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南北戦争後の先住民ネーションと黒人奴隷解放

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南北戦争後の先住民ネーションと黒人奴隷解放

−チカソー・ネーションの成員規定と 「黒人解放民」 処遇を巡る考察−

岩 﨑 佳 孝

I はじめに

先住民集団は、いわゆる「部族(band,  tribe,  nation)」とよばれる地域や成員 の範囲を適宜変化させるエスニックな血縁集団、集落、集合体、地域コミュニティ としての在り様から、ヨーロッパ人の入植後、次いでアメリカ合衆国建国後の白 人による狩猟、居住地の収奪、さらに「文明化」された合衆国市民としての包摂 の力学に対抗し存続を図るべく、先住民自治体「ネーション(Nation)」1として の再構成を志向する道程を辿った。

数 100 におよぶアメリカ先住民(インディアン)各集団(部族)中、とりわけ 人口の多い大集団、チェロキー(Cherokee)、チカソー(Chickasaw)、チョクトー

(Choctaw)、クリーク(Creek)、セミノール(Seminole)は、ヨーロッパ諸国 の北米植民から 19 世紀初頭にかけて大陸南東部に居住していた。そのためこれ らの先住民集団は白人といち早く接触し、顕示的には多くの面で西欧化を遂げ、

歴史的に「(「文明化」した/された)5 部族(Five [Civilized] Tribes)」(以下、「5 部族」)とよばれるようになった。そして「5 部族」は、植民地期から 19 世紀前 半に至るまでの時期に「部族」からネーションに変容すると共に、周縁南部白人 社会との近接した関係性の中で次第に黒人奴隷制度に部分的に立脚した社会経済 を構築していった。

19 世紀初頭のアメリカ連邦政府のインディアン強制移住政策によって、「5 部 族」は西部のインディアン・テリトリー(Indian Territory; 現在のオクラホマ州 を中心とする地域)に移住を強いられ、その後南北戦争で南部連合国と同盟し参

1  本稿でいう先住民「ネーション」とは、英語ではネーション(nation)、トライブ(tribe)、バン ド(band)等、邦訳では「部族」という名称で括られることの多いアメリカ合衆国内における 各先住民集団の中で、合衆国建国後以来現在に至るまで連邦体制の中で主権体として認められた 自治的集団を指す。

(2)

戦した。そのため「5 部族」は戦後、南部への加担と連邦政府への敵対行動に対 し課された懲罰的な条約(以下、「再建条約」)で、合衆国における 1863 年の奴 隷解放宣言と 65 年の憲法修正 13 条による黒人奴隷解放に基づいて、その黒人奴 隷を解放し、さらにそれらの「黒人解放民(Freedmen)」2に各先住民自治体ネー ションの成員資格(部族民権[Tribal  Citizenship])を付与することを求められ たのである。

先住民社会内の黒人解放民という存在については、様々な事例から整理すれば、

以下のような定義をなし得よう。(1)南北戦争終結までアメリカ先住民に所有・

使役され、戦後に解放された黒人奴隷(先住民との「混血者(mixed blood)」3も 含 む )、(2) 戦 前 よ り 自 由 黒 人 と し て 奴 隷 身 分 に な か っ た、 あ る い は 縁 組

(adoption)4によって既にネーション成員権を有していたにもかかわらず、戦後 に(1)と一括して黒人解放民として扱われた者、(3)上記(1)(2)の子孫、である。

またその呼称も上記 Freedmen に加え、以下のように多岐にわたる。総称と しては、(i)Black Indian(s)、(ii)Indian Black(s)、(iii)Afro-Native People、(iv)Afro- Indian、(v)Freedpeople、(vi)free blacks、(vii)free(d)slaves、(viii)former slaves、

(ix)ex-slaves等があり、帰属する先住民集団名を冠した名称として、(x)(先住民集 団名+)Freedmen(s)/Freedwomen(s)、(xi)African(Afro-)+先住民集団名、

(xii)Black +先住民族集団名、(xiii)先住民集団名+ Black(s)等の呼称もある。

この内、特に(vi)〜(ix)については白人社会の解放奴隷にも用いられる名称 であり、先住民関連の黒人奴隷とその子孫に限定する場合には、(i)および(x)

〜(xiii)が比較的に多く用いられる。日本では「解放奴隷」「フリードメン」等 と訳されることが多いが、いまだに定訳はない。このような定義と呼称の多様さ そのものが、アメリカ先住民社会における黒人解放民問題の多様さと複雑さを表 象しているといえよう。

ただし本稿ではその定義を、数的に最も多いと思われ、現在も一般的に用いら れている概念であるとの理由で、「1865 年の南北戦争の終結までアメリカ先住民 によって所有・使役され、戦後に解放された黒人奴隷(上記定義(1)に該当)」と、

その現代に至るまでの子孫(同じく(3)の一部に該当)と規定し、先住民社会

2  Freedmen はこの他白人による所有、使役から解放された黒人奴隷も指す。

3  先住民社会における「混血」の意味については慎重な定義が必要であるが、本稿では字義通り生

物学的に先住民血統を含む可能性を有する者と規定する。先住民社会内での「混血」規定の孕む 問題性については、岩崎佳孝「北米先住民族における「混血者」の位置づけについての試論―

インディアン強制移住期のチカソーの事例より」『阪南論集』 44-2(2009), 15-32. を参照。

4  ここでいう縁組の意味については、主に第 3 節で詳しく述べる。

(3)

外の解放奴隷と区別するため、「黒人解放民」という名称を用いる。

上記再建条約の規定にもかかわらず、黒人解放民を成員として受容することを 忌避する各先住民ネーションのほとんどは、成員資格授与に厳しい制限を課し

(チェロキー、クリーク)5、あるいは受け入れを拒否した(チョクトー、チカソー)。

19 世紀後半から 20 世紀初頭にかけて連邦政府が作成した名簿、いわゆるドーズ 名簿(Dawes  Roll)によって、インディアン・テリトリーの先住民ネーション 住民は(a)血統(by  blood)による先住民、(b)婚姻等により成員資格を得た 白人、(c)黒人解放民という三つの範疇に分けられ、その結果黒人解放民は、一 旦ネーション成員となり得た者さえその立場を失い、多くは非成員(non-citizen)

として先住民社会から分断、排除され、現在に至ることになる6

とまれ 20 世紀に入ってから黒人解放民は研究対象のひとつとして「発見」され、

先住民史や黒人史に加えて、再建期以降 20 世紀初頭にかけてのインディアン・

テリトリー解体とオクラホマ州成立に至る時期の西部史研究等の視角から考察さ れてきた。これらの諸研究で、黒人解放民への関心は大きく以下の 4 つの主題の 上におかれてきたように見受けられる。すなわち、(1)これまでに知られていな かった黒人解放民という存在の各人、ないしは総体としての歴史的経験(生き様)

