第三部 東京医科大学病院史
本
学園の附属病院は博済病院︑淀橋病院︑及び東京医科大学病院と発展的に改名しているので︑この順序によ
り記述する︒附属病院については第一部の東京医科大学正史にも記述してあるのでこの第三部には病院について
の 概 要を記すことにする︒記述中の決算額はすべて病院についてのものである︒
一、 博 済 病 院 時 代
大 正 七 年
四月十一日︑東京医学専門学校の設立が認可されたのに伴って︑大正七年五月東京医学専門学校附属
博
済病院が設置され︑診療を開始した︒この病院はその前年の大正六年九月中浜東一郎氏所有の回生病院を買収
し︑現在の大学本部のある東大久保四千二百六坪の敷地の北方の大体半部分の土地に移築建設したものである︒木
造二階建二棟百九十五坪の他に事務所木造平家建一棟三十坪︑手術室木造平家建一棟七坪︑消毒室︑死体室︑炊事室
湯 殿 等 木 造 平 家 建
四棟二十五坪︑病室及び賄所木造二階建百八十坪を七千円で買収し︑移築して附属病院とした
第3部東京医科大学病院史 の
であった︒回生病院々長中浜東一郎氏は学校設立顧問にも就任され︑創立者高橋理事長に好意的に協力したの
であった︒病院名は学校創立顧問であった順天堂医院々長佐藤進男爵の命名によった︒院長は佐藤達次郎校長が
兼
任したが︑実際的な用務にはあたらなかった︒診療開始時の医員は博士五名︑学士八名であった︒各科の診療
が
行なわれ︑入院室数は記録不明であるが三十室内外であったと想像できる︒内科には田沢錬二︑池上作三︑矢
崎高︑外科には松井権平︑眼科には井上誠夫︑須田卓爾︑産婦人科には白木正博︑下平尚︑皮膚泌尿器科には藤
谷弥三郎︑耳鼻咽喉科には千葉真一︑小児科には清水茂松の諸教授が主任としており︑一部の診療にあたってい
た︒大正七年七月に卒業し︑当時まだ学生であった者達が実際診療に協力した︒
大 正
七年の患者数を各月毎にみれば︑十月には外来患者新来三百五十六人︑再来一千九百二十六人︑入院患者
七
百十人︑計二千九百九十二人で︑外来患者の一日平均は九十六・五人であった︒大正八年一月の患者数は外来
患 者
新来三百八十二人︑再来一千八百三十七人︑入院患者一千六十六人で計三千二百八十五人で︑外来一日平均
は
百五・九人であった︒大正八年八月の患者数は外来患者新来三百九十八人︑再来一千七百五十七人︑入院患者
は
九
百十二人で︑計三千百七十人で︑外来一日平均は百・二人であった︒創立当時一︑二年間の病院の状態は次
表の如くである︒この中には多数の外来︑入院の学生実習用患者があった︒
大 正 九 年 七月無試験検定の指定獲得により︑その以前に医師国家試験に及第していた十数人の卒業生を除き︑
三 つ
の学年の学生で指定第一回に百数十人卒業し︑その中十数人が各科に助手として勤務して実際上の診療の中
心となった︒その一部を摘記すれば︑内科に中本富太郎︑山本敬︑波津久統重︑峰野廉︑外科に菊地秋水︑耳鼻咽 喉科に伏山紀︑横井純二︑眼科に大森興仁︑産婦人科に鈴木達夫︑皮膚泌尿器科に原田精一︑佐藤憲二郎氏等がい
1.博済病院時代
創 立当時の病院の状態
実習用患者ノ入院外来別並二最近一力年間二於ケル人員
大 正 七 年 十月
十一月 大 一天士 月年万 二 月 三 月 四 月 五 月 六 月 七 月 八 月 九
月
合 計
入院患者
七一〇一︑〇五二 一︑一二三 一︑〇六六 一︑○=一 九 七 六 八 九 七 七 六 五 七 八 八 八 三 二
八九 四二
一 一︑〇五七
外 来 患 者 新 来
再 来 三 五 六 三 七 八 四 二 六 三 八 二 三 七
〇 四 四 四 四 二
〇 四 三 二
四=二
四 二 三 三 九 八 三 七五一
四︑八三ユ
一︑九二六
二︑〇八三
ご︑五四九
計 一︑八三七.
一︑七五七 一︑七三四 一︑六四〇 一、
九 七 二 一︑八〇六 一︑七五三 一︑七五七 一︑七五三⁝
三︑六︒﹂
二︑九九二
三︑五一三
四︑一九〇
一日平均
三︑二八五・
三︑=二九
三︑一五四
二︑九五七
三︑一六九
三︑〇二五
三︑○〇八
三︑一〇七
二︑九六二
三八︑五〇一
九六・五.
