カントにおける反省的判断力と実践
著者 八木 緑
雑誌名 人文論究
巻 70
号 2
ページ 31‑46
発行年 2020‑09‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/00029022
カントにおける反省的判断力と実践
八 木 緑
カントの実践哲学の基盤をなすのは道徳法則に対する格率ないし行為の合法 則性である。しかしその一方で,カントは「目的の国」という「体系的に結合 したすべての目的の全体」を構想し,理性的存在者はその成員でなければなら ないと説く。後者のような目的の体系は,自然法則にも比せられる前者の普遍 的支配によっては成り立ちえない。それは合目的的な秩序として,そのうちに 包摂されるものの間隙なき連関を要求する。しかしそのような理念はいかなる 原理に従って考えられ,またいかなる仕方でわれわれの意志に関わるのか。
『純粋理性批判』では互いにほとんど接点をもたず,ゆえに問題になることも なかった法則と目的という二つの原理は,実践哲学においてはともに意志を規 定するものとして,改めてその関係を問われることになる。
以下では,『判断力批判』に基づいて,これらの関係に加え,この著作の固 有の課題である自然と自由の架橋の問題について考察する。その手立てとし て,まず反省的判断力のはたらきについて概観し,規定的判断力とは異なるそ の独自性が特殊から普遍への単なる上昇ではなく,特殊と普遍との連関を探し 求める運動にあることを指摘する(第一章)。続いて,このような判断力が従 うところの反省の原理について『判断力批判への第一序論』に基づいてより詳 しく分析する(第二章)。そして反省的判断力が自然概念と自由概念との媒介 を担う能力であるということの意味を明らかにするために,まず『実践理性批 判』における「実践的判断力」の議論に基づき,そこでの判断力は規定的なも のであること,およびそれだけではカントが掲げる感性界と超感性的世界との 媒介をめぐる問題の解決には不十分であることを確認する(第三章)。その上 で,道徳的善の範型への論及によって既に『実践理性批判』において先取りさ
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れていたとも言えるこの媒介の問題が,反省的判断力の導入によっていかにし て解決の可能性を見出したかについて述べる(第四章)。
第一章 反省的判断力と無限の探究運動
カントは判断力を悟性と理性との間の「中間項」(KU : V 168)として位置 づける(1)。悟性は唯一アプリオリな構成的認識原理をもちうる能力であり,
また理性は理念によって悟性の僭越を抑制しつつ,「完全性(Vollständig- keit)の原理」に従って悟性を指導する(KU : V 167 f.)。判断力はそれらの 認識能力の中間にあって,快・不快の感情にも直接的な関わりをもち,美感的 判断を担う。カントは判断力がいかなる原理によってこの判断をなすのかを明 らかにすることが『判断力批判』という著作の最も主要な仕事であると述べる
(KU : V 169)。美感的判断力は「趣味能力(das Geschmacksvermögen)」
とも呼ばれるが,カントはここで「趣味の育成と洗練」を目論んでいるのでは なく,もっぱら「超越論的な意図」から判断力という能力を吟味しようとして いるのである(KU : V 170)。
ところで『判断力批判』では,美感的判断力のみならず,序文(Vorrede)
