ス タ イ ン 1 0 8 7 號 ﹃ 金 剛 般 若 義 記
﹄ の 作 者 に 關 す る 考 察
日本 古写 経研 究所 研究 紀要
創刊 号︵ 平成
年︶ 28 Journal of the Research Institute for
Old Japanese Manuscripts of Buddhist Scriptures Vol. I 2016
定 源
︵ 王
招 國
)
ス タ イ ン 1 0 8 7 號 ﹃ 金 剛 般 若 義 記
﹄ の 作 者 に 關 す る 考 察
定 源 ︵ 王 招 國 )
はじ めに いま
より 百年 前に 中國 の西 陲に おい て敦 煌遺 書が 發見 され たこ とは()
︑中 國 にお ける 中古 社會
・經 濟・ 文化
︑と りわ け佛 教の 研究 領域 にと って 最大 の朗 報と いえ る︒ ただ し︑ 發見 され た敦 煌遺 書は 斷簡 が多 く︑ かつ 著者 不明 の寫 本も 少な くな い︒ 敦煌 學の 研究 は盛 んに なり つつ ある が︑ 今な お數 多く の文 獻が 作者 不明 のま まで あり
︑そ の糸 口す ら見 えな い状 態に ある
︒ ロン ドン の大 英圖 書館 に現 藏さ れて いる スタ イン 10 87 號の 文書 は︑ 兩面 書寫
︑全 十四 紙()
︑表 面に は戒 律文 獻で ある
﹃薩 婆多 毘尼 毘婆 沙﹄ 巻四 の一 部 分が 書寫 され てい る︒ その 裏面 には
﹁金 剛般 若義 記一 巻上
﹂︵ 以下
﹃義 記﹄ と 略 する
︶を 首題 とし て︑ 一行 二十 三字 前後 で書 寫さ れて いる が︑ 現存 して いる のは わず か二 百六 行の みで ある
︒首 題の 下に 後人 の手 によ って 朱筆 で書 かれ た﹁ 大乘 百法 明門
﹂の 六字 が見 られ るほ か︑ 全文 の筆 蹟か ら︑ 複數 の書 き手 によ って 抄寫 され た可 能性 があ り︑ およ そ八 世紀 から 九世 紀ま での 寫本 であ ると 考え られ る︒
﹃義 記﹄ は表 面の 文書 とは 別筆 であ り︑ また 兩者 の内
容か らみ ても
︑相 互に 密接 な關 連は ない よう であ る︒
『義 記﹄ の内 容は
︑す でに
﹃大 正新 脩大 藏經
﹄︵ 以下
﹃大 正藏
﹄と 略 する
︶ 八十 五巻 の古 逸部
︵N o. 27 40 ,p p. 13 7c 12 -141a9
︶に 收録 され てい る()
︒こ の文 獻に 對し て︑ 矢吹 慶輝 博士 は﹃ 鳴沙 餘韻
﹄で 簡略 な解 題を 行っ た上 で︑ その 文末 に﹁ 撰者 に就 きて は更 に攷 ふべ し()
﹂と 言及 され てい る︒
『義 記﹄ に關 する 作者 の問 題に つい て︑ 宇井 伯壽 博士 は﹃ 金剛 般若 經及 び 論の 翻譯 並に 注釋
﹄に おい て﹁ 二七 四〇 は金 剛般 若義 記が 若し 琛法 師の 義記 四巻 の一 部分 であ ると すれ ば甚 だ興 味あ るも ので ある()
﹂と 指摘 され てい る︒ ここ で﹁ 琛法 師﹂ とい うの は隋 代の 曇琛 を指 すと 考え て間 違い ない
︒要 する に作 者不 明の
﹃義 記﹄ は︑ 曇琛 の作 品で ある 可能 性を 指摘 して いる ので ある
︒ 本稿 では
︑宇 井博 士の 提示 にし たが って
︑﹃ 義記
﹄は はた して 曇琛 の作 品 かど うか につ いて 檢討 して みた い︒ 一
『義 記﹄ の著 述年 代
『義 記﹄ の作 者に つい て︑ 隋代 の曇 琛か どう かを 檢證 する に先 立っ て︑ ま
ず當 該文 獻の 著述 年代 を限 定し なけ れば なら ない
︒そ のた め本 節で は﹃ 義 記﹄ の内 容を 概觀 し︑ とく に文 中に おけ る引 用典 籍を 調べ たう えで
︑そ の著 述年 代を 考え てい きた い︒
「金 剛般 若義 記一 巻上
﹂と いう 首題 から
︑そ の本 來の 形態 は︑ 少な くと も 二巻 本︑ 或い は三 巻本 であ った と考 えら れる
︒ま た﹁ 一巻 上﹂ の記 述か ら︑
﹁一 巻下
﹂︑ 或い は﹁ 一巻 中﹂
﹁一 巻下
﹂が 存在 した 可能 性が あり
︑四 巻本 ま た六 巻本 の巻 數も 想定 され る︒ 巻首 にあ る﹁ 然眞 空虛 寂﹂ から
﹁使 一味 聖典 無量 軀分
﹂ま での 内容 は︑ 開經 する 前の 序文 と見 ても よい が︑ その 次に 大乘 滿字 と小 乘半 字の 二教 をも って
︑﹃ 金剛 般若 經﹄ を大 乘滿 字の 法門 に判 攝す る︒ 文中 で﹁ 婆伽 婆﹂
﹁舍 婆提
﹂な どの 經文 を注 釋し てい るの で︑
﹃義 記﹄ は 菩提 流支 譯本 の注 釋書 であ るこ とに 相違 ない
︒ 菩提 流支
︵菩 提留 支︶ は︑ 唐・ 道宣
﹃續 高僧 傳﹄ 巻一
・譯 經篇 の中 に列 傳 があ り︑ 北天 竺の 人︑ 永平 元年
︵五
〇八 に︶ 洛陽 に來 遊し たと いう
︒傳 記で は﹃ 金剛 般若 經﹄ の翻 譯年 代を 明記 して いな いが
︑隋
・費 長房
﹃歷 代三 寶 紀﹄ 巻九 によ れば
︑﹁ 金剛 般若 波羅 蜜經 一巻
永平 二年 於胡 相國 第譯
︑是 第 二出()
﹂と あり
︑彼 が洛 陽に 來遊 した 翌年
︑即 ち永 平二 年︵ 五〇 九︶ に翻 譯さ れた と示 して いる
︒そ の記 録は 後の
﹃大 唐内 典録
』・
『大 周刊 定衆 經目 録』
・
『開 元釋 教録
﹄に 踏襲 され てい る︒ 周知 のよ うに
︑菩 提流 支に は﹃ 金剛 般若 經﹄ の翻 譯以 外に
︑天 親造
﹃金 剛般 若波 羅蜜 經論
﹄︵ 以下
﹃天 親論
﹄と 略 す る︶ と︑ その 注釋 書で ある
﹃金 剛仙 論﹄ を翻 譯し たも のが ある(")
︒﹃ 天親 論﹄ の翻 譯は
﹃金 剛般 若經
﹄と 同年 で︑
﹃金 剛仙 論﹄ は大 正藏 本の 巻五
・六
・九 の内 題の 下に ある
﹁魏 天平 二年 菩提 流支 三藏 於洛 陽譯
﹂の 記事 を信 じる なら ば︑ 西歴 五三 五年 に譯 出さ れた こと とな る︒
後述 のよ うに
︑﹃ 義記
﹄は
︑﹃ 天親 論﹄
﹃金 剛仙 論﹄ によ って 注譯 を施 した ため
︑そ の著 述年 代は
﹃金 剛仙 論﹄ を譯 出し た天 平二 年︵ 五三 五︶ 以降 に上 限せ ざる を得 ない
︒で は︑ 下限 年代 はい つま でで あろ うか
︒こ の問 題に 關し て︑ 現在
︑有 力な 手が かり を得 ない が︑