一 一七・二 一三 五 二
〇一五・九 一 二一 二 一〇一・七 九八・六 一〇二・二 一〇〇・八 九七・○
一〇〇・一三
九八・七 ﹁ 一〇五・四⁝
第3部 東京医科大学病院史
た︒
大
正十二年十一月︑当時の教務主任であった西勇雄氏が校長兼任の院長佐藤達次郎氏に代わって附属病院長を
兼
任した︒大正十三年八月︑博済病院本館として各科の診療室及び手術室木造三階建三百七十七坪が落成した︒
その当時及び以後数年間博済病院に於て実際診療にあたった医員名を博済病院の当時の広告ビラによって摘記す
れ ば 院 長 西勇雄氏︑内科荒井恒雄︑岩男督︑小川東洋︑飯島孝︑小児科清水茂松︑飯塚俊次郎︑外科佐藤清一郎︑
鈴木正孝︑皮膚泌尿科上林豊明︑田林綱太︑産婦人科下平尚︑小野義篁︑伊丹源治︑眼科須田卓爾︑柴山昇︑耳
鼻咽喉科川目鉄太郎︑千葉浩平︑X線科前田清一郎の諸氏であった︒これらの諸氏は病院創立数年乃至十年後の
病 院 発 展 に
最も尽くした人々で︑多くは教授︑助教授の人である︒この中でも岩男︑小川︑田林︑川目︑前田の
諸氏は病院専任として診療に従事したのであって︑その功績は大きい︒川目氏は当時よりその手術の技能が高く
買われ︑耳鼻科には特に患者が多かった︒小川︑田林氏は卒業後留学し︑その後この地位に於て診療に従事し︑
川目氏と共に病院の実際上の中心となった︒岩男督教授は大正八年五月専任教授として来任後直に研究を開始
し︑本学園に於て臨床面の教授としてはじめて研究を開始して門下を教育したことは特記するに足りる︒
昭和二年の外来患者延数は三万一千九十五人で︑入院患者延数は六千九十六人であった︒病院関係の病理解剖
数は七十六体であった︒学用の施料患者が多かったことを示している︒外来患者延数は大正八年の二万七千四百
四十二人より増加しているが︑入院患者延数は大正八年の一万一千五十七人に比して著しく減少している︒
昭 和
三年二月創立者高橋琢也氏の三男で海軍少将高橋律人氏が校務及び院務監督として来任し︑校務及び院務
の 監
督的立場に於て病院の発展に努力した︒当時の初診料は一円であった︒なお病院は狭小であったが︑学生教
1.博済病院時代
醗 磯
・錘㌶継
:量:
1鱒
凝短譲麟薪
藁誌翻硫遼
轟
醸
藝
樽灘灘灘環
・μ ♂
愛︑灘霧 ︐難難
饗篭ツ『姪参ぼ、
⊇一 一二灘蹴→鷲三籔・
薩ぺ 醐隷
照
・懸 霧鞭
… 驚簸霧i灘
灘羅i 〆
灘櫨繍 /ノノ /
霧霧難難難覇
繍驚鋏繊麺霧犠鱗欝鷺
ミ灘難霧鰺 灘
欝鱗
籔罐癒灘霧
難慈灘
難鐡翻甥 叢
灘難
緩舘鰍灘 錫
大正末期のチラシ広告による博済病院の陣容と位置
第3部東京医科大学病院史
育の立場から学術研究用の施療患者をかなり多く取り扱ったことも特記すべきである︒なお病的材料の検査を行
ない︑看護婦講習会を催していた︒検査室主任の村田広治氏は長く勤務した︒
昭 和 三 年
三月二十日︑日中突然原因不明の大火災が起こり︑附属病院病棟全部が基礎医学教室の大半と共に焼
失したが︑博済病院本館はこれを免れた︒昭和三年九月戸山脳病院を買収して附属病院となし︑加藤普佐次郎
氏︑次いで安部達人氏が院長となったが翌年焼失し︑廃止するに至った︒翌昭和四年四月附属病院普通病棟木骨
コ
ンクリートニ階建二百四十三坪が落成した︒病室数は大小合わせて二十八室︑病床数は六十八床となった︒こ
れ により診療は著しく充実し︑学生臨床教育にも役立つに至った︒
大 正 末
期より学生間に大学昇格の声があげられ︑卒業生︑教職員も加わって大学昇格運動が行なわれたが︑こ
の
運動の裏には病院の整備発展が強く要望されていたのであった︒博済病院での林きみを看護婦長は模範看護婦
としての勤務振りと人柄が注目された︒
二
、
淀 橋 病 院 時 代
淀 橋 病 院 は 昭 和 七
年十一月淀橋区柏木に開院された︒昭和六年同地に淀橋診療所が開設されていたのである
