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朝河貫一論:その学問形成と実践 Kan’ichi Asakawa: His Development as an Academic Practitioner

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Academic year: 2022

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(1)朝河貫一論:その学問形成と実践 Kan’ichi Asakawa: His Development as an Academic Practitioner. プロジェクト研究指導教員:山岡 道男 教授. 004S027-2 山内 晴子. 目次. 序論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10. 第 1 部 学問の形成. 第 1 章 福島県時代の知的精神的成長 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16 第 1 節 幼少年期の知的精神的成長・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16 たつごやま. 第 1 項 福島県立子山尋常小学校時代の資料 第 2 項 鈴木喜助稿『朝河貫一』 第 3 項 親子二代朝河天神 1、 福島県校長訓導朝河正澄任命昇と朝河貫一賞与表 2、 母と天正寺住職栗林圓海 第 2 節 父からの教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 第 1 項 戊辰戦争と二本松少年隊 あ さ か ご ん さい. 第 2 項 安積艮斎 第 3 節 福島県尋常中学校時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38 第 1 項 「我邦商業家ノ国ニ大忠を尽ス秋ナリ」 第 2 項 英語修得と洋人の「コモンセンス」理解 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46. 第 2 章 東京専門学校時代の思想的学問的基礎の形成 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48 第 1 節 朝河貫一の東京専門学校時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48 第 1 項 朝河の東京専門学校入学の理由 第 2 項 朝河の文学部文学科の授業と学生生活 第 3 項 朝河の在学中の文学科の教師陣. 1.

(2) 第 2 節 朝河在学中の東京専門学校とキリスト教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・66 第 1 項 朝河貫一のアルバイトと受洗 第 2 項 東京専門学校とキリスト教との関係 第 3 項 『早稲田文学』から見る東京専門学校とキリスト教 はじめ. 第 3 節 大西 祝 と横井時雄の影響・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83 第 1 項 大西祝の啓蒙的精神である理性的批判精神 第 2 項 横井時雄牧師の影響 第 3 項 『六合雑誌』とユニテリアン 第 4 節 朝河貫一とキリスト教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93 第 1 項「基督教に関する一卑見」 1、 「基督教に関する一卑見」 2、 「基督教に関する一卑見(承前) 」 第 2 項「牧師とはなんぞ」 第 3 項「預言者を迎ふ」と「再び預言者に就きて」 第 5 節 朝河貫一の卒業の頃と留学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105 第 1 項 卒業論文 第 2 項 卒業文集『おもかげ』 第 3 項 綱島梁川日記にみる卒業後の朝河貫一 1、 朝河の恋愛 2、 朝河の送別会 第 4 項 朝河の留学 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・115. 第 3 章 ダートマス大学時代の「民主主義の体得」 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119 第 1 節 ダートマス大学での「民主主義」の体得・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121 第 1 項 タッカー学長に学ぶ「民主主義」 第 2 項 朝河が理想とした「民主主義」の理念 第 3 項 「民主主義」の差異と多様性の奨励から日本歴史研究へ 第2節. 「米国ノースフィールド夏期学校に遊ぶの記」にみる「民主主義」の体得・・・・・・130. 第 1 項 自由な批判精神を容認する「民主主義」 第 2 項 東西文明の精神の調和 第 3 節 2 回目の夏期学校と大統領選挙による民主主義国アメリカの理解・・・・・・・・・・・133 第 1 項 アメリカはキリスト教国であるとの確認 第 2 項 日本の個人、団体、国家の「品格の欠陥」の自覚 第 3 項 大統領選挙を通じた「民主主義」理解. 2.

(3) 第 4 節「日本の対外方針」へのダートマス大学で体得した「民主主義」の影響・・・・・・・・・138 第 1 項 朝河の人種論 第 2 項 文明最高の思想 第 3 項 国民と為政者の品性の向上 第 5 節 ダートマス大学の履修科目と進路決定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・142 第 1 項 1897 年にハーヴァード大学転学希望 第 2 項 ダートマス大学で履修した科目、担当教師、成績 第 3 項 大学院卒業後の進路の変化 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・154. 第 4 章 イェール大学大学院とダートマス大学講師時代 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・156 第 1 節 マルク・ブロックに評価された朝河の歴史学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・156 第 2 節 イェール大学大学院時代の歴史学方法論の確立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・158 第 1 項 イェール大学大学院で履修した科目、時間数、担当教師、成績 第 2 項 ウィリアム・G・サムナー教授の社会進化思想 第 3 節 間接的方法による朝河貫一の歴史学方法論の先行研究・・・・・・・・・・・・・・・・164 第 4 節 直接的方法による朝河貫一の歴史学方法論の分析の試み:博士論文『日本初期の社会制度: 大化改新の研究』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・173 第 1 項「日本の読者に告ぐ」 第2項 序 第 3 項 目次 第 4 項 序論 第 5 項 書誌の章 第 5 節 ダートマス大学講師時代の歴史学方法論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・177 第 1 項 「海外における東洋史教授の困難(上) (下) 」を発表した『教育時論』の編集方針 第 2 項 ダートマス大学講師時代の授業 1、 「海外における東洋史教授の困難(上) 」 『教育時論』663 号、開発社、1903 年。 2、 「海外における東洋史教授の困難(下) 」 『教育時論』664 号、開発社、1903 年。 3、1903 年 6 月の朝河貫一がダートマス大学で出した最初のテスト問題 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・185. 第 2 部 学問の実践:その 1. 第 5 章 日露戦争 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・187. 3.

(4) 第 1 節 個人広報外交・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・187 第 1 項 学問の実践の目的:領土保全と機会均等のために戦う日本・・・・・・・・・・・・・187 第 2 項 「日露衝突のいくつかの争点」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・195 1、 「日露衝突のいくつかの争点」の概要 2、アジアの問題は経済問題との認識 3、朝河の主張の中の日米戦争の遠因(人口問題解決の移民政策) 第 3 項 「東洋における戦争に導いたいくつかの事件」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・203 1、 遼東半島前史 2、 朝河の主張の中の日米戦争の遠因(日本の旅順・遼東半島の獲得行為) 3、カッシーニ協定と鉄道協約 4、ドイツの膠州租借 5、ロシアの旅順大連租借 6、ロシアの満州占領 7、日英協約と露仏宣言 8、撤兵協定 9、韓国における外交努力 10、日露交渉 第 4 項 『日露衝突:その原因と争点』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・215 1、 『日露衝突:その原因と争点』の体裁 2、 『日露衝突:その原因と争点』の序論の資料からの考察 いさん. ①『通商彙纂』 ②徳富蘇峰の『国民新聞』 ③『同文会報告』 ④『東洋経済新報』 3、 『日露衝突:その原因と争点』の目的達成 第 5 項 朝河のアメリカでの 40 回にも及ぶ講演・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・232 1、政府特使の金子堅太郎と末松謙澄に小村外相が授けた訓示との関連 2、1905 年の政府特使金子堅太郎の演説 3、ポーツマス条約の土台となった、イェール・シンポジューム 4、朝河とローズヴェルトとの会話 5、朝河への中傷 第 6 項 『日本:朝河貫一編追加章付き日本政府の歴史より』 ・・・・・・・・・・・・・・・250 第 2 節 朝河貫一の韓国観・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・253 第 1 項 朝河貫一と組合教会の韓国伝道 第 2 項 渡瀬常吉からの韓国情報 第 3 項 ウィリアム・エリオット・グリフィスの書評. 4.

(5) 第 4 項 「日本と韓国」 第 3 節 第 1 回目帰国と「日本現今の基督新教」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・270 第 4 節 『日本の禍機』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・274 第 1 項 日米戦争阻止のための『日本の禍機』の出版 第 2 項 『日本の禍機』の要旨 第 5 節「クラーク大学講演大会に発せられたる米国人の清国及び日本に対する態度に注視せよ」 ・302 第 6 節 「日記目録」が 1911 年から 1925 年までの理由・・・・・・・・・・・・・・・・・・・304 おわりに 文化的国際主義者としての道へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・308. 第 3 部 歴史学の確立. 第6章. イェール大学教授への道. はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・311 第 1 節 イェール大学教師時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・311 第 1 項 講義の変遷 第 2 項 ミリアムとの日常と彼女の死後 第 2 節 欧米知識層の朝河の歴史学の評価・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・319 第 1 項 ペイソン・トリート 第 2 項 マルク・ブロック 第 3 項 エドウィン・O・ライシャワー 第 4 項 ジョン・ウィットニー・ホール 第 5 項 ジョージ・B・サンソム 第 6 項 ヒュー・ボートン 第 7 項 入江昭 第 3 節 ACLS 日本研究委員会メンバー朝河貫一(1930 年 12 月~1937 年 9 月) ・・・・・・・・342 第 1 項 日本研究委員会:IPR と ACLS の協力 第 2 項 日本研究委員会の人々との書簡と委員会の活動 第 3 項 朝河と IPR 関係者との交流 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・353. 第4部. 第7章. 学問の実践:その 2. 理想とする「民主主義」に基づく書簡による外交提言. はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・355 第1節. 大隈重信宛書簡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・356. 第 1 項 対清政策転換の提案. 5.

