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ルネサンス期における都市と宮殿の変容

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愛知淑徳短期大学研究紀要 第33号 1994 13

ルネサンス期における都市と宮殿の変容

ジュリアーノ・ダ・サンガッロのナポリ王宮計画案

河 辺 泰 宏

   Metamorphosis of Renaissance City and Palace:

Giuliano da Sangallo s Project for Royal Palace of Naples

Yasuhiro Kawabe

はじめに

 15世紀末,ロレンツォ・デ・メディチのもとでフィレンツェ・ルネサンスが最高潮に達した 時,建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロは彼の寵愛を一身に受けて故国の建築界の頂点に立 ち,さらにローマ教皇庁をはじめ引きも切らずに押し寄せる諸外国からの依頼をも精力的にこ

なし,各地で高い評価を得ていた。フィレンッェのパラッツォ・スカーラ,サンタ・マリア・

マッダレーナ・デイ・パッツィ聖堂前庭,サント・スピリト聖堂聖具室,同市郊外のポッジオ・

ア・カイアーノのヴィラ,プラート市のサンタ・マリア ・デッレ・カルチェリ聖堂,オスティ

アの要塞など,隆盛時の彼の作品は,フィレンッェ独自の伝統を踏まえた落ち着きとローマで 培った古典的感覚に加え,革新的な新機軸に満ちていた。ロレンツォが1488年にナポリ王フェ

ルデゴナンドの依頼を受けて彼に製作させた巨大なパラッッォの模型も,当時の隆盛を感じさ せる意欲的な作品の一つであったことは疑うべくもない。現在では,ジュリアーノ自らナポリ へ赴いて献呈したというその模型は失われてしまい目にすることはできないが,我々は彼が画 帖に描き残しておいたスケッチを通じて計画案の概要を知ることができる。ほぼ正方形の敷地

に収まるパラッツォは,中央に階段席付きの広大な中庭を備え,これを囲むようにして玄関ホー

ルや住棟,広間,礼拝堂などが配置された複合建築である。後述するように具体的な規模につ いては諸説あり定まってはいないものの,15世紀のパラッッォの実施計画案の中ではとくにス

ケールにおいて抜き出ており,さらにパースペクティヴな設計手法と祝祭的雰囲気においても,

16世紀からバロック期に至る壮大な宮廷建築を予見させるという見方が歴史家の大勢を占めて

いるようである。

 この類まれな計画案について,ビールマンをはじめとするこれまでの研究者の関心は,おも

に(1)彼の残した平面図に関する分析とそれらに基づく復元,(2)古代および同時代の建築作品と

(2)

の関わりと設計案が依拠した源泉の究明,そして(3)パラソツォの用途と機能の分析に集中して

きた。その中で,歴史的資料の決定的欠如からくる確定困難な問題について結論が留保されて いるのは致しかたないが,これまで蓄積された一連の研究は,初期ルネサンス文化が成熟する 15世紀末の建築家とパトロンの都市や宮殿に関する思想的変化について我々に幾つかの事柄を 暗示してきた。この小論では,ジュリアーノ・ダ・サンガッロが計画したナポリのパラッツオ に関するこれまでの研究成果をもとにその建物の性格と機能および都市における位置付けにつ

いて考察する。

計画案のプロポーションと規模

       b  現在,サンガッロの計画案の図面は三つ残っている。そのうち一つは所謂『シエナ画帖』

のfo1.17v(図1)であり,他の二つはヴァティカンの『バルベリー二手稿lat.4244』2)に含

まれているfol.8r(図2)およびfol.39v(図3)である。ビールマンはこれらの平面図を 1488年にナポリ王に手渡された木製模型を再現しようとしたものであると仮定しているが,そ

