され た (鈴木隆史 , 1992:422ページ)0
この間 ,皇帝浮儀は,関東軍の勧告に したが って朝鮮 との国境にある臨江
‑遷都を実施すべ く,8月13日に長春を離れた。浄儀 は翌14日に臨江近郊の 大乗子‑到着 したが,同 日,日本はポツダム宣言を受諾 した。 8月15日には 日本の降伏を明らかにす る玉音放送が伝 えられ ,薄儀は豪産先の大栗子で退 位 の表 明を余儀な くされた (18日)。 日本‑の脱出をはか った博儀 は, 8月 19日,飛行機を乗 り継 ぐために立ち寄 った奉天飛行場で,ソ連軍に よって身 柄を拘束 された (満蒙 同胞援護会編,1962:51‑55ペ ー ジ ;鈴木 隆史 , 1992:419‑422ページ ;山室信一,1993:273‑274ペ ージ).満洲 国 とそれ を支えてきた関東軍は,相ついで,ここにその終蔦を迎 えた。
( 2 )
圧倒的な軍事力を持つ ソ連軍の存在は,東北の政治情勢を複雑に した。社会主義国 ソヴィェ ト連邦 の対中政策は二面的だ ったか らである。 ソヴィニ トは,反共政策を強行す る国民政府 とイデオ ロギー上は対立 していた。極東 ソ連軍は,国民党軍の東北進駐を妨害 し,押収 した 日本軍の武器を共産党軍 の手に引 き渡すな ど,延安政権に対す る支援を様 々な形で行 った。 しか し, 他方で,ソヴィニ トは,国民党軍の共産党軍に対す る軍事的な優位 とアメ リ カの国民党に対す る支援策を考慮 して,中国の政府代表権を重慶国民政府に 認め,これに対す る支持を公式に表 明 していた。
1945年8月頃の比較でいえば,国民党軍は約430万人の規模 で あ ったが , 共産党軍の隊列は約128万人にす ぎなか った。両軍の間の装備 の質 的な格差 は,さらに歴然 としていた (姫 田 ・安部 ・上原 ・高橋 ・前 田,1982:499ペ ー ジ).国民党 とソヴィェ トは1945年6月か らモス ク ワで外交交渉 を重ね , 1945年8月14日には中 ソ友好同盟条約を締結 した。同条 約 の覚書 は,「ソ連 は精神的支持 と軍事的援助 とを 『中国の中央政府たる国民政府』に対 しての み輿えることを約束 し,かつ満州におけ る中国の主権を確認」 していた (ア メ 1)カ国務省,1949:149ペ ージ).加えて,スター リンは,毛沢東が追究 し
ていた農民運動を主体 とす る革命運動を似非マル クス主義 (「マ ーガ リン塑 共産主義」
,
「赤皮の自身大根」 )
として軽ん じていた (徐煩,1993:248ペ ー ジ)。 ソヴィニ トの こうした屈折 した立場は,国民政府 と延安政権 に対す る ソ連軍の政策を何度 も変更 させ ることにな った (後述).そ して,繰 り返 され た ソ連軍の対中方針の転換は,鞍山の製鉄所に対 して も大 きな影響を与えることにな った(5)0
(3)重慶国民政府 と延安政権は ,それぞれ8月下旬にな ると,日本の降伏を 予測 して戦後対策を模索 し始めた。蒋介石は8月14,20日,23日の三度にわ た って延安の毛沢東に手紙を送 り,重慶で戦後処理について討議す ることを 提案 した。不測の事態を恐れた毛沢東は,当初 ,朱徳や周恩来を代行で派遣 しようと考 えたが ,モスクワか らの圧 力 を受 け て , 自ら交 渉 に臨む ことに な った。交渉は8月25日に始 ま り,10月10日に 「国民政府 と中共代表会談紀 要」 (「双十協定
」 )
が調印 され るまで,43日間続 け られた (徐煩,1993:136‑138ペ ージ)。しか し,この平和交渉の過程で国民党軍は,晋巽魯濠解放 区の山西省南部地区にあった長治 (旧称 上党)一 帯 を攻撃 し (上党戦役 , 1945年9月10日〜10月12日)(6),双十協定が調印 され た前後 において も東北
‑の入 口に位置す る河北省 ・河南省の解放区に攻め込み (甘隅『戦役 ‑平漢戦 役,1945年10月21日〜11月2日),山東省の津浦線沿線では江蘇省最北部 の
(5)ソ連軍は共産党軍や国民党軍か らの度重なる引き渡 し要求 を斥けて ,製鉄所を 占有 し続けた。 ソ連軍は,大量の施設をシベ リア方面‑運び出 しながら,同時に,製鉄事業 を国民党 との共同経営に移そ うとする合弁化計画を追及 した (1945年10月 中旬〜1946 年2月中旬)。ソ連軍は,この過程で1945年10月 ,同年12月,1946年1月の3度にわたっ て,共産党軍の勢力を製鉄所の敷地内か ら排除 し,時には横棒的に国民党側を支援 した
(松本,1995:228‑229ペ ージ ;同1997:237,246‑250ページ)O
(6)上党吸役は,日本の降伏後に行われた最初の本格的な軍事対決であった。国共両軍は 軍事的な戦果をあげて垂慶での蒋介石 ・毛沢東会談を有利 に運 ぼ うと, 3次 にわた っ て激 しい戦いを繰 り広げた (9月10日〜20日,9月20日〜10月6日,10月8日〜12日)0 戦役は,結局 ,共産党軍が閣錫山の率いる国民党軍を撃退 して収束 した (李英主編 , 1995:1399‑1401ページ ;中国人民革命軍事博物館編韓,1987:135ページ)0
中国東北 の戦後情 勢 27
徐州を起点に軍隊を北上 させて,新四軍が支配す る解放区の分断をはか った (津浦路戦役 ‑津浦路狙撃戦,1945年10月初旬〜1946年1月13日)。他方 ,普 察巽軍区 と晋綴軍区では共産党軍が,内蒙古省の呼和浩特 (旧称帰粧),包頭 一帯や山西省大同一帯の奪還を 目指 して,攻撃を行 った (緩速戦役 ‑平綬路 戦役,1945年10月18日〜12月4日)。同地域に対 しては,同年8‑ 9月に国民 党軍が攻撃を仕掛け,日本軍が組織 した綴蒙軍6万余人を自軍に取 り込んで いた(7)。重慶での交渉を優利に運ぼ うと両軍は死力を尽 したが,これ らの戦 役は,いずれ も守備側が攻撃側を撃退す ることで収束 した。国共の内戦が短 時 日の うちに終結することはあ りえない とい うことが ,誰 の 目に も明瞭に なった。