(6) 第 2 項 国際的枠組みの重要性と国際倫理:モホンク湖畔国際仲裁主義会議 第 3 項 輿論の重要性を指摘:日本移民自粛論 第 4 項 国際間の「新しい感情輿論」と膠州還付論 第 5 項 対華 21 ヶ条の要求批判 第 2 節 シベリア出兵、ワシントン条約、満州事変、日独防共協定批判・・・・・・・・・・・・370 第 1 項 シベリア出兵酷評 第 2 項 ワシントン会議批判 第 3 項 満州事変(1931 年 9 月 18 日柳条湖事件)批判と国際連盟の限界指摘 第 4 項 新しい国際的な倫理: 「まともに生きる権利」をめざして 第 5 項 日独防共協定(1936 年 11 月 25 日)批判 第 3 節 国民の正確な情報の自由な入手の重要性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・377 第 4 節 民主主義の弛緩: 「とどのつまり『民主主義』はモラルなのです」 ・・・・・・・・・・・378 第 1 項ナチ・ドイツ追随批判 第 2 項「民主主義」の弛緩 第 5 節「外交とは相手の精神の理解を通して自分の目的を達成するにあります」 ・・・・・・・・382 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・385. 第8章 論文にみる「天皇制度と『民主主義』共存」の学問的起源 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・386 第 1 節 1902 年『日本初期の社会制度:大化改新の研究』に描かれた天皇制度・・・・・・・・386 第 1 項『日本初期の社会制度:大化改新の研究』序論序論・参考文献・書誌の章 第 2 項 『日本初期の社会制度:大化改新の研究』における天皇と国家の関係 第 2 節 1907 年『日本』に描かれた天皇機関説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・395 第 1 項 朝河の大日本帝国憲法制定過程の資料収集と英語版『開国五十年史』の書評 第 2 項 第 16 章「明治憲法の理論と実際 1893-1906」の内容 第 3 項 明治憲法における天皇解釈の中の朝河の位置 第 3 節 1912 年「新旧の日本:近代日本が封建制の日本に負うもの」に描かれた天皇 ・・・・405 第 1 項 世界史のなかにおける日本歴史の確立 第 2 項 武士道の新形式としての天皇への忠誠 第 3 項 付録: 「立憲君主としての明治天皇」 第 4 節 1923 年ウォーナー夫妻の『推古期の日本彫刻』への序文:朝河の聖徳太子像・・・・・412 第 5 節 1929 年『入来文書:日本における封建制度の発展の実例』に描かれた天皇・・・・・・415 第 1 項 『入来文書:日本における封建制度の発展の実例』の意図 第 2 項 『入来文書:日本における封建制度の発展の実例』で提示した天皇 第 3 項 155「旧体制の移行にかかわる文書 1860 年~1870 年」 第 6 節 1930 年 セイグリマン編『社会科学百科事典』の朝河の「日本封建制」に描かれた天皇 421. 6.

(7) 第 1 項 朝河の「日本封建制」へのマルク・ブロックのコメント 第 2 項 朝河の「日本封建制」の内容 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・426. 第 9 章 朝河の敗戦後構想の影響 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・428 第 1 節 1941 年 10 月 10 日付金子堅太郎宛英訳書簡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・429 第 1 項 Asakawa Papers に残る 5 種類の謄写版印刷書簡 第 2 項 1941 年 10 月 10 日付「金子堅太郎宛英訳書簡」の内容 第 2 節 金子宛長文英訳書簡の「ローズヴェルト大統領親書」草案への影響・・・・・・・・・・433 第 1 項 1941 年 11 月 16 日付ウォーナー宛書簡 第 2 項 1941 年 11 月 19 日付ウォーナー宛書簡 第 3 項 「ローズヴェルト大統領親書」草案を読んだ政府高官達 第 3 節 Open Letter「金子宛英訳書簡」の COI と PWE と国務省への影響・・・・・・・・・・438 第 1 項 シャーマン・ケントから COI への影響 第 2 項 COI(情報調整局)R&A(調査分析部)の上層部との関係 第 3 項 PWE(英国政治戦争本部:Political Warfare Executive)への影響 第 4 項 1941 年と 1942 年の Dear Friend 宛書簡と correspondent’s enterprise 第 4 節 欧米知識人との交友関係にみる朝河の戦後構想・・・・・・・・・・・・・・・・・・・448 第 1 項 日米開戦直後の書簡 第 2 項 1942 年 1 月アンティオーク大学学長 A・E・モーガンとの往復書簡 第 3 項 ウィリアム・ウィルコックス宛書簡 第 4 項 Open letter1941 年 10 月 10 日付「金子堅太郎宛英訳書簡」受信者の表 第 5 節 COI「日本計画」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・456 第 1 項 朝河の戦後構想の影響 第 2 項 「FIS 日本へのプロパガンダの為の基本計画・第 1」に見られる朝河の見解との一致点 第 3 項 「日本計画(最終草稿) 」に見られる朝河の見解との一致点 第 6 節 日本研究者への朝河の戦後構想の影響・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・465 第 1 項 ジョージ・B・サンソム 第 2 項 ヒュー・ボートン 第 3 項 エドウィン・O・ライシャワー 第 4 項 ジョセフ・C・グルー・牧野伸顕・大久保利武 第 5 項 シャーマン・ケントへのメッセージ:歴史家の使命 第 6 項 ラングドン・ウォーナーへの占領行政に関する提言 第 7 項 ACLS 日本委員会の朝河と中国委員会のラトーレット 第 7 節 2 通のアーヴィング・フィッシャー宛書簡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・484. 7.

(8) 第 1 項 スカル&ボーンズ(Skull & Bones)のメンバー 第 2 項 1944 年 10 月 2 日付アーヴィング・フィッシャー宛書簡の内容 第 8 節 1946 年夏 朝河貫一のラングドン・ウォーナー宛長文書簡・・・・・・・・・・・・・489 第 1 項 ウォーナー宛長文書簡の経過 第 2 項 ウォーナー宛長文書簡の内容 1、提言の基盤:朝河の理想とする「民主主義」 2.日本人のモラルの再生 3、軍国主義者によって支配された原因と経過 4、徳川政体 300 年の遺産:官僚及び地方役人の権威主義的態度 5、神話の起源と伝統的に主権にあたって受身の天皇 6、軍部の政府機関掌握の原因と経過 第 9 節 高木八尺と終戦工作・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・501. 結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・505. 参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・513. 付録 1 朝河貫一英文論文一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・526. 付録 2 朝河貫一英文・仏文書評一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・528. 付録 3 朝河貫一略年譜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・530. 謝辞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・540. 8.

(9) 凡例 1. 朝河の理想とする民主主義を指す場合は、「民主主義」とする。 2. 引用が 5 行以上に亘る場合は、前後に 1 行開けて記載する。 3. 朝河の表記に従って、ルーズヴェルト大統領ではなくローズヴェルト大統領と表記する。引用文は、 それぞれの表記に従った。 4.引用文中の漢字は、読みやすいように当用漢字に直した。 5. 朝河は、個人としてよりも制度(the institution)としての天皇の役割を重視した。朝河が書いた(the Imperial institution of Japan)や(the institution of Emperor)は天皇制度、または天皇という制 度と訳し、一般に使用されている天皇制(the Emperor system of Japan)と区別する。それは、 朝河が慣習や慣行に重きを置いて、制度、組織や体制、社会秩序の意味である system を使用せず に、慣習、慣行、制度、法令の意味を含む institution を使用したからである。 6. 支那、清国の表記は、朝河の表記に基づく。 7. 『エール大学所蔵朝河貫一文書』を「イェール」としないのは、題名表記に従った。. 略語一覧(アルファベット順). ACLS(全米学術団体協議会、American Council of Learned Societies) COI(情報調整局、Office of the Coordinator of Information) FIS(対外情報部、Foreign Information Service) IALA(米国国際補助語協会、International Auxiliary Language Association) IPR(太平洋問題調査会、The Institute of Pacific Relations) LC(米国議会図書館、Library of Congress) NARA(国立公文書館、National Archives and Records Administration) OSS (戦略情報局 Office of Strategic Services) OWI(戦時情報局、Office of War Information) PWC (戦後政策委員会、The Postwar Programs Committee) PWE(英国政治戦争本部、Political Warfare Executive) R&F(調査分析部、Research & Analysis) SPG(英国海外福音教会、The Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts) SSRC(全米社会科学研究協議会、The Social Science Research Council) UNESCO ( 国 連 教 育 科学 文 化 機 関 、 United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization ) YMCA(キリスト教青年会、Young Men’s Christian Association). 9.

