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建築の社会学に向けて : アクターネットワーク理 論を主な手がかりとして

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(1)

論を主な手がかりとして

著者 牧野 智和

雑誌名 人間関係学研究 : 社会学社会心理学人間福祉学 :  大妻女子大学人間関係学部紀要

巻 22

ページ 51‑65

発行年 2021‑02‑12

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00006958/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

牧野 智和 * Tomokazu MAKINO

<キーワード>

建築,建築の社会学,アクターネットワーク理論,隈研吾,塚本由晴(アトリエ・ワン)

<要   約>

 私たちの行為は必ず何らかの物理的構築環境のもとでなされているが,そうした環境は社 会学においておおむね考慮の外に置かれてきた。本稿では,構築環境の最たるものといえる 建築に関する近年の人文・社会科学における研究および建築家の議論を参照して,構築環境 をいかに技術決定論のみに留まらない社会学的考察の対象としていけるのかを検討する。近 年積み重ねられ始めた建築の社会学的研究は,社会学の正統的アプローチのもとに建築を捉 えようとするものだが,それらはいまだ建築という物質的存在を十分考慮に入れることがで きていない側面がある。物質性やそのエージェンシーを真っ向から受けとめる立場としては 近年アクターネットワーク理論が注目され,人類学者によって先駆的な仕事がなされている が,隈研吾や塚本由晴(アトリエ・ワン)といった建築家自身の議論をみる限り,特定事例 を超えて一定の傾向をもったアクターネットワークの生成が企図されているようにみえ,こ のような傾向性をもったネットワーク=布置連関の探究こそが,未だ開拓されていない建築 への社会学的アプローチの一選択肢になるのではないかと考えられる。

*大妻女子大学 人間関係学科 社会学専攻 准教授

建築の社会学に向けて

―アクターネットワーク理論を主な手がかりとして―

Toward “sociology of architecture”

Considering actor network theory as the main clue

(3)

1.建築の社会学に向けて

 この論文を読み始めた皆さんは,一体どこで論 文を読んでいるだろうか。自室かもしれないし,

リビングかもしれない。この論文を書いている現 在はコロナウイルス禍の最中にあるが,それが収 束して(あるいは収束していなくても…)どこか のカフェの雑然とした雰囲気のなか読んでいるか もしれないし,もっと落ち着いた店でゆっくり読 んでいるかもしれない。公園のベンチ,電車のな か,駅のホーム,研究室,ほかにも色々あるかも しれないが,論文を読むという行為はほぼすべて 何らかのかたちで人為的につくられた物理的空 間,いわゆる構築環境build environmentのもとで なされているといえるはずである。このことに限 らず,私たちがなす行為のほとんどは,やはり何 らかの構築環境のもとで行われているといえるは ずである。

 ドイツの社会学者マルティナ・レーヴ(Löw

2000 20161)は,都市空間や仮想空間など,「空 間」に関する経験的な研究は多くなされてきたが,

その内実はそうした空間で起こる「現象」の研究 であったと指摘する。そしてレーヴは,エドワー ド・ソジャ(Soja 198920032)以来の「空間論 的転回」から時が経ってもなお,空間そのものの

「物質的かつシンボリック」な構造とその相互作 用の内実についての精緻化は進まず,多くの場合 研究から除外される環境条件にされてきたと述べ ている。

 私たちが日々営むさまざまな行為について,構 築環境はその条件から除外されるべきものだろう か。構築環境についての検討は,その専門家たる 建築関係者らに委ねればよいのだろうか。おそら くそんなことはないだろう。自室や研究室のよう に物理的に囲われた環境であること,あるいは一 部のカフェや公共施設のように開放感のある空間 であること,カフェ一般や電車内のように他者に 囲まれた環境であることなど,空間の構成・特性 は行為を促進ないし抑制する要因になったり(人 によって同じ環境が逆の作用を及ぼすこともあ る),あるいは行為そのものを発生させる条件や,

行為を不可能にする物理的障壁になりうる。学校 やオフィス,工場,病院,監獄など,特定の空間 配置を伴う建築形態(ビルディングタイプ)によっ て可能になる集合的行為も多数存在する(Foucault 197519773)。社会学的研究の多くは何らかの かたちで,行為そのもの,あるいは行為に連なる ものとしてのアイデンティティ,状況,社会的背 景を理解しようとするものであることを考える と,こうした構築環境と行為の関係性も,考慮に 入れられてよいことがらといえるはずである。

 構築環境を考慮に入れようとする場合,それは 技術決定論をとることになるのだろうか。本稿で は以下,構築環境の最たるものであり,つねに私 たちの生活に何らかのかたちで関わるものとして の建築――そのため冒頭の例も,ほぼすべて建築 空間についてのものだった――に関して近年積み 重ねられ始めた研究についてレビューを行ってい くのだが,意外にも,どの議論も単純な技術決定 論をとることはない。上述したレーヴの著作のタ イトルは『空間の社会学―物質性・社会構造・

行為』というものだが,建築に関する近年の人文・

社会科学領域での蓄積はまさに,構築環境の物質 性がそれ自体で完結するものではなく,それがい かに社会的なものといえるのかをさまざまな観点 から明らかにしてきた。また,構築環境を手がけ る建築家自身も近年,そのような物質と社会の関 係性をより明確に意識しながら自らの仕事を進め るようになってきている。本稿では以下,研究者,

建築家双方の知見をレビューしながら,建築とい う構築環境の最たるものに対する社会学的アプ ローチの可能性を検討していきたい。

2.建築への人文・社会科学的アプローチの現状

(1)社会・政治的実践として建築を捉える    ―ジョーンズ『建築の社会学』

 社会学の立場から建築について考える際,どの ようなアプローチがまず考えられるだろうか。管 見の限りでは,「建築の社会学」という言葉をタ イトルに掲げる唯一の書籍(日本語と英語のもの を探す限りでは)である,イギリスの社会学者ポー ル・ジョーンズによる『建築の社会学―アイデ