東北問題に先手を取 ったのは,延安政権であった。 これ より先,1942年8 月の時点に,ソ連領内では関東軍 ,満洲国軍の厳 しい弾圧を逃れて北上 して いた抗 日聯軍の残存部隊が,東北抗 日聯軍教導旅‑国際赤軍第88旅団として 再組織 された (旅団長は元抗 日聯軍第2路軍総指揮官周保 中)。東北抗 日聯 軍教導旅は,ソ連軍の進攻作戦に同道 して,東北‑帰国 した。旅団長周保中 は1945年6月2日,ソ連軍か ら対 日作戦の意図を伝えられ ,地勢や関東軍の 配備に関する情報の提供を要請 された。 しか し,進攻作戦の中での同旅団の 役割は,偵察部隊 として極東 ソ連軍に協力をす るだけのものだった。東北抗 日聯軍教導旅が延安の指揮下に編入 されて積極的に軍事行動をとることがで きるようになったのは,1945年10月下旬以降のことであった (徐焔,1993:
112
‑
117ペ ージ ;劉銃,1997:8ペ ージ ;壕漸進1998:2381241ペ ージ)o(7)郁邸戦役については李英主編 (1995:1406‑1409),中国人民革命軍事博物 館編輯
(1987:136ペ ージ),中国人民解放軍通鑑編輯委員会編 (1997,1123‑1124,1128‑ 1129ペ ージ),津浦路戦役 については郡 .王 ・劉編 (1988:206ペ ージ),中国人民解放 軍通鑑編輯委員会編 (1997,:1121‑1122,1145‑1146ペ ージ),緩速戦役については李 英主編 (1995:1402‑1405ペ ージ),中国人民解放 軍通鑑編輯委 員全編 (1997:1137
ペ ージ) を参照。
ソ連軍の進撃に際 しては,この他にも,李兆麟や王貴明といった 「華人赤軍 士官」率いる赤色精鋭部隊が,シベ リア方面か ら吟爾潰 ・松江地区,斉斉吟 ホ ・黒竜江地区に進軍 し,関東軍 ・満洲国軍を攻撃 した (香島明雄
,1 9 9 0:
1 5 6
ページ)0ソ連軍の進攻 と‑体 となった帰還の動 きとは別に,8月下旬か ら9月上旬 にかけて,共産党軍は東北‑の進軍を企てた
08
月1 0
日か ら11日にかけて毛 沢東は朱徳の名義で,矢継 ぎ早に7通 (1‑ 7号命令) の指令 を通達 した (原文については李嘉谷編,1 9 9 7:6 6 1 16 6 3
ページを参照)。朱徳 (毛沢東) は,第1‑5
号命令で関内の各部隊に東北へ近づ くことを命令 した。そ し て,第6号命令では,東北への介入がさらに構極的に指示されたO華北の朝 鮮人義勇隊 (武亭司令官)に対 して,八路軍ならびに関内にいた東北軍の各 部隊を引き連れて東北‑進軍 し,満洲国の勢力を一掃するとともに,東北在 住の朝鮮人を組織 して朝鮮の解放を達成す るよう,命令が下 されたo朝鮮人 部隊には,政治工作に必要な 日本語力が戦闘能力の一部 として期待 されてい た。毛沢東は,国民政府 とソヴィニ トが調印 した中 ソ友好同盟条約の中で, 東北の行政権が国民党政権に認め られた ことを知 っていた。 しか し,毛沢東 は,同条約を根拠に ソ連軍が八路軍の東北進駐を阻止するか どうかについて 判断がつかなか った (徐焔,1 9 9 3:1 4 4
ページ)。朱徳 (毛沢東)の7
通の指 令には,彼 らのモスクワに対す る期待 と不安が込められていた。朱徳の命令を受けて,八路軍の山東部隊 と新 四軍 の一部は ,駅西留守部 隊 ,抗 日軍政大学学生 ,各地の抗 日潜撃隊 とともに8月下旬か ら9月初旬に かけて東北‑進軍 した。主力 となった巽東軍区第
1 6
分区司令官克林が率いる 1, 5 0 0
人の部隊は,9月4日,洛陽に入城 した (中国人民解放軍通鑑編輯委員 会編,1 9 9 7:1 1 0 9
ページ)0東北‑移動 した共産党軍は,中 ソ友好同盟条約に縛 られたソ連軍‑の配慮 か ら,新たな軍隊名を用いるとい う便法をとった。 9月
1 4
日午前 ,延安に飛 来 した ソ連軍ベ ロウ‑ソフ (貝魯羅索夫)大佐は,マ リノフスキー元帥の意中国東北の戦後情勢 29
向として,八路軍に対す る 「深い同情の念」を表 明 した うえで (「抱深厚之同 情」),東北か らの八路軍の撤退を朱徳総司令官に申 し入れた。極東 ソ連軍か らの伝達を受けて,急速 ,臨時中央政治局会議が開催 され ,激論が交わ され たO この時 ,毛沢東は,双十協定をめ ぐる蒋介石 との交渉のため重慶に出向 いていた。毛沢東に代わ って会議を主催 したのは,劉少奇党主席代理であっ たO政治局は,最終的には同 日夜になって,ソ連軍の顔を立てなが ら,戦闘 部隊を引 き続 き東北‑増派す ることを決議 した (徐焔,1993:145‑149ぺ‑
ジ ;劉銃,1997:26‑29ペ ージ)0
9月19日,延安では,朱徳 の第6号命令に基づいて港陽‑の進軍をいち早 く果た していた骨克林が呼び戻 され ,政治局会議が開かれた。 この政治局会 議では,東北お よび熱河省 ・察喰爾 (チ ャ‑ル)省の掌握を優先す る 「北進 南防戦略」(「向北発展 ,向南防御
」 )
が決定 された (石井,1990:22‑23ペ ー ジ,中国人民解放軍通鑑編輯委員会編,1997:1111ページ)。10月13日,共産 党中央は,すでに派遣 されていた巽東の黄克誠部隊3万5千人 と,山東に待 避 していた東北部隊3万人に加えて,山東の新四軍か ら 5万人を第 2期分 として東北‑派遣す ることを決定 した (中国人民解放軍通鑑編輯委 員会編 , 1997:1119ペ ージ)D
既述の ように1945年8月25日か ら10月10日まで,重慶では国共両党の間で 双十協定の調印に向けて折衝が続け られていたo Lか し,東北の支配権を確 保 しようとい う共産党の基本戦略は,放棄 されていなか った。東北を奪取 し ようとす る共産党の姿勢には,1945年秋 の段 階 において も揺 るぎがなか っ
