Title
ジョージ・ブレスウェイトの死について : ロンドンのクエーカー ライブラリー所蔵の資料紹介
Author(s)
黒木, 章
Citation
キリスト教と諸学 : 論集, Volume21 : 174-195
URL
http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=2824
Rights
聖学院学術情報発信システム : SERVE
SEigakuin Repository for academic archiVE174
ジョージ・ブレスウエイトの死について
ー ー ー ロ ン ド ン
・ ク エ ー カ ー ラ イ ブ ラ リ ー 所 蔵 の 資 料 紹 介 ー ー
里
木
章
はじめに
わたくしは︑二
OO
二年六月にジョージ・ブレスウエイトの資料に出会って以後︑休みを利用してロンドンのク
エーカーライブラリーを訪ねることにしている︒幸い二
OO
五年には短期研究休暇の許可が出たので︑夏休みの約
一ヶ月間を使ってその資料の点検と確認に没頭することができた︒
長くジョージ・ブレスウエイトに関する一次資料を探していた理由や発見時の興奮ぶりについては先に報告した
ので(﹃聖学院論叢﹄第十六巻第一号二
O
O
三年一
一月
)︑
そちらを見ていただきたいが︑わたくしの当初の関心
は︑ジョージ・ブレスウエイトが北村透谷の思想形成あるいは日本における最初の平和運動に深く関わる具体的な
様相を解明することであった︒
一八
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年六月に東京赤坂で召天した彼が残した膨大な手紙類を初めとする資料(クエーカーライブラリーはそれを十三個
しか
し︑
として来日し︑
一九
二二
の大型紙箱に収納して保管している)を読めば読むほど︑彼の活動が日本のキリスト教伝道に如何に重要な意味を
持ったかを思わせられる︒
先ず挙げられるのは︑(あ)日本各地を旅行してキリスト教の関係書類を販売する書庖網を作ること︑(い)主と
してプロテスタントの宣教師や指導者から各地のキリスト教伝道の実情を聞いて宣教師・指導者の相互連携と協力
体制を模索したこと(各地の宣教者名とその住所を小冊子にして毎年配布している︒このことはここで紹介する資
料③にも触れられている)︑(う)聖書を初めキリスト教の伝道のための基本的な書籍類を翻訳・製本して販売する
こと︑(え)クエーカー派の伝道雑誌﹃聖書之友﹄(雑誌作りの中心メンバーの一人が彼の姉メリi
・キ
ャロ
ライ
ン・
ブレスウェイトである︒彼女は︑赤坂病院を創立して貧民救済の医療伝道をしていた眼科医ウィリス・ホイトニ
i
と結婚して一八八六年三月に来日した)の製本・販売をすることなどである︒
ジョージ・ブレスウェイトの死について
あまり知られていない重要な活動として︑(お)在日米公使館の通訳でもあった義兄ウィルス・ホイトニ!と協力
して外国人が日本政府に旅行許可証を申請(外国人宣教師・伝道者には不可欠の手続きである)する際の手伝いをす
ること︑またこれとの関連で(か)大日本帝国憲法や各地の条例を英訳して解説を付け更に全国の主要道路地図ま
でも付けた外国人のための旅行案内書を作成したことなどがある︒これらのことも看過できない文化的な活動とし
て是非挙げておかなければならないだろう︒
ジョージ・ブレスウェイトの活動を具体的に明かす資料については今後主題毎に翻刻・紹介するつもりであるが︑
ここではロンドンのクエーカーライブラリー所蔵の資料
Q H U ‑
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司
宮 ∞
∞ ∞
∞
C)
のうち次の三つの資料即ち便宜的に
﹁死
亡診
断書
﹂
一枚︑②﹃聖書之友﹄に掲載され番号を付して示した①一九二一一年六月一八日に彼が召天した際の
た四つの追悼記事︑③ロンドンでクエーカーが発行していた月刊誌﹁同同司自阿見匂に掲載された記事について翻
刻・紹介したい︒
176 なお︑ここで翻刻・紹介する資料には説明や訂正を要するところもある︒このような場合には本文中に
( *
注 )
( *
注
1 )
などを挿入しているのでお断りする︒
資料①
死亡診断書
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創 出
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ジョージ・ブレスウェイト
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N)If in doubt state principle symptoms and probable cause of death
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9 Time and Date of Death 4:15 a.m.
