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後 進 国 開 発 に お け る 日 本 的 類 型

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(1)

後進国開発における日本的類型

 いわゆる後進国ないしは低開発国の経済発展に関する理論的研究は︑戦後いちじるしい学問的発達をとげ︑今

日においては︑これらの研究は︑経済学界における一つの新しい偉観を呈するに至っている︒しかしながら今日

までのところ︑これら多くの理論的研究は︑必ずしも統一的な見解に到達するまでには立ち到っておらず︑学者

によってその主張するところを異にしていることは︑一般にこれを認めなければならないところであろう︒けだ

し︑こうした理論の多元性と云うことは︑すべての学問が︑その発達の初期の段階においては︑不可避的に辿ら

なければならない一つのプロセスであるからである︒

 尤も今日こうした多くの理論的研究は︑次第に相互啓発し︑それが懐く問題意識︑研究の方法において︑次第

に接近しつつあり︑その共通性に基づいて︑これらを若干の類型にわけて理解することは︑必ずしも不可能では

ない︒現に後進国開発の究極目標について考えてみても︑従来の理論では︑それを単に植民地的な経済開発か︑精

々国際分業的立場からする経済開発にその目標が置かれていたのであるが︑今日では一般に︑それは後進国住民

の﹁福祉﹂の増大と云う目標を共通的に考えるようになって来ている︒ただ問題は︑このように住民の福祉と云

   後進国開発における日本的類型      一

(2)

   研究年報      こ

うことを究極目標と考えながらも︑さてこの目標を実現するために具体的︑現実的には︑何を開発すべきである

かと云う点において多くの学者の所論が異っているのである︒

 いまこうした観点から︑従来の開発理論を類別すると︑それらは大よそ︑ ﹁開発の経済理論﹂と﹁開発の社会

理論﹂ならびに﹁開発の政治理論﹂に類型化することができるつ勿論これらの理論類型は︑相互に排他的なもの

でなく︑多くの共通意識を持っており︑ただ開発の具体的︑現実的処理にあたって︑その主たる重点を産業経済

におくか︑社会構造におくか︑政治体制におくかによって異っているにすぎないものである︒

 かかる立場においてまず第一に考えなければならないのは︑ヌルクセやミントのような開発の経済学者たちに

よって説かれている経済理論である︒この類型では後進国開発において︑ひたすらその経済的側面を強調する︒

 後進国開発におけるヌルクセの新しい経済理論は︑今日学界︑実際界に異常な影響力をおよぼし︑あまりにも

周知の理論であるが︑彼は後進国とは先進国に比べて人口︑天然資源に対して資本装備の低い国であると規定し

これらの後進国を開発するためには︑勿論その国民の人間的能力︑社会的生活態度︑歴史的条件等の影響力を考

えなければならないが︑何と云ってもその中心となるべきものは︑投資︑資本形成の推進にあるとして︑開発の

経済学者たる立場を明確に確立している︒

 しからばこのような資本の形成は︑いかにして推進されうるか︒彼に従えば︑それがためには資本の需要と供

給の両面より︑その条件を整備していかなければならない︒けだし一般的に後進国においては︑この二つの条件

がかけており︑ ﹁貧乏の再生産﹂を繰返しているにすぎないからである︒かくしてまず資本の需要を喚起するた︑

めに︑ヌルクセの強調するところは︑﹁外部経済﹂︵一円×酔㊦同b﹇勲一 ⑦OO﹈POヨ一Φω︶の創造︑開発と云うことである︒し

㌧に外部経済の開発とは︑たとえば道路︑港湾︑鉄道︑通信などの公共施設の拡充︑学校教育施設と技術者︑熟

(3)

練︑半熟練の技能者の養成などを意味するものであるが︑私的資本の投資︑需要を増大するためには︑︑まずこう

した外部経済の創造︑開発を︑公共事業として国家自らの手によって財政投資し︑その開発︑拡充をはからなけ

ればならない︒かかる外部経済の利益と均衡が実現された後においてのみ︑はじめて私的資本はその投資︑需要

の欲求を増大するに至るのである︒

 しからば次に資本の供給は一体どこからなされて来るのであるか︒ヌルクセはこの点に関し︑全く新しい独自

の見解を発表しているのである︒すなわち従来の開発理論においては︑人口は過剰であるが資本が不足している

﹂否︑人口が過剰であるから資本が不足し︑資本が不足しているからこれを外国より導入して来なければならな

い︑と云うように説かれていたのに対し︑彼は資本形成の根源を外よりも内に求め︑過剰人口そのものの中に資

本形成の途を見出すべきごとを主張したのである︒しかもこの過剰人口として農村その他における潜在失業者を

想定しているところに︑彼独特の意義が伺われる︒けだし潜在失業者とは︑家族主義的な温情や血縁に基づき︑

一人前の生産はしていないが︑人間としての消費は一人前行っている者であり︑これを取り去っても︑家族経済

的生産には殆んど支障を来さないものである︒したがってかくのごとき潜在化している過剰人口は︑むしろこれ

を家族経済より取り去って︑より有利な他の産業に積極的に︑集約的に動員するならば︑必ずしもそれに伴って

機械︑設備を拡充せずとも︑何等生産を減少せしめることなくして︑かえって資本の積極的な形成に役立たしめ

ることができることとなる︒すなわち潜在化した過剰人口こそが︑かえって積極的な資本形成の源泉となること

を主張するのである︒古典学派に従えば︑資本の形成は︑ひたすら消費の節約によって行われ︑ケインズ理論で

は︑消費の増大と平行して資本の形成が行われると云うのに対して︑ヌルクセは︑既存の生産と消費に関係な

く︑全くの附加部分として行われうると云うのである︒

   後進国開発における日本的類型       三

(4)

   研究年報       ﹂  覧      四

 次には開発の社会理論的類型であるが︑この類型においては︑たとえば︑ヂンキン︑ブーケ︑フアーニバル︑

フランケルのごとく︑いわゆる後進国開発の究極目標を住民の福祉の増大と云うことに求めながら︑それが実現

には単に﹁資源の開発﹂のみならず︑むしろ住民の社会的後進性の開発に重点が置かれなければならないことを

強調するものである︒けだし資源の開発と住民の社会的後進性との間には︑相互に密接な関係があるのであって

社会的後進性に眼をおおって単純な経済的開発の問題のみを論ずることはできないからである︒したがって開発

の社会学者にとっては︑低開発性を単に一人当りの生産性や︑所得水準の低さに求め︑資本や投資の不足のみに

よって説明せんとするがごとき理論は︑あまりにも西欧的な資本主義的公式論にすぎないものと考えられるので

あるQ  すなわち人口一人当りの平均資本必要額に基づいて計算された投資の目標数字によって︑一定率の総国民所得

または一人当り所得のいずれかを増大せしめようとする開発理論のごときは︑今日すでに先進国となっている欧

米の各国には︑そのままこれを適用することができても︑今日の後進国にはそれをそのまま機械的にあてはめる

ことはできないのである︒何故なら今日の先進国にあっては︑通常与えられた一定率の投資は︑それがすでにこ

れら先進国によって保有せられている技術や生産性を通じて︑そのままそれに対応する生産力の増大となって現

われ︑そこには云わば自成的な経済成長の可能性が予定されうるに対し︑今日の後進国においては︑このような

可能性は︑そのままでは︑これを期待することができないからである︒

 かくして開発の社会理論に従えば︑後進国開発の第一義的問題は︑そもそもこのような可能性それ自体を︑い

かにして創り出すかと云う社会的な問題の究明から初められなければならない︒.すなわち後進国においては︑西

欧資本主義約な開発理論は︑そのままが値ちには︑あてはまらぬのであって︑むしろ問題はこうした経済開発の

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奥底に横わっている後進国内部の現実的社会構造.すなわち宗教的︑思想的︑道徳的︑人種的︑憤習的な阻止条