(10) 朝河貫一論:その学問形成と実践 Kan’ichi Asakawa: His Development as an Academic Practitioner プロジェクト研究指導教員:山岡 道男 教授. 004S027-2 山内 晴子. 序論 朝河貫一(1873-1948)は、日本人として初めてイェール大学教授となった中世比較法制史の歴史学 者である。その研究成果は、ラングドン・ウォーナー (Langdon Warner: 1881-1955) 、マルク・ブロ ック (Marc Block: 1886-1944) 、ジョージ・B・サンソム(Sir George B. Sansom: 1883-1965) 、エド ウィン・O・ライシャワー(Edwin O. Reischaure: 1910-1990) 、シャーマン・ケント(Sherman Kent: 1903-1986)にとって日本の封建制度に対する理解の出発点となった。朝河の一生は、日清戦争から冷 戦までの日本にとっての激動の時代と重なる。彼は、 「全人類の生存と運命の真相に対して組織的貢献」 をなすことを決意して生涯を送った学者であり、学問的実績を基に、その実践として外交問題の提言. 1. に大きな足跡を残している。 本稿の第 1 の目的は、朝河貫一の唯一の本格的伝記である阿部善雄『最後の「日本人」 :朝河貫一の 生涯』が 1983 年に出版されて以来四半世紀が過ぎ、朝河貫一の研究が進み、当時判明していなかった 朝河像が、 『朝河貫一書簡集』 『朝河貫一の世界』2『蘇る朝河貫一』3や、15 年間に 71 回に及ぶ朝河貫 一研究会会員の研究報告4等により、次第に明らかになってきたために、それらの貴重な先行研究を踏 まえて、彼の生い立ちを辿り、新たな朝河貫一像を描き出すことである。その過程において、朝河がど のような歴史学方法論で、どのように日本歴史を欧米知識人に提示していたかを検討して、彼がなぜ日 本に降りかかる危機を次々と予見し、進化する国際関係の「文明最高」の理念を見極めて、日本外交のあ るべき姿を提言し続けることができたかを探りたい。 朝河貫一は、1873(明治 6)年 12 月 22 日に福島県の二本松で生まれ、1948(昭和 23)年 8 月 11 「コネティカット 日に亡くなった。翌日の 8 月 12 日『ニューヨーク・タイムズ』New York Times は、 州ニューヘイブン 8 月 11 日 AP 電」として、 「イェール大学歴史学名誉教授 朝河貫一逝く、享年 77 〔74〕歳:ダートマス大学講師を経てイェールで 36 年間教壇」との見出しで、次のような詳細な記事 を掲載した。5. イェール大学の歴史学名誉教授朝河貫一は、昨夜、避暑地先であるヴァーモント州ウエスト・ワー 朝河貫一、1900 年「年頭の自戒」 、朝河貫一研究会編『朝河貫一書簡集』早稲田大学出版部、1990 年、730-731 頁。 (以後、 『朝河貫一書簡集』と略記) 。 2 朝河貫一研究会編『朝河貫一の世界:不滅の歴史家偉大なるパイオニア』早稲田大学出版部、1993 年。(以後、『朝河貫一の世界』と略記)。 3 朝河貫一研究会編『甦る朝河貫一:不滅の歴史家偉大なるパイオニア』国際文献印刷社、1998 年。 (以後、『蘇る朝河貫一』と略記)。 4 朝河貫一研究会編『朝河貫一研究会ニュース:第 1 号~第 60 号』国際文献印刷社、2007 年。 5 New York Times, Aug. 12, 1948、筆者訳、 〔 〕内は、筆者訂正部分。 1. 10.

(11) ズボロで亡くなった。 朝河博士は、初めてアメリカの大学教授となった日本人であるが、イェール大学の教師として 36 年勤めた後、1942 年に退職した。彼は、日本歴史学の権威である。 訃報に接したイェール大学大学院の副学部長ハートレイ・シンプソン(Hartley Simpson)は、今 日、次のように述べた。 「朝河教授は、非常に長い間、我々の教員仲間でしたから、彼がイェール大学 でもう仕事をしないということを理解するのは難しいことです。彼は、イェール大学や他の国々で、 封建制史の優れた歴史学者として、広く認められています。彼のいつも変わらぬ親しみのある、また 謙虚な友情に、同僚である私たちは深い感謝を捧げます」 。 朝河博士は二本松で生まれ、今年 12 月 20 日〔戸籍は 22 日〕で 78 歳〔75 歳〕になる。福島中学 〔福島県尋常中学校〕と東京の早稲田大学〔当時、東京専門学校〕を出た後、アメリカに留学し、1899 年にダートマス大学を文学士として卒業した。31 年後に、同大学は、彼に文学博士を授与している。 1901 年〔1899 年〕から 1902 年にかけてイェール大学で研究し、博士号を取得した。翌年〔同年〕 秋には、ダートマス大学に戻り、東アジアの歴史と文明の講師となった。1906 年から 1907 年は、早 稲田大学の英語の教授であった〔第 1 回目帰国をして各地で講演し、イェール大学と米国議会図書館 のための日本古典書籍収集をした〕 。その後、彼は、日本文明史の講師を皮切りに、長いイェール大学 での教職を開始した。 1910 年に歴史学助教授となり、1930 年に歴史学准教授に、1933 年には正教授待遇の歴史学研究員 となり、1937 年に歴史学教授となった。また、1909 年〔1907 年〕以来、イェール大学〔図書館〕の 日本と中国のコレクション部長であった。 朝河博士の著書の中には、 『日本初期の社会制度:大化改新の研究』と『日露衝突:その原因と争点』 がある。各国歴史シリーズで、彼は『日本』を編集しており、また、日本、アメリカ、イギリス、ヨ ーロッパの雑誌に多くの論文を寄稿している。 1907 年〔1905 年に教会で、1907 年に日本大使館で神式挙式〕に、コネティカット州ファーミント ン出身の、洋裁をしていた〔農場主の娘〕ミリアム・ディングワール(Miriam Dingwall)と結婚し た。彼が彼女とめぐり合ったのは、イェール大学の学生時代で、彼女が食料雑貨店主であった兄とニ ューヘイブンに住んでいた時である。彼女は、1913 年に亡くなった。. 朝河貫一の葬儀は、イェール大学を中心に行われ、ニューヘイブン市やイェール大学に功績のあった 人々の眠るグローヴ・ストリート墓地(Grove Street Cemetery)に葬られた。 日本では、占領軍の新聞である『スターズ&ストライプス』Stars and Stripes6は当時、通常訃報記 事を掲載していないにもかかわらず、8 月 13 日の紙上で、上記の『ニューヨーク・タイムズ』と同じ AP 電の記事を 4 分の 1 の長さに縮小して記載し、シンプソン副学部長の追悼の言葉のうち、 「朝河教授 は、イェール大学や他の国々で、封建制の歴史の優れた歴史学者として、広く認められていました」の. 6. http://www.estripes.com/webpages.asp?id=97(2007 年 8 月 23 日最終確認) 。 11.