のうちいずれかもしくは全てが模型製作のための下描きである可能性も否定できない9)これら

の図面のあいだには八角堂を除いた平面形状の縦横の辺比に微妙な食違いがあるが,ビールマ

ンはこの点について,バルベリー二手稿では八角堂も含めて正方形の敷地の中に納められてい たものが,シエナ画帖の図においては八角堂を除外した残りの部分を正方形のプランに納めた

ためにこうした差異が現れたと解説している1)全体の平面形状を正方形で決める方法は,ルネ

サンス期にはよく用いられた設計手法であり,この基本図形を建物のどの部分に対応させるか

図1 ジュリアーノ・ダ・サンガッロ   「ナポリ王宮計画案』,

   シエナ市立図書館,シエナ画帖,

  fol.17v

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︐L︻﹃彗図

ジュリアーノ・ダ・サンガッロ『ナポリ 王宮計画案」、

ヴァティカン図書館,バルベリー二手稿,

lat 4244, fol.8r

(3)

ルネサンス期における都市と宮殿の変容  15

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図3 ジュリアーノ・ダ・サンガッロ『ナポリ王宮計画.案J,

  ヴァティカン図書館,パルベリー二手稿,iat.4244, foi.39v

によって図面の辺比に違いが生じたという彼の説明には説得力がある。いずれにせよ,何らか の理由によって結果的に図面のプロポーションは変えられたわけであるが,三つの図面からは 建築家が同パラッツォの平面を正方形を基本図形として設計しようとした意図が明白に読み取

れる。

 ジュリアーノ・ダ・サンガッロは,当時建設中であったポッジオ・ア・カイアーノのヴィラ の平面(図4)に正方形を用いていたが,さらに同じくロレンツォの強い要望によって建設を 担当することになったプラート市のサンタ・マリア・デッレ・カルチェリ聖堂においてもこの 幾何学形態を応用した。そして,同じ基本図形から出発しながら,前者では正方形を外郭とし

てこれを比例的に分割し,空間のt−一部を取り崩しながら凹凸を作り,各部屋を配置していった

が,後者ではクーポラの円を内接させる正方形を内部空間の中核とし,これに十字形の軸に当 たる部分を付け加えていったのである。おそらくサンガッロは,ナポリの建築が複合的な施設 であることから,ポッジオ・ア・カイアーノでの試みをさらに敷桁し,巨大な建築群に統一的

な全体像を与えようとしたのであろう.,

 ジュランがナポリ王宮の設計意図について考察する際に有JJな拠り所として紹介したフェル

ディナンド王の手紙は,おそらくサンガッロが正方形を設計の基本としたことを裏付ける最も

重要な資料となろうごジョヴァンニ・ディ・アヴェラルドがトスカーナ大公フランチェスコー

(4)

図4 ジュリアーノ・ダ・サンガッロ   「ポッジオ・ア・カイアーノのヴィラ』,

  シエナ市立図書館,シエナ画帖,fol.19v

世に献じたメディチ家一族の肖像画連作(1584−86年)に含まれているロレンツォ・イル・マ ニーフィコの肖像画には,フェルディナンド王からロレンツォ宛に送られた書簡の写しが描き 込まれている。現在,パラッツォ・メディチのメディチ博物館に所蔵されているその絵の作者 は,ジロラーモ・マッキエッティであるとされている。手紙の内容は,新しいパラッツォの設 計案を送るようにというナポリ王からの要請文であるが,マッキエッティはこの書簡によって 建築愛好家ロレンツォの知見の広さと才能を象徴しようとしたのであろう。既にジョヴァン

ニ・ポッジによって解読されていた文面6)をサンガッロのスケッチと照らし合わせてその史料

的価値を検討したジュランは,これは1480年代にロレンッォとナポリ王の間で交わされ,現在 は失われてしまった幾つかの書簡のうちの一枚を16世紀末の文字に書き改めて写し取ったもの で,その具体的記述にはかなり信遅性があると結論づけている。同書簡によると,ナポリ王は