件︑ならびに先進国との間の不平等化的要因の除去︑開発から着手されなければならない︒かかる意味において

後進国開発の問題は︑単に実質所得の増大どか資本の形成と云うような純粋に経済的な問題ではなく︑こうした

客観的な問題の究明とともに︑住民の社会構造ないしは社会的環境への適合性創出と云う主観的側面からも︑迫

っていかなければならない問題であると主張するのであ︒る︑

 しかるに開発の社会理論は︑それが後進国の社会経済構造を第一義的に重視するものであるだけに︑その理論

構成は︑後進国の社会構造を︑いかに分析︑把握するかによって︑さらに異る理論類型を成立せしめねばならな

い︒かくしてブーケの﹁二重社会﹂の経済開発理論や︑フア二期バルの﹁複合社会﹂の経済開発理論︑さてはフ

ランケルの﹁多元人種社会﹂の経済開発理論のごときものがその曲ハ型として浮び上ってくるわけである︒

 まず第一に︑ブーケの二重経済の開発理論であるが︑この研究は︑インドネシアの社会経済構造の分析から生

れたものである︒彼の説くところに従えば︑インドネシアにおいては︑厳密に区別さるべき二つの﹁社会経済体

制が拉存している︒ここに社会経済体制とは︑ゾムバルト式に︑その社会を支配する精神︑組織︑技術の相互関

係によって形づくられた︑その社会の秩序を云うのであるが︑インドネシアにおいては︑一方西欧資本主義が︑

前資本主義的農村社会に侵透して︑新しい一つの社会体制を成立せしめていると同時に︑他方においては︑古く

より成立してきた︑インドネシア固有の土着的社会体制が拉存している︒吻論正常な同質社会の歴史的発展過程

にあっても︑新しきものは古きものにとって替るのではなく︑常にその傍に成立すると云う意味において︑二重

社会的現象を一時的に呈する場合がある︒しかしながらかくのごとき一つの同質社会においては︑長き歳月の結

果はやがて︑古きものが新しきものに吸入されていくのである︒しかるにインドネシアにおいては輸入された西

   後進国開発における日本的類型       五

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   研究年報      六

三社会体制と土着の社会体制とが︑異質的に同和されないま\永久に存続し衝突を続けている︒したがってこう

した後進国の開発には︑この両者の社会体制の相互衝突と相互作用とを中核としてその経済理論が展開されねば

ならないと主張するのである︒

 開発の社会学における第二の類型として︑われわれが指摘せねばならないのは︑フアーニバルの﹁複合社会﹂

の理論である︒彼はブーケの﹁二重社会論﹂の影響をうけ︑蘭領インド︑ビルマ等東南アジア諸国をその研究対

象として︑この理論を確立したものであるが︑彼によれば﹁複合社会﹂とは同一の政治的単位の下に︑人種的に

異る二つ以上の社会集団が︑分離したまま蛇存し︑しかも決して融合していないような社会を云うのである︒す

なわちフアーニバルにおいては︑﹁社会集団のわけ方を︑ブーケのごとく異る社会体制︑秩序に求めず︑直接的に

人種の相違に重点をおき︑この人種的社会集団の異なるに従って︑その社会経済的機能の相違を明らかにしょう

としたものである︒

 彼に従えば︑蘭領インドやビルマ等の人種的構成は︑西欧人と華僑やインド人などのごとき東洋外国人︑なら

びに土着原住民の三種よりなり︑各人種はそれぞれ固有の宗教︑思想︑言語︑慣習をもって︑独自の社会集団を

形成していると云う︒しかもこれらの社会集団は︑全体として︑それらを統一する﹁共通の社会意志﹂を持って

おらず︑ために各集団人は︑ひたすら自己の生存と安全のみに汲々として執着し︑絶対的な個人主義︑物質主義

営利主義に走り︑この目的遂行のためには人種的団結は強化するが︑異る人種集団間においては露骨にして激し

い対立と相剋を現出する︒しかも︑フアーニバルにおいては︑これら三つの異なれる社会集団は︑単に卓立的に

存在するのではなく︑機能的に立体化して存続しているものと理解されている︒すなわち西欧人は主として行政

官︑大企業の経営者または技術者として︑全体社会の支配寺上煙寺に拉し︑華僑やインド人などのごとき東洋外

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国人は︑小売業者︑仲介業者︑金融業者として︑中間層を占め︑土着原住民は素朴な農業者︑雑役者として︑全