た 。
東北へ進入 した八路軍 と新四軍は残存 していた東北の抗 日部隊 と合流 した が,彼 らは こうした経緯をふ まえて,1945年9月か ら東北 人民 自衛軍 を名 乗 った。東北人民 自衛軍 ,中共東北局の本部は洛陽に設置 された (1945年9 月4日)。ソ連軍の総司令部 (1945年8月22日,関東軍司令部接収)と国民党 の東北行営 (1945年10月8日,関麟為東北保安司令長官の着任 ,同12日,熊
式輝東北行営主任 の着任) は長春 に設置 されたが ,共産党軍 の指導部 は彼 ら との同居 を避 けて洛 陽に設置 (維持) され , 内戦 の指 揮 を執 る こ とに な っ た。東北 人民 自衛軍 は ,そ の後,10月31日に中共 中央 の決定 で東北人民 自治 軍 とな り,翌1946年1
月1
4日に林彪総 司令 を指揮官 とす る東北民主聯軍 とし て再阻織 された。 同軍 はその後 も1948年1月
1日に東北人民解放軍 ,同年11月
1日に人民解放軍東北野戦軍へ と改編 され ,翌1949年1月1
5日には人民解 放 軍 第 四野 戦 軍 ‑ 編 成 替 され るな ど,阻 織 変 更 を く り返 した (唐 主 編 , 1997:475,480,527,547‑548,554ペ ージ ;郭 卿 友 主 編,1990:1633‑1646ペ ージ ;川 島弘三,1990:15ペ ー ジ以下 ;徐 煩,1993:130ペ ー ジ以 下 ;中国人民政治協商会議全 国委員会文史資料研究委員会遼渚戦役親歴記蘇 審観編,1995b:2ペ ー ジ ;石 井,1990:20‑21ペ ー ジ ;香 島,1990:
155‑156ペ ージ ;平松茂雄,1998:60‑61ペ ‑ジ)0
共産党軍 は ,八路軍や新 四軍 とい った本来 の軍隊名称 を使用 しない ことに よって , ソ連軍 が中 ソ友好 同盟条約 に違反 しないため の形式 的な 「条件」 を 整 えた。 しか し,東北 ‑ の共産党軍 の実質 的な進軍 とそれ を容認す る ソ連軍 の対応 は ,国民政府 とアメ リカか ら強 い反 発 を 招 くこ とに な った.11月19 日, ソ連軍 は中共東北局 に対 して洛 陽な どの大都市 か ら撤退す ることを強 く 求めたが ,その背景 には ア メ リカを巻 き込 んだ蒋介石か らの執物 な抗議活動 があ った(8)011月20日,延安 は ソ連軍 に押 し切 られ て ,東北人民 自治軍 の長
(8)11月5日,東北行営主任熊式輝はソ連極東軍総司令官マ1)ノフスキー元帥に対して 国民党軍が東北を掌握できない状況に関する強い不満を表明し,接収に非協力的なソ 連側の責任を追及した011月15日には蒋介石が トルーマン米大統領に救援要請の電報 を打ち,11月17日にはアメリカ軍の支援の下,米軍式の装備をまとった2個軍団が山海 閑の共産党軍を制定したCアメリカが東北‑介入する姿勢を見せたことは,ソ連等が態 度を変更するための大きな契機となった (徐煩,1993:165‑166ページ)。国民党側は この時,東北行常を長春から撤退させることをほのめかして,ソ連軍に態度の変更を 迫った。その後の対ソ交渉で国民党が東北の主要都市へ派兵を実現 していった過程に ついては,交渉に任に当たった張公権の日記をもとに,石井(1990)が詳細に明らかに
している(51‑56ぺ‑ジ)0
中国東北の戦後情勢 31
春鉄道沿線な らびに大都市か らの撤退 と地方での拠点づ くりを決定 した。正 面 の大道を譲 って母屋の両側を獲 るとい う
,
「譲開大路 ,占領両席」の方針で あるO もともと共産党軍は東北の拠点都市に進駐す る国民党軍の動 きを阻止 す る軍事方針を持 っていた。11月下旬の時点で,この方針は ソ連軍の圧力に よ り,い ったん撤回されたのである (劉統,1997:84‑87ペ ージ ;中国人民 解放軍通鑑編輯委員会編,1997:1133ペ ージ ;唐主編,1997:477ページ)O( 4 )
一方 ,垂慶国民政府は1945年8月31日,
「修復東北各省処理新法要綱」を 決定 し,東北を接収す るための行政機構 の整備に取 りかか った。同要綱の方 針に基づいて国民党は,9月1日に東北行宮 (こうえい)ならびにその付属 機関である政務委員会 と経済委員会を長春に設置す ることとし,遼寧省 ,書 林省,黒竜江省の東北3省を新たに9省 に分割す る統 治方針 を明 らか に し た。 9省は遼寧 ,安東 ,遼北 ,書林 ,松江 ,合江 ,黒竜江 ,赦江 ,興安か ら な っていた0 9月4日には東北行営 ,経済委員会 ,新9省の主要な人事が決 定 され ,東北行営主任兼政務委員会主任委員には熊式輝上将が,東北行営経 済委員会主任委員 (中国鉄道理事長兼任)には張公権 (張嘉攻)が就任 した (朱漢国主編,1992:905‑908ページ ;石井 明,1990:27ペ ー ジ ;香 島明 雄,1990:255ページ ;陳立文,1998:1053ペ ージ)0しか し,国民党等の東北‑の進軍は,共産党軍に比べ ると,大幅に立ち遅 れた。 8月14日に調印が終わ ったばか りの中 ソ友好同盟条約では,附属文書
「中 ソ共同の対 日作戦におけ るソ連軍東三省進入後の ソ連軍総司令官 と中国 行政当局の関係についての協定」 (「関子中蘇共同対 日作戦蘇聯軍隊進入東三 省后蘇軍総司令官与中国行政当局関係之協定」)の中で, 日本 の降伏後3ヶ
月以内に ソ連軍は東北か らの撤退を完 了す る とい う了解 が交 され た。撤退 は,交渉の過程で,降伏後3週間以内に開始 され ると合意 されたO これ らの 内容が煮詰め られた
8
月中旬の第2