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ンティティを構築する』(Jones 20114)がある種 典型的といえるアプローチをとっている。

 ジョーンズ(2011: 1)は,建築家とその仕事が どう社会と関係しているかということは社会学者 による継続的な精査の対象にはなってこなかった とし,建築社会学の営みは建築実践とその帰結を,

政治経済的な条件のなかに位置づけることを目的 にするものだと述べる。このような目的の遂行に あたって,ジョーンズが主に依拠するのはピエー ル・ブルデューの議論である。ジョーンズ(2011:

1-3)は,建築は社会的アイデンティティを合法化・

自 明 化 し 再 生 産 す る 役 割 を 持 つ と 述 べ, ブ ル デューの「界」概念を参照していかに特定の政治 的体制がその権力を物質化・合法化しようと建築 を用いてきたか,またいかに建築家はその機会に おいて,当の建築物が求められる社会的状況と自 らのデザインの意図とを織り合わせ応えてきたの かを分析しようとする。ジョーンズが注目する建 築家(スターアーキテクト)の実践は,ベルリン のユダヤミュージアム,ロンドンのミレニアム ドーム,ニューヨークのグラウンド・ゼロ記念碑,

西欧諸国の都市再生プロジェクトなど,国家的と いってもよい大規模な建設プロジェクトをめぐる 表象的操作の実践である。その分析はしたがって,

ユダヤミュージアムのこのファサードはトラウマ や喪失の物質的な表現である,ミレニアムドーム は当時の労働党の多文化的なビジョンや「クール ブリタニカ」のリブランディングと関係している,

といったように建築物そのもの,もしくはその一 部の形態を,ナショナル・アイデンティティや「想 像の共同体」などの「大きな物語」に節合し,建 築物が埋め込まれる社会・政治的文脈において有 意味化しようとする語りの分析が主なものとな る。

 建築を事例に,その社会・政治・経済的な条件 や帰結を問おうとするアプローチは,社会学がこ の対象になしうるものとしてはまず考えられそう な,その意味で典型的・正統的なアプローチだと いえる。だが一方で,このような正統的なアプロー チを適用するのみでは,建築という対象を扱う意 味は半減してしまうと思われる。つまり冒頭で示

したように,建築物は私たちのあらゆる行為にお ける,まさに物質的な条件としてつねに在り続け ていることがこうしたアプローチではかなり低く 見積もられ,建築家の表象的操作に従属する対象 でしかなくなってしまうのである。このようなア プローチではレーヴが述べていたように,空間そ のものの「物質的かつシンボリック」な構造とそ の相互作用の内実が無視され,表象的操作を受け る静的な「コンテナ」(Löw [2000]2016)として 建築物が扱われてしまうことになる。

(2)建築の物質性を行為の資源として捉える    ―レーヴ『空間の社会学』

 レーヴがこうした主張を行ったのは『空間の社 会学』という書籍であり,建築物は空間論の一事 例でしかないが,その副題が「物質性,社会構造,

行為」であるように,物質性が人間の行為にどう 影響するかを考えようとする点で建築社会学の手 がかりになりうると考えられる。実際,次項で紹 介するアンナ・リサ=ミュラーらの論文集はレー ヴに大きな影響を受けて書かれている。

 レーヴの議論を一言でまとめるならば,空間と その物質性を考慮に入れた行為理論の提案といえ るだろう。彼女が出発点とするのはアンソニー・

ギデンズの構造化理論で,行為と,行為がなされ るにあたって利用される資源の傾向性・規則性(構 造)との関係性を考えていく際に,これまでほぼ 考慮されることのなかった物理的空間の作用を組 み入れようとするものである。

 レーヴはまず,空間とは「つねに動き続ける物 体をめぐる関係的配置」であるという初発的仮説 を提示する。ここでいう物体には,人間(生物)

の身体と,ドアや壁,窓,棚,テーブルといった モノの双方が含まれる。レーヴは,人間が行為を 行うにあたってそのような関係的配置が合成的に 認識されるとし,その際に住居におけるフロアプ ランの形態,スーパーマーケットの物理的配列,

法廷における各人の着席場所の規則,駅や歩行者 ゾーンでの交通ルールなどのような「制度化され た配置」が個人を超えた効果,つまり構造的な効 果を及ぼすという。これは再帰的なプロセスであ

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り,空間の物理的な配置が安定的・反復的に人々 の行為の資源となることで,人々の振る舞いも同 じように安定化・反復化し,それが社会生活およ び行為者の継続とそれに伴う存在論的安心をもた らすとされている。レーヴは,こうした再帰的プ ロセスのなかで,制度化された配置は人々の行為 の「事前制御」に関わると指摘する。

 制度化された配置は広い意味で建築に属するも のであり,その意味で人々の空間認識とそれにも とづく行為のあり方は,プランニングや建築の専 門家に事前に構築された,高度に慣習化・具体化 された実践であるとレーヴは述べる。だがその一 方で,すべてが人為的にコントロールされて制度 化されるとレーヴは考えているわけではない。行 為を根底的に規定している資源にはコントロール 不可能な側面をもつ自然環境があり,またたとえ ば階段の素材が大理石か木であるかによって,そ の素材が放つ物理的および象徴的な効果が異なり

(これもまた専門家に操作されるものではある が),また匂いや音など,モノ自体がときに偶発 的に発する何かが個々人の空間構成に影響を与え ることもあるという。レーヴは明確に,人間は自 らを空間のなかに配置し,移動し,意思決定する ことにおいてよりアクティブな存在といえるが,