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8th June 1931国民七 j 感
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Akasaka,
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11 Usual place of Residence 5 Hikawa cho
,
Akasaka,
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(Dr. Furtwaengler)
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︒
横漬市中匝根岸町仲尾二八九一番地
電話
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一五四六番ジェ
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・ロブソン*注1
ゴシック部分は印刷︑他は手書き︒* 注
2病名の記述はラテン語か︒再現を試みたが紹介者・黒木には判読し難い︒
* 注
3フルトウエングラ
l
の自筆サインは割愛した︒資料②
﹃聖書之友﹄(第五百二十三号一九コ二年七月二十日発行クエーカーライブラリー所蔵
︑﹃
一何
一宮
司冨
∞
ω
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C目︒
凶印
)掲
載の
四つ
の記
事
プレスウェイト氏の永眠(*注
1)
基督教書類曾社の社長であって︑我が聖書之友とは最も関係の深いジョージ・ブレスウェイト氏が去る六月十八
日午前四時十五分享年七十一歳を以て卒然として永眠せられた︒同氏は日本に於ける聖書之友の創立者であるドク
トル・ホイトニ
l
夫人
(*
注
2)
の賓弟であって︑最初英園聖書協曾の事業開拓の使命を帯びて我が日本に派遣されて
来た
人で
︑
日本に於て殆んど初代から聖書の出版と其頒布に努力せられた忘る﹀出来得ない隠れたる思人である︒
後に至って基督教書類曾社の社長として︑基督教文献の為め其書類の出版事業に墨されたる事は賓に三十有余年で︑
前後四十六年間一日の如く倦まず繰まず忠賓にか﹀る隠れたる奉仕に一身をゆだねて居られた人である︒同氏の永
眠の悲報を大連に於て受理した記者は同氏を追憶すると同時に︑同氏の日常を熟知して居る者として︑すぐ心に浮
かんだ聖言は﹃確くして揺くことなく︑常に励みて主の事を務めよ︑汝等その努の︑玉にありて空しからぬを知れば
なり﹄といふコリント前十五章の最後の聖句であった︒賓にブレスウエイト氏の生涯は︑此聖言に的確に当て最ま
るのであって︑恐らく同氏程仕事に熱心な忠賓な人を記者は未だ曾て知らないのである︒
ジョージ・プレスウエイトの死について
今日こそ我が基督教界に於て文書侍道が旺盛を極めて居るが︑これが進展を計ったのは賓にブレスウェイト氏で
あって我が園に於ける基督教文書侍道に於ける功績は貫に偉大なるものである︒同氏は元来言葉の人ではなく(*注
3)
賓行の人である︒表面の活動よりも隠れたる所に於て熱心なる奉仕を忠賓そのもの﹀権化の如く︑人幾倍の働きを
為したのである︒
同氏は園際的の人であって︑其家庭はいつも内外人の来客を以て満たされて居った︒愛情のこまやかな親切な人
