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一般生命システム論 : 心理・社会的生命の実在

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一般生命システム論 : 心理・社会的生命の実在

その他のタイトル General Life System Theory : Existence of Psycho‑Social Life

著者 藤澤 等

雑誌名 関西大学社会学部紀要

巻 26

号 3

ページ 111‑136

発行年 1995‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00022531

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一 般 生 命 シ ス テ ム 論 *

—心理・社会的生命の実在――-

藤 澤 等

Genaral Life System Theory 

‑ Existencce of Psycho‑Social Life ― 

Hitoshi Fujisawa 

Abstract 

T h i s   paper  i s   a summary o f   a l a r g e r  G e n e r a l   L i f e   System T h e o r y .   H e r e ,   i t   i s   assumed t h a t   a g e n e r a l   consensus  c o n c e r n i n g  the meaning  o f   l i f e   i s   shared a m o n g  a l l   p e o p l e ,   a n d  t h e   problems  and paradoxes o f   t h i s   consensus are d i s c u s s e d .  

Key words :  l i f e  s y s t e m ,  p a r a d o x ,  e x i s t e n c e  

抄 録

本稿は一般生命システム理論についての草稿である。今回は生命についての一般的理解を共有し,

生命に関わる分野に存在する問題点とパラドックスを明らかにした。

キーワード:生命システム,パラドックス,実在

*本稿は関西大学社会学部共同研究費の交付を受けたものである。

‑111‑

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は じ め に

現代科学は「生命」という最後の砦に向かっている。哲学や生物学はもちろんのこと,物理科 学も社会科学も人間科学も「生命」を正面にすえて研究を進めている。まるで全ての学問が一つ の頂上を目指して東西南北から登頂を開始しているかのようである。個々の研究は地道なもので あって,決して勇猛果敢な登山者ではないけれども,巨視的にみれば確実な歩みが続いてきたの である。

「生命」はながいあいだ宗教や倫理の占有物であった。「生命」はその神秘と永遠の実在とし て,神であったり,究極の真善美であった。プラトンはそれをイデーと呼び,キリストは聖霊と 呼んだ。輪廻転生の思想は世界中にみられるし,天国と地獄はともに生命の行き着くところであ る。いのちには重さもなく形もなく匂いも色もないが,いのちは地球上に満ち溢れ,なによりも 貴く,すべてを包み込み,生きとし生けるものの根源である。

筆者ごとき一介の社会心理学者が,このように重大な問題を解き明かし解決できるとは到底思 えない。にもかかわらず,荒唐無稽な,あがきとも言える試みを展開しようというのには,それ なりの個人的な理由があるからである。

「生命」にたいする基本命題には多くのものが考えられよう。したがって,ここで追求しよう としている「生命」は生命の一部でしかないに違いない。ポパーの言う反証可能性の満ち溢れた 命題となることは必至である。

それでも「生命」について論考せずにはおれない今一つの理由は,人間にたいする深奥からの 興味である。そして「人間とは何か」という疑問に近づこうとすれば,適切な「生命観」に論及 せずにはおれないのである。これまで「生命」について多くの哲学が語られ,科学が展開されて きた。それらの一つひとつは学者の生命観を正確に反映したものにちがいない。

筆者の属している分野である心理学は,古典的物理科学への忠誠心からか,個々の学者として の謙遜からか,「生命」について直接的な言及を避けてきたように思われる。心理学が「こころ」

の学問である限り,心身二元論にまつわる「生命」の問題を避けて通ることはできないし,ある 意味で「こころ=生命」という図式さえなりたつ。後に詳しく歴史に沿って考察するが,おおざ っぱに言って心理学の歴史はリーヒーが述べているように, 「いつも人間機械論が勝利を収めて きた」歴史であった。

筆者は人間生気説やその亜流に組みするものではない。しかし,同時に人間機械説やその亜流 に組みするわけでもない。強いて言えば,筆者は人間生気説を否定しようとする機械論者の言葉 を借りて人間生命説を有機体論的に展開しようと思う。論理の展開の中で,少し詭弁に映るかも しれない箇所がそこここに存在することを最初から認めておきたい。それはこの理論が未だ発展 の途中にあるためであり,各分野に今一段の実証を期待しなければならない「事実の穴」が存在

‑112‑

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しているからである。

8 0 年代以降,これらの各分野での地道な研究をよそに,世間ではニューサイエンスなどという 題目の下に理論のパッチワークよろしく論理的飛躍を楽しむ風潮がある。 ボルゲンシュタイン ( V o l k e n s t e i n ,  1 9 8 2 ) が苦々しく偽生物物理学と呼んでいるように,植物との会話や生物磁気や 超能力をまことしやかに主張している。本稿もまた,彼らと同じ主題を扱い,同じ領域の同じ理 論を参照することになるであろう。しかも,彼らと同じく筆者は生物学者でもなければ物理学者 でもない。したがって,細心の注意を払いながら「事実の穴」と「論理の飛躍」を分離しなけれ ばならない。でなければ共約不可能な暗黒の淵に転げ落ち, 「失われた環」を見つけるどころか

「立ち現れる幽霊」の餌食となってしまうからである。

今一つ断っておきたいことがある。それは筆者が生命を人間関係や社会の延長として考え,生 物でない生命を議論の中心に据えているという事実である。大脳神経回路網, 個人の社会的生 命,集団の誕生から死に至る全過程,社会制度やマクロ経済,記号・言語に代表される文化など が本稿の真の対象であり最終目的である。なぜなら,われわれが日常それらのものに生命がある . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  

と考え,生物同様の扱いをしているという事実から,生物との共通性がそれらの中に生命現象と .  .  .  .  .  .  . 

して潜んでいるからだ,と推論せずにはおれないからである。

本稿は,個人と社会についての荷重ネットワーク理論である「ソシオ理論」の基盤となる考え を述べたものである。「ソシオン」とは s o c i a l と neuron からなる造語であって、社会ネット ワークに生きている個人を指す言葉である。ソシオン理論は雨宮、木村両氏との長年に渡る議論 を通じて形成発展されたものであり(木村、 1 9 9 0 , 藤澤, 1 9 9 1 , 雨宮, 1 9 9 3 , 藤澤 1 9 9 4 ) , われ われはその中で,結合量を変項とするネットワーク・ダイナミズムをソシオニックな振舞いと呼 び,そのようなシステムを「ソシオニック・システム」と呼んでいる。したがって,本稿で述べ る生命システムもソシオニックなシステムの一つなのである。

最後に読者に謝罪とお願いがある。それは,本稿が「生命」というとんでもない主題を掲げて いるために,筆者にとっては多くの専門外分野に論及しなければならず,筆者の生半可な知識が 誤解や舌足らずを招き,予想外の火の手があがるかもしれないことである。通常,賢学の士はこ のような愚かな真似はしないものである。しかし,人間とその社会の何故を追求しようとする者 にとって,生命観は対象を明確にし,客観性の根拠を与え,社会・心理現象の根幹を捕え,人間 理解のための踏絵となるものであると信じている。

賢明な読者は, 「愚挙は愚挙として笑い流し」ていただき, 積極的に筆者の言わんとするとこ ろをお酌みとり願い,お教え願いたいのである。本稿は,いわば,批判を受けることによっての み真実となり得るものだからである。

