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日 蓮 聖 人 遷 化 の 後 先

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(1)

日蓮聖人遷化の後先

一 御遷化記録﹂をめぐって

はじめに   日蓮聖人の入滅は︑弘安五年︵一11八11︶十月十三日︑武蔵国千

束郷池上においてのことである︒偉大なる宗教的人格の死という︑

厳 粛な出来事の起こった日を中心に営まれた儀礼は︑日蓮聖人自身

の 生

活 史については勿論︑随従した僧俗の現・未来にとって︑大き

な意義を帯びるものであった︒

       り   これら一連の儀礼については︑﹁入滅の物語﹂として修飾され神 秘

化 され︑たびたび著された日蓮聖人伝の最後を飾っている︒大

勢の弟子や信者たちが集い︑山裾の池上宗仲の館で終焉をむかえる

日蓮聖人の情景を描いた︑一日蓮大聖人御入滅の図Lが幾度も刊行

されて︑江戸時代の日蓮信仰を盛んにした︒

鎌 倉時代の僧侶におけるいわゆる﹁死の儀礼﹂は︑勿論のことな

が ら法然・親鷺・一遍ら有名な僧侶について︑特に絵伝によって感

日蓮聖人遷化の後先︵中尾︶

激 的に物語られている︒しかしながら︑その多くはかなり時間が経

過した後の記録であり︑臨場感に富んだその史料は少ないのが実状

で ある︒幸いなことに︑日蓮聖人とその弟子日興の葬送をめぐって

は︑一応体系的にまとまった原資料が︑いくつか伝来している︒こ

れらの資料をめぐって︑従来さまざまな検討と解釈が成されてきた

が︑なお原本に基づく綿密な考察が要請される︒

  日本の仏教世界では︑僧侶の死を特に﹁遷化﹂と呼ぶ︒ここでは︑

日蓮聖人の﹁死の儀礼﹂を︑遷化の前後を記録した文書を実証的に

討 しながら︑改めて構築することを意図する︒それは︑波乱に富

だ 日蓮聖人の帰結を物語るとともに︑その弟子たちによる新しい

教団の未来を暗示する︒さらにそれは︑中世人の死生観の仏教的表

現 の

一 端を︑具象的に物語るものである︒

  なお︑この論文は︑これに先立って平成十七年に発表した︑立正

大 学史学会﹃宗教社会史研究皿﹂所収﹁﹃日蓮聖人御遷化記録﹄の

      ず こ 書誌的研究﹂を土台とした研究成果である︒

=二

(2)

法 華文化研究︵第三十三弓︶

  池 上 館

到 着の後先

 日蓮聖人の御遷化をめぐる記録には︑西山本門寺本︵国重文︶・

池上本門寺本︵東京都重宝︶・池田本覚寺本︵静岡県指定文化財︶

の 三 本 が ある︒︵池田本覚寺本は︑全体写真を論文の後に掲載する︒︶

これらを書誌学の上から全体的に検討した結果︑これまで通説とし

て 考

え られていた見解に︑若干の修正を加えなくてはならないこと

が わ か

っ た︒詳細な研究結果は前掲論文に譲るとして︑ここでは池

上 氏の館に到着した︑日蓮聖人にしたがう旅の一行について︑まず

は叙述することとしよう︒

  日蓮聖人が︑あしかけ九ヵ年を過ごした身延山を離れたのは︑弘

安五年二二八二︶九月八日であると伝える︒これは﹃波木井殿御

書﹂︵弘安五年十月七日付︑この書状を疑問視する意見がある︶と︑

古くは﹃日蓮聖人注画讃﹄によるが︑確証があるとはいえないだろ

う︒しかしながら︑日蓮聖人は︑釈尊の成道という意義深い﹁八日﹂

の 日を︑特に意識して行動することがしばしばであるから︑釈尊の

立 像を捧持しての旅立ちとして︑八日を選んだことは十分に理解で

   ペコニ きる︒この日から池上に到着する十八日までの十1日間は︑さわ

か な秋の空は高く澄み︑夜になると月光が燈々と輝いて道を明る

く照らしたことであろう︒

 波木井氏の若き﹁きうだち︵君達︶﹂に守護された日蓮聖人の一

行 は︑幾人かの従者をともなって︑故郷の安房国からさらに常陸国

を目指して︑緩やかな旅路を重ねた︒旅のおおよその姿は︑葬送の

後︑十月十六日に行われた﹁御遺物配分事﹂の記録によって︑これ

を窺うことができる︒

 捧持する﹁釈迦立像一躯﹂と﹃注法華経﹂を一行の先頭に立てて︑

日蓮聖人が身を置く馬を﹁とねり︵舎人︶﹂が引いて後に続く︒そ

の 前後を︑波木井一族の若い﹁君達﹂が守護しながら︑ゆっくりと

休息をとりながら進む︒その道中の様子を︑日蓮聖人が波木井殿に

充 て た

『 波木井殿御報﹄に述べる︒

    み ち︵道︶のほど︑べち︹別︶のこと候はで︑いけがみ︵池上︶

  までつきて候︒みちの間︑山と申︑かわと申︑そこばく大事に

    て

候 けるを︑きうだち︵君達︶にす護︵守護︶せられまいらせ

   

候 て︑難もなくこれまでつきて候事︑をそれ入り候ながら︑悦

    存候︒

  病に沈む日蓮聖人を守護しての旅であるから︑甲斐国の身延山か

ら武蔵国の池上まで︑十1日にわたる長い道程であった︒文永卜一

年に︑鎌倉から身延山にむかう入山の旅は︑富士山の南麓を辿って

六 日を要したから︑その二倍ほどの日数がかかった︒

  この旅の構成は︑数人の弟子をはじめ︑警護する波木井一族の君

達︑馬を曳き物を運ぷ従者など︑少なくとも二十人を擁したであろ

(3)

