• 検索結果がありません。

81 とガリラヤ 地 方 で 宣 教 が 開 始 されたと 記 しています による 福 音 書 では 宮 清 めされた 出 来 事 の 中 で イエスが 語 った 言 葉 に 反 発 して 2:14 そして 宮 の 中 に 牛 や 羊 や 鳩 を 売 る 者 たちと 両 替 人 たちがすわっているの

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "81 とガリラヤ 地 方 で 宣 教 が 開 始 されたと 記 しています による 福 音 書 では 宮 清 めされた 出 来 事 の 中 で イエスが 語 った 言 葉 に 反 発 して 2:14 そして 宮 の 中 に 牛 や 羊 や 鳩 を 売 る 者 たちと 両 替 人 たちがすわっているの"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

講義10 イエス時代の社会生活 ●イエスの宣教開始 ルカによる福音書によると、 3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピ リポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、 3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。 3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバ プテスマを説いた。 ルカは、バプテスマのヨハネが洗礼を授け始めたのが、皇帝ティベリウスの治世 15 年であった記していま す。これは計算方式で多少のずれはありますが、紀元 27 年 9 月~10 月以降が治世 15 年になります。 イエスもバプテスマのヨハネから洗礼を受け、その後ガリラヤのカナで婚礼に出席したイエスは、カペナウ ムに下り、そこに数日滞在しています。 そして、 ヨハネ 2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 このエルサレム訪問は、「過越祭が近づいたので」と記されている。上記の計算によると、この「過越祭」 は、紀元 28 年の春のことになります。イエスの宣教開始は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、 マタイ福音書では、 4:12 ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。 4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町 である。 4:14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、 4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」 4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 マルコ福音書では、 1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。 1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」 ルカ福音書では、悪魔の誘惑の後に、 4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。

(2)

とガリラヤ地方で宣教が開始されたと記しています。 ヨハネによる福音書では、宮清めされた出来事の中で、イエスが語った言葉に反発して、 ヨハネ 2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、 2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、 2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならな い。」 2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。 2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに 見せてくれるのですか。」 2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日 で建てるのですか。」 この神殿を建てるのに 46 年の歳月を要したと語られていますが、ヘロデ大王の治世 18 年(紀元前 20-19) に着工されたとすると、紀元後 26-27 ということになります。そして、ルカによる福音書では、 ルカ 3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。 とイエスの年齢を記していますが、宣教を開始された時期と符合すると考えられます。四福音書の語ってい る事柄からイエスの宣教開始の年代を考えてみましょう。 ヨハネによる福音書と共観(マタイ、マルコ、ルカ)福音書の著しい相違点は、共観福音書は宣教開始をガ リラヤ伝道に置いているのに、ヨハネ福音書は、エルサレムの宮清めに置いています。しかし、この「宮清め」 の出来事は、共観福音書ではイエスの公生涯の最後に記されています。 マタイ 21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を 売る者の腰掛けを倒された。 マルコ 11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出 し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 ルカ 19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、

(3)

同じ「宮清め」の出来事が 2 度あったとは考えられず、ヨハネ福音書の記述は、年代的な観点よりも神学 的観点から記されていると理解されています。しばしば、イエスの公生涯は3年6カ月と言われています。私 もそう思ってきましたが、その根拠となったのは、ヨハネによる福音書に3回の過越の祭り(2:13、6:4、 11:55)が記されているということでした。しかし、この「宮清め」がヨハネ福音書では神学的観点から記さ れたとすると、イエスの公生涯が、過越しの祭に始まり、2 年後の過越しの祭で終わることを示唆しているよ うです。 さて、イエスの公生涯と言われる公的な宣教活動は、共観福音書によると、ガリラヤ地方を中心に 1 年ほ どで終了しているように思われます。ヨハネ福音書が、イエスはその公生涯において2回の過越しの祭を迎え ているとすると、 ヨハネ 6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。 6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たから である。 6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。 6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。 ヨハネ 11:54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に 去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。 11:55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にい なかからエルサレムに上って来た。 12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラ ザロがいた。 ヨハネ福音書6章では、ガリラヤにおける5000人の給食の奇跡が行われた時でした。細かい話ではあり ますが、マルコ福音書の給食の奇跡の記事を見ると、 マルコ 6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 「青草の上に座らせるように命じになった」と記されています。イスラエルで「青草」が生える季節とは、 春の一時期です。ガリラヤ地方が緑で覆わる春の季節とは、過越しの祭を前後する時期になります。 こうして、過越しの祭を基軸にして考えると、イエスの公生涯は、ほぼ2年間ということになります。そし て、紀元30年の過越しの祭を目前にしてその生涯を閉じることになります。

