奈良教育大学学術リポジトリNEAR
ヘンリー・ジェイムズ 1895年〜1901年(その1)
著者 谷本 泰子
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 32
号 1
ページ 47‑57
発行年 1983‑11‑25
その他のタイトル Henry James 1895‑1901 (part 1)
URL http://hdl.handle.net/10105/2294
奈良教育大学紀要 第32巻 第1号(人文・社会)昭和58年 Bull. Nara Univ. Educ, Vol.32, No.1 (cult. & soc.),1983
ヘンリー・ジェイムズ1895年1901年(その1)
ir 圭 /‑. 千
(奈良教育大学英米文学教室) (昭和58年4月30日受理)
1.は じ め に
へンリ‑・ジェイムズ(HenryJames)研究者にとってレオン・エデル(Leon Edel)の存在 はあまりにも大きいO エデルの編某になる数多くの書物(The Complete Plays, The Complete Tales, Stories of the Supernatural, Letters, A Bibliography等々)なしでは、今日のような広範 囲で多様なジェイムズ研究は存在しないだろう。これらの書物によって全世界の研究者がほとん
ど同じ条件でジェイムズに取り組むことができるようになった。編集者としてのエデルの業績は 計り知れない。しかし、エデル自身にとってもっとも野心的な仕事は5巻本の伝記HenryJames
(1953‑1972)である。この伝記は既刊未刊の資料を縦様に駆使して生き生きとしたジェイムズ 像を描き出し、完成以前にピュリッツァ賞、全米図書賞を得、一時ジェイムズ・ブーム、エデル
・ブームを巻きおこした。この書物は一方では熱狂的な讃美を得たが、冷やかで批判的な評価を 下す研究者もいた 1972年2月6日付New York Times, Book Review の書評はエデル讃美の 一例であり、同年8月18日付Times, Literary Supplementの論文はエデル批判の一例である。
エデルに批判的な研究者は、 「エデルの描くジェイムズ像はあまりにも主観的で、正しいジェイ ムズ像を伝えていない」と考えている。
伝記の最終巻が発刊されて10年余りがすぎた今、編集者としてのエデルの活動は断続的に続い ているが、研究者の間でHenryJamesが権威ある伝記として定着したとは言い難い。エデルと 考えを同じくする者は論文の中で彼に言及し、異なった考えを持つ者は伝記とは無関係に論を進 めている。今ではエデルの伝記の正否が真剣に議論されることはほとんどない。筆者は学生時代 からエデルの編集した書物によってジェイムズ研究を続けながら、いつの頃からかエデルの解 釈にはついていけないものを感じるようになった。 Henry Jamesが完成して2‑4年たった頃 (1974‑1976)、エデル批判の原稿を2編まとめたが、印刷の機会もないままに今日に至っている。
その1編が「ヘンリー・ジェイムズ1895年‑1901年(その1)」である。その後もェデル批判を とりあげた論文は他に発表されていないので、以前の原稿に手を加えて、今回発表することにす る。本稿はェデル批判を念頭に置きながら、筆者のジェイムズ論を展開したものである。
2.劇作活動の挫折‑再び小説へ
1895年 4901年と言えば、ヘンリー・ジェイムズ52歳から58歳に至る時期で、劇作家になるべ く努力した5年間の試みに完全に失敗した後、再び小説に戻ってから、後期三部作を発表する直 前までの期間である。この間の作品には、 The Other House (1896), The Spoils of Poynton
(1897), What Maisie Knew (1897) , "The Turn of the Screw", (1898) "In the Cage" (1898) ,
m
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TheAwkwardAge(1899),TheSacredFount(1901)のはか、20編に近い短編がある。ジェ
イムズ創作活動の中期の後半に当るこの時期の作品は、イギリス社会に題材をとったものが多く、
内容は多様で実験的であり、何を語ろうとしているのか作者の意図が理解しにくい、と言われる ものもある。初期の作品ほど若々しい魅力にあふれていないし、後期の作品ほど偉大でもないと いうのが、多くの読者の偽らざる感想である。この中の例外は…TheTurnoftheScrew"で あるが、この小説があれほどの論争を巻きおこしたのは、偉大さのためというより、その神秘さ
・嘆昧さのためであろう。日愛味でありながら、非常に明瞭な意図の下に書かれているらしく装わ れたこの小説には、読者に挑戦しかけ、研究者をして新しい解釈を発表せざるを得ない気持に駆 り立てる何かがある。素材と作者の想像力と小説技法が見事に結びついて、神秘的な虚構の世界 を作りあげている。ところが当時の他の作品は、それぞれが佳作であり、研究者にとっては無視 できない意味をもった小説ではあるが、多くの読者に愛読されるようなものではないのである。