う︒池田本覚寺本﹁日蓮聖人御遷化記録﹂の﹁御遺物配分事﹂の記

事 は︑この一行が携えた持物を示す.それは︑旅の所持品のすべて

を︑葬儀に加わった人々に配分した記録だからである︒

  まず︑注法華経一部十巻と釈迦立像一躯は︑この一行が捧持する

第一の聖物であった︒ついで︑僧侶の衣類として︑法衣.一.着に袈裟

一 帖が予備として携行され︑ほかに袈裟代五貫文が準備されている︒

寒さに向かう日蓮聖人の病身を気遣って︑衣の下につける帷子一着

小 袖を十六枚も用意している︒頭や頸にかぶる帽子や︑体温を保

持するための腹巻と足袋︑何かの用に備える染めた布に︑揉んで柔

らかくした練絹など︑寒さに向かう旅の心遣いがうかがわれる︒        ニコ 

  日蓮聖人自身が病の身を置く﹁くりかげの御馬﹂をはじめ︑荷

物を担ってきた五匹の馬は︑舎人が身延山から曳いてきた︒一行の

安 全 を守るためには︑一振りの太刀と一挺の手鉾が携帯されている︒

また︑携行した現金は︑葬儀の費用を差し引いた残りが︑11十1貫

文であった︒

  この金額は︑果たしてどのくらいの貨幣価値があったのだろうか︒

      ト ず 日蓮聖人は﹃大夫殿御返事﹄の冒頭で︑﹁小袖一・直垂三具・同腰

具 等云々︒小袖ヒ貫︑直垂拉腰十貫︑已上十ヒ貫文に当れり﹂と

述べている︒池上での滞在費と葬送の費用がはたして幾らかかった

か は知る由もないが︑袈裟代五貫文を足しても残高が二十六貫文と

い うのは︑日常の衣類を調達するほどの金額である︒日蓮聖人の身

日蓮聖人遷化の後先︵中尾︶

延 離山の旅に随う一行の装いは︑思いのほか質素なものであった︒

弘 安五年九月十八日︑池ヒ氏の館にたどり着いた日蓮聖人は︑も

は や これ以上の旅は続けられない情況であった︒その翌日十九日︑

日蓮聖人は身延の波木井実長に充てて︑﹃波木井殿御報﹄をしたた

め た.︑その﹁追而書﹂に︑﹁所らうのあひだ︑はんぎやうをくはえ ず

候 事︑恐人候﹂とある.しかしながら︑本文そのものも弟子の日

興 が 代筆し︑r判形︵11花押︶﹂さえ据えることができないほど︑動

Vことも出来ないかなりの重病であったとみられる︐

  日蓮聖人の最後の書状となった﹃波木井殿御報﹄には︑路次には

何 の 障

害 もなく池上についたことと︑波木井氏一族の君達の護衛を

よろこぶとともに︑いくつかの重要な伝ラ.口をしている︒まず︑﹁所

らう︵老︶のみにて候へば︑不ぢやう︵定︶なる事も候はんずらん﹂

と︑死を覚悟する心中を述べ︑﹁はかをばみのぶのさわにせさせ候

べ く候﹂と︑墓塔を身延山中の庵室の傍に営むことを遺言するー.

  旅に引き連れた五頭の馬のうち一頭は︑日蓮聖人が特に愛した

r vりかげの馬﹂で︑﹁あまりにおもしろくをぼへ候程に︑いつまで

もうしなうまじく候﹂という想いであった︒もし︑ ﹇ひたち︵常陸︶

の ゆ︵湯︶一まで曳いていったら︑他人に取られることもあろうか

と︑上総国の﹁もばら殿 のもとにあずけることにした︒この馬の

話 をする舎人は︑いまさら変えるのも心元ないので︑身延からの

者をいましばらくつけることにしたいと要請している︒

一 五

(4)

法 華文化研究︵第三十三号︶

  この文三口によると︑身延から出発した日蓮聖人の旅の一行は︑池 上 に

到 着した時点で旅装を解いたと見られるU時節はまさに稔りの

秋︑日蓮聖人の供をした波木井氏の君達は︑十1日間も農事から離

れ て い た の で︑一人の舎人を残して急いで身延への道を引き返した︑

秋 の

取 り入れも手間取ったのであろうか︑また遠距離という事情も

あって︑葬送の場に波木井氏一族の姿はなかった︒

波 木井氏の君達が身延への帰路についたのは︑池ヒに到着した翌

日︑九月十九日である︑病の床にある日蓮聖人は︑弟子の日興に代

筆 させ︑身延の波木井実長に充てて﹃波木井殿御報﹄をしたため︑

出発する君達に託した︐

  この書を代筆した日興は︑恐らく一行が身延山を離れた時から︑

日蓮聖人の一行に加わって︑中心的な役割を演じたであろう︒この

後︑日蓮聖人の﹁死の儀礼﹂が進行するにつれて︑日興の役割は次

第に重みを増してくる︑

二︑六人の﹁本弟子﹂と入滅

  十月になると︑日蓮聖人の病状はとみに悪くなり︑もはや死を覚

悟 しなくてはならなかったであろう︑偉大なる宗教者の死を前に︑

没 後の教団をどう組織していくかが︑ 一門の僧によって議せられた︒

そ の

結 果︑十月八日に﹁本弟了六人﹂を定め︑発表された︑

一 六

  西山本門寺本の﹃御遷化記録﹂には︑﹁本弟子六人被定置︵本弟

子六人を定め置かる︶﹂とあって︑本弟子の選定は日蓮聖人の意思

によるとされ︑U昭・日朗日興・口向・︺頂・日持の順に記され

い る︒その記載順については﹁不次第﹂とされたが︑この順序は

それなりの意味があった︒その実年齢は︑日昭六十二・日朗三十

八・日興三十七・日向三十・日頂一二十一・日持三十三であったc間

に 迫った葬送の儀礼も︑この六人の僧が中心となって執行するこ

ととなる︒

  m蓮聖人の後事を託すべき六人の弟子が決まると︑日興が筆を執っ

て これを記録し︑r此状六人面々可帯︵この状︑六人の面々帯ぶべ

し︶﹂と注記した︒これによって︑同文の定書六通を作って︑六人        ぴゴ

の 僧それぞれに渡して携帯させたことがわかる︑﹁依為向後所定如

件︵依って向後のために定むる所件のttし︶.1と結はれたこの状は︑

料紙を.一つに折った﹁折紙﹂に記されていたと思われるが︑現存し

て い ない︒

か vて十月八日に﹁本弟子六人﹂が決まると︑日蓮聖人の病状は

さらに進んで予断をゆるさないようになったので︑弟子の僧や信者

た ちが︑池止氏の館に呼び寄せられた︒ここには︑日蓮聖人の波瀾

に 富んだ生涯に︑しばしば脇役として姿を現した弟子と信者の顔が

見える︒それから六日の後︑十三日の辰の刻︑日蓮聖人は六十一歳

涯 を閉じた..﹁即時大地振動﹂とあるが︑このほかにはさした

(5)

る奇跡も起こらず︑静かな﹁人滅﹂の相であった︒

い よいよ葬送の儀である︒まず仏教の法要で用いる 差定一︑い

わ ば式次第を作成する︒二紙の料紙をそれぞれ横長に置き︑左右の

辺 を合わせて縦長の折紙に仕立てる︑折目をドにもう一度横長に置

い て 同様に折り︑底辺を切り放つと︑縦長の四丁の折紙がてきる.︒

これをニセット作って︑折り目を背中合わせにして重ねて中心を綴

じると︑八丁︵一六ページ︶からなる薄い﹁帖一が出来ヒがる︵綴

葉装︶︒このような帖を二︑三冊ほど作成した..

