国語科教育における「発想」への着目とその育成
小林一 仁*
(1993年10月18日受理)
On Education of the Abduction in Kokugo−ka(Native Language Curriculum)
Kazuhito KOBAYASHI
(Received October l 8,1993)
緒 言
国語科教育で学習者の創造性の育成を目指すという遥かな目標を掲げるのは意義のあることであ るが,それを真に生み出すように図らうには学習者の主体的な内発的な学習の中にそれを含み込む 学習の内容や方法が必要である。私は,国語科教育の今日的な目標を主体的に言語情報を操作する 能力の育成に置く。この能力において自分なりの発見,思い,考えを持つことが出来るというのを 一種の創造性としよう。言語情報操作力とは整えた形としては主体的な認識想像,思考とから成 ると考えているが,これらを作り出す源泉とした混沌とした心の状態,意識の流れの中にものとの かかわりで芽生える発想を取り出す必要がある。発想は未分化なうごめきではあるが,知りたい分 かりたい(認識)へ,思い巡らし描き出す(想像)へ,根拠や理由を見付けての考え(思考)へと 秩序だつ。この混沌たる心の状態に生まれる発想(ひらめき,思い付き,着眼,アイデア,Abduction などとも言う。)に着目し,学習指導において位置づけ,正当に育成することを配慮することが創造 性を目指す教育に必要であると考え及んだ。通常,国語科は表現領域・理解領域,ないしは聞く話 す(音声言語),読む書く(文字言語)の活動を内容や方法とするが,踏み込んで,発想の育成を計 画的に取り上げ,認識力,想像力,思考力の育成を目指すという具体的な計画になるべきである。
一 国語科教育において発想の学習指導を取り入れる必要性について
発想とは,例えば或る問題が生じた時にその解決策を思い付くことであるとする。この時,発想 とは解決のために方策の糸口が得られたと同時に解決のための全体像も秘めた姿で描かれているに 違いない。発想は一見,解決のための始めの部分のように思われるが,それは取り掛かりとして始 めであるに過ぎず,発想自体に全体への見通し,洞察,先見が内包されているがゆえに解決が可能 であると思われる。換言すれば,発想は構想により全体像が明示されることとなり,部分であると 同時に全体であることが理解されてくる。発想を手掛かりにして構想が立てられることで全体のイ メージが想像,想定されるのであり,論理的に思考を展開することで客観的に明示されることにも
*茨城大学教育学部国語教育講座(〒310茨城県水戸市文京2丁目1番地)
なる。発想は全体を直観し想像することでもあり,科学的な論理により裏付けられるものであり,正 確な認識の形成を予測するものである。このように見てくると,国語科教育で発想を正面から取り 上げて学習指導の中に据えることも必要であると思われてくる。
二 意識の流れがあってまず発想が生まれるということについて
小学校や中学校の国語科教育の目標は国語(日本語)の能力の育成にあるとするが,換言すれば 私は,現今の情報化社会,国際化社会にあっては主体的に国語による言語情報を処理,操作する能 力の育成にあるとする。この言語情報操作力を組成する要素のうち基幹として主体の認識力,想像 力,思考力を析出することができるが,それらを創出する始源的な能力として発想力を想定したい
と考えた。
言語の機能に基づく言語の能力のうち主体内で,まず客観的にものを捉えてそれと知るのを認識 とする。これは認知とも言うものだが,これはまた知識・理解の形成と言ってよく,客観的にもの
とものとを系統だてて整理し異同を判断して類別し,いわばデータ・バンクとして言葉を蓄積する ことである。次に未知のものにつき主観的に捉え直観的ないし比喩的にイメージを描くのを想像と
の
する。これはものについての主体内の気ままな思い込みであってよく,自由奔放に思いが駆け巡る ものである。更に未知のものにつき客観的ぢ証拠や理由を挙げ順序立て推測,推理,類推するのを 思考とする。これはものについて仮説し論証することでもあり,論理性を必要とする。このような 認識想像,思考が整理された形で誕生するためには,それに至る段階で混沌とした思いの状態の 段階がある。この未分化的な心の状態,意識の流れの中にうごめいている言葉につき,ここでは発 想と名づけることとする。発想は,認識想像,思考への糸口として働くものであると考えるが,ま た認識想像,思考が未分化な状態でうごめいているものであるとも考えられる。
三 認識を形成するための発想について
発想は,主体がものと接してそれにつき分かろう知ろうとする意識の流れの中に生ずる。触発さ れて起こる,その代表となる問い(発想)は,それは何であるのか,である。この後に見たり聞い たり触わったり匂いをかいだりなめたりという五官により直接的に直覚的に自分との関係が理解で きるもの,つまり具体的な事物については,それは何であるとして名を与え続ける。そして,或る 時点でそれら知識・理解を分類・整理し秩序づけ体系化するということになる。これは,語彙分類
という。
幼児が身の回りの事物につき接触し,それぞれについて自分との関係がどのようであるか,例え ば食べられるものであるかどうかなどと触わったりしゃぶったりするという行動となって表れ出る
意識の中にある思いが発想である。換言すれば,個としての主体がものと接触した際に主体の心の 中に生じた直観的な思いを発想と言う。それは何だろう,そしてそれは何であると流れる思いであ る。この発想は具体的なレベルから抽象的なレベルにまで及ぶ。何についても言葉により表し出す ことが出来るのであるから,それは当然のことであるが,直接見たり聞いたりなど出来ない概念に ついても発想は生み出すこととなる。例えば,特定の人間の集団につきそれをどう捉えるかという 発想があるからこそ,家族と言い,地域社会と言い,市民・県民などと言い,国民などと言う。発 想はそのものの発見であり,語の発明となり,その語の概念の明示であり定義づけとなると考えら
れる。
このような認識を形成するために生きて働いている発想を,小学校国語教科書により具体的に見 てみよう。例えば「じどう車くらべ」(光村,一上,平成4年度本)には,どのような発想が内在し ているか。学習材(一般には教材と言っている。)はいきなり自動車という具体的なものを限定し出