次モスクワ交渉について,蒋介石や国府 側の外交当局は,ソ連側が条約を履行す るか どうかについて不安を抱 きなが らも,その内容を積極的に評価 していた。熊式輝東北行営主任は, 9月下旬に到 るまで ,ソヴ ィニ トが同条約にのっとって東北の行政権を国民党側に渡 すであろ うとい う楽観的な見通 しに立 っていたo重装備の国民党軍を大量に 輸送す るためには大型の艦艇が必要 とな るが ,これ を 自軍 に保持 していな か った ことも,国民党軍が東北‑の進軍をほか る上では大 きな制約 とな った (先主編
,1 9 9 3:9 0 1 ‑9 0 3
ペ ージ ;石井,1 9 90:2 7
ペ ージ ;香 島,1 9 9 0:
1 5 4 ‑1 5 5,2 5 5 ‑2 5 6
ペ ージ)o国民党は ようや く1 0
月中旬にな って,米軍の艦 艇を使 った大連‑の上陸を認可す るようソ連軍に求めたが,この申 し出は拒 絶 された。 ソ連軍は大連の代わ りに営 口の使用を認めたカ㍉ 事前に同地を八 路軍に引き渡す ことに よって,実質的には国民党軍の海上か らの北上を阻止 す る方策を とった01 9 4 5
年1 0
月7
日,国民党 の東北行営副参謀長董彦平は,4 0
数名の政府職員 を引 き連れ ,北京か ら空路 ,長春へ降 り立 った (董彦平,1 9 8 2:2 5
ページ)Q 同月8
日,関麟征が東北保安司令長官 として長春へ派遣 され(
10
月2 6
日に杜 華明 と交替),1 2
日には東北行営主任兼政務委員会主任委員熊式輝 ,外交部 特派員蒋経国 らが これに続いた (朱主編,1 9 9 3' .9 1 0 ‑9
11ペ ージ)。東北行常 は ようや く長春の地に体制を整 え,1 9 4 5
年1 0
月中旬 ,極東 ソ連軍 との間で東 北の接収に関す る外交交渉を本格的に開始 した。国民党の東北への進軍が共 産党軍に比 して,2ヶ月余 りも遅れを とった といわれ るゆ えんであ る (徐 焔,1 9 9 3:1 5 6
ページ)O( 5 )
アメ リカの対中政策 も,1 9 4 5
年の後半に大 きく転換 した。 アメ リカは, 大戦中か ら一貫 して国民政府に対す る支援を続けていたが ,しだいに全面的 な軍事援助については これを見直 し,国民党に共産党に対す る一定 の妥協を 迫 るとい う,柔軟な方策を執 るようになった。 アメ T)カは1 9 4 5
年秋か らの一 連の内戦を分析 し,国民政府が短期間の うちに軍事的な勝利をおさめること は不可能であると判断 したoそ して,アメ 1)カは,国民党の強硬路線が続 く ならば ,国民政府の国家財政の破綻 と社会的な混乱が助長 され ,これに よっ て共産党が中国社会の中で影響力をます ます拡大 してい くであろ うと危供す中国東北の戦後情勢 33
るにいた ったのであるO
日本が降伏 した
1 9 4 5
年8
月の時点で ,アメ リカは ソヴ ィニ トと同様 に ,国 民党軍 の共産党軍 に対す る軍事的な優位 について確信を持 っていた。そ して 国民政府が持 っていた数億米 ドルにのぼ る外貨準備 ,さらには国民党に よる 関内の財源地支配を根拠に して ,国民党軍 の戦局の前途 を明る くとらえてい た。1 9 4 5
年8
月時点 の準備高は中国に とって史 上最 高 の額 で あ った といわ れ,1 9 4 5
年1 2
月3 1
日現在 の準備高は9
億 ドル以上の水準に達 していた。豊富 な外貨 は ,国民政府が法幣 で立 て替 えていた米兵に対す る賃金立替払に対 し ての米国政府か らの戦費支払 い,米国か らの借款 ,そ して民間 の外 国為替か らな っていた。国民政府は こ うした外貨準備 の大部分を ,輸入の決済に充て ることがで きた。軍需物資 を大量に購 入す る こ とは ,財 政 的 には容 易 だ っ た。工業施設が集中 していた東北や台湾が ,中 ソ友好 同盟条約や台湾の地理 的位置に助け られて国民政府 の手に帰す であろ うと想定で きた ことも,アメ リカの楽観的な見通 しを支 えていた (アメ リカ国務省,1 9 4 9:1 6 4 ‑1 6 5
ペ ー㌔)O
アメ リカは
1 9 4 5
年9
月3 0
日,陸戦第 1師団を山東省唐清に上陸 させ ,煙台 周辺に太平洋艦隊 の艦艇を集結 させた (唐主編,1 9 9 7,4 7 2 ‑4 7 3
ペ ージ)。ア メ リカは北平 ,天棒 ,唐 山地 区に進駐 し,河北省や山東省の共産党軍支配地 域を圧迫 した。共産党軍 の東北‑ の進軍を支 えていた これ らの地域 に圧力を 加えて ,国民党軍 の活動 を支援す るためであ ったo駐華米軍 の兵力は,1 9 4 5
年1 2
月1
日までに1 0
万人の規模 に達 した (吉沢南,1 9 7 8:3
ペ ージ)(9).この間の米軍 の積極的な介入に よって, ソ連軍は東北行常に対す る譲歩 の 姿勢を強めた (既述)。 しか し,この期間におけ る国共間の直接的な抗争 は,
(9)1948年2月にマーシャル国務長官が両院外交委員会の席で明らかにした声明によれ ば,アメリカは約5万5千人の陸戦隊を華北に上陸させ,鉄道と炭鉱の警備にあたって いた (アメリカ国務省,1949:454ページ)0
一進一退を続けた。 アメ リカは国民党軍の勝利に対す る期待を裏切 られ ,対 中戦略 の見直 しを迫 られ る ことにな った。 トル ーマ ン大統 領 (President HarryS.Truman)は,1945年11月27日,戦局の見通 しを誤 った駐華大使‑‑
レ‑少将 (Maj.Gen.PatrickJ.Hurley)を更迭 し,マ ー シ ャル将軍 (Gen.
GeorgeC.Marshall,陸軍退役)を大便待遇の特使 として中国‑派遣 した。
マーシャル将軍は後 に 「マーシャル計画」を遂行 し,ヨー ロッパの戦後政治 を動か したマーシャル国務省長官 (1947年 1月就任) と同‑ 人物 で あ る.
