日 清
・ 日 露 兩 戰 役 と 我 國 人 口 動 態
塚 原 仁
は し が き
支那事婆沓生以火欧に一年牛橡の月日が流れた︒此間我葉木の赫々たる戦果は我全土に二倍する成人なる占嫁
地域となり︑又南獲兵碁や物葦の重大なのは云はすもがな敵に典へた損宰のみにて二百茜と柄せられてゐる︒今
や賊は所謂長期戦の段階に入り︑政治︑箪臍︑址合のあらゆる方面に捗り︑此事態に封虚すべき標榊が整備樹立さ
れつゝある︒東亜に於ける新秩序建設なる一l大聖業の貰現の翁に︑我団は奪き血の犠牲を忍び︑文王億の囲撥を
堂してゐるのであるl︺而して此一大事蛭が我囲人口の動きに重大なる影響を奥へつゝある事は喋々を要せざる所
にして︑之が今や常局者紬に識者の重要柑心事となってゐる事も︑攻めて断るまでもないであらう︒最近に於て
親閲が囲準を賭したる賊牢としては明治二十七・八年及び明治三十七・八年に於ける日清・日露の二大戦役があ
る︒此日清・日露雨戦役と裁囲人口動態との闘係に就きて芳子の統計的考察を加へる事は︑今次事軽の人口に典
へる影響を考察する上に於て︑満更尭川の事でもないと信じ︑此一文を革したる次第であるっ
日清・日露雨蛾役と我国人口動態九五
同 業 と 経 済
九六
日清戦争は明治二十七年七月に戦闘在開始し︑翌二十八年間月の熔和傑約締結によって終了し︑戦争期間九ク
月我闘の陸倒的勝利となっしに事は︑改めて一寺山迄もない υ 此戦役が我闘の人口に如何なる影響を及一ほしにか︒戦
手の影響は躍に交戦中に於てのみ現はる?ものではなく︑和平成立後に於ても之在見るのである
Jヘルシュは如
斯戦争によって人口が影響︑ぜ受くる期間を﹁入日早的戦争期﹂
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忘 同
町 含
ι m B a g ‑ L H E 5 号 古 宮 2 5
) と名付け
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ち従て此人口早的戦争期間が質際の戦争期間より長きは巾す迄もない︒而して此人口取的戦争期は連続する二
期に分かたれるリ 一は動員と共に始まるものである︒人々は山本を去って戦場に向ひ︑知に婚姻は減少し︑十ナ月
在経過すれば出生数の減少や来・にし︑叉戦闘の開始と共に死亡数は念以なる増加を示すに去る︒之は一五は
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破 壊
期 ﹂
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円︒)とも名付くべきものにして︑其影響の破壊的なる沿特徴とす
る ︒ 而 し て 此 期 聞 は 戦 宇 が 休 止 さ る 込 に . 主 る ま で 総 絞 す る ︒ 印 ち 此 期 間 は 婚 矧 窓 ・ ・ の 減 少 ︑ 出 生 率 ・ の 減 少 ︑ 死 亡 率 の
増加と云ふが如き人口に悪影響を典ふる事態のみしか現はれないが︑・之に反し︑戦争終結後に於いては自然は如
何なる犠牲を排ふも其損傷を恢復せんとするものにして︑云はど﹁戦争恢復期﹂
(Z110LO同市3 5 E B
含
‑ o 空 白 円
φ )
とも云ふべき期間である︒戦場に在った壮丁は師郷し︑妨けられたる婚矧は今や盛に行はれ︑死亡率は
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平年に於ける平均死亡率以下に降り︑叉十ク月を経過すれば︑出生率は平時に於ける平均出生率以上に上れ
o如
L . Hersch ,
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llJp S de 只 u c r r c .p p . , り 1 0 .