が︑これが整備されるに至り︑東大久保の博済病院を廃止合併して淀橋病院としたのである︒
既 述 の
如く︑昭和三年三月附属博済病院の大半が焼失し︑他の適当な地への病院移転の計画が進められていた
が︑昭和五年十月淀橋区柏木の地に東京医専後援会により宅地二千二百六十五坪︑及び建築物九棟二百六十坪を
買収することができた︒この費用は着手直前にあった基礎医学教室第二期計画としての生理学︑医化学及び薬理
学教室を含む機能学教室を建築する為のものであったが︑この案を延期してその費用を病院の土地購入にあてた
の
である︒昭和六年五月十日︑買収した建物を利用して淀橋診療所を開設し︑同月十六日に診療を開始した︒淀
橋診療所の創設費は二十二万九千余円であった︒診療所長に清水茂松氏︑内科藤井尚久︑小川東洋︑小児科清水
茂松︑外科佐藤清一郎︑耳鼻咽喉科川目鉄太郎︑産婦人科下平尚︑眼科馬詰嘉吉︑レントゲン科本島柳之助の諸
氏 が 主
任となった︒淀橋診療所開設の昭和六年五月より同七年三月まで︑及び同七年五月の患者数は次表の如く
第3部 東京医科大学病院史 である︒
淀 橋 診 療所の昭和六年五月開所日よリ昭和七年三月迄及び七年五月分患者数
︵校友会雑誌十五巻第一号より︶
昭 和 六年 五月〜昭和七年三月迄
昭 和
七 年月 分 五 有 旦
施 料
合 計
有 料
施 料
合 計
内 科小 児科七︑六四四四︑一二七二︑一四一 四二〇九︑七八五四︑六三七
} 一︑一八二 合
合計 二八五
内科︑小児科合計 一︑四六七
外 科四︑六六九
六 八 七
五︑三五六
五 八九
七 九
六 六 八 皮 尿 科
七︑三九八
七六一八︑一五九
八七一
七 九
九 五
〇 婦 人 科
三︑九六一
三 八 二
四︑三四三
四 八
〇
六 六
五 四 六 眼 科八︑四一三二︑三一〇
一〇︑七二一二
一、
二二六二一二七
一、
三 七 三 耳 鼻 科
一五︑九〇九
一、
三九八
一七︑三〇七
一、
七 六 七
一=一
一、
八 七 九
X 線科
五七一
五 三
六 二四
七 四
六一
九
〇 合 計
五 二︑七八二
八︑一五二
六〇︑九三四六︑〇九九
八 七 四
六︑九七三
一日平均=ハ一
二 五
八一 六
一九 六
二 八
二 二 四 昭 和 七 年
十月診療所敷地内に第二病棟として鉄筋コンクリート地下一階︑地上二階建四百七十八坪が落成し
2.淀橋病院時代
た︒昭和七年十一月十七日淀橋診療所を廃止して附属淀橋病院と改称し︑同時に東大久保学校敷地内の附属博済
病
院を移転合併し︑同十一月十九日に淀橋病院としての診療を開始した︒この時の淀橋病院の建物総坪数は四百
六 十 余 坪
であった︒院長に清水茂松氏︑第一内科藤井尚久︑小川東洋︑第二内科岩男督︑小児科清水茂松︑飯島
孝︑外科佐藤清一郎︑本島柳之助︑皮膚泌尿科田林綱太︑産婦人科下平尚︑眼科馬詰嘉吉︑耳鼻咽喉科松本本
松︑レントゲン科本島柳之助の諸教授が主任として就任した︒淀橋病院は開設以来順調に発展し︑臨床方面の教
育に貢献し︑診療面も充実し︑入院病棟は常に満員の状況であった︒
昭 和 九 年 六月十一日伝染病棟鉄筋コンクリートニ階建百九十五坪及び死体室木造瓦葺平家建三坪が落成した︒
この昭和九年の病院歳出決算は十四万五千余円であった︒同十年度は十三万六千円︑同十一年度は十四万七千余
円であった︒
昭 和 六 年 淀 橋 診 療 所
開始︑翌七年淀橋病院を開設以来の外来︑入院患者数は次の通りであった︒昭和六年の外
来 患 者 延 数 は
五万二千七百八十二人︑入院患者延数は八千百五十二人であり︑昭和七年の外来患者延数は七万五
千
五十一人︑入院患者延数は一万二千九百五十八人で︑昭和八年外来患者延数は七万八千四百六十一人︑入院患
者 延
数は一万三千四百四十二人であり︑昭和九年の外来患者延数は七万八千九百六十二人︑入院患者延数は一万
五 千 六 百 七 人