では一切触れられない「目的論的判断力」についても,節数は大幅に違うもの の(前者は§1-60,後者は§61-91)前者と同じく固有の部門が与えられ,また ページ数から見てもほとんど変わらないだけの分量が当てられている。しかし その成立事情(2)にはやや不可解な点がある。カントはいわゆる前批判期から 既に美や趣味の問題に取り組んでおり,その思想の片鱗は『美と崇高の感情に 関する考察』や当時の書簡から見て取ることができる。それに対して,目的論 が主題化されたのは批判期に入ってからであり,カントが有機体論を美学理論 と並立させるかたちでひとつの著作に収めるという考えに至ったのは『判断力 批判』公刊の前年である1789年とされている(3)。それにもかかわらず,カン トは目的論を『純粋理性批判』における認識論,『実践理性批判』における道 徳論に並ぶテーマとして採用した。たとえば1787年のカール・レオンハル
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ト・ラインホルト宛書簡のなかで彼は次のように述べている。
「いま私は『趣味批判』に従事していますが,これに際しては,これまで の原理とは別種の新しいアプリオリな原理が発見されます。というのは,
心の能力は三つあるからで,認識能力,快・不快の感情および欲求能力が それです。第一の能力に対しては『純粋(理論的)理性批判』において,
第三の能力に対しては『実践理性批判』において,アプリオリな原理を発 見しました。私は第二の能力に対 し て も そ の 原 理 を 探 し 求 め ま し た
[...]。私は今ではそれぞれがアプリオリな原理をもった哲学の三部門を 認めています[...]。この三部門とは理論哲学,目!的!論!,そして実践哲学 です[...]。」(BW : X 313,傍点筆者)
アウグスト・シュタドラー(4)やJ・D・マクファーランド(5)が指摘している ように,『判断力批判』における目的論の検討は,『純粋理性批判』において既 に「事物の合!目!的!的!統一」(KrV : A 678/ B 715)や「目的論的連関」(ibid.)
等の概念とともに展開されていた理性の統制的使用の理説をさらに追究したも のと解釈することもできる。確かにそのような解釈は,目的論が『判断力批 判』以前のカントの念頭にあり,それどころかカント哲学において重要な地位 を占めるものでさえあると示唆することで,『判断力批判』が与える唐突な印 象をいくらか和らげるのに役立つかもしれない。しかしそれは,なぜ目的論的 判断力が美感的判断力とともに同じ著作内で扱われ,上の引用に見られるよう に目的論がひとつの独立した哲学的部門として両者を対象としうるのかを説明 するものではない。そのような包括的な意味において用いられている目的論と は何だろうか。また,二つの判断の仕方に共通する判断力の本質的な原理とは 何だろうか。
カントは序論(Einleitung)で判断力について次のように述べる。「判断力 一般は,特殊を普遍のもとに含まれているものとして考える能力である」
(KU : V 179)。「規則,原理,法則」といった普遍的なものが与えられている
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場合には,判断力は「規!定!的!」であり,「悟性が与える普遍的超越論的法則の もとに包摂するにすぎない」(ibid.)。それに対して特殊のみが与えられてい て,それを包摂しうる普遍を探し求めなければならない場合には,判断力は
「反!省!的!」である(ibid.)。反省的判断力は,悟性法則では規定しきれないで 取り残されてしまう「自然のきわめて多様な形式」,言い換えれば「普遍的な 超越論的自然概念のきわめて多くの変容」(ibid.)に対して,なおも法則を求 めて「自然における特殊から普遍へと上昇する責務(Obliegenheit)」を負っ ている(KU : V 180)。「自然に法則を与える」のが規定的判断力だとすれば,
反省的判断力は「自分で自分に法則を与えるだけ」であるが(ibid.),反省の はたらきを兼ね備えているからこそ,判断力は自分自身をある種の不満足から 救い,自然を一定の連関のもとに把握することができる。
このような反省的判断力の原理としてカントは「自!然!の!合!目!的!性!」(ibid.)