長崎高商研究館北報第二十一巻第五琉抗措,ラウ"ィノウィッチ
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武!ff と{9f~関西人口 J
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8,
9・
2 )
斯にして戦争は人口動態のあらゆる方面に軍大なる影響巻及依すことよ仏るが︑就中最も顕著にして︑重大なる
ものは軍人の戦死による死亡率の上井であり︑叉出生の減退である︒依って死亡︑出生︑婚姻の順序によって日
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一 ' ‑ ‑ '
死
清戦役の影響や検討する事にする︒
亡
明治二十七・八年在中心とする前後数ク年の本籍人死亡を掲ぐれば宍の通りである︒
明 治 二 十 六 年 明 治 二 十 七 年 明 治 二 十 八 年 明 治 二 十 九 年 明
十 年
ごム g口
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男 女 別 死 亡 数 表 計
女
人口五三付死亡死亡女百二付男
男
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四七 九︑
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八七六︑八三七四五二︑三八三四二回︑四五四
一 一 ・
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三一O
六・ 五八
日清戦争の影響は少くとも右の死亡統計に於ては大して者取されぬ︒否却って総人口に針する死亡率に於ては
明治二十七・八年が右五ナ年中の長低であり︑戦争年の笠年ーにる明治二十九年は死亡率は低かるべく想像さる h
にも拘はら宇︑却って戦争年よりも高率であると云ふ様な事は︑五日人の常識よりは到底理解し能はざる所であ
る︒僅かに男女の死亡の割合に於て︑平常年たる明治二十六年に於ける女百に付男一 O 四・四六人であつにもの
日 前
・ 日
‑ 協
同 戦
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人 口
動 態
九七
商 業 と 経 済
大&
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が︑翌年には一 O
六 ・ 一
O 人と培加し︑翌々年には一一一一一・二三人と男の死亡の割合が激増せる貼に日清戦争の影
郷 習
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h に止る︒壮年に在る男性人口が戦闘に参加し︑従て其階級に多くの戦死者在出︑にし︑平年以上に男
性の死亡在増大する事は蛍然の事である︒併し戦闘に参加する匁の直接的結果としての参戦男性の一死亡培加のみ
が︑戦争が死亡培在来にす唯一のものではなく︑男女在誠一じ︑あらゆる年齢階級に及ぶ非戦闘員の死亡率の高井
のある事在忘れてはならない︒例へば普填戦争ハ一八六六年)に於ける填太利の損害は戦死︑戦傷︑行街不明を合
して五再三千であつに︑が︑非戦闘員の死亡増加はブレントの計算によれば約二十高と推算されに︒叉一八七 01
七一年の普仰戦争に於て濁軍隊の損害は戦死︑戦傷病苑︑行街不明を加へて約四一尚一千と見積られにるに封し︑
非戦闘員の此戦争欣態によって死亡しにるものは普魯西のみにて一一十七高に法しに︒同戦役に於て併前回の戦争
一 八
七 Ol 七一年に於ける仰前凶の死亡増は凡そ六十一同であっ
向 ︒
にから︑敵の鍔に倒れにものは戦宇による死亡総数の六分の一に過ぎない︒而してヘルシュは此現象在日してつ伝
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中べから.ざるが如く考へらる三が︑戸籍簿は明確に詮明してゐる︒﹂と述べてゐる
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に よ る 直 接 的 損 害 は 十 一 両 足 ら ? と 推 計 さ れ る が ︑
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日清戦争の死亡に及怯せる影響に就て見るに︑戦争の勃後並に継続によっ
て直抜死亡の増加を来にすべきにも拘はらやノ︑叉それ以上なる非戦闘人口に於ける死亡増加が換期さる L にも拘
はら宇︑戦争年に於ける死亡は其数に於ても︑時貯叉立パ夜・に於ても却って減少してゐるのは
1抑ミ如何なる理由に
基くものであらうか︒
L. Hersch
, i b i d . p p . I2 , I3 ・
L.' Hcrsch
, i b i d . p . I3