であり︑昭和十年の外来患者延数は七万六千五百九十四人︑入院患者延数は一万六千六十人︑昭和
十一年の外来患者延数は七万二千七百三十三人︑入院患者延数は一万七千五百六十二人であった︒年を追って漸
次 増 加し︑昭和二年度の二倍ないし三倍となっている︒
昭
和十二年十一月二十五日淀橋病院本館鉄筋コンクリート地下一階︑地上三階建七百八十七坪が落成した︒こ
第3部東京医科大学病院史 の 館
は 外 来 診 療 及 び 検
査室︑一部の研究室︑院長室︑事務室︑薬局等に充当し︑病院運営︑診療に対して著しい
進展を促すことになった︒現在は大学院︑臨床科研究本館等として使用されている︒昭和十二年度の決算は著し
く増加し︑十七万三千余円となった︒
昭
和十三年十二月病棟木造モルタル塗二階建百八十九坪及び動物舎木造トタン葺平屋五坪が落成した︒この昭
和十三年度の決算は十八万六千余円であった︒昭和十四年十二月十四日第三病棟木造モルタル塗二階建二百三十
五 坪 が 落
成した︒この十四年度の決算は二十三万二千余円であった︒昭和十五年度の決算は二十四万六千余円と
なった︒昭和十六年九月診療別館木造二階建百五十一坪が落成した︒
昭
和十六年十二月八日日米開戦となり︑緊迫した社会状勢は医学教育及び診療に打撃を与えることとなり︑昭
和十八年︑十九年に入り益々緊迫の度が加わってきた︒昭和十二年より十七年までの外来患者及び入院患者数の
記 録 は 発 見 できなかったが︑昭和十八年度の外来患者延数は八万一千四人︑入院患者延数は四万余人となった︒
昭
和十一年度に比して外来患者数には著しい変化がなかったが︑入院患者数は二倍半以上となった︒昭和十九年
度は外来患者延数八万七千余人︑入院患者延数四万一千余人であった︒なお分娩数は昭和十八年五十八人︑昭和
十九年五十二人であった︒決算面からみると著しく増加し︑昭和十六年度は三十三万余円︑昭和十七年度三十五
万 余円︑昭和十八年度四十二万余円︑翌昭和十九年度には著しく増大して六十二万余円となった︒
昭
和十九年一月病院長清水茂松氏辞任し︑緒方校長の推薦により前深川病院長木村敬義氏が病院長に就任した
が︑同年十二月逝去退任した︒昭和二十年に入り戦争は全く苛烈となり︑学校及び病院は全く緊迫した戦時下に
お か
れた︒その前昭和二十年二月渚方校長の推薦により宮内省侍医西川義方氏が副校長として来任︑病院長を兼
任した︒昭和二十宇四月第一病棟木造モルタル塗百五十三坪が落成した︒病室十六︑収容定員二十三名であっ
た︒この前後より東京は空袋下におかれ︑七月学生は信州に疎開した︒附属病院の管理は六月より表面上日本医
療 団 に
移された︒七月以後三︑四学年生は飯田市に疎開したため︑病院での臨床教育は在京学生のみとなったに
もかかわらず︑防空の仕事に従事しなければならなかった︒八月十五日終戦となり︑同年十一月より附属病院の
管 理
は日本医療団から本校に復帰したが︑医療団の関係は表面的なものであって︑実際的なものではなかった︒
この終戦の年の昭和二十年の決算はやや増加して六十八万余円であった︒
2.淀橋病院時代
第3部東京医科大学病院史
三︑東京医科大学病院時代
昭和二十一年五月十五日東京医科大学設立認可と共に附属淀橋病院を東京医科大学病院と改称し︑病院長に西
川 義 方 氏 が 就任した︒
昭 和
二十年八月十五日終戦となり︑校長緒方知三郎氏をはじめ高橋律人常務理事︑原三郎︑三坂亮雄その他の
諸 教 授 は
疎開先の信州湖東より学校本部第一学年学生と共に東京に帰った︒飯田市よりは第二︑第三︑第四学年
生と共に清水茂松︑佐々一雄教授等が帰った︒米軍マッカーサー司令部の指示もあって直ちに大学昇格の準備に
着
手した︒昭和二十一年五月東京医科大学設立が認可となり︑同時に病院は上記の如く改称した︒しかし大学の
教育にあたったのは予科設置後であり︑大学病院と改称しても臨床諸教授が大学教授の資格を認可されたのは約