しているが,それ以前に発想として人間の使う道具,人間が造り出した道具,そのうちの乗り物と いう道具などという意識が流れていたかもしれない。また,子供にとって興味のある乗り物は何か,
それは身近な自動車かもしれないという想像も働いていたかもしれない。かつここでは同じような
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ものではあるが,用途によって異なる形,大きさなどを備えているというものについて説明したい という発想に従い,より説明しやすいものはどれかなどと比較・検討を行うという思考も働いてい たかもしれない。このような心の動きの結果として自動車というものが選び出されたのかもしれな い。このような意識の流れの中で言葉が何かを求めて動き働くのを発想と言おうと思う。ここで,同 一の名前で括られている自動車というものについて,使用目的に従い形態や機能が異なっていると 乗用車,バス,トラック,消防自動車などと,その名前もまた下位分類として異なってくるという 認識を得ることとなる。この認識の獲得は,共通点や類似点と相違点や特質などにより分類・整理 し秩序づけるという方法,或いは具体化する,抽象化するという意識の持ち方を得たことになる。つ まり,分類し整理するという発想の方法,これは総合化と分析化という括り方の発想の方法でもあ るが,それに具体と抽象との往復という発想の方法をも得たことになる。この学習材より早く「ど うぶつの足」 (光村,一上,平成4年度本)においても,らくだ,熊の二例で比較し,これらのこ とを行っている。このような作業(方法)の積み重ねにより認識を形成するための発想の持ち方,方 法などに習熟するように図っていると見られる。発想は,思いつき,ひらめき,着眼,アイデアな
どとも言う。これは,想を直観するということにつき別の言葉で言ったものである。或いは着想と 言う場合もあろう。発想は,混沌とした在り方の中にあって,視点,或いは観点といったものを明 確にして一定の立場から捉えるということになる。
発想が混沌とした意識の流れの中にあるものと言ったのは,それが何であるか知りたい分かりた いという欲求,興味・関心という心の状態で言葉を探している状態であるからである。欲求,興味・
関心というものは,情に基づくもの,情動・感情・情操・心情・感覚といったものから来ることも あろう。ものに対して不明・不快・恐怖などから脱け出たいがゆえに,心の安定が得られる言葉を 持ち,それについて明らかにしたいなどというものである。また,知的好奇心からそれは何である かを明らかにしたいということもあろう。言葉を見つけ出して分かり,満足するのである。主体の 中の情動や知的好奇心によって混沌から脱け出したいという時に発想が生まれよう。例えば,暗闇 の中で恐怖感を覚えたことから,何とかしなければという発想がよく見ようとしたりじっと息をひ そめたりそうっと触ったりという行動として表れ,大丈夫という言葉により,何でもないという確 認(認識)を得るというのは前者であり,暗闇の中でお化けなどというものはいないという科学的 な知識を思い起こして恐怖心を取り除こうと努力して確信(認識)に至るのは後者である。
認識は未知につき既知とすることである。未知は例えば言語情報が得られていない混沌の状態と すれば,既知はその言語情報を理解することができて得られ,かつそれぞれの言語情報が整理され て収納,蓄積されるという秩序の状態である。発想はもともとは未知のものにおいて起こるのであ り,混沌の状態の中で働くものである。幼児が母親に身の回りの事物や出来事について一つ一つ尋
ねるというのは一つ一つ未知なるものゆえにそれは何であるかという発想が生じ,認識を成立させ ようとしていると思われる。これは自然発生的,恣意的に未知につき発想を持ち既知として繰り入 れているものである。日常の生活にあっては,機会がなければ発想は生まれない。これに加え,自 分の興味・関心のあるもの,気持ちの動くもの,知的好奇心の寄せられるものに対しては積極的に 発想が生まれることとなる。例えば志賀直哉の小説「清兵衛と瓢箪」に登場する主人公の少年清兵 衛は瓢箪に非常に興味を持ち凝ったがゆえに瓢箪についての美的鑑賞的な好し悪しについての感覚 や発想が鋭く発揮され,大きさ,形,色,艶,バランスなどといった観点(発想)による選択眼(認 識力)が磨かれたということになろう。
学校教育は計画的,他律的に目標を設定して学習者の何らかの能力の育成を目指す。そこで例え ば,各教科にあってそれぞれ学習上で必要とする知識などを積極的に与えて身に付けさせるという 手段に出るが,国語科にあっても日常の言葉の生活を背景として配慮しながら語句・語彙を身に付 けさせなどする。これは,学習者の内発的な学習の欲求があってのものというより,外から与え込 む方法で得させるものである。したがって,学習者の発想に始まるものではない。教育行政上から 配慮されて作られた学習指導要領に基づく国語力の在り方とはどのようなものかという発想から具 体的に組織的,計画的,全体的に配慮して組み立てられる。いわば,学習者に必要とされる国語力 を学習者に先回りして発想し,創出したということになろう。そこで,幼児がこれは何だろうと内 発的に発想して知識・理解(認識)を形成するという内発的な学習を待つというのではなく,先回 りして与えていくという方法で学習させることとなる。そのため,学習者の内発的な欲求を擬似的 にでも誘い出す必要があるので,教育的に学習の動機づけを行い,学習の内発性を芽生えさせ,自 らの発想のうちにおいて学習するというふうにし向けることになる。
一つの例を挙げよう。小学校国語教科書(東京書籍,平成4年度版)では各学年各巻の終わりに分 類語彙表「言葉の世界」が掲げてある。第1学年上巻は「がっこう」に関する言葉,下巻は「一日」
と題して朝から夜までの時間を表す言葉や時間の経過に即する人間の生活上での動作,事柄などの 言葉が集められている。第2学年の上巻では方角や空間の言葉,町や村の自然や建造物等の言葉など,