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一 一
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戦争が出生減退を招来する一宇は蛍然の事であるが︑死亡や婚姻と異
hり其打撃は戦争と共に始まるものではなく
一ク年後(正確には九ク月)後より始めて其影響が現はる土与となる︒従って日清戦役の影響は明治二十七年には
期待し符ざる諒である︒失に日前戦争の出生じ奥ヘーにる影響を見ゃう︒
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明 治 二 十 八 年 明 治 二 十 九 年
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併し絃にも日清戦役の影響は殆いこ見るべきものはない︒何となれば常然期待さるミ出生減退なる十字⁝貨が全然な
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影響は一一十七年には期待され中︑汁件︑笠年以後に現るべきであるが︑只規則的な上井あるのみで︑戦争の破壊期の
影響なく︑叉特に恢復期の上井と都する程の山内常なる上昇も兄られない︒男女の出血知人口に於て戦争期間及び其
後に於て男児の出生超池卒が上井するや奇ゃに就ては︑
口前・日銭回戦役と我国人口効活
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者の設は一致してゐない
υ併し一般には損傷
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商 業 主 経 済
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を受けにる男性火口の補墳の鴛に︑自然は男児の出生超過率を増大せしむるものと信ぜられてゐる様であるが︑
此貼より云ふも右の数字は別段戦争の影響を示してはゐない︒明治二十七年に於ける出生男女比ハ性比﹀は男児出
生超過の上昇身示して︑戦争の影響巻物語るかの如くであるが︑之は最近に於ける生理壊の説明する男女の性決
定の理論より見て︑既に戦宇勃護前に受胎せられにる胎児に戦争が影響して︑男児出生超過率を上井せしむるが
如 ︑ き 事 は ︑ 有 り 得 ざ る 事 で あ る
0
4 んも戦争中母性や胎児の保護が一居注意せられ︑之が震に男児超過の割合の大
なる死産の減少によって︑男児の出生超過率が増大する事は想像され得る事であるが︑此等の期間に就て見るも
死産は決して減じてはゐない︒否却って増加してゐるのである︒従て明治二十七年に於ける男児の出生超過率の
増加は別種の事情に基くものであって︑戦争とは直接関係はない︒更に叉出生男女比に於て百人に付一人位の相
違は決して珍しい事ではなく︑其年偶然的の事情によって受動する事告看過してはならない︒
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ハ 三 三 件 三 一 八 三 九 九
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八・ 六四 八・ 六五
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婚姻数に就て見るに︑其数は戦争年にも拘はら宇増加してゐる︒但し婚姻卒の方は僅少ながら減少してゐる︒
併し之は減少してゐると云ふよりは殆 E 幾らなかったと見るべきである︒戦後婚姻は盛んに行はれるのであるが
之は明治二十九年のお卒となって現はれてゐる︒併し之に封しでは戦後結婚の増大と云ふよりは率ろ戦後の大豊
MO
作によるものではない光らうか︑ル一戦後結婚増に疑問在投ける人もあるが︑或程度の戦争の影響は之を認められ
る と
閉 山
ふ ︒
以上筒皐に日清戦役と我図人口動態との関係を概観しにのであるが︑蕊に結論さる=事宜は︑我図に於いては
日清戦役の影響は死亡に就ても︑勝叉出生に就ても殆・ど見るべきものは何にも現はれてゐない卒︑及び婚姻に於
ては佑かに戦後婚捌の増加に於て其影響が見らるへか如くであるが︑之とても直接戦争の影響とすべきや否やに
就ては︑疑問や挟むべき事情の存する事既述の如くであるとすれば︑目前戦役の人口に及一はせる影響は殆左なか
つにと云ふ事になる︒我闘運在賭して戦つに戦役が品川左無影響であつにと一去ふ事は︑甚に不可思議に考へらる λ
事である︒調査の不正確とか︑調査資料の不充分と云ふ殺な事も︑山知像されぬではないが︑此程の統計は既に其
以前より存しに所であるから︑共比較的正縦性は之在否定する在得ないと忠ふ︒従て︑此姑よりは戦争の人口動
態への無影響の一事由は説明されぬ誇である︒果して然らば其理山は何れに求むべきか︒推察し符らる=事由の一
日前・日係同戦役と我国人口動態
O
森数桧:1",人口統計論.
p . 1 6 6 .