本稿は, 「生命システムの階層内・階層間に存在するさまざまな対称性とその破れ」を通じて

「生命の本質」に迫ろうとする。「生命」は古来から人間を考える上で中心的課題であったこと は言うまでもない。しかし,解答は常に「わけのわからないもの」として置かれてきた。

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われわれは,まず,一般に信じられている「生命の本質」とはどのようなものであり,どのよ うに作用し,具体的にどのような事実に現われるのかを曇のない鏡を通してながめてみよう。な ぜならそれは時として常識的理解のなかに真実が隠されているものだからである。また,いかに 常識が非科学的であろうと何百年,何千年,何世代にもわたって語り継がれてきたことを一笑に 付してしまうのは「生命」に関する限り科学的でないと考えるからである。序章は,いわば,著 者と読者の「生命」概念についての共同主観を確認する作業に費やされる。

1 章は一般生命システム論を囲む,生命についての研究分野の全体的見取図を与え,生命研究 において問題となっている事柄を通覧する。

2• 3 章では著者の生命システム論を展開する。生命が一つのシステムであるという観点は,

生命をいくつかの要素からなる一つの「かたまり」と見なし,全体として何らかの機能を全うす るものであることを含意している。しかし,ここで主張したいことは,生命が一つのシステムであ るということより,生命をシステム論的に捉えればこのようになるということなのである。生命 は重層的である。それは寒冷前線の積乱雲のように広がり,一方では外部の湿った空気を取込ん で成長し,他方では急激な下降気流によって雨を降らし,衰退する。内部のはげしい摩擦によっ て稲妻を起こしながら次々と形を変え,微視的な非平衡と巨視的な平衡へ向けてダイナミックな 運動を起こす。水と空気からなる分子の視点から地球物理の視点までを必要とし,一秒の変化か ら地球誕生の歴史に迫る必要さえある。つまり, 「かたまり」としてのシステムは観察者の視点 と守備範囲によって恣意的な蓋然性をもつにすぎないのである。

だからこそ,これまで多くの哲学的生命論が展開されてきたし,そのどれもが生命のある側面 に光をあててきたと言えよう。 4 章ではそのような歴史的流れを簡略化して鳥臓することにな る。ただし,クーンが指摘したように,全てのパラダイムはその時代,その学問集団によって妥 当化されたものであることに注意しなければならない。生命論はすべての学問領域を通じてのパ ラダイムであり,特に社会背景は重要である。西欧キリスト教は永い間,生命の本質を教義の扉 に閉じ込めようとしたし,二項分類的簡略化は時代を通じて民衆の好むところである。ここでは 2 0 世紀後半に向けてどのような生命論パラダイムが提出され,社会変化に伴ってそれがどの方向 に舵をとってゆこうとしているのかを明らかにし,ここで述べるソシオニックな生命論とどのよ うに関わるかを概観しよう。

心理学のパラダイムは,生命にたいするその時代の社会的通念を代表しているといえよう。ニ ーチェによる神への決別がなければ心理学は誕生しなかったであろうし,ダーウィンの進化論が なければ意識の進化はなかったであろうと思われる。心理学は,はじめ精神物理学や意識の学問 として起こり,心的エネルギーや本能のダイナミズムに身を置き,その後,極端な物理的行動の 学問に変身した。心理学は今世紀半ば以後,中道中庸を模索する中でコンビュークに代表される 情報処理機械への傾斜を深めていった。このような心理学の歴史の中でも,フロイド, ミード,

ビアジェは生命論に正面から向い合った数少ない心理学者であったといえよう。心理学はその時

‑114‑

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どきの生命パラダイムによって新天地を切り開き,大きく発展してきた。 5 章では生命パラダイ ムと心理学の発展をあとづける作業をするとともに,ソシオニック・パラダイムが心理学にもた

らすであろうコペルニクス的展開を探査することにしたい。

生物は人間を中心にした 1 0 ‑ 2 9 m から 1 0 2 9 m までの認識可能な大きさのなかで, ほぽ対数直 線上に位置し,地球の歴史とともに約 5 0 0 0 万種 4 0 低年以上の生命を保ち続けている。現在生存し ている種をとってみても,小はミクロゾームから,大はしろながすクジラまで,千差万別ともい える形と生活形態をもっている。にもかかわらず,全ての生物はたった 2 0 数種の原基からできあ がっており,同じ DNA の形式を備え, 自己増殖している。 この理由から生物学者が得意とす る系統発生図は,単細胞原核生物にはじまり,単細胞真核生物,多細胞生物へと,まるで本物の 木のような系統樹として表されている。生物学の「生命」への接近は, したがって,

1) なぜ全ての生物が同じ機構をもっているのか,

2) また,その機構とはどのようなものなのか,

3) にもかかわらず,なぜ,どのようにしてこんなにも多くの種が誕生し消えていったのか,

にかかっている。生物のこのような性質は物質の化学反応に支えられており,蛋白質の多種多様 な形態と運動に負っている。本稿が個人や社会の生命論を追求するからといって,著者がこのよ うな生物学の「生命」への接近に異議を唱えるわけではない。生命への生物学的接近については 6 章で詳しく検討することになるだろう。

これにたいして, 生命への探求を機械によって成し遂げようとする現代科学がある。「生き物 と同じかそれ以上の働きをする機械」を作ることが彼らに与えられた至上命令である。チューリ ングマシーンは一列に並べられた情報群を逐次解析し実行するという形で万能機械を作ることに 成功した。いわゆる,機能主義とよばれる人工知能学派は人間の認知活動を模倣す乞ことで人間 を作ることができると考えたのである。生命を作ることと生命を理解することが同じかどうかは 重大な問題である。 7 章ではコンピュータによる認知科学をとりあげ,その足跡を注意深く検討 することで,生命を創造することと生命が何であるのかを知ることとの違いを明らかにしよう。

ソシオニックな生命論の直接の源流となる自己組織系と階層原理を 8 章で見ることにしたい。

ノイマンにはじまる万能機械の別の流れである自己組織系は,応用数学に多大な貢献をすること になった。しかし,ノイマンの自己増殖理論は必然的に階層原理を内包している。だからといっ て,ホロニックな階層原理からは自己組織系は導き出せない。プリゴジンのカオティックな階層 原理では微視的な自己組織系によって巨視的な秩序が生成されることがわかる。しかし,巨視的 な自己組織が微視的な秩序をどのように制御できるのかを明確にするものではない。生命の本質 を全うするためには微視的一巨視的をつなぐ階層間相互依存性がなければならないのである。依 存的要素による巻き込みと巻き返し,つまりは,ソシオニック・システムの特徴である「対称化 組織系」が必要なのである。

生命や魂や心や社会を最も身近に実感できるのは「私」という存在である。「私」を表す言葉

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に は , 自 分 , 自 身 , 自 己 , 自 我 な ど が あ る 。 そ れ ら に は , そ れ ぞ れ 異 な る 意 味 が 付 与 さ れ て お り , 互 い に 相 互 依 存 的 で あ る 。 こ れ ら の 多 重 多 層 に 絡 み 合 っ た 「 私 」 を 解 き ほ ぐ し て ゆ く 中 で , 読 者 は 「 ソ シ オ ニ ッ ク 」 と い う こ と の 意 味 を 実 感 す る こ と が で き る は ず で あ る 。 9 章 は ソ シ オ ニ