本稿はジェイムズが中年から初老にかかる時期に体験した精神的な危機が、その後数年間の比 較的マイナーな作品とどのような係わりを持っているかを検討しようとするものである。若い時 期から小説家としての道を着実に歩み、外面的には充実した穏やかな生活を送っていたジェイム ズにとって、5年間の劇作活動を通しての心労と不安、その結末として1895年1月5日Guy
Domville初演の夜に体験した衝撃は、彼の全生涯を通じて唯一最大の災難であった。ロンドン のサント・ジェイムズ劇場で芝居の幕が降りた後、作者が舞台に呼び出され、不満を抱く一部の 観客から噸笑と野次を浴びせかけられたのであるinc
。v同じ夜、別の劇場ではオスカー・ワイルド
の芝居が大喝采を浴びていた。)小説家としての地位を築いて久しいジェイムズが、なぜ劇作に 賭けたのだろうか?彼自身の言葉によれば、富を得る手段としてこの道を選んだということで ある。1880年代後半以後、彼の小説の売行きは極端に低下していた。彼は収入減による生活の 不安を感じるだけではなく、世間からとり残されたような孤独を味わっていた。劇作家として成 功することによって、孤独からのがれ、豊かな人生を手に入れようとしたのである。若い頃から 演劇に対する興味と教養を養ってきた彼には、それが可能なように思えたのである。しかし5年 間の努力は報われることが少なく、失望の方が大きかった(3)
。そしてその総決算として、彼は
GuyDomvilleに劇作家としての運命を賭けたのである。その結果は無残な敗北であった。
劇作家としてのジェイムズを論じるのは本稿の目的ではない。一言で言えば、彼の才能は劇作 には向いていなかったのであるGuyDomvilleの失敗を観客の程度の低さにのみ帰すことはで きない。そのような観客を相手に「富と名声」を得ようとした目論見に誤算があったのである。
彼はあくまでも孤高な小説家でなければならなかったのだ。小説家としての道に戻っていく決意 を、1895年1月23日付の創作ノートに次のようにしるしている。
Itakeupmyownoldpenagain‑thepenofallmyoldunforgettableeffortsand sacredstruggles.Tomyself‑today‑Ineedsaynomore.Largeandfullandhigh thefuturestillopens.ItisnowindeedthatImaydotheworkofmylife.And Iwi.'l)
ジェイムズは劇作家としての敗北を受け入れることによって、小説家としての自己を再確認し、
さらに前進しようと決意している。50歳をすぎた彼が大きく広々とした未来を信じ、今こそライ フ・ワークに取りくむ時かもしれない、と述べているoそこしか進む道がないという小説家の決
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49意の表われであり、また、ひそかな自信の表われでもある。
この後の数年間をヘンリー・ジェイムズの精神的危機が尾を引いていた時期とみなすか、ある いは危機から驚くほど早く回復し、心理的にかなり安定した再出発の時期とみなすか、その点が 本稿の議論の中心となる。 The Spoils of Poynton, What Maisie Knew, =The Turn of the Screw などは作者の内面生活とどのような係わりを持っているのだろうか? この時期の作者 と作品の関係をどのように解釈するかによって、作品の評価も異なってくるし、小説家としての ジェイムズ像も異なってくる。筆者自身の見解を展開する前に、レオン・エデルの解釈をかいつ まんで紹介する。,
3. レオン・エデルの解釈
レオン・エデルはHenry Jamesの第4巻(1969)でこの時期を扱い、 The Treacherous Years という副題をつけている。エデルの伝記の第一の特徴は豊富な資料によってジェイムズの生活を 生き生きと再現していることである。この点については、この伝記に勝るものはないであろう。
第二のさらに大きな特徴は、各時期の作品や手紙などを用いてジェイムズの精神分析を行なった り、あるいは逆に、ジェイムズの精神構造を基にして作品分析を行なっていることである。言わ ゆる「精神分析的な伝記」であるが、この点については大いに異論の余地があるように思う。さ て、エデルは1895年以後のジェイムズについて、外面的な安定とは裏腹に悪夢と困惑状態が持続 していたのだと診断し、その証拠を当時の彼の作品の中に見出しているL,さらにエデルは、当時 のジェイムズは劇作活動によってもたらされた悪夢のみならず、幼時体験としての悪夢を呼びお こし、その傷跡に悩まされていた、と診断している。当時の小説に登場する子供たちは作者白身 なのだ、と工デルは述べている。いくつかの小説を例にとって、エデルの解釈を締介してみよう。
The Spoils of Poynton については次のように解説している(要約)o 「フリーダ・ヴェッチ (Fleda Vetch)の性格は暖味で、なぜ彼女がオーウェン(Owen)を拒絶するのか、その動機が はっきりしない〕登場人物についても筋についても、作者のシナリオは‑畏していないようだ。