下巻では人間の体の部分部分の名称や人間の動作を表す言葉,また洋服や履き物,道具などの名称 を表す言葉などが集められている。このような分類語彙表は,本来,学習者が自分で興味を持ち関 心を寄せた時に発想されて収集され整理されるのであり新たに知識として持つことになるものであ る。しかし,教科書は学習者の内発性を超えたところで,大人が子供のために発達段階上で必要と 判断した,つまり発想したところに従って与えてしまうということになる。学習者の内発的な必要 感,発想に基づいてこれらが得られるという学習過程を踏んでいないために,教科書に掲載されて いる学習材の学習による知識・理解の形成という方法に多くを占められてしまうと,学校教育では 学習者の主体的な情動や知的探求心などによる発想という大事な心の働きが置き去りにされてしま いかねない。
認識を形成するための発想は,ものについてそれは何かというふうに思い起こすことを初め,事 実や現象,事柄などについていつか,どこか,どのようになっているのかなどというように認識を 確かにするために湧き起こるさまざまな意識の様相を呈する。この心の動きに端を発して,自分に とっての未知のものについて明らかにし知識・理解(認識)として取り込み,既知のもの(言語情 報)とすることとなる。
四 想像を形成する発想について
自然や人間などと接しているうちに,そのうちの特定のものに対し,自分なりの興味・関心を覚 えて気ままに思いが湧くこと,またそれにつき何だろうと不思議に思ったり疑問を感じたりしてこ ういうことかなどと勝手に思い描くことがある。このような場合の興味・関心を覚えたこと,何だ ろうと不思議に思ったり疑問を感じたりすることが,想像を形成する契機となる発想である。この ような発想を得た上で,気ままに湧いた思い,勝手に描いた思いが想像である。思いは言葉で綴ら れる。このような心の動き,意識の流れは,個の主体の中に自由自在であり奔放であり,主観的,情
動的,感情的・感性的なものである。他とかかわりを持つ必要はなく,客観的,合理的である必要 もなく,個人の気まま,好き勝手であってよい。
こうした想像を形成する発想は,それぞれの個人の心を出発点とするゆえに本来,個人的,個性 的なものである。ただ,人間は何らかの有意の集団(血縁による家族とか同一地域に住む社会や国 家とか民族とか)を成すからその集団としてのものの見方,感じ方,考え方の或る傾向,特徴のよ うなものはあるであろう。いわゆる共感,共鳴といったもの,風俗・習慣・風習といったもの,伝 統といったものである。このことは,サピア・ウォーフの仮説として知られている。それはそれと して,ここでは原点において個人の自分の心,情動,感情,感覚,感性というようなものが自分の 中でものに触れ,揺れ動くということにおいて取り上げることにする。
例えば,小学校国語教科書の第1学年の冒頭の学習材は各社とも絵を主としており,多少の語句を 添えている仕立て方をしている。この取り扱い方は指導者の目標の設け方にもよろうが,一つの取
り扱い方として新入の児童それぞれに描かれている内容に応じて自分の言葉で何かを語らせるとい うようなことはあるであろう。その絵は子供が何かをしているなどの具体性のある情景が描かれて おり,それは学習者であるそれぞれの子供自身がどこかで遊んだりしたようなものである場合が多 かろう。したがって,それぞれの学習者は描かれている絵の中の具体的な何かに発想の契機を得て 自分の言葉で語ることになる。その話は学習者それぞれが持っている体験や知識を基にして,自分 の持っている語彙から紡ぎ出されて語られるということになろう。一人一人がそれぞれに語るとい うのは,持ち得た発想がそれぞれであり,それを契機に頭脳に描いた想像がそれぞれであるという ことである。個々別々に話が出来上がるということになる。これは,個に応じた主体の主観の別に なる発想,そして想像の表れということである。
例えば,「おおきなかぶ」(小学校第1学年,各杜共通の学習材)という話の生み出される発想契機 を考えてみる。単純には,蕪を収穫するという農作業にかかわり,大きな蕪の根が張り,抜き難い
というところに発する。何とか抜きたいという思いに発想があると思う。そこで,大勢の手によれ ば抜けるに違いないと論理的に考えた結果,お爺さんお婆さんに孫,犬に猫とやれば面白かろうと 想像して話としたということになろうか。或いは,人間杜会は協調,協同,協力,協和がなければ 成立しないという思想が先にあって,この抽象を支えるのにふさわしい具体的な事例にはどのよう なものがあるか,しかもそれは幼い子供向きでありたいなどという考えが契機としてあったのかも しれない。創作の場合は前者か後者か割り切ることは難しかろうが,昔話や民話であったら,具体 的な話が先に違いない。その話が語り継がれるというのは面白いからであろう。それを楽しむ人間 集団の心の琴線に触れるというのは,その話を必要とするからであろう。この大きな蕪の話も楽し まれるのは語り継ぐための意義を具体と象徴との往復の間に感じているからであろう。
国語科の学習指導において学習材自体がどのような発想から生まれたかという問題はまず直接的 には取り上げられない。しかし,いわゆる文学系の学習材で主題(中心思想。最も強く言い表して いる思い,考え。)は何かを問うたりまとめたりする,この主題の把握は書き手の発想と深くかかわ ると考える。文学系の学習材に関する主題の把握は学習者それぞれの個性的なものの見方,感じ方,
考え方に由来する。したがって,主題はそれぞれの学習者の個性に即してそれぞれの言葉で語られ ることとなる。このことは,文学系の学習材は多義性,含意性の言葉の世界のものであることを踏 まえて言っているのであるけれども,学習者それぞれが学習材の含み持つ何かを契機として自分の 発想を集約的に抽出してして語ったものが主題であると言うことが出来よう。一方,主題は文学系 の学習材が含み持つ何かなのであり,その何かは多面的であり含意性が深ければ読み手のさまざま な発想を生み出すこととなる。学習者それぞれは自分なりに強く共鳴,共感したところを手掛かり として,つまり発想契機として学習材自体が含み持つ発想の多面体の一面としての表現に手掛かり を得て応じ,特に味わい込むという過程を経て,主題をまとめるという手筈になると思われる。
このように学習者それぞれが文学系の学習材の表現の何かに感じて発想することとなるというの は,その表現自体が発想の多面体であることを意味する。含み込む様々な発想のうちの何かに学習 者が反応しているのである。これは,学習材の表現に即する発想の問題である。表現を客体的な対 象とすれば,客観的に外在する客体(対象)との関係において得た発想である。
