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イギリス議会の経費論争 西 山

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(1)

144   一−J・〃−  

19世紀初頭における  

イギリス議会の経費論争  

西  山   郎  

Ⅰ  

小稿の課題ほ,対フランス戦争直後数年間のイギリス議会に.おける経費論争   を分析することによって19世紀初頭の経費政策を解明するこ.とである。まずほ   じめに.,そのような課題設定をした事情を若干説明する。   

私ほ,かつて19世紀中葉のイギリス議会に.おける経費論争を手がかりに,自  

(1)  

由主義段階の国家経費政策の特質を規定しなおそうと試みたことがあった○そ 

(2)  

のさいの分析期間ほ通説にしたがい19世紀中葉鵬厳密にいえば,1842〜1873   年〜一に限定された。しかし,考えて−みれば,このような分析期間の設定は通説   を検討するための手続きとしてほ妥当であるに.しても,この期間だけの政策分   析でもって自由主義段階の経費政策を十分に究明したと考.え.ることほで章ない   であろう。その理由の第1は,形式的にみてもイギリスの自由主義段階を1840  

〜70年代に限定することほあまりにもせまいという誹りをまぬかれない。イギ   リスの自由主義段階の規定のしかたにもよるが,・それを社会経済史家のいう「世  

し3\ 界のエ場」期と考えるならば,もう少し前方へ拡大して1820〜30年代をも含め  

(1)西山血郎:「『自由貿易的経蟄膨脹』政策(1)−19甘紀中葉のイギリス議会(下院)紅お    ける経費削減論議の検討−」,『香川大学経済論麓』寛39巻籍3号,噸和41年・8月;「『自    由貿易的経費膨脹』政策(2・完)−19世紀中葉のイギリス議会(下院)における経    費削減論議の検討−」,『香川大学経済論叢』第39巻第4号,昭和41年10月。  

(2j 「やすあがりの政府」という側面からみて,「1840年代から1870年代のイギリス財政    ほ,もっとも典型的であった」(蒔田・遠藤・大内:『近代財政の理論』時湖社,昭和30年,   

92貴)。  

(3)チェンバーズ教授は,「イギリスが世界の工場として叙述されることが出来る時期は,   

おおよそ1825年の金融恐慌と1873年のいわゆる『大不況』の開始との間,あるいは,  

おおぎっばな数字で言えば,1820年から1880年までの時期を指す」(J.D.チェソバ・−ズ   

著,宮崎・米川訳:『他界の工場−−イギリス経済史1820−1880−』岩波憲店,昭和41   

年,1貰。)という。同様の指摘ほ,わが国の入江教授もおこなっている(入江節次郎:『独   

占資本イギリスへの迫−一現代への序曲−−−』ミネルヴァ書房,昭和37年,1′}5京。)。   

(2)

19世紀初頭におけるイギリス議会の経費論争   −ヱ45−  

145  

なければならない。そうした場合,前稿の分析対象からほずされた1820〜30年   代の経費政策の解明が必要となる0   

経費政策の分析を19世紀中葉以前に拡大しなければならぬ第2の理由ほ,そ   の時期が国家経費の動向の面からみて,典型期といわれる19世紀中葉とはこと   なる動きを示しでおり,内容的にみてその時期を研究対象に含める必要がある   というこ.とである。このことほ,わが国の土生民によっですでに指摘されてい  

(4)  

る。氏は,対フランス戦争後20年間のイギリス財政を分析したすぐれた論稿に  

(5ノ  

おいて,国家経費の動向の面払おいても「注目すべき変化」がみられたという○  

すなわち「経費の規模が対国民所得比において縮少していくという傾向ほ,のち   のピール=グラッドストン時代にもみられるのであるが,この時期は経費の絶   対額さえかなり長期にわたって,かつ大幅に収縮したという点で,まさに・『甥  

(6)  

上りの政府』が典型的に実現された時期であったといっていいであろう。」この   指摘は,どのような経費動向を「安上りの政府」として概念規定するかという   根本問題が明確にされていない点で不十分であるが,事実認識としては全くそ   のとおりである。国家経費の絶対額ほ.,第1表にみるように1834〜亭5年度を最   低にして返転上昇に転じるまで汐グザグでほあるが趨勢として低下傾向を示し  