を挙げる。合目的性とは「ある事物が,目的に従ってのみ可能な事物の性質と 一致すること」(ibid.)を意味する。なぜ合目的性の原理が必要なのか。悟性 の普遍的自然法則は,必然的な法則として,可能的経験の対象としての自然一 般を成立させる。そのような自然は確かに法則による斉一的支配において統一 されているが,しかしその統一は「無限に多様な経験的法則の可能性」(KU : V 183)を備えた自然をも包摂しうるものではないから,「経験の全体への経 験的認識の汎通的連関」(ibid.)を与えることはできない。そのため,反省的 判断力は「これらの経験的法則に関して,自然をわれわれの認識能力に対する 合!目!的!性!の!原!理!に従って考察しなければならない」(KU : V 184)。つまり合 目的性とは,自然の多様に対して際限なく見出される経験的法則を取りまと め,経験の体系的統一を可能にするために判断力が用いるひとつの方法,すな わち「格率」(ibid.)である。
反省的判断力が合目的性という,機械論的原理としての自然法則の合法則性 とは異なる原理を構成的ではないが超越論的な認識原理として想定せざるをえ ないのは,「自然の秩序(Ordnung der Natur)」(KU : V 184 f.)への一種の 志向性がそもそも悟性の根底にあるからである。確かに悟性は,「われわれに
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とって甚だしく混雑している素材」(KU : V 185)から汎通的連関を作り出す 原理をもち合わせていないけれども,しかし自然の秩序の可能性を想定しなけ れば経験的法則を追求することもできない。そのような想定は,言い換えれば
「類(Gattung)」と「種(Art)」との間の連関がわれわれにとって理解可能で あるというアプリオリな前提である。「経験的法則に従う自然に対して反省を 施す た め に,自 然 と わ れ わ れ の 認 識 能 力 と の こ の 調 和(Zusammenstim- mung)がアプリオリに前提される」(ibid.)。こうして判断力は「自!然!の!特!殊! 化!(Spezifikation)の!法!則!」(KU : V 186)によって,それぞれの種に対し ては普遍であるところの特殊を,単にばらばらの多様としてではなく再び統一 にもたらされうるものとして捉えようとする悟性の要求に応える。
合目的性は,主観的合目的性として,こうした特殊的経験的自然法則の体系 化に関わるのみならず,概念的把握に先立って構想力と悟性とが意図せずに調 和することで生まれる快の感情を伴った美感的判断の原理でもあり,さらにま た客観的合目的性として,自然目的の理念に従い有機体について判断する目的 論的判断の原理でもある。主観的合目的性と客観的合目的性の区別のゆえにカ ントは『判断力批判』を二つの部分に分けたのだが,ここではそれぞれの詳細 な分析に立ち入ることはせず,あくまで反省の根本的なはたらきの考察に傾注 したい。上で見たように,そのはたらきは規定的判断力の限界を超え出たもの に対して,単にそれを包摂しうる普遍を探し出すという仕方で上昇の道を進み 続けるだけではない。反省的判断力は,自然の秩序の想定のもとで体系的な特 殊化を可能にしつつ,また特殊に対する体系的な普遍化を求める。それは特殊 と普遍との間を往来する一種の運動であり,無数の特殊に対する終わりなき探 究である(6)。次章では『判断力批判への第一序論』(以下『第一序論』)に基 づき,このはたらきの意義について考える。
第二章 『第一序論』における反省の原理
カントは『第一序論』においては,まず反省的判断力を「与えられた表象に
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よって可能な概念のために,その表象についてある原理に従って反!省!す!る!能 力」(KU : XX 211)と定義する。そこには特殊や普遍という言葉はなく,反 省的判断力はただ表象とそれに対して求められる概念との関係を取り扱う能力 として説明される。また,反省は「熟考(Überlegen)」であり,「与えられた 表象によって可能な概念との関係において,他の認識能力と比較するか,自分 の認識能力と比較するかのいずれかである」とされる(ibid.)。自然の対象に ついて反省する場合,判断力は「あらゆる自然事物には経験的に規定された概! 念!が見出される」(ibid.)ということを原理とするが,それはつまり規定的判 断力の発揮に際してはあらかじめ与えられているような特定の概念が当該の表 象にも必ず見出されるはずだという前提に立つということである。そうでなけ れば,「すべての反省は単に行き当たりばったりで盲目的なものになってしま うだろう」(KU : XX 212)。