それに加えて,個が自由に発想を得ることとなる。例えば「おおきなかぶ」に触発されるにして も,それは発想の契機に過ぎず,新たに学級の児童たちにお互いにどのように生活したらよいかに 気づかせるという,社会生活に目覚めさせることを意図したとしよう。児童それぞれはまだ十分に 共同で生活することに慣れていない場合には一般に勝手であり我がままである。そこで,それぞれ に具体的に他人に迷惑にならないようにする,仲良くする,我がままを抑えて思いやりを持つには どうしたらよいかの事例を挙げさせたとしよう。日々の生活の中から協調,協和の事例を思い付く ことができるというのは,個々の主体の体験の中から事例を着眼し,発想できるということである。
これは主体自体での発想である。
このように,文学系の学習材を扱うに当たり,第一に学習材自体の内包する発想につき直接的に は取り上げないが,主題把握という作業を通して学習者の主体とのかかわりで発想を学び取ってい る。第二には,その学習材に触発され,学習者自身の体験や生き方,考え方を掘り起こし,問題意 識を持つ,つまり自分の発想を得ることとなる,と考える。この発想を核として感想なり意見なり
にまとめることとなると考える。
もう一例,挙げる。学習材「一つの花」(東京書籍,四上,平成4年度本。他社本にも多く採用さ れている。今西祐行の作品)は児童文学(物語,小説の類)であり,文学系の学習材である。これ は作者のどのような発想のもとに作品となったかは勿論あるにしても,ここでは読み手として表現 を通してどのような主題を把握し,かつ発想を思い描くかという読みで迫ってみよう。
まず時代設定が「戦争のはげしかったころのこと」であり,父親が出征し,母親とゆみ子を残し,
「汽車に乗っていってしまいました。」となり,十年後,「ゆみ子はお父さんの顔を覚えていません。
自分にお父さんがあったことも,あるいは知らないのかもしれません。」などという叙述から,この 学習材は戦争はいやだという発想のもとに,戦争は二度と繰り返してはならない,戦争反対,平和 な国家・社会を建設すべきだという思想を表明しているのだという受け取り方が出来,この思想を
学習材を通して感受することにあるとするものである℃
次に,戦時中であるゆえに食糧難であるが,ゆみ子がおなかを空かせているのを見かねて母親が 乏しくろくに食べる物がない中で「一つだけ」と言っては食べ物を与えているシーンなどから母性 愛,また父親が不欄に思って「お父さんは決まって,ゆみ子をめちゃくちゃに高い高いをするので した。」とか出征のための駅頭でおなかの空いているゆみ子に一輪のコスモスの花をあげるというシー ンとかから父性愛をそれぞれ感受する。このようなことから,いわば家族愛といったことを発想の 根源にしていると受け取るものである。
更にこれは私の読み取りであるが,この学習材の主人公は全体を通した設定からゆみ子とし,そ のゆみ子の言動に注意を払うと,前半は飢えにさいなまれ続けていることが描かれており,後半の 十年後は食生活が十分に満ち足りていることが描かれている。この後半は前半をより効果的に印象 づけるための設定として位置づけることにより,前半の飢えがより鮮明に印象づけられることとな ると読む。したがって,この学習材の発想は飢えはつらい,ひもじいことは情けないというところ にあると見るのである。
文学系の学習材の表現に対し,読み手(学習者)がどの描写,どの事柄に強く印象を持って読み 進めるかにより,いわゆる主題の把握がそれぞれになってくるということをここでは仮に三つの側 面から述べてみた。つまり,この学習材の発想の在り方の多面性を,仮に三面をもって照射して挙 げてみたということになる。
ところで,この三面は切り離された別のものではない。第一の戦争の悲惨さ,平和の有り難さの 感受があるからこそ第二の父性愛,母性愛といった家族愛が,人間の絆が鮮明に印象づけられるこ とになるし,最も具体的であるところの第三のゆみ子の飢えのつらさ悲しさが伝わってくるという ものである。相互に有機的なかかわりを持っていることで読み手への重層的な深い印象を形造るこ ととなるというものである。結局,ここで仮に取り上げた三面についても,それぞれの発想が絡み 合っていることで読み手に幾つもの思いを誘い出すこととなる。つまり,この幾つもの思いとは幾 つもの発想ということであって,このうちから特にとり立てて代表させて言うものが主題と言われ ることとなる,という次第だ。ここまでは,学習材に即した発想の問題である。
そして別に,この学習材「一つの花」を契機に,これを離れ,学習者個人の体験やものの見方,感 じ方,考え方などから思い(発想)を抱き,想像を巡らすという次元に至ることとなる。
このように,学習材に即する発想と,離れて独自に思い描く発想とを分けることが出来よう。
これら想像を形成する発想に関し,それを支えるものは認識(知識・理解)であることを付け加 えておく。学習材「一つの花」を例にとれば,時・所・人の設定つまり戦時中の或る町に住む幼児 を抱えた夫婦三人家族の下に,事件は食糧不足の恒常的な状況の中で父親が在宅の場面でも出征す る駅頭の場面でも子どものゆみ子は飢えに苦しみ,すぐ泣くという実態が描き込まれている。と書 いたが,表現を通したどのような実態を強く読み取ることとなったかが問題なのである。表現を通 して読み取ることとなった読みの実態とはすなわち読み手としての認識の形成である。どのような 認識を得たかと言うのは,どのような発想に心ひかれたかということでもある。この認識の線に立
って,読み手の発想が立ち上がり想像が湧き起こるということになる。換言すれば,文章の表現に 即して読み進めながら,読み手が強く心ひかれるところに沿って或る特定の認識が形造られること となる。その認識の中から特定の思い(発想)が芽生える。未知の状態,混沌の状態から既知の状
態,整理・秩序の状態に至る過程での主体の心情,
あろう。
思想,立場などがそれを形造ることとなるので
五思考を形成する発想について
思考を形成する発想とは,例えば眼前の出来事についてそれはどうしてそうなるのかについて分 かりたいと考えることである。思考を誘発する発想は未知を筋道立てて説き明かそうとする心の動 き,意識の流れの中に生じる。