マーシャルは 「『平和的 ・民主的な方法に よる中国の統一』 がで きるだけ早 急に達成 され るよう米国の影響力を及ぼす こと,あわせて中国の内戦 ,なか んず く華北における内戦を停止せ しめるよう」命令を受 け
,
「蒋介石及 び中 国の他の指導者たちに・・・『内戦に よ り分裂 している中国』は,借款 または技 術援助の形での米国の経済的援助に とって も,乃至 は米国 の軍事 的援助 に とって も,決 して適当な国でない旨を説 明す る権限を与えられ」ていた (ア メ 1)カ国務省,1949:168ぺ‑ジ)0日中戦争末期のアメ リカには,①中国共産党のモスクワか らの離反を意図 した中共協力論 ,②国民党を中央政府の主流 とす るための国共連立構想を含 んだ国民党改革論 ,③蒋全面援助論 ,とい う3つの選択肢があ り,実際に執 られた対中政策は後2者の間を括れ動いていた (吉沢,1978:3ペ ージ)0
‑‑ レ一時代の対中政策は,蒋政権無制限援助論 ,中国問題‑の全面介入 , そ して在中アメ リカ軍の直接的な援蒋活動 ,にそ の特徴 が あ った。一方 , マーシャル時代の対中政策は,国民党 に対 して共産 党‑ の一定 の妥協 を迫
り,財政破綻 と社会的な混乱を回避 しようとしたo駐華責任者が‑‑ レーか らマーシャル‑ と交替 した ことは,国民党軍の力の限界が露呈 した ことを契 機に して,アメ リカの対中政策が ,③ の立場か ら②の立場‑移行 した ことを 意味 していた。
(6) 1月 5日,国民政府代表張群将軍 (後 に張治中将軍),中共代表周恩来将 軍 , トルーマン米国大統領特使マーシ ャル将軍 の三者 に よって構成 され る
中国東北 の戦後情勢 35
「軍事三人小阻会談」(三人委員会)が発足 した。1946年1月10日,国民政府 は停戦命令を布告 し,同17日,北平には軍事調停処執行部が設立された (国 民党代表鄭介民,共産党代表菓剣英 ,アメリカ代表 ロバー トソソ‑羅伯遜 , 唐主編,1997:480ページ)O
三人委員会の動 きと平行 して, 1月10日,重慶国民政府の大礼堂で双十協 定の実践を 目的 として政治協商会議が開かれ,停戦を求める各界の代表の間 で話 し合いが行われた。会談の出席者は多様だ った。代表は国民党8名 (疏 料 ,呉鉄塊 ,陳布雷 ,陳立夫 ,張群はか),共産党7名 (周恩来 ,董必武 ,王 君飛 ,菓剣英 ,呉玉章ほか),中国青年党5名 (曾靖 ,陳啓天はか),民主同 盟9名 (張潤 ,羅隆基 ,章伯飲 ,沈欽儒 ,黄炎培はか),無党派人士 9名 (美 徳恵 ,郡従恩 ,王雲五 ,郭抹若はか) か ら構成 された (李勇 ・張仲 田編 , 1988:84‑85ページ,朱主編,1993:923‑924ページ)0
反共反 ソの中国青年党 と国民党の一党独裁に反対する民主同盟は,それぞ れ国民党,共産党に近い立場か ら政治協商会議の席に臨んだ。会談は,連合 政権構想を忌避する国民党の民盟運動に対する妨害や,共産党軍の国軍化を め ぐる国共両党の応酬に よって,実質的には停戦状態を生み出す ことができ なか った。 しか し, 1月31日に協商会談の席で合意 された和平合作 ,政治の 民主化 ,軍隊の国家化に関する基本方針には,内戦の長期化を憂慮 していた 中国各界の指導者たちの期待が込められていた (菊地貴晴,1978:107‑111 ページ)o
政治協商会談の提起を受けて,三人委員会は2月14日か ら,双方の軍隊を 削減するための 「軍隊の整理 ・再編および中共部隊の国軍‑の統合に関す る 基本方案」 (「関干軍隊整編及統編中共部隊為国軍之基本方案
」 ) ‑
「整軍法 案」を討議 し始めた。「整軍法案」は,2月25日に同委員会の席で調印された (朱主編,1993:929‑930ページ,猛広滴主編,1989b :1024‑1095ペ ー ジ,Gillin&Myers,1989:26‑27ページ)O停戦を模索す るこうした動 きを指 して 『解放 日報』(1月11日付)は,「平和 と民主主義の新段階」に入った と高 く評価 した。 しか し,この時期の共産党は,実際には,内戦の遂行を放棄 していたわけではな く,む しろ梼極 的にその準備 を進 めていた (石井 ,
1 9 9 0:1 1 8,1 2 3 ‑1 2 7
ページ)0停戦協定に合意 した共産党は,同協定の範囲に東北が含 まれ ること,そ し て同地に国軍 としての国民党軍が進駐す ることを認めていた。 しか し,共産 党は,同時に,その進軍活動に対 して①兵力規模の制限,②秦皇島‑の上陸 地点の限定 ,③陸路の移動についての事前協議 ,④北平軍事執行処に よる 日々の監視 とい う
4
項 目 (「満洲問題的4
項黙実」)を条件づけていた (「中共 中央関干停戦后党対満洲政策的指示」 1
月11日,中国人民解放軍通鑑編輯委 員会編,1 9 9 7:1 1 4 3 ‑1 1 4 4,1 1 4 6
ページ)。協定締結からわずか3
日後の1 月 1 3
日,中共中央は東北局の林彪 ,診実に対 して,国民党が東北問題の討議を 拒否 して増兵を強行する状況にあるので,東北民主聯軍はこれを迎え撃 って その進攻を阻止するよう指令を下 した (「対干国民党軍的進攻応堅決撃破之」1
月1 3
日,中国人民解放軍通鑑編輯委員会編,1 9 9 7:1 1 4 6 ‑1 1 4 7
ページ)O東 北‑の派兵を準備 していた国民党の側にも,むろん,
「整軍法案」を遵守する 姿勢は見 られなか った。工業施設 と天然資源そ して日本軍が残 した武器の獲 得 (引渡阻止)のために,国共の両党は東北‑ 自己の勢力を扶植 しようと躍 起になっていた。こうして東北では,①圧倒的な軍事力を持つ ソ連軍 と,②兵力を迅速に派 遣す ることに成功 した共産党軍 ,そ して③後れをとりながらも優勢な軍事力 を展開 しようとす る国民党軍が,それぞれ要衝地に拠点を構えていった0 3 つの勢力はいずれ も戦勝国の側に属 し,軍事力を擁 していた. このため‑舵 中国人 と敗戦国民 となった 日本人は,各勢力の別個の要求に振 り回されるこ とになった(10)C
中国東北 の戦後情勢 37
第 3 節 ソ連軍 の撤退 と国共 内戦 の拡大‑ 国民党軍 の攻 勢‑
(1) 1945年暮れか ら1946年1月にかけ て ,国民党 は東北 へ の関与 を具体化 し,強めていったOマーシャル将軍は三人委員会の席で,軍事調処執行部に 監視班 (執行小敵)を設けて東北‑派遣す ることを提案す るな ど,国民党軍 の行動を押 さえて停戦を実質化 しようと試みた。共産党軍はアメ リカの提案 に同調す る姿勢を見せたが
,