  このようにして作成された冊子に記入された︑池田本覚寺蔵の

r 大

聖 人御葬送日記井御番役次第﹂は︑これまで日位の筆写本とさ

れ︑静岡県の指定文化財であるuしかし︑京都妙顕寺に伝来する

「 日位書状﹂の筆跡と比較すると︑それは日位の筆とは到底思えな

い︒本覚寺の開山が日位であることから︑このような見解が生まれ

た の で あろう︒

  ところが︑西山本門寺本﹃日蓮聖人御遷化記録﹂の継目裏に据え

られた︑本弟子の署名と花押の筆跡を見ると︑むしろ日持の筆跡と

み るべきである.︒また︑﹁本弟子一としての日持が︑立案と書記と

い う役割を果たすことは︑葬送儀礼を進行するヒでまことに当を得

て い るといえよう︒

  このような理由によって︑池田本覚寺蔵の一.大聖人御葬送日記井

御番役次第﹄︑すなわち池田本覚寺本﹃御遷化記録﹂の執筆者は日

日蓮聖人遷化の後先︵中尾一 位ではなく︑このたび本弟子に選ばれた日持が執筆したと見るのが 妥当である︒U持は︑はじめ口興に師事し︑後に日蓮聖人の直弟子 となった︒以下︑このような見解にしたがって論を進めていこう.︑

  日持は︑他の僧と複数で書記の役割を担い︑早速にその任につい

た︑日持が執筆した記録には﹁︐イ﹂とあって︑異本によって交合し

たことが窺えるから︑もう一人の書記役を想定できる..本文の執筆

に 取り掛かったのは︑遅くとも十vl日の入滅のUであった一︑

  まず表紙に﹁大聖人御葬送U記井御番役次第﹂と表題を記し︑次

の 第一丁表から本文の記入を始める.その第一・..行には︑まず内 題 を 掲 げ る︒︵以下︑写真を参照︶

  甲斐国波木井郷身延山久遠寺

  大聖人御遷化次第

  ここでは︑日蓮聖人の帰属を﹁身延山久遠寺﹂と確認していて︑

御遷化の当時すでにこの寺号が称されていたことがわかる︒また︑

日蓮聖人の呼称について︑弟子たちは一大聖人﹂とよんでいたこと

もわかる.︶

  その次の行から三行ほど︑日蓮聖人の遷化についての記録を︑手

短 に

記 す︒︵以下︿ ﹀印は割書を示す︶

   

弘 安五年︿太歳壬午﹀十月十三日 大地六種震動︑

  於武蔵国江原群︵荏原郡︶千束郷池上村

    本門寺︑御年六十一歳 御遷化也.︑

(6)

法 華文化研究︹第三十二号︶

  日蓮聖人の遷化の情景は先述のとおりで︑その場所は武蔵国荏原

郡千束郷池上村にある池上宗仲の館で︑その法華堂を﹁本門寺﹂と

すでに名づけられていた︒後に﹁ご人滅の霊場﹂として喧伝される

F

本門寺﹂の寺号は︑日蓮聖人の遷化後に定まったという見方が大

勢である︒しかし︑この記事によるかぎり︑池ヒ到着後の生前にす

に 命名された寺号とみるのが適切であろう︒また︑住所の荏原郡

を﹁江原群﹂と誤記していて︑あわただしい臨場感を想わせる︒

 本文の最初に記された・11行の文言は︑弔問に訪れた人々に伝える

べ き︑基本的な情報である︒これに続いて︑おとずれた僧俗の顔ぶ

れ をみながら︑翌日の深夜に執り行う葬送の役割を︑立案し実行し

なくてはならない︒

 日蓮聖人の遷化のすぐ後から︑日持は大忙しであった︒訪れた人々

の 名を確認し︑葬儀の日程を整えて周知させ︑日興の指示を受けな

が ら葬列の順序を定めた︒弟子同士は身延山で会い︑すでに知己で

あっただろうが︑信者たちについては初対面の人が多かった.︑十四

日の深夜に行われる葬送の列について︑最終的にその順序や役割が

定まったのは︑遅くとも十四日夕のことであった︒日持は︑これを

持 ちの冊子にしたためて懐中に入れ︑忙しく準備に走り回ったで

あろう︒この時点で手持の冊子に記した記事は︑ほぼ次のような内

容である︒

  第一丁表の最後の行に︑二︑御葬送次第﹂と標記して︑次の第

I 丁 裏から葬送の記事が始まり︑まず納棺の儀が記されている︒

   同十四日辰時口口E︿越前公 越中公﹀役也︒口子時御口

と記されていて︑欠字の部分は摩滅していて判読できない.︒これを︑

『 日蓮宗宗学全書上聖部﹂では︑﹁辰時御入棺﹂﹁同子時御葬送﹂と︑

そ れ ぞ れ 読んでいる︒

  十四日の深夜に行われる葬列の先頭を行くのは︑暗夜の道を照ら

「 火iで︑次に大宝花・幡・香・鐘・花・御経・文机・御仏・御

草履と続く︒その次に︑弟子が担ぐ﹁御棺御輿﹂が進み︑天蓋・御

太 刀・腹巻・御馬が付き従う︒日持は︑身延から池上まで供をして

来た一行と︑急を聞いて池上に馳せ参じた僧俗に︑それぞれの役を

担 当させて︑全体的な役割の一覧を作った︑tこれを︑﹁本弟7rlの

同意を得た上で︑冊子本に書き込んだ..

三︑深夜の葬送儀礼

 池田本覚寺本の﹃御遷化記録﹄によると︑日蓮聖人の遷化からちょ

うど一昼夜を経た︑十四日辰の刻︵午前八時頃︶に︑筑前公と越中

公 の

二 人が役となって︑入棺の儀が執り行われた︒しかし︑この記

事については︑池田本覚寺本と西山本門寺本の﹃御遷化記録﹂に相

違 が ある︒

  西山本門寺本によると︑入棺の儀が行われたのは︑十四日の夜戌

(7)