まず第一に,パラッツォが「約350パルミ四方の正方形」であることを指定している。フェルディ

ナンドはナポリで使われていた尺度パルミ(palmi)を使っているのに対して,サンガッロの 図面寸法がフィレンツェのブラッチア(braccia)で示されているという違いはあるが,これ

によって建築家が国王の要求どうりのプロポーションで設計していたことが確認される。

 さて問題は,その正方形の大きさであるが.マルキー二7)は190メートル四方,ハーシー8)は 157メートル四方,ビールマン9)は長辺194.34メートル,短辺189.84メートルと計算している。

マルキー二やビールマンのように中庭に書き込まれた60ブラッチア×135プラッチア(約36メー トル×81メートル)の数値を階段席の内法であると仮定すれば,正方形の全幅はおよそ190メー

(5)

ルネサンス期における都市と宮殿の変容  17

トルという巨大な建物となるが,ハーシーによる控え日な数値でさえ,市街地の中心一ヴァザー

リはカステル・ヌオーヴォの近くに立地していたと伝えている一に新たに建てられるパラッ ツォの規模としては並みの大きさではない,実際,この数字は前述したフェルディナンドの書

簡に指定されている350パルミ(1パルモを0.246メートルとするとおよそ86.1メートル)をは

るかに超えていて,ジュランの指摘どうり,施主の要求と建築家の理想とのあいだに明らかな

食違いが存在したことを裏付けているIO,

建築的構成

 ビールマン説一以後,この数値を参考にして考察する では長さが80メートルに及ぶという 広大な内庭(アレーナ)の周囲には階段席とロッジアが巡らされ,騎馬試合などのページェン トを観覧できるようになっている。階段席の一部は地下階からの進人路として切り取られてい るが,おそらく巨大な基壇の各所には外部からの入り口と無数の地下室が設けられているはず である。こうした地下室には,住棟の16個所に配置された階段室からもアプローチできるよう になっている。ロッジアの支柱システムは,四本の独立円柱と二本のピアを一組とした豪放か つ快活なリズムをもっていて,木造と思われる歩廊の屋根を力強く支えている。正面のロッジ アは5ベイ分だけ奥へ後退し,円形の噴水の後方にある大広間と八角堂へ人々を誘い込んでい る。こうしたパースペクティヴは,三廊式のエントランス・ホールをもつ中央玄関に立つと最

もよく眺望できよう。この建物にはこれ以上に完壁な視点は二つとして設定されていないが,

その玄関棟自体もまた左右に伸びた長い翼屋と高い基壇に昇るモニュメンタルな階段によっ

て,壮麗な外観を与えられている。

 正面ファサードには,おそらく古代ローマの凱旋門もしくは神殿正面風のデザインーサン ガッロは前者をフィレンッェのサンタ・マリア・デッレ・カルチェリ聖堂内ゴンディ家礼拝堂

蘭ms

図5 ポッジオ・ア・カイアーノ,ヴィラ・メディチ   (ジュリアーノ・ダ・サンガッロ,1485)

(6)

で,後者をポッジオ・ア・カイアーノのヴィラ(図5)で効果的に使用している一が施されて いたのであろうと推察されるが,六本の独立円柱が両脇に付柱の付いた太いピアノと組み合わ されていることから,アーチで架構されたマッシヴな構造体の前面に装飾的に円柱を置き,そ の頂部に彫像や三角破風を配した凱旋門風の神殿正面と考えるのが妥当である。この点につい