(4)

●ガリラヤ伝道 ガリラヤ伝道に多くを記しているのは、共観福音書です。共観福音書で見たように(p.80)、イエス の公生涯は、ガリラヤ伝道で開始されています。その最初の宣教は、故郷のナザレで始められましたが、受け 入れられませんでした。 §最初の宣教地 ナザレ ルカ 4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとし て立たれた。 4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。 4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたの だから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいた げられている人々を自由にし、 4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」 4:20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。 4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり 実現しました。」 4:22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子では ないか。」と彼らは言った。 当時の会堂における礼拝がどのようにおこなわれていたか正確な内容を知ることが出来ませんが、この個所 から垣間見ることができるのは、 1.シェマー祈祷(申命記 6:4-9、11:13-21、民数記 15:37-41) 2.一般祈祷 3.律法の朗読 4.預言者の朗読 5.説教(注解) 6.祝祷 朗読と説教は祭司、レビ人、ラビなど居合わせた者に優先的に指名されていたようです。イエスは、ラビと して処遇されたものと考えられます。 ルカ 4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。 ヨハネ 1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、

(5)

1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。 1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」 彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」 朗読個所は聖書日課によって行われていたので、イザヤ書(61:1~2)がその日の聖書日課であったかも 知れませんが、現行の聖書日課には含まれておらず、イエスがその個所に目を留め、読み始められたとも考え られます。 *カトリックの聖務日課  初めの祈り(「神よ、私を力づけ急いで助けに来てください。栄光は父と子と聖霊に初めのように今 もいつも世々に。アーメン。」)  良心の糾明および回心の祈り(寝る前の祈りのみ)  賛歌  詩篇唱和  聖書朗読(読書課のみ聖書以外の教父などの著作も朗読される。)  ザカリアの歌(ベネディクトゥス・ドミヌス・デウス、ルカ 1:68~79、朝の祈りに唱え る)、マリアの歌(マグニフィカート、ルカ 1:46-55、夕の祈りに唱える)、シメオンの 歌(ヌンク・ディミティス、ルカ 2:29~32、寝る前の祈りに唱える)  共同祈願(朝の祈り、夕の祈りのみ)  主の祈り(朝の祈り、夕の祈りのみ)  賛美の賛歌(テ・デウム、読書課のみ)  結びの祈り  結び  聖母賛歌(レジーナ・チェリ、サルヴェ・レジーナ、アルマ・レデンプトリス・マーテル、 アヴェ・レジーナ・チェロールムから一曲、寝る前の祈りのみ) §自分の町 カペナウム ヨハネはカナの婚礼の後に、カペナウムに下って行ったことを記しています。しかし、ルカ福音書 を見ると、ナザレで語った説教の中に、 ルカ 4:23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行 なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」 とすでに多くの奇跡が行われていたことを示しています。確かに、その評判が周りの地方一帯に広まり、諸会 堂で教え、尊敬を受けていたことが記されています。マタイはナザレでの出来事を記さず、

(6)