学習材「波にたわむれる貝」(東京書籍,六上,平成4年度本。森主一執筆)では徳島の沖洲の海 岸で波の動きと共に転がる貝が発想の契機となる。なぜ転がるのかという疑問を持った。この疑問 が発想である。そのフジノハナガイを観察したところ,潮の干満に従い移動することが分かった。貝 の移動は潮の干満によるという関係についての認識なのである。分かるためには,仮説を立て実験 し証拠をつかむという作業を繰り返している。そして理由を考えるのである。この貝の潮汐周期活 動を通して更に筆者は疑問(発想)を持った。「いったい,この小さな貝の体の,どこに,こんなに 複雑,びみょうで正確な,転かんの仕組みがひそんでいるのでしょうか。また,潮の満ち引きの間 かくも,それが変わる時刻も,日によってちがうのに,その変化に合わせて貝の行動が変わるのは どうしてなのでしょうか。」というのである。これらの疑問はまだ解き明かされていないという。考 えあぐねている,つまり,証拠が見つかっていず,理由が究明されていないのだ。換言すれば,論 理的な推理が成り立っていないことになる。この学習材は,結局フジノハナガイの潮汐周期活動自 体の説明に留まる。それが行われることとなる根源的な理由は解き明かされていない。私は,学習 材はすべて解き明かして終わるよりも,分からないことは分からないとして提示するほうが学習者 に学習意欲,研究意欲をもたらし,発想に基づく思考(仮説)を組み立てることにより実験,観察 などを必要とし,理解(認識)が成り立つこととなるということを分からせ,勇気づけることとな ると思っている。
フジノハナガイが動き転がるのは潮の干満との関係であったという,観察・実験等を行い証拠を
挙げ因果関係を明らかにしたという思考は,ものとものとの客観的,科学的,論理的な関係を究明 し一つの認識を成り立たせたということになる。未知の関係を既知のものと成し得たということで ある。このように思考は新たな認識の成立を生み出す。
学習材「オゾンがこわれる」(光村,六上,平成4年度本。伊藤和明執筆)では「一九八〇年代の 初めごろから,南極の上空で,きみょうな現象が観測されるようになった。」と書き初められている が,それはオゾン層に穴が空いているという事実である。奇妙な現象と言ったのは普通ではない,異 常であるという主観的・直観的な発想であるから,次いでそこでなぜかという疑問つまり科学的・論 理的な発想を持つこととなり,原因を究明し対策を考えなければならないということになる。調査 や研究の結果,人工的に作り出した物質フロンガスが紫外線とぶつかり破壊され,それから飛び出 した塩素がオゾンを破壊するという因果関係が生じていることが分かった。一つの認識の成立であ る。ここで,この現象を人間との関係において捉え直すと,オゾン・ホールを通して大量の紫外線 が地上に注がれる結果,人間には皮膚癌,植物にも何らかの影響が出るであろうなどが予測(仮説)
されることとなる。こうした客観的な事実が見出だされたこととそれに基づく客観的,科学的な予 測(仮説)とが考え出されたこと(思考されたこと)は,なぜかという科学的,論理的な思考をつ
むぎ出す発想に由来する。
この学習材を通して,客観性を貫き事実認識に立ち論理的に思考を展開するという発想にのみ終 始するとすれば,それはフロンガスが大気中で紫外線により分解し,その組成成分の一つである塩 素がオゾンと結び付くので,オゾンが減少し,オゾン層に穴が空くこととなるという論理的な原因・
結果を究明すれば終わることとなる。これは,いわば説明・論理的な文章としての読解である。こ れは客観性に立つという読解の第一階梯である。
しかしこの学習材はオゾン・ホールが出来ることを科学的,客観的,論理的に解き明かすことに 目的を置いているのではなくて,それと人間との論理的な関係を考えると,人間に害があるのでは ないかという疑問(仮説。つまり発想)を内在させることにある。つまり,単なる客観的な説明と 論理に終わるのではなく,人間の存亡と絡む危機感から発想するという人間の側からの主体的,主 観的な発想に立つことにある。それは実はオゾン層に穴が空けば紫外線が地上に降り注ぐ量が多く なるという客観的な事実について,それは人間にとり何を意味するかという発想から捉えることに ある。というのは,オゾン層により紫外線の殆どは吸収されているという事実認識があるからなの だが,もしそうでなくなったらという発想が生まれると,本文中にも指摘されている通り「紫外線 は,少しなら細菌を殺すなど,人間の役に立つ働きもあるが,たくさん浴びると,人間の体に危険 なものとなる。」云々で明らかにされているように,紫外線の照射量と人間の生命への恩恵・危険の 度合いとの論理的な因果関係という発想に至ることとなる。ここに至ると,フロンガスは従来,人 間生活に幸せをもたらす物質と考えられていたはずであるのに,逆に不幸をもたらすこととなると いう逆転の発想から,現在の人間の生活をいかに守るか,どうしたらよいかという人間主体の感想・
意見を述べるという,人間の側からの発想を持つ必要があるという展開になってくる。これは人間 の視点からの主体的な読解であり,読解の第二階梯である。
ここで学習材における記述・論述の姿勢・在り方と,学習者の知識・理解(認識)の形成および 人間の側に立つ発想による論理的な思考の展開の持たせ方との関連について検討しておく。この学 習材をもってして学習者に望む学習目標を,地球環境問題についてフロンガスを契機にして考え(意 見)を持つようにしてもらいたいという編集者側の意図があるとするならば,という前提(発想)で ここでの論述を進めることにする。この前提は正直に言えば私がこの学習材を取り上げる場合の学 習指導上の目標を上記のように設定するということを言ったまでであるが。この場合に私は,この 学習材の記述・論述は客観的な事実に関する論証とそれに由来して推測される客観的な推論(仮説)
のみを掲げるというところで留めたほうがよいという考え方を採る。なぜならば,この客観的,科 学的,論理的な事実と推論(仮説)とから,学習者自身がそれぞれに人間としての生き方や考え方 や対処の仕方などはこうあるべきではないかという発想が生まれ,感想や意見としてまとめられる こととなり,地球環境問題についての人間としての課題が子供なりに自覚されることとなると思う からである。
このことについて本文に即して見よう。いよいよ結論に至ろうとする部分から引用する。「オゾン 層のオゾンが少なくなれば,地上に降り注ぐ紫外線の量が増し,」という記述は科学的に論証されて いる事実について認識していることを伝えているのであるが,続く論述「その結果,人間には皮膚 癌が増えたり,目の病気が増えたりするだろうといわれている。また,植物の生育もさまたげられ,