ッ ク シ ス テ ム の 一 般 的 理 解 を 促 す た め の 章 で あ る 。 し た が っ て , 日 本 語 が そ う で あ る よ う に , 最 後から読み進めるとわかりやすいかもしれない。

目 次 序 章 生 命 の 諸 相

0 ‑ 1   複雑なもの 0 ‑ 2   「かごめ」の生命観 0 ‑ 3   生命の実体と実在

I  生命システム論の見取図

1 ‑ 1   目的論から機械論へ,そして有機体論(原理)

1 ‑ 2   全体主義と還元主義,そして構造主義(方法)

1 ‑ 3   生物の起源と進化,少なすぎるデータ(歴史)

1 ‑ 4   生物でない生命論,無知なる錬金術師(希望)

1 ‑ 5   一般生命システムの位置づけ

I I   生命システムの要件

2 ‑ 1   実在の他律的相互依存(荷重)関係(関係の他律性)

2 ‑ 2   要素ネットワーク(変項,階層としての)

2 ‑ 3   システムの入れ子構造(システムの成立)

2 ‑ 4   境界(畳み込みの境界)

2 ‑ 5   自己組織(他律による自律)

2 ‑ 6   相似性(階層間対称性)

2 ‑ 7   相同性(階層内対称性)

2 ‑ 8   代替可能性(機能構造的対称性)

2 ‑ 9   近傍階層性(システムの重層性)

2 ‑ 1 0 生命システムの目的関数

l l I   ダイナミズムの要件 3 ‑ 1   差異による駆動 3 ‑ 2 部分と全体 3 ‑ 3   階層間相互作用 3 ‑ 4   干渉性と共振性 3 ‑ 5   柔軟性と安定性

I V 現代的生命観

4 ‑ 1   哲学の論理学への逃避 4 ‑ 2   構造として生命

4 ‑ 3   機能的生命としての認知主義

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v  心理学の途巡

5 ‑ 1   苦悩に満ちた出発 5 ‑ 2   行動主義心理学の歩んだ道 5 ‑ 3   社会心理学の現実路線

5 ‑ 4 精神分析学はなぜ科学的でないのか 5 ‑ 5   わからないこと

I V 生物学のすれ違い

v n  

6 ‑ 1   生物学者のコギト 6 ‑ 2 生命の形態

6 ‑ 3   大脳の生理学と心理学

「機械の中の幽霊」のしくみ 7 ‑ 1   幽霊の正体みたり枯れ尾花 7 ‑ 2   人工知能の持つ生命 7 ‑ 3   コネクショニズムの苦悩 7 ‑ 4 接木的脳観

圃 自己組織によって自己複製すること 8 ‑ 1   ノイマンの生命

8 ‑ 2   ホロニックク協同原理 8 ‑ 3 散逸構造論

8 ‑ 4 関 係 主 義

X I   「私」と認識 9 ‑ 1   私を見る私 9 ‑ 2 四 つ の 私

9 ‑ 3   私の認識はどこからくるか

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序 章 生 命 の 諸 相

現在戦わされている生命にたいする科学ゲームの戦場は,もともと小さな哲学というテープル の上だけであった。それが,物理科学によって街中にひろがり,分子生物学や生物生態学によっ て地域的紛争にまで拡大した。コンビュータ科学がゲリラ戦を挑んでからというものは,民衆を 巻き込んで西欧文化圏全土に火の手があがっている。この争いは面白いことに,誰かが勝ちを納 めたと宣言すると,必ず負けが証明されるのである。つまり,誰かが勝った時点で勝ち負けのル ールが変更され自動的に負けが明確になる,といった具合である。どうも,このような多重パラ

ドックスの世界に生命全体が存在しているようである。そこで,まともな勝負を挑んだとしても 勝ち目の少ないゲーム(すなわち,ゲームのルールが常に生成されるゲーム)をするより,その ゲームのルールを生成する原ルールとその監督者の話を聞くことから始めるのが賢明であろう。

つまり, 「生命」についての科学的接近より以前のナイープな生命観を検討し, 生命について囁 かれている民衆の声を読者とともに共有することから始めよう。

0 ‑ 1   複雑なもの

生物を機械と見るとすれば,誰もがその構造の美しさに驚嘆するはずである。なぜ美しいのか と言えば,裸眼で銀察してさえ複雑であるのに,顕微鏡を覗いても,電子顕微鏡の下でさえ,さ まざまな部品が複雑に組み合わさり一糸乱れぬ統制の秩序によって,全能の神が作り賜うたとし か思えない全体性を具現しているからである。

そもそも,ある複雑さをもつ対象を分かるためには,その複雑さの 3倍の複雑さのあるもので しか理解し難いと言われる。たとえば,ある長さを測定しようとすればその長さの%を測定でき る物差しがなければならないというのである。電子顕微鏡の理論的解像度はそのことを物語って いる。もし,これが正しいとすれば, 人間が同じ複雑さをもつ他の人間を理解することは,所 詮,不可能であるという結論に至ることになろう。

考えてみれば心の複雑さは,脳の複雑さや,細胞の複雑さと同程度のものかもしれない。もし かすると,宇宙の複雑さも量子の複雑さもこれらと同程度かもしれないし,生命の複雑さも,ゃ はり同程度かもしれない。

われわれは対象の複雑さを測定するのに,その中に法則性が隠されていれば,フーリエ解析や 固有解法,あるいはシャノン・ウィーパーの情報量や,形式としては情報量と同じエントロビー という熱力学測度をもっている。また,複雑さが形に現われたときには,それをマンデルブロー のフラククル次元によって大まかには測定可能である。しかし,生命現象の複雑さは単に「要素 が入り組んでいる」という意味での複雑さ ( c o m p l e x i t y ) ではなく,ラテン語の「折り畳まれる」

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という意味での複雑さ ( c o m p l i c a t i o n ) である。ドルーズが述べているように,巻き込み ( i n p l ‑ i c a t i o n ) と巻き返し ( e x p l i c a t i o n ) を共に繰り返し, 階層の秩序と混乱を産むという複雑さで ある。あるいはプリゴジンの言う自己言及による「パイこね変換」を基礎にし,しかも,それが 階層にまたがるような複雑さなのである。つまり,生命の複雑さは情報量の大きさやフラクタル 次元の高さによって単純化できる複雑さではなく,物事の表裏や階層・レベル間の相互作用,ぁ るいは論理矛盾さえも越えるような複雑さをもっているのである。

0 ‑ 2   「かごめ」の生命観

「かごめかごめ かごのなかの とりは い つ い つ で や る よあけの ばんに つるとかめがすべった

うしろの しょうめんだ〜れ」

これは日本人なら誰でも知っている「鬼遊び」という遊戯歌である。しかし,誰一人としてこ の歌詞の意味を知る者はいない。一説にはアインシュタインの相対性原理だという者もあり,生 と死の序曲だという者もある。しかし,その歌詞が不安や恐怖を感じさせることから,筆者を含 め多くの人々は,生命の持つ複雑さや不可解さ,あるいは,非二項論理を表現したものであると 解釈している。

つまり,「かごめ かごめ」とは,遊戯自体がそうであるように, 屈め 囲め であろう。こ れは砂漠の真ん中でライオンをオリに入れる数学者と同様のパラドックスである ( S a i n s b u r y , 1 9 8 8 ) 。つまり,囲んでいる者が囲まれており, 屈んでいる者が囲んでいるという空間のパラド