モノが受動的なオブジェクトであると考えるのは 行為を考察するにあたっては不十分で,今述べて きたようなかたちでモノは空間構成に影響を与え るとしている。

 もう一つ,レーヴの議論で興味深いのは,行為 に利用される空間的資源はジェンダーや階級など の社会的属性によって異なると指摘している点で ある。まずジェンダーについていえば,性別によっ て配置される空間,あるいは同一空間内での配置 や位置取りが異なることをレーヴは指摘する(こ れらは配置のされ方の相違,また同一空間内にお いて何が行為の資源として選択されるかの相違と いう双方において社会的である)。階級について は,たとえば公的空間と私的空間を分離させるよ うな価値意識,プライバシーを保障する居住空間 のあり方はそれぞれより中産階級に親和的なもの で,空間内部におけるモノの揃え方や配置の仕方

も階級によって異なるという。こうした階級的影 響を受けながら,特定の配置の仕方が制度化され ていくことがあるとレーヴは述べ,その一例とし てリビングルームの配置を挙げている。日本の事 例でいえば住宅広告のリビングルームにおいて,

そこでの空間構成やモノの揃え方,配置のあり方 がいかにも特定の階層を想定したつくりになって いることを思い浮かべてもらうのが分かりやすい だろう。さらにレーヴは,同一の空間が階級によっ て異なって構成・利用される可能性があるとし,

ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』

Willis 197719855)をそのような観点から解 釈している。

 行為理論に物質性を伴う空間(建築を含む)の 作 用 を 組 み 入 れ よ う と す る レ ー ヴ の 試 み は,

ジョーンズとはまた異なるが,社会学による建築 への,別様の正統的アプローチだといえるだろう。

物質性を考慮に入れ,ジェンダーや階級などとの 関係性もフォローするそのアプローチは非常に包 括的といえるのだが,しかしながらまだ,物質性 の考慮は控えめであり,議論の主役はあくまでも 人間である。これ自体は必ずしも批判されること ともいえないのだが,近年注目を集めているのは,

よりラディカルに人間とモノ(建築)の関係性を 問い直そうとする立場である。

(3)建築の社会学的アプローチの確立を目指す    ―ミュラー/ライヒマン『建築・物質性・

   社会』

 このラディカルな問い直しを理論的に支えてい るのは,ブリュノ・ラトゥールらによって開始さ れたアクターネットワーク理論(ANT)である。

ANTについてはラトゥール自身のものをはじめ

Latour 200520196),多くの解説があるため 本稿ではそれをくり返さないが,建築をめぐる議 論に導入される要点は,建築を含むモノのエー ジェンシー(行為を生み出す力,行為者性)を排 除せず積極的に注目し,人間とモノという両極を 切り分けずにそれらがハイブリッドに絡み合う関 係性=ネットワークそのものを追跡されるべき

「連関」ないしは「集合体」とし,その追跡にあたっ

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て外在的(社会的)な観点をあらかじめ立てて解 釈しようとしない,といった点である。

 上述のレーヴの議論を念頭に置きつつ,ANT 含意を取り込もうとしているのがドイツの社会学 者アンナ-リサ・ミュラーとワーナー・ライヒマ ンを編者とする論文集『建築・物質性・社会――

建 築 の 社 会 学 と 科 学 技 術 社 会 論 を 接 続 す る 』

Müller and Reichmann 20157)である(1)。ミュラー らはANTを参照して,建築を物質として真剣に 受け止めることができる理論的枠組の策定を目指 しているのだが,上述したとおりレーヴの議論に 強く影響を受けているためにそのスタンスは折衷 的といえるものである。ミュラーらが提案するの は,建築,物質性,空間,社会的文脈という四つ の領域を「それぞれに明確な境界線があるもの」

として区分し,その相互の影響をケーススタディ においてみていくというアプローチである。社会 的文脈を最も大きな分析のスコープとし,そのな かに空間,さらにそのなかに物質性,そして建築 が埋め込まれるという図解に由来して,このアプ ローチは「建築社会学の目玉焼きモデル」と命名 されている。

 ミュラーらのアプローチにおいて,物質性はそ れ自体によって効果をもつもので,それを所与の ものとしてしまうのは人間であること,分析の(最 小)スコープとして建築を明確に選んでいること はこれまでにない「前進」といえる。だが,建築 物がつくられるプロセス,専門分野としての建築 学,建築のスタイルなどを考慮に入れないとし,

成果物としての建築とその構造にのみ注目すると している点や,物質性をいわゆるモノのみに限定 し,レーヴが考慮に入れた人間(および生物)の 身体を除外している点などにおいて,建築という 対象をかなり切り縮めて捉えている点が否めな い。もちろん,建築という領域は実に広く深いも のであるのだが,初発的にこういった限定をかけ てしまうことは,建築への社会学的アプローチの 可能性を狭めてしまうことになりかねないだろ う。

 また,「目玉焼きモデル」というアプローチを とることは結局,同書が扱う問いが「社会性が建

築にどう影響するのか,建築が社会にどのような 影響を与えるか」であるとされているように,

ANTが批判するところのモノと社会を二分する思 考枠組に留まることを意味する。そのためか,実 際のケーススタディのうち物質性が考察の中心に 関わってくるのは全10章のなかでも少数である ようにみえる。その内容も,市民の建築スケッチ

(というモノ)が市役所のカウンターのデザイン にどう影響を及ぼしたか,移民用住居の物質的な 低機能性がいかに彼らの生活習慣の変更に影響し たかといった,それらに意味がないとはいわない が,建築の営みからすればかなり周縁的といえる ようなものである。それ以外の章は,アートギャ ラリーの空間解釈と社会的属性の関係,議会の建 設をめぐる政治的意図,近隣計画をめぐる反対運 動の歴史,工場跡地の活用をめぐるプランニング などを扱うもので,ANTというよりはジョーンズ のアプローチに近いものもみられる。これらをみ る限りでは,建築の社会学的アプローチは未だ散 発的な蓄積の途上についたばかりという印象を受 ける(2)