﹃義 記﹄ にお ける 典籍 の引 用状 況か らあ る程 度の 推測 が可 能と なる
︒殘 存す る﹃ 義記
﹄に みら れる 引用 經名 は︑ 以下 のよ うに 擧げ るこ とが でき る︒
『華 嚴﹄︵ 四十 巻︑ 六十 巻︑ 八十 巻三 種の 譯本 があ る︶
『十 地﹄︵ 姚秦
・鳩 摩羅 什譯
﹃十 地經 論﹄
︑或 いは 唐・ 尸羅 達摩 譯﹃ 佛説 十地 經﹄
︶
『大 雲﹄︵ 東晉
・竺 佛念 譯﹃ 大方 等無 相經
﹄︶
『法 鼓﹄︵ 劉宋
・求 那跋 陀羅 譯﹃ 大法 鼓經
﹄︶
『摩 訶般 若﹄
︵姚 秦・ 鳩摩 羅什 譯︶
『大 集﹄︵ 北涼
・曇 無讖 譯﹃ 大方 等大 集經
﹄︶
"
『涅 槃﹄︵ 北涼
・曇 無讖 譯︶
#
『金 剛般 若﹄
︵姚 秦・ 鳩摩 羅什 譯︑ 或い は北 魏・ 菩提 流支 譯︶
$
『人
︵仁 王︶ 經﹄︵ 晉・ 竺法 護譯
︑或 いは 陳・ 眞諦 譯︶
『光 讚﹄
︵晉
・竺 法護 譯︶ 10
『大 空︵ 品ヵ
﹄︶︵ 姚秦
・鳩 摩羅 什譯
﹃摩 訶般 若﹄
︶ 11
『道 行﹄︵ 後漢
・支 婁迦 讖譯
︶ 12
『闍 王懺 悔經
﹄︵ 譯者 不明
︶ 13
『義 記﹄ が殘 巻で ある ため
︑以 上に 舉げ てき た十 三種 の經 名が
︑﹃ 義記
﹄全 體の 引用 情況 を反 映し てい ると はい えな い︒ 曇無 讖譯 の﹃ 涅槃 經﹄ から は二 箇所 の内 容を 引用 して いる が︑ 經名 のみ を提 示し たも のが 殆ど であ る︒ なお
︑
﹃華 嚴﹄ のよ うに 經名 のみ が引 用さ れる 場合 は︑ 東晉 の六 十華 嚴︵ 佛駄 陀跋 羅
譯)
・唐 代の 八十 華嚴
︵實 叉難 陀譯 )・ 四十 華嚴
︵般 若譯
︶の いず れか であ るが
︑ 引用 文が 見ら れな いの で判 断し 難い
︒最 後の
﹃闍 王懺 悔經
﹄は
︑歴 代經 録に は見 えず
︑譯 者も 不明 であ るが
︑唐
・圓 測﹃ 仁王 經疏
﹄巻 一に 見ら れる
﹁如 金剛 仙論
︑及 眞諦 所引 闍王 懺悔 經説(#)
﹂と いう 引文 があ るか ら︑ 眞諦
︵四 九九 袞五 六九 以︶ 前に 存在 した もの と推 定で きる
︒
『義 記﹄ にお いて
︑上 列し た經 名の ほか に︑
﹁釋 云﹂ 六回
︑﹁ 論云
﹂二 回︑
﹁解 云﹂
﹁偈 云﹂
﹁釋 論説
﹂﹁ 釋論 廣説
﹂﹁ 釋論 中﹂ など の表 現が それ ぞれ 一回 ずつ 見出 され る︒
﹁釋 云﹂ と﹁ 解云
﹂の 内容 は︑ 即ち
﹁釋 して 云く
﹂﹁ 解し て 云く
﹂の 意味 であ り︑
﹃義 記﹄ 作者 自身 の言 葉で あろ う︒
﹁偈 云﹂ は﹃ 大智 度 論﹄ 巻二 から の引 用で
︑﹁ 論云
﹂の 引用 は﹃ 天親 論﹄ の内 容で ある と確 認で きる
︒﹁ 釋論 説﹂
﹁釋 論廣 説﹂
﹁釋 論中
﹂の
﹁釋 論﹂ は︑ いず れも
﹃天 親論
﹄ の注 釋書
﹃金 剛仙 論﹄ を指 すも ので ある
︒
『義 記﹄ の引 用状 況か ら見 て︑ 一つ 注意 すべ きこ とは
︑玄 奘三 藏に よっ て 翻譯 され た經 典名 を一 つも 檢出 する こと がで きな いこ とで ある
︒周 知の よう に︑ 羅什 の舊 譯に 比べ て︑ 玄奘 の新 譯事 業が 中國 佛教 へ與 えた 影響 は極 めて 大き い︒ もち ろん 玄奘 以降 の著 作が
︑必 ずし も玄 奘譯 經を 引用 する わけ では ない が︑
﹃金 剛般 若經
﹄の 注釋 書に おい ては 窺基 の﹃ 金剛 般若 經會 釋﹄ をは じめ
︑華 嚴四 祖と され た宗 密の
﹃金 剛般 若經 疏論 纂要
﹄な どに して も︑ いず れも 玄奘 譯經 から の影 響が かな り多 く見 られ る︒ しか しな がら
︑殘 存す る
﹃義 記﹄ の内 容に おい ては 玄奘 譯經 から の影 響を 一つ も見 出せ ず︑ その 引用 した 經典 は隋 代以 前に 譯さ れた もの がほ とん どで ある
︒し たが って
︑﹃ 義記
﹄ の著 述年 代は
︑﹃ 金剛 仙論
﹄が 翻譯 され た天 平二 年︵ 五三 五︶ から 玄奘 の歸 朝 した 貞觀 十九 年︵ 六四 五︶ にか けて の約 百十 年の 間に 限定 する のが 妥當 であ
ろう 二 ︒
天平 二年 から 貞觀 十九 年ま での
﹃金 剛般 若經
﹄注 釋書 周知
のよ うに
︑﹃ 金剛 般若 經﹄ は中 國佛 教に おい て六 回に わた って 漢譯($) さ れて いる が︑ よく 讀ま れて いた もの は羅 什譯 であ る︒ 貞觀 十九 年︵ 六四 五︶ まで の﹃ 金剛 般若 經﹄ 譯本 とい えば
︑玄 奘譯 と義 淨譯 を除 き︑ 四種 の譯 本を 傳え てい る︒ 天平 二年
︵五 三五 か︶ ら貞 觀十 九年
︵六 四五 ま︶ での 約百 十年 の 間に この 四種 の譯 本に 關す る注 釋書 がい った いど れほ ど著 され たか は知 りえ ない が︑ 各目 録な どの 資料 によ って
︑以 下の よう に列 舉す るこ とが でき る
︵第 表
︶︒ ここ では
︑各 々の 文獻 から 六人 の著 者︑ 計八 種の 注釋 書を あげ たが
︑存 否 状況 とし ては 三存 六欠 とな る︒ 一つ の文 獻を 見て も各 目録 にお いて
︑そ の著 録し た名
や 巻數 など は必 ずし も一 致し ない
︒先 賢の 研究 によ れば
︑以 上の 現存 書の うち
︑③ 智顗 撰と 題す る﹃ 金剛 般若 經疏
﹄一 巻は 後人 の假 托と 認定 され
︑智 顗の 眞撰() では ない とさ れて いる
︒⑥ の慧 淨注() と④ の吉 藏義 疏は 現存
10
11
して おり
︑﹃ 義記
﹄で ない こと は明 確で ある
︒し たが って
︑﹃ 義記
﹄は 以下 の 表の 範圍 で考 える と︑ 散佚 した 資料 に限 定せ ざる を得 ない
︒ まず
︑眞 諦﹃ 金剛 般若 經﹄ の注 釋書 につ いて
︑目 録上 にお いて
﹃金 剛般 若 疏﹄ 十一 巻と
﹃金 剛般 若記
﹄四 巻を 著し たこ とが 見ら れる が︑ いず れも 現存 して おら ず︑ その 全貌 を知 りえ ない
︒眞 諦自 身が
﹃金 剛般 若經
﹄を 譯し てい たこ とか ら︑ その
﹃疏
﹄と
﹃記
﹄は
︑お そら く彼 自身 の譯 本に 對す る注 解で あろ う︒ その ため
︑菩 提流 支譯 本の 注釋 書で ある
﹃義 記﹄ は︑ 眞諦 の著 作と
は到 底考 え難 いの であ る︒ 次に
︑眞 諦以 後︑