農作物にも大きなえいきょうが出るだろうと推定される。」は,文末表現に「いわれている」「推定
されている」とあるように,客観的,科学的,論理的な推定(推論。仮説)を伝えている。ここま では事実についての認識と思考(推定。仮説)とを表したものであるから客観性に立つ。そして筆 者は次のように書き継いでいる。rわたしたちの生活の便利さを支えている物質によって,今,人類 を初めとする地球上の生命が危険にさらされようとしているのである。」と。この論述は筆者が人間 としての立場で,生命あるものの立場で主観的に主情的に「危険にさらされようとしている」と恐 怖感危機感を表明している部分である。
私は学習材としては,先にも述べたように,この主観的・主情的に感想・意見を述べている部分 は不要であるという考え方を持っている。なぜなら,学習者自身が,学習材としての文章中の客観 的,科学的,論理的な事実の認識や思考(推論。仮説)を読み取れば,人間いかにすべきか,ある べきかについて発想を得ることができるし,それに基づいて発想や意見を持つことができると考え るからである。しかも,学習材は学習者の主体的な発想や感想・意見を自主的,自律的,自発的,内 発的に積極的,意欲的に生み出すことにあると考えるからである。
このように考えてくると,学習者自体がその客観的な事実や推論に基づくところの,人間として どうすべきかなどを書いてしまったら,学習者の主体的な思考活動を奪うことになるし,かつ単な る読解に終始してしまい,興味も意欲も減退してしまいかねないことにもなる。
この学習材はその虞れがある。以下,次のように論述している。「そこで,一九八五年以降,たび たび国際会議が開かれるようになった。そして,世界じゅうでフロンガスの生産や使用をできるだ け早くやめようという約束が結ばれた。それには,フロンガスに代わる新しい物質を作り出さなけ ればならない。(中略)今こそ,世界の人々が知恵を出し合って,問題の解決に当たらなければなら ない時なのである。」と。すなわち,地球環境保護という発想,フロンガス代替の無害の物質の発明 をという発想やその他いろいろな問題の解決策の案出(つまり発想)などは,ここで筆者が学習者 に先回りして言っているのであるが,私は言うべきではないと考える。このような発想を誘発する ことにこそ学習の意義を見出ださなければならないからである。そうすることによって,学習者は 自覚的,主体的に地球環境問題を考えるようになるであろう。
ところで,学習材に対して,学習者に或る感想・意見を持たせようという意図の下に敢えて客観 的な事実の紹介に限っている説明・論理的な文章を,管見の中で得ることができたので取り上げる。
学習材「人間がさばくを作った」(東京書籍六上,平成4年度本。小原秀雄執筆)は,北米大陸の 中央部での話である。ここは,もと大草原であり,アメリカバイソン(大きな野牛),肉食の狼,土 を耕すプレーリードッグ(小動物),肉食のクロアシイタチなどが住み,生態系が安定していた。本 文によれば,「ところが,十八世紀の終わりごろ,白人がバイソンがりを始めてからは,様子ががら りと変わった。」という。バイソンの姿を殆ど見ることが出来なくなってから,「ウシやヒツジが放 牧された。」と書かれている。しかし,これは逆で,牛や羊を放牧するためにバイソンを殺し,駆逐
したのである。すると,人間が乗り回している「貴重なウマが足をつっこんでけがをするため」,穴 を掘るプレーリードッグも退治されてしまう。「自然の牧場には,耕し手がいなくなった。草はウシ やヒツジに根こそぎ食べられた。土はふみ固められ」,荒れ,砂漠と化すという因果関係となる。こ のようにこの学習材は具体的な事実の経過を客観的に記述することで留めている。本文の終わりの 部分は,「こうして,豊かな大草原はしだいにあれ果てて,さばくになっていった。北アメリカ中央 部のさばくは,大部分,人間が作ったともいえるのである。(中略)アメリカだけではない。いろい
ろ調べてみると,我々人間は,世界の各地でさばくを拡大したり,さばくとなる原因を作ったりし たらしい。」と締め括っている。
この学習材の発想は,砂漠は自然にできたものではなくて人間が作ったものだというところにあ る。それを客観的,論理的に証拠を挙げ,原因と結果との筋道を順に追い事実に関する認識を明ら かにしたものである。筆者はその事実を記述して伝えることで終わっている。そこで,この事実に ついて筆者の考えを聞きたい,今後どうすればよいのかについて筆者の考えを聞きたいというふう に思い,その論述が不足していると指摘してしまうのは,私がこれまで考えを書き進めてきたのか らすれば求めるべきではないということになる。つまり,この学習材は北米大陸中の砂漠を例にし てその成因を伝えるという客観的な記述に徹しているのであるから,ここから今後どうしたらよい のかについて学習者の発想を生み出すという意欲ある学習が始まることになる。この学習材の書き 手の抑制した筆致,つまり事実の提示に留めたところにこそ学習者の感想や意見を表明することと なる発想の湧出が期待できる。記号論の祖パース(C.S.Peirce,1839−1914)が言うabduction(原 義,誘拐。転義,発想。)とは誘い出されて想が湧くということである。この学習材の書き手の心の 中には,自らの発想(今後,砂漠対策をどうすべきか,生態系についてどういう態度をとるべきか,
人間いかに生きるべきかなどといったこと)を秘めているに違いない。だが,それは学習者の発想 として生み出されることを期待して,抑えているように思われる。
思考を生み出す発想には,二つの層がある。一つは客観的な具体的な事実や現象について,それ は何なのかどういうことなのかどうしてかなどという疑問(発想)を抱いて究明し,科学的,論理 的に正確に明らかにするというものである。例えば,今まで見てきたような,オゾン・ホールはな ぜ出来たのかとか砂漠はどのようにして出来たのかというような類のものである。この発想は事実 や現象のうち不明なもの沫知のものについて観察や調査をして証拠を挙げたり原因・理由を考えた りするという客観的,科学的,論理的な思考を通して,結果としてそのものについての正確な認識
(知識・理解)が成立するというものである。すなわち,或る(未知の)事実・現象→発想(疑問,