であるのみならず︑聖書は勿論︑語皐及び考古皐の大家であって其コレクションも甚だ多い︒非常に面白い奇想天
外から落ちると謂ったやうな性格が一面にあって︑外人として殊に漢皐の素養が深く︑時折ユ
l モ l
アな事を陳べて人をよく笑はしたものである︒同氏の家庭に由て霊的の感化と其恩顕を受けたる者は無数である︒殊に外園宣教
師等は同氏の家庭を殆んど里親の如く思意して居られたとは其述懐である︒同氏に関して津山述べ度いけれど誌面
の余裕がないので︑最後に音一つ特筆すべき事は︑同氏がクエカI派の堅賓なる信仰を以て居られた事で︑信念に
180
於ては極めて保守的であったが愛情に於ては極めて虞く︑其人格は最後に於て愈々陶治練磨せられ︑純潔なる聖徒
として貫に神々した域にまで達した事である︒
* 注
1
* 注
2 ここには筆者の名前がない︒雑誌の表紙に印刷された﹁目次﹂には山口瀧造とある︒ クエーカー派では一八八三年一月に﹃聖書之友日課表﹄を創刊︑これが八八年一月に﹃聖書之友月報﹄︑九二年九月に﹃聖書之
友雑誌﹄︑更に同年一二月に﹃聖書之友﹄と誌名を変えている︒この筆者はこういう変化には触れていない︒
資料③には
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ミ}弱者
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宮 島 5
同
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己 吉 田 旬 ︒ ゅ の ﹃ と い う 記 述 が あ る ︒ 所 謂 ﹁ ど も り ﹂ の 癖 が あ っ て ︑ 彼 は 話すことが得意ではなかったようである︒多くの詩の創作や膨大な手紙類を書き残した彼の性癖はこのことも関係しているの
ではないかと推測される︒
* 注
3
老聖徒を憶ふ
御
牧
生(*注
4)
我邦在留の英米宣教師聞に先輩として︑英園人間には最古参者として︑大に尊敬せられたばかりでなく︑多くの
邦人基督者に︑多数の畢生青年に︑大に敬愛せられたジョージ・ブレスウエイト氏は︑去る五月下旬頃より急性閥
節炎に躍り大に悩まされ︑赤坂匝氷川町の宅にて療養中の慮︑心臓病を併設し︑去月十八日午前四時十五分︑主に
在て勝利と平安との裡に召を蒙り昇天された︒行年七十一で︑明治十九年に︑二五歳の時︑英園聖書曾社日本支肩
長として横演に来られ︑其後基督教書類曾社長として︑専ら基督教文書惇道に力をつくされた其四十六年間の生涯
は賓に貴いものであった同氏は世の耳目をひくやうな活動家ではなかったが︑隠れた聖き生涯を送くられた神の聖
F
可 守
徒であった︒私は今此老聖徒︑此世を出設された此隠くれた人を憶ひつつあるが︑自分の同氏につき︑知りて居る
慮の事どもを少しばかり記してみたいと思ふ︒
A
初封面の時明治二十八年十二月の下旬推し詰まった時であった︒私が福音の召を蒙りて立ち上りた其翌年で︑一個の青年停
惇道者としての頃であった︒上海香港銀行の切手を振替て貰ふために︑同氏を横漬山手の宅に訪問した其時同氏は
感回目に犯されて臥床して居られたが︑未だ曾て一面識もない一青年を︑賓に其病室に通して︑其慮で親しく面曾し
てくれた︒臥床したま﹀であったが︑満面微笑をた﹀へて迎へられた其時の温容と態度とは=一十七年を経過した今
日でも忘る﹀ことができない︒用件がすんでから︑茶菓を出してもてなしてくれたが其時の菓子がクリスマスプツ
チイングで︑貧乏な一青年洋菓を口にすることは珍しいことであり︑特にクリスマスプツチイングなどは全くはじ