体社会の下層部を形成している︒しかもこの場合︑中間層としての東洋外国人は︑一方においては意外に大きな

実力を以て西欧企業者︑資本家に経済的に対抗し︑競争を続けるとともに︑他方においては一般的に︑経済意識

の薄弱な企業力に乏しい土着原住民の社会を蚕食し︑牢固たる経済的実力を以て︑西欧人の近代社会と土着原住

民の後進社会とを遮断する役割を演じているのである︒

 かくしてこの三つの集団社会における経済的利害の対立と人種的︑宗教的対立とは︑こうした地域における社

会的緊張と分裂を強化し︑永久に融合するところがないのが︑その本質的な特徴であると主張する︒この点フア

ーニバルの所論は︑ブーケが東洋外国人社会を西欧資本主義社会体制の中に悪罵︑同和せしめて考えているのと

大いに異るところである︒

 開発の社会学における第三の類型は︑フランケルの﹁多元人種社会﹂についての開発理論である︒彼のこの理

論は︑南アフリカを研究対象としその諸条件を基礎として組立てられたものであるが︑彼に従えば︑今日アフリ

カには白人︑アフリカーナ︵主としてブーア人︶インド移民︑黒人原住民など︑きわめて多数の人種が混住し︑

この人種の相違が︑それぞれについて産業社会のカーストを構成せしめている︒かかる意味においてそれは明ら

かに多元人種社会と名付くべきものである︒しかしながら南アフリカにおけるこうした多元人種社会は︑決して

立体的な社会経済的機能を担当しているものではなく︑すべては平面的に拉存しているのである︒またビルマや

インドネシアにおける複合社会にあっては各集団社会は︑それぞれ独自の体制を持って︑封鎖的に存在している

のであるが︑南アフリカの多元人種社会にあっては︑おしなべて今日西欧資本主義の急激な侵透をうけ︑若千の

抵抗はあるにしても︑すべてが資本主義的な変革によって同質化の方面を辿りつつあるのである︒したがってか

   後進国開発におげる日本的類型       七

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   研究年報      八

かる地域における開発は︑その抵抗をいかに少く︑各入種社会の特質を近代資本主義社会の原則に統一づけてい

くかと云う点に存すると主張する︒かかる意味において︑フランケルの多元人種社会の開発理論はきわめて平面

的︑解放的︑動態的な理論であると云えるであろう︒

 最後にわれわれは後進国開発における政治論的類型を顧みなければならない︒ここに後進国開発における政治

論的類型とは︑開発の経済学者のごとく︑純粋に経済学的な問題に重点をおくのではなく︑また開発の社会学者

のごとく︑後進国における社会構造の変革から出発しようとするのでもなく︑こうした経済や社会を運営してい

く政治力︑政治体制に重点において開発理論を展開するものである︒エマソン︑ドッブ︑ステイレス等がその最

も代表的なものであろう︒

 エマソンの研究は︑南アジア特に東南アジアをその対象とするものであるが︑そこで彼が発見したものは︑民

衆ならびにその指導者双方における政治力︑政治性の徹底した貧困さであった︒まず民衆について云うならば︑

彼等は極端に貧困︑無智︑文盲︑無気力であり︑伝統とか慣習とか郷土︑村落などに対する執着がきわめて強く

自己の精神的︑社会的︑経済的環境を︑自分達の望む状態に積極的に創りかえていくと云う能動的意識を持って

いない︒運命は与えられたものではなく︑人間自らが︑創りかえていくものであると云う西欧世界のファースト

的観念は︑彼等の伝統的思惟の中には微塵も存しないのである︒したがって︑かくのごとき民衆がナショナリズ

ムの嵐によって︑政治を自らの手に握ったとして略︑その社会を創りかえていくことは︑しかく簡単には期待で

きないのである︒

 次に今日かくのごとき民衆の上にたって︑それを統治している支配者をみるに︑彼等は︑それぞれの国におけ

る上流階級として︑そのいずれもが西欧的な教育をうけた人間であるが︑しかし反面それだけに︑彼等の支配し

(9)

ている民衆・の思考憤習と伝統とは︑大よそ乗離したものであり︑しかも彼等の政治的指導力は︑いまなお訓練さ

れず︑フィリツピンやインドネシアなどにおいては︑独立後早くも支配者の政治道徳︑行政能率の低下が暴露さ

れている︒けだし彼等は革命後︑一度権力の座につくや開発と援助の果実を︑ひとり自らを肥やすのみに用い︑

民衆の福祉増進には振り向けていないからである︒

 かくて︑エマソンは︑かくのごとき政治意識と政治能力の低い後進国を開発していくためには︑日本やトルコ

ン聯︑中共の例にまつまでもなく︑一方においては開発計画を推進していくための︑誠実にして強力︑能率的な

中央集権的政府の確立が必要とされるのみならず︑他方においては︑これに呼応して民衆の中に開発を積極的に

肯定し協力していく政治意識と︑産業経済を外国人ではなく︑自らの手によって民主的に担いあげていく中産階

級の勃興を必要とすると考えているのであるが︑結論的には︑かかる﹁西欧的開発路線﹂では︑東南アジアの後

進諸国を切り開いていくことはきわめて困難であるとしているのである︒

 さて以上われわれは︑今日後進国開発の理論と呼ばるべきものについて︑そのいくつかを類型的に概観した︒

点こうした開発理論は︑現にその開発が進行途上にあるか︑あるいは近き将来においてそれが着手せられんとす

る後進諸国についての.理論であることは云うまでもない︒しかしながら︑こうした開発理論が︑よって立つ根拠

には︑すでに開発を全く終えたか︑あるいは殆んど終えんとする先進諸国の歴史的経験に基づくものが︑少なか

らず含まれていることも否定できないであろう︒従ってこうした開発理論の生れるに先立って︑歴史的にはすで

に︑各国それぞれの特質に応じて成立せしめられた開発そのものの類型が存在していなければならない筈であ

   後進国開発における日本的類型       九

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   研究年報       一〇

る︒たとえばインドとか﹁トルコとかマラヤ︑フィリツピン︑さては中国などについては︑それぞれの開発類型

が成立して︑今日に至っているものとみることができる︒

 わが国は今日︑総人口九千万︑国民総生産額は十二兆五千万円︵三十四年度︶に達し︑国民総所得額では︑資

本主義国四十ケ国の中︑七︑八番目に位し︑国民の消費生活水準も︑近年とみにその上昇を示しつつある︒もと

よりそれは︑今日わが国産業経済の規模が量的に非常に大きく拡大されたことを意味するものであるが︑しかし

それは単に量的な増大のみを意味するものではなく︑同時に質的にもその産業経済の構造などが大きく発展変化

を来している事実を物語るものであろう︒たとえば︑かってわが国は農業を以て国の大本となし︑総人口中に占

める︑農業人口の割合は︑六割以上に達していたのであるが︑今日では四割をすでに割っている︒一般に先進国

と呼ばれる国ほど産業別にみて︑農業人口の比重が小さく︑西独では二割︑アメリカ一割︑イギリスでは︑わず

か○︑五割にすぎない︒これらの比率に比すれば︑わが国の現状は︑いまだなお先進国に及ばないものがあるが

しかし農業人口の減少は︑それだけ︑商工業人口への比重移動を物語るに十分なものがある︒

 かくてわが国の工業生産は︑米︑英︑西独についで︑仏︑伊とともに肩をならべる域にまで達し︑わけても戦

前︑軽工業中心であったものが︑戦後の今日では︑重化学工業中心に移動し︑この領域における技術革新︑設備

投資は︑まことにめぎましいものがあり︑それだけ日本の産業経済が︑著しく高度化するに至ったことを物語っ

ているであろう︒またこれら重化学工業中心のわが国産業経済を現実的に担当する企業についてみても︑昭和三

十二年の調査によれば︑会社総数約四十二万であって︑その申資本金一億円以上のものが一︑五〇〇社︑十億円

以上のものが約三〇〇社︑五十億円以上のものが五〇社を数えている︒しかもこれらの中三︑四社については︑

その売上高は国際的水準に達し︑百大会社の中に加わるに至ってかる︒

(11)