ては,基壇と正面階段と神殿破風の組合せがポッジオ・ア・カイアーノと共通しているものの,

神殿正面のモチーフよりむしろ凱旋門モチーフの方が勝っているとしたビールマンの説明は一 部補われるべきであると思われるli)サンガッロは後にフィレンッェのサン・ロレッツ聖堂の ファサードの計画案において,様々な形で楯(まぐさ)式の神殿正面と凱旋門のモチーフの融 合を試みているが,その場合には教会堂(即ち神殿)であることを意識して前者に重きを置い た設計案とキリストの勝利を意識して後者に重きを置いた設計案をそれぞれ作成している。そ して,こうした区別はおもに装飾に用いている円柱や付柱の間隔を変化させることによって行 なっているのである。ナポリの設計案の場合には,ピアとアーチによる構造システムを基本に しており,この点に関する限り確かに凱旋門風であるが,三角破風が載せられると予想される 中央3ベイの柱間は等間隔で,しかもやや広めに設定されている両端部のベイもほぼ同じ性格 を備えていることから,建築家が神殿正面を強く意識していたことがはっきりとうかがえるの

である。

 さて,噴水庭園の奥に控えている大広間については,その極端に厚い円筒ヴォールトが架け られているであろうことは容易に想像がつく。周囲の壁面にはニッチと円柱がふんだんに作り 付けられ,八角堂とともに公的な空間であることが強調されている。おそらく奥の八角堂は礼 拝堂であろう。大広間の左右には別の広間(図中Sと記された部分)が二部屋続き,その先に

もさらに小規模な広間が二つずつ付随しているが,それぞれ装飾や規模,位置によって差別化

が図られている。これらの広間はいずれも屋上庭園(図中G)もしくはテラスに開口していて,

予備室を含めたブロックが形成されている。これらのブロックのほかには左右の翼屋の中央な らびに先端部に別のブロックが形成され,階段室や小型の部屋を数多く備えている。こうした 小室が王族や使用人の居室であるのか業務用の執務室であるのか各々の用途ははっきりしない

が,地下と上階に向かう階段の存在がいずれの棟も三層以上にわたっていることを示しており,

全体では膨大な部屋数が数えられる。そして,各ブロックには一対ずつの階段室が設けられ,

それぞれ居住区として独立し,他の動線からは妨げられないようになっているため,居住用に

使う場合でも,家族の部屋と客人の部屋とは完全に分離することができる。

都市と宮殿の位相変化

 中世のフィレンツェの私的なパラッツォの中庭は,市庁舎など公共的な建物の場合と比べ,

デザイン的にも機能的にもさほど開放的ではなかった。現在,ボルタ・ロッサ通りに残ってい

るパラッッォ・ダヴァンツァーティはその好例である。その中庭は宮殿金体の換気と採光とい

(7)

ルネサンス期における都市と宮殿の変容 lg

う重要な機能を受け持っているほか,階段や廊下による動線の処理や生活汚水の排出などにも

役立っていた。しかし,空間処理の点では周囲を囲む居室部分の余空間として成立しており,

「戸外の広間」というような統一的ヴィジョンに基づいて設計されているとは言い難い。とこ

ろが,15世紀になってコジモ・イル・ヴェッキオがミケロッッォに作らせたパラッツォ・メ

ディチ(図6)の中庭や後庭は,私的な居館の内部にありながら共和国の市民に開放された「広

間」としての公的性格やデザインを併せもっていた。その後,代表的市民の居館は競ってこの アイディアー広場に面して作られた所謂ファミリー・ロッジアについても同様である一を取り 入れるようになり,これらの場所で行なわれる結婚披露宴や観劇会などが,フィレンツェ市民 の日常生活に欠かせない娯楽として提供されるようになったが,個人の都市住居におけるこう した変化は,例えばメディチ家という一家族が共和政体の中で公的重要性を帯び,私邸すらも 半公共的となってきた証拠であると理解できよう。即ち,市庁舎の広間や中庭,教会堂の内部 や広場などで行なわれていた市民参加の公的行事と個人の主催するパフォーマンスとが同じ水 準で成立し,それが許される状況が生まれ,やがて専制君主制に移行する素地ができたという

ことを建築そのものが雄弁に語り始めたのである。

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図6 フィレンツェ,パラッッォ・メディチ    (ミケロッッォ,1444〜64頃)