ックスである。生命の複雑さや捉え処のなさは,生命を担っている実体を分析し,それらの間に ある関係を科学的に検証しようとすると,なぜか「部分や実体から離れてしまい,より高次元な 全体に言及しなければならないことになる ( W a t s o n ,1 9 7 9 ) 」という事実に現われている。この ことは低次生命体が高次生命体の一部分であったり,高次生命体が低次生命体の一部分であった りする事実と符合するものである。これはラッセルのパラドックスとも読める。

「かごのなかの とりは」は「駕籠の中の鳥は」と一般に解釈されそうだが, 「結界(加護)

の中の結界破り(鳥居)」で,秩序を破る秩序というパラドックスと読める。生命は, その境界 を設定することが非常に困難なシステムである。あるときには広い範囲にわたって単ーシステム であるようなものが,次の時点ではいくつかに分割されていたりする。クック ( C o o k ,1 9 8 0 ) も 言うように,安定を求め,その安定が達成されると新たな安定を求めて,自ら既存の安定を破っ

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ていくのが生命なのである。

それに続く「いついつ でやる」は前の部分と一緒になって「駕籠の鳥は,いつ駕籠から出る のだろう」と解釈できるが, 「居つ居つ 出やる」とも読め, 居ながらにして出るという存在の パラドックスになる。存在のパラドックスは後に明らかにする相互依存と相互作用の表裏とかか わって実在の中核的問題である。バンチ ( B u n c h ,1 9 8 9 ) やヴァイル ( W e y l , 1 9 5 2 ) は自然のパ ターンの中にある数学的対称性と生命との関係を探っているが,彼らの生命にたいする直感的理 解はラカン ( L a c a n , 1 9 6 6 ) の鏡像関係と同じく,生命の存在基盤に関わっているのである。

「よあけの ばんに」は読んで字のごとく「夜明けの晩に」で,朝の夕方という時間のパラド ックスである。生命システムには記憶を媒介として時間的な序列を逆回転させたり,長さのある 時間を一点に閉じ込めるゼノンのパラドックスを持ち込むことがある。つまり,生命には時間的 定位すら通用しないというベルグソン的時間が存在するのである。生命はどのような型であれ,

その中に必ず記憶を含んでおり,過去と過去,過去と現在の共存を成し遂げ,あるときには未来 をも過去のものとすることができるのである。

「つるとかめが すべった」はこの遊戯歌の中でもっとも不可解な部分である。そのためか,

各地方・時代で言葉が変化している。筆者は「鶴と亀(善が)がスベタ(悪である)」と考え,

これを倫論的パラドックスだと考えている。生命は倫理の彼方にあり,善悪の判断は生命のあず かりしらぬところだからである。

「うしろの しょうめん だ〜れ」は「後ろの正面は誰か」の意味で前後(位置・序列)のパ ラドックスである。これは時間や推移とかかわって,それらが自己回帰的に繰り返されることを 述べたものである。この遊戯は,中で屈んで眼を閉じている鬼を,回りで手を繋いで囲んでいる 子供達が歌いながら取巻き,鬼が自分の後ろにいる子供を当てるゲームである。そして,当たる と,当てられた子が次の鬼になるというものである。しかし,昔(江戸時代中期)は歌の途中で 繋いだ手を持ち変え,中を向いて囲んでいる子供達が外向きに手を繋ぎ変えるという方法をとっ ていたようである。これだと実際には,鬼も,囲んでいる者も,誰が次の鬼なのか判らないこと になるのである。

「かごめ かごめ」の表裏は否定矛盾によってなりたっている。日本には民衆の間に広まって いる論理の原型として「色即是空 空即是色」と同様の二項論理を越える形式が根付いていたの ではないだろうか。だからといって,それはヘーゲルの正・反・合という止揚形式でもなく,パ ースのような三項論理でもない。荘子は「実体としての器は器の用を足さず,器によって形成さ れた虚空である凹空間が器の用を足している」と述べている。しかも,われわれは凹空間を指し て器と呼んでいるわけではない。実体としての生物と虚空としての生命,とも考えられるのであ る 。

「かごめ」のパラドックスは生命がトポロジカルな時空を構成し, しかも,観察者の眼によっ て真が偽になり,偽が真になることを物語っている。それは自己言及のパラドックスであり,ゲ

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ーデルの不完全性定理により,それ自身では整合性が保てない種類のものであって,シュレジン ガーの量子力学方程式のように,観察者と対象との相互作用(相互依存)によってのみ実体が同 定できるような関係論だということなのではないだろうか。

0 ‑ 3   生命の実体と実在

われわれは,心の中に人間関係や物理的環境をもっている。そして,心の外に現実の人間関係 や実体としての物理的環境が存在すると考えている。これら 2 つの世界のうち,どちらが本当で どちらが嘘なのかを判る人間はいるのだろうか。

般若心経いわく,「色受想行識」の五蘊は無常・無我であるという。「色」とは物や色を指し,

知覚されるもの(物理的実体)のことである。「受」とは一切が感受されてあるもの(心理的実 体)という意味で,「想」は一定の姿を持つこと(形相的実体)である。「行」とは形成されるこ と(相互作用的実在),「識」とは了解されること(相互依存的実在)である。この五蘊は仏教に おける世界の全て(仏法)を表している。つまり,この世界には 5つの常に変動する現実がある ということである。言いかえれば, 5 つの全体があり, 5 つの客観が存在する現実があるという ことである。その中で生命は「空」であり「色」なのである。したがって,生命は物理的実体と して生物の形をとり,心理的実体として知覚される,と同時に形相的実体としてパクーン化する のである。また,前三者は実体であって,いわば生命についてのデークのようなものであり,後 二者は実在であってデーク間の関係,あるいはプログラムのようなものである。山崎 ( 1 9 6 8 ) は 五蘊の諸法が「諸法無我」であるとして, 世界の中に「我」(主体)はないと述べている。そう であるなら,「我」や主体と生命とはどのような関係になければならないのだろう。

生命の複雑さはパラドックスに包まれている。生命とは,それがシステムであるとするなら,

実体としての要素を確定することのできない,それでいて階層だけが実在するような虚空にして 祠密なシステムである。生命システムは半順序関係にある半無限階層をなしている。つまり,対 称性を保持しながら,観察者はどの階層にでも移動できるが,観察者のいる階層からは上下に数 段の階層しか観察できない半群という性質があるようだ。また,関係要素(実在)が観察可能な 階層の性質(実体)に規定されていることや,対称性の鏡の中ではじめて実在が可能になり,観 察者自身が観察されることによって実体となることなど,倫理を越えた不可解な事柄が団子にな って出てくるのである。われわれは常に生命の一部分しか見ることができないのに全体を見た錯 覚に陥ってしまうし,見えた全体だけが当の観察者にとっての真実の全体なのである。

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第 一 章 生 命 シ ス テ ム 論 の 見 取 図

そもそも生命を考えるとき,実体としての生物のみを対象とするのではなく,いわゆる生命系 全体について考えなければならないはずである。だが,多くの生命研究は生物・生態学を指して いるかのごとき現状がある。確かに実体としての細胞や生物個体は, もちろん生命を宿してい る。しかし,それと同じように,免疫システムや大脳神経回路網,あるいは,集団や社会や種な ども生命を宿していると言われている(たとえば,公文, 1 9 9 4 や Lockwood,1 9 8 9 など)。なぜ なら,「私」や自我, 主体などは生命の現われと考えるべきだからである。大脳生理学者は生命 を問題としているのに,その大脳に物理的根拠をおく心理学は残念ながらほとんど生命を問題と してこなかった。社会学や言語学,経済学も同様である。しかし,これらの分野が対象とするも のは相互作用と相互依存によって秩序を産み発展させており,階層を持ち,生や死と呼べるもの がある。そして,これらの分野に属する研究者は常に,全体と部分,実体と実在の問題に直面し ているのである。