 かくてわが国の産業経済は︑今日驚異的な成長発展を遂げつつあるのであるが︑しかし今を去る九十三年前︑

すなわち明治維新の当初においては︑わが国の総人口はわずかに三︑五〇〇万︑農業を中心とした産業構造は︑

きわめて小規模︑幼稚なものであり︑輸出貿易品のごときものも生糸︑茶をはじめ︑米︑麦︑粟︑稗︑豆︑麻︑

煙草︑樟脳︑醤油など︑農産または農産加工品を中心とするものであった︒しかも国内には天然資源乏しく︑近

代化の阻止条件としての社会的︑文化的遺制が根強く残され︑アジア的後進国の典型をなしていたにもかかわら

ず︑わずか一世期の間に︑今日までによく成長発展したと云うことは︑まことに世界の驚異であり︑そのこと自

体がアジア的後進国開発の模範的類型を示すものと云ってよいであろう︒

 否︑アベグレンも︑その調査報告﹁日本の工場;その社会的構造の諸局面﹂の中で云っているように︑日本の

工業化は欧米方式にもまたソビエット方式にも完全に一致しない第三者的なものである︒ ﹁日本はまさしく非欧

米的な工業国であり︑しかもその工業化にもかかわらず︑︑一貫して明らかにアジア的なものを残している︒日本

は世界に仲間入りしてから一世期の間に︑大きく変化した︒日本は新しいアイディアをとり入れて︑古い制度を

修正し︑好みにも合わない外国の様式にも徐々に順応していった︒しかしながら今日においてもなお︑欧米の国

を説明するような表現で︑日本を論述することはできない︒それは単に︑ヨーロッパやアメリカにおける工業化

に関連して直ちに連想される技術とか︑家族制度とか︑︑社会関係とか︑あるいは思考慣習などの変化を意味する

ものではない︒ある意味において日本の経済活動における大変化は︑一つの連綿として︑うち続いてきた文化の

中にとり入れられた︑第三の工業化方式とも云うべきものをつくりあげているのである︒﹂

 戦後︑東南アジア諸国は︑いずれもナショナリズムの下に西欧植民地政策よりの解放を叫び︑民族自決的にそ

の経済開発を押し進めんとしつつある︒彼等にあっては政治的な革命は必ずしも社会的な革命を伴わず︑アジア

   後進国開罪における日塞訥類型       二

(12)

   研究年報     ﹂      一二

的後進国の開発には必ずしも﹁西欧開発路線﹂がそのまま通ずるものではないことが︑多くの識者によって云々

されている︒こうした際︑地域的に最も近く︑社会的︑伝統的に最も多くの共通点を持っている日本︑同じアジ

アの一員として美事︑自ら後進国開発をなしとげた︑日本の一世期にわたる経験と開発類型こそは︑東南アジア

諸国にとっては︑まことに重大な意義を含むものと云わなければならない︒そして日本をも含めて︑こうしたア

ジア諸国の発展においては何が共通的に欠け︑また何が共通的に維持されていかなければならないかを明らかに

することは︑やがて彼等との近親感を増すとともに︑広い世界的視野において日本経済と東南アジアとが相互に

相協力していくための重要な契機を準備することとなるであろう︒東南アジア諸国の開発︑援助の問題は︑まず

われわれ自身︑日本の後進国開発の歴史的究明から出発せしめねばならない︒

 後進国開発における日本的類型︑否一般に後進国の開発を問題にせんとする場合︑方法論的には︑われわれは

次のごとき三つの武器を準備しておくことが必要である︒すなわちそのまず第一は︑後進国開発における主体的

条件を分析探求することである︒けだし開発と云うことは︑そのこと自体がすでに自然的︑自存的な発展ではな

く︑意識的︑計画的なことであり︑この開発を主宰し︑創意し︑推進せしめていくための主体が必要であるから

である︒こうした主体に優れたものを持ちえない後進国は︑その客観的条件がいかに恵まれていたとしても︑到

底開発の実をあげえないことは︑多くの事例の示すところである︒このためには且一体的には︑われわれはその地

域︑国における政府国家︑企業︑企業者︑各種の経済的あるいは社会的︑政治的集団︑さらには国民︑住民が開

発に対して︑いかなる役割を果し︑またどれだけの能力を発揮したかを明らかにするとともに︑こうした主体を

(13)

出現︑成立せしめるに至った思想的︑歴史的︑社会的︑経済的︑国際的な背景を充分に吟味せねばならない︒

 第二には後進国開発における客体的条件を分析することである︒開発はこの現実から出発し︑この現実に対し

て加えられていくものであるからである︒ここでは具体的には︑その地域︑国における地理的条件︑天然資源︑

人口ならびにその構造︑農業︑工業︑商業︑ことに金融︑貿易の規模構造︑労働力︑生産力︑技術水準︑資本の

蓄積︑国民所得と生活水準︑社会制度などが客観的に分析されねばならない︒

 そして第三には︑こうした主体的条件と客体的条件とが結合せられて︑後進国の開発がいかに計画され︑また

いかに進められてきたか︑そこでの変革は何が中心となり︑それがいかに変化したか︑また維持されたかその動

態的な発展過程が分析せられねばならないであろう︒勿論後進国開発の問題は︑きわめて長年月にわたり︑決し

て単一なる計画によって短時日の間に成就されうるものではない︒従ってその間にはその主体的条件も客体的条

件もたえず発展または変化していくのが常である︒否︑そこでは﹁作るものがっくられ︑作られたものがまた逆

につくっていく﹂と云う創造的︑上昇的な循環逼程を繰返していくのが常である︒それだけに後進国の開発にと

ってはこの質的︑量的な動態上昇分析はきわめて重要な方法であると云わねばならないであろう@

 さて後進国開発における問題を分析するに当っては︑以上のごとき三つの方法が︑併せ用いられなければならな

いとするならば︑きわめて貧しい後進国状態から︑過去一世期の間に日本が今日のごとき高度成長をとげるに至

るまでには︑一体いかなる主体的条件が︑いかなる役割を演じてきたのであろうか︒

 以上のような観点から︑いま後進国としてのわが国経済発展において︑いかなる主体的条件が働いてきたかを

顧みるに︑その最も重大な条件として︑第一にあげられなければならないのは︑開発において果してきた政府︑

国家の役割であろう︒周知のごとく明治維新の大変革は厳密な意味において︑ナショナリズムと云うよりも︑国

   後進国開発における日本釣類型      ︐   一三

(14)