ジョージ・プレスウェイトの死について
めのもので︑其時同氏は其菓子につき懇切に教へて呉れた︒後に英園人の慮で其同じ菓子でもてなしを受る度毎に︑
私は其時のことを必ず思出すことである︒それよりも自分の霊魂に記銘されたのは︑神の聖言である︒其時其病室
の壁に小さい額が懸けであった︒同氏はそれをさし︑あれは私の母から贈られたものであると語り︑其聖言を讃ん
できかせてくれ︑なにたいした説明も解稗も加へなかったが︑祈祷のうちにきかされた聖言は聖霊に由て深く刻記
され
た︒
﹃汝等目を醒し堅く信仰に
立て丈夫のごとく強かれ﹄(寄前二ハO
二 ニ
)
聴かされ︑見せられた︑私の心には︑光り輝く金文字のやうに︑見えた︑鰯れた︑記るされた︒
﹃草は枯れ︑花は落つ︑されど神の御言は永遠に保つ﹄ものである︒聖言は活ける限りなく保つ︑員に生命の言で
ある
︒
182
企ムデ
l
の説教英長詩日私は午餐に招かれて行たが︑ それから余程たった後のことで︑氏はなほ濁身で麹町土手番町の閑静な家に住んで居られた時のことである︒或
そのあとで︑すぐに書斎で︑讃んできかせてくれたのは︑米園の有名な大惇道者ム
デi氏の説教集の中より﹃基督は一切の一切﹄であると白ふのであった︒それを聴て居るうちに驚いたことは︑元
来ムデ!と白ふ人は︑未信者向きの極て車純な平凡な説教をする人であるとのみ思ふていたのである︒それに︑主
キリストは我等のすべてのすべてであると白ふ︑賓に深い高いことを閲されたのであるから︑驚くのは嘗然である
が︑強く感じ︑深く教へられた︒それから績て︑讃んでくれたのは︑蘇園の古い侍道者サムエル・ルウサフオドの
臨終の際の言をとりて長い詩に詠じた﹃インマヌエルの地に止る栄光︑栄光﹄と白ふもので︑句々言々天の音楽を
きくやうな心地がして︑霊魂はとかされてしまった︒すぐに共に脆いて祈祷を献げたが︑聖霊に由て聖臨在は輝い
て︑其室は吾等には至聖所となった︒私は今もなほその時にうけた霊威は心に残りて居るやうな気がする︒
企多数の青年を導いた
前にも白ふたやうに︑氏は我邦の皐生青年を多く愛して主に導いたものである︒最初は汽車や電車の中で︑僅少
な言を交へて接近し︑互に名刺のとりやりをして︑それから小冊子や聖書を送り︑自宅に招待して親しく交りて福
音を語り祈祷りて導く︑そんな教導をうけた青年が私の知って居るだけでも多数である︒その中には大政黛の新進
の政治家もある︑教育家もある︒教役者もある︒去る二十日の三田聖坂友曾集合田所の葬式にも︑それらの方々が列
せられていたので︑私は講壇の上から︑御互に青年時代に導かれた時のことを思ひ出して︑うけた聖言を思ひ出し
て﹃救の喜﹄を新たにしていただき︑﹃初の愛に﹄蹄らうではないかと︑叫んだことであった︒
明・0;
企聖書の原語に精通した人
氏の父なる方は英闘は勿論であるが︑欧州大陸でも屈指のヘブル語の大家であったさうで︑その父をもっ氏もま
た聖書の原語に精通された皐者であった︒時々訪問しては︑奮新約聖書中の大切なる聖言につき︑原語の意味につ
き懇切な丁寧な教へをうけたことが度々であった︒私が聖書講解に於て︑また説教に於て︑原語の意味はさうであ
る︑かうであると説明したり︑講述することのある︑その大部分は︑同氏から教へられたものである︒氏はヘブル
語や︑グリシヤ語に精通したばかりでなく平注
5)
︑濁乙語にも偶語にも通じて居られた︒また今では全く通用せない︑
古い蘇園語にも精通せられて︑古い聖書研究曾の話を︑其古書から英中評されて出版になって居るものもある在
6 )