一方,コンビュータは生命を持っているのだろうかという疑問がある。一般にコンピュータは 機械であると考えられている。しかし,少なくともニューラルネットを含む人工知能研究や自己 組織系人工生命研究は生命の何たるかを追求せずにはおれないし, 事実,追求しようとしてい

る。その意味ではコンビュータ科学の形而上学的部分は生命研究だということができよう。

生命についての研究は人間の歴史と同じほど古い。古代中国では老荘百家から竹林の七賢ま で,古代地中海ではタレスにはじまりストア派のクリシッボスまでのギリシャ哲学など,今日ま で三千年に及ぶ全歴史を通じての思索と苦闘がある。

しかし,ここで生命観についての歴史を紐解くつもりはない。それらは適切な他の書物(たと えばスミス「生命観の歴史」 ( 1 9 7 6 ) など)に譲って, ここでは歴史を通じて「生命」の何が主 として問題となってきたのかを概観することで,現在の生命へのアプローチを大まかに述べ,ぁ わせて一般生命システム論の位置づけを試みよう。

1 ‑ 1   目的論から機械論へ,そして有機体論(原理)

生命が二項論理の彼方にあるとしても,実体としての生物は産まれ,生き,死んでゆく。ドリ ーシュはウニの胚を二分割しても,なお各々から完全な成体ができることを発見した。そこで,

生物には物理法則に従わない生命が存在すると信じ,それをエンテレキーと呼んだ。生命には,

最終的に成体となる目的(目標)があることを彼は疑わなかった。それでなくても生命には目的 論的な議論が付きまとっている。目的,自律,意識,意志,予定調和などは生物が生命を持って いるかどうかを識別するための一般的な要因である。

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宗教はこのような目的論的生命観をもっとも支持し続けてきた領域である。キリスト教がヨー ロッパを偏見と暗黒の時代に陥れる以前,プラトンのイデーやアリストテレスの形相概念は「神 のいない目的論」であった。その後,唯一絶対神であるキリストは神に似せて人間を作り,その 下に動物や自然を作った。人間はその発生当初から高貴な生命体なのであった。そのことを論証 するために,永年にわたって多くの学者が人間と動物を峻別する要因の発見に無駄な努力を重ね てきたのである。

生命は,宗教から科学へという道筋をたどって研究,分析されてきた。ダヴィンチが先鞭をつ け,デカルトが築いた人間機械論は,物理的実体としての人間と精神的実在としての人間を分離 することで神に答えた。ニュートンはプリンキビアの冒頭から創造神の意志の反映である物理世 界の統一性を高らかに謳って,機械の奥にさえ神の目的があることを主張した。カントに至って も純粋悟性として目的論的生命は生き続けたのである。ツアラッストラが何と言おうとも西欧キ

リスト教文化圏では多くの科学者が今も神への忠誠を続けている。

ドリーシュのエンテレキーは表立った目的論の最後のものとなったが,生命の目的論はその後 も形を変えて幾度となく繰り返されてきている。生命科学を追求する者が「わけのわからないも の」に突き当たったとき,必ず現われるのが目的論だからである。ダーウィンもボーアもウィナ ーも,最後の何故にたいしては敬虔なキリスト教信者であった。専門知識の欠落した目的論啓蒙 家は,その一点を捉えて大々的に目的論を展開している。ワトソン ( W a t s o n ,1 9 7 9 ) ,   ラヴロッ ク ( L o v e l o c k ,1 9 7 6 ) ,   山口 ( 1 9 9 3 ) など数え上げればきりのないほどである。近年のニューサイ エンスと呼ばれる蒙啓書の多くはこの類である(たとえば S h e l d r a k e ,1 9 8 1 など)。

ここで考えておかなければならないことは,目的論が宗教的真理を養護するものと受けとら れ,生命を人知の及ばぬ何かと考えることである。かりに生命自体が全体として目的を持ってい たとしても,それは神の実在証明と何ら関わりがないはずだからである。後に述ぺる生命起源説 もまた同様の根があるように思えるのは筆者だけであろうか。

1 8 世紀中ごろ啓蒙主義者のラメトリがデカルトの二元論のうち物質的側面だけを取り上げ「人 間機械論」を著したことはあまりにも有名である。その後,機械的生命観は物理学を基礎とする 技術の発展と結びついて 1 9 世紀以後の近代合理主義と共に 2 0 世紀の主な生命潮流となったと考え られている。しかし,生命が複雑な機械であるという考え方には 2つの大きな問題が隠されてい る 。

一つはデカルトの時代の機械と現代の機械の性質の違いである。 1 9 世紀まで,もっとも複雑な 機械は時計であり,歯車とゼンマイの仕掛けの動力機械であった。現代の機械はコンピュータを 内蔵した自動制御機械であって,その複雑さにおいても設計思想においても根本的な違いがある。

すなわち,前者は閉鎖システムであり,力学的エネルギーであるのにたいして,後者は何らかの 意味で外部と相互作用し,情報を操作するからである。そこには同じ機械と言っても想像する対 象は天と地ほどに異なるのである。したがって,機械論者がどのような機械を思い描いているか

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によって結論に甚だしい違いが生じるのである。

他の一つは生命と生物の混同あるいは同一視である。これは生命=生物としか考えられなかっ た時代には仕方ないとしても,現代のコンピュークネットワークや複雑な社会機構など,生物で はないが生物のような働きをするものがあって,生物と生命を分けて考える必要が生じてきたか らである。すなわち,実体としての生物を離れて純粋に生命現象の機能構造を問題として提起し なければならなくなったのである。だからといって,ここでプラントのイデーやデカルトの二元 論に立ち返ろうとするわけではない。世界観を構成する 5 つの客観性の全てから生命現象を見直

さなければならない時期にきているのである。

ワトソン・クリック ( W a t s o n , 1 9 6 5 ) が DNA を発見して分子生物学が大いに発展し,生物 の分子論的構造が明らかにされ,生物機械論が勝利を収めると同時に,生物の機能的側面に眼が 向けられ始めた。ウィナー ( W i e n e r , 1 9 4 8 ) のサイパネティックやベルクランフィ ( v o n B e r t a ‑ l a n f f y ,   1 9 6 8 ) の一般システム論が注目されてくると, 生物の機能と構造の関係が問題とされる ようになってきた。いわゆる生命有機体論の勃興である。有機体論についての定義は定まってい るわけではないが,有機体の機能と構造の一般的関係を明らかにすることで生物学に構造主義的 観点を持ち込もうとするアプローチであると言えよう。したがって,対象が生物である必要はな く,機械であっても構わないし,分子であってもよい。サイバネティックスやミラーら ( M i l l e r , 1 9 6 0 ) の TOTE ループは生物の基底的機能が自己回帰ループであることを明らかにしたもので ある。