 ルネサンス建築の発展史における中庭の重要性は改めて指摘するまでもないが,これを街の

「広間」として機能してきた広場との関わりにおいて考察されることはあまりなかった。そし

て,この点に関して,中庭の空間に非常な重きを置いたジュリアーノ・ダ・サンガッロのナポ リ王宮計画案はたいへん示唆に富んだ作例であるといえよう。ここでもう一度,同パラッツォ

の中庭の機能と位置づけについて詳しく検討してみよう。

 先述したマッキエッティの肖像画に描かれたフェルディナンドの要請文には,350パルミ四

方の建物の中央に135パルミ×70パルミの大きさの中庭を設け,その長辺に16本,短辺に8本

の円柱を立て,8段の階段席と2層のロッジアを巡らせるように指示されている。135パルミ

はおよそ33.2メートル12)に相当するが,せいぜい10メートル四方ほどしかないパラッツォ・メ

(8)

ディチと比べると王宮とはいえ都市宮殿の中庭としては十分な広さを予定されていたと思われ る。フェルディナンドはさらに,この中庭は機械的な装置によって水を張れるのが望ましいと している。つまり,施主は既にナポリ郊外ポッジオレアーレに建設していたお気に入りのヴィ ラをモデルにして中庭に劇場的性格をもたせ,海戦劇のようなスペクタクルが繰り広げられる ように希望していたのである㍗それは1589年にフィレンツェのパラッツォ・ピ・ソティの中庭 で行なわれた海戦劇一その模様はオラーツィオ・スカラベッリの版画(図7)に記録されてい る14Lの規模を参考にしても十分可能な発案であることがわかる。そうしたページェントは,

周囲のロッジアと階段席から眺めている客人を熱狂させ,いやがうえにも君主の名声を高めた

ことであろう。

図7 オラーツィオ・スカラベッリ   『ピッティ宮殿の海戦劇』

図8 マリオ・カルターロ

  『ベルヴェデーレの中庭』(1574)

 フェルディナンドがポッジオ・レアーレのヴィラを意識していたことは,新しいパラッッォ に同じように四つの柱棟を設けよと指示していることからも明らかである15)つまり,ヴィラ の場合は市街地から日帰りで往復できる距離にあり,長期的な滞在や農場経営を想定する必要 もなかったので,各棟に十分な部屋数が用意されていなかったが,新しい宮殿の場合も古い宮 殿の近くに立地する予定で,大規模な政務施設や居室群を重ねて作る必要もなく,純粋な接客 施設として用を足せるだけの広間や部屋があれば良かったのではないであろうか。そうしてみ ると,国王にはサンガッロ案のようなあらゆる機能を兼ね備えた巨大な複合建築のイメージは なく,従来から使用している要塞型の中世の居城カステル・ヌオーヴォに欠けている本格的な 祝祭空間を補うための別宮としてのイメージしかなかったように思われる。一方,建築家の提 案は,規模と機能の両面でこれと食い違っている。そして,彼の案は確かに「発想の新しさと 豊かさの点において,アルフォンソのヴィラのみならず先行するあらゆるルネサンス世俗建築

を凌駕している」16}のである.

 フェルディナンドの発想した中庭は,それまでのルネサンス式パラッツォと同じく閉じられ

たブロック状の建物の内側にあって,おそらく限られた選民もしくは王侯貴族のためにのみ開

(9)

ルネサンス期における都市と宮殿の変容 21

放される接客用の「広間」として機能したことであろう。そうしたパラッツォが,曲がりなり にも共和制を維持しているフィレンッェの市中にあった場合は,当主も市民としての共有意識 を積極的な方向に向けられたのであろうが,長いフランスの支配を排除し,土着の豪族たちの 動向を気にしつつ新しく専制支配者となって君臨を始めた外来(スペイン系)の国王の居城と