後年につけた序文でジェイムズはフリーダは並はずれた知性と自由な精神を持ったすばらしい娘 だと述べているが、作品にはそれが描かれていない。劇場でのジェイムズと同じく、彼女は困惑
し変節する。この小説は、敵役が勝利を収め高貴な人間が敗北するというジェイムズ風の結末で はなく、メロドラマ風の結末になっている。つ 最後にポイントン邸が焼失するのは、作者の劇
(Guy Domville)が徒労に終ったことを反映しているJ""すなわちェデルは The Spoils of poyntonを一貫性がないと批判し、その原因を作者の演劇体験に見出しているのである。
What Maisie Knew については次のように解説している(要約)。 「内的な困惑に直面しなが らも、大人の知性と職業的な技巧によって作品を生み出した蹄著な例であるo メイジーの困惑は GuyDomville 上演の際に体験したジェイムズの困惑であるっ また、この小説は一見子供らしい 好奇心を通してコミカ;Kこ描かれているが、深く読みとれば、そこには恐怖の世界があるo ヴィ クト))ア朝後期のモラルの崩壊を目の当りにしたジェイムズ白身の困惑が読みとれるっ子供らし い驚嘆の世界であると同時に、悪夢の世界でもある」̀6)すなわちエデルは幼いメイジーの中に 作者自身の精神状態を見出し、この小説も作者の演劇体験と深くかかわっていると述べている。
"The Turn of the Screw"については長々と解説しているが、要点を述べると次のようにな るO 「プライ(Bly)の屋敷にとりついているのは邪悪な幽霊ではなく、ヒステリックな家庭教師
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VZM9二ら
の強迫観念である。無垢な子供たちに彼女は罪を問いただすが、悪魔は彼女自身の心の中にいた のだ。主人公のマイルズ(Miles)は最後に死ぬが、それはHThePupil"(1892)のモーガン
(Morgan),=OwenWingrave"(1893)のオーウェンと同じく、無垢な者が外的な力によって 死に至らしめられたのである。この三人の中に幼い頃のジェイムズの姿がある。活動的でたくま しい兄ウィリアム(WilliamJames)との精神的葛藤によって、彼は常に傷ついていた。そのた め彼は母や叔母の女の世界に逃げこむことが多かったGuyDomvilleの失敗も、彼が気遅れの ために十分自己主張ができなかったのが原因であろう。また彼はロンドンからライ(Rye)のラ ム・‑ウス(LambHouse)に移り住むようになって心の平安をひどく脅かされた。そこには彼 の少年時代のあらゆる幽霊が住んでいたのだL,HTheTurnoftheScrew"はジェイムズの悪夢 の表現にはかならず、子供たちと家庭教師はジェイムズの過去の呼び声なのだ」̀7'この解説はエ デル的な精神分析の典型的な例である。
HIntheCage"については「これはロンドンを離れたジェイムズの気持の直接的な表現である。
ライの田舎に閉じこめられたという疎外感が、郵便局のかごの中の娘の物語を書かせたのだ。差 し出される電報の内容によってのみ外界を想像する娘は、ロンドンの社交界を遠くから眺めてい るジェイムズである」(8)と言っている。
エデルの解説によれば、以上の作品はすべて不安定な作者の内面生宿(特に演劇体験によって 呼びおこされた幼年期の精神的傷跡)の表われである、ということになる。当時のジェイムズの 精神状態について、エデルは次のように説明している。
Theworkshenowwrotesuggestthatinthemidstofthesunandseaandsummer ofRye,thelongridesonhisbicycle,thechangefromurbanlifetoquietEnglish ruralism,Jamescontinuedtoliveinastrugglingnightmareworld,areturntothe sensitivehurtsofhisearlylife.Hewasfindingouterpeace.Thequestforinner peacecontinued.<9)
エデルはジェイムズの「外面的平安」に対する「内面的苦闘」を指摘している。一人の人間の中 に安定感と不安感が共存するのは普通の現象であるが、エデルの解釈はジェイムズの「悪夢」や
「幼年期の心の傷跡」を強調しすぎる傾向があるoそのためさまざまな内容の作品解釈が一様に なってしまい、読者の興味をそいでしまう。エデルはHTheTurnoftheScrew"については
新しい資料を用いて自説を補強し、他の研究者たちの意見を排斥しようとしている(10)
。しかし、
その際の資料の解釈の仕方も主観的でありすぎて、説得力の乏しい議論になっている。エデルと は異なった意見を持つ者が多いのも事実である。
次に筆者自身の論を展開するo本稿ではTheSpoilsofPoyntonとWhatMaisieKnewの二
作品をとりあげて論じ、その後でライのラム・‑ウスにおけるヘンリー・ジェイムズの生活につ いて述べることにする。