の発見と発掘7、(2)黒人解放民を含む多様で複雑な多文化エスニック社会として のインディアン・テリトリーおよびオクラホマ地域史8、(3)合衆国における「人種」

ヘゲモニー、カラーラインも与った、先住民から黒人解放民に加えられた「人種」

5  例えばチェロキー再建条約では、条約締結日(1866 年 7 月 19 日)から 6 ヶ月以内にネーション に帰還した者のみが対象とされた。戦時中北軍のインディアン・テリトリー侵攻を恐れたチェロ キーの奴隷主と共に多くの黒人奴隷が遠くテキサスまで避難しており、これらの者たちには期間 内にネーションに戻ることは困難であった。

6  2013 年 2 月現在、合衆国内務省は連邦裁判所に、成員権を求める黒人解放民とそれを拒否するチェ ロキー・ネーションとの間の積年の訴訟に対し、1866 年条約の規定に従いチェロキー黒人解放 民にネーション成員としての権利を認める略式判決を行うよう求める申し立てを行っている。

2013 年 4 月、それに関わる口頭弁論が行われることになっており、この問題の今後の行方が注 目される。

7  例えば Barbara Krauthamer, 

(Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2013); Daniel F. 

Littlefield,,  Jr.,  (Westport,  CT: 

Greenwood Press, 1980); Celia E. Naylor, 

(Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2008)等。以下(4)まで、代表的 な研究についてのみ挙げる。

8  Murray R. Wickett, 

(Baton Rouge, LA: Louisiana State University Press, 2000)等。

(4)

差別の性質の研究9、(4)黒人解放民の、先住民として、あるいは独自のエスニック・

マイノリティとしてのアイデンティティの所在の研究である10

先住民と黒人解放民の関係を考察することは、主流/上位社会によるマイノリ ティに対する差別、迫害という一般的な概念における人種間差別の図式とは異な り、エスニック・マイノリティ間に厳格なカラーラインが構築され、一方が他方 を排撃している点において着目に値する。また 21 世紀に入ってからは、「5 部族」

ネーション成員権の取得あるいは回復を求める黒人解放民が先住民の「人種差別」

を糾弾する運動を盛んに行い、黒人解放民問題は合衆国の行政、立法、司法府、

世論を巻き込んだ政治イシューと化している。この点において、今日この問題の 歴史的な経緯と意味の正確な理解は、以前にも増して求められている状況である といっていい。しかしながら「5 部族」の黒人解放民問題は、アメリカ史の記述 の中で言及されることがあまりにも少なく、アメリカ先住民研究や黒人史研究に おいてさえいまだ研究蓄積が少ない11

そこで本稿では、上記(1)から(4)の研究関心はいずれも重要であるとの前 提に立ちつつ、管見の限りこれまで主題として顧みられることのなかった、より 大きなアメリカ史の文脈中における先住民(集団)の位置づけという研究視座か ら黒人解放民問題を考察したい。具体的には、先住民集団のアメリカ連邦体制内 におけるネーション構築に伴う成員規定を巡る問題、そしてネーションの黒人解 放民への処遇という分析枠組みからみて、先住民集団のネーション建設上黒人解 放民はどのような意味で不必要とされ排除されたのかについての考察が行われる ことになろう。

本稿では以上の主題を、黒人解放民にネーション成員権を与えることに「5 部 族」中最も強硬な態度をとったチカソー・ネーションの、1860 年代後半から 80 年代初頭にかけての事例によって考察する。チカソーはアメリカ社会による領有

9  Gary Zellar,  (Norman: University of Oklahoma 

Press, 2007)等。

10  Kevin  Mulroy,  (Norman:  University  of  Oklahoma  Press,  2007);  Celia  E.  Naylor-Ojurongbe,  “ʻBorn  and  Raised  among  These  People,  I  Donʼt  Want  to  Know Any Otherʼ: Slaveʼs Acculturation in Nineteenth-Century Indian Territory,” in James F. 

Brooks,  ed., 

(Lincoln:  University  of  Nebraska  Press,  2002),  161-191. 等。以上、(1)から(4)の黒人解放民 の研究動向について詳しくは、岩崎佳孝「南北戦争後の黒人解放民とアメリカ先住民―研究の 動向と今後の展望」『立教アメリカン・スタディーズ』32(2010), 167-173. を参照。

11  Circe Sturm and Kristy J. Feldhousen-Giles, “The Freedmen,” in Garrick A. Bailey, ed.,    Handbook  of  North  American  Indians,  vol.  2(Washington: 

Smithsonian Institution Scholarly Press, 2008), 276-284.

(5)

地への侵入と収奪、「文明化」された合衆国市民としての包摂の力学に並行、あ るいは対抗し、1850 年代中葉より他の「5 部族」の残りの集団と同様「近代的」「民 主的」「中央集権的」「西欧的」な立憲共和政体ネーションを形成し、それに伴い 外部社会の境界を隔てる成員要件を規定してきた。本稿ではこのネーション成員 権の枠組みから、南北戦争後新たに成員の可否を問われた黒人解放民という存在 を巡るチカソーの施策を検討する作業を通じ、アメリカ連邦体制下における先住 民ネーション主権がこの時期のチカソーにどのように定義されていたのかについ ての考察を行いたい。

本稿の構成は、以下の通りである。II で、ヨーロッパ人による北米大陸植民期 から合衆国における南北戦争に至るまでの先住民集団チカソー社会と黒人(奴隷)

との関り、次いで南北戦争後の奴隷解放後のチカソー・ネーションの黒人解放民 への処遇について概観する。続く III では、南北戦争前後のチカソー・ネーショ ンの社会および経済状況、それに伴うネーション成員条件の規定と連動した文脈 で、戦後から 1870 年代初頭における黒人解放民に対する処遇が排除と包摂に揺 れ動いたことを確認する。次いで IV では、1870 年代後半に黒人解放民の放逐が 最終的に決せられた事情を、同時期のネーションを取り巻く状況の激変とそれに 対するチカソーの反応に見出し、この時点から 20 世紀初頭まで継続することに なるチカソー・ネーション主権の在り様についての一定の仮説を導き出したい。

Ⅱ インディアン・テリトリーにおける先住民と合衆国の新たな関係

―南北戦争前の黒人奴隷制から再建期の黒人解放民問題へ―

チカソーは 16 世紀、領域内に侵入したスペイン探検隊が伴った黒人と初めて 接触した。17 世紀末から 18 世紀初頭に至る時期にイギリスと交易を通じた交際 が始まると、イギリス政府官僚や交易商人等が領内に定住し、その多くはチカソー 女性と通婚した。これら通婚による縁組によってチカソー社会の成員となった白 人(intermarried  white)、あるいはそこから生まれた「混血者」を通じて、チ カソーは後に「文明化」と呼ばれることになる一種の西欧化を遂げ、18 世紀末 以降合衆国資本主義経済と結節していく。その過程で、イギリス人が伴った黒人 奴隷もチカソー社会に居住するようになり、その後それらの白人男性とチカソー 女性の間に生まれた「混血者」によって、黒人奴隷の所有が開始された。

