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戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県

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戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県

戦後府県総合開発の展開と﹁新規行政需要﹂への対応を素材として

稲 垣   浩

  第一章  課題の設定

  第二章  府県総合開発の進展と開発行政の形成

  第一節  政策の総合化と復興開発への対応

  第二節 経済開発の進展と内政行政機構の統合構想

 小括  第三章  ﹁新規行政需要﹂への対応と企画担当部局の変動

  第一節  ﹁開発﹂後の企画担当部局

  第二節  公害行政の発生と企画担当部局

  小括  終章結論︑

     戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県      ︵都法四十七ー二︶ 二二九

(2)

第一章課題の設定 二三〇

 社会経済環境の進展とともに︑行政が対応しなければならない課題は増大し︑また変化してきた︒行政はこうした

課題に効果的・効率的に対応すべく︑組織の分化と総合を繰り返してきた︒一般的に行政組織は︑まず財源や人事︑

あるいは情報・法規・機構といった行政資源を集中的に管理する総轄部局が分化し︑さらに政策分野ごとに行政各部

局が分化してきた︒このように分化していく行政各部局に対して︑総轄部局は資源の管理や配分を通じた﹁総合﹂化      ユ を図ってきたとされる︒こうした総轄部局は︑具体的には︑省庁であれば人事課︵秘書課︶︑会計課︑文書課︑と

いったいわゆる﹁官房三課﹂をもつ大臣官房︑地方自治体であれば︑主に総務課︑人事課︑財政課︑行政管理課など

を所管する総務部︑総務局などのかたちで設置されてきた︒

 行政の﹁総合﹂化を図る手段は︑こうした行政資源の配分によるものだけではない︒﹁政策﹂を通じた﹁総合﹂化

が行われる場合もある︒たとえば︑各省庁や自治体の基本的な行動指針となる総合計画や基本計画︑あるいは大臣や

首長が就任時に公約やマニフェストなどを﹁○○ビジョン﹂や﹁△○プラン﹂などの形で具体化したものまで︑様々

なかたちが見られる︒あるいは︑公害問題や環境問題など︑急速に発達してきた行政課題に対して︑既存の各部局が

それぞれ単独では対応できない場合など︑部局間の調整会議や課題に対処するための計画の策定など部分的な﹁総合﹂

化が行われる場合もある︒

 こうした﹁政策﹂による総合化は︑省庁であれば︑主に﹁情報﹂資源の総轄管理機能をもつ大臣官房によって行わ

      れてきた︒これに対して多くの自治体においては︑企画課や企画部といった企画担当部局が︑総務部や総務局とは別

に設置され︑統計や各種調査の実施︑総合計画の策定などを通じた﹁政策﹂による総合化を所管しており︑特に府県

(3)

においては現在まで総務部との間で総合行政の二元体制がとられてきた︒

 しかし︑こうした﹁政策﹂による総合化は︑従来から︑行政各部局の行政活動への拘束力・強制力や︑実現可能性

の面で弱いとされ.特に企画担当部局については︑様々な面からその機能不全が絶えず指摘されてきた︒

 たとえば︑本稿において取り上げる府県は︑普通地方公共団体として︑広域的・総合的な﹁総合行政﹂機関とされ︑

その長である知事は︑人事・財政をはじめとした強い権限を背景に︑﹁独自﹂の﹁総合行政﹂を推進しようとしてき

た︒しかし︑実際には機関委任事務や補助金を通じて結びついた行政各部局と関係省庁によるセクショナリズムが強

く︑そのため府県において行政の﹁総合﹂化は行政改革などにおいて︑常に課題とされてきた︒また︑府県行政の

﹁基本指針﹂とされてきた総合計画や基本計画といった府県計画は︑県政の行政目標を総合的に整序し︑全事業間の

重要度を順位付けしたものではなく︑計画の策定・公表を通じて︑府県政において未充足の﹁行政の必要量﹂を充足       ︵3︶するための財政措置を国に期待し要望するために作成されている側面が強いことが指摘されてきた︒その他︑企画担

当部局については︑政策の実現に重要な影響を及ぼす予算や人員を総務部に握られていること︑また事業部局との接

触や人的交流が少ないために政策に対する技術的専門性が乏しく実効的な政策を立案できないこと︑さらには他の部

局が所管しない事務を実施する﹁雑務﹂部化し︑実質的には行政の﹁総合﹂化につながっていないなどの指摘がなさ

れてきた︒

 一方︑行政資源を管理する総務部についても︑必ずしも問題がないわけではない︒たとえば多額の資金を必要とす

る開発行政をめぐっては︑絶えず収支の均衡によって健全財政を維持しようとする総務部と︑短期的な財政赤字を生

みながらも中長期的な経済発展を目指して開発行政を進めようとする知事や事業部局︑さらにはその関係省庁との間

で対立する場合がある︒とりわけ︑戦後の府県総務部に対しては︑自治体の行財政を全国的に統括する自治省の影響

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県      ︵都法四十七−二︶ 二ご二

(4)