(12) 一文も紹介した。7これに対して『朝日新聞』8は、同じ AP 電を共同発として、 「早稲田大学出身、日 本封建時代史の権威として世界的に知られていた」と 10 行で記載し、 『毎日新聞』9や『読売新聞』10も、 同じニュース・ソースから、5~6 行で短く伝えた。しかし 3 社とも浅川と誤記し、特に『朝日新聞』は 浅川貴一と書いていることから、日本では、朝河貫一が知られていなかったことが分かる。また、確証 は取れていないものの、占領軍の「横須賀基地では、半旗をかかげた」と、唯一の伝記である阿部善雄 『最後の日本人:朝河貫一の生涯』11に記されていることに驚かされた。この日米の扱いの相違から、 筆者は、朝河の戦後構想の提言は、これまで分っている以上に、占領軍に影響力があったのではないか との疑問を持った。この疑問を解くことが、本論文の執筆の動機であった。 2005 年 7 月に発売された加藤哲郎『象徴天皇制の起源:アメリカの心理戦「日本計画」 』は、 「T・ フジタニの発見したライシャワーの 1942 年 9 月 14 日付傀儡天皇制メモ、五百旗頭真、中村政則らが研 究してきた 42 年末~43 年の国務省領土小委員会内ボートンらの天皇制論議も、42 年春から夏の『日本 計画』関係資料をベースにした可能性が高い」と指摘した本である。12「日本計画」とは、OSS (Office of Strategic Services 戦略情報局)が立案した「天皇(慎重に、名前をあげずに)を平和のシンボルと 「参謀本部の公式の決定にはならなかったが、その内容は、 して利用すること」13とした戦略である。 OSS の百科全書や報告書などと共に、その後も米国国務省ほか各省庁、陸海空軍、中国戦線・南方戦線 の総司令部で、心理戦担当者の共通の『基礎的な』指針となったと思われる。それは、その後の軍・政 府機関各部署での具体化にあたって、 『天皇の利用』が前提とされていることからうかがわれる」と、加 「 『シンボルとしての天皇』という発想の起源」として、①「情報調整局(COI 藤は記している。14さらに、 〔Office of the Coordinator of Information〕 )の調査分析部(R&F〔Research & Analysis〕 )極東課・・・ 日本政治専門家のチャールズ・B・ファーズ」 、②彼の師の「ケネス・W・コールグローブの立憲君主制」 、 ③1931 年の「新渡戸稲造の『日本:その問題と発展の諸局面』 」 、④「いわゆる『ルーズヴェルト親書』 を通じての米国側日本観に影響を与えた歴史学者朝河貫一」 、⑤「国務省極東課の日本担当ヒュー・ボー トン、ロバート・フィアリー、ボナー・フェラーズ、 ・・・ヒュー・バイアスの役割が重要である」と、 アメリカの敗戦後構想への朝河の関与を示唆している。15しかし、 「いわゆる『ルーズヴェルト親書』 を通じての米国側日本観に影響を与えた歴史学者朝河貫一」が、 「 『シンボルとしての天皇』という発想 の起源」としてどのような役割を果たしたかについては語っておらず、先行研究はない。したがって、 本稿の最終章である第 9 章では、早くから欧米知識人に、敗戦後の日本に天皇という制度と朝河の理想 とする「民主主義」の共存を推奨していた朝河の戦後構想が、具体的にどのように占領軍の天皇制民主. Pacific Stars and Stripes, Aug. 13, 1948, p4. 『朝日新聞』1948 年 8 月 13 日(第 2 面) 。 9 『毎日新聞』1948 年 8 月 13 日(第 2 面) 。 10『読売新聞』1948 年 8 月 13 日(第 2 面) 。 11 阿部善雄『最後の日本人:朝河貫一の生涯』岩波書店、1983 年、286 頁。 12 加藤哲郎『象徴天皇制の起源:アメリカの心理戦「日本計画」 』平凡社、2005 年、221 頁。 (以後、 加藤哲郎『象徴天皇制の起源』と略記) 。 13 同上書、154 頁。 14 同上書、221 頁。 15 同上書、31 頁。 7 8. 12.

(13) 主義という戦後構想に影響が認められるかを検討する。 戦時中からアメリカ国務省内で、天皇制廃止を主張する派と、天皇制民主主義を説く派が激しく対立 していたことはよく知られている。 天皇制民主主義を推し進めていたヒュー・ボートンが記しているよう に、敗戦直後の 1945 年 9 月の時点で、アメリカで天皇制廃止を主張する派が制していた時期に、 「グル ー国務次官、ユージン・ドーマン、ブレイクスリー博士16、そして私〔ボートン〕は、天皇裕仁も天皇 制もそれ自体、戦前日本の超国家主義や拡張政策の原因ではないと硬く信じていた」 。17筆者は、彼ら の「発想の起源」に、朝河の歴史学の天皇に関する学説が大きな役割を果たしたのではなかろうかとい う仮説を立てた。その立証を試みることが、本稿の第 2 の目的である。その第 1 の理由は、ラングドン・ ウォーナーが、天皇へのルーズヴェルト大統領親書を、他の人ではなく、朝河に提案したのには理由が あるはずだと考えたからである。第 2 に、ボートンが、朝河貫一の諸論文は、欧米学者による封建制の 解釈に「インパクトを与える」 「基本的文献」18 であると記しているからである。第 3 に、今まで指摘 されたことはないが、日露戦争当時の朝河の外交提言も、ダートマス大学講師時代の講義内容を基に行 った学問の実践だからである。そこで第 8 章では、 「アメリカ政府のみならず国民の大多数が 1941 年 19 12 月の真珠湾攻撃を引き起こした日本の超国家主義の元凶の 1 つは天皇制にあると固く信じていた」. 理論を覆すほどの天皇制度に関する学説を、朝河は学術論文の中でどのように提示しているかを検討す る。学術論文の中の、天皇に関する学説のみを扱った先行研究はない。 日露戦争の時、朝河は二大原則を帝国主義から抜け出す第一歩の「新外交」として評価し、日本はそ の実現のためにロシアと戦っていると、詳細な統計と資料を駆使して 2 論文を『イェール・レビュー』 に発表し、40 ヵ所以上で講演をし、1904 年に『日露衝突:その原因と争点』を英米で出版する等の華 やかな個人広報外交を展開して、一躍アメリカの知識人にその名が知られる程の活躍をした。しかし、 「自分はもうこの〔日露戦争〕時代の研究者だと 1939 年 1 月 22 日付朝河発ストークス宛書簡20には、. 16. ジョージ・H・ブレイクスリー(George. H. Brakeslee) 。クラーク大学教授。片桐庸夫『太平洋問 ママ. 題調査会の研究:戦間期日本 IPR の活動を中心として』慶応義塾大学出版会、2003 年によると、ブレー クスリーは、1925 年に第 1 回 IPR(太平洋問題調査会、The Institute of Pacific Relations)のハワイ 会議準備のためのアメリカ本土側の執行委員会副委員長に選ばれ(15、19 頁) 、第 1 回 IPR ハワイ会議 では、新移民法の立法に有識者が強く反対しているが、ただちに反対運動を起こすことは得策ではない と論じた(62 頁) 。1927 年の第 2 回 IPR ハワイ会議では、 「 (満州)地域の事情をとりわけ日中露 3 国 の鉄道利権をめぐる衝突を中心とした歴史的、実証的説明を試み・・・商業的ベースに基づく妥協を通 じて問題の解決策をはかることは可能である」との見解を示した(131-132 頁) 。 17 ヒュー・ボートン、五百旗頭真監修、五味俊樹訳『戦後日本の設計者:ボートン回想録』朝日新聞 社、1998 年、195-196 頁。 (以後、 『ボートン回想録』と略記) 。同書によると、ボートンは、1942 年 10 月中旬に国務省に、ジョージ・ブレイクスリーがチーフを勤める特別調査部(S&R)の調査アナリ ストとして職務に就いた(121 頁) 。 18 ヒュー・ボートン、斉藤真訳「日本研究の開拓者たち」細谷千博・斉藤真編『ワシントン体制と日 米関係』東大出版会、1978 年、545 頁。 19『ボートン回想録』195-196 頁。 20 金子英生「イェール・シンポジュームと朝河貫一:ストークスパンフレットを中心にして」 『朝河貫 一研究会ニュース』No.39、2000 年、16 頁(イェール大学所蔵『ストークス文書』 ) 。朝河貫一研究会 編『朝河貫一研究会ニュース:第 1 号~第 60 号』国際文献印刷社、2007 年、278 頁。 13.