19 世紀初頭からの合衆国政府による先住民のキリスト教徒化、農民化を中心 とした「文明化」政策と、周縁南部諸州の黒人奴隷制度の影響を多分に受け、黒 人男性は屋外の農地、綿花プランテーション等での農耕や労働、黒人女性は屋内 で家事、育児を分担というかたちで、奴隷は一部のチカソー、なかんずく富裕、

(6)

権力層の経済活動の担い手として制度的に定着していった。チカソー・ネーショ ンの人口は、南北戦争直前の 1860 年に先住民約 79%、黒人奴隷約 18%、縁組白 人約 3% という構成になっていた(表 1)。また 1837 年の統計では、先住民中の「純 血者(full blood)」は約 77%、「混血者」および縁組白人は約 23%となっている。

この内、当初黒人奴隷を所有、使役していたのは前述のように「混血者」が主体 であり、この時期次第に先住民「純血者」を含む富裕層の全体に導入されたとは いうものの、1847 年の時点でチカソー社会内の黒人奴隷所有比は、「純血者」世 帯が約 2 割であるのに対し、「混血者」および縁組白人世帯は 8 割に及んだ。ま た世帯当たりの黒人奴隷所有数を 4 人未満、5 人以上、10 人以上の大規模所有の 3 種に分類すると、前者が 7:2:1、後者が 5:3:2 の比率となっている。チカソー を含む当時の「5 部族」社会では,土地は私有することはできないが ,  意欲と手 段を有する者が任意に占有し使用することができた。以上のことから、19 世紀 中葉の時期には社会内で相対的に少数集団であったが、より多くの奴隷を使役す る「混血」および縁組白人成員からなる富裕、権力者が、本来全ての者に共有さ れているチカソー領域内の土地を大規模に占有し、南部社会に類似した商業的綿 花プランテーション経営を行っていたことが推察されるのである12

これと同時期に合衆国は、東部先住民集団の占有する広大な領域を確保し、同 時に上記「文明化」政策も両立させることを目途に、フランスからのルイジアナ

12  Michael F. Doran, “Population Statistics of Nineteenth Century Indian Territory,” 

  53,  no.  4(1975):  506;  Yoshitaka  Iwasaki,  “Freedmen  in  the  Indian  Territory  after  the  Civil  War:  The  Dual  Approaches  of  the  Choctaw  and  Chickasaw  Nations.” 

  30:  Proceedings  of  the  NASSS  2008(2008):  93;  Wendy  St.  Jean,  Remaining Chickasaw in Indian Territory, 1830s-1907(Tuscaloosa, AL: University of Alabama  Press, 2011), 74; Bennie Coffey Loftin and Johnny Cudd, eds., 1847 Chickasaw Indian Census  Roll:  Indian  Territory,  1839  Chickasaw  Indian  Census  Roll:  Indian  Territory,  1837  Chickasaw  Indian Census Roll: Mississippi(McAlester, OK: Pittsburg County Genealogical and Historical  Society, n.d), 1-90. チカソー社会内の黒人奴隷所有の実態については、岩崎 , 「北米先住民族にお ける「混血者」の位置づけについての試論」, 19. も参照 .

䝏䜵䝻䜻䞊 䝏䝵䜽䝖䞊 䝏䜹䝋䞊 䜽䝸䞊䜽 䝉䝭䝜䞊䝹 ⥲ィ

ඛఫẸ䠄䜲䞁䝕䜱䜰䞁䠅 13821(81.0) 13666(81.3) 4260(79.1) 13350(85.2) 2630(71.8) 47,927(80.7)

ⓑே 716(4.9) 804(4.8) 148(2.7) 596(3.8) 35(1.0) 2,299(3.9)

㯮ேያ㞔 2511(14.7) 2349(14.0) 975(18.1) 1532(9.8) ⣙1,000(⣙27.3) ⣙8,376(⣙14.3)

⥲ィ 17,048 16,814 5,384 15,678 ⣙3,665 ⣙58,594

Doran, 501. 䜘䜚ᇳ➹⪅సᡂ䚹

表1 インディアン・テリトリーのネーション別人口(1860)(括弧内はパーセンテージ)

(7)

購入によって獲得した広大な西部領地の一部を充てた先住民のための排他的占有 領域インディアン・テリトリーへの強制移住政策も遂行しつつあった。1830 年 のいわゆるインディアン強制移住法の制定をうけ、チカソーは 1837 年より 1840 年代にかけてインディアン・テリトリー南部地域への移住を余儀なくされた。こ の時チカソーの所有する黒人奴隷も、主人と共に移住した。さらにチカソーはこ の移住によって、地理的、文化的に非常に近似し、人口は 4 倍に及ぶ「5 部族」

のひとつ、チョクトーの自治政体チョクトー・ネーション内にその一地区チカソー 地区(Chickasaw District)として包摂された。1855 年、チカソーは「混血」富裕、

権力層の主導下、合衆国およびチョクトーとの交渉の末、チカソー・ネーション としてチョクトー・ネーションから分離して移住前の独立性を再確保し、翌 56 年には憲法を制定した。そこでは、全ての「5 部族」ネーションと同様に黒人奴 隷制度が容認され、奴隷所有者の財産権の保護がなされた13

1861 年から始まる南北戦争では、インディアン・テリトリーの「5 部族」は最 終的に南部連合国と同盟した。このことには様々な理由が考えられるが、重要な 要因としてはインディアン・テリトリーが南のテキサス、東のアーカンソーとい う南部連合国諸州に半分包囲された状態に在ったことが挙げられる。さらに本稿 の関連でいえば、「5 部族」社会が主として「混血者」と縁組白人を主体とする 富裕、権力者層が黒人奴隷により依拠した社会経済を維持していた故に、南部社 会およびそれが体現する南部連合国への協調に親和性があったことが挙げられよ う。「5 部族」は連邦政府との関係性を解消して南軍に加担し、北軍とインディ アン・テリトリー内外で戦闘を行った。1865 年に南北戦争が合衆国の勝利に終 わると、同年から翌年にかけて南部連合国とは別個に合衆国と講和交渉に入った。

そして 66 年に、合衆国とチェロキー、チョクトーおよびチカソー合同、クリーク、

セミノールとの間に、それぞれ 4 つのいわゆる再建条約が締結された14。 これらの条約の趣旨には、土地の割譲と領内への鉄道敷設、割拠する各先住民 集団が個別に排他的自治を行ってきたインディアン・テリトリーの連邦への将来 的な統合、さらに各集団が所有、使役する黒人奴隷の解放と成員資格付与への要 求があった。チョクトー、チカソー合同で調印された再建条約(以下、チョクトー

/チカソー再建条約)の場合も、同様の内容をもつものであった。それはすなわち、

13  以上の経緯について詳しくは、岩﨑佳孝「強制移住後のインディアン・テリトリーにおけるアメ リカ先住民部族―チカソー族の部族内抗争と部族自治への道程」『アメリカ史研究』24(2001),  1-16. を参照 .