(4)建築をめぐるアクターを追跡する    ―ウダール・港『小さなリズム』

 建築を対象にANTのアプローチをより忠実に 実行しているのは,ラトゥールの薫陶を直接受け たフランスの人類学者たちである。ANTにおける 数少ない公準である「アクターを追う/に従う」

を最もインテンシブに行っているといえるのがソ フィー・ウダールと港千尋の『小さなリズム』

Houdart and Minato 200920168)である。

 ウダールは建築家・隈研吾との交渉の結果,彼 の設計プロジェクトに配属され,建築事務所での 日常的な作業や,遠方のクライアントと隈との「打 ち合わせ」に留まらないさまざまなコミュニケー ションを観察していく。スターアーキテクト一般 がある程度そうといえるように,隈は非常に饒舌 に自らの建築について語る人物だが(これについ ては後述する)(3),ウダールの記述には隈自身の まとまった語りはほとんど出てこない。また,建 築についての学術的な書籍一般が何らかそうする

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ような,完成した建築物についての評論は冒頭と 最後に少しなされはするものの,記述の中心であ るフィールドワークに関する箇所ではほぼなされ ない。そこで記述されるのは実に多様な,異種混 交的なアクターがいかに関係し合って,建築プロ セスのある一部を進行させていくのかについての ディテールである。そのアクターは隈自身,彼の 事務所のスタッフ,プロジェクトに要求を行うク ライアント,素材を加工する職人といった人間に 留まらない。隈の描いたスケッチ,隈らがクライ アントに案内され訪れた現地の風土,スタッフが 試行錯誤して作成するいくつもの模型やパース,

アナログな作業を行うためのコピー機や裁断機,

パース作成やレンダリング等を行うハードウェア とソフトウェア,役所の規制ないしは許可,「日 本的文化」などのイメージ,そこに接続可能なも のとして隈が出合い可能性を感じた素材など,

ANTの用語でいえば「非―人間」アクターが無数 にそこには連なっている。

 ある建築物が出来上がっていくプロセスは決し て線型ではない。また,設計プロセスの進行にか かわる決定的な契機をウダールが描くことはな く,プロジェクトの終了までを記述するというこ ともない。ウダールが描くのは,プロジェクトの いくつかの場面において,多種多様なアクターが さまざまなかたちで出合ってはすれ違うことをく り返すなかで「複数のヴァージョンが連なり,積 み重ねられ,次々と情報を生み出し」ながら,「織 物」のようにそれらが少しずつできあがっていく

「制作過程の作品が遭遇するさまざまな小事」「人 間と非―人間の関係のディテール」である(2009

2016: 40, 60, 196, 202)。たとえば,隈の建築が 目指すことの一つに「ひとつの声しか持っていな いような素材を探し,その素材に別の声を出させ る手法を考えだそう」(20092016: 197)という ものがあるとされるが,これが実際に取り組まれ るプロセスのなかで,素材はその特有の耐久性,

熱や反射,印象などによってアクションないしは 抵抗を起こし,隈らの行動に影響を与える。一方 で,技術的にそうした声の発生が可能になった素 材の利用に建築法規が立ちはだかったとき,ス

タッフは試行錯誤してその素材の解釈を修正する ことで,法規に引っかからずに建築物にその素材 を接続しようとする4。このような,そのエージェ ンシーにおいて「交換可能な位置を占めているよ うに見える」(20092016: 202),一方向的な関 係ではない人間と非―人間の小さな戯れがくり返 されるなかで,建築物をめぐるハイブリッドな ネットワークは少しずつ生成されていく(そして それは,つねに変化にさらされ,変容し続けるも の で も あ る )。 ウ ダ ー ル が 描 こ う と し た の は,

ジョーンズが行おうとする巨大建築物の壮大な表 象的操作の分析からは零れ落ちてしまう,建築を めぐる細部のアセンブラージュ(寄せ集め)の様 態であった。

(5)建築をめぐるネットワークの諸様態

   ―ヤネヴァ『建築を政治化する 5 つの方法』

 ラトゥール自身はアルベナ・ヤネヴァとの共著 論文「銃を与えたまえ,すべての建物を動かして みせよう―アクターネットワーク論から眺める 建築」Latour and Yaneva 20082016)9)のなかで,

建築についてのANT的スタンスについて端的な 言及をいくつも残しているが,それらのなかはウ ダールの研究の解題ともいえるようなものがいく つかある。いくつか引用しておこう。

「建築物とは本来,静的なオブジェクトではな く動いている『プロジェクト』である。一旦建 てられれば経年変化し,利用者によって姿形を 変え,建物内外で起きる出来事によって変更を 加えられ,修復され,さまざまなものが混在し ながら原型を留めないほど変わりゆく」

「製図と模型は,建築家の脳内で湧き上がるファ ンタジーを即座に翻訳する手段ではない。また,

デザイナーの発想を実体ある形に落とし込み,

強靭な『主体的』想像力をさまざまな『マテリ アル』な表現に変えるようなプロセスでもない。

むしろ,これら数百もの模型と製図は,触知的 な想像力を促し,クリエイターを絶対服従させ るかわりにあっと驚かせ,建築家の奇想天外な アイデアを具現化し,建築物を取り巻く新しい

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知見を提供し,今まで実現不可能だったような シナリオを作るのを手助けしてくれるものだ」

「建築物は,物議を醸すようなデータスケープ の『航路』として描かれるべきなのだ。すなわち,

活気に満ち成功と失敗を繰り返すプロジェクト のシリーズとして,不安定な定義と専門知識が つねに入れ替わる軌道として,扱いにくい素材 と建築技術がもつれ合う軌跡として,そして ユーザーの気まぐれな関心とコミュニティに よってコロコロ変わる評価の連なりとして描か れるべきだ」