四
年後のことであった︒昭和二十一年貨幣価値の変動その他により決算は著しく増加し︑歳出決算は二百八十二
万
余円となった︒昭和二十二年西川義方氏が病院長を辞任し︑学長緒方知三郎氏が院長を兼任したが︑診療の実
務 に
は関与しなかった︒大学昇格に関し米軍マッカーサー司令部との連絡をよくするため緒方学長は加藤勝治氏
3.東京医科大学病院時代
を迎えて病院長に推し︑同氏の病院長就任と共に緒方学長の兼任は解かれた︒しかし加藤氏は血液学者で︑臨床
に
は関与せず︑病院の診療の実務にも殆んど関与しなかった︒このため本島柳之助氏が副院長に就任し︑加藤院
長 の 院
長用務を代行した︒その後本島氏に代わり馬詰嘉吉氏が副院長となった︒昭和二十二年度の決算は著しく
増 加し九百六十三万余円となったが︑この額は大学本部の予算より多少多かった︒
大 学 昇 格
後病院敷地拡張のため隣接地の買収に学園の全力をあげて努力し︑殊に同窓会が中心となって活動し
た︒昭和二十三年五月十五日同窓会員の寄附による西病棟木造モルタル塗外科病棟三百九十三坪が病院隣接地新
購入の敷地内に落成した︒この日大学昇格三周年記念式を兼ねて落成式を挙行した︒同年十二月二十日西病棟を
増築し︑木造二階建百八十八坪が落成した︒この西病棟は終戦の混乱の中で極めて診療に役立ち︑病院の収入を
著しく増加させ︑本学附属病院の発展に非常に貢献した︒この昭和二十三年度決算は病院の新築︑患者の増加に
より千万円代となり︑実に二千四百六万円余となった︒翌昭和二十四年十一月十二日結核病棟木造モルタル塗二
階建七十坪の増築が竣工した︒この二十四年度の決算は四千七百五十七万円余となった︒昭和二十五年二月病院
の 制
度を改革し︑新に病院管理長の職を設け︑常務理事三輪新一氏がこれに就任した︒この二十五年度の決算は
六 千 七 百 九 十
万円余に増加した︒昭和二十六年三月一日には血液銀行開設式が行なわれた︒これは東京医大病院
外来本館内に設置され︑その主任に加藤勝治氏が就任した︒本邦最初の血液銀行である︒昭和二十六年十一月十
八日結核病棟鉄筋コンクリートニ階建五百六十五坪が落成した︒昭和二十六年度の決算は病棟の増築︑患者の増
加 により九千四百八十万円余となった︒
昭和二十七年五月三十一日加藤勝治氏が病院長を辞任し︑加藤氏の下で副院長をしていた馬詰嘉吉氏が病院長
第3部 東京医科大学病院史
東 京 医 科 大 学病院の患者数及びベット数の移動
序昭警
外 来 患者延数
入院患者延数
四四三三三三三三三三三三二二二二二ニ
ー 〇九八七六五四三ニー〇九八七六五四
病 床 数
摘 七八︑七七九 一四〇︑〇二二 一六六︑九八七 二〇四︑二二九 二 二四︑山ハ〇五 二 三七︑三六九 二四一︑一四六 二 四九︑三六八 二 六八︑五八三 三 四八︑三二一 三 七二︑七三九 四
〇〇︑二三〇 四五一︑三八二 四 七四︑二四二 四 七四︑七五三
四♪UO︑山ハ七し七
四 七〇︑八⊥ハ五 四 六九︑九八八
三七︑四〇二 七七︑三五七 九四︑九四一 一三五︑九二五 一四〇︑二二七 五一三︑九一七 五一八︑一二一二⊥ハ
一五八︑一二八 一九二︑二九六 二 三六︑五八四 二 三九︑四六一 二 四七︑一四六 三
〇三︑一六九 三
〇九︑九八七
三一二︑五一五
二九三︑一七五 二 八七︑一九六 二
七九︑四九八 要
二九 五ー三三〇 二七 八ー三三〇 二 七 八ー四一二 四一二 四=一ー四三ご 四 三 ニー五一四 五一二ー五七二 五 七 二 五 七 ニー七八八 七 八 八 七 五 八ー七八八 七 五 八 七 五 八ー一︑=一四 九 八 二ー一︑〇九六 九 八 二 九 八 二 九 七 三 九 七 三
六日〃1十二﹇月
十一月結核病棟完成
四月産院落成 一月結核病棟増築 一月神経科病棟落成
十一月外来本館︑中央病棟落成
二月南病棟落成
三 病 棟