同 業 と 控 訴
O
つ は
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日清戦役の規模が末記我図の人口動態に大なる影響曲ぜ及除すに至らざりしに凶山するのではないか︑
ふ事である︒併し我々は此事買を説明せんが震には︑動員数であるとか︑戦死傷数であるとが︑に就て一史に詳細
なる統計による基礎づけが必要である︒更に今一つの事由としては︑治時に於ける我同人口が民族的青春期に在
って戦争の障碍守克服するに足る民族的な元気叉活力が大であつに事が考へられる
J住 H て仰繭西が大革命及び
ナポレオン戦争と約三十年係に渉る戦争や内飢にも拘はら中︑共人口は却って四百五十一尚と云ふ増加を示し仁る
口り
事資は︑長沼に於ける同岡に於ける人口の停頓冶顧みる時︑人 1 昔の感に犠へぎるものがあるが︑此事資は人口車
的に矛盾せりと見らるよ戦争の無影響を説明する一資料と考へらる与のである︒
前節に於ては日清戦役と我閥人口との関係に就き概観した︒依って本節に於ては日露戦役の我同人口動態に典
へに影響に就て概論する事にする︒前節に於けると同様︑死亡︑出生︑婚姻の順に述べる事にする︒
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死
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先づ明治三十七・八年在中心とする数ク年の死亡統計を示す︒
第 四 表
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人口百二付死亡
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右去は所・前現在人の死亡である︒印ち内闘に本籍在有するも外地又は外闘に於て死亡せるものは︑右の数より
一O
了 一 九
亡数には入らない事となる︒ 除外される一ゃになる︒従て満洲や戦場とする日露戦役に於て倒れにる人々は︑現在人の死亡ではないから︑其死
之は戦争によって直接戦闘員の蒙る損害の大部分が︑統計の上に現はれない結果左
なる市川・を意味する︒換一マ一目すればそれは大腿非戦闘員の死亡数と云ふ事となる︒併し日露戦役による直接的損害に
る戦死や戦傷病死は外地や外凶又は航海中の死亡が調査されてゐるから︑之によって大腿身窺ひ知る事が出来る︒
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明 治 三 十 五 年 明 治 三 十 六 年 明 治t三
十 七 年 明 治 三 十 八 年
第 五 表
外地外国立(他に於ける死亡
男
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四 回 二 三 二
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十 年 明 治
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四︑五九八
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四(総計中には不詳を合む)
印ち明治三十七・八年に於ける男の死亡が既往各年に比し︑頗る彩多なるは日露戦役の匁の死亡による事は明
かである︒従て日露戦役の死亡に及依す影響の範囲︑程度を明かにするには雨者を合しにる本籍人の死亡を見れ
第 六 表
ばよい︒次に本籍人の死亡在掲けやう︒
人 明
治 三 十 五 年 明 治 三 十 六 年 明 治 三 十 七 年 明 治 三 十 八 年 明 治 三 十 九 年 明
治 四 十
年 明 治 四 十 一 年
本 籍
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四五九︑六三三
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四七六︑八七
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一 一 ・ 一
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八・ 六九 一
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一・
六四
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O
一・
九九
右表によれば日露戦争の影響は日清戦争に比して可成り明瞭に之を認める事が出来る︒印ち死亡の総数に於て
一O
一・
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計 九六 二︑
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九七九三三︑八三四
九九九︑六
一
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四回︑八五五九六一︑五五
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四八八︑六一五
四七回︑一九五
五 五 四 ニ 四 四 一 六
プミ.