(14) みなされたくない」と書いており、後年作成した『日記目録』21も 1911 年から 1925 年まででそれ以 前と以後の日記を処分している。筆者は、この華やかな個人広報外交の限界の反省を基に、朝河が細心 の注意をはらって自身の外交提言が直接公にならないような方法を取ったのではないかという仮説を立 てた。それは、どのような方法であったかを明らかにする。これが、本稿の第 3 の目的である。 朝河貫一の予見の確かさは、1909 年の『日本の禍機』の次の一節を読む時、改めて驚かされる。22. 米国は・・・深大の国力を傾けて、これ(清国の領土保全及び機会均等)を遂行することをも辞せ ざる決心を有せるものなり。今日はいざ知らず、将来は味方として頼むべく、敵として恐るべきこと 世界の列強のうち米国のごときものあらざるの時来るべく、而してこれを我が敵たらしむると味方た らしむるとは、一に日本の動作これを決するのみならん。何となれば米国の対清政策は変動すること なかるべければなり。かつ将来清国に関して米国と刃を交うるものはその何国たるを問わず、もっぱ ら私曲のために戦うものと世に判ぜられんか。. 朝河貫一のこの予見は、米国の東アジア戦略が今日に到るまで一貫しているからである。1995 年のい わゆるナイ・イニシャティブの具体的結論としての米国の「東アジア戦略報告」で最も重要な論点は, 「同地域に平和と安定を根付かせ、いかなる覇権国(もしくは覇権連合)の出現をも許さないこと、そ して同地域への商業的アクセスおよび、航海の自由を確保することによってアメリカの経済利益を確固 たるものにするということである」 。23 冷戦が終わって、世界の構造が変わったにもかかわらず、日本は世界で果たすべき役割に自信が持て ずにいる。日本人は、日本人だけを喜ばせる言葉に甘えることなく、古今東西の世界における日本の立 場を認識した人々の提言に耳を傾け、揺るぎ無い外交理念を持たなければならない。その際に、朝河の ①1898 年の「日本の対外方針」に書いた「日本の方針を文明最高の思想と一致せしむるに至りて、初め て東洋における義務を悟り、世界に対する位地を得る」 、24 ②1941(昭和 16)年 3 月 10 日付アンドル ーズ夫妻宛書簡に記されている第 2 次世界大戦を引き起こした原因としての「民主主義の弛緩」 、25③ 1941 年 12 月 10 日付ラングドン・ウォーナー宛書簡にある「外交とは相手の精神の理解を通して自分 の目的を達成するにあります」26等の言葉は、極めて重要な指針となる。歴史学者としての明確な分析 に基づき、国際関係上の高い倫理観の上に発せられた朝河の提言がどのようなものであったかを今辿る. Microfilmed By Yale University Microfilming Unit 1986, Yale University Sterling Memorial Library, Manuscripts and Archives, Manuscript Group Number 40, Kan’ichi Asakawa Papers by William E. Brown, Jr., New Haven, Connecticut, June, 1984, Series No.3, Box No. 5, Folder No. 46. (here after Asakawa Papers). 早稲田大学アジア太平洋研究センター資料室蔵『エール大学所蔵朝河貫 一文書』60275-60346 頁。 (以後、 『朝河貫一文書』と略記) 。 22 朝河貫一『日本の禍機』講談社、1987 年、20-21 頁。 23 原彬久「序説 日米安保体制――持続と変容」日本国際政治学科会編 『国際政治』第 115 号、1995 年 5 月号、4 頁。 24 朝河貫一「日本の対外方針」 『国民之友』民友社、1898 年 6 月号、56 頁。 25『朝河貫一書簡集』564-569 頁。 26 同上書、595-596 頁。 21. 14.

(15) ことは、21 世紀の世界で果たすべき日本外交の理念を確立しなければならない今日、意義あることと思 う。 本稿が『最後の「日本人」 :朝河貫一の生涯』と大きく違うのは、朝河の思想と学問の根底にキリスト 教倫理があることに注目したことである。それは、朝河が留学した 19 世紀末の欧米が、キリスト教徒 以外知識人がいなかった時代であり、その影響下にあった明治期の知識人もキリスト教との強い結びつ きがあったためである。また、 『最後の「日本人」 』が一般向けの本であるために、注が一切ないことを 考慮して、出典を詳しく記述したことも大きな相違である。 本論文の構成は、第 1 部では福島県時代、東京専門学校時代、ダートマス大学時代、イェール大学大 学院時代、ダートマス大学講師時代と、各時代の朝河の学問と倫理基盤の形成を探り、朝河が理想とす る「民主主義」の体得過程を辿る。第 2 部で、その実践である日露戦争の個人広報外交の実態を分析し て、その後に学問の実践の方法を変えた原因を追究して、朝河が選択した新しい学問の実践はどのよう なものかを探る。第 3 部では、イェール大学教師時代の中世比較法制史の学問の確立と、朝河の歴史学 者としての欧米知識人の評価を検討する。 その過程で、 朝河の日欧米の指導者層との活発な交流を辿り、 朝河が交友関係を持った人々はどのような人々であったかをできるだけ紹介して、後の朝河研究に役立 つ資料としたい。第 4 部では、朝河の理想とする「民主主義」に基く書簡による外交提言をまとめる。 最後に、代表的な論文に見る天皇に関する朝河の学説を紹介した上で、その実践である天皇制度と「民 主主義」という異文化の共存を推奨する朝河の戦後構想の、占領軍の天皇制民主主義への影響を探る。 本論文執筆の方法としては、伝記的研究方法と国際関係論的方法を取る。 第一次資料は、主に、イェール大学の Asakawa Papers〔Microfilmed By Yale University Microfilming Unit 1986, Yale University Sterling Memorial Library, Manuscripts and Archives, Manuscript Group Number 40, Kan’ichi Asakawa Papers by William E. Brown, Jr., New Haven, Connecticut, June, 1984.〕 、その中から 10 リールのマイクロフィルムを焼いた早稲田大学アジア太平 洋研究センター資料室蔵『エール大学所蔵朝河貫一文書』 、福島県立図書館蔵の朝河貫一資料、Japan Plan (Final Draft), Psychological Warfare Branch Military Intelligence Service War Department Records of the Office of Strategic Service, 1941-1945,(2160742) Reel No 62. 早稲田大学政経学部現 代政治経済研究所所蔵マイクロフィルム M2002-2『ドノヴァン長官文書」リール 62 を使用する。. 15.

(16) 第 1 部 学問の形成. 第 1 章 福島県時代の知的精神的成長27 はじめに. 本章では、父正澄の影響の大きい少年期の知的精神的成長と、自ら選んで入学した福島県尋常中学校 での英語や国際感覚の習得を検討する。 たつごやま. 朝河貫一は、1879(明治 12)年に、父が校長であった福島県の立子山尋常小学校に入学したために、 彼が小学校時代に受けた教育は、父正澄の影響を抜きにしては語れない。立子山尋常高等小学校『学校 〔く〕. 沿革誌(1) 』と立子山尋常小学校『修業卒業證書授與 扣 』 、鈴木喜助稿『朝河貫一』の 3 点の資料に基 づき、28父であり師でもある朝河正澄の立子山尋常小学校における任命と賞与と、貫一の賞与を表にし て、史実により忠実な立子山尋常小学校時代の朝河父子像を浮き彫りにする。戊辰戦争(1868 年)に従 あ さ か ご ん さい. 軍した経験をもつ正澄は、二本松少年隊や、一族出身の儒学者である安積艮斎(1791-1860)の話を繰 り返し貫一に語り聞かせた。艮斎の国書翻訳は、朝河のイェール大学大学院の博士論文、ポーツマス条 約の土台となったイェール・シンポジューム、1941 年の天皇への大統領親書草案と繋がっていくことを 明らかにする 福島県尋常中学校時代、朝河は「我邦商業家ノ国ニ大忠を尽ス秋ナリ」と書いて、国際的に活躍する 商業家を目指した。 『安中安校百年史』から判明するトーマス・エドワード・ハリファックス(Thomas Edward Hallifax:1843-1897)の英語の授業と朝河が福島県県会議員に提出した「ハリファックス留任 嘆願書」から、英語修得と西洋の「コモンセンス」の理解の背景を探る。これらは、中世比較法制史の 歴史学者となり、日本に進むべき道を提言し続ける朝河貫一の素地となっていく。. 第 1 節 幼少年期の知的精神的成長. 第1項 福島県立子山尋常小学校時代の資料 1873(明治 6)年 12 月 22 日生まれの29朝河貫一は、1879(明治 12)年 4 月に、 「未だ学齢には達し たつごやま. ていなかったが、その当時、規則が厳重ではなかったのを幸いに」 、父が校長であった福島県の立子山尋 第 1 節と第 2 節は、山内晴子「朝河貫一:幼少年期の知的精神的成長」早稲田大学大学院アジア太 平洋研究科『アジア太平洋研究科論集』11 号、2006 年 6 月号、145-170 頁に加筆訂正した。. 27. 〔く〕. 『学校沿革誌(1) 』と『修業卒業證書授與 扣 』は、山岡道男教授がご紹介くださり、二本松の渡辺 剛氏が立子山小学校校長から借りてきてくださったものである。鈴木喜助稿『朝河貫一』は、渡辺氏が、 喜助さんの娘さんの郡山の伊藤さんから借りてコピーされたものを見せていただいた。 29 阿部善雄『最後の日本人:朝河貫一の生涯』では、なぜか生誕は、1873 年 12 月 20 日(戸籍上は 12 月 22 日)となっているが、20 日とした根拠はわからない。2001 年吉川弘文館発行の『日本近代人 名事典』の阿部善雄が書いた「朝河貫一」の項の生年月日は、1873 年 12 月 22 日となっており、戸籍 は 12 月 22 日であり、 阿部貞吉稿、 鈴木喜助稿ともに、 12 月 22 日である。 Asakawa Papers, Box 3, Folder 34.『朝河貫一文書』40123 頁の朝河貫一自筆の履歴書も「明治 6 年 12 月 22 日生」である。 28. 16.

