スポーツの運動学習におけるコツの発生構造について
Eine Betrachtung iiber die genetische Struktur des Kunstgriffs im sportlichen Bewegungslernen
岡 端 隆
Tttashi OKAHANA
(平成 13年10月 9日受 理)
Zusammenfassung
Im sportlichen Bewegungslernen will der Lernende zuerst die Infomationen iiber das
Erlernen neuer Bewegungen wissen. Dabei benutzen wir alltiiglich die eigentiimliche Worter, z.B. ,,Kunstgriff" oder ,,Gespiir" vom Bewegungskdnnen. Es ist allgemein bakannt, da8 das bewuBte Erfassen der eigenen Bewegungen beim Bewegungslernen von gro8er Bedeutung ist.
Aber naturwissenschaftliche Theoretiker des Sports haben nicht bis heute solche Wdrter als Gegenstand der Bewegungsforschungen aufgegriffen, denn sie werden meistenteils sehr subjektiv ausgesagt.
Ubrigens hat MuNEL, K. die sportlichen Bewegungsmorphologie als praktische Theorie,
die ist eine Forschungsgebiet iiber die Genesis, Struktur und Uberlieferung der
Bewegungsgestalten aufgrund der menschlichen BewuBtheit vorgeschlagen. Nach seiner Denkweise hat japanischer Sportwissenschftler KaNnro, A. eine Abhandlung iiber die Struktur des Kunstgriffs bekanntgemacht. Er hat nur kurz auf seiner Betrachtung das
Gespiir, das bedeutet ein Urteilsverm6gen iiber die Situation und eine Antizipation der Bewegung erw6hnt.
Der Zweck dieser Betrachtung besteht darin, daB der Zusammenhang zwischen dem
Kunstgriff und dem Gespiir vom bewegungsmorphologischen Standpunkt aus ins klare gebracht werden soll, und daher wi.irde eine lehrmethodische Grundlage vom sportlichen Bewegungslernen angegeben. In Japan hat Kunooa, R. das Gesptir bis ins kleinste Detail vom Aspekt der orientalischen Psychologie aus erlhutert. Nach seiner Betrachtung verbindet das Kunstgriff sich untrennbar mit dem Gespiir beim menschlichen Verhalten. Davon wiirde
es angedeutet, dafl das Kunstgriff der Bewegung durch das Gespiir des Sportlers zustandegekommen wird.
Zum schlufl sei hervorgehoben, dafl wir uns gleich jetzt an die Forschung iiber das Gespiir