4.TheSpoilsofPoyntonについて 少ヤ・‑▲
この小説の勝子は、作者が1893年のクリスマスの晩餐の席で聞かされたゴシップ,古い立派な 美術品で満たされた屋敷の相続をめぐって、美術品を熟愛する母親と、イギリスの慣習にしたが
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51って所有権を主張する息子夫婦が遺産争いをする、という話である。ジェイムズは小説の材料と して母親の立場に興味をそそられる。俗悪で無趣味な息子の妻。この妻とは対照的に芸術的観賞 眼を持った一人の娘O母親はこのような娘を息子の嫁にしたかったのだ‑作者はこのような状 況に思いをめぐらすOその後、 1895年5月13日、 8月11日、 9月22日、 1896年2月13日付の創作 ノートの中で作者はこの話を発展させ、 1896年4月より The Atlantic Monthly に The Old Thingsという題名で連載を始めた。ニュ‑ヨーク坂の序文でジェイムズは「人生はすべて混合 と混乱であり、芸術は識別と選択である」(ll)と述べ、一つの噂話から芸術作品を作りあげた自信 を表明している‑,この小説が後にThe SpoilsofPoyntonと改題され出版された。この小説を高 く評価するか否かは別にして、ジェイムズらしい手法でジェイムズらしいテーマを追求した、ま とまりのある作品である。
ジェイムズらしい手法というのは、遺産相続争いの直接の当事者、ゲレス夫人(Mrs. Gereth) と息子のオーウェンを小説の主人公とはせず、フリーダという高い知性と自由な精神を持った娘 を中心に置き、彼女の視点から物語を展開していることであるoゲレス夫人の友人であるフリー ダは、婚約者のいるオーウェンをひそかに熱愛している。遺産争いがこじれ、オーウェンと婚約 者のモナ(Mona)の仲が冷たくなる。気弱で独立心に欠けるオーウェンはフリーダの愛蚤求め るようになり、彼女に求婚する。そのことを知って、ゲレス夫人は息子に美術品を渡す。しかし、
フリーダは愛するオーウェンの名誉を守るため、彼を婚約者の許に帰し、婚約が解消するのを待 つ,J ところが美術品を手に入れたオーウェンは、モナとさっさと結婚してしまう‑このように 筋は展開する。フリーダは自分の幸せをとり逃がし、ゲレス夫人を失望させる。そしてオ‑ウェ ン夫婦の手に渡った美術品は、彼らの留守中に起きた火事のためポイントン邸ともども焼失して しまう。フリーダの高度な道徳心は現実生活では何の役にも立たず、かえって不幸な結末を招い てしまうのである。モラル・センスを振りかざし、愛する男を拒否するフリーダの態度は非現実 的であるとか、いくら高尚であっても女らしい魅力に欠けるという批判は当然出てくる。しかし、
このような要素はジェイムズの他の多くの小説に共通した特徴であって、 The Spoils ofPoynton だけの特別の欠点として指摘することはできない。
The Notebooks of Henry Jamesの編者(F. O. Matthiessen & K. B. Murdock)は「フリ‑ダ は自分の財産は何一つ持っていないが、想像力と審美眼を備えた、もっともジェイムズらしい女 主人公である」(12)と解説しているO また、 T. W. Dupee は「71)‑ダが固執するようなモラル
・センスを行使することは、明らかに人間らしい自然な幸せを失なう危険をともなう。自然な幸 せというものは、ある種の妥協の上に成り立つものだが、彼女は正にその種の妥協を拒否するの
である」(13)と述べている,,ヘンリー・ジェイムズの作品全体を見わたした時、ハッピー・エンドの 小説が非常に少ないというのは、だれもが気づくことである。ジェイムズにとっては、 「自然の 幸せ」よりも、 「高度の道徳意識」の方が小説のテーマとしてより興味深く思われたのであろう。
不運に耐えて生きていく人間の姿が彼の想像力に強く訴えかけたのであろう,。その意味でThe Spoils of Poynton はIEにジェイムズ的な小説であり、フリーダはジェイムズらしい女主人公で
あるO作者自身、序文の中で女主人公を高く評価している〕このような作者の意図は作品の中で 適切に描き出されているというのが筆者の見解であるっ現実問題として、フリ‑ダを全面的に讃 美するか、あるいは批判的に見るかは作品評価とは別の問題であって、それぞれの読者の主観
(人生観)に任せられていいと思う,J
The Spoils of Poyntonの結末におけるポイントン邸の焼失については、筆者は次のように考
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えている。フリーダは非常に優れた知性と自由な精神の持主ではあるが、貧しく、あまり美しく もない。他のジェイムズの主人公たち(大金持であったり、非常に美しかったり、両方かね備え ていたりする場合が多い)と比べて、彼女はいかにも見劣りがする。元々失なうものを何も持っ ていなかったフリ‑ダが、必然性に乏しいオーウェンの愛をつなぎとめることができなかったか らといって、読者の心に強い同情と共感を引きおこすことはできないだろう。物語の結末で読者 に強い印象を与えるためには、この物語の中で一番大きな比重を占めている‑いわば主人公で ある‑ポイントン邸を炎上させる必要があったのだ。この作品の結末は必然性があり、 「メロ ドラマ風になってしまった」というエデルの批判は当らないと思う。「ポイントン邸の焼失」と