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七
O
四八四︑六七五
五一七︑一仇七
五二三︑五三三
川人其比率に於て何れも増加在示してゐる︒殊に男性人口に於いて女性人口に比し︑死亡の割合の大なる事は顕著
にして︑明治三十七年は女百人に付一一 0 ・四七人︑明治三十八年は一 O 八・六九人と戦前及び戦後に比して極め
て大なるものがある︒此一拍のみより云ふも日露戦役が日清戦役に比して一居我闘に取りて重大なる戦争であっ
七 一
や が
︑ 窺
ひ 知
ら る
﹄ 諒
で あ
る ︒
我々は更に進んで如何なる年齢階級に於て︑其打撃が大であるか等に就ても研究しなければならない︒併し本
結人に就ては此等の統計は輿へられて居ら中︑只現在人に就き詳細なる数字が後表されてゐるから︑従て此等の
検討に蛍つては現在人の死亡によるの外はない誇である︒而も肢に一一マ一日しにる如く︑戦争の打撃は直接銃剣を取
って戦ふ者に及ぶのみではなく︑戦場より遠く離れに地区に在る者にも及ぶのである︒従て此意味に於て現在人
の死亡はか
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非戦闘員の死亡であるから︑所謂戦争の間接的打撃を明かならしむる事が出来る利盆がある︒既
掲第四表は此現在人の一死亡や示せるものである?而して同去によれば︑明治三十七・八年戦役期間に於ける死亡
数は平和年に針して稿︑︑増加を示してゐるが︑究︑割合に於ては特に戦争年在印象づけしむる程の竣化は見られな
い︒同去は日露戦争や挟む二・三年を取って比較しにのであるが︑此期間中のみに就て見るも明治三十八年の百
一両在突破せるは磁じ記録的な数字と云はねばならないが︑
一 年
身 置
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明 治
四 十
年 ︑
四 十
一 ・
年 は
何 れ
も 百
一 両
を 越
え︑明治三十八年の数字以上ずある
0
4
んも死亡卒に就て見る時は此等七ク年中明治三十八年の死亡率は百人に付
一・一一にて段高であるが︑若し明治四十一一年迄在取るとすれば︑同年の死亡数は一︑ O 九一︑二六四人︑人口百
日 清
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持 同
戦 役
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図 人
口 勤
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一 O
五同 業 と 経 済
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六に付一一・一九にして一唐高い︒印ち同年は宇和年でありながら︑戦争前よりは其数に於て勝又率に於て一居大で
あると云はねばならぬ︒之は要するに︑戦宇年に於ける非戦闘人口が戦争によって受くる梶度の影響は平和年に
於ても現出する事を示せるものにして︑従て明治三十八年に於ける死亡数や死亡率・のお井は特別に異常視せざる
べからざる程度には法せざりし事を物語るものである︒併し微弱ではあるが︑決して其影響がなかっに諜ではな
い︒此一予は同年に於ける死亡数や死亡率の培加が物語ってゐる所である.か︑尚男女別と︑ y ︑年齢別に就ても明に
者取さる h 所である︒険洲大戦砕同時伯林に於ては一九一五年以降は絶封数に於て女性の死亡超過なる事資が見ら
れに︒之は勿論各地方に於て同様に現はれに現象ではなかっにが︑それかと云って決して伯林にのみ特別なる事
象でもなかっに︒グ l ラッチェは女性の一死亡増加は明かなる戦争現象にして︑それは男女の数的比率が示す以上
円6
と云ってゐる︒蛍時男女の割合は女の方が男よりも多かつにのであるから︑女性が多く死する事
の も
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は蛍然と云はねばならないが︑其一死亡に於ける割合は其比率以上に︑大であつに事は注意すべき事責である︒向叉
一九一七年迄に残留せる男性は高齢者とか︑虚弱者と︑か︑腕休兵も健康的に弱ってゐたものが大部分身占めてゐ
に事在考へる時︑女性の死亡超過には特殊の意味を附加しなければならない︒醗而我闘の欣態や見るに︑我図に
於ては男性が治ミ超過&示してゐる図であつにから︑賞︑貼より男性の死亡超過は常然の事であるが︑男可の死亡
の割合に於ては覚︑卒は極く僅かではあるが下ってゐる︒此事は女の死亡が相針的に培加せる一事ゃな味するもので
ある︒壮年の働き手たる男が故郷守後にして︑戦場に向ふのであるから︑銃後の護りの主責がそれ︑にけ女性に負荷
Hans G l l r a d z e , Die B c v o I I 玉 c r t 1 n g s e n t w i c k l l l n gnach dcm 1
王r i e g e , S . 3 2 .