︒元来同氏は寡言沈黙の人で墜者であるにも係らず︑少しも皐者ぷらなかったことは︑賓に奥ゆかしいことであった︒
企救霊の熱情に燃えた
ジョージ・ブレスウェイトの死について
無口な人であったが︑多くの青年を導いた同氏は︑伝道曾に自ら出席せられて︑祈祷をもて助けられた︒
近い頃の事で其一例をあぐるならば︑昨年の秋︑私の四男の葬式の時のことである︒命日葬者の大多数は殆ど皐生
で︑中皐生の同級生や友人もあり︑小島十時代の同級生や友人もあり︑日曜皐校生徒の友人もあり︑又運動の友人も
ある
︒彼
の時
︑
日曜皐校の一教師が立て略歴を讃み其信仰の生涯に及ぶや︑一同深く感じたのであったが︑其夫人
と共に曾葬された同氏は︑数日後面合同した時に︑さも口惜しいやうに左の言をもらした︒
﹃あの時に私はあの津山の青年たちを見ていたが︑みな深く感じて涙を流さなかった人は︑一人もなかったゃうで
ある︒我は惜しいことをしたと思ふ︑なぜなれば彼の時にすぐに救霊曾を聞いたら︑あの青年たちはみな救はれた
と思ふ︒中田監督は︑ドウしたのでしゃう︑惜しいことをしました︑残念です﹄
かく申された氏の眼中にも心中にも︑葬式︑儀式︑とか白ふものは︑更になくて︑ただ霊魂ばかりであったやうに
思はれた︒氏は沈黙の人であったが︑其時には能力もてる雄塀家のやうであったのは︑たしかに其心に救霊の熱情
184
が燃えていたからである︒
我等にも欲しいものは︑塀舌でない︑言語でない︑その熱情︑霊魂に向ふ熱情である︒聖書の火である︒
企宗教詩人であった
氏の母なる方が詩人であった︒﹃櫨遺の讃歌﹄と題する小冊子は母堂の編集されたものである︒其家庭が信仰のあ
る聖い家庭であったと思はる﹀のである︒氏の令姉ホイトニ!夫人から私は青年時代に英宗教詩につき大に教へら
れたが︑其令弟である同氏からも英宗教詩につき教へられた慮が多くある︒同氏は古い詩歌を小紙片にして印刷し
て配
付さ
れた
が︑
氏の
創作
もあ
る(
*注
7)
︒後にいつか遺稿が出版さる﹀であらう︒
﹃ル
ウサ
Iの園よりの詩歌﹄と題する︑濁乙の中世紀時代の宗教詩歌をあつめた極て古い貴重な書を恵んでくれたが
今や私にとりては大切な記念のものである︒﹃汝自身と我﹄といふ表題の︑濁乙の聖者テルスチケンの文書の抜奉し
た小冊子も︑久しい以前に氏より贈物としてうけたものである︒それは私の旅行中常に携帯したものである︒
企﹁神に曾ふ備せよ﹂
恐ろしい此末の日に於て︑賓血を崇め聖霊を崇めて︑輝ける望を抱き︑愛に燃やされ︑堅く信仰に立ちて︑静か
に神と共に︑此異邦の地にありて歩んだ聖徒の生涯の馨香は賓にかぐはしいものである︒人の此世に於る事業なる
ものは︑其人が此世を去ると共になくなってしまうかも知れぬが︑其聖い生涯の感化なるものは永遠に不朽である︒
血で︑聖言で︑聖霊で︑全く造り上げられた︑神の聖徒の人格の感化は︑賓に尊い︒
私は氏が永眠さるる一週間前に︑北海道に向ひ旅行する前日に其病床に見舞ふたが︑急性関節炎のために四肢は
包帯されて苦痛の中にあるも︑なほ微笑をもらして挨拶された其元気ある顔を見失ふことができない︒
車
F切迫した時に其令息から費四三
O
一の聖言を聞かされた其際に﹃大丈夫﹄だと元気よく答へられた︒もはや昏睡状態に陥ゐり意識も不明瞭になりつ﹀ある其最後の瞬間に︑眠よりさめたるやうに︑両眼をば︒はちり
と聞いて︑天を仰いで︑輝ける顔を以て﹃オi主よ﹄と叫んだのが︑最後であったさうである︒
其時に此老聖徒の上に天は聞かれ︑神の栄光の右に立ちたまふ主イエスを拝せられたのである︒
﹃エホバを仰ぎのぞみて光をかうぶれり﹄