14  岩﨑佳孝「南北戦争後のアメリカ先住民連合による立憲共和政体構想―インディアン・テリト リーにおけるオクムルギー会議(1870 − 1878)」『パブリック・ヒストリー』9(2012), 120-122. 

(8)

(1)西部先住民集団(いわゆる平原部族)移住先とするため、共有領(Leased  District)とよばれる両ネーション共同保有領域を 30 万ドル(取り分はチョクトー 4 分の 3、チカソー 4 分の 1 の割合で分割)で合衆国に割譲する。ただしその 30 万ドルは一旦合衆国が信託運用する、(2)ネーション内へ鉄道を敷設することを 認め、さらに鉄道会社に沿線の土地を供与する、(3)インディアン・テリトリー に居住する先住民集団で連合政体を設立する、である15。しかし、本稿に関連して 最も重要な条項は、チョクトーとチカソーが所有、使役する黒人奴隷を解放し、ネー ション成員資格、参政権、土地 40 エーカーを授与すべしという規定であった16

黒人解放民に関わる条項も含め、4 つの再建条約は基本的には以上と同じ内容 をもつものであったが、チカソー/チョクトー再建条約については、黒人解放民 に関して他の三条約と内容を異にする項目があった。それは、解放後の黒人解放 民へのネーション成員権とそれに伴う諸権利授与項目の履行について、2 年間の 猶予が与えられたことである。またもし 2 年の期限内にネーションが当規定を執 行しなかった場合には、連邦政府が信託された 30 万ドルを用い両ネーションか ら黒人解放民を退去させるとともに、黒人解放民に 1 人当たり 100 ドルを供与す るということも、同条約独自の規定であった。

再建条約の調印後、1867 年にチカソー・ネーションは先の 1856 年憲法を改正し、

黒人奴隷制度に関わる条項を削除した17。再建条約によって奴隷身分から解放され ることとなったチカソー・ネーション内の黒人解放民の一部は、元の奴隷主が所 有する農牧場や農地に残留し、小作人(シェアクロッパー)や賃金労働者として 働いた。一方、その元を離れ開拓自営農民となる者、あるいは無法者(アウトロー)

や合衆国陸軍騎兵隊員(バッファロー・ソルジャー)となる者もいた18。 チカソーの民は、これら黒人解放民の存在を忌避し、その排斥を望んだ。それ はひとつには、黒人奴隷制度を教えたのは白人であったのにもかかわらず、白人 間の戦争である南北戦争に巻込み死傷者と居住地の荒廃をもたらした挙句、奴隷

15  インディアン・テリトリーにおける先住民連合政体構想について詳しくは、岩﨑 , 「南北戦争後 のアメリカ先住民連合による立憲共和政体構想」, 115-133. を参照。

16  Charles  J.  Kappler,  Indian  Affairs:  Laws  and  Treaties,  vol.  II(Washington: 

Government Printing Office, 1904), 918-931.

17  Authority,  (1860.  Wilmington,  DE: 

Scholarly Resources, 1975), 22; Authority, 

(1867. Wilmington, DE: Scholarly Resources, 1975).

18  Duane Champagne, 

(Stanford,  CA:  Stanford  University  Press, 1992), 223; Iwasaki, 96.

(9)

解放まで強いられたことへの怒りがあった。さらに奴隷解放の要求は、南部連合 国への加担に対する懲罰的な内政干渉であるという認識があった。以上のような 本来連邦政府に向けられるべき反感が、身近な黒人解放民に転嫁されたとみるこ とができるだろう。また、それまで所有、使役してきた奴隷と対等な立場になる ことへの心理的抵抗もあったであろう。さらに、後述するようにさほど奴隷労働 力に依拠していなかった非富裕、非権力層の者は、黒人との政治的、経済的競合 が生じることへ脅威を感じていたことも考えられる。このため、チカソー社会内 では黒人を知的に劣り、道徳心や自制心が欠如しているため犯罪を含む騒動をお こし、不潔故に伝染病を介する劣等「人種」であるとする認識が広まり、蔑視や 敵意のみならず、略奪やリンチ、ひいては殺害にまで及ぶ凄惨な暴力行為を黒人 に加え始めた19

一方ネーション政府は、先の条約による黒人解放民の成員としての容認に両 ネーションが判断を下す期限である 1868 年、チョクトー・ネーション政府と合 同で連邦政府に対し、30 万ドルを用い黒人解放民を速やかに退去させることを 求めた。しかし 73 年には一転して、「黒人へのチカソー・ネーション成員権授与 法(Act to Adopt the Negroes of the Chickasaw Nation, &c.)」を制定し、黒人 解放民を受け入れる意向を示した。さらに 77 年には 「1866 年条約承認法(Act  Confirming  the  Treaty  of  1866)」と「チョクトーおよびチカソー・ネーション 黒人解放民とその子孫に関する決議(Resolutions  in  Relation  to  the  Freedmen  and their Descendants in the Choctaw and Chickasaw Nations)」によって、再 び連邦政府に 30 万ドルを用い黒人解放民を退去させるよう要求したのである。

黒人解放民は、連邦政府および両ネーションに対し残留を要求し、合衆国市民権、

ネーション成員権双方の獲得と迫害からの保護を求め続けたが、連邦政府は具体 的行動を起こさなかった。そのためこの 1877 年以降、チカソーによる黒人解放 民放逐の方針は確定したのである20

さて再建条約以降 70 年代後半に至るまでの約 10 年間、チカソー・ネーション 政府は何故、社会内の黒人解放民に対する反感にもかかわらず、このように黒人

19  Chickasaw  Commission, 

(n.  d.  Wilmington,  DE:  Scholarly  Resources,  1975), 8-15, 22-23; Littlefield, 53; U.S. Congress, 

55th  Cong.,  1st  Sess.,  Doc.  157(Washington:  GPO,  1897), 2-3, 6, 16, 27-28. 