ところで反省が比較であるとはどういうことだろうか。それは,概念を作り 出すために「与えられた表象を他のいくつかの表象と比較し,この与えられた 表象が他のさまざまな表象と同じくもつところのものを,ひとつの徴標として その一般的使用のために引き出す」(KU : XX 211 Anm.)というような論理 学的処理とは異なる。論理学は,その比較の対象よりも自然がはるかに多くの ものを,あらゆる客観に対して示すかどうかということについて何も教えな い。それに対して反省的判断力は,自然がそのうちにある「限界なき(gren- zenlos)多様」を類と種とに区分しつつひとつの体系をなしていることを想定 しながら,多様に応じて現れる「自然形式(die Naturformen)」を多かれ少 なかれ普遍性をもった概念にもたらす(ibid.)。したがって反省における比較 とは,単に与えられた表象同士を比較して共通点を取り出すのではなく,自然 の多様を類と種の区分によって互いに連関するものとして見なす観点から自然 形式を比較することを意味する。それゆえカントは,反省の原理が論理学に属 するどころか,むしろ「自然をわれわれの判断力に対してひとつの体系として 表象させる原理」が「自然に対する論理学の適用の可能性の条件」なのだと主 張する(ibid.)。
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反省的判断力は,普遍的自然概念に関しては特別な原理を必要とせず,ただ この概念を「図!式!化!」(KU : XX 212)して経験的総合に適用すればよく,こ の場合には同時に規定的である。しかし与えられた経験的直観に対して初めて 見出される概念に関しては,われわれが既にそれに対して概念をもっているよ うな経験的形式との単なる比較ではなく,「独自の超越論的原理」(KU : XX 213)による反省が必要となる。もしこのような反省が不可能だとすれば,
「種と類との一致と段階的秩序」(ibid.)をもたらそうとするほとんどの試み は自然がもつあまりに大きな異種性のために徒労に終わるだろう。自然の無限 の多様に対応しうるには,「自然は経験的法則に関しても,われわれの判断力 に適合した倹約性と理解可能な画一性を遵守している」(ibid.)ということが 前提されなければならない。この前提のもとでの反省的判断力のはたらきは図 式 的 で も 機 械 的 で も な く,「技! 術!的!(technisch)」で あ り,ま た「技!巧! 的!
(künstlich)」である(KU : XX 213 f.)。反省的判断力が「自然をひとつの体 系において合目的的に配置(Anordnung)する普遍的な,しかし同時に無規 定的な原理」(KU : XX 214)に従い,互いに連関づけられた特殊から成る
「ひとつの体系としての経験」を可能にすることで,われわれは「可能的特殊 的法則の多様の迷路(Labyrinth)」(ibid.)のなかで迷わずに進むことができ るのである。
このような反省のはたらきに関してカントが重視しているのは,類と種の秩 序が繰り返し語られることからも分かるように,自然における多様な特殊と普 遍 の 相 互 の 結 び つ き で あ る。こ の こ と は「多 様 の 分!級!(Classification)」
(ibid.)と「特殊化」(『第一序論』の表記ではSpezification)の概念によって より明らかになる。一方の分級とは,「一定の概念のもとにある多くの級
(Class)を互いに比較すること」であり,級は全分級,すなわち最上の類に 至るまで,共通の徴標の点から見て「完全(vollständig)」であればより高次 な級のもとに包摂される(ibid.)。他方の特殊化とは「普遍的概念から出発 し,完全な 区 分 に よ っ て 特 殊 へ と 下 降 し て い く」こ と で あ る(KU : XX 215)。分級と特殊化は,前者が後者を前提しつつ果たされる。「反省的判断力