(17) 常小学校の「第 8 級生に入学」した。30貫一は、満 5 歳 4 ヶ月である。朝河の小学校時代に関して最も 詳しい資料は、鈴木喜助稿『朝河貫一』31である。鈴木喜助稿『朝河貫一』より少し前に書かれたと思 われる伝記として、朝河の菩提寺の真行寺に保管されている阿部貞吉稿『朝河貫一博士伝』がある。阿 部貞吉は鈴木喜助と義兄弟(妻が姉妹)であり、貞吉は立子山の隣村である飯野村の 1900 年生れであ ることから、幼少期の貫一に多くの紙面をさいているが、渡米後の記述は簡単で正確さに欠ける。32鈴 木喜助稿『朝河貫一』は、はるかに豊富な資料と取材に基づいて書かれており、構成もより優れている。 真行寺の佐々木道昇住職によると、 『最後の日本人:朝河貫一の生涯』の著者の阿部善雄は、3 日間程泊 り込んで、阿部貞吉の草稿に目を通したとのことである。阿部善雄は、 『最後の日本人:朝河貫一の生涯』 ママ. の参考資料の一冊として、今回筆者が入手した鈴木喜助稿『朝河貫一伝』を後記しており、33内容も重 なる部分が多いことから、貞吉と喜助の両方の草稿を読んでいることが分かる。1953(昭和 28)年 6 月 3 日の『福島新報』には、鈴木喜助稿『朝河貫一』の朝河博士顕彰会による出版計画の記事が出てい る。しかしその後、筆者が入手した 2005 年 6 月までの 50 年以上の間、出版されることもなく、福島在 住の研究者にも注目されることもなかった。 鈴木喜助稿『朝河貫一』は、400 字詰め原稿用紙に手書きで書かれており、訂正が随所に見られるま ま、製本されている。 「前書」の 8 枚と伝記の全 296 枚の後に、ダートマス大学で朝河と同級であった 1899 年卒業生による朝河貫一の伝記の翻訳の 9 枚と朝河貫一年表が付られている。実際は、たとえば 22 の 1、22 の 2 のようになっているために、全 411 枚と大部である。34 注は一切つけられていないが、鈴木喜助が使用した立子山尋常小学校に関する資料は、現在も立子山 小学校に保管されている立子山尋常高等小学校『学校沿革誌(1) 』と立子山尋常小学校『修業卒業證書 〔く〕. 授與 扣 』である。これらは 2 冊とも、非常に薄い上質の和紙の半紙に書かれており、二つ折りにして、 紙縒りで綴じたものである。半紙は、20 行の縦罫の原稿用紙で、真ん中に朱で「立子山役場」と印刷され ている。表と裏表紙は、厚手の和紙でできており、背表紙は一部を除いて剥がれている。すべて毛筆で 書かれ、訂正には朱が入っている。2 冊とも分厚いが、非常に軽い。朱の罫の入った少し黄みがかった 美しい半紙には、水茎の跡も鮮やかに残されて居り、和紙の優れた性質と、大切に保存されている資料 であることが一目して分かる。本稿では、今回発掘されたこの 2 冊と鈴木喜助稿『朝河貫一』を主な資 料として考察する。. 第 2 項 鈴木喜助稿『朝河貫一』. 鈴木喜助稿『朝河貫一』1953 年、56 頁。阿部善雄『最後の日本人:朝河貫一』の 4 頁には、1879 (明治 12)年 5 月、満 5 歳 5 ヶ月で、初等科に入学とある。 31 柳沼八郎「朝河貫一の「生い立ち」について:その精神的風土を探る」 「朝河貫一研究会ニュース」 No.43、2001 年。 32 渡邊剛「二つの朝河伝を比較して」 『朝河貫一研究会ニュース』No. 44、2001 年。 33 阿部善雄『最後の日本人:朝河貫一』岩波書店、1983 年、343 頁。 34 鈴木喜助稿『朝河貫一』の頁数表記は、22 頁の 1 枚目は 22 の 1 頁、22 頁の 2 枚目は 22 の 2 頁と する。 30. 17.

(18) 鈴木喜助稿『朝河貫一』は、 「前書」で、伝記を編集した動機を次のように書いている。35. 博士がエールの内命により日本に留学された明治 39 年36には、はからずもその謦咳に接し得たこ とや、その後、博士の父朝河正澄先生が 30 年間勤務された立子山小学校に、後輩として勤務し、博 士の一家が長年居住されたそのままの校長住宅に起き掛けするという奇縁を持ったので、同校に保存 されてあった博士親子に関する記録や、博士の同級生、学校近所の老人たちから聞き取った事柄等に 二本松、郡山、月館、染川その他で蒐集した資料や、早稲田大学其の他から提供して下さった材料を 整理して、この伝記を編集した次第である。本書の著作にあたって最も苦心したことは、 ・・・誤りな いと信ずる資料と、考證をつくした理解に基いて、公明に忠実に、叙述したことを諒察して頂きたい。. また鈴木は、朝河が第 1 回目の帰国をした 1906(明治 39)年に、直接朝河に会ったときの感慨を、 第 10 章「隠れたる学聖」 、二「博士の面影」 、5「逆留学した朝河博士」に、次のように記している。37. 彼が帰朝後、倉皇として訪問した立子山では、真先に幼な友達の高橋半七を探し出し、手を握っ て喜び合い、福島に出ては安積中学校時代同室に下宿した、福島県師範学校教諭の服部保一を訪ね て年来の懐旧談に耽る等人情の濃かさを示した。著者が朝河博士に面接したのはこの時が初めてで あり又最後でもあった。当時福島師範の生徒であった筆者は服部保一先生から、朝河博士について 詳しく御紹介があり、暫くの間 2 人して親密に物語して居られた。又小学校在学時代薫陶を受けた 引地平次郎先生は、立子山村の出身で朝河博士より 6、7 歳後輩ではあったが、博士の人となりを よく知って居られて、奮発勉励の訓話材料とされ、服部保一先生も朝河博士の事は、アメリカから 通信等ある度毎に喜んで話して下さったので、今目のあたり朝河博士に接して「貫一さん」とは此 の御人か、と感銘深く印象づけられたのであった。長身という程ではないがスラリとした紳士、つ やつやとした顔色、奇麗に梳った頭髪、温容なスタイル、今でも眼前に彷彿するものがある。奇縁 というべきかそれから 13 年後立子山小学校長となった著者は、博士が 22 年間起居した部屋に生活 し、近所や村の人たち、旧学友等から朝河博士一家の日常生活振りから逸話の数々まで巨細を聴取 したのであった。 当時朝河は 32 歳で、ミリアム・J・キャメロン・ディングウォール(Miriam J. Cameron Dingwall)38 と前年結婚したばかりの颯爽としたアメリカの大学の青年学者である。これは、若き日の朝河の風貌や 雰囲気を伝える珍しい記述である。ここから、鈴木喜助は、小学校在学時代は引地平次郎から、さらに、 鈴木喜助稿『朝河貫一』1953 年、5-7 頁。 引用文中の数字はアラビア数字に統一して使用する。 37 鈴木喜助稿『朝河貫一』1953 年、258-261 頁。 38 ミリアム・朝河は、 「ニューヘイヴン市ベック街の牧場主の娘、朝河が大学院時代に知り合い、1905 年 10 月 13 日、朝河 31 歳、ミリアム 26 歳で、ニューヨークのクラウン・ポイント教会で結婚式を挙げ る。 第 1 回目帰国ののち 1907 年 9 月 14 日ワシントンの日本大使館で再度神式の挙式があり初めて朝河 家に入籍された」 。 『朝河貫一書簡集』808 頁。 35 36. 18.