二三二

   ︵4︶が大きい︒周知のように自治省は︑地方交付税の配分などを通じて自治体財政をバックアップするものの︑国家予算

から交付税を獲得するために︑自治体に対して財政の健全化させておかなければならない︒そのため自治省は︑様々

な通達や指導︑あるいは自治省から派遣した総務部長や財政課長︑地方課長などを通じて自治体の行財政をコント

ロールしようとしてきたとされる︒そのため︑知事からすれば︑総務部は他の事業部局と同じように自治省との間で

縦割りのセクショナリズムを構築しているように感じられる場合もあるものと思われる︒さらに言えば︑自治省が府

県総務部への影響力を強くすることで︑府県行政の﹁総合﹂化を確保しようとする場合︑知事は総務部が﹁強化﹂さ

れることによって府県行政の﹁分化﹂がより進んだと感じてきたのではないだろうか︒

 このように︑行政の﹁総合﹂化︑すなわち﹁総合行政﹂をめぐっては︑特に本稿で研究の対象とする府県において

は︑単なる行政の機能分化による影響だけではなく︑中央地方関係をはじめとする様々な要因の影響を受けながら︑

組織や機能が構築されてきた︒しかし︑これまでの研究ではこうした﹁総合行政﹂の構造とその変化の仕組みについ

て︑十分な検討がなされてきたとはいいがたい︒とりわけ府県行政は︑述べてきたように知事が強い権限を持つ一方

で︑中央省庁によるセクショナリズムの影響を絶えず受けてきた︒こうした両者のバランスがどのように取られてき

たのか︑さらにはそれが戦後の府県行政にどのような影響を与えてきたのか︑これまでの研究では必ずしも明らかに

なっていない︒そこで本稿では︑特にこれまであまり注目されることのなかった政策による﹁総合﹂化の側面に着目

しながら︑戦後の府県における﹁総合行政﹂の形成に国や府県がどのように対応してきたのか︑戦後の復興開発・地

域開発から七〇年代における﹁新規行政需要﹂への対応の過程を対象として分析を行う︒

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第二章 府県総合開発の進展と開発行政の形成

第一節政策の総合化と復興開発への対応

 戦前の府県は︑府県制によって︑国の地方総合行政機関として設置されていた︒府県の長である知事以下幹部職員

は︑勅任官・判任官である官吏として内務省から派遣されていた︒戦前におけるわが国の内政は︑基本的にこうした

内務省ー府県体制によって行われていた︒府県庁内において︑予算・人事といった管理面から︑様々な行政課題に至

るまで府県行政を総轄する部局が︑最右翼の部局である総務部︵または内務部︑内政部︶であった︒表1は︑昭和初

期における岡山県の行政機構の変遷である︒一九二九年の段階では︑秘書課や文書課を所管した知事官房と︑そのほ

かの財政・市町村監督などの他︑まだ未分化であった商工や農林水産といった経済行政を所管した内務部︑︑教育行政

等を所管した学務部︑警察行政を所管した警察部の一官房三部で構成されていた︒この内務部はその後経済部や土木

部の独立を経た後︑人事︑財政︑文書といった全庁的な行政管理機能と﹁他の主管に属セサル事項﹂を所管する総務

部・内政部となっている︒このように社会経済環境の変化・発達とともに︑部局の分化が行われたものの︑戦前の府      ら 県庁内における総務部・総務部長の地位は高く︑府県行政の中枢機関であった︒

 このように県庁の中心的な部局であった総務部は︑戦後ほとんどの府県で知事官房と統合され一府県の部局組織を

定めた地方自治法において﹁総務部﹂として受け継がれている︒副知事の設置によって︑総務部長の知事代理として

の意味合いは薄れたものの︑同法第一五八条では﹁議会及び府県行政一般に関する事項﹂のほか︑職員の人事や市町

村などへの監督︑その他の主管に属しない事項が所掌事務として定められ︑主に行政管理面から府県行政を総轄する

部局として位置づけられてきた︒

   戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県       ︵都法四十七⊥一︶ 二三三

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−      二三四

一方︑こうした自治法上に定められた総務部とは別に︑主に政策

面から府県行政を総轄する部局が︑戦後早いうちから各府県で設置

されてきた︒

終戦から間もない四〇年代後半に富山県に教育部長として赴任

し︑その後総務部長︑副知事を歴任した成田政次は︑戦後の新しい   遷      変府県行政の発足当初の状況について以下のように述べている︒  齢

         .       機      政      行 ﹁私が本県に赴任し︑⁝最も強く感じたことは︑富山県というか︑あるい    県      山は富山県庁というか︑真の予算計画がぼやけていること︑換言すれば県の    岡      た−基本的なものに欠けているということができる︒これは敗戦という歴史上. 孔

      ︑U一度も経験しなかった転換期に遭遇し︑県政というものをどの方面に向け    中

      をて進捗すべきかということが全く暗中模索であったせいもあったろうけれ    期      前ども︑また一つは︑地方行政が国の行政によって強く制約され中央集権的    戦