ているのである。   

このような低下傾向のなかでどのような経費項目が削減されたかであるが,  

その分析もすでに土生民によっておこなわれている○ しかし,残念なことに氏   の分析は,削威された経費項目の分析が中心であり,経費削減にさいしてどの   ような論議がおこなわれたかについて.■の政策分析がかけている○   

政策分析の欠如ほイギリスの研究家に‥おいても同様のようである。たとえ   ば,バクストソ氏ほ,戦後のイギリスの経費政策に・ついて「経費節約(economy)  

が,それも自ら選択したのでほなく必要にせまられての軽費節約が大いに・流行  

(4)土生芳人:「ナ・ボレオン戦争後のイギリス財政」,(岡山大学)『法経学会雑誌』黛15巻    第2号,1965年9月。なお,小稿執筆にあたって教えられるところが大変多かったこと    を付言しておく。  

(5j(6)土生芳人:同上,2真。   

(3)

葦彪巻 第1・2号    欝1衷 国家経費の動向(1815年度〜1840年度)  

・−一∫■メ6一   146  

(出所)B.R Mitche11and P,,Deane,AbsiraciqfBritishHistori一 alStatisiicS,  

Cambridge,1962..p.396.  

(注)(1)国家経費の単位搾100万ポンド。   

(2)年度は1月6日より翌年の1月5日までの期間。  

(3)1836年度と1837年度は,奴隷制度の廃止紅ともなう純良地の奴隷所有者にた   いする補償金を含む0それほ1836年度が167q万ポンド,1837年皮が410万ポン  

ドである。   

(4)

19世紀初頭に.おけるイギリス議会の経費論争   ・−J47一一   147  

(7)  

した。.」とのぺるのみで,具体的なことについてほなに.もふれていない。リーズ   戌ほ,戦後の赤字財政を解決するために野党が経費節約(economy)を要求した  

とのぺ,「軍隊が膨大すぎるということ,そして,それ以外の方面においても大  

(8)  

きな浪費が存在することが主張された。.」という。しかし,そのような野党の主   張に対して政府ほどう答え,その結果がどうであったかについては全然不明で   ある。   

したがって,対フランス戦争以降1830年代までの経費政策がどのようなもの   であり,絶対的な経費削減がどのような政策によって遂行されたかは未解決の   問題としてわれわれに残されているといえ.よう。私は,そのような問題を解決   するためのひとつの準備作業として1815〜42年までのイギリス議会の議事録  

(助〃5αrd ぶPαタ・〟α椚β乃才αrγかβ∂αね5)の日次の検索をおこなった○その結果,  

(9)  

1816年以降数年間に.わたり若干の経費論争がおこなわれたことが判明した○小  

(7)Buxton,S町釣 卿叩8制7β正わc∫,・A〝j勤■gねγ≠cαJSわ d.γJ7β3〜ヱββ5,Vol・Il・   

1888.LoI】don,p.12..  

(8)Rees,.丁。、FりA5如γ仁釣■5CαJα〝dダ∠〝α〝C∠一房一統■ぶf〃γ。γげ助gJα〝dJβJ∂〜ユタヱg,   

London,1921ハp,40…なお,Acworth,A.WりFinanci alReconstructioni.n Eng    Jα〝dJβJ5〜22,1925.は未見である。入手しだい検討をくわえたいと思っている。  

〔付記〕小稿脱稿直後に,Acwofth,A.W.,郎兜α〃Cよ扉凡打川ざわ′那加抑パ〝助7g・   

Jα乃dユβヱβ〜Jβ22,LondoI】,1925.を読むことができた。そして,アクワース氏がバ    クストン氏やり・−ズ氏とことなり1苛(「寛2葦 経費の削減」)をもうけて戦後の経費    論争の分析をおこなっていることを知った0しかし,・その分析は時期的には1817年ま   でであり,小梅で分析した1819年,1821年の論争には全く言及されていない。そのため   内容的に.みた場合戦後の経費論争の研究として−は片手落ちに・なっているといえよう0   とくに,1821年の両院における経費論争が解明されていないために,政府と野党との   論争の帰結が読者にほ全くわからない。  

アクワース氏がとりあげてこいる資料のうちでほ,/ト稿脚甜9)で指適されていない議    会論争がある。それについては後日私も検討をくわえたいと考え.て−いる。しかし,そ・  

れによって小稿の結論が大きくかわるということほないであろう。  

伯)経史論争につい七の今回の調査は完全なものではない。機会を改めて,より詳細で十    全な調査をおこないたいと考えてい予0′ト稿紅おいてとりあげる経費論争を一層して掲   

げれば以下の通りである。   

Staie qf the Public Finance(1Hansard,ⅩⅩⅩⅠⅤ.,972〜997.House of Com・   

mons.May31,1816.、).   