3.東京医科大学病院時代
に 就
任した︒同氏は初めて教授会の選挙によって就任したのである︒この前後より病院の隣接敷地の購入が熱心
に続けられ︑比較的順調に敷地拡張がなされた︒終戦後の昇格認可の頃より当時の常務理事河北真太郎氏は土地
の購入に熱意を傾け︑これが引継がれていたのである︒当時より困難なる土地購入の実務には管理課長東海林武
氏
が当っていた︒この二十七年度の決算は遂に一億を越え︑一億三千九百六十三万余円となり︑多くの努力が病
院隣接土地買収に向けられた︒昭和二十八年四月二十三日産院木造モルタル塗二階建百八坪が落成した︒二十八
年度の決算は一億六千八百二十九万円余となった︒
昭和二十九年一月十一日結核病棟の三階増築鉄筋コンクリートニ百七十坪が竣工した︒同年六月馬詰嘉吉氏が
病院長に再選された︒その後氏は合計五期十二年に亘り院長を続けた︒同年七月三日病院本館四階を増築︑鉄筋
コ
ンクリート建三十九坪が竣工した︒二十九年度の決算は二億八百六十万円余に増大した︒昭和三十年一月二十
日神経科病棟鉄筋コンクリート地下一階地上四階建二百四十一坪が落成した︒診療室︑検査室及び研究室を有し
四十二床を有し︑当時としては全国大学中で最も注目すべき設備であった︒同年五月十七日病院開設二十周年記
念 式 典 が 挙
行された︒この前後より病院の充実発展が学の内外で叫ばれ︑病院増築委員会が設立され︑昭和三十
年十二月二十三日には第一回会議が催された︒委員には佐々理事長︑清水学長︑三輪︑佐藤両常務理事︑原︑佐
野︑久保︑赤塚︵学校側︶︑馬詰病院長︑小宮︑篠井︑田林︑白岩︑秦︑野崎︑柴田︑中川︑飯島︑加藤︑本島
(病
院側︶の諸教授が就任し︑熱心に討議された︒この前後病院隣接敷地購入が著しく進展し︑その上に新建築
が 行なわれ︑病院の発展は著しく速度を加えるに至った︒昭和三十年度決算は二億二千百八十九万円余︑三十一
年度決算は二億四千六百三十一万円余に増加した︒
万 0
5
第3部 東京医科大学病院史 昭和24年〜42年各年度別外来および入院患者延数推移図(管理科)
45
40
35
30
25
20
15
外←来本館完成
外来患者延数
南 病 棟 完 成ーーー▼
ドー﹁ー﹁ 0 1
5
▲ー人数 結
核
一病
棟 完
成
一一一一年
入院患者延数
−Tー中央病棟完成
24 25 28 29 30 31 32 33 34 35 36 ( 6〜12月)
度
許可病床数Hおよび1日平均在院患者数』一▲
1,000
500
コ ユ し
37 38 39 40 41 42
3.東京医科大学病院時代
昭 和 三 十 年
五月十七日中央病棟鉄筋コンクリート地下一階地上六階建九百四十四坪及び第三病棟増築三階建鉄
筋コンクリート百八十九坪が落成した︒同三十二年十一月四日外来本館鉄筋コンクリート地下一階地上六階建二
千 三 百 九 坪 が 落
成し︑中央病棟及び第三病棟の落成をも兼ねて外来本館の落成式が盛大に行なわれた︒これら壮
大なる数個の建築はいずれも新購入の隣接敷地内に建設されたのであった︒同十一月十二日淀橋病院当時の外来
本
館を研究本館とし︑その中に第二解剖学教室︑第二生理学教室︑第二病理学教室︑細菌学教室分室及び臨床各
科の研究室を設置した︒当時の各科の外来担当者は次頁の通りであった︒
昭 和
三十二年度決算は二億九千四百四十九万余円であった︒昭和三十三年五月病院長の任期はニカ年から三力
年 に 延
長された︒翌六月十日病院管理長の制度を廃止し︑院務は院長に委嘱されることとなった︒即ち病院管理
長
であった常務理事三輪氏はこの職を解かれ︑院長馬詰氏にその職務が委嘱されることになった︒昭和三十三年
度の決算は三億八千九百五十六万余円となり︑翌昭和三十四年度の決算は四億五千三百八十万余円に増大した︒
昭 和 三 十 五 年度は四億四千四百十九万余円となった︒
昭 和 三 十