マタイ 4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町 である。 と記しています。 カペナウム(ヘブル語では、クファル・ナフム「ナホム(慰め)の村」の意味)は、ヘロデ・アンティパス とピリポの領地の境界に位置し、ゼブルンとナフタリの地方にありました。それは、ナザレで朗読された預言 者イザヤのみことばの成就とも見られたのです。 マタイ 4:14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、 4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」 そのカペナウムには、境界にある町として収税所が置かれていました。その収税所の徴税人であったのが、 使徒マタイでした。マルコ福音書では、アルファイの子レビと記されていますが、同一人物であろうと考えら れています。 マタイ 9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしにつ いて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。 マルコ 2:13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられ た。 2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについ て来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。 また、境界にあった町であることから守備隊が配備され、その指揮に当たるために異邦人の百人隊長が派遣 されていたのです。その百人隊長との出来事(ルカ 7:3~)が記されています。 そして、最初の弟子たち(シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ)を呼び寄せたのもカペナウムにおいてでし た。また、12 弟子を選ばれたのもカペナウムでした。カペナウムで行われた奇跡が聖書に多々記されていま す。そのために、イエスはカペナウムを「自分の町」(ルカ 9:1)と呼ばれたのです。 なぜ、カペナウムがイエスの宣教の中心地になったのか、故郷であるナザレでは受け入れられなかったから ではなく、カペナウムが、デカポリスの境にも近く、さまざまな人々が往来し、新しい教えを比較的に受け入 れ易かったことも挙げられます。

(7)

●イエスの活動範囲 マルコ 3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダ ヤ、 3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスの しておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン側の 向こう側、ティルス、シドンの辺り、と記され ています。マタイ福音書では、デカポリスが加 えられています。これらの地域には、ユダヤ人 コミュニティーがあったのです。エルサレムだ けが町でありながら諸地方と対等に扱われ、当 時のユダヤ人にとっても特別な町として受け止 められていたことを示唆しています。イドマヤ では、ユダヤ人と地元民との同化が進んでいま した。その中に、ヘロデ大王の父アンティパテ ルがいました。ヨルダンの向こう側であるペレ ア(ペリア)は、カナン侵入以来ユダヤ人の地 であった。異邦人が多くいましたが、デカポリ スの町々にもユダヤ人社会はありました。また、 ティルス、シドンはフェニキア人の町ではあり ましたが、ユダヤ人地区があり、相当数のユダ ヤ人が生活していました。しかし、このリスト の中にサマリヤ地方が入っていないのは、良き サマリヤ人の譬でも語られているように、ユダ ヤ人とは認められず、一線を画していたことも 窺えます。 ルカ福音書では、宣教の最初に置かれている ナザレでの出来事も、イエスがカペナウムを宣 教の拠点とした宣教活動の一環としてナザレに 赴いたとも考えられます。マタイ福音書では、 マタイ 13:54 それから、ご自分の郷里に行って、会 堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得た

(8)

のでしょう。 13:55 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユ ダではありませんか。 13:56 妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをど こから得たのでしょう。」 §カナ訪問 ヨハネ福音書では、カナ訪問が 2 回記されています。 ヨハネ 4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。 ヨハネ 4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。 今日、カナとして同定されているところが 2 か所あり、一般的に言われる「カナの村(カッフル・ケンナ)」 はナザレとガリラヤ湖を結ぶ幹線道路沿いにあります。 もう一つは、「キルベート・カナ」と呼ばれ、多くの学者は、こちらをカナと考えています。「キルベート・ カナ」はナザレの北13kmにある寒村で、現在も「カナ・エ・ジェリル(ガリラヤのカナ)」と呼ばれてい る。また、「ケンナ(Kennna)」よりも「カナ(Qana)」の方が本来の発音に近く、「葦」の意味することか らも「ガリラヤのカナ」の名称に相応しいと考えられているからです。 §その他も訪問地 ナイン(ルカ 7:11~)もその一つです。ナインでは、やもめの息子を生き返らせた。 イエスは、ティルスとシドンへ足を延ばしています。この地での出来事は、ギリシャ人と呼んでいますが、 シリア・フェニキア人の婦人の娘の癒しを記しています。そして、さらに帰路、イエスは内陸を通り、デカポ リス(マルコ 7:31)を通ってカペナウムへ戻ってきたようです。 もう一つは、ピリポ・カイザリヤの旅です。ヘロデ大王の息子ピリポによって再建された町の名称でもあり ます。以前は、ギリシャ語で「パニアス」と呼ばれ、「パン(牧羊神)」が祀られていました。今日、アラビア 語で「バニアス」と呼ばれているところです。この地方で、シモンに「ペテロ(ケファ)」という名を与えま した。それは、ペテロの信仰告白に由来しているのです。 ●ガリラヤ湖畔 イエスの活動のほとんどが、ガリラヤ湖周辺でなされています。ガリラヤ湖は、旧約聖書では「キ ンネレテ」と呼ばれていましたが、新約聖書でも、