(19) 福島県師範学校では服部保一から、日々奮発勉励の訓話材料として朝河貫一の話を身近に聞いて教育さ れた人物であることが分かる。中学卒業後、東京に出た朝河は東京専門学校に、保一は美術学校に入っ て共に苦学する。朝河が、上京してまもなく学費のために美濃紙に毛筆で細かく翻訳した 100 頁の『ヴ ェニスの賊』を 1932 年に見つけた保一は、 「在京苦学の際、余は肖像画を売り、朝河氏は翻訳を売り、 かつ食しかつ学びたりき。この稿本は氏が売りたる最初の原稿にして、明治 25 年秋の脱稿と記憶す」 と前書きをつけている。39また 1915 年の保一への朝河の書簡によると、日本の生徒の絵画とアメリカ の生徒の絵画を交換したいとの保一の依頼を、朝河はニューヨークのハイスクールの美術教育を統括す ママ. 「貴校の生徒の作品をまず博士に送ってほしい」と保一に住所を知らせており、 るヘーニー博士に話し、 服部保一との友情はその後も続いた。40引地平次郎は、立子山村の出身で朝河博士より 6、7 歳後輩で あり、服部保一は、福島県尋常中学校時代に朝河と同室に下宿しており、アメリカの朝河から手紙が来 るたびに喜んで、鈴木喜助たち生徒に話している。鈴木は朝河博士に会ったときは「貫一さん」とは此 の御人か、と感銘深く印象づけられているのである。その上に、鈴木は貫一の父、初代立子山小学校校 長正澄の後輩の第 5 代校長であるから、鈴木喜助ほど朝河の福島時代の話を聞いて育っている人はいな いであろう。. 第 3 項 親子二代朝河天神. 1、 福島県校長訓導朝河正澄任命昇と朝河貫一賞与表. 朝河正澄は、武士として維新以前に学問を修め教養を積んでいたために、早くから貫一を士族出身者 としての気概と教養をもつよう教育する一方で、校長訓導として村民をも訓導し敬愛された。正澄の「一 村教化の中心となった功績は、村当局、村内有志の自覚奮闘と相俟って、立子山村を天下の優良村とし て・・・明治 43 年 2 月 25 日に・・・29 ヵ村町の 1 つとして・・・内務大臣平田東助の名を以て表彰さ れた」41ことに表れている。貫一も、よく父の期待に応え、品行善良学力優等な少年として成長し、父 子共に、 「朝河天神」と称せられた。42この事実を、①鈴木喜助も使用した立子山尋常高等小学校『学 校沿革誌(1) 』の教員の項と、教員賞与の項(*印)や学務委員の項(**印)から、福島県校長訓導 朝河正澄(生国郡村:安達郡二本松、族籍:士族)の昇給と任免を、②生徒賞与の項からは、貫一の足 跡を合わせて把握できる表を作成した。貫一に関する記述は、正澄に関する日付の一番近い日付の項に 記入した。43. M・S・ルイス、朝河波仙(貫一のペンネーム)訳『ヴェニスの賊』明治 25 年秋は、山形県上ノ山 町の服部琢(保一子息)氏より、4 枚の写真(内 1 枚は、保一と一時帰国した貫一と一緒に撮った写真) と共に福島県立図書館へ寄贈。朝日新聞、第一福島版、1953(昭和 28)年 9 月 1 日。 40 1915(大正 4)年 1 月 2 日付服部保一宛書簡『朝河貫一書簡集』218-219 頁。 41 鈴木喜助稿『朝河貫一』1953 年、277 の 1 頁。 42 同上書、32 頁。 43 表は読みやすいように、漢数字をアラビア数字に、カタカナをカナにした。 『学校沿革誌(1) 』では、 明治の年号のみ記入されているが、分りやすいように西暦を〔 〕に入れ、貫一の略歴も入れた。また、 39. 19.

(20) 表 1 福島県校長訓導朝河正澄任命昇と朝河貫一賞与 正澄年月(明治). 朝河正澄任免昇等. 正 澄 増 朝河貫一賞与 給. 〔1974〕7 年 8 月 7 日. 3 等授業生(福島県). 月俸 4 円. 〔1875〕. 2 等授業生(福島県). 月俸 5 円. 8 年 2 月 18 日 同年 11 月 25 日 〔1876〕. 月俸 6 円 1 等授業生(福島県). 月俸 7 円. 9 年 10 月 27 日 月俸 8 円. 〔1877〕 10 年 7 月 9 日 〔1878〕. 福島県師範学校に於て. 11 年 5 月より 6 月まで 講習す 〔1879〕. 本校主長を命せらる(伊. 〔1879(明治 12)年 4 月立子山尋常小. 12 年 7 月 20 日. 達郡役所). 学校入学。 〕. 同年 10 月. 伊達郡教育会委員とな る. *〔1880〕. 職務勉励衆に超え其効. 13 年 1 月 24 日. 果不勘に付誉置候事(福 島県). 同年 6 月 2 日. 川俣組合会長命せらる (郡役所). 同年 11 月 10 日. 伊達郡教員会委員とな る. 順序ママ. 同年 9 月 4 日. 6 等訓導補拝命(福島県) 月 俸 10 13 年 12 月 21 日定期試験受賞(普通第 円. 6 級生)朝河貫一右試験優等乙科に付 賞与候事 延 5 帖(14 年 3 月 5 日伊達 郡役所) 14 年 5 月 20 日定期試験受賞(普通第 5 級生)朝河貫一右前同文乙科、延紙 75 枚(伊達郡役所). 朝河の年齢と思われる記載がある。1880(明治 13)年 12 月 21 日の項では、朝河貫一(7 年 6 月)と あるが、正確には、貫一は満 6 歳 11 ヶ月のはずであり、貫一の年齢部分のみ省略した。 20.

(21) 14 年 12 月 11 日定期試験受賞(普通第 4 級生) 朝河貫一(8 年)青色一等賞状なり、 右者学術優等に付授与之(福島県印) 同試験に付 (4 級生) 朝河貫一 右試験優等甲科に付賞与 候事(伊達郡役所印) 14 年無欠席勉学に付金 20 銭賞与候事 (普通第 3 級生)朝河貫一(15 年 4 月 5 日福島県印) 〔1881〕15 年 6 月. 伊達郡教育会委員とな. 15 年 5 月 13 日定期試験にて受賞(3. る. 級)朝河貫一右前の如き青色賞状を県 庁より賜ふ 右試験優等甲科云々朝河貫一、延紙 70 枚(伊達郡役所より受賞). 同年 7 月より 9 月まで 東京師範学校教諭若林. 同年 7 月 8 日. 15 年 11 月 24 日定期試験受賞(中等科. 虎三郎を聘し伊達郡教. 6 級)朝河貫一延紙 70 枚. 員講習の折郡より選抜. 学術優等に付賞与候事(16 年 6 月 10. され委員となり出席. 日伊達郡区役所印). 6 等訓導に任せらる 16 年 5 月 19 日定期試験成績受賞 2 等賞、中折一帖(中等 5 級)朝河貫一 右学術優等に付授与候事(16 年 5 月伊 達郡役所印) 16 年 7 月左の賞ヲ賜ふ(中等 5 級)朝 河貫一勉強超衆に付金 40 銭賞与候事 (16 年 7 月 30 日福島県印) 16 年 11 月 17 日定期試験成績に付受賞 1 等賞、金 37 銭(中等第 4 級生)朝河 貫一学術優等に付授与候事(16 年 11 月伊達郡役所印). 〔1884〕. 伊達郡教育会委員とな. 17 年 5 月 25 日定期試験成績受賞 1. 17 年 2 月 19 日. る. 等賞、小学句読 1 部(中等 3 級)朝河 貫一右学術優等に付授与候事(17 年伊 達郡役所印). 21.