       つ行政に強く依存し︑県独自の政策というものを樹立することに職員が全く    表

習熟していなかったということも大きな原因であったと思う︒⁝各部各課

の要求予算は︑ほんの思い付きであったり︑また県議会議員の独自の要望

に刺激されて十分練れない予算が要求されたりして︑いわゆる県政の数字

的表現である予算案にガッチリしたバックボーンというものが発見できな

課書泣課書秘 絵㌫灘 事課会人計社  ︑轟蟹開課線耀農課繊

︑磨論聾  課蕪灘欝

部政内 部済一経第 部済二経第部察警部木土

祖脚1

課書泣課書秘

塒課麟擦瓢学兵課講嬬欝

︑課糧食

課整調業職

部務総部務学部済経部察警部木土鰻部時策臨対 料食立時臨≡湘

用3719 課部 課書泣課書秘 ︑㌶鷲欝 水正工更商済課羅地課耕林課劉淋農産課

部務総部務学部済経部察警

帽2919

︑嬬欝欝

部務内部務学部察警

55 09

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かった︒

︵成田政次﹃県政断章﹄︵成田尚武\グループフィリア︑二〇〇四︶︶

 成田は︑こうした状況から︑﹁本県としての県量を科学的に決定し︑これと歳入とを見合わせた予算査定﹂を行う

﹁計画的県政﹂の必要性を感じていた︒すなわち成田は︑府県行政の総轄機能の一つである予算配分機能とは別に︑

その前段階として﹁県量﹂を﹁科学的に決定﹂する機能が必要であると考えていたのである︒成田は︑富山県への赴

任後すぐに︑予算配分の基礎となる﹁富山県土総合開発計画﹂を立案するよう知事に進言し︑同計画が策定されるこ

ととなった︒同計画の策定にあたっては︑﹁県庁内の各部各課のセクショナリズムを排除して︑庁内全職員が総合計

画に対して統一ある意思と協調的機運を醸成すること﹂を基本方針とし︑策定を所管する部局として︑知事直属の企

画課が設置された︒すなわち︑伝統的な総務部による財政︑人事などの行政管理を中心とした総轄機能とは別に︑

﹁富山県土総合開発計画﹂を通じた政策面での総轄機能の整備︑いいかえれば︑﹁県独自の政策を樹立する﹂ための体

制作りが行われたのである︒こうした﹁県独自の政策を樹立する﹂体制作りは︑当時多くの府県において見られた︒

 このように︑政策面から府県行政を総轄する企画担当部局が終戦後早い時期から設置され︑全国的に広まった背景      として︑以下の三つの点を挙げることができる︒

 第一に︑新たな府県制度の誕生と公選知事の登場である︒戦前における内務省ー官選知事体制においては︑内政の

総轄官庁である内務省・内務大臣が各省の地方事務を総轄・調整し︑内務官僚である知事が︑府県において実施する

体制であった︒しかし︑知事をはじめとして内務官僚の人事異動は激しく︑府県行政を中長期的に安定して運営する

ことは困難であった︒また︑知事は幹部職員の任免権を直接持っていたわけではなかったことや︑戦中戦後を通じて︑

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県      ︵都法四十七ー二︶ 二三五

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二三六

農林・商工をはじめとして府県から各省の地方出先機関へ事務が移管されたこと︑府県庁内部における事業部局のセ

クショナリズムが進展しつつあったこと等から︑終戦時における府県行政は必ずしも知事を中心としてまとまってい        ︵7︶たわけではなかった︒

 一方で戦後の公選知事は︑全職員の人事権をもち︑少なくとも四年間の任期中はほぼ自由に行政活動を行うことが

できた︒そのため︑官選知事時代の組織や人事を引き継いだ知事にとって︑内部のセクショナリズムを早期に緩和し︑      安定した行政体制を整える必要があった︒また︑特に戦前の官選知事の経歴をもたない知事にとっては︑総務部長を

中心として旧内務官僚がそのまま幹部職員として引き続き在職していたこともあり︑早期に庁内を掌握し︑知事を補

佐する仕組みが求められた︒こうした知事の意向を受けて︑企画課や知事室などの企画担当部局が設置され︑そこで      す 知事の施政方針を反映した政策が策定されるようになったのである︒

 第二に︑全国的な復興開発と計画行政の進展である︒戦災によって国土の大部分が焦土と化し︑また戦時体制に

よって消耗しきった諸産業の復興は︑当時国・地方を通じて緊急の課題であった︒公選知事のほとんどが︑戦後復興

を訴えて当選を果たし︑また当選後の施政方針の主要な課題として復興開発を取り上げるものが多かった︒そのため︑

多くの府県で知事のトップダウンで復興開発を進めるための司令塔として企画担当部局の設置が進められたのであ

る︒しかし︑それまで国で企画・立案した政策の実施機関であった府県において︑自ら計画を策定し開発を行うノウ

ハウや技術は乏しく︑実際に開発を進める以前に︑計画の策定やデータの収集等に関して技術や能力のある職員を内       外から集め︑集中させて取り組ませる必要があった︒このように開発行政を担当する人的資源や技術を集中させる必

要からも︑企画担当部局が設置されるようになったのである︒

 これに関連して第三に︑こうした復興開発行政の進展を通じて︑府県外部との調整や連携の必要性が高まったこと

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が指摘できる︒五〇年の国土総合開発法の制定によって︑国レベルの復興開発体制が確立する以前においては︑復興

開発は経済安定本部と建設省が別々に所管しており︑府県はこれらの機関・省庁とうまく連絡・調整を取りながら開

発行政を進めなければならなかった︒また︑国レベルの開発体制の確立後においても︑同法で定められた府県計画・      ︵11︶地方計画の策定や︑技術面や資金面での援助を確保するために︑関係省庁との調整や交渉を進める必要があった︒

 一方︑府県間の関係も徐々に重要になっていった︒復興開発では︑大規模河川開発や資源開発など複数の府県に関

係する事業が多く︑関係府県間での協議機関が早いうちから設置された︒東北地方では︑五〇年に各県の企画担当部       ︵12︶局の職員と︑関係各省の出先⁝機関︑関係府県の大学関係者などを集めた東北開発研究会が設置されている︒また︑関