 この論文の共著者であるヤネヴァの単著『建築 を政治化する5つの方法―デザイン実践の政治 学への招待』(Yaneva 201710)では,こうした言 及をウダールと同様に引き受けつつ,より多様な 観点からANTによる建築へのアプローチが検討 されている。ヤネヴァは自らのアプローチを示す にあたって,政治経済的な文脈によって建築は規 制・条件づけされ,そのことによって建築は権力 を代理表象・具現化し,集合的アイデンティティ を構築するといった従来的な見方について(上述 したジョーンズにも言及しながら),建築=モノ と政治=人間の世界を二分法的に捉え,建築家ら 人間を創造性の真のエージェントとみなすことに 疑いをもたず,また建築物それ自体やそのプロセ スから遠く離れて因果関係を説明しようとするも のだと批判する。それに対して自らのANT的ア プローチは,物質性と政治というものがいかにし て合体しているのか,デザイナーは「モノとのオー プンエンドで対称的なダンス」のなかでハイブ リッドなアクターネットワークとしての建築の創 造プロセスにいかに関わっているのか,また建築 から外在的にではなくそのプロセスにおいて社会 経 済 的 事 項 や 技 術 的 設 定, 制 度 な ど が ど う パ フォーマンスするかに注目しようとするものだと 述べる。このようなアプローチによって,モノを 無視した巨視的な視点からは捉えることができな い,常に動き続けるプロジェクト,変化し続ける 連なりとしての建築,「作られているものとして の建築」の微細な様態を明らかにすることができ

るという。

 こうしたプロセスは,ANTがしばしば批判され る,政治的な議論からの撤退を意味するのではな い。ヤネヴァは上記のようなアプローチによって,

建築は国家に規制され,また国家のイデオロギー を表象することによってのみ政治的であるとする のではなく,実践の「物質的な再形成」,つまり モノと人間を(再)グループ化し,モノと人間の エージェンシーの再分配に関係し,新たな問題や 議論を創発し,人間の経験やコミュニティの反応 を変容させるという意味でも政治的であるとみ る,別様の建築の政治論を提案しようとしている。

 このようなアプローチの実行は,建築物それ自 体をできあがったオブジェクトと捉え評論するこ と や, 一 度 限 り の フ ィ ー ル ド ワ ー ク や イ ン タ ビューではなしえないという。つねに動き続ける 建築のプロセスを捉えるためには「顕微鏡的」「強 迫的」に建築の慣行や設計プロセスに密着する必 要があり,そのなかでアクターをあらかじめ限定 せず観察された人間・非人間すべてのふるまいを 検討し,それぞれがどう接続・循環して現実がど う秩序づけられているかについて,外的変数を解 釈に用いるのではなくネットワークの微細な様態 に注目して記述することが必要だという。そのよ うな研究のみが,起こっていることの微妙な質感 の理解を可能にし,またそのケース内での一般化 に貢献することができるとされる。

 より具体的にヤネヴァは,5つの観点および事 例から建築の政治性を記述しようとする。第一の 事例では,大学校舎のアトリウム内部の動線デザ インによってさまざまな属性の人々とモノが意図 せずして混ざり合い,部屋の開閉システムや講堂 の空間配置によって学生の帰属意識や講師との関 係性が喚起されるといった,モノのネットワーク のなかで人々の行動が誘発されるという意味での 建築の政治性が検討される。第二の事例では,デ ザイナーが駅の改築に際して,市議会の要求や規 制,駅ビルの主要なテナントである百貨店(クラ イアント)の希望,反射の制御が難しい太陽光,

太陽光を解析する解析ソフト,太陽光の反射を受 ける電車の運転手などの関係をいかに調整し,異

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種混交的な集合体を組み立てていくか,そのプロ セスが追跡される。第三の事例では,都市再生プ ロジェクトにおいて,各種解析やソフトを用いて 生成される建築イメージが都市生活のイメージを 喚起し,それにもとづいて操作されるべき現実的 状況を新たに作りだしていくプロセスが検討され る。第四の事例では,リノベーションプロジェク トにおいて,数百年前の建物の素材や構造が明ら かになってくるなかで作業計画の再考が促され,

また保存や改装をめぐる議論が引き起こされると いったモノからのアクションによって人々とモノ をめぐるネットワークが作り直されていくプロセ スが検討される。そして第五の事例では,建築プ レゼンテーションにおいて人間とモノがどのよう に表現され,関係づけられているのかが分析され る。こうした事例の分析からヤネヴァは,建築物 とそれに関する物理的な配置のデザインは,社会

―物理的な関係性を構築し,何らかの新たな差異 を生み出すという点で政治的であるということ を,対象と分析の観点を変えながら重ね書きしよ うとしている。

3.建築家とアクターネットワーク理論  ANTは今日,追跡しきれないほど多種多様な領 域において応用され,その際の参照点も領域や論 者によってかなりのバリエーションがある。こう した状況を受けてジョン・ロー(Law 200811) ANTの性質を「感受性」や「道具箱」として表現 しているが,多種多様な応用においても,上述し た数少ない公準といえる「アクターを追う/に従 う」は守られていることが多い。しかし,ネット ワークの記述は必ず事例特化的でなければならな いのだろうか。たとえばヤネヴァが記述した大学 アトリウムのデザインは,日本ではたとえば山本 理顕による公立はこだて未来大学(2000)のデザ インにかなり通じるところがあり,またそれに留 まらず建築家たちが異口同音に目指そうとする大 学建築のあり方であるようにみえる(たとえば『GA

JAPAN 146 大學の建築』(2017)など)。確かに,

一つ一つの建築物をめぐる自然環境,規制,建築 家,工務店,学生,大学の歴史などネットワーク

の構成要素は当然異なる個別解としかいえないも のだが,そうした相違を超えて,反復的に生成さ れようとするネットワークのパターン,ないしは 傾向性が何がしか存在すると考えることはできな いだろうか。ヤネヴァは,一つの事例から抽象的 な一般化ができるとするのはナイーブな考え方だ と述べているが,複数の事例から帰納的に傾向を 推論することはANTという感受性の活用として 許容されざる逸脱なのだろうか。本稿の筆者は,