   研究年報      二四

家主義に基づく政治的大変革であり︑国内に十分成長せる新生産方法を蔵することなく︑むしろ欧米新興資本主

義国の圧迫によって︑この大変革を促進せしめられたものであった︒したがって生誕せる維新政府は︑幾多の改

革を行い組織を統一整備しながらも︑同時に欧米先進国より︑急速に新生産様式を輸入︑移植し︑これが育成を

はかることによって︑新しい国際過程に処し︑安政以来の屈辱的条約を改正して︑諸先進国と対等の地位︑国力

を有する国にまで発展せしめることが︑その基本的任務と考えられた︒

 かくて明治政府は︑何よりもまず﹁富国強兵﹂のスローガンを高げたのであるが︑それは安保条約以来の治外

法権を徹廃し︑関税自主権を恢復することによって︑半植民地的な状態より脱却するためには︑兵を強くせねば

ならないが︑兵を強くするためには︑支配統治者だけが富むのではなく︑国民全体が富裕とならなければならな

いし︑また国民全体が富むためには︑国際的交渉の上において兵を強くしておかなければならないと考えられた

のである︒

 かくて明治維新政府は大久保利通を申出として︑その草創約十年の間に︑いわゆる﹁殖産興業政策﹂をたかく

かかげ︑各種の官営模範事業を営んで︑ほとんど熱狂的に先進諸外国の産業技術︑制度の導入と育成につとめた︒

すなわちまず第一に農業の改良︑発展促進策としては︑内藤新田試験場︑三田育種場ミ取香種畜場︑福島開墾所︑

駒場農学校を創設し︑第二に工業技術経営の導入︑育成については︑富岡製糸場︑新町紡績所︑千住製絨所︑堺

紡績所︑愛知紡績所︑広島紡績所などの官営模範工場を設けて欧米先進国における近代技術の導入に努めた︒ま

た第三には貿易および海運助成策をとり︑外国貿易商および外国海運業者によってぽとんど独占せられていた商

権および海運権を︑直輸出政策によって︑次第にわが手に短めようとした︒これがためには生糸︑茶の直輸出会

社としての心界会社︑海運会社としての三菱会社に対ルては︑特に大きな助成策が講ぜられた︒この外︑逓信事

(15)

業等銀行業を国営として創設し︑学校教育機関を官公立とするなど︑産業︑教育︑文化の諸般にわたって政府︑

国家自らがその経営︑指導者となったのである︒

 かくて後進国としてのわが国の開発を企てるに当って︑明治維新政府は︑政治︑経済︑文化︑社会︑軍事など

につき︑綜合的な指導的役割を演じたのであるが︑このことはそれ以後のわが国産業経済の成長過程を通じても

なお永く強力に持続せられ︑わが国経済発展上の一大特色を形成するに至った︒すなわちそのまず第一は︑わが

国の経済発展においては︑他の諸国に類例を見ないほど︑国家資本というものが強大に立ち働いたと云うことで

ある︒国家資本とは云うまでもなく︑財政攻入を目的とするか︑一般公共の利益を目的とするか︑あるいは軍事

上の目的を実現するためか︑国家自らが統一的な支配の下に各種の事業を営むためのものであるが︑いまこのこ

とは明治以後設置せられた︑金融機関としての日本銀行︑勧業銀行︑正金銀行︑興業銀行︑農工銀行︑朝鮮殖産

銀行︑北海道拓殖銀行︑交通通信事業としての国有鉄道︑郵便︑電信︑電話事業︑専売事業としての煙草︑塩︑

樟脳︑軍需工業としての海軍工廠︑陸軍造兵廠︑燃料廠︑火薬廠︑製鉄所︑外地特殊会社としての満鉄︑東洋拓

殖︑朝鮮銀行︑台湾銀行︑その他造幣局︑印刷局に至るまでの巨大な産業体系の性格を思い浮べるならば︑容易

に肯けることであろう︒

 第二に指摘せねばならないことは︑明治以後︑私企業︑民間企業に対する政府国家の保護︑助成︑奨励策が他

の諸国に類例をみられないまでに︑厚く行われたと云うことである︒先きに殖産興業の目的を以て︑維新政府自

らが経営した模範工場︑種畜︑農場は︑その鶴牧支償わず︑民間企業の習熟と資本の蓄積を侯って︑明治十四年

より十八年頃にかけて︑ことごとく民営に移されていったのであるが︑しかしもともと後進国としてのわが国を

一日も早く列強と対等的な水準に成長発展せしめんがための殖産興業であったから︑明治政府は︑これ射の民営

    後進国開発における日本的類型      一五

(16)

    研 究 年報       ニハ

諸産業に対し各種の﹁検束﹂すなわち検査取締規則を適用するとともに︑積極的な保護︑助成を加えるに至った

のである︒

 しかしながら明治維新政府の保護助成策はひとり右のごとき近代工業ならびに農業のみに止まるものではなか

った︒さらに当時貿易︑海運業に加えられた強大な保護助成政策をも併せ指摘しなければならない︒けだし当時

におけるわが国の外国貿易業ならびに海運業は︑そのほとんどすべてが外国業者によって独占せられていたから

これらの商権ならびに海運権を次第にわが手に回復するためには︑どうしてもわが民間企業に対する政府国家の

保護︑助成を必要と考えたからである︒すなわち当時におけるわが国の輸出貿易品の重なるものは︑生糸︑茶︑ ︐米︑麦︑粟︑稗︑豆︑麻︑煙草︑醤油︑樟脳など︑その大部分が農産品であったのであるが︑これらの輸出貿易

権を︑わが手に牧め︑一つは当時相当巨額に達していた外債の償還に充てるとともに︑他方においては漸次民間

貿易業者の発展を促す目的を以て︑明治政府は国家出資三十万円民間出資二十万円の貿易会社を設立するととも

に︑特に生糸︑茶を専門的に直輸出する﹁同盟会社﹂を横浜に民間設立せしめ︑これに手厚い保護を加えた︒

 また海運業については︑一つは貿易商権の回復と相欄閉し︑二つは征含当時における軍事上の不便とも関聯し

明治政府は夙にその振興を奨励していたのであるが︑ 明治四年擾慈心県の際︑ 諸藩より牧めたその所有船を以

て︑郵便蒸汽船会社を組織して︑これに補助金を与え︑沿海航路に従事せしめるとともに︑元土佐藩士岩崎弥太

郎の組織した三菱会社に対しては十三隻の官有船と十四年間に亘って毎年補助金二十五万円宛を交付︑わが沿海

より外国汽船を駆遂せしめ︑さらに横浜︑神戸︑長崎︑より上海︑香港の間に航路を延長し︑米国太平洋郵便汽

船会社︑英国P・0会社を敗退せしめて︑三菱会社をして東洋最大の汽船会社たらしめるに至った︒

 かくて後進国としてのわが国産業発展において︑明治政府のとったこの手厚き保護助成政策は︑その後のわが

(17)

国産業政策史上随固として抜くべからざる伝統となり︑そこには長短いくつものわが国独特の産業経済的特質を

形成せしめるに至った︒

ズ否︑それのみではない︑いずれの後進国においても︑それが開発の初期においては︑巨額の外資導入を必要と するものであるが︑ルーペンスも︑その所論﹁日本経済の発展と資本形成﹂の中に論じているごとく︑わが国に