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せしめられにりとする事は︑必宇しも牽強附舎の説とは云へぬであらう︒以上は非戦闘人口に就てゾある事は断
るまでもない︒戦争によって男女何れが間接的打撃を受くる事が大であるかに就ては︑ 必中しも前に説明せる所
が原則と云ふ諜ではなく︑例へばへルシュの如︑きは︑男女の受くる影響は殆 E 同様であるが︑男の方が僅かに女
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白 ︒
よりも大であると云ってゐる様な反針の設もある︒きれば男女何れが戦争の間接的打撃や受くるかに就ては一定
の結論ル下されないが︑兎も角もへルシュが云ってゐる様に
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性は戦場に立に?とも決して血税から全然発がれ
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てゐると考ふるは諜りである︒何となれば肢も重き此税の間接的部分を男と共に負捨してゐるからである︒
次に日露戦争は如何なる年齢階級に肢も打撃を輿へにか︒
男女の死亡制合に及一はす影響に就ては既に簡単に鰯れにから︑ 之に就ては男女別に分って観察する必要があるが︑
法には年齢別に就てのみ其影響や見る事にしゃ
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階級の死亡数の綿一死亡に針する割合を計算するに次掲の如くである︒
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と述べ︑叉更に﹁高齢に注する伺人の数は必然的に制限さる込が故に︑其戦争による死亡の増加も限りが
ある︒従て戦争に因る間接的死亡増加の大部分は乳幼児の提供する所である︒法に於て吾々は戦争を鍔すものは
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大人にして︑其犠牲にるものは乳幼児たりとの辛味にして逆説的な結論に到達する︒﹂と云ってゐる︒果して日露
戦役に於ける結果は︑ヘルシュの説く所の如くであったらうか︒乳児の一死亡数に於ては戦争の前年にる三十六年
に比し︑戦争年大る明治三十七・八年は却って減じてゐる︒叉総数に占むる割合に於ても亦減じてゐる︒郎ち戦
手によって乳児の死亡は府加はしてゐないのである︒然らぱ其打撃は如何なる階級に現はれにか︒之を明かにす
る鍔に︑幼少年階級
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階 級
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O 歳 ) ︑ 及 び 老 年 階 級 ( 六 O 歳以上)に分ちて観察するに次
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の 通
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(総 死亡 一
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に 付 )
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本去によるも明治三十七・八年の戦争期間に於ける乳幼児入居合む幼少年階級の死亡率は其前後年よりも低くな
ってゐる︒成壮年階級に於ける微弱なる琳加と老人階級に於ける堆加が目につく︒但し老人階級の増加も大しに
ものではない︒之ル品女するにヘルシェは戦争の間接的打撃や最も多く受くるものは乳幼児であると云ってゐるが
少くとも日露戦争に関する限りに於ては︑乳幼児の死亡卒は減ってゐる︒戦後に於ては次第に多くなり︑戦前を
凌駕するに至ってゐるが︑之は盟に戦前の朕態に復蹄せりと者ではならぬ︒査し我固に於ける乳児死亡率は蛍時
︒
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より大正七年迄は上日升期に花つにと者るべきであるからである︒兎も角も我岡の乳児死亡上昇期に在った時期に