des Bewegungsk6nnens machen sollten.
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1。
は じめに
スポーツの運動学習において、学習者 は、できない動 きができるようになるための情報、あるいは で きる動 きがさらに上手 にで きるようになるための情報を欲 しが っている。ただ し情報 といって も、
それを捉える研究方法上の視点によって様々なタイプが考え られるため、 ここではそのすべてを考察 の対象にするわけにはいかない。たとえば、生理学的な情報 もあれば、社会学的な情報 もある。 さら にいえば、スポーッ科学 におけるそれぞれの研究分野 ごとに、動 きができるための情報が区分 される であろう。そこで本研究では、現象学的―モルフォロギー的な視点か ら動 きができるようになるため の意識現象 に焦点を絞 り、考察を進めていきたい。
さて、 「動 きがで きる」 というとき、われわれ 日本人 は「 コツ」や「 カ ン」 という言葉を日常的に よく使 う。たとえば、上手にできるようになった人が「 コツをつかんだ」 とか、動 きの達人が「 そん なものはカンでやるんだ」などという。 しか し日常語ではあって も、それは往々に して、 とて もあい まいな、あるいは理解不可能な内容で説明されたり、表現 されたりすることが多いため、スポーッ科 学、 とりわけ自然科学的な研究対象 としては、 これまであまり取 り上げられなか った。
動 きのなかで何を感 じたのか とい う意識の有 り様、すなわち感 じの世界 は、人によって千差万別
(す
なわち主観的
)なため、仮 に
Aという人 とBと いう人の力の入れ具合が客観的な測定 によって同 じだとして も、それをその人の言葉で表現するとなれば、必ず しも同 じになるとは限 らない。たとえ ば、
Aという人 は「 ギュッと力を入れた」 という一方、 Bと いう人は「 ムッと力を入れた」 というか もしれない。その場合、客観的な測定では同 じなのだか ら「 ギュッ」 と「 ムッ」 は同 じなのかという ことが問われなければな らないが、そもそもそのように感 じたことを言葉で精確に表現すること自体 に無理なところがある。 なぜな ら、暗黙知 (tacit knOwing)理 論で有名なマイケル・ ポランニーも 述べているように、 「言葉を用いたとして も、我々には語 ることのできないなにものかがあとにとり のこされて しまう。それが相手に受 けとられるか否かは、言葉によっては伝えることができずにのこ されて しまうものを、相手が発見するか否かにかか っている」
1)からである。
また、その逆 もあり得て、言 っていることが同 じで も、その内容を客観的に判断 してみれば、ぜん ぜん違 うことを指 している場合 も考え られる。 たとえば、何かにぶつか った拍子 に、我慢づよい人が
「痛 い」 ということと、 ち ょっとしたことです ぐ弱音を吐 く人が「痛 い」 という場合では、同 じ「痛 い」 という言語表現で も、その内実は明 らかに違 うであろう。そのようなことも起因 してか、最近で は、バイオメカニクス、 スポーッ心理学、 コーチ学、運動学、方法学などを専門 とする研究者の集団 が、 ジュニア期の効果的指導法に関連 して、 コツの調査に乗 り出 してはいるが
(2000年 4月か ら
3年計画で実施
)、そ こで収集 され、言語化 されたデータとしてのコッをどう分析 0解 明 してい くかにつ いては、 まだ議論の途中にある
2ゝその一方、 クル ト・ マイネルに端を発す るスポーツ運動学 (Bewegungslehre des Sports)で は、
運動者の意識の側か ら見た動 きの発生や構造にスポットを当てて研究を進めてお り、 とりわけコツの 研 究 に関 して は、 その第一 人者 で あ る金子 明友 が 「 コツの構 造」
(Zur kinasthesiologischenBetrachtung iber die Struktur des Kunstgriffs)3)を 発表 して以来、多 くの研究者が関心を もっ て取 り組んでいる最中である。 ところが、カンの研究に関 しては、その金子論文のなかで重要性が指 摘 されつつ も
4\まだ十分 に検討 されているとはいいがたい。
そこで本研究では、 これまで発表 されたコツとカンに関する文献を手がか りとして、 スポーツにお
ける動 きのコツの発生 にカンがどのように関わ ってい くのか、それ とも両者 はまった く異なった関係