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は,その本性からして,自然が自ら何らかの原理に従って超越論的全体を特!殊! 化!す!る!と前提しなければ,自然全体を経験的差異に従って分!級!す!る!ことを企て ることができない」(ibid.)。そしてその原理とは,多様のうちに「親近性を 見出す判断力そのものの能力への適合性」(ibid.)である。これによって得ら れるのは悟性のカテゴリーによる「普通の経験認識」ではなく「技巧的な経験 認識」であるが,それは単なる作為ではなく,「自然の技巧」を必然的に前提 することで可能となる(ibid.)。
まとめると,反省とは,自然が無数の多様において現れるときにも,取り留 めのない仕方でではなく,われわれの判断力にとって理解可能なように,そう した多様相互の隣接性や連続性を維持しつつ自らを特殊化する,という想定に おいて自然を捉えることである。ところでこのような反省の原理は,カントが 述べているように「判!断!力!の!論!理!的!使!用!に!対!す!る!原!理!」(KU : XX 214)にす ぎない。つまりこれによって成立する自然の体系は単なる論理的体系であり,
反省が快・不快の感情,美や有機体の判断とどのように関わるかという問題は さしあたり考察の外に置かれている。また,このような論理的体系は,『純粋 理性批判』において既に「論理的諸原理[=同種性,特殊性,連続性の三原 理]のもとでの体系的統一」(KrV : A 658/ B 686)として説明されていたと ころのものとほとんど相違ないようにも見える。しかしそれでも,反省に関す る洞察が『判断力批判』の要をなし,この著作の独自の課題を解明するための 重要な手がかりであることは間違いない。以下では,そうした課題のなかで も,カント哲学体系におけるこの著作の位置づけから言って最も重大と思われ る自然と自由の媒介の問題を取り上げたい。
第三章 規定的判定の能力としての実践的判断力とその限界
『純粋理性批判』はもちろん『判断力批判』においても,判断力が論じられ るのは広義における認識能力としてであって,行為の遂行としての実践に関わ る能力としてではない。たとえば「道徳の象徴としての美」(§59)や「道徳
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神学」(§86)の節では道徳的理念と合目的性の関係がテーマとなっている。
しかしそれはあくまで調和的自然と類比的に捉えられた道徳的善あるいは世界 であって,反省的判断力は,美が「感官的印象による快の単なる感受を超えた 洗練(Veredlung)と高揚(Erhebung)」(KU : V 353)をわれわれの心に意 識させるという仕方によって間接的に道徳的実践に関わるにすぎない。「道!徳! 的!目的論は自!然!的!目的論の欠陥を補い,初めて神!学!を確立する」(KU : V 444)という言葉が示唆するように,カントはここで道徳に関する事柄を補足 的なものとしてのみ扱っており,意志や行為について深く掘り下げることはし ない。とすれば,「判断力は,自然の合!目!的!性!という概念において自然概念と 自由概念とを媒介する概念を与える」(KU : V 196)というのは,一方で自然 法則に従い,他方で道徳法則に従う二元的世界をいかにして統一的な視点から 見るかという捉え方の問題を語っているにすぎないのだろうか。反省の原理に よって,実践そのものに付け加えられるものはないのだろうか。
ところで,『実践理性批判』には「純粋な実践的判断力の範型論について」
(以下「範型論」)と題された章がある。これはカントが実践と判断力との関係 について明示的かつ重点的に論じている唯一の箇所であるが,まずここから上 述の問題を解明するための端緒を得ることにしたい。実践的判断力とは,「感 性界においてわれわれに可能な行為が規則に従っているか否か」を判断するた めの能力である(KpV : V 67)。この能力によって,「規則において普遍的に
(抽象的に)言われていたものが,行為に具体的に適用される」(ibid.)。つま り実践的判断力は,意志を「一切の経験的なものから独立して(単に法則一般 とその形式によって)」規定するところの「自由の法則」と,「可能的行為に,
しかし経験的にのみ属し,言い換えれば経験と自然とに属するすべての事例」