﹃光にある聖徒として︑其愛子の園に還されたり﹄
其夫人の詮するよ庖によれば︑此数年は︑主の御再臨を待望む心はあっくせられたとのことである︒最近の日誌に
も︑主再臨の近くあることを深く感じて主を切に待望むことが記されてある︒
私共も此老皐徒の生涯を憶ひ︑賓血を崇め︑聖言を崇め︑聖霊を崇め︑︑玉を迎へ奉る備をしたい︒
ジョージ・プレスウェイトの死について
救霊の熱情にもやされて︑一人でも多く︑霊魂を主に導きたい︒
昭和六年六月二十日の日暮時︑青山墓地に︑そのなきがらを埋むる其時︑我等は
﹃それ主は︑競令と御使の長の撃と神のラッパと共に︑みづから天より降りたまはん︑その時キリストにある
死人まづ匙り︑後に生きて存れる我らは彼らと共に雲のうちに取り去られ空中にて主を迎へ︑かくていつまで
も主と借に居るべし︑されば此等の言をもて互に相慰めよ﹄
(撤
前四
O
一六
│一
八)
との聖言にて今一度更に望を新にされた︒
さきだちし友のかたみの旅衣
まとひて同じみちもやたどらん
186
* 注
4
* 注
5
雑誌の表紙に印刷された﹁目次﹂では御牧硯太郎となっている︒彼の蔵書の中にギリシャ語・一六一一年の英訳・一八八一年の英訳の三つを見開き二ページに並べて読むことのできる
﹃聖
書﹄
一冊
(図
︒}
己に
収納
)が
ある
︒
プレスウエイト述︑﹃古き昔説話﹄(明治二四年三月倫敦聖教書類会社刊全一四ページ)という小冊子がある(回
O M G
に収納)︒この小冊子は彼が英訳したものを更に和訳したものと思われる︒なお︑﹁昔説話﹂には﹁むかしぱなし﹂というル
ビがついている︒
注
3
で述べたように︑彼は長期間にわたって多くの詩を書いている︒印刷・製本された詩集はないが︑冊が残っている(回
C
凶∞
に収
納)
︒
ノート状の詩集三
* 注
6
* 注
7
ジョージ・ブレスウェイト氏の略暦
ジョージ・ブレスウエイト氏は一八六一年三月五日英園ロンドンに於てジョセフ・ビ
l
ヴァ
ン︑
マルサ・ブレス
エ
l
ト氏の第七子(第二男)として誕生いたしました︒ブレスウエイト家は第十七世紀即ちクエーカーと呼ばれた基督友曾誕生以来この教園に属してゐた奮家であり︑而してジョージ・ブレスウェイト氏の育てられた家庭はイエ
ス・キリストに封する愛と奉仕に満ちた宗教的家柄でありました︒
ジョージ・ブレスウエイト氏は齢十二歳の時信仰の生活に入り︑教育を終って後︑ウエストモ
l
ランドのケンダルで
伯父
︑
チャールズ・ロイド・ブレスウェイト氏の業に従って居りました︒併し︑やがて主の召を感じ博道の使
命を帯び其奉仕に身を献︑ぐる決心を致しまして︑一八一六年平注
8)
五月二十九日齢二十五歳を以の英園聖書協曾代表
可'!"'~
として横皆︑に上陸したのであります︒而して彼は爾来聖書出版の委員として三十五年︑委員長として二十年の長い
歳月の間蓋粋せられ︑殊に日本在住の初期は聖書協舎の任務を帯びて殆ど日本全園を隅なく旅行し︑別けて明治の
初代に於て交通の不便の折柄︑或は数週間或は数ヶ月に渉る長期の旅行の努苦は容易ならぬものでありました︒け
れど福音の諮詞の為め︑聖書の普及の為に斯かる困難を厭はず献身的に努力をされました︒
聖書協舎の責任をまぬかれた後︑
一九
O
一年︑基督教書類曾社の責任を担ひ︑爾来三十年間文書停道に従事し︑死に至るまで忠賓に其職責を蓋しました︒
一九
O
一年二月︑彼はレテイシヤ・イi・レツシュと結婚し家庭生活を営みました︒其嗣子ジョージ・パl ナ
ム・ブレスウエイト氏及其妻は現今︑アメリカ友曾惇道命日に所属して惇道に従事致して居ります︒