六年二月九日南病棟鉄筋コンクリート地下一階地上七階建二千九百五十五坪︵九八〇一・六三平方メ
ートル︶が落成し︑落成式が盛大に行なわれた︒地階は中央材料供給室︑中央洗濯室︑機械︑機関室︑高圧室︑
地上一階は整形外科病室︑二階は眼科︑耳鼻咽喉科病室︑入院事務室︑三階は産科病室即ち分娩︑新生児室︵五
十床︶︑沐浴室︑四階は全階外科及び各科の手術室︑五階は外科病室︑六階は各科特別病室︑七階は内科病室に
充当された︒本建築の特長は四階に各科手術室及びこれに関する附属諸施設を完備し︑三階の産科病室には五十
床の新生児室を設け︑六階の特別病室は華美で充実していることがあげられる︒特別病室は一日一万三千円のも
第3部 東京医科大学病院史
神泌小耳皮眼産放整外 第二診察室科内第一診察室 科 形 外 科 射 線 科 婦 人 科 科 膚 科
咽 科 児 科
尿 器 科
経 科 月
火
水
木
金
土 小宮教授
田 胡医局員 篠 井 教 授 野 崎 教 授 桜 木 助 教 授 秦 教 授 桑 原 教 授
高瀬助教授
白岩教授飯
島教授田 林 教 授 佐 藤 助 教 授
長 村 教 授 大 塚講師
牧 野 教 授 本川医局員 吉 田医局員 藤 原 助 教 授 松 尾 助 教 授
中川教授渡 辺 助 教 授 本多講師
大 井 講 師 加 藤 講 師
東教授梅 原 助 教 授 杉 江 教 授 永 井 助 教 授 桜 木 助 教 授
高橋講師桑 原 教 授 阿 部医局員
白岩教授
川名助教授
大井講師
佐 藤 助 教 授
長 村 教 授 田 胡医局員 篠 井 教 授 本川医局員 本島教授
藤 原 助 教 授 松 尾 助 教 授
高瀬助教授
渡 辺 助 教 授 飯島教授
大 井 講 師 加 藤 講 師
小宮教授
大 塚 講 師 牧 野 教 授 野 崎 教 授 桜 木 助 教 授 秦 教 授 桑 原 教 授
中川教授白岩教授
川名助教授
田 林 教 授
梶山講師 梅 東教授
原 助 教 授
杉江教授
永井助教授
本島教授 高橋講師松 尾 助 教 授
出川医局員
渡 辺 助 教 授 本多講師
大 井 講 師 佐 藤 助 教 授 の
があり︑当時としては都内で最も充実した病棟で︑新宿の貯水池に隣接して唯一つ新宿区第一の高層な建物が
出現したのであった︒本病院は南病棟の建設により一挙に三百八十床を増し︑千床を越える全国屈指の大病院と
なった︒又同時に落成した別館即ち同窓会館の地下には患者給食用の厨房が設けられた︒この当時の診療担任者を
3.東京医科大学病院時代
示
せば︑内科小宮悦造︑東光平︑長村重之︑梅原千治︑勝沼英宇︑芦沢真六︑大塚舜一︑輿石義晴の諸氏︑神経
科は柴田農武夫︑加藤正明︑佐藤椅男︑梶山進の諸氏︑小児科は飯島孝︑川名嵩久両氏︑外科は篠井金吾︑牧野
惟義︑杉江三郎︑永井純義︑三輪哲郎︑高橋雅俊︑早田義博の諸氏︑整形外科は野崎寛三︑永井隆︑本川広俊の
諸氏︑皮膚科は北村包彦︑高瀬吉雄︑阿部羊一郎の諸氏︑泌尿器科は田林綱太︑大井鉄太郎︑佐々木寿の諸氏︑
産 婦
人科は秦清三郎︑藤原幸郎︑高橋禎昌の諸氏︑眼科は馬詰嘉吉︑桑原安治︑松尾治亘︑林縞︑太田安雄の諸
氏︑耳鼻咽喉科は白岩俊雄︑渡辺嗣︑近藤宏の諸氏︑放射線科は岡本十二郎︑丹羽平︑網野三郎の諸氏︑歯科は
池
沢基︑徳植進の両氏︑麻酔科は三宅有︑片根敏郎の両氏であった︒中央検査科は院長馬詰嘉吉氏︑加藤勝治氏
鈴 木 鑑 氏 の 下 に 各
部門は生化学及び血液福武勝博︑細菌務台茂︑病理中田勇︑血清長谷川充輝の両氏の分担とな
っ
て
いた︒血液銀行は加藤膀治氏の指揮下に藤巻道男氏がいた︒当時の薬局長は山田益城氏︑事務長は寺師秋夫
氏 総 婦 長 は 木
村喜美氏であった︒外科の篠井教授の胸部︑殊に肺臓外科の手術︑小宮教授の血液病の診療等は学
会 及び医界一般からも注目されていた︒
当時の病床数は普通病床八百九十五床︑結核病床二百五床︑伝染病床二十四床︑計一千百二十四床であった︒