仮説)→観察・実験・調査→思考(客観的,科学的,論理的な関係の認識についての予測・推論・類 推)→正確な認識の成立,という手順を踏むものである。
もう一つは,そうした或る事実や現象に対して,人間(その単位は全人類,或る集団つまり民族 とか特定のグループとか,個人,自分など)の側から捉えて,どう捉えたらよいのか,どうしたら よいのかなどという発想から,例えば利害関係などから,主体的な(主観的な。或る立場からの)感 想なり意見なりを持つというものである。例えば,これはフロンガス問題について,それを製造し 使う立場にいるものとしての意見はどうあるかとか,全人類の将来を視野に入れた立場からの意見 としてはどうなるかなどというものである。これは,立場や視点(宗教,思想,民族など)により 恐らく変わってくると思われる。それぞれの主体的,主観的な発想によって,多様な感想や意見が 見られることとなる,と思われる。
なお,このような思考を生み出す発想は,その手前に認識の形成のあることに注目しておかなけ ればならない。自分の認識していることのうち未知,未解決の問題につき何とか分かろう,解き明 かそうというのが思考を生み出す発想となる。認識していることを秩序づけ整理する中に不明の問 題が出てくるし,或る既知のことと別の既知のこととの間に何らかの関係がひらめくという発想の 湧出もあろう。自分にとって興味・関心のあること知的好奇心を覚えることに対しては,それにか
かわって様々な情報(認識を得るということ。知識を持つということ。)を広く求めることである。
それが未知のことを発見することにつながり,発想(仮説。予測。先見。予知)への誘いとなる。学 校教育で歴史的に形成されてきた知識(情報)を,詰め込みから発見へ,受け身から自主的な摂取 へ,興味・関心・意欲をもってという主体的な態度づくりが願われるのは,客観的,科学的,論理 的な発想を生み出す訓練が必要であるということが内在しているように思われるし,それに続く客 観的,科学的,論理的な思考の訓練も必要であるということであろう。
六 「表現(作文)」における発想について
国語科における「表現(作文)」(以下,作文とする)の学習指導で発想に着目することはあるが,
それほど前面に押し出す取り上げ方はしない。一般には「何」を「どのように」書くかという取り 上げ方をするが,その際の「何」すなわち書き表すべき内容「どのように」すなわち書き表すため の方法を言う際の,「何」の中に発想は包み込まれることになる。「何」については二つのことが含 まれる。一つは対象に即する題材や材料であり,一つは主体内の心情的な反応や思想(主題や主旨)
である。発想は主体内の心の動き・意識の流れの中にうごめくものであるから,「何」のうちの後者 に含まれる。
学習者は言葉の学習に当たり,読解の学習の場合は机上に教科書がありそれに文学系の学習材な り説明・論説系の学習材なりがあるから,それに従えば学習が成立するので,早い話が椅子に座っ て構えればよい。けれども,作文の場合には机上には白いメモ用紙か原稿用紙などがあるばかりで,
言葉は目下,何もないという状態であるから,これは容易ならざることである。そこで,学習者に 言葉を生み出させ,持たせることができるようにする指導方法なり指導技術なりが必要になる。始 源的に言って言葉を生み出すこととなるのは,そうなる刺激なり契機なりがあるからであり,主体 的に反応があり心が動いたからであるとするなら,そのような心の動きを生み出し言葉を生じさせ るようにする契機があればよいということになる。その契機づくりが発想への手掛かりとなる。
私は近年,中学校国語教科書(東京書籍,平成5年度本)の作文の学習材(一般には,教材と言う)
作りに加わった。この経験を基にして言えば,作文の学習指導は導入時に成否の鍵があり,かつ文 章を書くのだという重荷を感じきせない,背負わせないことに秘訣があると思った。というのは,筆 記具をもって書くに至る前に書くべき内容が充実してしまうという手順を踏めばよいのである。こ れは比喩的に言えぱ,読解では対象とする文章が目前に用意されている。それと同様に作文におい ても書くはずの文章が既に目前に用意されているという状態,例えば構想メモとして出来上がって いる,或いはそうなっていなくても頭の中にそのことに係わる言葉があふれているという状態にな っていればよい。作文の学習は書く態勢に入るまでの準備的段階にエネルギーを注ぐことで重荷が 取れ,気軽に書くことが出来るようになる。
ここで作文において発想の段階がいかに大切であるかを主張しようとしているのだが,それは学 習者から何らかのもの(対象)に対して主体的に積極的に前向きに自分から興味・関心を寄せ,そ こから何かを感じたり思ったりすることができるかどうかにかかる。その心の動きが混沌とした状 態,未知の状態から自分なりの思い(発想)を持ち言葉を紡ぎ出し,言葉で明らかにし秩序ある既 知(理解)の状態を造り出すと考えるからである。読解の場合に,文章に書き表されているのは書 き手の認識していることであり,また想像していることであり,また考えていることなのであるか
ら,読み手はその書き手の認識や想像や思考を読み取ることとなる。文字を読んでいるのではない。
このことと全く同じことなのであるが,作文の場合には学習者は書き手となるのであるから,自分 の知り得たこと分かったこと,つまり認識や,自分の思い描き想像したことや,論理的に考えを巡 らしたこととを,書き表すこととなる。これは,文字を綴るということではない。つまり,繰り返 しになるが,文章というのはその書き手の認識や想像や思考の書き表されたものであるということ
である。
の
学習者は,何らかの取り上げたものについて,自分の主体的な内発的な心の動き,意識の流れに 沿って発想し,言葉を生み出すこととなる。その言葉を他への伝達を配慮して全体を見通して整え るのを構想と言う。作文の学習指導は,この発想段階と,構想段階とが要である。