「この時の国民政府は,満州 におけ る行動 の 自 由を束縛 され ることには反対の決意を固め,満州を完全に軍事 占領 し,もし 中共軍 と衝突 した らこれを撃滅す るとい う方針を執 っていた」。 アメ リカ国 務省の観洲では,国民政府には 「こうい う目的を達成す るだけの軍事力はな(10)鞍山の場合 も,戦後の情勢は3つの勢力に振 り回されたO第 1期か ら第 Ⅰ期にかけて の移行時期には,混乱は東北各地の諸都市に比べると,比較的に小 さかったQ製鉄所を 初め とする軍需工業施設 の確保 を 目指 した ソ連軍 の迅速 な接収 と治安 の維持 に よっ て,戟山の市民生活は相対的に乱れ ることが少なかったか らである。ソ連軍は製鉄所を 掌握するために,共産党軍や一般中国人に対 しても,厳 しい統制を行 った。 しか し,秩 山の一般市街では,共産党軍が先行 し,国民党軍がそれに続 く形で,中国側の軍事勢力 も自己の組織を拡充 していった。 8月17日には中国共産党の地下工作員雀膏峰が,乾山 人民保安第一旅 (3,000余人)をひきいて決起 した (鞍人地所編,1993:2ページ)。一 方 ,国民党は8月21日に国民党戟山市党を結成 した (同上)。ソ連軍は鞍山守備隊跡 ,八 路軍は天佑跡 ,国民党は市役所に本拠を構え,戟山には 「三頭政治」 と評 される政治状 況が生まれた (松本,1996:160ページ)0
第 Ⅰ期か ら第 Ⅲ期にかけての移行過程では,ソ連軍か ら支配権 を譲 り受けた共産党 軍が,国民党軍の北上に圧迫 されて物資の徴発や戦犯の逮捕を厳 しく追及 し,大 きな混 乱が生 じた (1946年2‑3月)。第 Ⅲ期か ら第 Ⅳ期への移行に際 しても,鞍山は市街戦 に包まれ,市内の治安は壊乱 した。
加えて第 Ⅰ期 ,第 Ⅲ期 ,第 Ⅳ期では,期間の半ばにおいても製鉄所の運営は,度 々混 乱に陥 った0第 l期ではソ連軍の製鉄所政策が何度 も変更 され,製鉄所の日本人関係者 そ して共産党軍は,その都度 ,当惑を強いられた (註記 4を参照)O撤去作業が終了 した 直後には,七嶺子事件‑千山事件 (千山動乱)が発生 した (詳記12を参照)。
第 m期では,共産党軍の反撃に よって国民党軍は一時,乾山の放棄を余儀な くされた (1946年5月25日〜6月1日)。第 Ⅳ期では乾山をめ ぐる国共両軍の間の攻防が ,ほ と んど全期間にわたって繰 り返 された。
か った」 (アメ リカ国務省,1949:182ペ ージ)。
しか し,現実には,1945年暮れか らの国民党軍の攻勢は ,ソ連軍の譲歩 も あって,東北の地に国民党の勢力を大 き く拡大 した01945年12月22日,国民 党軍は長春を接収 し,同 日,渚陽には董文靖が市長 として着任 した。1946年 1月 1日,吟爾演では楊縛庵市長が就任 し,続いて1946年1月10日には遼北 省が接収 され ,四平では省政府が樹立 されたO瞭爾演では1
月1
2日に松江省 の省政府が成立 し,赦江省では1月24日,斉斉恰杯に省政府が成立 した (董 彦平,1982:80‑82,91‑92ペ ージ)oこうした動 きは ソ連軍 の了解のもとに 行われたか ら,接収は本格的な派兵に先行 して進め られた(ll)。国民党軍は1 月2
9日に,洛陽に進駐 した。2月 8日,蒋介石は東北保安司令長官杜華明に対 して,東北民主聯軍を一 斉に総攻撃す るよう命令を下 した (唐主編,1997:481ペ ージ)O この進軍を 迎 えて,遼寧省中北部 ,遼河の上流 ,秀 水河子 で東北民主聯軍 が国民党軍 1,500人に夜襲をかけ ,打撃を与えた。 これが ,第 1表に表示 した 1)秀水河 子戦後 (1946年2月13日〜14日)であった (劉統,1997:122‑124ページ ; 晋巽察文芸研究会編輯,1992:44‑47ペ ージ ;中国人民解放軍通鑑編輯委員 会編,1997:1151ペ ージ)O東北における国共両軍の戦いが ,この戦役を実検
に して本格的に始 まったO
国民党軍の進軍は,ソ連軍の撤兵 と表裏一体 とな って進攻 したO ソヴィニ トは ,既述 の ように ,中 ソ友好 同盟条約 の附属協定 の中で , 日本 の降伏後
(ll)董彦平の回鯨に よれば ,軍事調停処執行部が設立 され ,アメ リカの影響を強 く受けた 停戦の動 きが浮上 した1946年1月に ,ソ連軍は東北におけ る国民 党軍 の接収活動 に対 して再び非協力的な態度を とるようになった とい う (童,1982:113ペ ージ)。 しか し,
1月10日の停戦協定は ,ほかな らぬ中国共産党の基本戦略 に合致 した 内容 を持 ってお り,東北におけ る戦乱を回避す ることは国民党 との合弁化構 想 を追 及 して いた ソ連軍 に とって も,好都合な筈であった。この時期に ソ連軍の国民党に対す る態度が硬化 した 背景は,停戦運動の盛 り上が りにあったのではな く,アメ リカ軍の軍事力が北平を中心 に強化 され ,それを背景に国民党軍が積極的に攻勢に出た ことにあった と思われ る。
中国東北の戦後情勢
3 9
3
ヶ月以内すなわち 日本が降伏文書に調印 した9
月2
日か ら起算 して1 2
月3
日までに東北か らその軍隊を撤兵 させ ると明言 していた。 ソ連軍は1 9 4 5
年1 0
月1 7
日に長春で始 まった第2
次中 ソ会談の席において も,
11月2 0 ‑2 5
日に長 春か ら撤退 し,同年1 2
月3日までには東北全域か ら撤兵を完了す るとい うことを改めて表 明 した (董彦平
,1 9 8 2:3 3,5 3
ペ ージ)。しか し,1 2
月9
日にい た ってマ リノフスキー総司令官は,東北外交特派員蒋経国 と東北行営経済主 任張公権に対 して,東北か らの撤兵を1 9 4 6
年2
月 1日に延期す る旨を提議 し た (董彦平,1 9 8 2:1 7
ペ ージ)02
月1
日の撤退期限は,1
月9
日,双方の政 府訓電に よって も確認 された。 1
月1 5
日,ソ連軍は洛陽か らの撤退を開始 し たが,鉄道車両 と燃料の不足を理 由に ,部隊 の移動 は緩慢 で あ った (董彦 辛,1 9 8 2:1 2 3
ペ ージ)02
月4
日,マ リノフスキー元帥は張公権に対 して, 折か らの合作 問題 で国民党か ら譲歩を引 き出すべ く,東北での地方政権の樹 立 ,経済合作 といった問題が解決 しない うちは ソ連軍が撤兵す ることはない 旨を通知 し,自らが提示 した2月1日の撤退期限を再び延期 した (唐主編 ,1 9 9 7:4 8 1
ペ ージ)0ソ連軍が撤退を再 々にわた って延期 した理 由は,一つではなか った
。1 0