にあるのかを明 らかに していきたい。
2。
動 きのコツを語る地平
そ もそも動 きのコッが注 目されるようになったのは、運動技術 (Bewegungstechnik)と の関連 に おいてである。 スポーツ運動学 において、運動技術 は、客観的 というよりも間主観的であるという考 え方がなされるが、その理由は、スポーツの学習現場 において、できるだけ多 くの
(理想的には無限 の
)主観的な動 きのコツを収集 し、そのなかに共通性、あるいは同一性を見出す ことによって運動技 術を定立 させようとするところにある。 いうなれば、間主観的な動 きのコツが運動技術 になるわけで ある。
(1)体
験時― 空間に基づいた動 きの世界
一般的な認識では、「科学技術」 ともいわれるように、「技術」 は自然科学的な意味合いで理解 され る場合が少な くない。 「 したが って技術 は、 たんなる経験 によって身につ けたものではな く、工学的 な知識の体系、すなわち『技術学』 (techn010gy)の 提供する客観的規則の適用であるということが で きょぅ」
5)。このような考えの もとに研究が進め られているのが、 スポーツバイオメカニクス的運 動技術である。そこでは、人間の行為の意味や価値が捨象 され、あ くまで も物体 としての人体の合理 的
(自然科学的に見て合法則的
)な動 きに、注意の目が向けられる。その際、動 きに要 した時間や空 間は、あ くまで も客観的、等質的でなければな らないのはいうまで もない。たとえば、 1秒 や
1メー トルとして計測 された動 きは、誰が見て も、否、人の価値判断を加えることな く明 らかに同 じでなけ ればな らない。
ところが一方で、人間が直接体験す る動 きの時― 空間は、必ず しも等質的ではな く、む しろ周 りの 情況やその人の動 きの能力に応 じて異質的であるといわざるを得ない。 ボールゲームで、
2人の敵 に 挟 まれたあいだを、 ある人が ドリブル しなが ら突破す るときの体験時‐ 空間は、物理的な物差 しだけ では決 して計 り切れない意味的・ 価値的構造になっている。つまり、競技 エ リア内のどの場所で、 ど んなときに、そ して敵の実力はどれほどか、自分の味方はどう動いて くれるのかなどという条件によっ て、競技者固有の体験時間や体験空間は意味づけられ、価値づけられるのである。
この点に関 し、 フランスの現象学者 メルロ
0ポンティは、サ ッカー
(フットボール
)のグラウンド
が、競技者 にとって単なる空間ではないことを、以下のように説明 している。「 フッ トボールのグラ ウン ドは、走 りまわ っている競技者 にとっては、 『 対象』ではない。つまり無限に多様 なパースペク ティヴをひきお こしなが ら、パースペクティヴが変わ って も等価のままでいられるような理念的目標 ではない。 そのグラウン ドはさまざまの力線
(『タッチライ ン』や『 ペナルティ 。エァリア』を限 る 線
)によって辿 られ、 また或 る種の行為を促す諸区劃
(たとえば敵同志の間の『 間隙』
)に分節 され て、競技者の知 らぬ間に、彼の行為を発動 し、支えるのである。 グラウンドは彼 に与え られているの ではな く、彼の実践的志向の内在的目標 として現前 しているのである」
6にぃぅまで もな く、サ ッカー の試合を経験 したことのある人 は、 タッチライ ン近辺やペナルティ・ エ リア内での攻防が、時 として 激 しいものになることを知 っているであろう。そのときの競技者 にとって、 この瞬間・ この場所、す なわち
<いま・ ここ
>で、 自分 は何をすべ きなのか、何がで きるのか ということは決定的である。
(2)主
観的な動 きのコツと問主観的な動 きのコツ
上述のとお り、動 きの世界 は人間の意識の側か ら意味づけられ、 そ して価値づけられた体験時― 空
間に基づいて生起 している。たとえ同 じような動 きに見えて も、一人ひとり異なった ものとして現れ
て くるのである。 しか も、付 け加えていうな らば、同 じ人間の動 きであって も、それはその都度の情
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況や本人の能力 に応 じて、厳密的に毎回意味や価値が異なる。それゆえ、他人 との比較だけでな く、