於て︑特に戦争期間に於て乳幼児の死亡の割合が減少してゐるのは︑何守物語るものであるか︒果して此現象は
我凶に特異なる事象であらうか︒乙に関聯して想起さる込のは︑世界大戦中に於ける獄逸の経験である︒グ l
ラ日前・日持同敵役と我図人口羽詰
研究館棄幸lA第二十六岳第十競,拙稿「乳児死亡率の諸問題
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1 2 )
商 業 と 経 済
一 一 一 一
ツチェは戦争中乳児死亡率は出生減退の結果もあるが︑人々が最初珠想しにる穂惑いものではなかつにとて︑伯
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林に於ける乳児死亡の表や掲けてゐる︒
第 十 表
伯林に於ける乳児死亡
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総死亡二封・スレ割合
次
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一九一四年の乳児死亡率の高率は恰も戦争の影響巻物語るかの如くであるが︑之は戦争の影響よりは寧ろ夏季
に於ける同年の猛暑によるものである︒之は月別乳児死亡率に明かなる所である) 一九一七年の上井も亦同年の
夏の暑さが其原因である︒命的陥死亡に於ける割合の減少はお年齢階級の死亡増加並に出生減退の結果である心之
は躍に伯林のみに見られたる事象ではなく︑濁逸令一健に就ても亦見られにる所である︒勿論甚だしき出生減退が
あつに匁に︑右の乳児死亡率が乳児死亡の真相是正確に示すものとは云へないかもしれぬが︑兎も角も戦前に比
して左程の悪化を示さなかっに事は濁逸が園家的︑祉
AW目的に母性並に乳児の保護の鍔に各方面に渉って施設する
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所があつに匁である事守忘れてはならない︒日露戦争蛍時我凶に於て此方面に於て如何なる保護政策が採られた仁吋仁ル
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かは知らぬが︑少くとも母子の保護隼主の風潮が怠識的叉は無意識的に坐じ︑之が乳児の死亡を少なからしめた
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附 山 町 恨
の で は あ る ま い か
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尖に老年階級に於ける死亡に就て見るに︑之は戦争中紛ミ増加してゐる
o併し其卒から云へば驚異に債する程一山 D
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のものではない︒元来戦争による非戦闘員人口の死亡晴加は︑物資の快乏︑精神的不安︑苦痛等による鰹位の劣
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るが如︑き供給はないとしても︑欧洲参戦闘が味つに様な生活必詰品の窮乏は存しなかった事が︑其理由の一宇を山間此郁
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( 二 ) 出 生 担 入 記
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ドョl リンクは欧洲大戦による欧羅巴十ク凶の人口の損傷在三千五百四十一尚と見積り︑内二千高偽は出生の減以・日
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一 五
続し︑次で戦争の恢復期に入り︑出生の増加身・米にすこと﹄なるのである︒右表は明治三十八年並に九年に出生
の減退が現はれ︑四十年より出生数は急激に増加して︑戦前のレベル+引抜いてゐる事を示し︑戦争の影響を加賀
に物語ってゐる︒更に男女の出生の割合に就て見るに︑其庖に甚冗大なる波測が現はれてゐる︒印ち明治三十七
年には女百に付男一 O 五・一四にりしものが︑三十八年には一 O 二・六八と激落し︑三十九年には一 O
八 ・
六 八
と