東甲信越地区においても︑関東甲信越地方総合開発委員会が同年に設置され︑企画担当部局が各府県の窓口となって

 ︵13︶いた︒こうした府県間組織は︑開発の調整や開発に関する研究だけでなく︑利根川総合開発法の制定運動や国からの

開発資金の獲得などの活動も行っていた︒そのため︑各府県は企画担当部局の新設とともに︑他府県や関係省庁との

交渉に長けた職員や︑開発行政についての専門知識をもった職員を同部局に集めることによって組織を拡大・強化す

      ︵14︶る必要があった︒㊨

 府県間の協議や調整は︑その後東北開発促進法をはじめとする地方開発促進法など地域開発の進展の中で︑実施段

階における関係者間の調整や開発に関する調査研究などへと発展し︑企画担当部局の所管事務として制度的な定着を

遂げていった︒企画担当部局はこうした事務の定着を通じて府県庁内の組織として基盤を固めていったのである︒

 このように︑戦後各府県で設置された企画担当部局は︑戦後の新たな府県制度や公選知事体制を背景として︑戦前

から存在した総務部とは別の総轄部局として誕生した︒それはやがて︑復興開発行政における諸計画の策定や府県間

調整の重要性が増大することによって︑府県庁内の開発行政の専門機関として確立した︒すなわち︑当初府県行政全・

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県       ︵都法四十七ー二︶ 二三七

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二三八

体を政策面から総括するものとして生まれた企画担当部局は組織基盤を固めていった一方で︑開発行政に特化されて      ︵15︶いったのである︒

第二節 経済開発の進展と内政行政機構の統合構想

 こうした復興開発は︑府県の基礎インフラや諸産業を復興させる一方で︑多大な行政投資を必要とすることから︑

地方財政の悪化につながりやすいという問題もあった︒特に五〇年代になると︑開発政策の乱発による財政の悪化が

知事選の大きな争点となった︒また︑中小府県や極度の財政悪化に陥った府県を中心としてそれまで独立して設置さ

れていた企画担当部局を総務部へ編入・統合することによって︑無謀な開発による財政の悪化を回避しようとする動

きが見られた︒こうした︑開発行政の進展による財政悪化の問題を中央政府内において最も危倶していたのが︑後に

自治省・総務省となる旧自治庁などの地方自治官庁であった︒

 当時地方自治官庁が︑開発行政において問題と考えていたことは︑知事や関係省庁による財政面を軽視した開発や

地域エゴの顕在化による内政の混乱と︑それによって引き起こされる地方財政の悪化であった︒こうした地方財政の

悪化や開発行政におけるセクショナリズム・地域エゴの進展は︑地方自治官庁の官僚たちに省庁再編・府県制度再編

による総合的な内政機構の再構築の必要性を認識させるようになった︒例えば自治官僚の岸昌は︑こうした状況を改

めるために﹁国と府県の一体化をつよく推し進めることによって地方自治法のゆきすぎをあらため︑⁝地方自治の強

化と国家行政目的の達成﹂という二つの目的を達成させるため︑﹁地方自治と﹃社会的中央集権﹄の接合点として︑

府県の性格を再構成し︑都道府県知事は公選とするが罷免権を含む国の指揮監督をみとめ⁝同時に知事の権限を強化

して︑部内の行政事務処理権限を知事に与え︑また府県財政についてももっと国が責任をもつこととするのである﹂

(11)

  ︵16︶とした︒このように知事に対する指揮監督の強化と国の機関としての性

格強化︑及び知事による府県内での総合調整力の強化によって事態を打      ︵17︶開しようとしていたのである︒

 こうした考え方は︑府県総務部と地方自治官庁の関係強化や︑強力な

内政総合官庁の再構築と道州制を視野に入れた府県の再編・国家機関化

へと具体化して三た︒︑﹂のうち霧部との関係強化については︑地方 靴

自治官庁による府県幹部職員の大量採用と︑財政課を中心とした府県総   蜘

務部への派遣となって現われた・また・内政総合官庁の設置構想は・建 礪      長設省など開発行政の関係官庁と自治庁を統合した﹁内政省﹂構想として   課      事具体化した︒さらに府県制度の再編は︑第四次地方制度調査会に提出さ   人

れた﹁地方﹂制案となった︒      緻      煕      縮

.地方自治官庁による府県幹部職員の採用と府県総務部への派遣       裁

 戦前の内務省−府県関係が崩壊し︑国と府県の間における人的交流が 係 係 関 係関 関 務外関務外務 内以務内以内 旧係内政 政 妻 嘉財 財 人 人+︷ 年脇査加調棚o鞘

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途讐ると・多くの府県では・幹部を忠として徐々に人事の停滞が問  顯特釜・︒田・︒65︒鰹       府題となりつつあった︒そこで地方自治官庁は︑一九四八年ごろから府県

幹部の採用を目的として﹁地方公務員幹部候補生試験﹂を実施し︑若手       ︵18︶官僚や同試験の合格者を﹁見習﹂として府県に送り込んでいた︒多くの

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県      ︵都法四十七ー二︶ 二三九

(12)

府県では︑送り込まれた職員を有力なポストに据え︑また一部の府県

では︑これによって古参幹部を排除し︑知事にょる庁内の掌握を容易       ヒ       ︵19︶       イにしようとするものもあった︒       変       の元で地方自治官庁が︑同試験などを通じて︑府県に官僚を派遣し 軟

た背景には・知事が強い人事権を握ることによって・国と府県間の人 勧       遣的交流が行われなくなり︑府県のブロック化が進むことを危惧してい   派       長たということがあった︒同試験は︑冤方霧員幹部候補生Lとい・つ 疎       オ名称ではあるものの︑事実上地方自治官庁の共同職員採用試験でもあ   熈

り・合格者も自身を百治官僚Lとして認識していたとい恒また・ 縮       ヨデータ面からみると︑地方財政が悪化する五〇年代中盤になると︑旧   表

内務省・地方自治官庁関係者の府県財政課長への出向者数が急速に増

えている︵表2︶︒この間に府県に派遣されたものの多くは︑内務省 二四〇

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2 6 6 2 0 6

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2122

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の最末期に採用されたものや︑同試験での採用者であった︵表3︶︒このことから︑地方自治官庁が︑同庁幹部より

も若い官僚を府県に派遣することによって人的な連絡体制を確保することによって府県のブロック化を阻止するとと

もに︑これによる府県財政の規律を確保しようという狙いもあったのではないかと考えられる︒ただし︑こうした人

的交流は︑内政総合官庁の復活や府県再編が構想されていたことを考えれば︑一時的な措置と考えられていたものと

思われる︒

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・内政総合官庁の設置構想と﹁地方﹂制案

 戦後解体された内政総合官庁の再構築を望む声は︑五二年に地方自治庁・地方財政委員会等が統合されて自治庁と

なった前後から徐々に大きくなっていった︒こうした声は︑﹁内務省の復活﹂を望んでいたとされる自治庁内部だけ

で無く︑外部の政治家や地方自治関係者にも共有されていた︒五三年一〇月一六日に提出された地方制度調査会の第

一次答申︑五五年一二月の第二次答申いずれにおいても︑﹁自治庁及び関係行政機関を整理統合して中央機構を設置

すべき﹂として内政総合官庁の設置が勧告されている︒この﹁関係行政機関﹂の具体的な内容については︑当時必ず

しも明確ではなかったようであるが︑地方制度調査会副会長であった野村秀雄委員︵元国家公安委員︶は︑﹁現実の

問題としては地方の開発振興と国家の進展発達に直接影響のある建設行政の統合を以って︑賢明とするであろう﹂と

し︑﹁こんな総合調整機関が設けられると︑これまで常に繰り返していた国と地方の対立はおのつから緩和せられて

その関係は円滑となり︑地方各団体の関係も合理化せられて︑自治確立に資するところ大であろう﹂として︑建設行       ︵21︶政・開発行政と地方行政の一体化を主張している︒このほか︑五三年六月に超党派の議員によって結成された﹁地方