の 刻︵午後八時頃︶で︑日昭と日朗が役にあたったとされている︒

この違いについては︑史料を他に求めることは困難であるが︑後年

に 行われた日興の葬送を記録した﹃日興上人御遷化次第﹄︵北山本

門寺蔵︶に︑﹁八日︿酉時﹀人棺︑同戌時御葬送﹂とあることも考

えあわせる余地はあろう︒

  日蓮聖人の葬送は﹁子時﹂に行われたので︑西山本門寺本による

限り︑入棺との間に一刻︵二時間︶をはさむほどの余裕しかない︒

日興の場合は︑酉時の入棺から戌時の葬送まで︑ほとんど時間がな

いoこのような情況によって︑1つの仮説を立ててみよう︒

  十

四 日辰刻に︑筑前公と越中公によって入棺され︑その後本弟子

を中心に︑法華経を読請して幾度も供養が修された︒やがて葬送の

時が近くなった子刻︑日昭と日朗によって︑この棺が輿に移されて

葬列の態勢が整った.︑このように理解できるのではなかろうか︒ま

た︑特定の﹁導師﹂をたてて葬儀を執行するとなると︑遷化以後に

おける教団の指導体制にもかかわるので︑﹁本弟子﹂が共同して事

にあたろうとしたものと思われる︒とにかく︑本弟子の合議制が︑

日蓮聖人の葬送における基本的な方針であった︒これは︑後の﹁身

延山墓塔守番次第﹂︵西山本門寺本﹃御遷化記録﹂︶の決定にもかか

っ て くる︒

  池

上 氏の館に近い谷間では︑薪を積んで茶毘︵火葬︶の準備が進

み︑周囲は厳粛な雰囲気につつまれた︒真夜中の子の刻になろうと

日蓮聖人遷化の後先︵中尾︶

す る時︑日蓮聖人の棺を納めた輿を中心に︑それぞれ葬具を持った

人々によって葬列が組まれた︒

鎌 倉米町の住人二郎三郎が松明を持って先導すると︑駿河国富士

上野の住人四郎次郎が人宝花を持って続く︒次に二流の幡を持つ四

条左衛門尉と大夫志︵西山本門寺本では﹁衛門大夫﹂︶が左右に並

び︑下総の富木入道︵常忍︶が香を︑同じく下総の太田左衛門尉

( 乗明︶が鐘を打ち︑鎌倉の大学允が御経を捧げながら進む︒続い

て︑富田四郎太郎が文机を持ち︑鎌倉の学者大学三郎が御仏︵釈迦

仏︶を捧げ︑︵以下第二丁表︶源内三郎が御草履を持つ︑

  次 い で 御 「 棺

御 輿一が続く︒まず︑前陣をつとめるのが大国阿閣

梨︵日朗︶をはじめ︑︵左︶蓮花阿闇梨︵日持︶・侍従公・下野公・

治部公・︵右︶郷公・出羽公・和泉公・但馬公である︒後陣は弁阿

闇梨︵日昭︶をはじめ︵第二丁裏︶︵左︶白蓮阿闇梨︵日興︶・信濃

公・伊賀公・摂津公・︵右︶筑後公・帥公・大夫公・丹波公の面々

で ある︒

  御棺御輿の後には︑︵第三丁裏︶天蓋をかざした太田左衛門︑御

太刀を持つ兵衛志︑腹巻をもつ椎路四郎︑二頭の御馬を曳いた四郎

次郎と瀧上が続く︵一頭の馬は愛馬﹁くりかげの馬﹂であろう︶一︑

満月に照らされて木々が濃く影を落とす夜更けの道を︑葬列は谷間

の 茶毘所へと静かに進んでいった.︑

  葬送の記録は︑西山本門寺本と池田本覚寺本に見えるが︑内容的

一 九

(8)

法華文化研究二23..十︑二号︶

に は両本ともに出入りは見られない♂しかし︑記載方法には全く

異 なった意図がみられる︑というのは︑西山本門寺本は葬送の記録

を︑事後に忠実に筆記した﹁定本一の意味を持つのに対して︑池田

本覚寺本は葬送の現場において︑実際に用いた記録という点で特色

がある︒これを物語るのが︑池田本覚寺本にみられる﹁殿﹂の敬称

とチェックのための﹁合点︸で︑西山本門寺本にはこの記載はないt︐

( 池 田本覚寺本 ﹃56送記録﹂写真参照︶

  まず注目されるのは︑池田本覚寺本において︑葬送の役を分担し

た十六人の信者のうち︑﹁四条.二郎左衛門殿﹂﹁富木入道殿﹂ r太田

左 衛門入道殿﹂﹁南條七郎二郎殿﹂一大学允殿﹂﹁富田四郎大郎殿﹂

F

大 学三郎殿﹂﹁太田左衛門尉殿﹂の八人には︑﹁殿Jという敬称が

記 されていることである︑これに対して︑ 米町二郎︑二郎﹂﹁ヒ野住

人四郎三郎﹂﹁大夫志一﹁源内︐.︑郎二兵衛志﹂﹁椎路四郎一﹁四郎二

郎﹂﹁瀧王﹂の七人には敬称がつけられていない.︑敬称の有無は︑

信 者その人の社会的地位の表現によるものであろうが︑ここでは︑

池田本覚寺本﹃御遷化記録﹂が︑実際に葬送の場で使用されたとい

う︑臨場感を表すという点に注目しよう︒日持は︑この記録を手に

持って人の名を呼び︑葬送の場での任務を果たしたのである..

  池田本覚寺本において︑もう一つ大事な事柄がある.それは︑信

者の氏名にはすべて﹁合点一が付されて︑一々に確認されている︒

これに反して︑ ﹇御棺御輿﹂の前陣と後陣を承った弟了の僧名には︑ まったく﹁合点 がつけられていない︒これは︑日持がそれぞれの 持ち場を確認するとき︑一門の僧とは身延山で対面して顔見知りで あるか︑各地から参集する信者は初対面の人が多かったためてあろ う..この点も︑池田本覚寺本における臨場感を深くする事実である..

  葬送の列を前にして︑日持は懐からこの冊子を取り出して︑必要

な事項に合点をつけて確認した︒ここにはもう一帖の冊子を持った

僧がいて︑同様に確認作業を行った..異筆を示す﹁イ一と注記され

た 箇所を見ると︑﹁四条三郎左衛門一が 四条三郎四郎左衛門﹂と

なっており︑ 次 鐘一のところに﹁香ノ次二花有之﹂と記されて

い る︑︐︑冊の冊子には︑この外にあまり差異は見られないU   第﹁.一丁表で終わる﹁御葬送次第﹂の後には︑次のような二行の注

目すべき記事が付け加えられている文字と筆・勢を見ると︑これま

で よりやや大きく︑合点をつけた後で改めて念記したように思われ

る︐それは

   

此 外人々皆御供也︑

    鯨大徳他行之間不参也.︑

   

( 読み︶この外の人々は皆御供也︒

         

絵の大徳は他行の間︑不参也.︑

という記事で︑弟子や信者が出仕した葬送の様子を︑手短に物語る..

  まず一此外人々皆御供也一の記述について見ると︑ロ蓮聖人を送

る葬列に加わった人々は︑﹁葬送次第﹂に記録された以外にも︑さ

(9)

らに多かったことがわかる.︑宗教上の偉人が入滅し火葬される時︑

紫 雲 の た な

び く姿や︑舎利の出現を期待する人々が集まる例は多

い引

この度も例外ではなかったはずである︑これらの人々も︑葬

列の後につき供をして︑茶毘の場へと足を運んだ︒

や が

て 茶毘の火は燃えて︑赤々と谷間を照らし出したが︑参列の

人々は立ち去ろうとはしなかった︒和泉公日法もその一人であった︒

中山法華経寺文書に︑暦応二年︵一.一.二.九︶十1月廿六日付の﹁日

忍 伝 授 状﹂がある..内容は︑﹁奉伝授大聖人御舎利事﹂と表題を掲

け︑日蓮聖人の舎利を﹁中山法花堂﹂に伝授するという趣旨である︒

文中には︑この日蓮聖人の舎利が間違いなく真正なものであると確

言し︑次のような由来を述べている︒

    右御舎利者︑於武州池上茶毘之庭︑和泉公日法︿号円性御房

   

  日弁之弟子﹀悲嘆恋慕之除︑︷於火中盗取之︒

   

( 読 み︶右御舎利は︑武州池上茶毘の庭において︑和泉公日法

   

   

   