「Guy Domville の失敗」が全く無関係であるとは断言できないが、エデルが言うような形で影 響を及ぼし、そのために、作品の‑良性が損われているという意見に筆者は反対である。
5. What Maisie Knewについて
この小説の材料となったのは、作者が1892年11月12日のディナー・テーブルで耳にした一つの 噂話、両親が離婚したため子供は6ヵ月毎に片親の家から片親の家へと移り住んでいるが、やが てどちらかの親が再婚することになる、という話である。この小さな噂話を材料にして小説を書 くにあたり、ジェイムズはそれを発展させ、もつれさせ、可能な限りスキャンダラスなものにし た。両親の離婚、子供をめぐる裁判沙汰、二親がそれぞれ再婚、再婚後新たにできた愛人たち、子 供を媒介にして生じた継父母問の不道徳な関係、等々。なぜこんな小説を書いたのか首をかしげ たくなるほどであるが、作者はニューヨーク版の序文で次のように述べている(要約)0 「元々は 小さなドングリにすぎなかったものが塵の木に成長した。醜悪なスキャンダルが文芸作品に成長 した秘訣は、大人の世界とは対照的な無垢な子供の日を物語の中心に置いたことである。その子 供と係わり合いを持つことによって、下劣で空虚な大人たちも詩と悲劇と芸術の材料になる。」(14) What Maisie Knew の執筆を通して作者が興味をもったのは、子供の意識の世界そのものでは なく、子供の意識に写ったと思われる大人の世界である。いくつかの場面をとりあげて検討して みよう0
6歳のメイジーは最初の6ヵ月を父親と暮した後、迎えに来た母親に「パパからママに何かメ ッセージがある?」と尋ねられるLlすると彼女はかん高い声で「パパが言ってたわ、ママはぞっ とするようないやらしいブタだって。ママにそう伝えなさいって」と報告する。また、次の6ヵ 月の後、彼女は母親から父親への伝言を家庭教師のオヴァモア先生(Miss Overmore)に伝える。
「パパは嘘つきだし、嘘つきだってことを自分でも知ってるんですって。パパにそう伝えなさい ってママに言われたの」と。、メイジーは自分が大人同士を傷つけ合う道具に使われていることに、
まだ気づいていない。
憎しみ合い傷つけ合うための道具になることを拒否しはじめたメイジーも、不道徳な愛情など というものが存在することを知るのは、まだ先のことである。父とオヴァモア先生が仲良くして いるのを喜び、 「わたしがいない問も、パパと先生は仲良くしていたの?」と無邪気に尋ねる。
こういう場合、大人は馬鹿笑いするか顔を赤らめるしかない.。また、ある時オヴァモア先生が
「あなたのママは結婚もせずに男の人とヨーロッパを歩き回り、恥をさらしているのよ」と中傷 するのに対して、 「じゃあ、その男の人がわたしの先生になればいいのね(〕それならママと仲良 くしたっていいんでしょ?」と言う。この時もオヴァモア先生は顔を赤らめる。メイジーの方は
ヘンリー・ジェイムズ1895年‑1901年(その1)
53自分がしゃべっている言葉の意味がわかっていないのである。
父親は家庭教師と、母親は愛人とそれぞれ再婚して、事態は収まったかに見えたが、すぐに新 しいスキャンダラスな関係が生じる。メイジーを媒介にして、継母と継父の間が親密になったの である。メイジーは大好きな二人が親しそうにしているのを見て、嬉々として言う。 「わたしが 二人を引き合わせたのね。パパと先生を引き合わせた時とちょうど同じね」とL,二度までも不道 徳な関係のとりもち役になったことの意味が、彼女にはわかっていない。
以上の数場面からわかるように、幼いメイジーのE]を通して大人の世界を描くことによって、
大人たちの不道徳さは拡大され、戯画化されている。子供の意識は大人の世界を写し出す鏡とし て用いられており、読者はそこに写し出される情景の意味を解釈するのである。たとえメイジー の意識はぼんやりしたものであっても、その背後に明瞭な意識を持った作者がいて、大人の世界 で起こっている出来事の性格を余すところなく読者に伝えている。エデルのように女主人公と作 者の意識を重ね合わせて「メイジーの困惑はジェイムズの困惑である」と見なすのは、この小説
の特質と相入れない解釈だと思う。たしかにこの小説では四角関係・六角関係などという異常に 乱れた男女関係が描かれている。その点についても、エデルの言うように「Guy Domvilleの失 敗が悪夢となって表われている」と解釈するのは考えすぎであろうO ジェイムズは小説の材料に なった小さなゴシップをことさら拡大し、小説技法を駆使しながら社会風刺劇を描くことによっ て、新たな分野の小説に挑戦しようとしたのである。この作品の中で作者は、劇作を通して修得 した演劇手法(scenic method)を小説に応用している。その手法はジェイムズ後期の小説技法 の一つとして、その後の作品にも用いられるようになる。彼の小説家としての職業意識は劇作の 失敗を無に終らすことなく、そこから新たな可敵性を引き出し、発展させようとしているのである。