20  Chickasaw Commission, 8-15, 22-23; Littlefield, 53; U.S. Congress, 2-3, 6, 16, 27-28. 

(10)

解放民の成員認定についての方針を変転させたのであろうか。次節以降ではこれ を、当時のチカソー・ネーションが経験しつつあった社会、経済、政治状況との 関連から考察したい。

Ⅲ ネーションへの白人、黒人の浸出と成員規定の成文化

南北戦争後、合衆国東部での牛肉の需要増加をうけて、チカソー・ネーション は牛の群れをテキサスからカンサスまでの長距離を運ぶ、有名なチザム・トレイ ル(Chisholm  Trail)の中継地となり、多くの南部白人牧畜業者が牛が草を食む 牧草地をチカソーから賃借し始めた。1870 年代初頭には、チカソー/チョクトー 再建条約の規約に基づき鉄道会社に供与された敷設用地(right-of-way)に鉄道 が延伸され、それと共に周縁諸州、他の先住民ネーションから白人および黒人が、

土地投機業者、退役兵、難民、移民、無法者として大挙流入した。そして鉄道の 沿線には、多くのタウンが建設された。鉄道敷設後、牧畜業者はいったん牛を鉄 道でチカソー・ネーションまで運搬し、賃借牧草地で十分太らせた後再び鉄道に よりカンサス経由で東部市場まで運ぶようになった21

1870 年代初頭には、まだネーション内にはチカソーが散在して居住するのみ で、白人の数は僅かであったという。しかし 1860 年から 90 年にかけてのチカソー・

ネーション領域内における人口動態をみると、(縁組白人を含む)チカソーの約 23%増加に対し、黒人は 277%、非成員白人に至っては 32.617% の驚異的な増大 を示している。すなわち南北戦争直前の時点ではチカソーが人口の約 8 割を占め ていた領域は、1870 年代より世紀末に至るまでの間に先住民が 1 割弱に過ぎな い少数集団と化し、黒人もさることながら、圧倒的にチカソー・ネーション成員 以外の白人が多数を占めるようになり始めたのである(表 1, 2)22

21  Champagne, 209-210.

22  Joe T. Roff, “Reminiscences of Early Days in the Chickasaw Nation,” 

13, No. 2(1935), 177; St. Jean, 75.  

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表2 インディアン・テリトリーのネーション別人口(1890)(括弧内はパーセンテージ)

(11)

前節で述べたように、1855 年のチョクトー・ネーションからの自立以来、南 北戦争後に至るまでの富裕、権力者層を構成していたのは、「混血」および、縁 組白人成員層であった。ネーション共有領地を大規模に占有する「混血者」と縁 組白人は、戦前には多数の黒人奴隷を所有し商業的綿花プランテーション経営を 行い、南北戦争後は牛、豚の牧畜業を中心に、麦、トウモロコシを生産する農業、

林業、採鉱、石油掘削に経済活動の主軸を移した。この時期ネーション行政府の 長である総督(Governor)職に在ったウィンチェスター・カルバート(Winchester  Colbert)23と彼に続く総督サイラス・ハリス(Cyrus Harris)24もこの階層に属し ており、そこからの支持を得ていた。

チカソーの富裕、権力層は、南北戦争後の奴隷解放に伴い、それまで依拠して いた奴隷労働力を失うことになった。そこで「混血者」および縁組白人たちはそ れを補うため、ネーションに大量に流入する非成員白人および一部の黒人(解放 民)をカウボーイや賃金労働者として雇用し、あるいは自己が占有する共有地を 貸与し、放牧、土地の開墾、改良、小作、木材の伐採、採鉱等を行わせた。総督 ハリスも、経営する大農場内に白人労働者と小作農を抱えていた。チカソー富裕、

権力層はまた、主に白人非成員がネーション内で使用する土地や所有する牛を成 員である自己の名義とし、非成員資産に対する後述するネーション政府からの課 金を回避しようとした25

これらの非成員白人の中には、チカソーの雇用者となり、土地を賃借する者以 外に、チカソーとは関係を持たずにネーション内に不法定住を行う者も多数存在 した。またその一方で、チカソー女性との婚姻を志向する者も現れた。これによっ てネーション成員資格を得て、それ以外の者には許されないネーション内の土地 の使用権、占有権と、これまでの諸条約でチカソーが合衆国から配分されること になっている年次支給金を獲得することを目論んだのである26

このようなことを可能にしたのが、ネーション憲法における成員要件であった。

本来、先住民集団チカソーでは外部の非チカソー者、なかんずく白人(主として

23  任期 1858 年〜 60 年、62 年〜 66 年。

24  任期 1856 年〜 58 年、1860 年〜 62 年、66 年〜 70 年。

25  Wendy  St.  Jean,  “The  ʻPull  Backʼ  Policies  of  Governor  B.  F.  Overton:  The  Only  Good  White  Man  was  an  Evicted  White  Man.”  5,  no.  3(1999),  9-17; 

Wendy  St.  Jean,  “ʻYou  Have  the  Land,  I  Have  the  Cattleʼ:  Intermarried  Whites  and  the  Chickasaw  Range  Lands,”   78,  no.  2(2000),  182-195;  Wendy  St.  Jean, 

56.

26  St.  Jean,  “The  ʻPull  Backʼ  Policies  of  Governor  B.  F.  Overton,”  9-17;  St.  Jean,  “ʻYou  Have  the  Land, I Have the Cattleʼ,” 182-195; St. Jean, Remaining Chickasaw in Indian Territory, 56.  

(12)

男性)は、縁組により比較的容易に社会内に迎え入れられてきた。縁組は古来、

血縁、地縁に出自をもつ各地有力者の討議と合意によって運営される社会統治シ ステム「集会(Council)」によって決められた。しかしインディアン・テリトリー 移住後から 1845 年代にかけて「集会」は事実上消滅し、1855 年にチカソー・ネー ションが成立した後は、選挙によって選出された統治者によって構成されるネー ション議会(Council)の認定により縁組が行われる場合もあった。しかし母系 社会のチカソー社会を反映して、多くの場合縁組はチカソー女性との婚姻によっ て容易に実現した。18 世紀以降、縁組白人成員男性とチカソー女性との間に生 まれた白人血統を有する「混血者」が社会内に多数出現した理由はここにある。

さらに先に述べた 1856 年憲法において、チカソー成員たるための規定が初めて

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Authority, Constitution, Laws, and Treaties of the Chickasaws(1867) 䐡 䝏䜹䝋䞊ᡂဨ䛸፧ጻ㛵ಀ䛻䛒䜛㠀ᡂဨ䛾ኵ䠋

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表 3 チカソー成員規定(1856)

表 4 チカソー成員規定(1867)

(13)

成文化され、同憲法ではおそらく白人を主たる対象とする非成員を、婚姻を通じ た手段を主とする縁組によって、本来の先住民成員が有する一部の権利を除外さ れた成員として受け入れることを明示した(表 3:網掛け部分)。さらに南北戦 争直後の 1867 年憲法では、白人成員は先住民成員とほぼ同等の権利を得ること になった(表 4:網掛け部分)27

1860 年代のネーション政治を主導した富裕、権力層を代表する総督カルバー トは 1866 年、「再建条約によって白人の入植を認めなくてはならなくなった」た め、ネーション領内への多数の白人侵入を阻止することは最早できないと述べた。

ここから「混血」および縁組白人成員たちに、およそ困難な侵入者の排除を試み るよりも積極的に参入してくる白人を労働力とし、場合によっては成員として包 摂した方が得策であるとの認識が生まれたと推察される。また富裕、権力層は、