他方で, トム (Thom, 1 9 7 2 ) は生物の形態や運動の数学的定式化を目指してカクストロフィ ー理論を提出した。これは生物に見られる急激な構造変化を分岐問題とし,後のカオス理論への 突破口を開くことになった。 トムもベルクランフィもシステムを幾つかの連立微分方程式のかた ちで表していたし,その限りでは連続変量を扱う力学主義であったと言えよう。しかし,ノイマ ン (vonNemann, 1 9 5 8 ) の自己組織系を発端にして離散変量からなる自己回帰ループの異常 性に気づいたプリゴジン ( P l i g o g i n e , 1 9 8 4 ) の散逸構造論, スビン現象からヒントを得たハー ケン ( H a k e n , 1 9 8 3 ) の協同現象論,またミオシンの同調現象から清水 ( 1 9 9 2 ) は ケ ス ト ラ ー ( K o e s t l e r ,   1 9 6 5 ) のホロニックな振るまいを明らかにした。 これらは後に述べる全体主義とも かかわって,有機体の機能構造を単純機械から複雑機械へと進化させるのに大きな役割を果たし

たということができよう。

システム論はその後,主に工学において採用されていったが,社会科学においてもルーマン (Luhmann,  1 9 8 4 ) の社会システム論などとなって大きな成果を産み,ベルクランフィの意図し たように多くの人間科学の分野において有機体論が展開されていった。これらの成功には,一方 で情報科学の進展があったことは言うまでもない。つまり,生命有機体論を支えてきたのは,蛋 白質やそれらの重合分子の組成と振るまいが実証されていったというだけではなく, DNA ゃ RNA などに代表される蛋白質間の結合や分離を通じて,情報が次々と処理される過程が明らか

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にされたからである。

生物学における構造主義が要素間の関係の構造を明らかにしようとし,自己回帰)レープによる 全体的秩序に至ったが,それらはあくまでも蛋白質などの実体から離れて純粋な機能構造を問題 としたわけではなかった。したがって,研究者の視点は常に一つのレベルに固定され,階層間の 機能構造にまで及ばなかった。また,自己回帰)レープが生命の基本構造であることは分かった が,恒常性といってもキャノン ( C a n o n ,1 9 1 2 ) のホメオスタティックな定常化もあれば,スト レンジアトラクタとなる繰り返しのある緩やかな定常化もあり,自己回帰といっても自らの出力 を直接取り入れる「自己回帰」もあれば,他の要素を介して再び自己に帰還する「自己帰還」も ある。たとえば,自己組織系は近傍の情報と共に自己回帰するし, ATP は多数の蛋白質変換に よって自己帰還し自己複製する。

そして,何よりも有機体論の中心となっている 相互作用 という概念である。機械論の中心 概念であった力学的エネルギーに代わって,有機体論では熱力学エントロビーあるいは化学エネ ルギーが主役となった。これらは必ず相互作用によって成立する概念である。つまり, 「分子間 親和力」に代表されるように,力学系のような相手構わずする作用ではなく,相互に認め合った 作用ー反応系だということである。化学反応がイオン化された分子間で外郭電子数が適合してい なければならないように,有機体での化学変化はイオン価だけでなく,抗原抗体反応や神経伝達 物質のように蛋白質間の形状の適合性による相互作用によってなりたっている。物理学が「作 用」というのにたいして,化学が「反応」というのは実に面白い用語法である。

心理学や社会学においては目的論的生命観や機械論的生命観,あるいは有機体論的生命観が混 在している。 ジェームスの意識心理学やマクドウガル (McDougal,1 9 2 0 ) の本能論は人間の存 在理由を目的論的に考えたし, フロイド ( F r e u d ,1 9 4 0 ) の精神分析学も目的論的エネルギーが 前提となっている。また,ゲシュタルト心理学は人間の主体性が知覚の根底にあると主張した。

これにたいしてワトソンの行動主義につづく学習心理学はながらく人間機械論を標榜してきた。

認知科学は最初機械論的接近を試みたが,次第に有機体論に傾斜してきたし,ビアジェ ( P i a g e t , 1 9 4 9 ) やミード (Mead, 1 9 3 4 ) は独自な道を歩んだが,彼らも有機体論者であった。社会心理 学はレヴィン ( L e w i n ,1 9 5 1 ) などのように,かなり初期から有機体論的である。なぜなら,社 会心理学では個人間の相互作用や相互依存が前提であり,相互性の下では有機体論的にならざる を得なかったという事情があるように思える。

1 ‑ 2   全体主義と還元主義,そして構造主義(方法)

生命科学に代表される全体主義は, 「全体は部分の総和以上のものである」 というゲシュタル トの主張に明確に表現されている。イギリス経験論を背景に持つ分析科学の雄である物理学の還 元主義は,こと全体性に関する限り,かなり分が悪い。特にニュートンカ学は閉じた連続系で時

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間的にも可逆であることから,生命との関係に多くの疑問が寄せられている。

しかし,われわれは科学的な方法として還元主義による分析科学を推し進めてきたのである。

それは生物科学においても,心理学においても同様であった。ガリレオに始まり中世解培学を通 して人体の部分についての知識が深まり, 細胞発見をへて DNA に行き着くまで,歴史は還元 主に勝利の月桂樹を与え続けてきた。

還元主義の原根は二項分類にある。まず, 2 つに分類することは理解することの出発点であ る。白と黒,善と悪,有と無,図と地……。カントールの述べたように,まず対象の属性を集合 として表現しなければならないのである。しかし,心理学を修めた者なら誰でも知っているよう に,われわれ人間には必要以上に対象を峻別しようとする傾性があり,歴然としているはずの二 項分類も実は相対的なものであることが多い。もし,彼が二項分類しなければ,それは何ででも あり得たかもしれなないのである。もし,彼が白と黒として分類しなければ,それは灰色であり 得たかもしれないし,赤でさえあり得る可能性があったのである。極端なことを言えば,多くの 分類は恣意的なものなのである。この分類によって集合の要素が決定され,それらの関数関係を 明らかにしてきたのである。

全体主義者が言うように,分類する(部分に分ける)ことによって何か失われるものがあるの だろうか。あるとすれば,分けられた部分間の関係以外にはないはずである。たとえば赤色の明 度は地となる灰色の明度に左右される。同じ赤色であるにも関わらず,背景によって見え方が異 なるのである。これを赤色と灰色に(部分に)分けてしまえば(正確に言えば,赤色も灰色も同 じ地の上に置けば), 欠落するのは両者の関係によって生じる 錯誤 である。 なぜ部分間の関 係が錯誤なのかは,分類が恣意的だったからである。全体主義者は 錯誤 をよせ集めよという のだろうか。

構造主義者は関係=錯誤の裏に潜む構造=法則性を明らかにしようとした。二つの明度をもつ 部分間の関係は,それらがより明度差の大きくなるように知覚される,という具合に。部分間の 関係の構造が明確になれば全体が見えると考えたゲシュタルト学派は, しかし,遂に全体を見る ことなく終ってしまった。それは「部分間の関係」を分類した(部分に分けた)ために,又もや 関係間の関係=錯誤が現われてしまったからである。彼らは半永久的な繰り返しの罠にはまって しまったのである。だからと言うわけではないが,構造主義者は自己回帰

J

レープがことのほか御 好きである。マツラーナら ( M a t u r a n a ,1 9 8 0 ) は神経生理学からカップリングによるユニークな 生命論を提起している。 ポスト構造主義者, 中でもドルーズ ( D e l e u z e ,1 9 6 8 ) はこのことに気 づき,関係間の関係が無限ループに至ることを述べ,二項分類への警鐘を訴えている。