同一人物においてさえ も、動 きは一回 ごとに違 うものとして生起するといわなければな らない。たと えば、私が先 ほど行 った「逆上が り」 と、今行 っている「逆上が り」 は等価ではない。仮に、物理的 には同 じ値 として「逆上が り」の動 き方が計測 されようとも、その内実は現象学的に見て厳密に区別 される。駄 目押 し的にいうな らば、今行 っている「逆上が り」では、先に行 った「逆上が り」の意識 体験を捨象することができないので、両者 においてまったく同 じ意識体験が展開されるとは考え られ ないのであ る。 いみ じくもマイネル は、 この ことを運動 の「 個別性 の原理」 (Das Prinzip der
lndividualitat)7)と
呼んでいるが、 まさに動 きのコツも、 このような一回 ごとの動 きの現象のなかで 個別的に生まれて くる。
しか しなが ら一方で、われわれは先 ほど行 った「逆上が り」 と今行 っている「逆上が り」 との間に 共通の、 あるいは類似 した動 きの構造を見出す こともで きる。「物理時空系でいえば、全 く同 じさか 上が りは存在 しないにも関わ らず、同 じと思 うことは、本人の感覚が鈍 く、当てにならないというの であろうか。 もし、同 じさか上が りと認識できなければ、我々は永遠にさか上が りどころか動 きのか たちを覚えることさえできな くなって しまう」
8)と、金子一秀がいうのは傾聴 に値 しよう。 ここには、
厳密に毎回異 なるはずの動 きの主観的体験が、同一のあるいは共通の体験 として収飲 してい く可能性 が示唆されている。
一般 に、学習者が指導者 に対 して、「逆上が りのコツを教えて ください」 という場合、そこでは、
「一回 ごとに異なる逆上が り」のコツというよりも、 「何度で もできる逆上が り」のコツとは何か とい うことが意味 されている場合が少な くない。つまり、個々の「逆上が り」が一まとまりになって、そ の学習者 にとっての「逆上が リー般」 というものが、学習の関心事になっている。 ここに、間主観的 な動 きのコッの発生契機を認めることができよう。「 こうや ったら、何度で も逆上が りができる」 と いうコツが、毎回の運動遂行のなかでたえず確認 されると、そのコツは間主観的な性格をよりいっそ う強めてい く。 さらに、そのコツが、他人 との関わ りのなかで も共通性あるいは同一性をもつように なれば、やがてそれは「われわれのコツ」 として間主観的な運動技術成立への道を歩むことになるで あろう。
6)コ
ツの研究 とカ ンの研究
ところが、間主観的な運動技術 は一度成立 した らそれで終わ りというわけではな く、再び現場にお ける学習者に伝え られて、言い換えれば主観的な学習者個人のコツヘ と還元 されることによって、は じめて実践的な価値が認め られる。つまり、「 コツの技術化」 と「技術のコツ化」 はセ ットで理解 さ れなければな らず、運動技術の研究だけではどうして も不十分 になって しまう。筆者 は、「技術のコ ツ化」を「運動技術の再発見」
9)と呼んでいるが、 その再発見が続 く限 りにおいて、当該の運動技術 はより確実な ものとして現場に役立て られるといえよう。
そこで、運動学の分野では、以前 にも増 してコツの研究に拍車がかか っているのだが、一方、カン の研究は、前述のとおり金子が若干触れているだけで、まだほとんど手付かずの状態になっている。
幸いなことに、わが国には、心理学の分野で黒田亮が「勘」の研究を詳 しく取 り扱 っており、金子
も黒田の文献を援用 しつつ、 コッは「動 き方の要領に関わる運動知」 として、一方、カンは「情況判
断における先取 り能力」 として捉え られている。 しか しなが ら、 「 ボールゲームで神業のようなボー
ルさばきのできる者が情況を読めずにかんを働かせることができなかったら、その運動知 としてのこ
つは意味をなさないことになる」 と述べて、黒田と同様、両者をはっきり区別できない点にも言及 し
ている
1°。
ここにおいて、 「 動 きができる」 というとき、そこではコツとカ ンが緊密 に構造化 されているので はないか ということが示唆 されるが、その点 について、黒田の文献を手がか りにもう少 し踏み込んで 考察 してみたい。
3。
コツの成立を支えるカン
あ りふれた事物を主観的に観察するとき、それは、観察者の見方によってその都度違 った姿 0か た ちとして現れて くるにもかかわ らず、観察者 はその事物を同一の対象 として把握することがで きる。
たとえば黒田は、使い馴れたペ ン軸を例 にとって、次のように説明 している。 「無造作 に手 に取 って、