﹃金 剛般 若經
﹄の 注 釋書 は︑ 地論 南道 派の 學者 であ った 淨影 寺慧 遠の
﹃金 剛般 若注
﹄一 巻が ある
︒淨 影寺 慧遠 の著 作は 頗る 多く()
︑﹁
⁝義 記﹂
12
と題 する 書名 は少 なく とも 六種 があ り︑
﹃義 記﹄ の書 名と まっ たく 一致 する
︒し かし
︑歴 代經 録か らみ れば
︑慧 遠﹃ 金剛 般若 經﹄ の注 釋書 は︑
﹁義 記﹂ と題 する もの では なく
︑﹁ 金剛 般若 注﹂ とあ る︒ また
︑前 述し たよ うに
︑﹃ 義記
﹄の 巻數 につ いて は︑ 少な くと も二 巻︑ 四巻 およ び六 巻と いう 偶數 の可 能性 が高 く︑ 一巻 本と され る﹃ 金剛 般若 注﹄ と異 なっ てい る︒ 目録 の情 報か ら見 て︑
﹃義 記﹄ は慧 遠の 著作 とも 考え られ ない
︒ また
︑吉 藏撰
﹃金 剛般 若經
﹄の 注釋 書 につ いて
︑目 録上 には 二本 ある が︑ 現存 する のは
﹃金 剛般 若經 義疏
﹄︵ 以下
︑﹃ 義 疏﹄ と略
す る︶ 四巻 のみ であ る︒ 散逸 した
﹃金 剛般 若經 玄義 記﹄ は︑ その 書名 が﹃ 義記
﹄と ある 程度 相似 して いる が︑ 吉藏 には すで に羅 什の 譯本 に注 譯し た
﹃義 疏﹄ があ って
︑そ れ以 外に また 菩提 流支 の譯 本に 注釋 を施 した とは 到底 考え られ ない
︒し かも
︑﹃ 義疏
﹄の
﹁十 重﹂ をも って 經の 全體 を解 釋し たの に對 して
︑二 門分 別を 取っ て判 攝し た﹃ 義記
﹄は
︑注 釋形 式が まっ たく 相違 して おり
︑同 一人 の書 物と 認め るこ とは 困難 であ る︒ その ため
︑﹃ 義記
﹄を 吉藏 の著 作と 認め るの はほ ぼ不 可能 であ る︒ 上述 のよ うに
︑﹃ 義記
﹄の 作者 とし て眞 諦・ 吉藏
・慧 遠の 可能 性を 排除 す るな ら︑ 曇琛 であ る可 能性 が高 くな るで あろ う︒ 以下
︑曇 琛の 著作 から 檢討 して いき たい
︒ 三
曇琛 の著 作に つい て 中國
佛教 史上 にお いて
︑隋 代の 曇琛 は︑ 同時 代の よく 知ら れて いた 三大 師 と呼 ばれ た慧 遠︑ 智顗
︑吉 藏に 比べ て︑ ほぼ 我々 に忘 れら れた 人物 の一 人で ある
︒唐
・道 宣﹃ 續高 僧傳
﹄な どの 僧傳 文獻 にそ の傳 記は 掲載 され てお らず
︑ 彼の 生年 事蹟 につ いて は今 日ま で殆 ど不 明で ある
︒し かし
︑曇 琛の 著作 につ いて
︑唐 の司 元大 夫を 務め た隴 西の 李儼 が西 明寺 の道 世撰
﹃金 剛般 若經 集 注﹄ のた めに 書い た序 にお いて
︑以 下の 一文 を殘 して いる
︒ 然此
梵本 至秦 弘始
︑有 羅什 三藏
︑於 長安 城創 譯一 本︑ 名舍 衛國
︒曁 於後 魏宣 武之 世︑ 有流 支三 藏︑ 於洛 陽城 重翻 一本
︑名 舍婆 提︒ 江南 梁末 有眞 諦三 藏︑ 又翻 一本 名祇 樹林
︒隋 初開 皇︑ 有佛 陀耶 舍三 藏︑ 又翻 一本 名祇 陀林
︒大 唐有 玄奘 三藏
︑又 翻一 本名 誓多 林︒ 雖分 軫揚
︑同 歸至 極︑ 而 鏕 筌詞 析義
︑頗 亦殊 途︒ 然流 支翻 者兼 帶天 親釋 論三 巻︑ 又翻 金剛 仙論 十巻
︑
四 欠 『古聖教目録』
① 真諦(499-569) 『金剛般若疏』 十一 欠 『歴代三寶紀』巻九 存欠
文獻通
著者 巻數 出典
四 存(T33) 『奈良朝一切經疏目録』
③ 智顗(538-597) 『金剛般若經疏』 一
② 慧遠(523-592) 『金剛般若注』 三 欠 『一切經論律章疏集(傳録)並私記巻上』
存(T33) 『傳教大師將来台州録』
『金剛般若記』
『大唐内典録』巻五
『金剛般若經玄義記』 十 欠 『古聖教目録』
⑤ 曇琛(生卒不詳) 『金剛般若經注釋』 不明 不明 『廣弘明集』巻二十二「金剛般若集注序」
④ 吉藏(549-623) 『金剛般若經義疏』
(※出典は代表的な資料のみを列舉する)
⑥ 慧淨(577-645) 『金剛般若經注』 一 存(X24)
第 1 表
隋初 耶舍 又翻 無著 釋論 兩巻
︑比 校三 論︑ 文義 大同
︒然 新則 理隱 而文 略︑ 舊則 工顯 而義 周︒ 兼有 秦世 羅什
︑晉 室謝 靈運
︑隋 代曇 琛︑ 皇朝 慧淨 法師 等︑ 並器 業韶 茂︑ 博雅 洽聞
︑耽 味茲 典︑ 俱為 注釋()
︒13 李儼
の序 では
︑ま ず羅 什か ら玄 奘ま での
﹃金 剛般 若經
﹄の 五譯 本を 擧げ て いる
︒即 ち羅 什譯
︵舍 衛國
︶︑ 菩提 流支 譯︵ 舍婆 提︶
︑眞 諦譯
︵祇 樹林
︶︑ 佛陀 耶舍 譯︵ 祇陀 林︶
︑玄 奘譯
︵誓 多林 で︶ ある
︒上 文に は︑ 秦の 羅什
︑晉 の謝 靈 運︑ 隋の 曇琛
︑唐 の慧 淨な どが とも に﹃ 金剛 般若 經﹄ に注 釋し たこ とが 記さ れて いる が︑ 羅什 が﹃ 金剛 般若 經﹄ に注 釋し たと いう 記述 は事 實で はな く︑ おそ らく 羅什 の弟 子で ある 僧肇 の﹃ 注金 剛經
﹄を 指す ので あろ う︒ しか し︑
﹃大 日本 卍新 纂續 藏經
﹄第 二十 四冊 に收 めら れて いる 僧肇 の名 を冠 した
﹃注 金剛 經﹄ は︑ 實際 には 謝靈 運の
﹃注 金剛 經﹄ であ るこ とが 近年 の研 究() によ っ
14
て明 らか であ り︑ 眞の 僧肇 撰﹃ 注金 剛經
﹄は すで に散 佚し てし まっ たの であ る︒
﹃金 剛般 若經
﹄に 注釋 した 四人 につ いて
︑李 儼序 にお ける 羅什
︵僧 肇ヵ )・ 謝靈 運・ 曇琛
・慧 淨と いう 配列 が年 代順 であ るの は明 瞭で ある
︒こ こで は︑ 隋代 にお いて 名の 高い 慧遠 と吉 藏に 言及 せず
︑た だ曇 琛の 名を 提示 して いる こと から
︑曇 琛が
﹃金 剛般 若經
﹄に 注釋 した とい う記 述は
︑少 なく とも 唐代 の初 中期 にま でそ の傳 承を 持ち 續け てき たと 想定 され る︒ 李儼 序以 降︑ 曇琛 が﹃ 金剛 般若 經﹄ に注 釋し たと いう 記述 は︑ 随分 時代 を 下り
︑清 代に 至っ て︑ 無是 道人
﹃金 剛經 如是 解﹄ 末に ある 性琮 が書 いた 跋文()
︑15 また 仲之 屛輯
﹃金 剛經 注正 訛﹄ の前 に徐 來賓 が書 いた 序文() にお いて 關係 する
16
記録 がみ える が︑ これ らの 記録 は李 儼序 の内 容を もと に書 いた もの に間 違い ない