急騰し︑更に四十年には一 O 二・七三と碍落し︑四十一年に一 O 四・六三と大臨戦前に反ってゐる︒前にも二一日し
大様に戦争中には男児の出生超過が府加するものと普通考へられてゐる︒従て此貼より云へば明治コ一十九年の一
O 八・六八は此戦争による男児の出生超過堆に基くものなりと考へらる三が如くであるが︑之では明治三十八年
や四十年に於ける男女出生比が卒常年の水準︒ぜ遥かに降る低位に在る理山が説明されない︒然らば男女出生比に
兄らる込大波仰は何によって惹起されにかと云ふに︑島一
a者は之を女の丙午に闘する迷信に蹄してゐる︒明治三十
九 年 は 丙 午 に 相 川 町 す る 年 で あ る ︒ 而して丙午の迷信が汎く民間に於て伝ぜられ︑ 之が鍔に同年に於ける女児の山川
生届出でが回避されにる事は想像に難からざる所である)試みに月別の出生男女比を年初及年末の一一・二一ヶ月を
取って示せば弐の通りである︒
第 十
二 表
月 別 出 生 男 女 比
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明 治 三 十 七 年
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右去は明かに明治三十九年に於ける丙午による作匁的な女児出生届出の回避を示してゐる︒ 印ち明治三十八年
十二月及ひ間十年初に於ける大なる女児の出生超過は三十九年の年初及年末に於ける出生一女児の居出が或は平め
られ︑或は遅らされにる市引を示し︑三十九年の年初及年末に於ける兵常なる男児出生超過培は前述の女児出生届
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出に於ける作震に照肱せるものである︒加販にして明治三十九年が丙午の年であつに鋳に︑戦争と云ふ一大事受
が出生男女比に及一ほす影響は此迷信による意識的誤謬によって殆
除されてしまつに事は誠に遺憾な事である︒ h c
かくて戦宇と出生男女比との問題は︑日清・日露雨戦役の経験によっては何等積極的結論は得られてゐない︒併
し之は決じて或一汲の人が云ふ様な戦争と出・坐男女比との関係在否定するものではなく︑ 一は以て戦争の規模が
充分に我岡の人口の動きに大な石影響を奥へる程度に至らざりし事︑ 一は以て迷信と云ふ甚光芳ばしからざる原
因に因って︑其影響が隠されに震であって︑若しか h る事がなかつにならば︑或は此問題に封して一つの有用な
資料巻提供しに事であらうと考へらる斗 O 兎も角も日清・日露雨戦役の経験を以ては此問題に就て積極的にも︑
終叉消極的にも結論巻導き出す事は出来ない︒
共に日露戦争によって出生減退があっ大事は前にも述ベーに所であるが︑共程度は如何なるものであったか︑此
貼に就きて検討しゃう︒而して其打撃の大小
4ぜ知る儒には︑之と同様なる戦争在先しにる図々に於ける経験と比
較すべきであらう︒我々は先づ普悌戦争が濁悌雨固に典ヘム
i山る打撃︑及び欧洲大戦の損害与想起するのであるが
先づ北日悌戦宇に於ける濁悌雨図の受けにる痛手冶回顧しゃう︒悌前回に就て見るに此戦役は一八七 O 年七月に戦
端や開い亡のであるが︑出生が影響身受けるのは十ナ月後であるから︑其影響は同年には現はれ宇笠年以後に現
はるべきである︒之や数字に就て見るに︑
九て︑其前咋に比し殆
同党りはなかっに︒然るに止︑翌年(一八七一年)となると︑出生総数は八十二時六千︑と前 h c
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十六十両︑率・に於て二六・八と上井し︑戦後の恢復在明白に示現してゐる︒叉獄逸に就て見るも同様の事象が現は 一八七二年には九
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以後一八七八年迄は問一以上の出生率を示しに︒以上に依って猫・仰雨闘が普仰戦争に依
って受けに打撃は可成︒大なるものがあっ仁平がわかる︒併し之在欧羅巳大戦のそれに比すれば未に僅少なるも
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目前・日持岡敏佼と我図人口動態
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ラグィノィウッチ氏「戦争と偽 長崎高商研究館棄報第二十‑%:f第五披拙稿,
関西人口