肋如弗ノb′・αCの椚彿妨拍♂α柁ム如㌧角適直■ぐJ〝ぐ0∽gα〝d助少β〝♂≠ゎ〝■β(ヱ肋〟S〃7■d,   

ⅩⅩⅩV.252〜308.House of Commons爪February 7,1817.).   

(5)

第42巻 館1・2号  

ーヱ4β・嶋   148  

稿ほ,それらの論争の分析を課題とするものである。  

ⅠⅠ  

対フランス戦争終了後数年間の経費論争の分析紅入る前紅,・その背景となっ   た経済政治事情と財政状況について簡単にふれておきたい。   

経済変動の側面から戦後の10年間をみた場合,1821年以前と1822年以後とに   明瞭に分かたれる。すなわち,前者ほ戦後の反動不況の時期であり,後者ほそれ  

(10)  

を脱却する好況局面の時期である。1815年恐慌ほ,4分の1闇∴紀も続いた戦争に   より疲弊したヨーロッパ諸国やアメリカがおしよせてこく・るイギリス綿製品をの  

(11)  

魂つぐすことができなくなった結果発生した。そのため,エ米生産物の価格は   展落した。さらにり この恐慌は工業部門だけでなく,虚業部門にもおよんだ。  

5fαfβq/−≠加P〟∂J∠−c j巧■邦α邦Cβ(1月α〝,Sα㌢d,ⅩⅩⅩⅤⅠ.1336〜1365 House of Com  mons.Tuly9,1817.) 

点♂紺ゐ粛♂〝∫ア♂/αオ∠紺ムク拍♂薫め仇′〝√♂沼♂ β〝d βゆ紬掬おβ(フ月初那αグーd,ⅩL.   

864〜866.House ofCommons小.June3,1守19l)  

虎rざ0/J 如IJ=(イ〝オナIJg/¢〃八、J>Jイβ〃√J鋸け〃Jぐ 〝JJ〟gて♪川(ブ〃J〃で(J品川5針〟,ⅩL.   

912〜976.House of Commons小June7,1819。) 

忍β細物酌肌=βJαf去〝gねfゐβPα∂Jよc抽馴紺抑♂動押通施β(ヱ助玖Sα㌢d,ⅩL.   

979〜997りHouse of Commons..June8,1819.) 

The Budgei(lHansard,ⅩL.1000〜1031…House o土Commons.June9.1819.).  

5∠7・且 劫′、〝♂J/ 上殿粕漬励∂〝5 タ玖紳助ガg g加点¢わ′・路頭醐励q′摘β劫舶cヱ玩・  

?enditure(1HansaYId,ⅩL…1429〜1438.House ofCommons.Julyl,1819).   

Jトり/.〜′ご‥i・・ト\ト・‥∵、こご ご一−ご・ル/′・‥∴・iご・ノごご・ゾ、 l・f.・ざり.・・・符小・ノ.−・∴一丁′′・・/〃・J′.−・   

sard,ⅩL.1551〜1569小House ofCommons.J111y12,18191.).  

EcoTtOlltJ・a)Ld Rctr(111(h11Z(7)t(2LhzsaId,V1345〜1444.House of ComTnOnき.   

加Tle27,1821.) 

動0〝0沼.γ査■光れ毎P最痛cE.痺抑励如・β(2月お〝ざαγ・d,Ⅴ.1464〜1474.House of    LoIds..Juユy2,1821).  