この当時ジェイムズは幼い子供たちを主人公にした小説をいくつか書いている、というエデル の指摘については、筆者は次のように考えている。 What Maisie Knew もHThe Turn of the Screw"も作者が他の人から聞いた小さな噂話を材料にして書きあげた小説である。ここに登場 する子供たち‑メイジーとマイルズ‑はどちらも本来は無垢な存在であるが、道徳的に乱れ た世界と交わることによって、彼ら自身も汚れ、塘落する危険に身をさらしている。,彼らは子供 らしい無邪気さと同時に、彼ら白身気づかないままに、也蕗の可能性を秘めている,3 ジェイムズ は子供たちのそのような状況に心を引かれて、子供を主人公にした小説を書いたのであろう。不 道徳な悪に対して子供たちほどの程度無垢であり、どの程度堕落しているのか。周囲の大人たち にも容易に理解しがたい問題である。 What Maisie Knew も̀̀The Turn of the Screw"もそ のようなテーマを扱った小説であり、理解しかたいことから生じる緊張感が、これらの小説の大 きな力となっている()エデルのように子供たちをあくまでも無垢な存在と見なす考え方は、これ らの小説には当てはまらないと思う・。
以上、 The Spoils ofPoyntonと What Maisie Knewの二つの作品をとりあげ、筆者の意見 を示した。作品論としては非常に不十分なものであるが、この時期のジェイムズの小説に対する 筆者の基本的な考え‑エデルの解釈との相違点‑は明らかにすることができたと思う。
6. ライのラム・ハウス
ここで観点を変えて、ライのラム・ハウスでのヘンリー・ジェイムズの生活について検討して
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みよう。ロンドンからライの田舎に移り住み、ラム・‑ウスの主人となったことが、ジェイムズ の精神生活にどのような影響を及ぼしたかを知ることによって、作品解釈への一つの手がかりが 得られるであろう(この個所については、主としてPercy Lubbok ed., The Letters of Henry Jamesを参考にした)。
ラム・ハウスoそれはこれまで言わば根無し草のような生活をしてきたジェイムズにとっては、
54歳にして手に入れた永住の家であり、独身生活を成就すべき家庭であり、自然との交りを通し て心の平安を得る安らぎの地であった1896年、当時彼はロンドンでアパート暮しをしていたが、
春から秋にかけてライに家を借りて仕事をしているうちに、静かで慎ましやかな田舎がすっかり 気に入ってしまう。翌年、ライの古い屋敷ラム・ハウスが空家になったことを聞かされ、直ちに 21年間の長期賃借契約を交し、 1898年夏から入居、 1899年にはそれを買い取り、名実ともにその
^E月
家の主人になっている。ジェイムズにとってラム・ハウスはどのような意味があったのか、当時 彼が親しい人たちに書き送った手紙の中から、重要と思われる点を拾いあげてみよう。
ラム・‑ウスはジェイムズにとって「家庭」を意味した1896年ライに滞在した時の印象とし て、この土地は「小さな慎ましやかな家庭」 (a small and homely family)のようだと描写し、
ラム・ハウスが借りられるようになったいきさつについては、以前見て気に入ったが借りられる 当てがなく、あきらめて考えまいとしていたところ、思いがけず「私の絶望的な情熱」 (my hopeless passion」がかなえられることになったと、まるでつれない恋人が結婚の承諾でもし てくれたような表現を用いているn ラム・ハウスに引越す直前の手紙には、 「重要な家庭の雑事 がいろいろあって」 (domestic complications of great order)、大急ぎライに戻らなければなら ない、と書いているし、入居後一カ月ほどして書いた手紙では「私の家の配置」 (my domestic arrangement)という言葉を使っているD また、 1899年夏にイタリア旅行中に兄に書いた手紙
では、 「ラム・‑ウス‑の郷愁が非常に強いのでロ‑マは早々に引きあげるつもりです。今後は 絶対に家を離れません」と言っているo これらの言葉にはユーモアや誇張があるだろうが、ジェ イムズのラム・ハウス‑の愛着の気持か十分に窺われる。初老の小説家が自分一人で(召使いや タイピストを除いては) 「家庭」を作ったのであるn この家庭は友人や親戚の者に解放され、時 には客のもてなしに要する負担が大きすぎると感じることもあった。しかし、友人たちとの交り にもましてジェイムズの心を慰め安らぎを与えてくれるのは、仕事であり、ラム・‑ウスの古い たたずまいであり、自然であった。
ラム・ハウスに住むようになって、ジェイムズの自然を見る目はすっかり変ってしまったよう だ。 1898年5月には次のような手紙を書いているノ、
I am content enough with the bathroom but hopeless about the garden, which I don't know what to do, and shall never, never know. I am densely ignorant‑