という,全く異種的なものの媒介に関わっている(KpV : V 68)。自由と自然 との媒介という点にのみ着目すれば,これは『判断力批判』の課題を先取りし ていると見ることもできる。
しかし,ここで反省的判断力がはたらいているとしても,それは前章で見た ところの「同時に規定的」であるような判断力である。まず上で見たように,
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実践的判断力は行為が規則に従っているか否かを判断するのだから,規則とい う普遍が既に与えられている。その意味において実践的判断力は規定的であ る。ただし,普遍的な実践的法則を行為という特殊に適用可能なものにするた めには,その媒介者として別の普遍が探し求められなければならない。そこで 実践的判断力は法則そのものを図式化する(KpV : V 68 f.)。「道徳的善とい う超感性的理念(die übersinnliche Idee des Sittlich-Guten)」(KpV : V 68)
にはそれに対応する感性的直観は見出されないから,自然法則が感性的直観に 対して適用される場合の図式と区別するために「範型(Typus)」(KpV : V 69)が新たな概念として導入される。範型として妥当するのは「感官の対象 において具体的に提示される法則」,すなわち自然法則である(ibid.)。この 範型に従って,われわれは自分の行為を自然法則に従って普遍的に現れる現象 と同じように起こるものとして見なしうるかどうかを自問する。
実践的判断力という能力を理解するためには,「判断力」という言葉にとら われず,その実際のはたらきにも着目する必要がある。このことを指摘してい るのが高坂正顕の次の一文である。「自然の法則は実践的判!断!力!の図式ではな く,た!だ!そ!の!判!定!の!た!め!の典型ein Typus der Beurteilungであり,言わばモ デルであるに止まるであろう。」(7)傍点部から推察されるように,高坂がここ で注意を促しているのは,図式と範型との対比よりもむしろ「判断」と「判 定」との違いである。このように解釈する根拠として,高坂は「彼の行為の格 率を普遍的自然法則と比較することは彼の意志の規定根拠でもない」(KpV : V 69)という箇所を引用する。実際,カントはこの箇所に続けて「普遍的自 然法則は道徳的原理に従う格率の判定の範!型!である」(ibid.,下線筆者)と述 べている。つまり判定とは,たとえば自分の利益のために人を欺くとか,生き ることに嫌気が差せばすぐさま自らの命を切り縮めるといった格率が普遍的法 則のもとに包摂されうるかを自然法則を手引きに見極めるにとどまり,意志規 定の十分な根拠を与えるところにまでは至らないということである。
『実践理性批判』の実践的判断力が判定能力であることの更なる裏づけとし て『人倫の形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』)からもいくつか箇所を挙
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げることができる。そこにおいてカントは,「私は,私!の!格!率!が!普!遍!的!法!則!と! な!る!べ!き!こ!と!を!私!は!ま!た!意!欲!す!る!こ!と!が!で!き!る!,という仕方でのみ振る舞うべ きである」という「行為一般の普遍的合法則性」が「通常の人間理性の実践的 判定」の原理であると主張する(GMS : IV 402)。この判定に関しては,「き め細やかな洞察力」は全く必要なく,また「世間の事柄に経験が乏しく,世間 のあらゆる出来事に対処する能力が欠けていても」構わない(GMS : IV 403)。それゆえ「通常の人間悟性においては,実践的判定力(das praktische Beurteilungsvermögen)のほうが理論的判定力よりもはるかに優れている」
(GMS : IV 404)と言うことができる。また,「道徳的判!定!に際しては,常に 最も厳密な方法に従うほうがよいし,そこで自!分!自!身!を!同!時!に!普!遍!的!法!則!と!な! す!こ!と!が!で!き!る!格!率!に!従!っ!て!行!為!せ!よ!という,定言命法の普遍的方式を基礎と するほうがよいだろう」(GMS : IV 436)という箇所も,判定が格率と普遍 的法則との比較を指すことを示している(8)。