(22) 17 年 12 月 30 日定期試験成績受賞 金 光日賞 1 等賞状(中等科 2 級生)朝河 貫一右試験優等に付 1 等賞状を授与す (17 年 11 月伊達郡役所印) 同年 4 月 5 日. 第 11 学区制生徒試験師 命せらる(伊達郡役所). 同年 4 月 12 日. 川俣教育会長命せらる (郡役所). 同年 9 月 10 日. 同会長ヲ辞ス. 同年 9 月 15 日. 川俣組合学区幹事命ら. マ. マ. る(郡役所) *〔1885〕. 職務上功績あるに據り 硯 箱 一 18 年 4 月左の賞を賜ふ(小学中等科第. 18 年 4 月 1 日. 別紙目録の通賞与候事. 個. 1 級生徒)朝河貫一品行善良学力優等 に付 1 等賞として懐中硯 1 個付与候事. (5 等訓導). (14 年 4 月 1 日福島県) *同年 5 月. 教務精励の廉を以て立 20 円. (5 等訓導). 子山村より謝礼として 弐拾円を贈らる. 同年 8 月 24 日. 〔川俣組合学区幹事〕有 効満期に付き解職. 同年同月同日. 是迄の如く本校の教務 但 月 俸 18 年 5 月 19 日定期試験成績受賞 赤 (小学校中等科 1 級生) 従 前 ノ 光日章 1 等賞状. を委任せらる. 通リ. 朝河貫一右定期試験優等に付之を授 与す(18 年 5 月 20 日伊達郡役所) 18 年 12 月 3 日定期試験成績受賞 赤 光日章 1 等賞状(高等 4 級)朝河貫一 (11 年 11 月)右定期試験優等云々(伊 達郡役所印). 〔1886〕. 1 等准訓導拝命(福島県) 月 俸 10. 19 年 2 月 10 日 *同年 4 月 30 日. 円 満 10 年以上勤続に付き 6 円 為手当金 6 円下賜候事 (福島県). 22.

(23) *同年 4 月 30 日. 満 11 年勤続に付酬労金 66 円. 19 年 5 月 19 日定期試験成績受賞 赤. 66 円下賜候事(福島県). 光日章 1 等賞状(高等 3 級)朝河貫一 〔川俣高等小学校へ転校。 〕 〔1887(明治 20)年 4 月福島県尋常中 学校入学。 〕. 〔1888〕. 本校訓導に任せらる(県. 21 年 2 月 23 日. 知事). *〔1891〕24 年 2 月 職務抜群勉励候に付硯 硯 箱 一 25 日(訓導). 箱一個賞賜す(福島県) 個. 〔1892〕. 甲種検定にて尋常科本. 〔1892(明治 25)年 3 月福島県尋常中. 25 年 10 月 22 日. 科正教員免許受領す. 学校を首席で卒業、5 月より郡山町金 透小学校嘱託英語教師を経て、東京専 門学校文学科入学。 〕. *〔1893〕. 職務格別勉励に付金何 10 円. 26 年 1 月 12 日(訓導) 円賞与す **同年 4 月. 学務委員. 無報酬. 〔1893(明治 26)年 6 月本郷教会で受 洗。 〕. 同年 7 月 3 日. 本校訓導尋常科正教員 月 俸 12 更命. *〔1894〕. 円. 職務格別勉励に付明治. 27 年 1 月 1 日(訓導) 25 年県令第 23 号町村立 3 円 小学校教員の給与に関 する規則第 11 条に依り 金 3 円賞与あう (福島県) 同年 6 月 24 日. 10 ヵ年以上勤続功績表 言 海 一 彰言海一部私立者教育 部 会より 〔1895(明治 28)年 7 月東京専門学校 を首席で卒業。 〕. *〔1896〕. 職務格別勉励に付明治 5 円. 29 年 1 月 14 日(訓導) 25 年県令第 23 号町村立 小学校教員の給与に関 する規則第 11 条に依り 金 5 円賞与す(福島県). 23. 〔1896(明治 29)年 1 月ダートマス大 学に入学。 〕.

(24) 同年 10 月. 年功加俸国庫扶助金. 月俸の 100 の 15 ヲ賜ハ ル 月 俸 13. 同年 10 月. 円に増 給ス 〔1898〕. 月俸 1 円. 31 年 10 月 12 日. 増給. 同年 11 月 26 日. 兼任福島県伊達郡立子 山尋常学校長. *〔1899〕. 右 30 年度中職務勉励の 3 円. 〔1899(明治 32)年 6 月ダートマス大. 32 年 1 月 16 日. 報酬として村会の決議. 学卒業、9 月イェール大学大学院入. (訓導). に依り村長より. 学。 〕. 同年 12 月. 小学科本科正教員免許 状を受く. *〔1900〕. 右 31 年度中勉励に付村 5 円. 33 年 1 月 22 日. 役場より. 同年 4 月 1 日. 月俸 1 円 増 給 15 円. *〔1901〕34 年 2 月 5 職務格別勉励に付金 7 円 7 円 日(訓導兼校長). 賞与す. 同年 4 月 18 日. 月俸 1 円 増 給 16 円. *〔1902〕. 右 33 年度職務勉励に付 7 円. 35 年 1 月 21 日. 村役場より. **同年 4 月. 学務委員手当 2 円(36 2 円. 〔1902(明治 35)年 6 月 Ph. D を授与. 年より 3 円). され、イェール大学大学院卒業。9 月 ダートマス大学講師。 〕. **〔1903〕. 学務委員退職. 36 年 10 月 27 日 同年 10 月 29 日. 退職:訓導兼校長. 同日増 俸 18 円. 24.

(25) *同年 11 月 4 日. 立子山尋常小学校訓導 50 円. (訓導兼校長). 権校長退職に付在職中 職務勉励に付金 50 円賞 与す. 出典:立子山尋常高等小学校『学校沿革誌(1) 』を基に山内作成、2005 年 7 月 3 日。. 上記の表をもとに、立子山小学校での朝河父子の足跡を辿ってみる。正澄は、貫一が入学した翌年の 1880(明治 13)年に 6 等訓導補を拝命し、月俸 10 円となった。月俸が 12 円になるのは、1893(明治 26) 年 7 月である。前年に、貫一が東京専門学校に入学している。月俸が 13 円になるのは、1896(明治 29) 年 10 月で、同年 1 月に貫一は、ダートマス大学に入学した。以後 2 年ごとに 1 円の増給があり、1901 (明治 34)年には 16 円に、1903(明治 36)年の退職時には 18 円になり、退職金は 50 円であった。正 澄が退職した前年の 1902(明治 35)年 6 月に、貫一はイェール大学を卒業している。この間に、職務勉 励による表彰で酬労金や謝礼をたびたび受け取っている。 『学校沿革誌(1) 』の「戸数人口及学齢人員」 の項には、1880(明治 13)年から 1913(大正 2)年までの記録が残されている。1880(明治 13)年 12 月調として、立子山の「戸数 296 戸、人口 1494 人、内男 746 人、女 748 人、学齢児童 249 人、内男 128 人、女 121 人、内就学生 152 人、内男 99 人、女 53 人」となっている。このことから、不就学児童が 100 名弱いたことが分かる。正澄が退職した翌年の 1904(明治 37)年 4 月の調査では、不就学児童は 28 名 で、就学率は 93.19%となり、1910(明治 43)年に立子山村が優良村となって以来、 『学校沿革誌(1) 』 の記録の最後の年の 1913(大正 2)年まで、就学率は 100%である。正澄が「一村教化の中心となった 功績」を、この事実からも読み取ることができる。 貫一がいかに優秀であったかは、当時の試験制度について、鈴木の次の説明でも分かる。44. その頃修了進級はすべて試験制度で、春秋二期に小試験を行い全科卒業の際には定期の大試験を行 なった。試験法は実に厳密で、この外に比較試験も行なわれた。大試験は特別試験官が来校し、厳重 監督の下に実施されたもので、比較試験は卒業学年の代表数名が地方の中心校に呼び集められて、所 謂晴れの舞台で、優劣を争う制度である。貫一は何時の試験でも第 1 番で、進級の式に生徒総代とな って優等賞を貰うのも貫一であった。. 表の(福島県印)となっているは、県からの賞与である。例えば(明治 16 年 7 月 30 日福島県印)の 項に、 「金 40 銭賞与候事」とあるのは、福島県全体の比較試験で優等であった貫一に、40 銭が賞与され た記録である。 「厘単位で品物を売買していた時代に、莫大な賞金を頂戴した本人の喜びはどんなだった だろうか」と鈴木は書いている。45同年 11 月には、伊達郡からも、定期試験の成績 1 等の賞金 37 銭が 授与されている。また 1884(明治 17)年 12 月の定期試験以降は、毎回伊達郡から金光日賞 1 等賞状を 受け取っている。1885(明治 18)年 4 月には、福島県から品行善良学力優等の 1 等賞として、貫一に懐 44 45. 鈴木喜助稿『朝河貫一』54 頁。 同上書、60 頁。 25.

参照

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