自治確立国会議員連盟﹂は︑﹁強力なる地方自治中央機関設置の早急実施﹂を掲げた﹁地方制度調査会の答申に対す      ︵20︶る本連盟の意見﹂を出しており︑また河野一郎らを中心とした一部の有力政治家も国土省的な﹁内政省﹂の設置にむ      ︵21︶︑けて動いていた︒こうした動きは︑五五年以降本格化する︒

 五五年一二月に設置された行政審議会は︑建設省と自治省の統合案と︑自治庁を省へ昇格させ︑これに建設省の都

市計画部局︑首都建設委員会及び南方連絡事務局を統合する案の二案を答申した︒これを受けて行政管理庁は前者を

採用した内政省案を作成し︑閣議に提出した︒この行政管理庁の作成案では︑自治庁︑北海道開発庁︑建設省︵首都

建設委員会を含む︶運輸省港湾局︵港湾運送︑倉庫及び港湾管理に関する事項を除く︶及び南方連絡事務局を統合す

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県      ︵都法四十七ー二︶ 二四一

(14)

二四二

るものとされていた︒同案に対する建設省の反応は技官を中心として反対の意見が多かったが︑一方で地方における

開発行政の遅れが︑悪化する地方財政に起因していたことも事実であり︑地方財政を同じ省内で所管することにより

こうした問題を解決できるのではないかという考えも少なくなかった︒また︑開発を巡って競合関係にあった経済企

画庁や農林省の国土利用開発の計画分野を統合することによって︑地方自治体を含めた開発行政の企画・実施の一元      ︵23︶化を図り︑実効的・総合的な開発行政を進めることができるというメリットもあった︒そこで建設省からは︑当時議

論されていた大蔵省への営繕局移管の中止︑経済企画庁の国土総合開発及び国土調査関係︑運輸の港湾関係︵港湾管

理も含む︶︑厚生省の国立公園と水道︑農林省の山腹砂防を内政省に吸収することによって︑できるだけ国土省色を      ︵25︶強めるよう同案を修正することによって︑内政省案に歩み寄る意向が非公式に伝えられた︒しかし︑建設省のこうし

た意向に対して経済企画庁や農林省を始め各省の反対が強く︑建設省の希望は殆ど取り上げられなかった︒五六年四

月に自治庁︑建設省︑首都圏整備委員会及び南方連絡事務局を統合した内政省を設置する法案が国会に提出されたも

のの︑農林省を中心とした他省庁による有力議員への根回しや︑かつての内務省への復帰を危惧する野党などの反対

に遭い︑本会議での代表質問以降︑継続審議になったものの殆ど審議は行われなかった︒その結果五八年三月︑自治

庁に官房長を置くことと引き換えに︑内政省法案は撤回される︒

 この内政省法案と並行して︑府県の再編と地方出先機関の整理についても検討が行われていた︒五七年一〇月の第

四次地方制度調査会では︑府県を廃止して国と市町村の間に地方公共団体と国家的性格を併せ持つ﹁地方﹂を置く

﹁地方制﹂案が答申された︒同答申では︑この﹁地方﹂に﹁地方﹂の区域を管轄区域とする国の総合地方出先機関

﹁地方府﹂を置くこととし︑この﹁地方府﹂に国の地方出先機関の事務を移管することが予定されていた︒

 また︑同答申に少数意見として付されていた﹁府県統合﹂案でも︑国の事務を極力地方に移譲することが掲げられ

(15)

ていた︒具体的には︑統計調査事務所︑食料事務所︑労働基準局︑労働基準監督署︑婦人少年室︑公共職業安定所に

係る事務を府県に移譲し︑これらの出先機関を廃止または府県に統合することとされた︒さらに両案ともに︑﹁参考﹂

として統合や整理を﹁検討すべき﹂地方出先機関が具体的に挙げられていた︒

 この﹁地方制﹂案︑府県統合案ともに︑地域開発行政における内政省と再編後の﹁地方﹂﹁地方府﹂や府県との関

係についてどのように構想されていたのかについては︑管見の限り明らかではないが︑少なくとも﹁地方制﹂案では︑

﹁地方﹂﹁地方府﹂が国の機関として内政省の下にある以上︑地域開発の実施機関としての性格を持つことになるはず       ︵26︶であったものと考えられる︒しかし︑前述のように﹁内政省﹂構想が失敗に終わったこともあって実現しなかった︒

 このように︑自治庁は五〇年代後半において︑内政省と﹁地方制﹂によって地域開発行政の一元化をはかり︑中央

政府内における地域開発の主導権を握ろうとしたものの︑いずれも挫折した︒そのため︑新しく省へと昇格した自治

省が︑地域開発の主導権を握るためには︑当時の省庁体系を前提とした上で︑新たな開発行政体制を構築しなければ

ならなかった︒

・開発をめぐる省庁間競合と府県企画部の設置奨励

 五〇年代後半から六〇年代にかけて進展した工業開発では︑それまでの農林︑建設︑経企といった省庁のほかに通

産や運輸といった官庁までが独自に開発法制を発表するなど︑省庁間競争の色合いが徐々に強まっていった︒こうし

た中央官庁による地域開発構想は︑候補地の選定をめぐって各省庁が地域利益と緊密に結びつくことによる︑省庁

間・候補地間争いを生み出していた︒例えば福島県では︑通産省の支持する常磐地域と自治省の推す郡山地域が対立

し︑宮城県では︑仙台市の﹁地方拠点都市大仙台の将来構想﹂︵六一年九月︶は自治省の地方開発拠点都市構想の影

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県      ︵都法四十七ー二︶ 二四三

(16)