︒と ころ が︑ 二文 とも に謝 靈運 の前 に羅 什注 釋に つい て言 及し てい ない
︒
それ は李 儼序 の誤 記に 氣付 いた ため の訂 正で あろ う︒ 李儼 は︑ 字を 仲思 とい い︑ 龍朔 年間
︵六 二二 頃︶ の人 であ るが
︑生 卒年 は 不詳 であ る︒ 彼は 道世
﹃金 剛般 若經 集注
﹄の ため に序 を書 いた ほか
︑同 じ道 世編
﹃法 苑珠 林﹄ の序 を作 った こと がよ く知 られ てい る︒ それ 以外 にも
︑多 くの 佛教 關係 の碑 文() を撰 して おり
︑中 でも
﹁益 州多 寶寺 道因 禪師 碑﹂ が最 も
17
有名 であ る︒ その 佛教 關係 文か ら︑ 李儼 と多 くの 僧侶 との 間に 密接 な交 流が あっ たこ とが わか る︒ その 撰述 した
﹃集 注﹄ の序 は︑ 羅什
﹃金 剛般 若經
﹄注 釋の 誤り を犯 した もの の︑ 基本 的に 信憑 性が 高い と考 えら れる
︒ 曇琛 の著 作に 關し て︑ 李儼 序の ほか に︑ 日本 側の 關連 記録 を無 視す るこ と はで きな い︒
﹃大 日本 古文 書﹄
︵編 年文 書︶ 所收 の神 護景 雲二 年︵ 七六 八︶ の 寫經 記録 に﹁ 金剛 般若 論疏 四巻
琛法 師()
﹂と 著録 され てい る︒ この 琛法 師が
18
隋代 の曇 琛か どう かは 確實 に知 りえ ない が︑ 景雲 二年 以前 の人 であ った こと は確 定で きる
︒こ れに 關連 して
︑經 録側 の資 料に おい ては
︑永 超撰
﹃東 域傳 燈目 録﹄
︵寬 治八 年︵ 一〇 九四
︶︶ 巻一 に﹁ 金剛 般若 論疏 三巻
︵惠 遠︶
﹂と 著録 した 後に 續い て﹁ 同論 義記 四巻
︵琛 法師()
︶﹂ と記 され てい る︒ ここ では
﹁惠
19
遠﹂ とは 淨影 寺の 慧遠 にあ たり
︑琛 法師 が曇 琛か どう か依 然と して 斷定 し難 い︒ しか し︑
﹁同 論義 記四 巻︵ 琛法 師︶
﹂の 著録 を︑ 慧遠 と吉 藏の 著作 の間 に 挿入 した 配列 の事 實か ら︑ 慧遠
↓琛 法師
↓吉 藏の 順に よっ て記 録さ れた と讀 みと れる
︒と すれ ば︑
﹁琛 法師
﹂は 慧遠 と吉 藏の 間に 存在 した 人物 であ った と十 分に 考え られ る︒
「琛 法師
﹂の 著述 につ いて 調査 する にあ たっ て最 も注 目す べき なの は︑ 京 都市 の法 金剛 院に 所藏 され てい る平 安時 代に 書寫 され た﹃ 大小 乘經 律論 疏記 目録()
﹄で ある
︒ま ず︑ 當該 目録 の巻 上に
﹁金 剛般 若論 疏一 部四 巻 琛法 師
20
百三 十七 紙()
﹂と 見出 せる
︒こ の記 録は
︑上 掲し た正 倉院 文書 の著 録し た内 容
21
とは ほぼ 一致 し︑
﹁一 部四 巻﹂
︑﹁ 百三 十七 紙﹂ と明 記し てい る︒
﹃大 小乘 經律 論疏 記目 録﹄ の紙 數記 録に よっ て︑ 著録 され た當 時の
﹃金 剛般 若論 疏﹄ が現 存し てい たこ とは 間違 いな い︒ 以上 のよ うに
︑三 種目 録の すべ てが
︑同 じ琛 法師
﹃金 剛般 若論
﹄の 注疏 を 著録 した が︑ その 書名 を﹃ 東域 傳燈 目録
﹄は
﹁金 剛般 若論 義記
﹂と し︑ ほか の二 書は とも に﹁ 金剛 般若 論疏
﹂と して いる
︒こ のよ うに 書名 に關 して
︑多 少相 違が ある とは いえ
︑﹁ 琛法 師﹂ の作 品と して
︑同 じ﹃ 金剛 般若 論﹄ の注 疏で あり
︑か つ四 巻本 であ るこ とか ら︑ これ らは 同一 書物 を指 すと 考え られ るで あろ う︒ ここ で問 題と なる のは
︑﹁ 琛法 師﹂ とは 誰を 指し
︑實 際の 名前 は何 であ ろう かと いう こと であ る︒ 古代 の中 國佛 教に おい て僧 侶の 名前 は︑ 最後 の一 文字 を取 って 呼ば れる 場 合が 少な くな い︒ 例え ば︑ 東晉 の道 安法 師は 後世 の人 に﹁ 安法 師﹂ と され てい る︒ 即ち
︑﹁ 琛法 師﹂ とは
﹁□ 琛法 師﹂ を意 味す るは ずで ある
︒筆 者が 中華 電子 佛典 CB ET A( 二〇 一四 を) 利用 して 檢索 した 結果
︑﹁
□琛 法師
﹂に 關す る資 料は
︑隋 代の 曇琛 以外 は︑ 宋・ 志磬
﹃佛 祖統 紀﹄ の中 に宋 代﹁ 圓辯 道琛 法師
﹂と 見出 され るの みで ある
︒﹁
□琛 禪師
﹂で 調べ てみ ると
︑禪 宗典 籍に 散見 する のは
﹁漳 州羅 漢桂 琛禪 師︵ 地藏 桂琛 とも 言う
﹂︶
︑﹁ 泉州 鳳凰 山從 琛禪 師﹂
︑﹁ 泉州 西明 琛禪 師﹂
︑﹁ 定林 慧琛 禪師
﹂︑
﹁寶 林奉 琛禪 師﹂
﹁萬 壽有 琛 禪師
﹂等 がい たが
︑彼 らは すべ て唐
︑或 いは 唐以 降の 人物 であ る︒ つま り︑ 様々 な傳 記資 料︑ およ び各 經録 から みて も︑ いず れも
﹁琛 法師
﹂が
﹃金 剛般 若論
﹄に 注釋 した 記述 を見 受け ない ので ある
︒ ここ で考 察視 握を しば らく
﹁琛 法師
﹂の
﹃金 剛般 若論
﹄の 注釋 書か ら彼 の
ほか の著 作に 移し てみ ると
︑上 掲し た﹃ 大小 乘經 律論 疏記 目録
﹄巻 上に は︑ また 以下 のよ うな 記事 が見 られ る︒ 中論
疏四 巻 曇琛 師 百廾 紙()22 此の
曇琛 は︑ 前述 した 李儼 序に みら れる 隋代 の曇 琛と まっ たく 同名 であ り︑ 同一 人物 の可 能性 が高 い︒ そう であ るな らば
︑こ の資 料に よっ て︑ 隋代 の曇 琛は
﹃金 剛般 若經
﹄を 注釋 した ほか に︑ また 四巻 の﹃ 中論 疏﹄ の存 在が あっ たこ とが 確認 でき る︒ さら に興 味深 いの は︑ この 資料 の直 後に
︑ 百論
疏三 巻 琛師
七十 八紙 十二 門論 疏一 巻 琛師
六十 一紙()23 と記
され てい るこ とで ある
︒當 該目 録の 記述 順序 から 見て
︑こ の﹁ 琛師
﹂は
﹁曇 琛師
﹂と は同 一人 物で はな いか と考 えら れる
︒周 知の 通り
︑龍 樹の
﹃中 論﹄
﹃十 二門 論』
・提 婆の
﹃百 論﹄ は︑ すべ て羅 什に よっ て譯 出さ れ︑ いず れ も大 乘﹁ 空﹂ の思 想を 闡明 する
︒隋 代の 吉藏 は︑ この 三論 に對 して 各注 疏を 施し