〈 円性御房と号す 日弁の弟子﹀悲嘆恋慕の鹸り︑窺

            に火中にこれを盗み取る.︑

  日忍が所持している﹁大聖人御舎利一は︑日弁の弟子和泉公日法

が︑茶毘の場からひそかに拾って保持したという︒実際に和泉公日

法 は︑﹁御棺御輿﹂の前陣をつとめ︑﹁御小袖﹂を御遺物としていた だ い て い る︒

  日蓮聖人の茶毘の時には︑奇瑞など何も起こることなく︑夜明け

日蓮聖人遷化の後先︵中尾︶ を迎えて拾骨した︒その間の記事はまったくない︒遺骨は壷に収め︑ 残った遺灰は金銅製の筒に込められて︑池上館の持仏堂に安置され た︒池田本覚寺本﹃御遷化記録﹄によると︑この時すでに一本門寺﹂ という寺号は定まっていた︵前述三︑

  次に﹁絵大徳他行之間不参也﹂と記されていて︑この場に臨んだ

僧は一部の弟子であり︑その僧名をはっきりと確認する意図が︑短

い 文にこめられている^︶それは︑日蓮聖人の遷化も葬送のことも知

らずに︑なおも地方で布教活動を展開していた僧が︑大勢あったこ

とを物語るものであろう︒

  しかしながら︑葬送記録に︑﹁本弟子﹂と定められた六人のうち︑

F

佐土公日向﹂と﹁伊与房日頂﹂の名が見当たらないのはどうして

で あろうか︒後述の﹁御遺物配分事﹂によると︑日向は御馬一疋

( くりかげの馬︶と小袖1を︑日頂は﹁伊与阿闇梨﹂と記され御腹

巻と銭三貫を︑それぞれ配分されている︒欠席したにもかかわらず︑

御遺物が配分されたのは︑﹁本弟子﹂に加えられていたからであろ

う︒さらに︑この二人の弟子は︑墓所の身延山で行われた一本弟子﹂

六 人の会合にも欠席し︑ついに﹁本弟子﹂として葬送の儀礼に臨む

ことはなかった︒

(10)

法 華文化研究︹第三十.一.号︶

四︑遺言と遺物

 日蓮聖人の葬送が十五日の拾骨によって終わると︑池上氏の館は

急に静けさを取り戻した︒日興は︑これまでの葬送に関する記録を

まとめて︑浄書を始めた︒これが︑西山本門寺本﹁日蓮聖人御遷化

        ロ  記録﹄である︒

西 山本門寺本ではまず︑日蓮聖人の略歴を掲げる︒伊東配流の受

難 を挙げ︑それが北条時頼に﹃立正安国論﹂を呈上したことに起因

す ると述べる︒ここには︑﹁松葉谷法難﹂・﹁龍口法難﹂・﹁小松原法

難﹂の記述がない︒

   ↓︑弘長元年︿辛酉﹀五月十二日︑伊豆国被レ流く御歳四十V︑

       預一伊東八郎左衛門一︿造一立正安国論一巻一奉一最明寺入         道一故也﹀︒

     

  同三年二月廿二日 赦免

   ↓︑文永八年︿辛未﹀九月十二日 被レ流佐土嶋λ御歳五十﹀

   一︑預武州前司 ︿依極楽寺長老 良観房訴状也﹀訴状在

        別紙 ︒

       同十1年︿甲戌﹀二月十四日 赦免︒

     

  同五月十八日 甲斐国波木井身延山隠居 ︿地頭 南部六

        郎入道﹀︒

     

  弘安五年︿丙午﹀九月十八日 武州池上入御ハ地頭 衛門

        大夫宗仲﹀.︑

   一︑同十月八日 本弟子六人被定置 へ此状六人面々可レ帯云々

          日興一筆也﹀︑.

四 項日の略記ではあるが︑日蓮聖人以外の筆による︑最初の伝記

で ある︒ここには︑﹁立正安国論﹂の呈上・伊豆伊東配流・佐渡配

流・身延山隠棲が︑その主な出来事として筆記されている︒H興の

B蓮聖人観の一端が窺われる︒

  次いで︑先述したように︑十月八日の二弟子六人事 不次第L

が あり︑十三Hの﹁御滅﹂rU l御入棺﹂の記事が続く︒﹁御葬送次

第﹂は︑池田本覚寺本の記述とほぼ同じ内容である︒ここまでで第

三 紙が終わる︒

  第四紙には︑コ︑御所持仏経事Lとあって︑日蓮聖人の仏と経

文についての遺言が記され︑日興が署名し加判している︒その遺言

とは︑身延離山の旅に奉持した︑﹁釈迦仏立像﹂と﹁注法華経﹂で

ある︒  

  仏者︿釈迦立像﹀墓所傍可立置 ︿云々﹀︒

    経 者

〈 私集最要文 名一注法花経﹀︒

  同籠置墓所寺︑六人香花当番時︑

   可レ披見之・︑白余聖教者非沙汰之限︒

 日蓮聖人の遺三口として︑ここに二点が提示される︒T︶随身仏の釈

(11)

迦 如来立像を︑身延の墓所のそばに安置して礼拝すること︒②﹃注 法

華 経﹄は墓所の寺︑すなわち久遠寺に収めて︑六人の本弟子が当

番で墓に香花を捧げる時︑これを開き見ること︒これ以外の聖教に

つ い て

は 別に定めないが︑﹃注法華経﹄は墓所の寺において︑必ず

繰り返して読むようにという遺言である︒

  日蓮聖人の葬送の儀が一応終わった十月十六日︑日興はその遺言

を列記したgで︑﹁弘安五年十月十六日﹂と日付を明記し︑r執筆日

興﹂と署名して花押を据えた︒したがって︑﹁弘安五年十月十六日﹂

の 日付は︑第一紙から第四紙全体にかかるものではなく︑第四紙に

記 された二︑御所持仏経事﹂にいう︑日蓮聖人の﹁御遺言﹂を念

記 した時を示すものである︒

  この記事を前提として︑﹁御遺物配分﹂が行われた︒恐らく︑十

六 日に配分すべき﹁御遺物﹂を確認した上で︑配分の原案が作成さ

れ た

で あろう︒すると翌十ヒ日が︑いよいよ配分の日となる︒

  日興はあらかじめ﹁御遺物配分事﹂を︑二紙の料紙を横折にして

折紙に仕立てて︑六通の記録を作成した︒各↓通には︑日付と執筆

者を次のように記している︒

     

  弘安五年十月 日

                   