二四四

響を︑また県庁の﹁大仙台圏確立構想﹂︵六一年四月︶は通産省の工場適正配置構想の影響を強く受けていた︒この

ように︑工業開発の進展を通じて︑自治省はますます内政の総合化・一元化が重要であると認識するようになって

いったのである︒

 省庁間・地域間の対立は︑六七年に新産業都市建設促進法︵新産法︶が制定されたことによって︑いったん収まっ

たものの︑今度は新産業都市の地域指定をめぐる自治体間の争いが始まることとなった︒こうした状況について︑自

治官僚の片山虎之介は︑﹁区域の狭盤性と行財政の自己完結性から頑迷な地域エゴイズムを固守し︑自己の行政主体

としての機能分担を自覚せず︑内政実施の経済性をいたずらに低下せしめている﹂として︑当時の府県の行動を厳し

く批判した︒そのような例として︑こうした新産業都市の指定をめぐる陳情活動を挙げ︑地方公共団体が﹁細分化さ

れた行政区画のままで︑国民経済的視野からの調整を経ることなく︑類似した構造を競合させながら︑企業誘致合戦      ︵27︶に狂奔しているのである﹂と指摘した︒

 こうした新産法制定前後における地域開発競争について自治省は︑自治体間の競合だけでなく︑開発構想を通じた       ︵28︶各省と自治体の結合などによって自治省の指導や監督が行き届かなくなることを憂慮していた︒しかも︑六四年に答

申を提出した第一次臨調では︑こうした多元化への対処として総合開発庁の新設とその下部組織である調整官事務所

による地域開発の国直轄化が検討されるなど︑自治省は地域開発行政の中心から取り残されつつあった︒

 そこで自治省が考え出したものが︑自治省と府県において開発行政を担当する企画担当部局を中心とした開発行政

体制の構築であった︒

 旧地方自治法第一五八条では︑標準的な府県部局組織の名称と人口段階別に定めた設置部局数︑および所管事務を

例示︵標準局部例︶していた︒また︑同法では︑あわせてこの標準部局数や名称を超えて部局を設置する際には︑自

(17)

治省との協議を必要とすることを定めていた︒この規定は︑あらかじめ部局組織の標準を定めておくこと忙よって府

県の組織が膨張することを防ぐために設置された︒特に︑地方財政がもっとも悪化した五〇年代中盤以降においては︑

この規定に基づいて各府県の部局新設や増設をあまり認めてこなかった︒そのため︑すでに述べてきたように府県に

おける企画担当部局は︑組織として定着していたものの︑多くの府県では同条による規制の対象外である︑課あるい

は室や局など中二階的な組織として設置されていた︒こうした状況にあった府県企画担当部局について自治省は︑六

二年九月︑標準局部例の﹁例外﹂である任意設置部局とすることで︑部へ移行させることについて︑積極的に協議に

応ずることを明らかにした︒これに続いて︑自治省大臣官房に開発行政を所管する企画連絡参事官︵のち官房企画室

へ改組︶を設置し︑同参事官が事務局となって全国企画開発部長会議が開催された︒さらに︑地方の府県企画担当部

局が事務局を担当し︑地方ごとに関係省庁と府県が協議を行う自治省所管の地方行政連絡会議が設置された︒六四年

に開催された第一回都道府県企画開発担当部長会議では︑前述の第一次臨調での検討を受けて︑﹁①地域開発行政は

総合された行政でなければならないので︑地方団体︑とりわけ府県が主体となって行うべきである︑②このため各府

県は︑地域開発行政の総合調整を行う企画部門の充実強化を図る必要がある﹂などの指示が府県に向けて出されてい

︵29︶る︒このように自治省は︑地域開発を巡る国−府県関係の自治省︵企画室︶1府県企画担当部局への一本化や︑企画

開発担当部長会議や地方行政連絡会議を通じた︑府県開発行政への指導体制を整備することで︑中央省庁や府県が       ︵30︶﹁無秩序﹂に開発行政を進めることを抑制しようとしたのである︒

 一方部への移行は︑開発行政の進展や総合開発計画の策定など︑府県行政における企画行政・開発行政の重要性や

所掌事務の増大から府県側も望んでいたことであった︒そのため︑この自治省の意向表明を受けて︑開発行政に熱心

な人口一〇〇万から二五〇万未満の農業県を中心に開発行政機関を部へ移行する府県が増加し︑一九七〇年には沖縄

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県       ︵都法四十七⊥一︶ 二四五

(18)

二四六

      を除くすべての府県で︑部への移行が行われだ︒

小括 このように戦後府県で生まれた政策面の総轄機関は︑復興開発.

の進展のなかで︑開発計画の策定や閣係府県・省庁との連絡など   度      年を中心とした開発行政にその機能を特化して三た︒開発行政は︑ 箭

中長期的な経済発展をもたらす可能性がある反面︑多額の資金を ⑩

必要とすることで短期的な財政悪化を引き起こす恐れがあったた   剖      ﹁め︑地方自治官庁にとって極めて大きな問題であった︒しかし︑   の      隔内務省解体以降︑自治体の行政管理面に対する指揮監督権限しか   当

持たない地方自治官庁は︑+分な対応をすることができなかった︒ 醐      企そのため︑当時の自治官僚たちの大きな目標は︑地方財政の健全   県       ︑        府化と長期的な地方経済の発展が両立可能な体制を作り出すことで   各

あった︒そのためにまず取られた手段が︑地方行財政の監督と開   ︑麹

発行政を統合させた内政省構想であったが︑関係省庁の反対に遭

い挫折した︒このため次善の策としてとられたものが︑府県企画

担当部局の部への移行をはじめとした︑自治省を中心とする開発

行政体制の構築であった︒ 訓発開画栓梨山

剖発開画伶島徳

部画徒根島鍋画栓井福

部理管画絵瀦

鍋画栓本熊鍋発欄葉千 ぶ唖=≧霊選頴 い酬︶麟誌麟禦罐麟

鍋画倹重三鍋画栓島広

部画㊨縄沖

鋤画姶庫兵剖画㊨阪大

職謡

3

1

2

0 9 10

2 4 4 2 0 3 4 0 0 1

5719581959196019611962伯63196419651966196719681969197019711972197319

弔.