戦前は大規模奴隷所有主として人を使役、雇用する経営に親和性があった故に、

戦後も引き続き大土地「所有」を行いつつ、奴隷の喪失によって不足することに なった労働力を主に白人によって補完しながらの経済発展を志向したのであろ う28

その一方、白人同様に非成員の黒人奴隷(1856 年憲法の場合)ないし解放民

(1867 年憲法の場合)の場合は、南北戦争以前は奴隷という社会的身分の故に縁 組は希少であったろうし、戦後には前述のような黒人解放民に対する一般民の極 度に否定的な感情から縁組を得ることは困難であったと思われる。また戦争後の 憲法の規定にも、白人の場合とは異なり成員となり得る可能性は読み取れない(表 3, 4:イタリック部分)。

しかし一方で総督カルバートは先の白人受容止むなしとの声明中で、チカソー 黒人解放民をネーション外に追放した場合、特にチカソー/チョクトー再建条約 で手放したネーション西部に接する共有領に、諸州や他のネーションからやって 来る解放黒人、黒人解放民も包含した莫大な数の黒人居住地帯が発生する可能性 への懸念を述べた。そのために彼は、黒人解放民をネーション内で少数派に留め おいたまま労働力として利用する方が得策であり、さらにその場合には連邦政府 からネーションに支払われることになる 30 万ドルを、南北戦争の補償金として

27  Authority,  (1860),  17,  19;  Authority, 

(1867),  6,  17;  St.  Jean,   74-75.

28  “An  Address  of  P.  P.  Pitchlynn  and  Winchester  Colbert,”  27  August  1873;  John  Bartlett  Meserve,  “Governor  Daugherty(Winchester)Colbert,”  18,  no. 4(1940), 352-354.

(14)

受け取るべきであると説いた29

この声明中、とりわけ後半部分の主張には、自身の属する富裕、権力層が依っ て立つ経済活動の担い手として非成員白人と同様に黒人解放民も利用せんとする 思惑が伺えるが、他方白人とは異なる黒人への「人種」的な恐怖の存在も窺うこ とができるかもしれない。とまれ、チカソー/チョクトー再建条約の規定に従い ネーション成員となった場合にも、黒人解放民は白人が成員として縁組された場 合とは異なる非常に限定的な条件の下におかれることになっていた(表 4:イタ リック部分)ことから、白人と黒人の差別化が図られていた30

南北戦争後の奴隷解放によってチカソーの民の間に黒人解放民への強い反発が 生じていたにもかかわらず、1873 年に「黒人へのチカソー・ネーション成員権 授与法」が制定され、ごく一時的にではあるが黒人解放民の成員としての包摂が 決せられるという矛盾する事態が生じた。これは何故なのかという問いに対して は、当時のネーションがカルバートと、同じ社会階層に属する総督ハリスの政治 的影響力の下にあったことを勘案すると、以上述べたような文脈上によってのみ 理解し得ると思われるのである31

Ⅳ チカソー・ネーションによる黒人解放民排除の意味

1870 年代は、ネーション内への非成員の白人、黒人人口の急増と並行して、

1855 年のネーション結成から 60 年代まで政治を支配し、経済活動を積極的に行っ てきた主に「混血者」、縁組白人からなる富裕、権力層と、それ以外の者、とり わけ「純血者」を主体とするチカソーの民との間で、経済面の格差が一層拡大し た。

その結果チカソー史上初めて、2 つの政党が結成された。いずれの党も綱領を 掲げ、党首と各地域における支部長を擁し、党員集会の実施等による政争が展開 され、チカソーの民からの支持獲得を目指した。そのひとつ回帰党(Pullback  Party)は、これまで政治にさほど関与してこなかった「純血者」の多く、すな わち戦前に奴隷を全く所有していないか少数しか使役していなかった者、自営農 民、伝統・保守主義者等の非富裕者を支持母体とした。回帰党の主張は、従来の 政権が容認してきたように経済活動推進のために多くの外来者、特に白人をネー ションへ受け入れることを自治への侵害とみなし、これに批判的であった。これ

29  “An Address of P. P. Pitchlynn and Winchester Colbert” ; Wickett, 11-12.

30  Authority,  (1867), 6, 17.

31  “An Address of P. P. Pitchlynn and Winchester Colbert” ; Wickett, 11-12.

(15)

に対し従来の富裕、権力層は、総督ハリスを筆頭とする革新党(Progressive  Party)を結成してこれに対抗した。しかしながら、「純血者」と「混血者」およ び縁組白人の人口比を反映し、回帰党の支持者は革新党支持層を上回っていた。

その結果、1870 年代中葉からは回帰党がネーションの政治を担うこととなり、

支持者である多数のチカソーからの支持を得て 80 年代中葉までの 10 年間ネー ション総督職に就いたのが、ベンジャミン・フランクリン・オーバトン(Benjamin  Franklin Overton)であった32

オーバトンは、8 分の 7 の白人血統を有する「混血者」であった。政敵は彼の 白人的な外見を非難し、そのインディアン性に疑義を呈することによって攻撃を 加えた。しかしオーバトンはその評価とは反対に、「大胆」「断固たる」「積極的」

と評される手腕をもって、反白人的政策を遂行していった。彼は白人、とりわけ 下層階級の者は人間の姿を借りた悪魔であると言い切ることでその脅威を訴え、

先住民は白人より優性な人種であるとさえ主張した。彼は同様の文脈から、当時 合衆国西部で遂行されていた先住民集団ラコタ(Lakota)の武力抵抗への合衆 国陸軍騎兵隊による鎮圧戦、いわゆるスー戦争(Sioux War)を33、白人による不正、

邪悪な侵略に対する先住民の自衛戦争と位置付けた。彼は 1880 年に、ラコタを 含む西部の先住民集団(いわゆる平原部族)のチカソー・ネーションへの移住と 定住を連邦政府に要求しさえしている34

翻ってチカソー・ネーションの現況を見るに、オーバトンは無断侵入者に土地 が奪われている点においてかつてチカソーが経験した合衆国南東部からの強制移 住と同じであると断じ、ネーションからのあらゆる非チカソーの排除を主張した。

自身は大牧畜業者であったにもかかわらず、彼は白人、とりわけ牧畜業者と、黒 人解放民による土地浸食の防止のため、非成員の規制と排除、回帰党支持層であ る小規模自営農民の保護、ネーションの財源増大のための政策を唱導し、1874 年と、総督職 2 期目にあたる 76 年にも、革新党の元総督ハリスを破り総督職に

32  任期 1874 年〜 78 年、80 年〜 84 年。途中に 2 年間空いているのは、ネーションの規定により 2 年任期の総督再任は 1 回しか認められていなかったためである。そのためにその間は、オーバト ンの義理の弟である B・C・バーニー(B.  C.  Burney)が代理として総督職に就いた。John  Bartlett  Meserve,  “Governor  Benjamin  Franklin  Overton  and  Governor  Benjamin  Crooks  Burney,”  16, no. 2(1938): 221-223; St. Jean, “The ʻPull Backʼ Policies of  Governor B. F. Overton,” 9-11.