学習者の側に立ち,学習者が発想を持ちやすいようなものを想定すると,それは学習者と具体的 に直接にかかわりのあるものということになる。したがって,認識の出来上がっているもの,或い は認識の形成しやすいものであれば容易に発想を持つことができ構想をまとめることが出来よう。そ れゆえに体験したこと,すぐに体験できること,身近なもの,すぐ見聞できるものであり,かつ心 が動き,興味・関心が持てるようなものであるならば,言葉を生み出す動機づけを与えることによ り,刺激を受けて発想が芽生えるであろう。例えば小学校低学年段階であると,今日体験したこと や出来事を思い出きせて(想起させて。つまり発想させて),「先生,あのね,・…」と口頭作文と して話をさせ,認識していることを表出させるというものである。この「先生,あのね,」は相手意 識を明確にした伝達の仕方をも訓練していることになる。進んだ段階では,続いてこれを短い文章
に書き表すというふうに運ぶ。つまり,発想が導き出されており書くべき内容が充実しているから 容易に書き表すことが出来る。
1990年代に入って再び盛んに行われるようになったディベートは,或る問題点につき立場や思想 を前もって定めた上で認識を確立し論拠(証拠や理由)を挙げて論理的な思考を展開するものであ る。チームで相談しながらまとめるという作業を行うので,問題点に即して互いに発想を得やすい という利点がある。対立して考えを押し進めるので,その問題点がより細部にわたり見えてくると いうことになる。ところで,このディベートという話し合いの方法は,現行の中学校国語教科書(平 成5年度本,5社とも)に採用されているが,私の関係したものは次のように扱った。ディベートと いう形態をとる話し合い(討議。討論)を行うこと自体を目的とせず,この話し合いを学習過程に 組み入れて,学習者それぞれが自分のものの見方,感じ方,考え方などを深めるのに利用するとい うふうにした。要するに,いわゆる意見文を書くための手段としてディベートを利用するのである。
ディベート自体は,論争に先立ち審判(レフェリー)を立て,対立して論争した結果について双方 のティームに勝ち負けを宣する方法で終わる。これも,国際化社会の中での討議法の一つとして身 に付けることが必要であるという考え方から,ディベート自体を身に付けることを目的とすること もあってよいが,これを作文のために利用するという学習過程に位置づけたのはなぜか。それは,書 く前に書く内容を充実してしまおうというストラテジーからである。そこで,ここではディベート と呼ばずに,話し合いゲームと呼ぶことにした。もう一度,話を戻そう。ある問題点につき,自分 一人で考えていると,発想も湧きにくく,材料もなかなか思いつかないということもある。そこで,
グループ内でその問題点に関して話し合えば,互いに発想を豊富にすることが出来るし,材料(証 拠や理由)も揃えることが出来るし,意見を交わすことによりそれを深めることが出来る。この過
程で,メモを取っておけば,つまり言語情報を収集しておけば,それを基に自分の考えに従って構 想メモを作成すると難なく全体が出来上がるということになる。私の拠った教科書(東京書籍中 学2年,表現単元「意見を述べる」,平成5年度本)の論題としては,例えば「和食と洋食はどちら がよいか。」「遊ぶなら海と山はどちらがよいか。」「伝達方法として,電話と手紙はどちらが優れて いるか。」などを挙げている。これら論題は,発想の契機を成すものであり,恐らく自分の体験が掘 り起こされて論拠が思い付かれ,互いに交わされているという運びになるであろう。発想は思考の 展開の端緒であると同時に,その発想が思考(思想)の全体を決めることとなる。発想は,混沌か
ら鮮明へ霧の中の遠景から白日の風景へと導く。発想をひらめきとも言うが,ひらめき出た発想 に照らし出された思考(思想。意見)は自分の人格から,立場から,見方から生み出された見通し,
洞察という全体を作り出す。この見通し,洞察は構想と言い換えることができよう。発想と構想と は,ホロニック(Holonic)に思考を形成する。
ところで,作文の基礎を作るのは正確な認識である。ものについて十分に見えていれば,つまり 認識が成立していれば,それについて説明することが出来る。沢山の知識・理解(認識。既知の情 報)を持つことによって,よく分からないこと,何が未知のものであるのか,研究すべきものは何 かなどが見えてくる。見えないもの分からないものが見え分かるようになる。何事に関しても知識・
理解(既知の情報)を豊富に持った上で未知の探求のために観察・聴取・調査・実験等を行うと興 味・関心も湧き知的探求心が芽生え直観が働き発想が生まれる。小学校段階でも中学校段階でも学 習者の主体的自主的な態度の中で学習を意欲的,創造的に進めるように図らえば,そうした態度が
常のものとなり,何事についても発見的,創造的に対処できるようになると期待される。
正確な認識を形成するための発想の方法は,取り上げたものにより異なってくる。その方法はそ のものから生まれる。このことにつき,先に引用した中学校国語教科書(東京書籍,平成5年度本)
で見てみよう。表現単元「分かりやすく説明する」(第1学年)では,①現象につき時間的な順序で 説明する,②所在地(道順)につき空間的な順序で説明する,③事物などの造り方につき作業の手 順によって説明する,④出来事(事件)につき5WIHによって説明する,⑤類似のものにつき比較 して異同を説明する,といったようなものを配している。このうち,②空間の順序なら,距離方 角,方向,かかる時間,目印などの要素が析出され,それらを基に正確な認識が形成されることに なる。このうち④出来事なら,5WIHの要素つまりいつ・どこで・誰が・誰と・誰に・何を・どのよ うになどといった要素により細部を析出して説明するという方法をとれば,正確な認識が形成され ることになる。このように,である。
つまり,正確な認識の形成は,もの(事物・現象・事柄・出来事など)に応じてどのような要素 に分析して説明すれば分かることになるかにかかってくる。このものに応じて析出するための要素 の直観的な発見が発想なのである。別の例で述べよう。新しい人間の集団では互いにどのようなδ
とであるのか理解しておきたいという欲求が生まれる。挨拶を交わす,名告るに加えて自己紹介を 2分スピーチで行うとする。自分についてどのような要素で説明するか。この発想の在り方により自 己をえぐり自己発見をし,他人にあばき見せるということになる。その要素として,生年月日,出 身地,現在の職業,経歴,趣味,性格,愛読書などが析出され,その中から他人に対してアッピー ルできるものを選び出すということになる。他人から自分について認識してもらいたいということ の発想は幾つかの要素を契機としてそれを具体的に表すことで具現化する。こうした要素を直観的