細㍍

鞘嚇

て 

欝鑑

員準      ︑職基訂をそロ発人嶋の開時ε当省は蔵別大の所制出部料お資な

(19)

 しかし︑こうした自治省−府県企画﹁部﹂体制も︑開発行政の変化に伴って当初予定していた方向とは異なる方向

へと動き出していった︒    ︑

 そこで次章では︑開発行政の変化や﹁新規行政需要﹂と呼ばれた新たな行政課題に直面した自治省や府県企画担当

部局の対応について︑公害行政への対応を通じてみていくことにする︒

第三章 ﹁新規行政需要﹂への対応と企画担当部局の変動

第一節 ﹁開発﹂後の企画担当部局

 六〇年代も中盤を過ぎるようになると︑地域開発をめぐる状況は大きく変化していった︒

 この頃になると︑徐々に経済開発・工業開発を中心とした地域開発の弊害が︑徐々に指摘されるようになった︒例

えば︑新産業都市に指定されていた宮崎県日向延岡地区では︑巨額の投資によって工業地帯を整備したものの予定通

りコンビナートの建設や企業誘致ができず︑逆に財政赤字が逼迫するなど開発が失敗に終わったという︒また︑三重      ︵32︶県四日市市の大気汚染などに代表されるように︑工業開発の弊害として全国的に公害被害が拡大しつつあった︒

 こうした流れから自治省は︑各府県に対してそれまで進めてきた経済開発・工業開発を中心とした開発行政からの

転換を促すようになり︑こうした新たな行政課題に対応するために︑企画担当部局を改組・再編する府県が見られる

ようになった︒六五年六月に開催された都道府県企画開発主管部長会議では︑自治省財政局長から財政問題を軽視し

工業誘致や補助金などに頼った府県の開発行政に対する批判が表明されたほか︑今後自治省において新たな計画の立

案は行わず︑各府県は既存の開発計画に集中することや︑地域開発の重点実施を行うことなどが指示された︒さらに︑

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県       ︵都法四十七ー二︶ 二四七

(20)

・     二四八

六六年六月に開かれた全国都道府県企画部長会議の冒頭で︑金丸自治事務次官は﹁日本の地域開発行政は一度頭を冷

やすべき時に来ている⁝地域開発といえば︑工業開発オンリーであった︒右へならえ式の工業開発が過剰投資を

生み︑真に地域開発に有効となっていない面も出てきて﹂おり︑﹁今後は総合的な見地からまた︑タイミングの合っ

た地域開発を進めてゆくべきである﹂と述べた︒

 この開発行政からの転換とともに︑戦後の府県企画担当部局にとって︑大きなターニングポイントとなった出来事

として︑自治省が府県﹁企画部﹂︐の法定部局化を断念したことがあった︒前述の六五年六月の会議において︑自治省

から府県﹁企画部﹂をコ律に︑画一的に法定する考えはない﹂ことが明らかにされた︒当初自治省は︑府県企画担

当部局について︑地方自治法を改正して﹁企画部﹂を法定部局とし︑その所管事務や組織形態を法律で規定すること

を考えていた︒すなわち︑﹁企画部﹂を法律で規定することによって︑全府県で画一的な機能を持った﹁企画部﹂を

設置させ︑自治省−府県企画担当部局を中心とした開発行政体制を強化する狙いがあったものと思われる︒一方︑部

への移行はあくまでも府県の﹁任意﹂であるため︑例えば広島や愛知︑福岡など一部の有力府県において部への移行

が比較的遅かったことなど︑企画担当部局の部への移行時期や各府県の対応にばらつきがあった︒そのため︑法定化

することによって一気に部への移行を進め︑組織の画一化を図ることによって安定した体制作りを進めようとする意

図があったものと考えられる︒

 しかし︑六〇年代に入ると︑企業誘致や農業構造の改善など開発行政から派生した事業や︑消費者行政や青少年行

政など社会経済環境の発達に伴って発生した﹁新規行政需要﹂への対応も徐々に府県の重要な事務のひとつになりつ

つあった︒この﹁新規行政需要﹂の多くは︑複数の部局や省庁に関係するものであるため︑当時まだ国・地方を通じ

て所管する省庁や部局などが確定していなかった︒このため多くの府県では︑所掌事務が自治法に定められていない

(21)

﹁企画部﹂において︑こうした﹁新規行政需要﹂を所管させる場合が多く︑またどの分野を所管させるかは︑府県に

よって異なる場合が多かった︒このため︑自治省が﹁企画部﹂の所管事務を画一化することは︑府県や﹁新規行政需

要﹂の関係省庁による反対が予想され︑法定化することはできなかったのである︒

  ただし︑自治省にとって︑多様な﹁新規行政需要﹂への対応において関係省庁が競合することによって︑府県にお

ける総合的な対応が難しくなることへの危慎は大きかった︒そのため︑自治省が中央政府内でこうした﹁新規行政需︑要﹂をめぐる関係省庁間の調整や政策の総合化を行い︑これを企画部長会議や地方行政連絡会議など︑開発行政を通

じて構築した自治省−府県﹁企画部﹂のルートを通じて府県に下ろすことによって︑﹁新規行政需要﹂の府県におけ

る実施段階での総合化を確保しようとしたのである︒こうした狙いから自治省は︑後述する公害行政に見られたよう

に︑中央政府内で早いうちから﹁新規行政需要﹂についての実態調査や府県に対する指導を進めていた︒また︑府県

に対しては︑法定化による事務の画一化が不可能なため︑こうした﹁新規行政需要﹂への対応が可能なように︑それ

までの﹁企画開発型﹂から︑関係部局との調整を重視した﹁企画調整型﹂の企画担当部局への再編を指導するように

なった︒ 当時︑自治大学校教授・第一次臨調調査員として国・地方を通じた行政改革について研究し︑実際に数府県におけ

る府県行政機構改革や組織編成に対する指導や助言を行っていた自治官僚の久世公尭は︑六六年の論文において﹁企      ︵33︶画部﹂の組織を編成する際の注意点として︑以下の二点を指摘している︒第一に︑所掌事務としては︑従来の企画課