一方で全体性と関わるホログラム原理を援用するケストラー ( K o e s t l e r ,1 9 6 9 ,   1 9 7 8 ) は全ての 対象がヤヌス神のごとく上位階層には部分の顔をもち,下位階層には全体の顔を持っていると考 えた。したがって,世界は無限階層の様相を呈していることになる。ホログラムとは立体写真 で,光の干渉波を固定することによってできており,乾板の一部分からでも全体写真が復元でき

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るという特徴を持っている。彼はホログラムのアナロジーをとったつもりであるが,ホログラム は全体(被写体)を全体(乾板)として写し取る(写像変換する)のであって,乾板の一部分を 切りとってみても,それは乾板の部分なのであって,被写体の部分ではなく,どこまでいっても それは被写体の全体であることを忘れてはならない。

つまり,部分はどこまでいっても部分であり,全体は常に全体なのであって,部分と全体とい う定式化自体に問題があると考えるべきではないだろうか。特に生命を問題とするときには,こ のことはすぐ気づかせられることである。社会という全体が生命を持っているとすれば,その部 分であるはずの個人もまた同じ生命を持っている。個人の部分である細胞もまた,個人と同じ生 命を持っている。つまり,実体が階層(部分と全体)をもっているとしても,実在としての生命 は常に全体(部分)であって,みな同じものなのである。社会の生命と個人の生命と細胞の生命 は「生命」という点で区別はつかない。だから,生命は同じものの繰り返しのように見えるので ある。やはり,「かごめ」なのであろうか。

1 ‑ 3   生物の起源と進化,少なすぎるデータ(歴史)

なぜ生物の誕生がそんなに重要な事柄なのか理解に苦しむ。バナール ( B e r n a l ,1 9 4 9 ) のよう に生命の物理的基礎をその起源とすることは理解できる。 しかし, 生命の起源がモリス (Mo‑

r r i s ,   1 9 8 8 ) の言うように神によって作られようと, クリック ( C r i c k ,1 9 8 1 ) のように宇宙から 石隕に乗ってやってこようと,オパーリン ( O p a r i n ,1 9 6 5 ) のコアセルベートが複雑になってで きようと,ケアンズ ( C a i r n s ‑ S m i t h ,1 9 8 5 ) のように結晶や粘土から成長しようと,それで生物 の歴史の謎は解けるとしても生物を成立させている生命が分かるとは思えないからである。しか し,この問題はキリスト教文化圏ではことのほか重要であるらしく,人間が創造神にとって代わ れるかどうかが注目の的であるようだ。

進化については言うまでもなくダーウィン ( D a r w i n ,1 8 5 9 ) の「種の起源」から議論が出発し ている。これについては多くの異論や反論があり,今西 ( 1 9 7 6 ) の同時全体説を最左翼として,

カオス作用説やネオダーウィニズム,正統派最右翼まで華々しい論争を繰り広げている。それぞ れ,幸島のサルのイモ洗い同時多発やバージェス頁岩から発掘されたカンプリア期の奇妙な生物 群 , DNA の突然変異,適応への自然選択圧など,事実との整合性を求めて考え出されている。

「進化」と言う言葉自身がもつ 何かが良くなり,より複雑になる というニュアンスは近代 合理主義が産んだ幻想であるとしても,多くの種が現存しており, しかも同じ核酸によって同じ 蛋白質が合成され,それによって生命が保たれていることに間違いはない。問題は,このような 多様性を発現させることができるのはなぜか, を問うことである。 なぜ DNA は種によって異 なるのか,いいかえれば, なぜ DNA は変異をおこすのか。 なぜ歴史上のある時期に集中して 多くの種が誕生し消えなければならなかったのか。なぜイモ洗いは同時多発しなければならなか

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ったのか。それらの全てを実現するためには「生命」がどのようなものでなければならないの か,が問題の中心になければならないはずである。もっと言えば,進化圧とは何なのか,それは 生命の本質なのか,それとも生命の何とどのような関係があるのか,を問わなければならない。

生物の起源は「生命」の本質が解き明かされない限り分からないし,逆に生命の本質,すなわ ち,進化のなぜが分かれば,生物の起源が宇宙からやってこようと窒素と二酸化炭素と水と光か

らできようと構わないし,おおかたの予想もつくであろうと思われるのである。

1 ‑ 4   生物でない生命論,無知なる錬金術師(希望)

生物でない生命論には二つのものがある。一つはコンビューク科学や認知科学であり,他は人 文社会科学である。コンピュータ科学は粗雑な仮定から出発したものの長足の進歩を遂げ,認知 科学となって生命に迫っている。人文社会科学はその出発当初から生命の本質に迫っておりなが ら,それを生命の本質と知らずに物理主義に走り,生命論としてまとめあげる機会を失ってい る。共に無知なる錬金術師のように手当たり次第に薬品を混ぜ合わせてきた観がある。

ノイマン (vonNeumann,1 9 5 8 ) の提出した幾種類かの万能機械のうち,チューリングマシー ーンが最初の計算機アーキテクチャーとなったのは生命論にとっては不幸なことであった。なぜ なら,その設計思想が逐次処理を行う CPU と記憶装置,入出力装置からなっていたために,実 現されたコンビュークは記号論理マシーンであり,序列番地記憶マシーンであり,バイト単位処 理マシーンとなってしまったことによる。したがって,開発当初は無知な評論家がよくやるコン ビュークと人間との強引なアナロジーによって,人間だけでなくコンビュークをも論理機械に仕 立てあげてしまったのである。 AND/OR/NOT の論理演算だからとか, 0 / 1 の 2 進法だからと かが論拠となって,人間の思考やニューロンとの相同性を論及するのは,あまりにも馬鹿げてい る 。

同じ万能機械でもローゼンプラット ( R o s e n b l a t t ,1 9 6 1 ) のアソシアトロンから発展したホッ プフィールド・ネットワークや, ノイマンが提案し, コンウェイ (Conway,1 9 7 0 ) やパウンド ストーン ( P o u n d s t o n e ,1 9 8 5 ) がライフゲームとして広めた自己組織系の方が, 自己回帰的ア キテクチャーを持っているという意味で,はるかに生命に近いコンピュークである。

しかし,ホップフィールド型ネットワークは,神経細胞にあたるユニットのモデルとしてヘッ プ ( H e b b ,1 9 4 9 ) の学習理論の流れにあるマッカロック ( M c C u l l o c h ,1 9 4 3 ) の全無モデルを基 礎としている。甘利 ( 1 9 7 8 ) の層状に広がるコグニトロンも,ヒントン ( H i n t o n ,1 9 8 6 ) の中間 層をもつボルツマンマシーンも,ネットワークの階層を仮定していない。つまりユニットのなか にネットワークが畳み込まれていないのである。もちろん,ニューロコンビュークは神経細胞を 真似たわけだから仕方ないのであるが,ユニットが単純化され過ぎており,生命に関する一部分 しか実現できていない。同じようなネットワークでもコホーネン ( K o h o n e n ,1 9 8 5 ) の自己組織

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ネットワークはユニット同士の結合強度の差によって状態量を決定するという意味で可能性があ るようだ。 この分野では現在カオス・ニューラルネットや ADAM 記憶装置など多方面に試行 錯誤が繰り返されている。いつか生命のもつ本質的な機能構造を実現するネットワークが考えら れることであろう。