幼少の頃からジョージ・ブレスウエイト氏は決して頑丈な方ではありませんでした︒日本に出立前︑生命保険に
ジョージ・プレスウェイトの死について
加入せんとして加入し得なかった程でありましたが︑晩年に及んで非常に強壮になり今年三月彼の第七十回誕生祝
賀に集った友人達は︑あれ程元気な彼を見た事は曾つてなかったと申した程であります︒五月の末頃彼は健康を損
じ︑六月一日彼が曾って四度苦しんだリウマチスであるといふ診断を受けました︒多少の心配はありましたが六月
さしたる事とも思はれませんでしたな繍じ︑突然同日正午の頃より重態に陥りました︒以来常十五日に至るまで︑
に危険状態を維持し︑最後に古って十二時間も引績いた意識不明の後︑初めて目を聞き︑明瞭に﹃主よ﹄との一言
を残して六月十八日午前四時十五分︑傍にゐる者も殆んど気附ぬ程静かに安らかに眠りについたのであります︒
彼の地上に於る最後の言葉が︑初め故国に於て︑亦爾来四十五年の長き歳月に於て︑彼が愛し選び採った日本の
園に於て︑仕へまつらんと願ひ求めたもの﹀聖名であったことは相臆しい事だと思はれます︒
(右は六月廿日聖坂のフレンド教曾に於ける葬儀の式場に於て︑同派年命日議長平川正幸町氏の朗読せるものなり)
* 注
8
一八
八六
年の
誤り
188
主主=
長長
幸R
ジョージ・ブレスウェイト氏の葬儀基督教書類曾社の社長であり︑日本の聖書之友に採つては忘る﹀事の出来な
い恩入であるジョージ・ブレスウェイト氏は去る六月十八日午前四時十五分天父の召を受けて安らかに永眠せられ
た︒行年七十一歳︒哀悼の念に堪へない︒葬儀は同月二十日午後二時芝匝三田功運町聖坂︑基督友曾に於て執行せ
られ
た(
*注
9)
︒内外の曾葬者無慮敷百名︒盛大なる葬儀であった︒かくて即日青山墓地のドクトル・ホイトニ!の
母堂アンナ・エル・ホイトニ
l
の墓の側らに埋葬せられた︒同氏の逝去は我園の基督教文書停道に採りては賓に一大損失であり︑亦一大打撃である︒併し神は此事業の後縫者として令息パ
l
ナム・ブレスウエイト氏を起し︑隅谷己三郎氏︑戸田建治氏等の補導に依って︑曾社の事業が経営せられ︑支障なからしめ給ふに至った事は感謝の至り
であ
る︒
(写真はジョージ・ブレスウエイト氏)
*注 9
こ の 葬 儀 の 総 理 は 隅 谷 巳 三 郎 が 務 め た
︒ ま た こ の と き に 配 布 さ れ た 印 刷 物
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レスウエイトの人柄をよく現すものになっている(図︒凶∞に収納)︒
* 注 目
写真
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THE FRIEND (1-h 1111 叶 4ユロ 111 巴釈ヒ.t::\ H~ -R ~l Ì\ャト lÌ\='一匹睡
TEMP MSS 980 BOX5)思維Q同~事
ド On the 18th of June news was received by cable from Japan of the home‑going of George Braithwaite
,
after about twoweeks' illness with rheumatic fever. He had recently celebrated his 70th birthday, and had spent forty‑five years in
Christian work in Japan.