only just barely know dahlias from mignonette and shall never be able to work it in any way. So I shant try but remain gardenless only go in for
lawn‥ (15)
ところが7ヵ月後の12月にはウィイアム・ジェイムズ夫人宛の手紙で次のように述べているo
Nothing would induce me not to be here for Christmas and nothing will induce
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55me not to do my best at least to be here for the protrusion of the bulbs the
hyacinths and tulips and crocuses.‥ we have committed to the earth together
innumerable unsightly roots and sprigs that I am instructed to depend upon as the fixed foundation of the future herbaceous and perennial paradise. Little by little,
ever with other cares, the slowly but surely working poison of the garden一mama
begins to stir in my long‑sluggish vein.<16)
また、翌年2月には甥のハリーに宛てた手紙で「庭はほほ笑み輝きはじめ、まるで5月のようで す。クロッカスとヒアシンスは半分芽を出し、桜草と黄水仙が一面に生え、チューリップは日々 発芽が待たれています」と報告している。都会人であり、高度な文明人・知識人であるジェイム ズが、はじめて庭いじりに興味を覚え、自然の胎動を身近に感じ、ぞくぞくするような喜びを味 わっている様子が文面にあふれている。
ラム・‑ウスはジェイムズにとっては家庭である。その庭に花や木を植え育てることに大きな 喜びを見出しているということは、彼の人生に大きな変化が生じたことを意味している。彼は自 分の孤独な生活を受け入れたのであり、将来もなおそのような生活が続くことを予想し、精神的
・物理的な準備をしているのである。大の社交家であり、人一倍愛情深いジェイムズにとって、
そのような生活は淋しくないわけはなかっただろうD しかし、そこには孤高な小説家としての自 己の運命を受け入れた者の心の安らぎがあったと思う。 The Letters of Henry Jamesの編纂者
(Percy Lubbock)は次のように解説している・。
The first five years that Henry James spent at Rye were the least eventful and
most serenely occupied of his life..‥.. His letter shew indeed that he could still
be haunted occasionally by the thought of the silence with which his books were
received by the public at large‑ ‥ ・ ‑ but these misgivings lvere superficial
in comparison with the deep joy of the surrender to his own genius, now at the
climax of its power…‥ and the long mornings of summer in the pleasant old
gardenィoom of Lamb House, or of winter in his small southern study indoors, were perhaps the best, the most intimately contenting hours he had ever passed.(17)
ジェイムズの小説は依然として一般読者から無視されていた。彼はそのことで悩まないわけでは なかったが、仕事に対する情熱やライでの平和な生活に比べれば、そのような悩みは表面的なも
のにすぎなかった、とラボックは解説している。ジェイムズの手紙を文面通り受けとれば、ラボ ックのような見解に致達するのは自然である。先に述べたように、エデルは当時の小説を材料に してジェイムズの精神分析を行ない、 「心の傷跡」や「不安感」などを強調している。筆者とし てはこれまで述べてきたように、エデルの見解には賛成できず、ラボック的な見解の方がより自 然だと思っている。
ヘンリー・ジェイムズはこのラム・ ‑ウスで"The Turn of the Screw",HIn the Cage",