月 初旬 ,東北行常の領袖たちが長春に乗 り込んだ とき,長春周辺の要衝地はす でに共産党軍に よって押 さえ られていた。東北 におけ る共産 党軍 が強大 に な った ことに よって,ソ連軍の駐留延長が国民党の進駐に とって有利に働 く とい う皮 肉な事態が生 じることになった。国民党は ソ連軍か らの円滑な業務 の引継を実現す るために,国民党軍が到着す るまで ソ連軍が洛陽 ,長春に と どまることを要求 した (石井,1 9 9 0:4 3
ペ ージ)。これに対 して,1 9 4 6
年2
月 の遅延行為は,合弁化に関す る協議を有利に導 くための方策であった。そ し て同年3月の行動は,共産党軍への支援を 目的 としていた。1 9 4 6
年3
月6
日,長春では共産党側の 『長春新報』が復刊 され ,共産党の 側に立つ黒竜江省政府の成立が報 じられた。 ソ連軍は,結局,3月1 0
日,港 陽か らの撤退を開始す ると,洛陽 (3月1 2
日),四平 (3
月1 3
日),長春(4
月14日)か ら相ついで撤兵を行 った。 これ らの動 きは,国民党に対 して事前 に通知 されなか った (劉統,1997:161ぺ‑ジ)。国民党軍の進軍を手間取 ら せ ,共産党軍の占領を容易にす るためであった。共産 党軍 は1946年3月17
日,四平を占領 して遼北省聯合政府を樹 立 し, 4月15日には長春 を攻撃 し て,18日に これを占領 したo長春の占領に成功 した共産党軍は 日本軍が残 し た重火器を含む武器弾薬を入手 して,国民党軍 との正面対決に積極的にな っ た (董彦平,1982:20‑21,145,160ペ ージ,ア メ リカ国務 省,1949:
186‑187ペ ージ)0 「譲開大路 ,占簡両麻」戦術か ら直接的な対時路線‑の転 換であった。
(2) 3月下旬 ,国民党東北行瞳主任熊式輝 と保安司令長官杜孝明は, 5個軍 団,11個師団を率いて四平を攻撃 した
。 5
月3
日,ソ連軍は,東北か らの撤 退が完了 した ことを宣言 したD この時点においても北部5省 (松江 ,合江 , 赦江 ,黒竜江 ,興安)の一部には依然 ,ソ連軍が とどま り,同地域では国民 党軍の支配権は確立 されていなか った (董彦平,1982:23ペ ージ)。南部4省 (遼寧 ,安東 ,遼北 ,吾林) と北部5省の南端では,国共両軍に よる内戦が 激 しく続け られた。 2)保衛四平戦役 (1946年4月18日〜 5月17日,附録第1
図) と呼ばれ る戦いであるO戦闘は四平を中心に展開 され,5
月下旬に増 派 された新6軍の活躍で,国民党軍は火石嶺 ,吟福 ,四平一帯を共産党軍か ら奪取 した (李英主編,1995:1410‑1413ペ ージ ;晋巽察文芸研究全編韓 , 1992:48‑49ペ ージ ;中国人民解放軍通鑑編輯委員会編,1997:1162ペ ー ジ)。 この戦いで林彪の率いる東北民主聯軍は,四平 ,長春 な どの市街 に留 まって国民党軍 の攻撃に対時 したが,これに よって大 きな犠牲を こうむ った (劉統,1997:188‑189ペ ージ ;董彦平,1982:171ペ ージ)。国民党軍は , 四平 ,長春 ,書林な ど東北中央部の主要都市を次 々に占領 した(12)oLか し,保衛四平戦役が収束す ると,戦線は厚着 した。国民党軍が補給に 困難を抱えるような ったか らである。他方 ,共産党軍は ,国民党軍の軍事力 に押 されて正面作戦の回避を余儀な くされていた。両者の間で,1946年6月
中国東北 の戦後情勢 41
6日,15日間の停戦が結ばれたo停戦期間はその後の交渉で6
月
30日まで延 長 され ,さらに7
月1
日に も再度延長 が合意 され た (アメ リカ国務省 , 1949:200‑210ペ ージ)0停戦 の協議過程では,国民党側が強硬な姿勢を とっていた。 6月17日,蒋 介石はマーシャルに対 して,国民党の要求を周恩来に伝 えるよう依頼 した。
要求は,①共産党軍が
9 月 1
日までに熱河 ,察吟爾両省か ら撤退す ること,②山東省芝罪 (チーフー),威海衛を国民党軍が占領す ること,③ アメ リカ陸 戦隊の撤退を可能な らしめるため国民党 1個師団を青 島‑駐留 させ ること,
④6月7日以降に共産党軍が新たに占領 した地域を7月1日までに国民党軍
‑返還す ること等か ら成 っていた (アメ リカ国務省,1946:198ペ ージ)。 こ の要求に したがえば,東北では,吟爾演 ,安東 ,通化 ,牡丹江 ,白城な どが 国民党の手に引 き渡 され ることになる。周恩来は④項での妥協の可能性を示 唆 しつつ も,その他 の条件を不当なものであ る と して ,国民党案 を拒絶 し た。三人委員会ではマーシャルの仲介で,国民党 と共産党の折衝が繰 り返 さ れたが ,国民党軍の共産党軍に対す る攻勢は関内を中心に拡大 した。 こ
(12)国民党軍の北上は,ソ連軍や共産党軍の支配下にあった東北各地 の 日本人社会 に大 きな変化をもた らしたO1946年11月 ,鞍山では,撤去作業 を終 えたばか りの 日本軍人 が,シべ T)ア‑の送還を通告 されて動揺 し,脱走を企てる者 が続 出 したO彼 らの一部 は,11月8日,牧山近郊の千山に立てこも り,国民党軍への呼応をはか った。 「千 山事 件」(「千山動乱」‑「七敏子事件」)と呼ばれ る武装蜂起である。千山動乱には,鞍山周 辺に駐屯 していた陸軍の航空隊や陸上部隊そ して満州国軍が参加 した。武装蜂起 は東 北民主聯軍2縦隊 と巽熟達辺区第16分区の5個連隊 (5個団)に鋲圧 された (鞍人地新 編,1993:792ページ)。この動乱の背景には,国民党等の政治工作があったといわれる が,詳細は不明である。戦闘の経緯については,武装蜂起に参加 した第2気象連隊井守 達郎少尉の手記に詳 しい (井守,1999)O蜂起は11月末までに,国民党軍本隊の乗鞍を待 たずに鋲圧 された。決起に参加 した将校兵士の多 くは,日本人社会に紛れ込んで帰国の 機会を うかがったOこのため篠山では,共産党軍が決起に加わ った将兵の捜索を繰 り返 し,日本人社会に対 して厳 しい統制を敷いたO国民党の北上 とソ連軍 の撤兵が進 んだ 1946年2‑3月には,共産党軍の統制はいっそ う強められ,戦犯の追及 と物資の徴発が 執粉に行われた。鞍山は大戦が終結 して以来 ,最大の混乱期を迎えた。
の間,1946年5月に国民政府は南京‑の還都を実施 して,抗 日戦に よる混乱 か らの復興を印象づけた (朱漢国主編,1993:937ページ)0
1946年7月7日,中国共産党は 「77事変」九周年 の声 明を発表 し,アメ リ カの軍事干渉 と国民政府に対す る武器財政援助が国民党軍の強硬政策を支え ていると厳 しく批判 した (中国人民解放軍通鑑編輯委員会編,1997:1182‑ 1183ペ ージ)07月中旬 ,河北省東部で米陸戦隊員7名が共産党軍 に よって 誘拐 され ,監禁 され るとい う事件が発生 した。 7月29日には,天津か ら北平 に向か っていた米国の自動車隊が,護衛の米陸戦隊 とともに共産党軍に よっ て襲撃 され ,損害を受けた (アメ リカ国務省,1949:211ペ ージ)。国民党軍 の攻撃に圧迫 された共産党軍は,国民党軍を支えていたアメ リカに対す る外 交批判を強めながら,アメ リカ軍に対 して も直接的な攻撃を加えるいた った のである。