道徳法則という普遍が,またその範型に関しても自然法則という「悟性が常 に手許に置いている」(KpV : V 70)普遍が与えられていて,しかも判定のた めにそれ以外の何ものをもわざわざ探し求める必要がないとすれば,ルイス・
ホワイト・ベックが言うように,実践的判断力は端的に規定的と呼ばれる他な い(9)。しかしカントは既に『基礎づけ』において,単なる規定的判定能力に とどまらない判断力のはたらきの重要性を示唆している。彼は,道徳法則には
「それがどのような場合に適用されるかを判別」し,また「それを人間の意志 に受け入れさせ,実行のための活力を得させる」ために「経験によって研ぎ澄 まされた判断力(durch Erfahrung geschärfte Urteilskraft)が必要である」
と述べる(GMS : IV 389)。「規則において普遍的に(抽象的に)言われてい たものが,行為に具体的に適用される」には,普遍的な道徳法則と,また「実 践的規則を含む」「主観的原理」(GMS : IV 420 f. Anm.)としてそれ自体あ る意味で普遍的である格率とを比較するだけでは十分でないことはカントもよ く分かっていた。つまり個別具体的な状況において私は何をなすべきかという 判断は,単なる判定とは異なり,洞察力や世間知,処世力を必要とするのであ
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る。
しかしそれらはあくまで助力の役割をもつにすぎない。それでは,判断力は それ自体としてはいかなる仕方で作用するべきなのか。たとえば「範型論」を
「あの重要な章」(10)と評価するエルンスト・カッシーラーは次のように言う。
範型としての自然法則において考えられている「自然」は,「諸々の客観の感 性的現存在ではなくして,個別的諸目的相互の体系的関係であり,ひとつの
『究極目的』におけるそれらの調和的総括である」(11)。このような解釈は明ら かに『判断力批判』の反省的判断力を意識したものである。著作公刊の時系列 はテキスト解釈において無視できない要素であり,また「範型論」においてカ ン ト が「目 的」に も「合 目 的 性」に も 言 及 せ ず,む し ろ「合!法!則!性!一 般」
(KpV : V 70)を強調しているところを鑑みれば,カッシーラーのような見方 は少なくとも『実践理性批判』の厳密な解釈としては正しくないかもしれな い。しかし,われわれは「目的それ自体」という可能的目的の主体として
(GMS : IV 437),もとより意志を無目的的な規則によって規定することので きない存在者である。とすれば,そのような存在者には,単に規定的ではない 別のはたらきをもつ判断力が,つまり反省的判断力が必要なのではないだろう か。
第四章 自然と自由の架橋──反省的実践的判断力の可能性
道徳的実践において求められるべき普遍は,特定の性質をもった存在者にの み当てはまる特殊的規則ではなく,あらゆる理性的存在者に妥当するものでな ければならない。しかし感性界における多様に対しては,道徳法則もその範型 としての自然法則もあまりに抽象的である。そこで,そのもとで特殊が普遍と 最上の普遍に至るまで相互に結びついているような体系的統一というものが要 請される。この統一の理念に合致するのは「目的の国」である。カントは目的 の国を「体系的に結合したすべての目的(すなわち目的それ自体としての理性 的存在者と,おのおのの理性的存在者が自分自身で設定するような自分の諸目
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的)の全体」と定義する(GMS : IV 433)。「私は国!ということで,それぞれ 異なった理性的存在者が共通の法則によって体系的に結びついていることを理 解する」(ibid.)。「目的の国」はまず「理性的存在者の個人的相違と,同時に 彼らの私的目的の全内容が捨象される」(ibid.)ことで成立するが,それは多 様な理性的存在者とそれぞれの多様な主観的目的とがもつ特殊性を排除するこ とではなく,むしろそれらを無秩序な寄せ集めから体系的統一のもとにもたら すための第一条件と見られるべきである。