おいては︑外資の導入は出来るだけ最少限度に止め︑かつ長期外債はこれを鉄道︑港湾施設︑造船等の基礎的産

業に最も能率的に運用するとともに︑外資導入に伴って生ずる外国資本の支配ないしはそれへの依存従属を極力

防止するため︑外国資本の直接投資を禁じ︑国家自らが公債を外国に募集し︑得たる資本を民間企業へ貸与︑ま

たは教育︑衛生施設等に投資すると云う間接投資の方法を巧みにとったのである︒この点︑その開発に当っては

巨額の外資を導入したカナダ︑アメリカ︑オーストラリや等とは大いに異り︑むしろ外資に殆んど依存しなかっ

たロシヤに近いものを持っている︒

 さて以上われわれは︑後進国どしてのわが酎産業経済の開発において政府︑国家がいかに重要な役割を果した

かについて概観した︒かくのごとぎ産業革命の発展過程において︑政府︑国家が重要な指導的役割を果したのは︑

わが国が初めてであったのであって︑かかる点においてそれはイギリスなどの経験とは大いに異る特質を有する

ものである︒すなわちイギリス等においては︑重商主義の下に養成せられた資本主義的企業が︑最早国家の援助

を必要としないまでにその実力を蓄えたことによって︑産業革命を自力により押し進めていったのであるが︑わ

が国においてはこうした長き重商主義的な民族経験と蓄積力もないまま︑経済外的な政治︑外交上の事情によっ

て︑新しい段階に突入せぎるをえなくなったため︑政府︑国家の強力な指導を必要としたのである︒云わば重商

主義と産業革命とが︑同時にやってきたわが国においては︑民間企業に対する保護︑援助︑助成豊津っても︑そ

   後進国開発における日本的類型  ﹁      一七

(18)

   研究年報      響       一入

れは単なる保護︑助成ではなく︑政府自らの国家的立場からする創意と工夫と計画の下に進めちれた指導と誘液

であったのである︒

 また今日の名古屋大学経済学部の前身たる名古屋高等商業学校において︑かって十二年目長きにわたって︑ア

ッシユレーの英国経済史を講じたG︒C・アレンはその著﹁極東経済開発における西欧企業﹂の中で︑日本と中国

の近代化を比較し︑今を去る約百年以前においては︑日本も中国もともに農業中心の低開発国であったにも拘ら

ず日本の開発が急激に成功しにのに対し︑中国のそれが遅々として進まなかったのは何故であるかについて︑次

のごとく論じている︒すなわち中国においては︑自国の経済的開発に十分な関心を持ち︑かっこれを推進してい

くだけの実力を持った政府が存在していなかった︒中国政府はたえぎる政治的不安に動揺し︑西欧生産技術の導

入に当っても︑日本政府が熱心に試みたような教育訓練を実施しえなかったし︑やがては治外法権的な居留地を

根拠として︑諸外国の資本的支配︑否諸々の政治的支配さえも受け︑その占奪のままに産業経済の近代化を外国

資本の侵入と支配に委せざるをえなかった︒しかるに日本の場合は︑お.よそこれと対象的な行方をとることがで

きた︒一体に原始的経済社会に︑それよりもはるかに進歩した外国の産業︑通商機構を導入するにあたっては︑

それにふさわしい政治︑教育︑法制︑通貨︑金融︑鉄道︑港湾︑通信など︑あらゆる経済の前提条件︑すなわち

ヌルクセのいわれる﹁外部経済﹂がまず整備されねばならないのであるが︑日本の場合にはこうした制度上の適応

性は︑国家自らの手によって準備された︒また経済の実質的発展が民間企業の手に任せられた後においても︑日

本政府︑国家は︑単にそれを助長することに止らず︑国家的創意と計画の下にそれを指導した︒これを要するに

日本の経済開発の場合にあっては︑西欧の技術︑制度だけはこれを導入したが︑ともすればこれに伴いがちな諸

外国の政治的︑資本的支配の導入は︑国家0主体性によって巧みにこれを防止することができたのである︑と︒

(19)

 今日︑東南アジア諸国の経済的︑社会的分析から生れつつある後進国の開発理論において︑漸くその一致をみ

んとしつつある重要点は︑すでに本論の冒頭において顧みたるがごとく︑低開発国を︑しかも比較的短年月の間に

近代化するためには︑どうしても誠実にして強力︑能率的な中央集権的推進主体が必要であると云うことである︒

しこうしてこうした理論をさらに押し進めた論者の少なからざる者は︑後進国の開発路線としては︑自由主義

を基調とした資本主義体制よりも︑計画と統制を基調とする社会主義体制の方がより優れていることを主張して

いる︒果してそのいずれがより適切であるか︑ここではそれに簡単な解答を与えるべき場所ではない︒しかし歴

史的な経験としてこれをみるならば︑わが国は資本主義体制をとりながら︑しかもζれと政府国家の中央集権的

権力とが巧みに結合せられ︑事実として他国に類型をみないような︑今日までの経済成長をなしとげてきたので

ある︒しかもこうした国家主義的な経済成長の奥底に流れていた思想的源流は単なる重商主義でもなく︑国家独

裁主義でもなく︑千五百年の歴史と伝統とを有する国家大家族主義であったことは︑特に注意されねばならないめ

 後進国としてのわが国産業経済の開発に当って重要な役割を演じた主体的条件の第二のものとして︑われわれ

が指摘せねばならないのは︑わが国における企業および企業者の性格︑役割についてである︒

 すでにのべたるがごとく︑明治初年︑大久保利通を中心とするいわゆる﹁殖産興業策によって設立された幾多

の模範工場は︑明治十年代において︑次第に民間に移され︑ここにわが国における近代企業すなわち欧米的な技

術と制度をとり入れた民間企業が勃興していくのであるが︑この時にあたり︑こうした私企業の勃興に︑独り野

にあって正しき方向と推進を与えたものは︑渋沢栄一の産業優位論とその新企業制度の導入であった︒

   後進国開発における日本的類型       一九

(20)

   研 究 年 報     ︐       ﹇       二〇

 彼はわが国の商工業が︑政治の要旨に付していること︑すなわち官尊民卑の風あることを強く遺憾とし︑その

自主独立的発展を高唱し︑すでに明治四年公表した﹁立会略則﹂の中で次のごとく主張している︒ ﹁通商の途は

政治の威権を以て押しつけ︑法制を以て縛るべからず︑国家の富強は︑商工業の発展にある以上︑実業家の位

置︑勢力がよく政治家を動かすに至るにあらざれば︑真の国家の発達はあるべからず︑故に武官および外交官

は︑実業家の背後にあってこれを援護すべきものなり﹂と︒

 また新企業制度については︑彼のいわゆる﹁合本営業﹂すなわち株式会社制度の導入すべきことを高唱し︑次

のごとく云っている︒ ﹁多少識見あるの人士は︑悉く政治に雲集し︑野に在って商工業に従うものは︑浅学無識

なる旧時の百姓︑町人のみとせば︑生産貿易の盛大と民力の富実とは︑得て望むべからざるなり︒この際政府が

盛んに民業を奨励するは甚だ可なりといえども︑其奨励を甘くる者にして識見なしとせば︑到底効果のみるべき

ものあるべからず︒故にこの時に当っては︑規模宏大なる合本営業を興して︑人材を民聞に吸引するより急務な

るはあらざりき︒而して此目的を達するの策は会社組織を措いて他に之を求むること能はざるなり︒けだし民間

の事業は︑政務のごとく栄誉赫灼たらずして︑人の壮快を感ずること薄し︒唯合本組織の会社事業に於いては︑

相当の栄誉呈貝任なきにあらず且つ利害の関係︑甚だ適切なり﹂と︒

 事実彼はすでに明治元年︑一橋慶喜の下に静岡にわが国最初の﹁合本営業﹂すなわち株式会社組織の商事会社

として﹁商法会所﹂の設立を企て︑明治六年には第一国立銀行︑王子製紙の創設に当り︑十四年私鉄日本鉄道会

社︑十六年大阪紡績会社︑十八年日本郵船会社︑を設立︑その民間実業人として大正五年引退に至るまでの五十

年間を通じて五百有余の民間企業経営を指導した︒まことにその一生涯︑渋沢栄一が︑わが国民間企業︑私企業

の正しき発展に貢献した功績は︑実に偉大なものがあったと云わなければならないであろう︒

(21)