執 筆 日興 在判

  ここに配分の日が明記されていないのは︑その作業が複数日にわ

た っ た

か らであろうか︒執筆者日興の署名脇に︑花押ではなく﹁在

      日蓮聖人遷化の後先︵中尾︶ 判﹂と記載されているので︑正本が別にあることがわかるが︑それ

現 存していない︒池上本門寺文書に︑後半の第二紙のみが﹁御遺

物配分帖﹂として存在し︑それは日朗が受領して保存したものとみ

て よい︑

池 上本門寺文書の﹁御遺物配分帖﹂は︑軸装に仕立てるために大

幅に改造されてはいるものの︑よく観察するとその原型がわかる︒

というのは︑﹁執筆 日興﹂の次には︑前から順番に﹁日持︵花押︶・

日興︵花押︶・日朗 ︵花押︶・日昭︵花押︶﹂という署名と花押があ

る︒この部分は︑もとは紙背にあったものを剥き取って︑表面に移       ニじ  した上で表装したことが︑折目や損傷によってわかる︒

  また︑身延文庫に伝わる︑日乾の﹃身延山久遠寺御霊宝目録﹂

( 慶長八年十月十五日付︶には︑次のような記事があって︑﹁御遺物 配 分 帳﹂の原型が確認される.︑

  御葬送次第等︑折紙二枚︑裏二昭・朗・興・持ノ四人ノ御判

    有レ之︒

  このような考察の結果︑日興が筆写した﹁御遺物配分帖﹂六通十

二 紙の紙背に︑本弟子六人のうち日持・日興・日朗・日昭の四人が

署 名して︑一通ずつを本弟子⊥ハ人に配ったことがわかる︒したがっ

て︑日蓮聖人御遺物の配分は︑本弟子の合意のもとに︑十七日と十

八 日にわたって行われたと考えるのも無理ではない︒しかしながら︑

合意とはいっても︑日向と日頂の姿はついに見ることがなく︑葬送

      一二三

(12)

法華文化研究︵第三卜.一.号︶

儀礼の全般を通して︑二人の意思が表明されることはなかった..い

わば︑日持・日興・日朗日昭ら四人の合意てあり︑日興が六通の

控 を作って署名をもとめるという文書作成の事情からみると︑その

中でも日興の意向が強く反映していた.︑

  日蓮聖人の御遺物を配分する作業において︑中心的な役割を担っ

たのは︑本弟子の日持であった..池田本覚寺本﹁御遷化記録﹄の

l

r

御遺物配分事﹂には︑配分表が正確に記録され︑﹁右︑御遺物

御 配 分 次第如レ此一と結び︑﹁弘安五年︿壬午﹀十月日一の日付があ

る︒その記事内容は︑池上本門寺文書︸御遺物配分帖﹂の記載とまっ

た く一致する︐日持は︑配分の現場にいて︑御遺物が各人に配分さ

れ るのを確認しながら︑帖の該当場所に合点をつけていった..

  この﹁御遺物配分事﹂に記された事項には︑幾つかの重要な問題

点がある..まず︑本弟子六人は︑特別な分与に預かっている︑

  弁阿闇梨日昭には︑日蓮聖人の書人れがある﹁注法華経﹂一部十

巻が︑大国阿闇梨日朗には﹁釈迦立像一がそれぞれ与えられている︒

先述の日興﹁御遺物配分事﹂によると︑﹃注法華経﹂は墓所の寺に

置 き︑﹁釈迦立像一は墓所のぞはに安置して︑披見し礼拝するよう

に と遺言されている︒この矛盾について︑遺言の趣旨が違乱された

で はないかという説があるバそうではなかろう︒﹃注法華経﹄

と一釈迦立像﹂は︑身延山に止めることを前提にして︑日昭と日朗

に分与されたとみることが至当であろう.︑したがって︑この二点は

身延山に運ばれて︑しばらくはここにあったとみられる︑それは︑

教団の最長老としての日昭と日朗の権威が︑身延山の墓所に反映し

た ことを物語っている︒

  葬送の儀を主導した白蓮阿閣梨日興には︑﹁鞍をつけた馬一・御

足袋一・頭鳥子一・小袖一﹂を︑葬送に労の多かった蓮華阿闇梨日

持には﹁御馬一・小袖l・手鉾一﹂が与えられた.︑葬送の儀礼に欠

席した伊与阿閣梨日頂には﹁御腹巻一・銭一.一貫文一が︑佐土公口向

に は﹁御馬一︵くりがげの馬︶・小袖1﹂が与えられた︒日向日

頂の.︐人は欠席したので︑別人によって届けられたのであろう.︶以

上 が

「 本弟子﹂である︑

  つ い で︑日蓮聖人に日常随従していたとみられる侍従公和田丸に︑

「 御太刀一・小袖一・袈裟代五貫文﹂が与えられたのは︑格別の計

らいであった︒次いで越前公が﹁衣・小袖一・袈裟l﹂を与えられ

い るのが︑目立つくらいである︒ただし︑五疋の馬はそれぞれに

馬飼いの舎人が必要であるから︑残る︐.疋のうち一疋は小袖ととも

に 大夫公へ︑もう一疋は鞍をつけて染物一とともに富田四郎太郎に

与えられている︐︑

  そ

の 後は︑小袖1と御念珠が筑前公に︑小袖一・衣一・帷子lが

治部公に︑御小袖一・頸鳥子一が摂津公に︑御小袖↓・衣布↓が和

泉公に︑御小袖一が郷公・丹波公・四郎二郎・瀧王︵丸︶・安房国

浄顕御房・︵義成御房・藤es︶ L︵ ︶は池上本門寺本による﹈にそ

(13)

れ そ

れ 与えられた︒浄顕御房と義成御房が︑日蓮聖人の清澄山時代

の 兄 弟

弟 子であったことは︑よく知られた事実である︒同じく安

房からやってきた新人夫入道には︑練絹がbえられている︒

  銭は︑淡路・信濃・妙法御房・椎路四郎が各一.貫文︑出羽公.寂

日房・帥公・越後公・但馬公・ド野・讃岐公・源内.一.郎が各1貫文

を︑それぞれ与えられている︒

  日持は︑﹁御遺物配分事﹂に記した品目と人名に︑確認の合点を

施 して︑ F右︑御遺物御配分次第如此︒弘安五年︿壬午﹀十月日﹂

と記しv︐︑ l−御遺物配分﹂のつとめを終えた︒

  十 月十九日は︑はや初七日であるから︑忌日法要が池上氏の館で

営まれたはずである.︑その日︑日蓮聖人の遺骨を抱いた一行は︑身

延 山に向かって出発した︒

  日持の池田本覚寺本﹃御遷化記録﹄の最後は︑このことを次のよ

うに記して終っている︒

  御遷化御舎利ハ同月十九日池上御立

    有 テ

  文言は︑なお余白を残して中断している︒この文意からは︑日持

が なお池上に止まって︑日蓮聖人の遺骨を捧持した一団を見送った

様 子 を︑窺うことができる..