ペ ン先を走 らせているときは、ペン軸 も指の運動 も、すべて私の手足 となって、忠実に私の思 うこと を書いて くれる結果になる。私の手足のように動 いて くれるペ ンは、各部分を しつ こく調べ上 げられ るときのペ ンと、物理的には同一であろうが、 しか しその心理的性質において、 まった く違 った存在 である。ペ ン軸 にはいつのまにか、ひとつの中心ができている。 この中心 は、物理的にどことさす こ とは困難ではあるが、 とにか く一本のペ ン軸を代表す るにたるひとつの中心が、考え られる。強いて おおよその見当をいえば、 まず三本の指 によって書記の場合に支え られる部分に、 この中心が局在 し ているかの感 じがする。そ して、 この中心 は、 この使 い馴れたペ ン軸 に関する限 り、現 にこれを指で 支えなが ら、文字を書 くときのみな らず、イ ンキ壺に挿入 されている場合において も、感知 される。
これを私 はペ ン軸の那一点 と名づける」
D。「 この那一点 はすべての対象に最初か ら備わ っているもの ではない。主観の生命圏内に持ちきた らされ、主観 と有機的な交渉を持つにおよんで、対象に那一点 が芽ばえ、 この交渉が親密を加えるに したが って、漸次固有 な構造を持つにいたるのである」 ②。引 用が長 くなったが、 ここでいわれている那一点
(ナイ ッテン
)とは、当該対象の物理的な構成要素 に 求め られるのではな く、あ くまで も対象 と緊密な関係を保 っている人の意識のなかに現れて くるとい
うことが重要である。
この ことをわれわれの動 きの世界で考えてみると、 たとえば「走 る」 という動 きは、
(個別性の原 理 に支配 される限 りにおいて
)現実には一回 ごとに違 う動 きのかたちとして現われて くるはずなのに、
われわれはそこに「走 る」 の那一点を見出す ことによって、 「走 る」 というものを捉えることができ る。 しか も、足だけでな く、手で も走 る
(倒立で走 るなど
)といえるか ら不思議である。 ところがた とえ足で走 るに して も、両足が空中に浮 いている時間を長 くすればす るほど、 それはいつのまにか
「走 る」ではな く、 「跳ぶ」 という動 きに変化 して しまう。両足が空中に浮いている物理的な時間を測 定、比較 して も、 「走 る」 と「跳ぶ」の違いは明確 にな らないであろう。む しろわれわれ自身が、 「走 る」や「跳ぶ」 に関連 したさまざまな動 きを覚えてい く過程 において、「走 る」の那一点構造 と「跳 ぶ」の那一点構造がより分明になってい くのではないだろうか。
一方、同 じ「走 る」で も、球技で走 る場合 と陸上競技で走 る場合 とでは、明 らかにその運動構造 は 違 う。あるいはスポーツ種 目が同 じで も、一般の人が走 る動 きとオ リンピック選手が走 る動 きとでは、
その構造 に違いを見出す ことは容易であろう。 というより、一般の人に してみれば、オ リンピック選 手が捉えている高度な「走 る」の那一点 は理解で きないといったほうがよい。 したが って、 「走 る」
の那一点 も、当該の運動者がより多 くの、 しか も多彩な走 り方を身 に付 けてい くなかで、その構造が
より複雑化、 ない し高度化 されてい くことが考え られる。換言す ると、 「走 る」 という運動経験が豊
富な人 においては、その動 きは決 して単一のものではな く、その人の実践的ニーズに合わせて数多 く
類型化 されているのである。 ここにおいて、黒田のいう那一点 は、われわれの動 きの世界に照 らし合
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わせてみると、動 きのコツときわめて類似 した意味で読み取れる。 というの も、 コツの研究に詳 しい 金子一秀によれば、 「実存の運動世界 における動 きの類型化の基準」 としての身体知が コツとして考 え られているか らである
1め。
ところで、黒田によれば、対象を那一点 において把握する働 きそれ自身を、直指
(ジキシ
)と呼ん でいる。 さらに、「直指が覚の働 きである」Dと いうことか ら、 この言葉にこそカンの意味が含まれる と考えてよいであろう。 とい うの も、黒田は、「勘」 と「覚」を同義 と見な しているか らである