なるとそうはいかない。私的空間でありながら都市の広場に準じる役割を想定された中庭と都 市から切り離され隔離された状態でこそ十分な役割を果たし得る中庭との間に形態的類似が

あったとしても,それは必ずしも機能的類似を保証してはいないのである。

 それでは,サンガッロのナポリ王宮計画案の中庭の意味とは何か。サンガッロは要求された 規模をはるかに超える尺度で新宮殿を設計したが,135パルミの中庭の長辺を135ブラッチアに

単位変換したものの,全体を正方形のプランに納めることや中央に階段席付きの中庭を配し,

四隅に独立した住棟を設けることで施主の要望に答える姿勢を示している。従って,フェルディ

ナンドの手紙に盛り込まれていることは,実施案において全く無視されているというわけでは ない。ただ,規模が大きく,機能がより複雑になっているに過ぎないのである。しかし,規模

の問題は,アラゴン家の都市支配との関係において非常に重要である。

 サンガッロは明らかに左右対称に空間を配置する古代浴場の原理を使って建築全体に統一感 を与えようとしているが,古代浴場とはローマ皇帝が市民に与えた最大の共有財産であり,市 民生活の舞台となる「広場」であり,複雑な機能を兼ね備えた複合建築であった。ナポリのパ ラッツォに浴室はないが,海戦劇や馬上槍試合のできる大きなアレーナがある。中世から行な われていた馬上槍試合は,ルネサンス期にも引き続き市民の最大の娯楽の一つであったが,メ ディチ家の若者が出場したサンタ・クローチェ広場での試合がそうであったように,支配者の プロパガンダには格好のメディアであった。サンタ・クローチェ広場での槍試合は,パフォー

マンスの舞台が既存の都市広場であり,無条件で市民に開放され,共有されることに意味があっ

たL7)しかし,サンガッロのナポリ王宮のアレーナは,第一に,定められた機能に従って目的 意識的に設定された恒久的な劇場施設であったこと,第二に,その施設が王宮の内部に組み込 まれ,そこで行なわれる祝祭行事がすべて王室の統制下に置かれることを前提としていた点で 異なっている。皇帝のプロパガンダに欠かせなかった古代ローマの浴場や劇場でさえ,宮殿の 中に設けられることまれであったが,市門をはじめとする重要な都市施設の設営と統括から始 めなければならなかった不安定なナポリ王室の事情をサンガッロの設計案一あるいはそうした 状況に詳しいロレンッォ・イル・マニーフィコの提案であったのかも知れない一はよく映し出

しているといえよう。

 ルネサンスの建築家が力強い安定した君主像を求めるのは,公共事業に糧を依存する彼らの

仕事の性格上,当然のことである。1527年の災厄,即ちカール5世によるローマ劫掠を経験し

たマニエリズム以後の建築家の作品では,広場はもはや市民のための広場としてではなく政治

的パフォーマンスの舞台として支配者に寄与し,ついには宮殿と都市の関係は反転され,宮殿

の中に都市一あるいは都市的機能一が内包されるようになる。アンマンナーティが計画した

(10)

フィレンツェのパラッツォ・ピッティの中庭(図7)や後庭はその代表的な事例である。サン ガッロの計画案は,ブラマンテによるベルヴェデーレの中庭(図8)に先んじて,15世紀末に

既にそうした時代の要請を予見しているようである。地方豪族の統制にときには術策を駆使し,

また妥協を強いられ,アンジュー家支配の終焉とアラゴン家時代の到来を演出するために中世 の王宮(カステル・ヌオーヴォ)の入口に凱旋門を建設したスペイン系王室の意図が,新しい 宮殿を都市空間の統制論理によって組織的に造形化しようとした建築家によって極端に増幅さ れたのがこの宮殿であり,その中庭である。ここに建築は都市と化し,中庭は広場と化し,都 市空間は象徴的空間と化してやがて来る新しい時代,即ちバロック都市の時代を迎えようとし ているのである。バロック都市の時代とは,古代ローマの皇帝たちが自らの権威と神性を主張 するために都市と建築を利用したように,専制君主たちが公共空間を自らのプロガンダのため

に制御・統制していった時代である。

       注

1)Biblioteca Comunale, Siena, Cod. S, IV,8, tuccuino sense.