(9)

ルカ 5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 ヨハネ 6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 ヨハネ 21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。 と呼ばれていました。「ゲネサレト」とは、「キンネレテ」の地と符合するために使われるようになったと思わ れます。テベィリアスは皇帝の名を付した町の名称から呼ばれたものです。 ガリラヤ湖畔では、山上の説教が語られ(マタイ 5-7 章)、12 弟子の任命、湖上歩行(ペテロの水上歩行)、 5 つのパンと 2 匹の魚で 5000 人を養い、ガダラの豚の出来事、嵐の中で湖を静め出来事などが挙げられま す。また、マグダラ(現在、ゲネサレのミグダル)のマリアの出身地でもあります。 ●変貌の出来事 ピリポ・カイサリヤでの出来事の後、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られた。この山 でイエスの姿は変わり、モーセとエリヤと話したことが記されています。この変貌の出来事を通して栄光の主 であるイエス・キリストの姿を共観福音書は示しています。 マタイ 17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 マルコ 9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の 前で変わり、 9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ルカ 9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登 られた。 9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

(10)

ここに挙げたように、マタイによる福音書とルカによる福音書では、すこし違いがあります。6 日と 8 日 にどのような意味があるのか。ルカはイエスとエリヤ、モーセとの会話の内容を記していますがマタイ、マル コは記していません。その代わり、下山してから出来事をルカは記していません。ルカは、エルサレムで遂げ ようとしている最後について語ったのです。 キリスト教的聖書解釈としてルカによる福音書のみことばから、モーセとエリヤは、律法と預言者の代表的 存在として挙げています。 ルカ 24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられな い者たち、 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説 明された。 イエスが、第二のモーセとしてシナイ山での出来事を思い起こさせています。 1.山に登られた。 2.顔の様子が変わり、・・・真っ白に輝いた。 3.雲が・・・覆った。・・・雲の中に包まれていく また、イエスが、栄光の人の子、王である神の子、受難のしもべとして選ばれた者であることも示している のです。こうして、エルサレムで起ころうとしている出来事を啓示しているのです。ガリラヤ湖畔で過ごされ た2年余りの生涯を通してその備えをされたのです。 今回は、社会的の学びというよりはイエスの宣教旅行を学びました。イエスの宣教が、どのような社会的背 景で行われたのか。なぜ、主がガリラヤ湖畔を伝道の拠点として選ばれたのか。その行動範囲は決して広範な ものでありませんでした。その多くがガリラヤ湖畔に一部でしたかありませんでした。そして、そこに人々が 集まってきたのです。弟子たちも決して優秀な者ばかりを選ばれませんでした。しかし、神の時があり、地の 利があり、人の和があったのです。 ●ローマの支配 §ヘレニズムからローマへ 歴史の流れは、アレキサンダー大王の死後、プトレマイオス王朝とセレウコス王朝に受け継がれ、ユ ダヤはプトレマイオス王朝に合併されます。エジプト人の支配を受けたユダヤ人は、エジプトの地にユダヤ人 が住むことを許し、アレキサンドリアに多くのユダヤ人が移住し、ヘレニズム文化の下に生活をするようにな りました。そのためにギリシャ化が促進され、聖書をギリシャ語に翻訳することになったのです。ギリシャの 風俗、言語などがユダヤ人社会の特権階級に広まっていきました。この世俗化を好まず、律法に忠実であろう

(11)