なお,議事録の註記のしかたは,−般の用例紅したがい,たとえ.ば∴H肌用ゞα㌢■d,ⅩL・   

1429〜1438.は,ハソサ−ド誌事録の第1シ′リ−ズ,寛40巻,1429コラムから1438コラ    ムまでを示す。   ●●●●●●●●●  

(10)「1815年から1821年までは不況。1822年および1823年は好況。1824年には,……・1ユ場   

の一・般的大拡張,1825年に.は恐慌。」(カ−ル・マルクス著,長谷部訳:『−資本論一経済    学批判』青木文庫,1959年,第1部第3分冊,730貢。傍点は原文どおり。)  

(11)1817年の庶屈院において,カニングいわく,「経験した不況(Stagr)ation)の大きな原因   

のひとつは,外国市場が在荷過剰になったという事情である。」(ヱ助乃・ざαγ■♂,ⅩⅩⅩⅤ 

304小 甘ebruary7,1817)   

(6)

19世紀初頭に.おけるイギリス議会の経費論争   −∴招.9−  

149  

その結果,恐慌の影響は深刻であり,ほげしかった○   

しかも,メソデリソン氏によれば恐慌からの脱出ほ困難であった○すなわち  

「1815年恐慌ののちイギリス経済が販路の新しい諸条件に適応する過程は,な   がびき,苦しみにみちたものであった。イギリス商品は輸入禁止(フランス)  

に.あうか,あるいは関税引上げ(アメリカ)にあった○  …・農業の状態ほ.,  

1816年と1817年にほ.不作に.よって価格があがったにもかかわらず,あいかわら  

(12)  

ず悪かった。」1817,1818年においてエ業はややもちなおしほじめた○ しかし,  

1815年恐慌より充分回復しないうちに,ふたたび1818〜19年に1815年恐慌の  

(13)  

「一・種のぶりかえし」の形をとった恐慌的激動がおそってきた0木綿工業にお   ける破産件数ほ,1815年恐慌の最高件数を突破し,毛織物工業の生産高はおよ   そ6分の1低下した。結局,戦後不況は,1822年まで断続的に・継続した○こ・の   ような長期にわたる不況ぁため「平和回復後の最初の数年間は近代イギリス史  

(14)  

におけるもっとも暗いものに属する。」といわれる。そして,やっと1822年の盈   ごろから,エ業は全般的な盛況局面に入ったのである○   

政治の面においてほ,戦争中に・引継ぎ戦後の10年間もトーリー免のり■グァプ   ール(Liverpool,Lord)内閣であった。しかし,リグァプ−ル内閣払おいても  

(15)  

1822年にほ大幅なl魂僚の入替がおこなわれ,そ・の政策は大きく転換した。1812年   に外相の地位につき対フランス戦争を遂行し,戦後の反動政治の−・翼をになっ   たカーPスルレイ(Castlereagh,Viscount)ほ,1822年8月ピストル自殺をした。  

彼にかわって−,対外不干渉と自主外交というこれか  ら登場する自由貿易政策を   象徴する外交政策を展開するカニング(Canning;G・)が登場したo又,労働  

遊動弾圧の張本人であるVドマウス(Sidmouth,Viscount)内相に・かわって,  

(12トエリ・ア・メソデリソン著,飯田・平館他訳‥『恐慌の理論と歴史』背水二i聾店,1960年,   

箆2分冊,85貰。  

(13)同上審,90頁.。  

(用 Buxtom,S.,β♪n ぐ∠ブリp‖9 

(15)この点についてバクストソ氏は「政府の首班ほ.全く同じであった。しかし,政府の外    交,内政,財政政策は根本的に・変わった。」(Buxton,Sり吋・ ≠≠,p…12い)といりてい   

る。吉岡昭彦編著:『イギリス資本主義の磁心』御茶の水書房,1968年,384〜385頁もみ   

よ。   

(7)

寛42巻 第1・2号   150  

−J5∂−  

人道主義的で自由主義的な考えをもつピール(Peel,R.)が登場し,プァンシタ   ート(Vansittart,N.)蔵相に代って一口ビンソン(Robinson,F.)が出てきた。そ・  

して,ノ\スキッソン(Huskisson,W.)が商務院総裁に就任した。ロ 

(1(i)  

相とノ、スキシソン商務院総裁ほ「財政改革のパイオニアたち」であった。そし   て,  この時を契機に.イギリスほ戦時体制を脱却し「その国ほ遂に真の『平時』に・  

なったのみならず,社会における新しい要素】一山貿易上および産業上の一鵬の  

(17)  