The Awkward Age, The Sacred Fount などを書き、次いで後期三部作‑と移っていく。本稿 ではそれらをとりあげることはできないが、このような小説についても、筆者の考えはエデルの 解釈とは大きくくいちがっている一つ ジェイムズはエデルが言うような形で伝記的要素が作品に反
56 if 本 泰 子
映される小説家ではないと思う,,中期後半の作品の中に作者の姿を認めるとすれば、それは小説 の素材を前にして想像力をかきたてられ、実験的な技法を駆使しながらフィクションの世界を作
りあげていく小説家の姿である。ジェイムズは何にもまして「プロ」の小説家だったのである。
問題作HThe Turn of the Screw"や最も暖味な小説 The Sacred Fount も、そのような 観点から理解し鑑賞すべきだと考えているo (拙訳『ねじの回転』の解説(18)および拙稿「The Sacred Fount論」(19)を参照。)
主
1) Percy Lubbock (ed.), The Letters of Henry James Vol. I (Octagon Books, New York, 1970), pp.
232‑233.
(2) ibid., p. 191, pp. 235‑236, ff.
(3)彼がこの時期に書いた7‑8編の芝居のうち、実際に上演されたのは2編だけである。
(4) F. 0. Matthiessen & Kenneth B. Murdock (ed), The Notebooks of Henry James (The University of Chicago Press, Chicago, 1981), p. 179.
(5) Leon Edel, Henry James: The Treacherous Years (J. B. Lippincott Company, Philadelphia, 1969), pp. 16ト164.
ibid., pp. 180‑182.
(7) ibid., pp. 201‑212.
18) ibid., pp. 248‑250.
ibid.,p.168.
ibid., pp. 213‑214.
Henry James, The Novels and Tales of Henry James Vol. X (Charles Scribner's Sons, New York, 1936),p.v.
The Notebooks of Henry James, p. 138.
F. W. Dupee, Henry James (Dell Publishing Co., New York, 1965), p. 166.
The Novels and Tales of Henry James, Vol. XI, pp. v‑xiv.
The Letters of Henry James, Vol. I, p. 283.
ibid., pp. 303‑304.
ibid.,p.272.
(18)谷本泰子『ねじの回転』 (旺文社文庫、昭和53年)、 189‑201貢。
(19)谷本泰子「ヘンu‑ ジェイムズ『聖なる泉』について」 (早稲田大学『英文学』35号、昭和44年、 69‑
79頁。)
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Henry James 1895‑1901 (part 1)
Yasuko Tanimoto
Department of English Literature, Nara University of Education, Nara, Japan (Received April 30, 1983)
From 1890 0n Henry James disastrously tried to be a playwright for five years, and suffered a great deal when all his efforts and much cared Guy Domville proved to be a failure. After that he returned to write novels, and between 1895 and 1901 wrote The
Other House, The Spoils of Poynton, What Maisie Knew, The Awkward Age, HThe Turn of the Screw", The Sacred Fount, and some twenty stones. With one or two exceptions they are not so charming or great as his earlier or later works. Why did he write such books?
Was the author̀s inner life reflected in them?
In his ambitious biography Henry James, Leon Edel says that the works Henry James