とする人々との格差が増したのです。プトレマイス王朝からセレウコス王朝になると、ユダヤ人へのギリシャ 化を強制するようになりました。神殿をゼウスの神殿に変え、ユダヤ教を禁じ、違反者を処刑したのです。こ れに反旗を翻したのが、ハスモン家の祭司マタティアでした。その三男マカベア(ユダ・マイバイオス)は、 シリアを打ち破り、エルサレムを取り返したのです。その奪還を記念した祭りが、「宮きよめの祭り(ヨハネ 10:22)」になります。ハスモン家支配が始まると、ユダヤ教を信仰するか、国を出るかの選択を迫りました。 支配的権力によって国を治めようとする者と自由な信仰によって国を治める者との間の対立が顕著にあって きました。前者は、サドカイ派であり、政治権力を握る帰属階級、神殿祭司たちを代表とする権力的、世俗的、 融合的、保守的な人々でした。後者は、パリサイ派の人々で、律法の教える信仰、道徳的価値観を尊重してい ました。この両派の代表である71名のサンヘドリンの議員が、ハスモン王朝の政治、宗教に関する補佐役と なったのです。 この時代に、パリサイ派独自のミドゥラッシュ(研究する)という学校での教育が義務化されます。全国に 学校が建築され、シナゴーグでの集会が定着したのです。しかし、後継争いによってイドマヤの総督であった ヘロデ大王の父アンテイパテルの援助を求めたので、ローマに全面的な忠誠を誓っていたアンティパテルにそ の支配権が移されたのです。父が死ぬと兄のファサエルとヘロデに権力は移り、ユダヤの行政を任されました。 その後、勢力をもち直したアンティゴノスによって兄は自殺に追い込まれ、ヘロデはローマへの逃げ、3 年間 を過ごします。ローマで、ヘロデはローマ元老院からユダヤの王の称号を受け、ローマ軍の助けを借りて、王 国の支配者となるのです。ヘロデは正当なユダヤの王となるために、ハスモン家のマリアムネと結婚をします。 §ヘロデ大王の支配 ヘロデ大王は、サンヘドリンの議員 45 名を処刑し、財産を没収し、王位を守るためなら妻を、義父 を、義弟を殺したのです。ユダヤ人の関心を乞うためにエルサレムの大改築を行いました。また、東と南の国々 からの侵入を防ぐために要塞網(アレキサンドリオン、ヒルカニア、マカイロス、マサダ、ヘロディオン)を 作りました。また、次々と壮大なローマ風建築物を建てていきました。サマリヤを改築し、皇帝の名(アウグ ストゥス:ギリシャ語ではセバストス)に因んで、セバスチャと名づけました。父の名を付けたアンティパテ ルス(使徒 23:31)という町を造りました。その最大級のものが、カエサル・アウグストゥスに捧げたオリ エント最大の港カイサリアです。多くの施設を改築、新築しました。 しかし、その生涯は猜疑心に苛まれ、末期のサウル王のように誰も信じる、信頼することが出来ませんでし た。死後、3 人の息子に王国を分与しました。 §ヘロデ大王以後の支配 長男のアケラオスにはユダヤ王の称号とサマリヤ、イドマヤが与えられ、ヘロデ・アンティパスには、 ガリラヤとペレア、ピリポには、ヨルダン川北東部が与えられました。しかし、アケラオスが退けられ、領土 はローマの属州となり、総督が駐留し、支配するようになりました。 総督は、秩序を守るために軍隊を任命し、裁判を行い、財政を管理し、大祭司の任命にも関与しました。生 活や自治、宗教は守られ、サンヘドリンも裁判権は与えられていましたが、死刑の宣告は総督の権利でした。 社会は、表面的な自由は保たれていたのです。しかし、租税は重く、支配的になり、ローマ皇帝の肖像、軍団 の旗章を押し付けるようになりました。そのために、メシア待望、預言の成就を求める思いが急増したのです。 メシアはダビデの子孫であり、メシアをして、この圧政から解放してくれる者を求めたのです。

参照

関連したドキュメント

(2)特定死因を除去した場合の平均余命の延び

えて リア 会を設 したのです そして、 リア で 会を開 して、そこに 者を 込 ような仕 けをしました そして 会を必 開 して、オブザーバーにも必 の けをし ます

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

都調査において、稲わら等のバイオ燃焼については、検出された元素数が少なか

下山にはいり、ABさんの名案でロープでつ ながれた子供たちには笑ってしまいました。つ

園内で開催される夏祭りには 地域の方たちや卒園した子ど もたちにも参加してもらってい

私たちは、2014 年 9 月の総会で選出された役員として、この 1 年間精一杯務めてまいり