D。したが って、黒田の考えを元に して考えてみれば、那一点は直指によって成立するが ごとく、動 きの コツも運動者のカンによって成立するのではないかということが示唆されるのである。
4。
結 語
本研究では、動 きのコッとカンの関連性 について、主に黒田の文献 に依拠 して考察を進めてきた。
そこで明 らかになったのは、 「動 きのコツは運動者のカンによって成立する」 ということである。
しか しなが ら、 これに類似 した考え方がないわけではない。たとえば黒田は、直指の本質 として規 定性 と積極性を挙 げているが、規定性 とは、対象に対 して「 われわれの態度 にあるきまった方向づけ が用意 されていることであって、たとえば、得体の知れない初めての見馴れないものに、不意にぶつ か ったときのような、慌て方を しないで もすむだけの準備が整 っている」 ことを意味 し、積極性 とは、
「 われわれの主観が主 となって、能動的に外 に向か って働 きかける姿勢を、持 している」 ことを意味 している
10。そこで、 このことをスポーッ運動学の論文で探 してみると、金子一秀のいう「能動的志向」が近い 意味で受 け取 め られる。「動 きかたの発生を能動的に志向する営みは、身体知の力動的類型化を促す ものである」
D。すなわち、 コッの発現 は能動的志向によって成 り立つわけであるが
(直指の積極性
)、さらに、 「
<いま
0ここ
>における能動的志向は、
<予時
>における 3つ の位相を構成する。潜勢運 動 における、運動全体を了解する運動投企、具体的な動 きかたの
<予描
>となる先取 り、 まさに現勢 における動 きそのものを具体化す るプロレープシスとに分けられる。その全ての起点は、現勢におけ る受動世界の身体知の力動的類型化の充実なのである。その充実な しに、空虚のままでは、その運動 全体への志向は単なる机上のプランとなる」0と い うとき、 そこでは能動的志向のはっきりした方向 性が示 されている
(直指の規定性
)。いずれに して も、動 きのカンそのものを取 り上げた研究はまだ始 まったばか りである。今後の課題 としては、倉ヒ動的志向の点 も踏 まえて、 カ ンの構造をより明 らかに してい くことである。それは、 コ ツの研究 とあいまって、動 きの発生・ 構造論に寄与 してい くと思われる。
注および引用文献
1)Polanyi,M.:暗
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,紀伊國屋書店
,1980,17頁2)阿
江通良 ほか :No.Ⅷ ジュニア期の効果的指導法の確立 に関する基礎的研究―第
1報一
,日本 体育協会スポーツ医・ 科学研究報告
,20013)金
子明友
:コツの構造
(上),スポーツモルフォロギー研究
4,1998,1‑16頁コッの構造
(下),スポーツモルフォロギー研究
5,1999,1‑22頁 4)金子明友 :同 書
,1998, 6頁5)岸
野雄三
:スポーッの技術史
,大修館書店
,1972, 7頁6)Merleau̲Ponty,M(滝
浦
,木田訳
):行動の構造
,みすず書房
,1964,250頁7)Meinel,K.:Bewegungs16hre,Volk und Wissen Volkseigener Verlag Berlin, 1962,S.140
(金子明友訳
:スポーツ運動学
,大修館書店
,1981,146頁)現勢運動 と潜勢運動の構成分析論
,スポーツモルフォロギー研究
5,1999,49頁運動技術の指導 と身体知の獲得に関する一考察
,スポーツ運動学研究
6,1993, 7頁前掲書
,1998, 6頁続勘の研究
,講談社
,1981,44頁同書,1981,65…
66頁前掲書
,1999,58頁前掲書
,1981986頁 8)金子一秀
9)岡
端 隆
10)金子明友
11)黒田 亮
12)黒
田 亮
13)金子一秀
14)黒田 亮
「那一点」 に して も
,「直指」に して も
,西洋的な科学の眼か ら見ればきわめて特異な 用語ではあるが
,勘の研究を進めるにあたり
,東洋固有の思想 に着 日した黒田は
,禅的風格を帯 びたこれ らの用語をあえて用いることによって
,自説を展開 した。
15)黒
田亮 :勘 の研究
,講談社
,1980,33頁黒田によれば
,「覚」 とは
,「無意識」 とか「下意識」 に近い概念であるが
,直接 自我 に与え られる精神的事実 において
,それ らとは区別 される意識概念のことである
(同書
,1980,304頁).16)黒
田 亮 :前 掲書
,1981,107頁17)金