George Braithwaite was the second son of J. Bevan and Martha Braithwaite. As a little boy he was troubled with an
impediment in his speech
,
and his development was slow,
but he early responded to religious influences. The doggedobstinacy which characterised him as a child became in after years the indomitable perseverance whereby he overcame
the many obsta
c1
es that met him in his work in Japan.The call to work abroad seems to have come quite early in his business life, and during his journey as a commercial
traveller for 1. Braithwaite and Sons
,
Kendal,
he was diligently trying to acquire the rudiments of Chinese: that being thecountry to which he was first attracted. Several years passed and he was becoming increasingly valuable to his
employers
,
but the steady purpose remained; and when in the spring of 1886 the way opened in the direction of Japan,
hegladly responded. He went out in April of that year as sub‑agent of the British and Foreign and Scotch Bible Societies.
The initial di
旺
icultiesof the language did not prevent George仕
omstarting work almost at once in the distribution ofChristian literature
,
and in other ways. During the thirteen years of his connection with the Bible Society,
he travlledextensively in the interior
,
going into places where no European had preceded him. The experience of native life thusJnu‑uhQ
Hbd ムヤ
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hlmh rhい・
acquired was invaluable in after years
,
though the hardships incurred and the仕equentchanges from foreign to nativefood
,
tried his health. Returning from his first furlough in .1894,
he encountered a series of difficu1t
ies which for the timechecked the work. Floods and drought crippled the resources of the farmers: and in August the Society's Depot in Tokyo
was destroyed by fire
,
with all their books and types. For several months they were unable to obtain another suitableplace
,
so that the sales for the year were much lower. The following year,
however,
1895,
showed a marvellous increase,
reaching the extraordinary number of a quarter of a million. The war with China had brought fresh opportunities
,
and atiny edition of the Gospel of J ohn was specially printed for distribution among the soldiers. A few years later similar work
was done during the Russo‑Japanese War.
George Braithwaite's own Christian experience was a joyful one. His faith in God's forgiving love as revealed in Jesus
Christ was simpleand steadfast
,
and he was eager to use every opportunity of making known his glad message to theJapanese. Soon after getting to Japan he had had the lit
t1
e tract,
"John 3.16,"
and also his favourite "Old Old Story,"
translated
,
and many thousands of both these were distributed by him. During his years of service with the Bible Society,
he saw the completion of the Japanese translation of the whole Bible, and had himself helped in correcting the proofs, as
well as in transliterating the New Testament into Roman characters
,
when an edition was needed for use in the publicschools.
A
1t
hough his poor health obliged him to resign his post as agent of the British and Foreign Bible Society in 1899,
hisinterest in providing Christian literature for the Japanese was unabated
,
and he devoted the last twenty‑nine years of hislife to the J apan Book and Tract Societ
y,
whose Secretary he now became.島&
︒同日﹃
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y in 1901 George Braithwaite was married to Letitia E.Lesh,
a young Scotch missionary,
and henceforth they wereone in their devotion to the Lord and His wor
k.
For many years L.E. Braithwaite has been a member of the Field Councilof the ]apan Evangelistic Band. Their only son
,
George Burnham Braithwaite,
and his wife are working in ]apan with thePhiladelphia Friends' Mission.
(後:出
リト J~ 農水 ~~ili~f 剖~f-J仲 ~~t liP叫及型~t"く初与三, tliP佃【 8} ム以 ~8 程罫)
At the Printing Work
,
]uly 5th. 1929. the morning after the fire,
with two principal ]apanese helpers.(on the right): the printer on the left
ドニハいり‑ぽ
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As Secretary of the ]apan Book and Tract Society G. Braithwaite was able to co‑operate with other missionary bodies
,
and became widely known. Each year he prepared and published a list of the names and addresses of all the Protestant
missionaries in ]apan
,
which proved a most valuable bond of union. These twenty‑nine years were full of variedexperiences. The long war with Russia, 1899‑1905, with its work for the soldiers and for the Russian prisoners of war;
the Tokyo Industrial Exhibition in 1907
,
a宜ordingopportunities of distribution to the many thousands who flocked fromthe provinces; and many local instances of famine or earthquake when relief work gave special opportunities for tract
distribution
,
could be mentioned. When we realise what great readers the ]apanese people are and that 90 per cent.
ofthem are literate