昭 和 三十六年度の決算は病棟の増築︑患者の増加により一躍五億円を越え︑六億三千四百九十五万円となった︒
翌 三 十 七 年 度 は 八 億 四 千 六 百 万
余円に増大した︒従来外科と密接な関係を持つ麻酔科がこの前後より一講座とし
て 認
められ︑昭和三十八年五月一日麻酔学教室となって独立した︒昭和三十八年度の決算は十億を越え︑実に十
億三千三百六万余円と増大した︒昭和三十二年より三十八年に亘る期間は学校︑病院︑特に病院が最も発展した
期間で︑患者数からみると三十八年が最も多く︑外来患者延数は四十七万四千七百五十三人︑入院患者延数は三
第3部 束京医科大学病院史
十一万二千五百十五人であった︒病床数は三十六年及び三十七年の一千余床を整理して九百八十二床とした︒こ
の数が大体その後数年間持続し︑昭和四十一年度には九百七十三床となった︒
昭 和 三 十
九年二月九日病院長馬詰嘉吉氏の辞任により教授会の選挙により東光平氏が病院長に就任した︒昭和
三 十 九 年 度 決算は十一億四千百四十四万円を越え同四十一年度の決算は十三億九百四十二万余円に増大した︒
昭 和
四十一年十一月二十日︑放射線治療棟鉄筋コンクリート地下一階地上二階建五百八十四・〇七坪︵一九三
〇・八〇九平方メートル︶が日本建設により落成した︒この落成式は昭和四十二年一月十九日盛大に挙行され
た︒以来本放射線治療病棟は東京医大がんセンターと通称することになった︒地下は放射線治療部とし︑ベータ
ートロン室︑回転型コバルト室︑治療計画撮影室を持ち︑一階にはラジオ︑アイソトープ検査部︑同測定室︑二階
に は 放 射 線 治 療
室を有している︒この企画はこの年がたまたま本学創立五十周年に相当していたので︑その記念
も兼ね︑外科主任教授篠井金吾氏を建設計画委員長とし︑放射線科岡本十二郎教授以下同科の全医局員をあげて
の
協力により綿密な計画のもとに完成した︒建築費一億七千三百十五万円︑内容設備一億四千二百万円余︑計三
億一千五百十五万円余を要した︒充実した設備を有し︑大学としては最も完備したものである︒これの内容設備
に
対しては校友の島津製作所顧問藤本慶治氏の協力に負うところがあった︒この四十一年度の決算額は十三億七
千 五 百 六 十 六 万
余円に達した︒この年の大学及び病院並びに分院的な霞ケ浦病院の総歳出決算額は二十八億二千
二 百十三万余円となり︑病院の決算額が大略大学全決算額の半額以上に達したのである︒
戦後の東京医大病院の発展経過を病院がかなり整った昭和二十四年よりの外来患者数及び入院患者数でみれば
次の通りである︒外来患者延数からみれば昭和二十四年度七万八千余人が五年後の昭和二十九年度には二十三万
七 千 余人︑十年後の昭和三十四年度は三十七万二千余人︑十五年後の昭和三十九年度は四十七万余人となり︑入院 患 者 延 数
からみれば昭和二十四年度は三万七千余人︑五年後の昭和二十九年度は十五万三千余人︑十年後の三十
四 年 度 は 二 十 四 万 七 千
余人︑十五年後の昭和三十九年度は二十九万三千余人となった︒病床数は昭和二十年度三
百 三 十床︑昭和二十九年度五百十四床︑昭和三十五年度七百五十八床︑昭和三十九年度九百八十二床であった︒
年と共に漸次増加を示しているが︑昭和三十七︑八年頃より固定し︑その後昭和四十一年度に亘る間にむしろ下
降線を示すに至った︒この患者数の増減は昭和二十六年度の結核病棟完成︑昭和三十二年度中央病棟の完成で著
しく増加し︑更に昭和三十六年度南病棟の落成で更に著しく増加したが︑二︑三年でその上昇が留まり︑その後
は
漸 次 下 降
線を示し現在に至っている︒昭和四十年度より患者数は減少し︑収入も減少しているが支出は増大し
て いる︒本書は創立五十年史であるため︑四十二年度よりの経過は省略せねばならない︒
3.東京医科大学病院時代