を中心とし︑企画調整の範囲内の事務を担当すべきであるとし︑計画の策定や幹部会議の実質的補佐︑重点施策の決

定︑政策的意味の調整事務︑新規行政需要についての調整事務︑特命事項等を所掌とすれば十分であるとする︒また︑

企画調整型の企画部を設置する意義はトップ・マネジメントの強化にあるため︑知事・副知事などの最高幹部との密

戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県      ︵都法四十七⊥一︶ 二四九

(22)

二五〇

接化や幹部会議の補佐などが重要であること︒さらに総務部との競合を避け︑

﹁企画部は長期的視野と地域の総合的行政という視野に立った調整と新規行政

需要的なものの調整に限定し︑事務的な調整や予算的な調整については一切総

務部に任せる﹂べきであるとした︒

 第二に︑組織についても課制を取るよりも︑参事・主査制等のスタッフ制を   移      推取ることが適切であると指摘している︒また必ずしも企画部である必要はなく︑ 勤

﹁企画室﹂としても差し支えないこと︑また﹁余計な組織をつくるよりも少数   ︑割

精鋭主義を堅持し﹃英知による調整﹄機能を十分に発揮すべき﹂であるとして   課      たおり︑当初自治省が考えていた開発行政を中心とした企画担当部局像とは︑大   れ      さきく変化していることがわかる︒すなわち︑農業改善から企業誘致︑各種計画   鑓      ニ  の策定と総合化に至るまで所管する大規模な企画担当部局から︑重要政策や長 絹      当期計画の策定などでの企画調整機能に純化した﹁企画調整型﹂が望ましいとさ   担       ︐       画れた︒       企

 また︑こうした企画担当部局に関する久世の指摘は︑一方で府県における調   裁

整機能.スタッフ部局における﹁役割分担﹂のあり方をも示唆していた︒すな     鑓      一一一一目わち︑府県企画担当部局を開発行政の推進⁝機関から︑知事のトップマネジメン

トによる府県行政全体の調整へとその任務を転換する一方で︑財政や人事と

いったいわゆる﹁力﹂による調整については︑総務部が行うものとしたのであ

数10 8 6 4 2 0

 ⌒

僻酬

(23)

る︒このように︑企画担当部局に財政機能を持たせるべきではないという考え方は︑公式に通達や通知などで府県に

指示されたわけではないが︑実際の府県機構改革において︑自治省から﹁助言しや﹁アドバイス﹂という形で伝えら

れている︒

 このように︑自治省による間接的な府県企画担当部局の再編に対する指導は行われたものの︑多くの府県では︑

﹁新規行政需要﹂の所管が定まらないことから︑これを所管する﹁企画雑務型﹂となり︑企画担当部局に設置された

課︵室︶の数も増加して行った︵表5参照︶︒しかし一方で︑総務部との﹁役割分担﹂はほぼ自治省の意図した通り

にすすみ︑例えば︑九一年に都道府県の標準局部例が廃止されるまでの間︑企画担当部局と財政所管組織を統合した

例は埼玉県︵企画財政部︶のみであった︒

第二節 公害行政の発生と企画担当部局

 公害行政や消費者行政など新規行政需要とされたものの多くは︑当時社会経済環境の急速な発達に伴って被害や影

響が拡大しており︑行政の早急な対応が求められる一方で︑地域ごとに対応すべき課題は必ずしも同じではなかった︒

このため自治省は︑前述のように現場において総合的な対応が可能な府県と中央政府内における対応を総合化する自

治省が中心となって対応するべきであると考えていた︒本節では︑こうした新規行政需要の代表的なものとして公害

行政をめぐる自治省と府県企画担当部局の対応について見ていくことにする︒

 自治体における公害対策は︑国における水質二法の制定からさかのぼること九年前の四九年︑東京都が制定した公

害防止条例がほぼ最初であり︑これに続いて五一年の﹁事業場公害防止条例﹂︵神奈川県︶︑五四年には﹁事業場公害

   戦後府県﹁総合行政﹂をめぐる国と府県      ︵都法四十七ピニ︶ 二五一

(24)

二五二

防止条例﹂︵大阪府︶などが見られたが︑本格化するのは六〇年代後半になってからであった︒六九年に阿賀野川有

機水銀事件︵第二水俣病︶が発生し公害の被害の実態が次第に明らかになると︑住民からの陳情や抗議活動が活発化

し︑自治体は公害防止条例の制定や公害行政を所管する組織の設置を迫られ︑すべての府県で専管の課や室を設置す

るようになった︒

 当初公害行政は︑公害問題に対するアプローチの違いから︑府県によって所管部局が異なっていた︒事務が様々な

部局に関連しており︑これらの関係部局間の調整や総合的な施策の必要性から︑企画担当部局に所管させる場合が多

かったが︑被害者対策を重視する府県では衛生部に︑発生元である工場等の問題として捉える府県では商工部に設置

される場合も少なくなかった︒また︑公害問題は鉱害問題などを除けば︑主に重化学工場が立地していた都市自治体

における問題であったことから︑府県によって取り組み時期の違いが見られた︒      ︵34︶ 例えば大阪府では︑前述の事業場公害防止条例を制定した際には︑﹁公害行政を先ず保健衛生の立場から捉える傾

向が強かった﹂ことから衛生部環境衛生課水道係の所管とされ︑騒音・ばい煙・粉じんに関する実務については商工

部商工第一課管理係の所管とされた︒その後五三年に水道係から公害係が独立︑五八年には商工第一課が振興課と工

業課に分離されたことに伴い︑振興課に公害係が新設された︒六一年になると﹁公害陳情の大部分が中小企業の工場

等から発生する産業公害にかかるものであって︑その防除について︑中小企業育成の立場との調整が重視された﹂こ

とから商工部に公害課が新設され︑公害業務全般がこれに統合された︒しかし︑六三年四月には︑副知事通達によっ

てばい煙規制関係業務のうち︑常時監視ついては衛生部環境衛生課の所管とされ︑再び商工・衛生の二部で所管され

るようになった︒さらに︑同年八月に企画部が新設されると︑同年一〇月に設置された大阪府公害対策審議会の事務

局や︑公害防止の基本対策に関する業務・調整業務が企画部総務課の所管となった︒これによって公害行政は︑商

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