2) Biblioteca Vaticana, Cod. Barberini lat.4244.

3)H.Biermann, Das Palastmodell Giuliano da Sangallos fur Ferdinand L, K6nig von Neapel, VViener

 lahrbuch∫fti r・ Kμnstgeshichte, XXIIL 1970, p.156.

4)Biermann、 ibid., pp.156−157.

5)V.Jufen, Le projet de Giuliano da Sangallo pur le palais du roi de Naples, Revue de l art,25,1974,

 pp.66−70.

6)G.Poggi,  Di alcuni ritratti dei Medici, Rivista d arte. t.6,1909, p.321.ポッジによって解読された  書簡の全文は,以下のとおりである。 Molto Mag(nifi)co Sig(no)remio oss(ervandissi)mo. De−

 sidero per mezzo di V(ostra)S(ignori)aMag(nifi)co Sig(no)re Lorenzo uno disegno di un palazzo  che sia di forma quadrata e sia perogni verso palmi 350 e nel mezzo sia un cortile di forma di dua  quadri e sia per un verso palmi 135 et per raltro palmi 70 e dalla banda maggiore sia 16 colone e  da l altra 8 e uscendo nel mezzo nel cortile per gradi 8 abasso acciosi possa far venire racqua nel  mezzo per darla e corla a nostro piacimento e sia questo cortile loggia sopra loggia e lo spatio che  resta sia compartito di marinea che serva per 4 appartamenti copioso di stanze grande e picole e sia  d ogni appaotamento una sala grande, E perche costa in Fior(enz)aci havete buoniss(i)mi architetti  desidero ne facciate fare uno disegno in pianta col suo profilo e ricontro all entrata principal inverso

 il giardino sia una capella tonda per celebrare la messa. Non altro. Di Napoli alli 4 d Aprile 1488. D

 (i)V(ostra)S(ignoria)Affetion(issi)mo RE FERN(AN)DO.

7)G.Marchini, Giuliano dαSαngαlto, Firenze,1942, p.88.

8)G.L. Hersey,/4㎞50∬I and the Artistic Reneuial Of Naptes 1485−1495, New Heaven−London,196g,

  P.77.

9)Biermann, ibid., p.157.

10) V,Jufen, ibid., p.67,

11)Biermann, ibid., p.158.

12) V,Jufen, ibid., p.70, note 30.

13)V, Jufen, ibid., p.68、ポッジオ・レアーレのヴィラとその中庭の機能については拙稿「ポッジオ・

  レアーレのヴィラの特質について」,『OGIVE飯田喜四郎博士献呈論文集』1991, pp. 99−131)の   ほか,主な論考として以下のものがある。C. L. Frommel, Die Farnesina undPernzeis・architektonisches

(11)

ルネサンス期における都市と宮殿の変容 23

  Fm hwerle, Berlin 1961. pp.90−96. G L. Hersey, ibid., pp,60−70. F.−E. Keller, Die Zaichnung

  Uff.363A von Baldassare Peruzzi und das Bad von Poggio Reale. Architettura,3,1973, pp.13−21.

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14)A.M. Nagler, Tんθα舵Festivals Of the Medici(1 539−1 63 7), New Heaven−London,1964, pp.91−92.

15) V,Jufen, ibid., p.68.

16) V,Jufen, ibid., p.69,

17)ルネサンス期の劇場空間と中庭の機能については以下の論文集に詳しい。AA. VV. Le Lieu theatral

  ala Renaissαnce, Paris,1964.      .

参照

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総合的なお話を含めていただきました。人口の関係については、都市計画マスタープラ