ANTを取り入れて自らの設計意図を説明しようと する以下のような建築家の議論・実践をみていく と,そのような推論は不可能ではない,検討して みる価値はあると考える。

(1)反オブジェクト的・粒子的建築―隈研吾  ウダールの研究対象となった隈研吾自身が自著 においてANTについて言及するのは,管見の限 2020年の『点・線・面』12を待たねばならな いが(『小さなリズム』の「あとがき」を除く),

それ以前から彼が目指している建築はANTに非 常に親和的といえる志向をもっているように思わ れる。

 たとえば2000年の『反オブジェクト論』13) おいて隈は,モダニズム以来の伝統的・通常的な 建築を「自己中心的で威圧的な」雰囲気を持ち,

透明で,「周囲の環境から切断された」物体とし て建築を捉えようとしてきたと批判し,そうした 孤立的物体を「オブジェクト」と呼んだ。それに 対して隈は,私たちは物質の中で生きているため に物質を放棄することはできないが,周囲の環境 からの「切断を可能な限り回避しよう」とする建 築を志向し,それを「反オブジェクト」と名付け る(隈[2000] 2009: 7-8)。

 隈はブルーノ・タウトを引き合いに出しながら,

建築を「客体(オブジェクト)」とみなすのでは なく,環境と「主体を接続する媒介」とみなす着 想を示す。オブジェクト的建築は,人間がそこを 訪れても「主役はあくまでもオブジェクトのまま であり」,「空間は少しも動くことなく,凍りつい たままである」のに対し,反オブジェクト的建築 は入り込んだ人間の身体,着物の色彩,置かれて

(10)

いるモノの色彩などによって「関係性の網の目」

が変わり,空気が一変するような性質を有すると いう。このようにして,「主体と世界の間に介在 する媒介装置」として建築が定位されたうえで,

「屹立する建築ではなく,主体と世界を繋ぐきっ かけとなるような建築」を,物質という具体的な 材料を用いながら目指そうとする隈の仕事の一つ の 方 向 性 が 同 書 で は 掲 げ ら れ て い る([2000 2009: 55-6, 81-2, 104)。建築は,人間と関係を取り 結ばない冷たい物体ではなく,人間とともに関係 性の網の目を構成し,人間に何らかの影響を与え うるものだというのである。

 関係性を構成する網の目・媒介として建築を位 置づけるスタンスは,より具体的には隈の代名詞 ともいえる「粒子」などの制作手法と直結してい る。『反オブジェクト』では1995年の「水/ガラス」

におけるルーバー(細長い羽板を隙間をあけて平 行に並べたもの)の選択について,それを光の変 化に対しルーバーが「最も敏感に応答」し,「環 境に応じ主体との関係性に応じ,様々な姿で立ち 現 れ る 」 た め だ と 説 明 し て い る([2000]2009:

233-4)。こうした手法による建築実践が積み重なっ たのち,2018年の『場所原論Ⅱ』14)では「粒子」

に加え「孔」「斜め」「時間」といった手法が自ら

の建築を振り返りつつまとめられている。それぞ れについて概観すると,まず「粒子」については,

「実際に建築を体験する人間の立場,地面の上を 歩く人間の目線,孔の中を歩きまわる人間の立場」

を考えて,認知の手がかり,関係性の手がかりと して粒子を基調とするのだと説明されている。小 さい木材を組み合わせて建物全体を支えるように したスターバックス太宰府天満宮参道店(2011 などがその事例である(2018: 14, 38-41)。次に「孔」

は,無数のつながりによって自然に空間と人間を 開き,そのことによって「つなぐだけでなく,我々 をしっかりと包み込む」方法論として説明されて いる。川に向かって,また屋根にも沢山の孔をあ けることで街と自然を実際の自然のようにスムー ズにつなぐブザンソン芸術文化センター(2013 などがその事例である(2018: 19, 52-5)。アオーレ 長岡(2012)は,木材を小さな粒子にして全体を 組むことでヒューマンスケールを生み出そうと し,またナカドマと呼ばれるオープンスペース

(孔)を中心に構成されているという点で,「粒子」

「孔」の双方を活用したものだといえる(2018: 56- 61)。「斜め」は,建築と自然と対立させるのでは なく「内部と外部とをスムーズにつなぐ」ことが 可能になるものだという。中心に吹き抜け(ヴォ

TOYAMA キラリ(2015,著者による訪問は 2020 年 2 月 14 日)。ファサードは,富山の産業であるガラス,

アルミ,石を小さなサイズ(粒子)にして向きを少しずつ変えて構成されている。内部の中心に通された エスカレーター周辺のヴォイドは斜めの吹き抜けになっており,斜め上に抜ける視界のなかにはやはり向 きを少しずつずらして散りばめられた粒子上の杉板が入り込み,それらに拡散された天井からの自然光と ともに「森の中にいる」(隈 2018: 94)ような建築空間が企図されている。

(11)

イド)を斜めにすることで,グラウンドレベルの 街の賑わいをスムーズに上下につなごうとし,ま た粒子的な設えによって森の中のような状態の光 をつくりだそうとするTOYAMAキラリ(2015 などがその事例である(2018: 27, 92-7)。「時間」

については「その場所で長い時間用いられてきた 材料を使い」,そのことで場所と建築に有機的な 関係を取り戻すといった目的が説明されている。

その場の地形をむしろ残して大地とのつながりを 感じてもらおうとするla kagu(2014)などがその 事例である(2018: 34, 120-3)。

 2020年の『点・線・面』における隈のANT の言及において,ウダールの仕事は「新しい視界 を開いてくれた」と述べられているものの,これ までにみてきた隈の建築(観)を何かしら新たに 書き替えるというよりは,それを補強するような 意味合いで用いられているように思われる。つま り,「建築は少しも固定されていない」ということ,