登場がますます認められた。」   

つぎに,戦後財政について幣見しよう。イギリスほ1793年に対フランス戦争   に.参戦した結果,1815年の戦争終結までに.約830,000,000ポンドの戦費をつぎ  

こんだ。そのうち230,000,000ポンドほ租税で,残りの600,000,000ポンドは国  

(1き)  

債でまかなった。そのため,戦争が終結して昇ると,あらゆるものが課税の対  

(19)  

象となって重課されると同時紅,国債利払いの経費が歳出の尊分以上をしめる   ということに.なった。さらに,経費水準も参戦前紅くらぺて大幅に膨脹し,財   政難が激化した。   

ところが,1816年の議会ほ.,政府の要望に.もかかわらず,当時の歳入の2割ち   かい14,320,000ポンドの税収入をもたらしていた所得税を廃止してしまった。  

それと同時に戦時麦芽税が農業不況を救済するために廃止された(2,790,000   ポンドの減収)。そのうえさらに.1,000,000ポンド以上のその他の減税がおこ   なわれ,結局,戦争終了直後に.,イギリス財政は約18,000,000ポンドの税収を  

(16)B11ⅩtO罰,S、,〃♪.Cれ,p・17.  

(17)BIiggs,Aい,丁ゐ♂Agβq/J桝♪γの邦明朗切J」7β3〜Jβ67,London,1963‖ p・217・・  

(18)Buxton,S.,0β一Cit..,p・8LfnI・  

朋 戦勝国の栄光のもたらすものがすべてのものにたいする課税であるこ.とを非難して,   

スミス(Sm阜th,Sい)は1820年の『・エディンバラ評論』につぎの有名な文句を記す。「われ    われは栄光を熱愛することの必然的な結果がなにであるかをジョナサン(Jonat王Ian)紀    伝えることができる叫一口紅入り,背をおおい,足軋着けるあらゆるものに税金がかか   

っている。見,聞き,感じ,香ぎ,味わうに楽しいものすぺてに.税金がかかっている。   

光熱と交通に税金がかかっている。地上と地下のすべて,外国から入って来,国内でう    まれるすべてに税金がかかっている。原料に税金がかかっている。小‖い一_l(B11ⅩtOn,Su,   

∂♪いC紘,pい19)又,木村元一・:『朗政学−〔−その問題領域の発展』春秋対,昭和24年,165   

〜166頁を参照せよ。   

(8)

19Ⅷ紀初頭におけるイギリス議会の経費論争   −J5ユー   151  

(20)  

失なった。大幅な減収を補填するために蔵相ほイングランド銀行より9,000,000   ポンドの前借りを求めた。その利払いのために,生活必需品であるということで   これまでの増税のさいに.も回避されてきた石けん税が増税され(150,000ポン  

ドの増収),バタ・一とチー・ズに新しく課税された(100,000ポンドの税収)。さら   に,当時の減債基金制度によって11,000,000ポンドが減債委員会(Commissio・ 

nersfor the Redemption of the NationalDebt)に手渡されなけれほならな  

(21)  

かった。  

、1819年にほ,減債委員会への積立金15,000,000ポンドをつくるために,当時   のイギリス社会をおおっていたきびしい経済不況にもかかわらず,3,000、,000  

ぐ22)  

ポンド余りの増税が提案されたのである。そして,戦後数年問のイギリス財政    第2表 歳出・歳入・減債基金積立金の動向(1816年度〜1825年度)  

歳計剰余   又ほ不足  

粗 収 入】経   費  

∠\20‖4   

△2 0   

△1∫1   1.9   0.6   1.5   3.2   3.5   4.3   4.3  

(出所)助舶行劫朋傲=肌=玖坤痛ゎ〝・βヱ6β8〜ヱβ69(SりPり1868〜1朗9,ⅩⅩⅩⅤ),  

Pa工t,ⅠⅠ.pp..148〜149,286 

(注)(1)金額の単位は100万ポンド0  

(2)年度は1月6日より翌年の1月5日までの期間。  

鋤 Dowe11,S.,A肋ね7・.γβノrαズ・血流用1川滋二n・芳β・S∠〝属乃gJα犯dノ7 の形j摘ゼ・毘のイ♂・Sf    アブ∽gSわ≠加工円β.Sβ〝≠かα.γ,Vol.ⅠⅠり LoIldon,1965いpp.263〜264  佗1)Rees,JFt,OPCitりpp..39〜40 