  日持の葬送における任務は︑この記事で終わりを告げる.一七日間

に わたって︑定められた葬送の進行次第を記人し︑ 一々を確認しな

11蓮聖人遷化の後先︹中尾︶

が ら持ち運んだ﹃御遷化記録﹄は︑もう傷みも相当激しくなってい

た︒二つ折りに折っていたので︑その折り角も擦れてしまっていた︒

この一冊の帖は︑U蓮聖人葬送の場における︑口持の活躍を物語る

ように︑紙而が汗にまみれていた.︑

  最後の第七丁裏と裏表紙の見返しは︑何も書かれないでなお余白

を残したままである︒それは︑日持には︑身延山での仏事において︑

池上の葬送にみるような奔走の場が︑もはや何も用意されなかった

ことを物語る︒

五︑身延の墓所

  口蓮聖人の遺骨が︑再び身延山に帰り着いたのは︑その一.丁四日

後である︒身延山での仏事については記録がなく︑傍証によるほか

は如何ともしがたい︒﹃身延山史年表﹄によると︑十二月二日に四

十九日忌を︑翌弘安六年の一月二十三日に百か日忌を修したという︒

当時︑十三仏信仰にもとつく忌日の仏事が広く行われ︑日蓮聖人の

一 門も追善儀礼を取り入れていたから︑これを事実として十分に

了解できる︒

  身延山に日蓮聖人の墓塔が立てられ︑香花を絶やすことなく奉仕

し続けるという準備が︑久遠寺を拠点に整ったのは︑正月の中旬こ

ろである︒︑︑−Ftt1Uには︑波木井実長とその一族も参列して︑墓前

(14)

      法華文化研究︵第三十三号︶

で 百

か 日法要が盛大に催された︒本弟子を中心とする﹁墓所可守番

帳事﹂が決定されたのは︑西山本門寺本﹃御遷化記録﹄に﹁弘安⊥ハ

年正月日﹂とあり︑この日のこととみてよい︒

  日蓮聖人の﹁墓所可守番帳事﹂を定める場には︑本弟子六人のう

ち日昭・日朗・日興・日持の四人が出席し︑日向・日頂の二人は欠

席 した︒没後の教団の動向をきある重要な機会であったから︑この

二 人は身延山に在山しなくてはならない筈である︒しかし︑この場

に 名があらわれないで︑﹁他行﹂と記されているから︑同席しては

い なかったのである︒月番について検討の結果︑次のように決定し

て︑日興が定書を執筆した︒

  まず︑﹁定 墓所可守番帳事 次第不同﹂と標題を掲げ︑各月の

担 当者を記した︒

九八七六五四三ニー 月月月月月月月月月 弁阿闇梨︵日昭︶

大 国阿闇梨︵日朗︶

前 公・淡路公

伊与公︵日頂︶

蓮 華阿闇梨︵日持︶

越 後公・下野公

伊 賀公・筑前公

和泉公・治部公

白蓮阿閣梨︵日興︶

二 六

   

  十月 但馬公・郷公

  十!月佐土公︵日向︶

  十二月 丹波公・寂日房

  この担当表のなかで︑﹁本弟子六人﹂は一月が日昭︑二月が日朗︑

四 月が日頂︑五月が日持︑九月が日興︑十1月が日向となっている︒

一 年 を通じて本弟子の分担を偏らないようにして︑身延山の墓所を

中心とする教団の運営に万全を期そうという意図を︑ここによく汲

み 取 ることができる︒

  このような分担表を記した上で︑次のように結ぶ︒

    右︑守番帳次第︑無一慨怠一可レ令一勤仕・之状︑如レ件︒

     

  弘安六年正月日

   

( 読 み︶右︑守番帳の次第︑僻怠なく勤仕せしむべきの状︑件

            の 如 しo              

弘 安六年正月日

  日興は︑﹁墓所可守番帳事﹂を竪紙一紙にしたためると︑これを

池上から持参した﹃御遷化記録﹂第四紙の次に貼り継いで第五紙と

した︒その上で︑第四紙と第五紙の継日裏に本弟子六人の僧名を連

記 し︑出席した四人の本弟子が︑本弟子六人の定めの順にしたがっ て 花押を据えた︒

  弁閣梨 大国闇梨 白蓮閣梨 他行  他行  蓮華闇梨

   

( 花押︶・︵花押︶・︵花押︶・佐土公・伊与公・︵花押︶

(15)

  つ い で︑第一紙と第二紙︑第二紙と第三紙︑第三紙と第四紙の︑

そ れ ぞ れ の 継目裏にも花押を据えた︒

  ︵日昭︶ ︵日朗︶ ︵日興︶ ︵日向︶ ︵日頂︶ ︵日持︶

   

( 花押︶・︵花押︶・︵花押︶・他 行・他 行・︵花押︶

  竪 紙 五

紙 を継いだこの﹃御遷化記録﹄は︑葬送をめぐる記録と取

り決めの原本として︑身延山久遠寺に留められたのだろう︒後に︑

日興の身延離山によって帯出され︑現在は西山本門寺に伝来してい

る︒御遺物の﹁釈迦立像﹂と﹁注法華経﹂は︑日蓮聖人の遺言によっ

て 身延に安置されたであろうが︑やはり﹁御遺物配分﹂の取り決め

に したがい︑それぞれ日昭と日朗のもとに帰属した︒

墓 F 所可守番帳事﹂が決定され︑正式に記録されると︑日興は

r

御遺物配分﹂の時と同様に︑みずから六通の折紙に筆写して︑日

昭・日朗・日興・日持の本弟子四人が紙背に署名し花押を据えた︒

日朗に与えたその一通が︑池上本門寺に﹃御遷化記録﹄として伝来

している..この﹃身延山守番帳﹂には︑﹃御遺物配分帳﹄にみるよ

うに︑﹁執筆日興 在判﹂とは記されてはいないが︑筆跡はまがう

か たなく同筆で︑日興の筆跡である︒また︑﹃御遺物配分帳﹄にお

けると同じく︑紙背にある四人の署名と花押を︑表装のために剥ぎ

取って表面に移している︒

  た だ

ひ とつ注目されるのは︑十月と十1月の担当者が︑池上本門

寺本と西山本門寺本では相違していることである︒

日蓮聖人遷化の後先︵中尾︶

                西山本門寺本     池上本門寺本    

  九 月   白蓮阿闇梨︵日興︶   白蓮房︵日興︶

   

  十月   但馬公・郷公︵日目︶  佐土公︵日向︶

    十一月  佐土公︵日向︶   郷公︵日目︶・但馬公

  西山本門寺本では日向が+1月であるのに︑池上本門寺本では十

月になっている︒この理由について︑池上本門寺本が原本とする立

場から︑日興についで郷公日目を連続させるために︑このように変

更 したものという説がある︒しかし︑西山本門寺本を原本と見る

ならば︑日向の輪番奉仕が期待できないので︑日興がその任期を延

長 して実質分担しようとしたとも考えられよう︒

『 御遷化記録﹂における︑西山本門寺本と池上本門寺本の記事の

相違について︑竪紙と折紙という形状に注目しなくてはならない︒

中世の古文書を見ると︑折紙の書状や記録は︑竪紙の書に対して副

次 的な意味をもつのが1般的である︒すると︑西山本門寺本が原本

で︑池上本門寺本が副本であることになる︒つまり原本における日

向と日目の担当月が︑副本では入れ替わっていることになるが︑そ

の 事情を確認することはむつかしい︑

おわりに

弘安五年九月に身延を離れた日蓮聖人が︑病の身をおして旅を重

ニ ヒ

(16)