「小さな粒子が流れ続ける場であること」,「物と 人とはからみあい,影響を与えあいながら,運動 方程式では解きようのない,複雑な網を作りあげ て」いることなどがANTおよびウダールの仕事 の含意として言及されているのだが(隈 2020: 23- 5),これらはそれ以前からの隈の建築(論)にお いて示され続けていたことだといえるのではない か。

 隈の建築(論)がスムーズにANTと接続可能 なものであることは,ウダールの仕事を成功させ た一因でもあるように思われるのだが,それはさ ておき,より微細にはウダールが観察・記述した ようなネットワークが個々の建築プロジェクトに おいて生成されている一方で,隈自身はANT 親和的といえる人間と建築,あるいは環境のハイ ブリッドな接続を,個々の建築物を超えて反復的 に生成しようとしてきたとみることができるので はないだろうか。もちろん個々の建築は個別解と して,それぞれ別様のアクターネットワークに よって構成されるものだが,人間,建築,自然を 別様に孤立させることなく,いくつかの方法論的 な仕掛けによって有機的に接続させ,建築に媒介 される人間に何らかの影響を与えようという,ウ

ダール(ANT=蟻の眼)よりも高い視点を持ちあ わせて,隈は複数のネットワークの構成そのもの に言語・物質両面において働きかけてきたといえ るのではないだろうか。

(2)ハイブリッドなふるまいの生産    ―塚本由晴

 塚本由晴(アトリエ・ワン)は,よりANT 自覚的に取り入れながらその建築(論)を展開し ているようにみえる。塚本の著述でANTが初め て言及されたのは2014年の『コモナリティーズ

――ふるまいの生産』15)ではないかと思われるが,

それ以前からの彼の建築(論)においては,ANT が既に参照されているような,そうでなくとも非 常にANTと親和的であるような議論の展開がみ られる。

 まず,2009年の『空間の響き/響きの空間』16)

では,以降の塚本の議論においても繰り返し使わ れるキーワードである「ふるまい」の主語が,人 間以外にも拡張されていることを既に確認でき る。たとえば「人間のみが空間の主体であるとい う前提」に疑問を呈し,生物・無生物双方にとっ ての維持・存在条件を整えることで,「無意識の パフォーマンス」としての「ふるまい」を十分に 引き出すことができる空間配置の提案がなされて いる。あるいは,「建物の変化のパターン」を建 物のふるまいとみなし,建物固有の秩序の生成を 捉えていくことで,まち(ここでは東京)の可能 性を引き出していくことができるという主張など がなされている(アトリエ・ワン 2009: 67-8, 91- 93)。

 ふるまいの主体の拡張に関してより端的なの は,塚本が東京工業大学の研究室で取り組み続け ている「窓のふるまい学」である。文字通り,窓 をただの一部品とみなしてしまうのではなく,壁 などの囲いに部分的な開きを作って内外の交通を 可能にするふるまい(働き)を有するモノと捉え,

そこに関連してくる異種混交的なアクター(まだ この時点で塚本はアクターという言葉を用いては いないが),たとえば「窓を通して入ってくる光 や風,そこにたまる熱,その熱に寄り添い外を眺

(12)

める人,街路を歩く人,庭に広がる緑,といった 窓に隣接する物事」へと関心を拡げ,その「様々 な要素のふるまいの生態系」の中心として窓が捉 えられようとしている。それぞれの風土において 光や風,水や熱は独自のふるまいを起こし,その 形成物である日だまり,風通し,景観などに応じ て窓の形状や,開け閉めなどの人々の利用形態が それに接続される。同様の形状の窓が連なること は,都市空間におけるリズムやパターンをつくり 出すことにもつながっていく(東京工業大学塚本 由晴研究室編 2010: 24-617)。こうして窓をめぐっ て歴史的な「系譜」が蓄積していくことになるが,

そこには居住性の確保や防災などをめぐる明文化 された取り決め,つまり「制度」が連なり,また 地場においてつくられるものなのか,工場で大量 生産されるものなのかといった技術的な「生産」

のあり方も関係してくると考えられている。その なかで「系譜」「制度」「生産」がどう関係しあっ て窓のあり方,ひいてはまちのあり方をつくり出 していくのかを検討することができるともされて いる(2014: 19, 285)18)

 異種混交的なアクターの,多種多様な連なりの 生成とその展開。『窓のふるまい学』の第2巻が 刊行された同年の『コモナリティーズ―ふるま いの生産』では,このようなANT的といえる理 解の枠組がより踏み込んだ主張として展開されて いる。塚本は,モダニズム建築もそこに関わって きた人々の客体化が進行するなかで,つまり多種 多様なふるまいやスキルを有することが想定され ない「空っぽな身体」として人々が位置づけられ,

ただ「計量可能な人々」として私的・共用・公的 空間を一人ないし世帯当たりの面積で割り当てら れてまちがつくられていくなかで,人々は公共の 場での自由なふるまい方を忘れてしまったという ある種の疎外論を議論の出発点とする。その結果 人々は,他人に迷惑をかけないことを求める多種 多様な禁止事項,つまり引き算の観点でしか空間 利用を考えられず,せいぜい消費という形態でし か空間に関われなくなりつつあるという。こうし た状況について塚本はラトゥールを参照し,それ が既に政治・経済・工学などのハイブリッドとし

て構成されているために頑強なのだとしている

(アトリエ・ワン 2014: 7-8, 12-3, 45-6, 284)。

 ここに上記のふるまい学(ビヘイビオロロジー)