︑三 論學 の集 大成 者と いえ る︒
﹃大 小乘 經律 論疏 記目 録﹄ によ れば
︑吉 藏と 同時 代で あっ た曇 琛は
︑か つて
﹃中
﹄﹃ 百﹄
﹃十 二門
﹄と いう 三論 に注 釋 した こと があ り︑ 紛れ もな く三 論の 學者 とも いえ るで あろ う︒ しか も目 録の 紙數 記述 から
︑こ れら の三 書は すで に日 本に 傳わ って いた こと が推 定さ れる
︒ 三論 の疏 を著 述し た琛 法師 が﹁ 曇琛 師﹂ であ るな らば
︑同 樣に
﹃大 小乘 經 律論 疏記 目録
﹄巻 上に 著録 され た﹁ 金剛 般若 論疏 一部 四巻
︵百 三十 七紙
﹂︶ の
﹁琛 法師
﹂は
︑隋 代の 曇琛 であ ると 認め られ るで あろ う︒ なお
︑こ こで 注目 すべ きな のは
︑前 掲し たす べて の目 録資 料に おい ては
︑李 儼序 の記 録と 異な り︑ 曇琛 は﹃ 金剛 般若 經﹄ では なく
︑﹃ 金剛 般若 論﹄ に注 釋し たと なっ てい る握 であ る︒ 李儼 序の ほか に︑ 曇琛
﹃金 剛般 若經
﹄の 注釋 書を 著録 した 關連 記事 に︑
﹃大 小乘 經律 論疏 記目 録﹄ 巻上 の﹁ 金剛 般若 波羅 密︵ 蜜︶ 經疏 四巻 探︵ 琛︶ 法師 讃述
一百 五十 四紙()
﹂と いう 文が ある
︒こ の﹁ 探法 師﹂ は︑ 當
24
該目 録の 編集 者で ある 落合 俊典 氏の 翻刻 本に は﹁ 探﹂ の傍 に﹁ 琛﹂ 字を 注さ れて おり
︑つ まり
﹁琛 法師
﹂の 誤寫 と見 られ る︒ また
︑正 倉院 文書 の天 平勝 寶三 年︵ 七五 一︶ 寫經 目録 に﹁ 雜心 論抄 一部 十巻
深法 師 廿貫()
﹂と いう 記
25
載も 見ら れ︑ この
﹁深 法師
﹂が 同じ く曇 琛で ある 蓋然 性が 高い
︒と いう のは
︑ 各文 獻に おい て﹁ 琛﹂
﹁探
﹂﹁ 深﹂ の三 字を 混淆 する 例は 珍し くな いの であ る︒ 例え ば︑ 後述 する 日本 僧安 澄は
﹃中 觀論 疏記
﹄巻 第三 末に
﹃高 僧傳
﹄の 竺法 深傳 を引 用し た後 に﹁ 言深 法師 者︑ 有本 作琛 字︑ 勅林 反︑ 寶也
︑重 也︑ 寶玉 也︒ 或有 本作 探字
︑勅 含反
︑取 也︒ 今作 深是
︑餘 皆非 也()
﹂と 注し てい る︒
26
﹁琛
﹂﹁ 深﹂
﹁探
﹂三 字の 發音 は異 なっ てい るが
︑字 形が 相似 して いる ので
︑ 魯魚 の誤 りを 免れ ない
︒つ まり
︑こ こで は安 澄は 竺法 深の
﹁深
﹂の 例を あげ て説 明し たが
︑後 述す るよ うに
︑安 澄の
﹃中 觀論 疏記
﹄に みら れる 三論 を注 釋し た琛 法師 は︑ 竺法 深で はな く︑ 曇琛 であ るの は明 らか であ る︒ とも あれ
︑上 述の 内容 を信 頼す るな らば
︑曇 琛の 著作 は少 なく とも 以下 の 六部
︑計 二十 六巻 であ る︒
『金 剛般 若論 疏︵ 義記
︶﹄ 四巻
『金 剛般 若波 羅蜜 經疏
﹄四 巻
『中 論疏
﹄四 巻
『百 論疏
﹄三 巻
『十 二門 論疏
﹄一 巻
『雜 心論 抄﹄ 十巻 以上 の著 作目 録に おい て︑ 曇琛 の金 剛般 若に 關す る研 究は
︑﹃ 金剛 般若 論﹄ と﹃ 金剛 般若 經﹄ に對 する 計八 巻の 注釋 書が その 成果 とい える
︒﹃ 義記
﹄が もし 曇琛 の著 作で ある なら ば︑ この
﹃金 剛般 若波 羅蜜 經疏
﹄四 巻に 該當 する であ ろう
︒こ こで は︑
﹁義 記﹂ と﹁ 疏﹂ とい う書 名が 異な って いる にし ても
︑
﹃金 剛般 若論 疏﹄ を﹃ 東域 傳燈 目録
﹄で は﹃ 金剛 般若 論義 記﹄ と記 録し てい ると いう 先述 の例 に見 られ るよ うに
︑同 一書 物に 關す る書 名は
︑目 録上 にお いて 必ず しも 一致 しな い場 合が ある から であ る︒ 四
吉藏
﹃義 疏﹄ と﹃ 義記
﹄ 前節
から 分か るよ うに
︑曇 琛は
︑金 剛般 若を 研究 する のみ なら ず︑ むし ろ 吉藏 とほ ぼ同 時代 にお いて 同じ く三 論の 學者 とし て活 躍し たと いう こと に注 目す べき であ る︒ なお
︑曇 琛と 吉藏 との 間に 直接 交流 があ った かど うか 現時 握で は不 明で ある が︑ 學問 の傾 向を 同じ くす る兩 者で あれ ば︑ 互い に何 らか のか たち で交 流が あっ ても 不思 議で はな かろ う︒ この よう に︑ 假に
﹃義 記﹄ を曇 琛の 著作 であ ると する なら ば︑ 吉藏 の現 存す る四 巻の
﹃義 疏﹄ との 關係 を考 えな けれ ばな らな い︒
『義 疏﹄ は︑ 巻首 に序 があ り︑ 全文 にわ たっ て﹁ 十重
﹂を もっ て經 の玄 意 を解 釋し
︑様 々な 典籍 を引 用し なが ら論 述を 展開 して いる
︒﹃ 義疏
﹄を 撰述 する にあ たっ て︑
﹁十 重﹂ の第 二﹁ 般若 多少
﹂を 解説 する 際に
︑﹁ 問曰
︑般 若
波羅 蜜凡 有幾 種︑ 答曰
︑備 探南 北︑ 遍檢 經論
︑部 數不 同﹂ とあ るよ うに
︑北 土に おい て流 行し た資 料を 參考 にし たと 述べ てい る︒ 般若 の部 數に 關し て︑
﹃義 疏﹄ では
︑そ れぞ れ﹃ 大智 度論
﹄に 依る 二種 般若
︑﹃ 釋論
﹄に 依る 三種 般 若︑
﹃長 安叡 法師 小品 序﹄ に依 る四 種般 若︑
﹃仁 王經
﹄に 依る 五時 般若
︑及 び 菩提 流支
﹃金 剛仙 論﹄ に依 る八 部般 若が 列舉 され たあ とで
︑次 のよ うに 記さ れて いる
︒ 又言
︑有 光讚
︑大 空︑ 道行 等︒ 流支 三藏 云︑ 此皆 十萬 偈波 若中 一品
︑非 是別 部︒ 今以 釋論 驗之
︑不 同流 支所 説()
︒27 上文
は三 つに 分け て理 解す るこ とが 可能 であ る︒ 第一 は﹁ 又言
︑有 光讚
︑ 大空
︑道 行等
﹂の 箇所
︑第 二は
﹁流 支三 藏云
︑此 皆十 萬偈 波若 中一 品︑ 非是 別部
﹂の 箇所
︑第 三は
﹁今 以釋 論驗 之︑ 不同 流支 所説
﹂と いう 吉藏 自身 によ る評 論の 箇所 であ る︒ その うち
︑第 一の
﹁又 言﹂ と第 二の
﹁流 支三 藏云
﹂の 箇所 につ いて
︑と くに 後者 の内 容は
︑現 存す る菩 提流 支の 譯著 した 典籍 の中 には 同内 容が 見當 らな い︒ 逆に
﹃義 記﹄ には 同じ 菩提 流支