33  スーとはラコタの別称である。

34  これは一方で、ネーション内に西部先住民集団の居住区を設定することで白人、黒人によるこれ 以上のネーション領有地獲得を妨害するという意図もあった。Meserve, 221-325; “Message of B. 

F. Overton,”   20 September 1883; St. Jean, “The ʻPull Backʼ Policies of Governor  B. F. Overton,” 10-11.

(16)

就いた。

ここでいう非チカソーとは、理論的には白人と黒人解放民を含む全ての非成員 を指す。繰り返し述べるように、革新党支持層主体の旧政権下、1873 年に「黒 人へのチカソー・ネーション成員権授与法」において一旦黒人解放民に限定的な がらも成員権を与える方針が決した。オーバトンは 75 年と翌 76 年、チョクトー・

ネーションとの間に両ネーションの黒人解放民を放逐する方針について共同歩調 をとるための交渉に入り、77 年には「1866 年条約承認法」と「チョクトーおよ びチカソー・ネーション黒人解放民とその子孫に関する決議」によって 73 年法 を破却すべく、再び連邦政府に 30 万ドルを用い黒人解放民を退去させるよう要 求したのであった。さらに 1884 年には、白人に人口面で圧倒(傍点執筆者)さ れつつあるネーションの自治遂行に多大な被害を及ぼすとして、黒人解放民への 成員資格付与にも反対の意を表明した35

しかし上記傍点に示されているように、オーバトン政権下のチカソー・ネーショ ンでより大きな脅威として捉えられ、主たる規制、放逐対象とされたのは、南北 戦争後、特に 1870 年代に急増した入来者、特に成員女性との婚姻という手段を 用いて成員となることを謀る者も含め、黒人よりはるかに人口面で脅威となりつ つあった白人、特に牧畜業者であった。これは、中継ぎとみなし得るバーニー政 権も含むオーバトン政権時代、ネーション議会で承認された法案や決議の数が、

非成員白人関連(と推察されるもの)が黒人解放民関連のものより 4 倍以上であ ることが確認できることからも明らかである(表 5:網掛け部分)36

1870 年代中葉から 80 年代中葉にかけてチカソー・ネーションで制定された、

白人対象と推察される主要立法を、以下に幾つか挙げる。ネーション内への居住 を希望する労働者、農民に対しては、「居住許可法(Permit  Law)」に基づき当 初は年 5 ドル(1876 年)、次いで 25 ドル(1878 年)の課金を行い、未支払者は 不法侵入者とみなし後述の排除対象とした。ネーション内での営利行為にも年単 位の許可料を課し、販売する商品にも課税した。医師にも、営業許可料として 1 年毎に更新料 5 ドルを求めた。とりわけ牧畜業者に対しては使用する牧草地域の 制限とその利用料を徴収し、牛 1 頭毎に課税した。さらに毎年、その税額を値上 げした。また南北戦争後増大したチカソー女性との婚姻によってネーション成員 権取得を意図する者には、1876 年の「全ての非成員にネーション市民との婚姻 許 可 証 発 行 条 件 と し て チ カ ソ ー・ ネ ー シ ョ ン へ 2 年 の 居 住 を 課 す 法(Act 

35  Meserve, 221-325; “Message of B. F. Overton”; St. Jean, “The ʻPull Backʼ Policies of Governor B. F. 

Overton,” 10-11.

36  Authority,  (1867); Chickasaw Commission.

(17)

Requiring All Non-citizens to Remain in the Chickasaw Nation for a Period of  Two  Years  before  They  Can  Procure  a  License  to  Marry  a  Citizen  of  This  Nation)」等によって既成員中の人格に優れた者 5 名からの素行と勤勉性につい ての推薦と、2 年以上ネーションに居住しているという条件を満たした上で、婚 姻許可証を発行した。以上の課金に従わない非成員に対しては、ネーション政府 の家畜監督官、保安官、軽騎兵隊(Lighthorse)に、創設した民兵を加えて、時 には総督自らがそれらを率いてネーション内を巡回し徴税を行い、それに従わぬ 者を不法侵入者として退去を通告し、占有牧草地を囲む鉄条網を切断し飼育する 牛を解き放つといった強制的手段まで行使した37

オーバトンの後継者として回帰党のジョナス・ウルフ(Jonas Wolf)38が総督と なった後の 1885 年、「チカソー・ネーション黒人解放民への成員権付与棄却法(Act  Rejecting the Adoption of the Freedmen in the Chickasaw Nation)」が制定さ れ、黒人解放民の(限定的)成員化を認めた 1873 年の「黒人へのチカソー・ネー

37  Chickasaw Commission, 26-30; St. Jean, “The ʻPull Backʼ Policies of Governor B. F. Overton,” 12- 13.

38  任 期 1884 年 〜 86 年。John  Bartlett  Meserve,  “Governor  Jonas  Wolf  and  Governor  Palmer  Simeon Mosely,”  18, no. 3(1940): 243-251.

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表 5 チカソー総督 (1856-1886)別にみるネーション議会の法案・決議承認数

(18)

ション成員権授与法」は公式に棄却され、以後チカソー黒人解放民放逐は既定方 針となった。その一方、オーバトン政権で開始された法的規制および強制退去の 行使によっても、流入する非成員白人の排除は功を奏さなかった。合衆国市民と して本来的にネーション法適用外にある非成員白人に対し、ネーション政府は直 接の刑罰を科すことができなかったし、鉄条網の切断といったネーション警察権 力の間接的な圧力に一旦退去を強いられることになった場合でも、白人は当局が 現場を撤収するとすぐに立ち戻った。またオーバトン政権期に「居住許可法」に よる 25 ドルの課金が、非成員白人のみならず彼らを雇用する革新党勢力の富裕 者たちからも大きな反発を被ったために 78 年中に撤回されたことも、80 年代に さらなる外部からの侵入の誘因となった39

このことが示すように、チカソー・ネーションが黒人解放民よりも大きな脅 威とみなした成員以外の白人の侵入は、留めることができぬまま爆発的に増加 し続けていった。そして既述のように、先住民ネーションに所属しない白人の 人口は、19 世紀末にはネーションの 8 割強を占めるまでに至った(表 2)。これ はインディアン・テリトリー全体に共通する現象であり、1890 年にはテリトリー 西半部が白人を主体とするオクラホマ・テリトリー(Oklahoma  Territory)と して分離した。非成員白人の人口は残されたインディアン・テリトリーでも先 住民、黒人(解放民)を超過し、先住民集団が「無駄に」占有する広大な領域 の解放を求める内外の白人社会からの声は合衆国世論、ひいては政界を動かし た。連邦政府は 1887 年のいわゆる「ドーズ一般土地割当法(Dawes  Act)」と 1898 年の「カーティス法(Curtis Act)」に基づく 93 年から 20 世紀初頭にかけ てのドーズ名簿作成によって、インディアン・テリトリー住民を「インディアン」