法 華文化研究︵第..十..号︶

ね︑九月十八日に武蔵国池ヒにある池ヒ右衛門人夫の館に着いた︒

この日から︑池上での遷化と葬送の儀を経て︑身延山での百か日忌

までの出来事を︑一︐日蓮聖人御︑遷化の後先﹂というテーマのもとに︑

『 御遷化記録﹂を中心的な史料として操作しながら︑描いてきた︒

この作業の過程でもっとも重視したのは︑三種の﹃御遷化記録﹂の

原本について︑古文書学上の考察を加えたことである︒

  そ の

結 果︑1つの重要な新見解を提起した︑従来は日位の筆写本

とされた池田本覚寺本﹁御遷化記録﹄が︑実は一本弟子六人﹂のう

ちの日持が筆記したものであり︑しかも葬送の場で筆記しながら儀

礼を進行させた︑臨場感あふれる﹁生の記録一であるということで

ある︒冊子本全体に深く刻まれた傷跡と︑現場でなくては記される

はずのない記事が︑この事実を物語る︐

  また︑折紙二紙からなる池ヒ本門寺本﹃御遷化記録﹂も︑その占

文 書学上の分析によって︑日興が一筆で六通を筆写して︑紙背に

一 本弟子 六人﹂のうちの四人が署名して︑各人に配布された﹁控﹂︑

す なわち﹁案文﹂であることがわかった︑

  葬送儀礼の進行を念頭に︑このような文書が生まれ機能する情況

を精査すると︑これまで明確でなかった姿が浮かんでくる.︶ここに

は︑日蓮聖人の葬送に集まった︑まだ﹁教団一というにはあまりに

も未熟な集団の︑深い戸惑いと歩調の合わない動きがある︑その表

れ が︑一本弟子六人﹂に選ばれながらも︑ 一向に姿を見せなかった

日向とU頂がとった︑理解に苫しむ態度である︒

  日蓮聖人遷化の後先を眺めると︑結果的に1つの動きが感じ取ら

れ る⊂それは︑U昭が長老として高位にあり︑日興が立案して布告

する方針を日朗が判断し︑日持が﹁定書﹂を書いた冊子︑つまり手

帳を見書きしながら︑参集した僧俗の間を奔走するというのが︑実

情であったにちがいない︒

  このような情況の中で︑﹁本弟子六人﹂の合議制を掲げながら︑

み ず

か ら決定事項を筆記して定本を作り︑それを筆写して六セット

の 副本を作成して紙背に署判を据え︑本弟子六人に配布したのが日

興である..その営為は︑口蓮聖人没後の教団に寄せる想いを︑はっ

きりと示すものであった︒

( 1︶日澄﹃日蓮聖人注画讃﹄・小川泰道﹃日蓮大士真実伝﹄等 注

( 2︶中尾尭コ︑日蓮聖人御遷化記録﹄の書誌的研究一﹃宗教社会史    

研 究皿﹄︵立正大学史学会創立八十周年記念・平成十七年十一

    月刊︶所収︒

   

  ここでは︑H蓮聖人の﹃御遷化記録﹄として︑rl本を挙げて

    検 討する..

  ぎ 西山本門寺本 日興筆 五紙    巻子本 一巻

       

  国重要文化財

(17)

  ② 池上本門寺本 日興筆 折紙二紙  軸装本 二軸      

  東京都重宝

  3池田本覚寺本日持筆表紙共八丁冊子本 .帖

       

静 岡県指定文化財

( 3︶日蓮聖人は︑釈迦成道の日にあたる﹁八日一の意義を︑とく

に 重視していたように思う︑たとえは︑八木式部太夫胤家の要

  請による︑﹃立正安国論一の筆写は︑文永六年十.一月八日であ

  り︑ r佐渡始顕曼茶羅本尊﹂の揮毫は文永十年七月八日である︒

( 4・5︶﹃波木井殿御報﹄弘安五年九月十九口付 某代筆 かつ

て 身

延 山久遠寺に伝来していたが︑明治八年の大火で焼失した.︑

『 昭和定本日蓮聖人遺文﹄には︑日興代筆とある﹇/身延山久遠   寺日朝の筆写本には︑﹇波木井殿御抄一として収録され︑﹁本云︑

  右︑此御書ハ︑自武州池上︑南部六郎実長へ被遣御書也云々﹂

  と注記されている︒ここでは︑代筆者については触れていない

  が︑池ヒでの葬送についての役割から推察すると︑n興と見て

よかろう︒本書には︑愛馬﹁くりかけ﹂の記事がある..

( 6︶﹃大夫殿御返事﹂ 月日未詳 ﹃昭和定本日蓮聖人遺文﹂に

  よると弘安.二年の某月某日とする︑

( 7︶﹃波木井殿御報﹄弘安五年九月十九日付

( oo︶ r本弟子六人﹂の書順は︑実年齢によるのではなく︑法幅順  

に よったものとする.︑﹁日蓮教団全史 上﹂﹃日蓮宗辞典﹂=御

日蓮聖人遷化の後先︹中尾︶

遷 化記録﹂の項

( 9︶中尾尭﹁﹃日蓮聖人御遷化記録﹄の研究﹇ 注︵2︶を参照

( 10︶身延山久遠ヒ寸御霊宝記録に﹁一︑御葬礼次第等折紙二紙 裏  

二 昭朗興持ノ四人ノ御判有之一とあって︑﹁葬送次第﹂も折紙

記 して署名の上︑本弟子六人に配られたが︑現存しない︒

r 御遺物配分帳二身延山久遠寺番帳一を参照されたい︒

〔 11︶同時代の叡尊の葬送については︑中尾尭﹃中世勧進聖と舎利

  信仰﹄所収﹁第︐︑章 生身仏信仰と舎利信仰一

( 12︶中尾尭編﹃中山法華経寺史料﹄所収一日忍伝授状一暦応二年

  十1月十二U付

( 13︶国の重要文化財 指定名称は﹁日蓮遷化記録﹂ 日興筆 弘

  安五年十月十六日付

( 14︶両本の相違点は︑池田本覚寺本の﹁四条一.一郎左衛門一が西山

  本門寺本では﹁四条左衛門﹂となっていることである︒

( 15︶中尾尭﹁﹁U蓮聖人御遷化記録﹄の研究﹂ 注︵2︶を参照

( 16︶本間裕史﹁n蓮聖人御遷化記録考一︵浅井円道先生古希記念

  論文集﹃日蓮教学の諸問題﹄所収︶

( 17︶︺蓮聖人遺文﹃清澄大衆中﹂︵建治..年︶正月十一日

( 18︶日興の書状をみると︑その信仰儀礼には忌日の仏事が頻出し

  て

い る.︑中尾尭﹁仏教の庶民化と葬祭 日本宗教史研究会編

『 布 教者と民衆との対話゜ll 1九六八年 法蔵館

(18)

     法華文化研究︵第一.一十...号︶

( 19︶﹃注法華経﹄︵開結共︶十巻は︑後に日昭門流に伝えられ︑現

  在は静岡県妙法華寺に伝来し︑国の重要文化財に指定されてい

 る︒

( 20︶﹃日蓮教団史﹄﹃日蓮宗事典﹄﹁身延久遠寺番帳事﹂の項 一=

(19)

日蓮聖人遷化の後先︵中尾︶

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(20)

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法 華文化研究︵第三十一︑ニワ︶

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参照

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