﹃金 剛仙 論﹄ によ る八 部般 若を 列舉 した あと
︑上 文と ほぼ 同文 の内 容が 見ら れる
︒ 又︑
人王
︑光 讚︑ 大空
︑道 行等
︒流 支三 藏云
︑此 皆十 萬偈 般若 中一 品︑ 非是 別部
︒八 部大 宗︑ 莫不 皆名
︑窮 衆典 之要 義()
︒28 この
文は
︑前 掲し た吉 藏﹃ 義疏
﹄の 文と 同樣
︑三 つに 分け るこ とが でき る︒ 兩者 の異 同に つい ては
︑第 一部 分は
﹃義 疏﹄ では
﹁人
︵仁 王︶
︵般 若︶
﹂を 擧
げて おら ず︑ 第三 部分 につ いて は各 自の 内容 を異 にす るが
︑第 二部 分だ け兩 者は 全く 一致 する
︒こ れは 同じ 資料 源か ら引 用し たか
︑あ るい は兩 文の 一方 が他 方を 參考 にし た結 果で あろ う︒ 兩文 では 般若 の名
を 擧げ た際 に︑ とも に﹁ 大空
﹂と なっ てい る︒
﹁大 空﹂ とい うの は︑ 普通 に﹃ 大品 般若
﹄を 指す ので ある が︑ なぜ 兩文 とも に﹁ 大空
﹂と され るか
︑こ れは 兩文 の關 係の 一端 を示 唆し てい るか もし れな い︒
『義 疏﹄ と﹃ 義記
﹄と の關 係に つい ては
︑﹃ 義記
﹄が 殘巻 であ るの で︑ 十分 に檢 討す るの は困 難で ある
︒し かし
︑﹃ 義疏
﹄の 注釋 では 經の
﹁舍 衛國
﹂を 解釋 した 際の 以下 の一 文は 最も 注目 すべ きも ので ある
︒ 問︑
何故 名舍 婆提
︒答
︑有 北土 論師 云︑ 昔劫 初有 仙人 兄弟 二人
︑弟 名舍 婆︑ 此云 幼小
︒兄
阿 婆提
︑此 云不 可害
︒二 人住 此處 求道
︑因 以名 之︒ 弟略 去婆
︑兄 略去 阿︑ 二名 雙取
︑故 云舍 婆提()
︒29 上文
では 問答 で始 まり
︑舍 婆と 阿婆 提の 兄弟 の物 語に よっ て舍 婆提
︵城
︶ の名 前の 由來 を説 明す る︒ 周知 のよ うに
︑こ の物 語は 菩提 流支 譯﹃ 金剛 仙 論﹄ から 出典 した もの であ るが
︑そ の原 文は 以下 のよ うに なる
︒ 此舍
婆提 城者
︑昔 劫初 有仙 兄弟 二人
︑弟 名舍 婆︑ 魏云 幼小
︒兄 阿婆 提︑ 魏云 不可 害︒ 此二 人住 彼處 求道
︑即 因為 名︒ 弟略 去婆
︑兄 略去 阿︑ 二名 雙存
︑故 曰舍 婆提 城()
︒30 上掲
した 兩文 を對 照し てみ ると
︑﹃ 義疏
﹄の 内容 には
︑少 なく とも 二つ の
注意 握が ある
︒一 つは
︑﹁ 昔劫 初有
﹂の 前に
﹁有 北土 論師 云﹂ を冠 して おり
︑ いわ ばこ の物 語は 北土 論師 から 引用 した もの であ るこ と︒ 二つ 目は
︑﹃ 金剛 仙論
﹄の 原文 にお ける 二箇 所の
﹁魏 云﹂ は︑
﹃義 疏﹄ では すべ て﹁ 此云
﹂と 書き 直さ れて いる 握で ある
︒つ まり
︑吉 藏の 文は
︑直 接に
﹃金 剛仙 論﹄ から 引用 した もの では なく
︑一 種の 中間 的な 資料 を介 して
︑い わゆ る﹁ 北土 論 師﹂ の著 作か ら引 用し たも ので ある
︒さ て︑ この 中間 資料 とい うの は︑ いっ たい どん な書 物で あろ うか
︒殘 巻で ある
﹃義 記﹄ から 次の 文を 取り 上げ てみ よう
︒ 舍婆
提者
︑是 中國 語音
︒昔 兄第 二人
︑第 名舍 婆︑ 此云 幼少
︒兄 名婆 提︑ 此云 不可 害︒ 於此 處學 仙道
︑後 人於 中立 城︑ 即因 人以 為名
︒第 略去 婆︑ 兄略 去阿
︑故 云舍 婆提 城也()
︒31
『義 疏﹄ と﹃ 金剛 仙論
﹄の 該當 部分 とを 比べ てみ ると
︑﹃ 義疏
﹄で はこ の箇 所を
﹁北 土論 師﹂ の言 葉と して 回答 され てい るの に對 して
︑﹃ 義記
﹄の 場合 は﹁ 舍婆 提者
﹂に 對し て︑
﹁是 中國 語音
﹂と いう 文を 挿入 し︑ それ は音 譯で ある と説 明し てい る︒ さら に﹃ 金剛 仙論
﹄の 二箇 所の
﹁魏 云﹂ は︑
﹃義 記﹄ にも
﹁此 云﹂ と記 され てい る︒
﹃義 記﹄ の﹁ 故云 舍婆 提城 也﹂ の後 に續 いて
﹁釋 論中 廣解 住城 因縁
﹂の 文が みら れる が︑ この
﹁釋 論﹂ とは
﹃金 剛仙 論﹄ のこ とで ある
︒つ まり
︑﹃ 義記
﹄の 上文 は直 接に
﹃金 剛仙 論﹄ から 引用 した こと は間 違い ない
︒そ うす ると
︑﹃ 義疏
﹄に 引用 され た﹁ 北土 論師
﹂に よる 一種 の中 間資 料と は︑
﹃義 記﹄ であ る可 能性 が十 分に 考え られ る︒ 要す るに
︑
﹁北 土論 師﹂ とい うの は︑ 實際 には
﹃義 記﹄ の著 者で はな かろ うか
︒も しそ
うで ある なら ば︑ 吉藏 の著 作に いう
﹁北 土論 師﹂ への 檢討 は︑
﹃義 記﹄ の著 者を 解明 する 重要 な手 掛か りに なる かも しれ ない
︒ 五
吉藏 の著 作に みら れる
﹁北 土論 師﹂
「北 土論 師﹂ とい う言 葉は
︑現 在の とこ ろ︑ 吉藏 の著 作に しか みら れな い よう であ る︒ 吉藏 の著 作に おい て類 似す る呼
は
︑ま た﹁ 北土 諸師
﹂﹁ 北土 人﹂
﹁北 土諸 大乘 師﹂
﹁北 土地 論師
﹂﹁ 北土 有師
﹂﹁ 北土 講智 度論 者﹂
︑そ して
﹁北 地論 師﹂ 等が ある
︒長 年に わた り江 南に 住む 吉藏 にと って
︑北 土で あれ
︑ 北地 であ れ︑ 彼の
﹃勝 鬘寶 窟﹄ 巻下 に﹁ 江南 諸師 與北 土有 師()
﹂と ある よう に︑
32
江南 に對 して 北土 と呼 ばれ るわ けで ある
︒ま た︑
﹁北 土論 師﹂ とい う概 念自 體︑ その 類似 した 表現 の文 字に 從っ て︑ 北土 或い は北 地に おい て三 論・ 地論 およ び大 智度 論を 宣揚 した 諸師 と見 ても よか ろう
︒な お︑ 吉藏
﹃義 疏﹄ には
﹁北 土論 師﹂ につ いて の記 述が
︑上 掲の
﹃義 記﹄ から 引用 した と見 られ る内 容以 外に
︑ま だ幾 つか ある
︒以 下︑ それ らの 箇所 を擧 げて みよ う︒
① 自北 土相 承流 支三 藏具 開經 作十 二分 釋︒︵ 巻一
︶
② 然分 雖十 二︑ 不出 因果
︒統 其始 末︑ 凡有 四周
︒護 念付 屬至 修行 分此 則 明因
︑法 身非 有為 分斯 則辨 果益
︑是 一周 明因 果也
︒次 從信 者分 至于 格 量此 則為 因︑ 感得 顯性 之果
︑此 則次 周明 因果 也︒ 既明 佛性