 レからば由仁の当初︑近代的なわが国︑民間企業の乾興に当ってこれを経済的に基礎づけた民間資本は︑一体

どこから醸出され︑またそれを運営する企業者は一体何人であったのであろうか︒まず民間資本についてである

が︑これはおよそ二つの方向から酵出せられた︒すなわちそのまず第一は︑嬢幽晦県と大政官札発行によって完

全に流通性を確得した旧大名および旧士族の私有財産ならびに金腺公債であった︒こうした旧支配階級の申には

録高奉還によってそれぞれ相当の証券資本︑貨幣資本を獲得したのであるが︑しかしこうした階級はその旧歴上

の名目からも︑またその企業経営上の無知識︑無能力性からも︑こうした貨幣資本を以て自ら近代的企業の担い

手となることをえず︑配当利得者として︑これを他人の経営する近代経営に投資することによって︑その生活を

維持せんとしたのである︒明治初年の各地の国立銀行や私鉄日本鉄道会社︑三菱汽船会社︑東京海上火災保険

会社︑大阪紡績会社などは︑いずれもこうした旧支配階級の配当利得資本によって設立せられたものであった︒

 第二は旧幕時代より明治初期にかけて蓄積せられた本来の商業資本である︒たとえば三井︑島田︑住友︑鴻池

古河︑大倉︑森村︑安田︑資本などいずれも然りである︒

 しからばこうした民間資本を事実上運営し︑わが国近代企業の経営者となったものは︑一体いかなる人間であ

ったかと云えば︑それは旧幕時代から明治に生き残った士族出身者であったのである︒たとえばその最も曲ハ型的

なものとしての渋沢栄一は︑もともと埼玉県で農耕︑養蚕︑藍玉の製造と販売を営んでいた富裕な農工商家の生

れであるが後には一橋家に用いられて武家となった入であり︑岩崎弥太郎は土佐藩士であると同時に︑彼の下

に働いた多くの人物もまた悉く士族であった︒三井は勿論︑商業資本家の主たるものであるが︑長州藩士たる井

上馨や旧幕最たる益田孝︑申津藩士たる中上川彦次郎の力によって存続発展した︒その他大倉喜八郎︑古河市兵

衛︑森村市左衛門などは︑いずれも町人の末流たる﹁お店もの﹂よりの出身ではあったが︑士族出身の俊才を用

   後進国開発における日本的類型       二一

(22)

    研究年報       

二二

うることによって︑よくその事業の大㍗なすに至ったのである︒

 けだし当時における企業形態は︑ほとんど株式会社組織をとっていたのであるが︑元来士族は数百年の長きに

互って奉公精神に徹し︑君侯の財政︑・財産を管理することについて伝統的な訓練を経てきた者であり︑その理

財商才は到底町人に及ぶべくもなかったが︑その清廉さと責任感は︑よく株式会社のごとく他人の資本を預って

これを運営するには適したものがあり︑又多数の部下を指揮影響する能力を培われていたからである︒しかも彼

等が一介の町人の個人企業にその番頭として働くと云うことは︑彼等のプライドの許し難いものがあったであろ

うが︑合本組織の株式会社においては︑その規模も大きく︑その﹁資本団体﹂としての非人格性が︑彼等の働き

をより安らかにしたことも︑決して見のがせない事情であったと云わねばならない︒

 かって上田貞次郎先生も論じられたごとく︑アダム・スミスは︑そもそも株式会社なるものは︑個人企業のご

とく︑企業者が自己の財産を自今の損益︑責任において運用するものでなく︑資本家にあらざる重役や社員が

これを運用するものであるから︑その成功は期し難いと主張したのであるが︑わが国において明治時代︑この株

式会社経営に当ったものは︑他人財産の管理についてすでに訓練を経た清簾にして責任感の強い士族であったこ

とが︑わが国におけるこの制度の成功と発達を促す一大原因となったのである︒こうした点はかって中国におい

ても︑折角近代的な株式会社制度が︑西欧より輸入されながら︑いまだにその普及発達をみていない事情とは︑

全くその特質を異にするものである︒

 しかもわが国の近代企業勃興期に当って︑その経営の任に当った者が︑もともと資本の所有者でない士族出身

者であったと云うことは︑わが国近代企業の発達史においては︑一挙にして初めから資本と経営の分離ひいては

専門経営者の出現がみられたと云うことを意味する︒もとより士族は士族であって︑専門的と云っても今日の意

(23)

味におけるがごとき産業経営についての専門的知識︑手腕︑経験を有する者ではなかった︒そして彼等の多くは

今日の独立的専門経営者のごとく︑その自主︑自律性を有したものとは考えられない︒しかしたとえ当時商業資本

の蓄積をなしえた町人といえども︑多年武士階級からの支配に圧迫されていたものにとっては︑新しい株式会

社のごときものを経営指導するだけの識見︑能力なく︑むしろこうした識見と能力とを比較的多く持っていた士

族出身者にその経営指導を任せぎるをえなかったのである︒この点イギリスやアメリカ等において︑その産業革

命の担い手となったものが︑多くは卑賎より身を興し︑資本を蓄積することによって自ら所有経営者となった独

立︑自主の企業者であったのとは︑又大いにその性格を異にするものである︒勿論こうした士族出身の経営者と

いえども︑その生命には限りあり︑やがて慶応義塾︑東京大学︑東京高等商業学校などにおいて︑専門の近代学

術を学んだ者によって︑わが国の企業経営者は交替していくのであるが︑かくしてここに初めて真に正しい意味

での専門的経営者が出現するに至った︒      鴨

 さて︑後進国としてのわが国の産業経済の開発に当って当初︑その実践的担当者となったわが国の企業および

企業経営者は︑およそ以上のごとき性格を有するものであった︒しかしながら︑もともとわが国の産業革命は︑

イギリスにおけるがごとく︑町人階級の実力と要求によって引起されたものではなく︑政治上︑外交上の事情に

より︑突如として士族階級によって引起された国家主義的変革であり︑かくして成立した維新政府は富国強兵の

ため︑自ら新産業の導入︑発展を創意し︑計画し︑保護︑助成したものであったから︑渋沢栄一などの熱心な主

張にもかかわらず︑民間企業はそれ自体として自主的に発展することが出来ず︑その資本と経営の多くは︑時に       へ は﹁政商﹂として︑国家の権力と保護とに結び付くことによってのみその大をなし︑又政府国家もこれら大企業