が接続される。塚本は,ある場所における人々の ふるまいや建築のタイポロジー(『空間の響き/

響きの空間』ではこれもふるまいと表現されてい た),特にその場所を特徴づけるようなふるまい は自然環境,技術,それ以前の人々の活動,制度 などが絡み合って生成されるものだという。これ を塚本は「固有のふるまいの生産ラインのような もの」と表現し,そのためそうしたふるまいは「主 体や個体の違いを超えて反復される」ものである という。そして,「自然のふるまい…文化的スキ ル…それらを配置する社会基盤や建築物など」に よって構成される「事物の相互連関」としての反 復的ふるまいに注目し,それを読み解いていくこ とで「計量可能」で「空っぽ」な人間観から脱し,

またある場所・まち・地域に結びついたそのよう な「自律的なふるまいの生産を守り,拡張するこ とができる」と塚本は述べる。こうしたなかでア クターという言葉がいよいよ用いられ,ふるまい 学とは「ふるまいの主体を人に限らず,自然の要 素,建築のようなモノにまで広げ」るもので,「そ れら多様なアクターのふるまいが好きなように,

素直にふるまうことができる共存状態(=「コモ ナリティ」:引用者注)を目指そうということ」

がその目的として掲げられる(2014: 46-51)。

 塚本において,ANTは複数の観点から用いられ ているようにみえる。まず,ラトゥールを参照し て述べられていたような,人々の生活の断片化を 促進する空間生産のハイブリッド性の指摘を行う ための批判的観点として。次に,今述べてきた,

異種混交的なアクターのふるまいが生成・増幅す る望ましい空間に言及する際の観点として。主に 念頭に置かれているのは,議論の展開からも分か るようにパブリックスペースにおけるふるまいの 生成であり,より直接的には「コモナリティに軸 足を置いたパブリック・スペースのデザインは,

事物の相互連関を豊かにする方向で社会的な合意 を取りつけ,人々の自律的なふるまいが安定して 反復されるように,物理的な設えを提案すること

(13)

になるだろう」と述べられ,『コモナリティーズ』

における世界各国のパブリックスペースの評価も このような観点から行われている(2014: 50-1)。

 もう一つの観点は,『コモナリティーズ』以後 に多くみられる,建築をめぐるアクターネット ワークの形成を捉える際の観点としてである。

2015年の論文「非施設型空間とネットワーク――

ふるまいを解放する建築」(塚本 201519)では,『コ モナリティーズ』とほぼ同様の疎外論が展開され,

そうした疎外的空間としての「施設型空間」に対 して,ふるまいを基盤として関係性が紡がれてい く空間が「非施設型空間」とされている。後者の 事例として紹介されるハワイの倉庫リノベーショ ンプロジェクト(カカアコ・アゴラ),サマースクー ルのプロジェクトによってできた仮設建築(オス タング・メインホール),地域の集会所(南相馬 コアハウス・塚原公会堂)は,上述したふるまい 学の観点から評価することができるものとされる 一方で,ANTを参照しながら「建築を結節点とす る人,モノ,技術のネットワーク」を新たに形成 したという観点からも評価可能なものではないか と塚本は述べる。空間「における」ふるまいはこ うしたネットワークの布置連関において生成され るわけだが,ふるまいをめぐる連関の理解やそれ に対する働きかけだけではなく,空間「と」つな がっていくアクターネットワークの新たな形成も またこのとき争点になっている。実際,紹介した 3つの事例を評する言葉は「アゴラを結節点とし て,人とスキルとモノを繋いだ地域のネットワー クができた」「施設型の空間がつくり出したネッ トワークに対する,アクターとその繋ぎ方のオル タナティブが提示されていた」「地域に密着した 人,モノ,スキルのネットワークが構築できた」

というものであった。

 塚本においてANTは,個別事例と一般的な傾 向の双方の解釈において用いられているといえ る。これについて,彼がANTの公準を逸脱して いると批判するようなことはあまり意味がないだ ろう。むしろ彼の著述からみるべきことは,彼は 建築家として個別事例のアクターネットワークを 追跡・解釈するだけでなく,複数の建築物に通じ

るアクターネットワークのパターンを想定し,ま たそれらに代替されるべきもの,より促進される べきものといった評価を与え,そして実際に自ら 望ましいネットワークの形成を実践しようとして いるということである。これは隈に関しても(お そらく他の建築家においてもある程度)同様だろ う。 ウ ダ ー ル(Houdart and Minato 20092016:

40)は,建築物をどう理解すべきかは建築家が自 ら講演し,批評家らが述べていることであるが,

それらへのアプローチでは「制作過程の作品が遭 遇するさまざまな小事が見落とされてしまう」と 述べていた。この指摘自体は確かにそうなのだが,

実際のところ建築家は自らの建築やそのプロセス について,専門家ではない人物がとても知り得な いような「さまざまな小事」までを含めてしばし ば非常に饒舌に語る存在である。そのためごく素 朴な意味でも,またそこから零れ落ちてしまうさ らなる細部を描くためにも,建築家の語りには注 目する必要があると思われるが(そうであっても,

必ずしもさらなる細部を描けるわけではないのだ が),注目したのちにより引いた視点で彼らの語 りを眺めると,彼らが目指そうとしていることは

「アクターを追う/に従う」だけでは捉えきれな いところにまで及んでいるように思われる。隈と 塚本の建築(論)をみるならば,個別事例を超え て反復され続け,ときには新たな事例の生成に影 響を与えるようなアクターネットワークのパター ンが企図されているように思われ,このような個 別事例を超えた反復的傾向こそが,建築に対して 社会学の立場が固有になしうるアプローチの一つ としてありうるものなのではないかと筆者は考え る。ただ,それはもはやANTという看板を掲げ るべきではなく,(ANTを経由したとしても)異 なったスタンスからのアプローチとして説明され るべきものかもしれない。

4.本稿のまとめと提案

 本稿でレビューしてきた諸論は,優劣によって 判定されるべきではなく,研究目的によって適宜 選択されるべきものだろう。建築をめぐるミクロ なプロセス,そこで何が起こっているのかを観察・

参照

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