︑依 性之 修 行即 因義
︒有 因故 得果
︑即 利益 分︑ 謂三 周明 因果 也︒ 斷疑 為因
︑不 住 道為 果︑ 則四 周明 因果 也︒ 然此 之解 釋盛 行北 地︒ 世代 相承
︑多 歷年 序︒
而稟 學之 徒︑ 莫不 承信
︒余 鑽仰 累年 載︑ 意謂 不然
︒︵ 巻一
︶
③ 時長 老須 菩提 下︑ 若依 開善
︑此 則猶 屬序 分︑ 此之 一文 名歎 請序
︑今 謂 不爾
︑已 如前 説︒ 善吉 正問
︑如 來正 答︒ 如華 嚴普 慧二 百句 問︑ 普賢 二 千句 答︒ 何故 容割 問為 序︑ 截答 為正
︒北 地論 師云
︑此 文屬 十二 分中 護 念付 屬分
︑是 亦不 然︒
︵巻 二︶
④ 問︑ 根熟 與未 熟約 何位 耶︒ 答︑ 北地 論師 云︑ 根熟 菩薩 即是 内凡 習種 性之 人︑ 必能 趣於 初地
︑名 為根 熟︒ 若是 外凡 未能 必入 於初 地︑ 名為 未熟
︒(巻 二︶
⑤ 就明 因門
︑答 其四 問︑ 唯有 兩章 經文
︑由 來舊 釋︒ 初章 經非 答菩 提心 門︑ 乃是 答降 伏心 問︒ 次章 經答 其住 問︒ 後舉 佛果 答菩 提心 問︒ 北地 論師 云︑ 初答 其住 問︑ 不答 菩提 心問
︒今 謂幷 不然
︒︵ 巻二
︶
⑥ 又︑ 今辨 般若 正法 即是 法身
︑般 若非 為非 無為
︑即 是法 身︒ 非為 非無 為︑ 但為 對凡 夫二 乘身 是有 為故
︑歎 美作 無為 耳︒ 亦不 同北 土論 師︑ 謂如 來 身定 是無 為︒︵ 巻二
︶ 以上
①か ら⑥ まで の文 の内 容に おい て注 意す べき 事項 は︑ およ そ次 のよ う に要 約す るこ とが でき る︒ (一
︶﹃ 天親 論﹄ が菩 提流 支に よっ て譯 出さ れた 後︑ その 十二 分釋 經の 方式 が主 に北 土に おい て流 行し てい る︒ (二
︶吉 藏が
﹃義 疏﹄ を撰 述し た際 に︑ 北土 論師 の﹃ 金剛 般若 經﹄ の注 釋
書を 參考 にし たこ とが 認め られ る︒ (三
︶① と④ の文 を除 き︑ 吉藏 は主 とし て批 判の 態度 をも って 引用 した わ けで ある
︒ (四
︶そ の批 判對 象の 一人 は︑
③引 文の よう に開 善寺 の智 藏で ある こと が 明ら であ る︒ 開善 寺の 智藏
︵四 五八 袞五 二二
︶に 關し ては
︑﹃ 續高 僧傳
﹄巻 五に その 傳記 があ り︑ 梁代 の三 大師 の一 人と して よく 知ら れ︑ その 住止 した 寺名 に因 んで
﹁開 善法 師﹂ とも 呼ば れて いる
︒智 藏の 傳記 では
﹃金 剛般 若經
﹄を 誦し た力 をも って
︑延 壽の 報い を得 た靈 驗の 説話 は︑ 吉藏
﹃義 疏﹄ 第八
﹁明 應驗
﹂に も言 及さ れて いる
︒吉 藏の 著作 にお いて
﹁開 善云
﹂﹁ 開善 解云
﹂及 び﹁ 開善 之流
﹂等 の言 葉が 見出 され
︑と くに
﹁開 善之 流﹂ とい う表 現に よっ て︑ 開善 の説 を引 用す る際 に吉 藏の 批判 的態 度が 示さ れて いる
︒智 藏の 傳記 資料 及び 吉藏 の引 用文 によ れば
︑智 藏の
﹁般 若義 疏﹂ とい うの は︑ 實は
﹃金 剛般 若經 義疏
﹄を 指し
︑當 該﹃ 義疏
﹄で は經 文の
﹁時 長老 須菩 提﹂ 以下 が︑ 一般 に正 宗分 と科 判さ れる のに 對し て︑ 序分 に屬 する と判 斷さ れた のが 顯著 な特 徴で ある
︒と ころ で︑ 吉藏
﹃義 疏﹄ では 開善 寺智 藏の 名が 見ら れる とし ても
︑智 藏の 生卒 年及 び﹃ 義疏
﹄の 科文 から
︑彼 が﹃ 義記
﹄の 著者 であ ると は考 えら れな い︒ それ では
︑吉 藏の 著作 にい う﹁ 北土 論師
﹂は いっ たい 誰で あろ うか
︒﹃ 義 疏﹄ を含 めた 吉藏 の著 作か ら﹁ 北土 論師
﹂を 見て みよ う︒ 例え ば︑ 彼の
﹃中 觀論 疏﹄ 巻八 に﹁ 近代 人云
︑此 是北 土瑤 師分 之()
﹂と ある
︒こ こで
︑﹁ 瑤師()
﹂
33
34
とい うの は︑ おそ らく
﹃高 僧傳
﹄巻 七に いう
﹁法 珍︵ 瑤︶
﹂︑ いわ ゆる
﹁小 山 法瑤
﹂を 指す
︒彼 の傳 記に
﹁俗 姓楊
︑河 東人
︑宋 元徽 中卒
︑春 秋七 十有 六()
﹂35
とい う記 述が あり
︑法 瑤は 確か に吉 藏の 言う
﹁北 土論 師﹂ の一 人で あっ たと いえ る︒ また
︑吉 藏﹃ 大乘 玄論
﹄巻 一に
﹁攝 山高 麗朗 大師
︑本 是遼 東城 人︑ 從北 土 遠習 羅什 師義()
﹂と ある
︒此 の文 は﹁ 攝山 の高 麗朗 大師 が︑ もと より 遼東 城の
36
人で あり
︑か つて 北土 遠︵ 師︶ につ いて 羅什 師の 義を 研習 した
﹂と 理解 する のが 一般 的で ある が︑ そう では ない
︒と いう のは
︑こ れに 相似 する
﹁山 中法 師之 師︑ 本遼 東人
︑從 北地 學三 論︑ 遠習 羅什 之義()
﹂と いう 文が 吉藏
﹃二 諦
37
義﹄ 巻三 に見 える から であ る︒ 山中 法師 は即 ち朗 大師 であ り︑ この 文意 から みて
︑﹁ 從北 地學 三論 遠﹂ と解 する のは 不可 能に 近い
︒﹁ 遠習
﹂は 一つ の言 葉 とし て︑
﹁遠 望﹂
﹁遠 遊﹂ と同 じく
︑遠 くま で遊 學す るこ とを 意味 して いる
︒ した がっ て︑
﹃大 乘玄 論﹄ 巻一 にみ られ る﹁ 從北 土遠 習羅 什師 義﹂ の意 味は
︑
﹃二 諦義
﹄巻 三の 文に よっ て︑
﹁從 北土
︑遠 習羅 什師 義﹂ と解 すべ きで ある
︒ もし 強い て﹁ 北土 遠﹂
︑つ まり
﹁北 土遠 法師
﹂の 意味 と理 解す るな ら︑ その
﹁遠 法師
﹂と はい った い誰 であ ろう か︒ 上の 兩文 にい う朗 大師 は康 僧朗
︵法 朗︶ のこ とで
︑﹃ 高僧 傳﹄ 巻四 にそ の傳 記() が載 せら れて いる が︑ 生卒 年代 は
38
不明 であ る︒ なお
︑唐
・湛 然﹃ 法華 玄義 釋籤
﹄巻 十九 によ れば
︑彼 は齊 の建 武年 間︵ 四九 四袞 四九 七︶ 北土 から 江南() に移 った とい われ
︑こ の年 代記 事か
39
らみ れば
︑朗 大師 が東 晉の 廬山 慧遠
︵三 三四 袞四 一七 や︶ 隋の 淨影 寺慧 遠︵ 五 二三 袞五 九二
︶に 從っ て研 習し たと いう のは 不可 能で ある
︒し かも
︑今 日で は︑ 朗大 師が 他の
﹁遠 法師