このような目的の体系のもとでなすべき行為を熟考するには,判断力の反省 的なはたらきが発揮されなければならないのは明白である。これまで述べてき たように,カントは三批判書のなかでこの意味での実践的判断力について詳述 しなかった。それゆえ,確かにこうした議論に『判断力批判』の理説を安易に もち込み,実践的判断力は規定的か反省的かと論じるのにはいささか危うさも 付きまとう。しかし,たとえ実践的判断力を『判断力批判』における反省的判 断力から注意深く区別する必要があるとしても,その能力が道徳的善という理 念の感性界における実現を目指してそこに現れる無数の多様と関わるのであれ ば,反省の原理が求められるのはむしろ必然的なことだと言わなければならな い(12)。そしてこのことは,『判断力批判』の課題を考える上でも不可欠な前提 をなすのである。
カントは『第一序論』の心的能力の分類表において,理性のアプリオリな原 理を「同時に法則であるような合目的性(責務)」とし,「道徳(Sitten)」を その所産として割り当てる(KU : XX 245 f.)。また,『判断力批判』序論の分 類表では,理性のアプリオリな原理は「究極目的」であるとされる(KU : V 198)。歴史哲学の諸論文において既に予兆めいたものが感じられるとはいえ,
実践と目的論との関係は『判断力批判』に至って急に緊密さを増しているよう に見える。これまで『基礎づけ』,『実践理性批判』と展開されてきたカントの 実践哲学において,意志の規定根拠として認められる道徳原理はただ形式的な 道徳法則だけであり,「道徳的に規定された意志の必然的最高目的」(KpV : V 115)である最高善さえも,そのものとしては「意志の規!定!根!拠!と見なされて
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はならない」(KpV : V 109)とされていた。つまり諸目的の体系はひとつの 道徳的理念として掲げられることはあっても,それが行為に際していかなる原 理に従って意志と関わるのかは不明確なままであり,またそこでは,われわれ が多様な目的をもち,同じく多様な目的をもつ他者と交渉しているという素朴 な事実すらほとんど等閑視されていたのだった。
それに対し,カントが『判断力批判』において「同時に法則であるような合 目的性」という原理に到達しえた背景には,やはり反省的判断力をめぐる思索 の深化があるように思われる。それによって,抽象的な道徳法則と具体的な行 為との解離を埋める方法として,規定的な実践的判断力がとる下降の道だけで なく,特殊と普遍の間を行き来しながら多様の包摂を模索する道が開かれたの である。合法則性に基づく類比によって──つまり,われわれが否応なく従!う! 自然法則と,自由において従!う!べ!き!道徳法則という,単に「法則」という一致 点だけではおよそ重ね合わせることのできない両者の類比によって──より一 層際立つことになったとも言える二つの領域の「見渡しがたい裂け目」(KU : V 175)に対し,カントは『判断力批判』において合目的性の問題に正面から 取り組むことでようやくその架橋の可能性を見出した。それは,斉一的な普遍 的法則だけでは捉えきれない無限の多様性にこそ,自然と道徳との真の共通点 があると考えることに他ならない。
自然と自由の架橋という課題は,『純粋理性批判』,『実践理性批判』,そして
『判断力批判』から成る批判哲学体系の観点から見れば,お馴染みの「三分法
(Trichotomie)」(KU : V 197 Anm.)に由来する必然的な帰結と言える。し かし,調和的統一の探究は単なる哲学的課題にとどまらない。それは哲学的課 題も本来そのうちに含まれるべきところの実践的課題である。二つの領域は,
それぞれの原理に従う限り互いに完全に分離されているにもかかわらず,「超 感性的世界は感性的世界に影響を及ぼすべきであり,自由概念はその法則によ って課せられた目的を感性界において現実のものにするべきである」(KU : V 175 f.)という仕方で統一されなければならない。この目的は「究極目的」で あり,「その可能性の条件は(感性的存在者すなわち人間としての主体の)本
44 カントにおける反省的判断力と実践
性のうちに前提されている」(KU : V 195 f.)。このことはもちろん,究極目 的が人間の本性に従って自ずから実現されるということを意味するのではな い。究極目的のもとでの秩序は,規定的判断力における普遍のようにわれわれ にあらかじめ与えられているものではなく,構築に向けて絶えず探究され続け るべきものだからである。
注