に付託することによって︑わが国産業経済の発展を期すると云う傾向を生まざるをえなくなった︒而していまか

   後進国開発における日本的類型       二三

(24)

   研究年報      二四

くのごとき︑後進国開発上におけるわが国独特の歴史的事情は︑その後わが国産業経済のさらなる発展の上に

次のごとく長き大きい特色を描かしめるに至ったのである︒

 一︑企業経営方針における国家意識と国家依存

 右にのべたるがごとく︑わが国の近代企業は︑私的利潤の追求を第一原理とした純粋な私企業︑町人企業とし

て出発したものではなく︑国家の創意︑計画︑保護︑助成と元士族階級の出身者を経営担当者として出発したも

のであったから︑たとえ民間企業といえども︑その企業経営に当っては︑国家意識がきわめて強く︑殊に諸外国

に対抗して経済的国威を宣揚すると云う識見と自覚を常に持って発達してきた︒諸外国よりの技術や制度は︑こ

れを輸入しても︑その政治的︑資本的支配は︑あくまでもこれを防衛しえたのは︑かかる意識や識見︑自覚に基

づくものに外ならない︒

 しかしながら他面︑わが国近代企業が︑国家権力に結付いて発達してきたと云うことは︑産業革命の途上にお

いてさえも︑わが国の企業は︑自由主義の歴史的洗礼をうけず︑企業者自らの自由なる創意︑工夫と責任負担に

おいて企業を経営すると云う︑私企業にと一って最も重要な自主性を確立することができなかっだ︒この結果経済

的な困難や事ある毎に国家の保護と助成を要求し︑企業努力によって解決すべきもの︑政治に要求すべからざる

ものまでもを政府国家に要求し︑それに依存すると云う弊風さえもを生んで︑今日に至っているのである︒

 二︑企業内部における経営家族主義原理

 民間企業に対する政府︑国家の指導︑保護︑助成を基礎づけていた根本原理が︑文字通りの国家主義すなわち

わが国独特の大家族主義思想に出発していたのと同様︑わが国では個々の民聞企業が︑その構成員︑従業員に対

する関係もまた︑経営家族主義の原理に基づくものであった︒国家の大家族主義を大宇宙に比すれば︑それと同

(25)

質的な小宇宙が︑個々の企業内部を秩序づけてきたのである〇

 一体に︑家族主義原理と云うものは︑云うまでもなく︑家長と血族と家産とを以て構成せられた家族制度を基

盤として生れてきた︑社会生活上の一原理に外ならない︒日本の家族制度そのものは︑歴史的に幾多の変遷をし

ているが︑それを貫く根本原理は︑要するに家長は家長権に基づいて︑血を以て連る家族を支配し︑言為的愛情

と家産を以て︑家族の生活を保障するとともに︑家族は家長の命に服し︑その労働の成果は︑悉く家長︵家産︶

に帰し︑無産のままこの家長の所有する家産によって扶養せられ︑ ﹁家﹂を中心とし︑彼等自らの祖先たる神に

疵護せられつつ︑一家同体となって生活していくと云う点にある︒いまこうした原理が︑アナロジーとして企業

経営内に導入せられたものこそ︑経営家族主義ないしは企業一家の原理に外ならない︒すなわちここでは企業者

は家長のごとくその企業︵経営︶権に基づいて︑家族たる従業員を支配し︑資本と信愛を以てその生活︑福祉を

保障する反面︑従業員は家族としての忠誠と努力を捧げ生産活動に精進し︑︒その成果の給与を以て生活を豊かに

していく︒そのためには労使和衷協力しなければならないと云うことが︑わが国の企業の一般において︑その根

底に確立されたのである︒

 かくしてこの経営家族主義原理の具体化として︑まず第一にあげられているものが︑わが国企業の.一般的特質

たる﹁終身雇傭関係﹂であった︒すなわちわが国の企業においては︑一般に諸外国におけるがごとく雇傭関係が自

由に移動せず︑企業はその従業員を一度雇い入れるときは︑それに熱心な技能訓練︑経営教育を施して子飼いの

従業員となし︑容易にそれを解雇せず︑生涯の勤務を期待し︑また従業員も一旦︑ある企業に就職するときは︑

それはその人の一生涯をかけてその企業に寄托する場合が多いのである︒勿論こうした労働移動性の僅小なるこ

とは︑わが国の人口過剰に比較して雇傭の機会の少いこと︑ならびに家族関係の硬直性などにもよるものがある

   後進国開発における日本的類型       二五

(26)

   研究年報       二六

が経営家族主義の思想に基づくこと多大であると云えるであろう︒

 第二には︑いわゆる年功制度と云うものが︑わが国の企業経営においては特に強力であると云うことである︒

年功制度とは云うまでもなく︑従業員がその企業に勤務した年数の多きに従って給与を定め︑この給与の大小に

従って職制序列を決定すると云う制度である︒合理主義的立場より云うならば︑かかる年功制度が正当化されう

るのは︑技術革新が停滞し︑職務内容が固定化して技能と年功との間に大きな相関々係が成立する場合とか︑技

能︑職務内容にいまだ客観的に科学化されない部分が多く内在し︑経験年数を重ねるにあらざれば︑よくその担

当遂行者となりえないような場合である︒かかる意味からすれば︑わが国の企業において︑年功制度が強く用い

られているのは︑とりも直さずわが国における技術や職務の科学化が遅々として進まなかったことによるものと

理解されうるが︑しかしその真の原因は︑そうした合理性の問題にあるのではなく︑矢張り封建的な長老主義︑︐

家族主義的な終身雇傭関係に相関聯するものと云うことができるであろう︒

 第三には︑わが国の企業経営においては︑他国に類例をみないまでに︑従業員に対する福利厚生制度が完備さ

れていることである︒従業員に対する社宅︑寄宿舎︑病院︑診療所︑図書館︑学校︑幼稚園︑浴場︑クラブ︑

洗濯場︑理髪洗髪所︑会社売店など到れり尽せりのものが設けられるとともに︑これらの施設利用は種類によっ

ては家族にまで許され︑且つ極めて少額な利用料︑ないしは無料となっているものが多い︒その他就業時間内に

おける給食︑近距離通勤費の支給︑出産︑結婚祝金︑傷病死見舞金︑等の厚生活動も手厚く行われ︑さらには家

族招特会など従業員の家庭にまで及んでいる︑

 もしそれ退職金制度にいたっては︑一定の年限たとえば二十年以上勤務した者に対しては︑これを支給すると

云うように︑終身雇傭関係を基礎づけるように設定されており︑かつその額を以て家作の一二軒もを造るとか︑

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