﹂に 從っ て三 論學 を研 習し たと いう 記録 は見 當ら ない
︒ま た︑ 安澄
﹃中 觀論 疏記
﹄の 中に は﹁ 述義 云︑ 高麗 國遼 東城 大朗 法師
︑ 遠去 燉煌 郡曇 慶師 所受 學三 論()
﹂と 見え る︒ この 記述 から
︑朗 大師 は遠 く敦 煌
40
まで いっ て︑ 曇慶 師に した がっ て三 論を 學ん だと 理解 され る︒ これ によ って
︑
上文 の吉 藏著 作に いう 朗大 師が
﹁北 土﹂
︑或 いは
﹁北 地﹂ にお いて 研習 した 際の 師は
︑敦 煌の 曇慶 師で ある こと が明 らか にな る︒ 吉藏 の著 作に みえ る﹁ 北土 論師
﹂は いっ たい 誰で あろ うか とい う先 の問 い に對 して はっ きり 確認 でき るの は︑ 法瑤 と曇 慶の 二人 のみ にと どま る︒ 法瑤 傳等 の資 料に よれ ば︑ 彼に は涅 槃・ 法華
・大 品・ 勝鬘 等の 義疏 があ った が︑
﹃金 剛般 若經
﹄に 注釋 した 記録 は見 當ら ない
︒曇 慶に 關す る詳 細な 記述 も不 明で ある
︒﹃ 義記
﹄の 作者 は︑ どの 資料 に徴 して もこ の二 人に 歸す るの を立 證で きな いた め︑ 吉藏 著作 以外 の資 料に 目を 轉じ て檢 討し なけ れば なら ない
︒ 六
安澄
﹃中 觀論 疏記
﹄に 見ら れる
﹁琛 法師
﹂ 吉藏
は︑ 三論 學の 集大 成者 とし て︑
﹃中 觀論 疏﹄ 十巻
︑﹃ 百論 疏﹄ 三巻
︑
﹃十 二門 論疏
﹄三 巻及 び﹃ 三論 玄義
﹄一 巻等 の代 表的 著述 を殘 して いる
︒こ れら の論 書に よっ て成 立し た三 論教 學は 日本 にも 多大 な影 響を 及ぼ した
︒奈 良時 代末 期︑ 智藏 門下 の三 論元 興寺 派の 智光 は︑ かつ て﹃ 中論 疏記
﹄三 巻︑
﹃仙 光中 論疏 記﹄
︵と もに 散佚
︶等 の論 疏を 著し たと いう
︒ま た︑ 善議 門下 の 大安 寺派 安澄
︵七 六三 袞八 一四 の︶
﹃中 觀論 疏記
﹄八 巻が 現存 して いる
︒安 澄﹃ 中觀 論疏 記﹄ は︑ 吉藏
﹃中 觀論 疏﹄ に對 する 復注 であ り︑ 文中 では 多く の資 料を 引用 し︑ 詳細 に考 述を 行い
︑日 本最 古の
﹃中 觀論
﹄注 疏と いう べき もの であ る︒ 安澄
﹃中 觀論 疏記
﹄に みら れる
﹁琛 法師
﹂に 關し ては
︑筆 者が 調べ た結 果︑ 二人 の﹁ 琛法 師﹂ がい たよ うで ある
︒こ れは
︑吉 藏﹃ 中觀 論疏
﹄と の關 連が ある ため
︑ま ず﹃ 中觀 論疏
﹄の
﹁琛 法師
﹂に 關す る資 料を 擧げ るこ とに する
︒
(一
︶次 琛法 師云
︑本 無者 未有 色法
︑先 有於 無︑ 故從 無出 有︒ 即無 在有 先︑ 有在 無後
︑故
本 無︑ 此釋 為肇 公不 眞空 論之 所破()
︒︵ 巻二
︶
41
(二
︶如 琛法 師︑ 計諸 法本 來是 無︑ 從無 生有
︑即 是無 生也()
︒︵ 巻三
︶
42
上文 を一 見し て分 かる よう に︑ その 内容 は東 晉佛 教の 六家 七宗 にお ける 竺 法深
︵二 八六 袞三 七四 の︶ 本無 義と まっ たく 一致 して いる
︒第 一の 引用 では
︑ 吉藏 が﹁ この 本無 義は 僧肇
︵三 八四 袞四 一四
﹃︶ 不眞 空論
﹄を 批判 した
﹂と 解 説を 加え たこ とか ら︑ この
﹁琛 法師
﹂は おそ らく 晉・ 寧康 二年
︵三 七四 に︶ 没し た竺 法深 であ ろう
︒實 は︑ 第一 の引 用文 にい う﹁ 琛法 師﹂ は︑ 安澄
﹃中 觀論 疏記
﹄巻 三で は劉 宋・ 釋曇 濟﹃ 六家 七宗 論﹄ に言 及し た後 に︑
﹃高 僧傳
﹄ 巻三
︵現 在︑ 大正 藏本 は巻 四に ある 竺︶ 法深 傳か ら以 下の よう に引 述し てい る︒ 琛法
師者
︑晉 剡東 仰山 竺潜
︑字 法琛
︑姓 王︑ 瑯琊 人也
︒年 十八 出家
︑至 年二 十四
︑講 法花
︑大 品︒ 遊於 講席
︑三 十餘 年︒ 晉︵ 寧︶ 康二 年卒 於山 館︑ 春秋 八十 有九()
︒43 この
﹁琛 法師
﹂の
﹁琛
﹂は
︑﹃ 大正 藏﹄ 注記 の甲 本︵ 日本 大藏 經︶ では
﹁深
﹂と なる が︑
﹁琛
﹂と
﹁深
﹂に 對す る安 澄自 身の 説明 は︑ すで に第 三節 で 引述 した 通り であ る︒ しか し︑ 注意 すべ きは
︑安 澄﹃ 中觀 論疏 記﹄ には もう 一人 の﹁ 琛法 師﹂ が存 在し たと いう 握で ある
︒す なわ ち︑ 安澄 が竺 法深 傳を 引い て︑ しか も﹁ 琛﹂
﹁深
﹂及 び﹁ 探﹂ の異 同を 説明 した 直後 に︑
琛法 師是 作中 論︑ 百論 疏師
︑所 謂北 土三 論師 是也()
︒44 と記
して いる ので ある
︒安 澄文 の前 後關 係だ けか らな ら︑ この
﹃中 論疏
﹄
﹃百 論疏
﹄を 著し た北 土三 論師 であ った 琛法 師は
︑竺 法深 と同 一人 物で ある と判 斷で きる かも しれ ない
︒し かし
︑周 知の よう に︑ 龍樹
﹃中 論﹄
︑提 婆
﹃百 論﹄ は︑ 共に 羅什 によ って それ ぞれ 弘始 六年
︵四
〇四
︶と 同十 一年
︵四
〇 九︶ に譯 出さ れた ので ある
︒つ まり
︑晉
・寧 康二 年︵ 三七 四︶ に没 した 竺法 深が
︑没 後の 約三 十年 に譯 出さ れた
﹃中 論﹄ と﹃ 百論
﹄に 注釋 した 可能 性は 全く ない
︒北 土三 論師 であ った 琛法 師に 關し ては
︑安 澄﹃ 中觀 論疏 記﹄ 巻一 に︑ 疏云
︑二 者北 土三 論師 明者
︑是 第二 列北 土琛 法師 説()
︒45 とあ
るよ うに
︑吉 藏の 原文
︵疏 云の 部分
︑吉 藏﹃ 中觀 論疏
﹄巻 一︶ にい う北 土 三論 師に 對し て︑ 安澄 は﹁ 北土 琛法 師﹂ と解 説し た︒
﹁北 土琛 法師
﹂の 説と いう のは
︑吉 藏﹃ 中觀 論疏
﹄巻 一に
︑ 二者
北立 三論 師明
︑此 論文 有四 巻︑ 大明 三章
︒初 有四 偈︑ 標論 大宗
︒第 二從 破四 縁以 下竟 邪見 品︑ 破執 顯宗
︒第 三最 後一 偈推 功歸 佛()
︒46 とあ
るが
︑こ の﹁ 二者 北立 三論 師明
﹂の
﹁立
﹂字 は︑ 安澄 の上 掲文 に從 って
﹁土
﹂に 訂正 すべ きで ある
︒﹁ 北土 三論 師﹂ に對 する 安澄 の注 解に よっ て︑ 吉 藏﹃ 中觀 論疏
﹄が
﹁北 土琛 法師
﹂の 教説 を參 照し たこ とを 知り 得る 一方 で︑