東北休戦の協議の後 ,国民党は 「先帝后北」 の方針を取 り,関内の共産党 支配地域に対す る攻勢を強めた。 6月26日,蒋介石は正規部隊の80%を動員 して全国の共産党支配地域‑全面的な攻撃をかけるよう命令 した (中国人民 解放軍通鑑編輯委員会編,1997:1178‑1179ペ ージ)o三 人委員会 での交渉 が暗礁に乗 り上げた1946年7‑ 8月 ,国民党は各地で攻勢を強め ,支配地域 を拡大す ることに成功 した。和平交渉 は これ に よって決定 的に行 き詰 ま っ たO国民党軍は江蘇省北部の腸済鉄路周辺か ら共産党軍を駆逐 し,8月29日 には熱河省の省都承徳を占領 した。国民党軍の軍事的な優位は,1946年11月 に ピークに達 し,この時点でアメ リカを調停役 とす る停戦交渉は立ち消えと なった。11月16日,南京の地で交渉の任にあた っていた周恩来は,彼 と他の 中共代表を米軍機に よって延安‑輸送す るようマーシャルに要求 した。周恩 来は同月19日,米陸軍機で南京を離れ,1946年1月以来の三人委員会の活動 は終結 した (アメ リカ国務省,1949:218,253‑255ページ)(13)0
この間,1946年8月7日には,東北各省代表聯席会議 が恰爾演 で開催 さ れ ,東北行政委員会が選出され るな ど,国民党の進軍に対す る抵抗阻織の建
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設が進め られたが (晋巽察文 芸研究会編韓,1992:66ペ ー ジ),その後 も 1947年春にいたるまで共産党軍の劣勢は続いた。
(3) 1946年10月に入 り,国民党は安東周辺の南満根拠地 (遼東軍区)に対 し て掃討作戦を実行 した (李英主編,1995:1446‑1148ペ ージ).10月中旬 ,柳 河 ,輝南 ,清原な どを占領 して港吉線の沿線を軍事的に掌提す ると,国民党 軍は10月19日,常盤か ら新案 ,興京 (新賓) を経 て桓仁 ,輯安へ 向か う左 路 ,橋頭 ,本漢を経て安東 ,風域 ,寛旬‑向か う中路 ,海域 ,大石橋をへて 庄河 ,大弧山へ向か う右路 とい う3方 向か ら,南満根拠地に対す る大規模な 攻撃を行 った (附録第2図)o東北民主聯軍は この攻撃を新 開嶺 周辺 で迎 え 撃 ち,撃退す ることに成功 した。 これが1946年10月31日〜11月2日に戦われ た3)新開嶺戦役である (劉銃,1997:291‑297ページ ;中国人民革命軍事 博物館編韓,1987:159ペ ージ ;晋巽察文芸研究会編韓,1992:51ペ ージ)。
しか し,国民党軍は全体 としてみれば,この時点においても戦局を有利に 進めていた。左路を進軍 した第71軍91師団は11月 1日,通化 と輯安を占領 し た。新開嶺戦役 の後 の11月5日,中路を進んだ第52軍第2師団は安東を攻略
し,これに続いて風域を奪還 した。南満根拠地は圧縮 され ,共産党軍は国民 党軍の追撃を受けて,臨江 ,長 白,靖宇 (蒙江),撫松一帯に待避す ることを 余儀な くされた (劉統,1997:305‑307ペ ージ)0
国民党軍の攻撃は,その後 も執掛に続け られた。12月27日,東北保安司令 部長官前線指揮所は永陵か ら通化‑ と移 され ,長 日山麓‑の攻撃が強化 され た。南満州軍区の共産党軍は,方針を転換 し,解放区を打 って出て,本挟 , 撫順 ,営盤の三角地帯‑抜けなが ら遊撃戦を行 った (附録第3図)o これが
(13)三人委員会に よる停戦協定の締結は,結局 ,内戦の終息を導 くことはなかった。 しか し,同協定の成立は,東北に残 されていた 日本人居留民にとっては,大 きな意味を持 っ たO戦闘の停止期間内 (6月6日〜6月30日のことか ?)に,共産党支配地区にいた 日 本人約24万人が国民党支配地区に送出され ,遣送の隊列に加わ ることがで きたか らで ある (満蒙同胞援護会編,1962:576ページ)0
3ヶ月にわたる大激戦,4)三下江南 ,四保臨江戦役 (1946年12月〜1947年 4月3日) の始 ま りであった (劉銃,1997:314‑315ペ ージ,晋巽察文芸研 究会編稗,1992:120‑141ペ ージ ;中国人民革命軍事博物 館編韓,1987:
160ペ ージ)Q
2月中旬 ,国民党軍は北満根拠地に対 して も攻撃を加えたが ,共産党軍は 南満根拠地の部隊 と連携 し,これを斥けた。結局 ,国民党軍は南満軍区に対 して
4
次にわた って攻撃を しかけたが ,共産党軍は松花江を三回渡河 して, これを迎 え撃ち (三下江南),4
回にわた って臨江 を守 りぬ いた (四保 臨 江)。遊撃戦は各地で戦果を挙げ ,四平 ,長春の失陥で落ち込んでいた共産党 軍の士気は,ふたたび高揚 した (劉銃,1997:323,349ページ)o共産党軍の 後退は この戦役 に よって くい止め られ ,戦局は再び鯵着状態に陥 った。(4)蒋介石は1946年12月 1日に,仲介役 とな って きた マ ーシ ャル将軍 に 向 か って,8ヶ月か ら10ヶ月以内に共産党軍を掃滅す ることが可能であると, 自ら強気の展望を語 った。翌1947年1月7日, レ レ‑マ ンはマーシャルを国 務省長官に任命 したOマーシャルは蒋介石が披渡 した楽観的な見通 しに懐疑 の念を抱 きつつ ,国民党内の強硬派に対す る不満を残 して ,翌
1
月8
日にア メ リカ‑帰国 した (アメ リカ国務省,1949:264‑265,267ペ ージ)O停戦に向けた世論の高 ま りと交渉のテーブルがそれな りに整 っていたに も かかわ らず,1946年1‑ 6月に国民党内の強硬派が活気づ き内戦が泥沼化 し て しまった最大の原因は,アメ リカか らの武器援助にあった。停戦交渉が滞 りつつあった1946年6‑ 7月に ,共産党軍は,停戦交渉の進展を阻む根源が 同問題にあることを強 く指摘 していた (ア メ リカ国務省,1949:209ペ ー ジ)C
アメ リカは,内戦の泥沼化を回避すべ く,米国本土については1946年7月 29日か ら,太平洋地域については8月中旬か ら,対中武器輸出の禁止を実施 した (1947年5月に解除。 アメ リカ国務省,1949:422‑424ペ ージ)。 しか し,武器輸 出の規制が発効 した1946年夏の時点で,国民党軍の装備はすでに