「通婚白人」「黒人解放民」のカテゴリーに分け、インディアン・テリトリーの 先住民占有領域を分割し、各個人に私有地として割当てた。それに伴い 1906 年 には「5 部族」ネーション政府は公的には解体され、翌 1907 年にインディアン・

テリトリーとオクラホマ・テリトリーが合併しオクラホマ州が成立し、連邦に 加盟した。以上の経緯の中で、先住民は無論のこと「5 部族」ネーションが排 斥した黒人(解放民)は共に、合衆国白人市民を主体とする歴史の潮流の中に 呑み込まれていったのである40

39  Champagne, 225; Chickasaw Commission, 12-15. 

40  Angie  Debo,  (1940. 

Princeton,  NJ:  Princeton  University  Press,  1968),  14;  Doran,  512;  St.  Jean,  “The  “Pull  Back” 

Policies of Governor B. F. Overton,” 11. なおオーバトン政権以降 20 世紀初頭にかけての、チカ ソー・ネーションを含むインディアン・テリトリーの状況について詳しくは、岩崎 , 「南北戦争

(19)

Ⅴ おわりに

「はじめに」で述べたように、先住民集団チカソーは「部族」とよばれるエスニッ クな血縁集団、集落、集合体、地域コミュニティとしての形態から、ヨーロッパ 人の入植後、次いでアメリカ合衆国建国後、ネーションとして再構成された。チ カソー以外にその顕示的な事例の嚆矢とみなすことができるのが 19 世紀初頭の チェロキー・ネーションの成立であるが、チカソーの場合は 1855 年のチョクトー・

ネーションからの自立時をその画期として捉えることができよう。「部族」とは 異なりネーションは、他の先住民集団(ネーション)、外部白人社会、周縁諸州 と峻別される特定の地域に継続的に存在するものとして、部族時代には曖昧で あったネーションの境界線を設定し、それと共に誰が先住民チカソーであるのか という、成員についての厳密な規定が成文として明示されたのである。そこでは、

チカソーではない先住民は無論のこと白人でさえ婚姻を中心とした縁組によって 成員となることが許される傍ら、ネーション化、「近代化」の過程で白人社会と 連結した「人種」意識が涵養された結果、黒人奴隷/解放民は先住民とは切り離 された。

その一方、当時の合衆国為政者からは近代的、民主的、中央集権的な形態をも つものとして評価され、連邦体制の中で暫定的に存続を認められたネーションは、

少なくとも 19 世紀中盤までは、多分に従来の先住民チカソー的な要素の残滓を とどめた、外形上疑似的、取捨選択的な西欧的立憲共和政体でもあった。ネーショ ン成立から 1870 年代まで富裕、権力層を構成してきた人口面で少数派である「混 血者」および縁組白人成員は、合衆国資本主義経済と結節し、慣習的に共有され てきた領有地を大規模に占有使用すると共に、非成員白人労働力を積極的に包摂 して利用した。しかし、このような振舞は多数派「純血者」が主体の非富裕層の 反感を醸成し、非チカソー排除を標榜する政権の成立というかたちで表出した。

それは換言すれば、白人および黒人(解放民)の社会内への大挙流入による土地 浸食と労働力をめぐる競争の激化に、多くの先住民が抱いた危機感を体現する現 象であった。しかしそこでより大きな脅威とされ、対策が講じられたのは、黒人

(解放民)よりもはるかに数的に勝る白人であった。チカソー・ネーションにお ける黒人解放民に対する処遇は、白人に比して極めて限定的な成員権を認めるか 認めないかという段階にとどまり、最終的には白人排斥の文脈の中で一絡げに除

後のアメリカ先住民連合による立憲共和政体構想」および , 岩崎佳孝「20 世紀のアメリカ先住民 連合の新州創設構想―セコイア州憲法制定会議(1905)の考察」『アメリカ史評論』30(2013),  10-29. を参照。

(20)

外されたと捉える必要があるだろう。

最後に、考察の俎上に載せることが叶わなかったいくつかの課題について述べ ておきたい。本稿では先住民チカソーにとって、黒人解放民はどのような意味に おいて不必要とされていったのかという問題を手掛かりに、チカソーによるネー ション構築の過程について考察した。今後はこの問題を、チカソー・ネーション に対峙し、国内先住民に対する処遇を行う立場にあるアメリカ連邦政府為政者が、

再建条約の中で黒人解放民を先住民と同等の成員と為すことを求め、またそれに もかかわらず、以後、先住民から迫害を受けた黒人解放民からの救済要求に応じ なかった理由は何故なのかについて考察することも必要であろう。この課題を併 せて考察することによって、再建期から世紀末にかけてのアメリカ社会、特に黒 人への差別を強化する南部社会の政治、経済、人種意識が、チカソー・ネーショ ンと白人、黒人の関係性に照射したものは何だったのかを明らかにし、アメリカ 連邦体制下における先住民ネーションの位置づけについての、より深化した考察 を行いたい。

(21)

Emancipation of African American Slaves in the  Indian Nation:

Politics regarding the Chickasaw Freedmen and  Tribal Citizenship after the Civil War

Yoshitaka Iwasaki

This  study  examines  the  historical  implication  and  politics  regarding  the  tribal membership of the Chickasaw freedmen, the former slaves once owned  and emancipated by the Chickasaw Nation of the so called “the Five (Civilized)  Tribes” living in the Indian territory, now around the State of Oklahoma. The  study  reviews  how  and  why  the  Chickasaw  freedmen  were  not  assimilated  into the tribe of their former owners after the Civil War.

After  the  Confederates  surrendered  in  1865,  the  federal  government  concluded  treaties  with  the  Five  Tribes  to  re-establish  relations  with  these  Native American nations in 1866. These treaties included articles obliging the  Indians to emancipate their black slaves and grant them citizenship rights and  40 acres of land. 

More  specifically,  the  treaty  with  the  Chickasaw  Nation  included  two  options.  The  first  option  stated  that  if  the  freedmen  would  be  given  the  aforementioned  benefits  within  two  years,  then  the  Chickasaw  Nation  would  be paid $300,000 by the U.S. government to cede “the leased district,” i.e., the  western  part  of  the  Chickasaw  and  Choctaw  Nations  jointly  held  by  both  tribes.  The  second  option  stated  that  the  freedmen  would  be  moved  to  “the  leased district” with help from the U.S. Army while using part of the $300,000  to  support  the  effort.  Whichever  option  was  chosen,  the  pay  for  “the  leased  district” would be held in a trust by the U.S. government until the Chickasaw  Nation made its decision regarding the future of their freedmen.

In  contrast  to  the  other  four  nations  (the  Cherokee,  Choctaw,  Creek/

参照

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