フォーダー ( F o d o r ,1 9 8 3 ) の心のモジュール理論やミンスキー (Minsky, 1 9 8 5 ) の「心の 社会」などは認知科学と人文社会科学の橋渡しをする名著である。彼らの主張は大脳生理学の成 果を取り入れ,ユニットのかわりに数百から数千の神経ネットワークの塊(コラム)をモジュー ルと名づけた。つまり,各モジュールは何等かの仕事をこなすエージェントであり,他のモジュ ールと協同して全体的な秩序を作るのである。少なくとも,モジュールは近傍のモンジュールを 畳み込んで階層構造を持っていることから,一歩生命に近づいたと言えそうである。ミンスキー はこのモンジュールを人間にたとえ,エージェント間ネットワークを社会にたとえている。

人間と社会の問題はさまざまな紆余曲折を経てきた。これらの分野では当初から現在まで,社 会と個人のあいだで部分と全体の問題がいつまでも尾を引いている。還元主義バラダイムが社会 を個人に還元し,社会を個人の表象や個人の行為の集積として扱おうとする一派がある。また,

全体主義パラダイムによって, 「見えざる手」や「集団心」のように社会を個人として扱おうと する一派もある。構造主義パラダイムにのっとって個人のネットワークやシステムとして社会を 扱おうとする一派もある。しかし,もし,社会も個人と同様,生命の本質を持ち合わせているの だとすれば,どのアプローチであったとしても構わないのではないだろうか。それよりも,個人 や社会の生命の本質を理解し,追求すべき対象を見失わないようにしなければならない。

人文社会科学系の研究者の多くは,自然科学系の研究者から見れば可笑しくなるほど自分の学 問に劣等感をもっていると思う。筆者も例外ではない。しかし,その理由の大半が謂れのないも のである。数学や物理学を頂点とし,最下層に社会学や民俗学を置くようなやり口には何の根拠 もない。根拠がないどころか底意地の悪い偏見としか言いようがない。しかし,筆者は美しい数 式で表された自然現象に憧れるし,微積分のしなやかな哲学や,何よりも対象を対象として客観 的に測定できるという立場に言いようのない羨ましさを感じる。筆者が「生命論」を書く端緒と なったのも,こうした自然科学への羨望からである。

ところが,我が意に反して,古典的ニュートン物理学の限界がアインシュタインによって明確 になり,量子論がでるに至って,何のことはない物理学もやっと人文社会科学が悩み続けてきた こと, すなわち, 実体と実在の乖離や主観と客観の相克に思い当るようになってきたようなの だ。自然科学系の人達は複雑で不均ーな対象を単に避けてきただけなのではないか。でなけれ ば,予測不可能というー語で片付けてきたか,データ不足という怠慢に帰属してきたのではない だろうか。

ところが,筆者の見るところ,このような中傷をこそ人文社会科学者にふさわしいのであっ て,全く自然科学者に非はない。保守的で頑迷な人文社会科学者は,保守的であるがゆえに古典

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物理学に称賛と敬服を誓い,予測不能をデータ不足に帰属し,何時の日か現われるであろうガリ レイのために,せっせとデークを蓄積してきたのである。だからといって,彼らは決してコペル ニクスの出現を待ち望んではいない。しかし,いつの日か人文社会科学は自然科学と同列ではあ るが異なる実在や客銀を確立しなければならないのである。

生物という実体を持たないこれらの 2 つの流れは,実体がないからこそ生命の実在に直線的に アプローチできる分野である。ニューラルネットワークや人間関係に共通する概念的土台は「相 互作用」であり,「相互依存」である。「作用」「影響」「依存」「反応」など, これらの分野に特 徴的ともいえる概念を再度熟考してみる必要があるのではないだろうか。

1 ‑ 5   一般生命システムの位置づけ

ここでは,生命に関するさまざまな研究を通覧して,それらの研究の共通点や目標の異同を明 らかにしたい。ここで明らかにしようとする一般生命システムは全ての分野にわたる思考の枠組 みを与えようとするものだからである。

生命は,

1)生命とは個人にとって何であると考えられるのか 2) 生命の物理的実体とはどのようなものなのか 3)生命はどのように発展してきたのか

4)生命を作ることはできないのか

5)生命のダイナミズムはどのように現われるのか として研究されてきた(図 1‑1参照)。

( 1 ) は主に生命銀についての研究で,宗教,文学,歴史学,最近では医学がこれに加わってい る。これらは死生観を基軸に,生命の人間生活との関わりが主題となっている。方法論としては 解釈学的であって,その時代の一般的理解を基礎にしている。つまり,西欧には西欧の生命観が あり,東洋には東洋の生命観がある。これらの分野は科学的というよりは個人が日常生活を送る 指針を与えるものといえよう。生命システム論は直接的にこれらの分野と関わるわけではない が,重大な影響を与えるものであると考えている。

筆者は,生命を関係の関係構造として捉え,個人を社会の映し絵と考えている。それはドルー ズやラカンの考えを今一歩進め,関係間の対称性の自己帰還によるパラドックスを相似性や相同 性との差異に還元したものと考えている。つまり,生命は全てのレベル・階層にわたる無への憧 憬であって,関係情報量の最小化であり,関係エントロピーとでも言える量の最大化である。誤 解を恐れずに一般化すれば,「生命はみんなが同じ関係になろうとする力」なのである。

( 2 ) は生物学,なかでも分子生物学や生理学,生態学である。これらの分野は生命の実体である 生物の物理的側面を明らかにしてきた。特に高分子化学に支えられた分子生物学は生体の構造分

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~

図 1‑1 生命を囲む分野

析によって,分子間親和力や相互依存性の解明に大きな功績を残している。ワトソン以来の DN A →  RNA →蛋白質という一方的なセントラルドグマは, クックが大胆に予想するように, 遠か

らず払拭され,それらの相互依存関係が明らかにされることであろう。

大脳生理学はニューラルネットのコネクショニスティックな振るまいや,進化と絡んだ機能の 偏在性を追求してきた。そこで次第に明らかになってきたことは,大脳の全体性と部分性の微妙 なバランスである。マクリーン (MacLean,1 9 9 0 ) の進化論的な大脳発達史は自己意識の多様性 へと視野を広げたし,コラム構造の発見は大脳の機能的構造的階層への確信となった。スペーリ

‑ ( S p e r r y ,  1 9 5 1 ) 以後の大局的な大脳の機能分析は,一方では神経伝達物質などの分子論的振 舞いへと還元され,他方ではマー ( M a r r ,1 9 8 2 ) の計算論的な機能分析へと進んでいる。

生命システムが多重階層をなして広がっており,部分性と全体性が,あるところでは代替可能 であり,あるところでは不可能であることが分かってきた。これを積極的に評価すれば,生命シ ステムの挙動の根底に全体性と部分性を成立させる不可避的な流れがあることになろう。

生命システムは生命システムを入れ子にしている。各々の生命システムは自らの境界を自らの システムのために設定することで,この部分性と全体性の矛盾に答えている。ある生命システム は境界を限定し,部分性にしがみつくことで,その独自性を維持している。また一方,ある生命 システムは広大無辺な境界をもち,おおらかな全体性に身を置くことで,その不遍性を維持して

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