G22〉 Dowe11,S。,OP・Cit.,pp 265〜267   

(9)

弟42巻 貨1・2号   152  

−・ヱβ2−  

(23)  

ほ,減債基金勘定繰入金を含めて思え.ると,第2表にみるよう紅大幅な財源   不足になやまされたのである。そして「1820年の財源不足ほ公債(loan二)によっ  

(24)  

てカグァ−された。1821年の財源不足もまた公債によってカグァーされた。」と   いうような状態になったのである。   

このような戦後財政の窮状を打破する方向は3つ考えられるが,戦後の数年   間−−−−1822年のリグァプール内閣の閣僚入れ替えまで一川川1せ,いずれの方面に   おいてもほかはかしい改革はおこなわれなかった○   

算1は,財政状況にかかわりなく国債償却のため紅大幅な定恕の減債基金を   観立てるヤ、わゆるピット塾減債基金制度を改めることであった0しかし,1816   年から1823年までは第2図に・みるように毎年14,000,000ポンド〜17,000,000ポ  

ンドが減債基金として一枝立てられたのである。そして,それは財政難のため大   部分公債によってまかなわれた。すなわち,公債を償却するために公債がつか   われたのである。−・般大衆と財政当局ほ,これこそ減債のための兵のやり方で   あると信じていたが,実際はそのような「減嘩基金ほ全く幻想のうえにたって  

(25)  

いたのである。」   

このようなピット型減債基金の改革の第1歩は1823年に着手され,定額減債   基金は大幅に減額されて5,000,000ポンドになった。そして,1829年紅はその  

ようなピット型減債基金は廃止され,自由貿易時代のイギリスの公債償却制度   にふさわしい,剰余金のみを減債基金に.あてる「旧減債基金」制度が発足した   のである。   

第2の方向ほ,税収入の増加をはかって財源難を打喝するということであ   る。しかし,所得税が廃止された以上,間接税のみに.たよるとすると当時それ  

く26)  

の増税は限界に.きていると考えられた。そのため,増収をはかるには逆紅減税   佗3)減債基金積立金ほ,定額減偵基金制度により,歳計剰余がある時にはそれで,歳計剰   

余がない時又ほ不十分な時には−・時借入金によってまかなわれなければならなかった  

(Dowell,S、,〃クい Cよfりp,.265.)。  

伽 ∴抽d..,p.267 

俣5)Buxton,S,0少・d′りp.14 

㈹ 「同時代の−・般的な見解ほ,租和が限界私達したということであった。」(Rees,JF,   

〃少,C∠f。pり40.)   

(10)

19世紀初頭紅おけるイギリス訣会の経費論争   −J5β−  

153  

をする…税率を引下げる 】 必要があった。しかし,1822年の改造内閣まで   のリグァプール政府ほ,減税によって増収をもたら亮うとほ考えなかった。も   らろん,所得税の廃止とピット型減債基金制度のために,減税を実行しようと   してもその財源を捻出する方途がふさがれていた。しかし,バクストン氏に.よ   ればそのような意図もなかった。すなわち「当時の政治家たちほ.,抑圧的な,  

そしてわずらわしい税負担を単に.推持することよりも減税と財政改革が歳入と   国債償還にとってより一層有利であるというヱとをまだ認識してt、なかった◇  

それ故に.,減収となり減債基金に睦接害をおよぼすので,減税をみとめ,財政  

(27)  

改革を実行することが彼らにほ.不可能のよう紅思えた。.」   

このような租税政策を改めて減税こそ増収の道であると悟り,それを意識的   に.実行したのは,1822年に登場したロビンソン蔵相であり,ハスキッソン商   務院総裁であった。たとえば,ロビンソン蔵相は,1826年の庶民院において,  

1816年以降の減税についてくわしく検討し減税をするさいの原則は「高税率の  

課税の賢明な減税が,自然に.課税商品の消費の大幅な増大〔したがって増収を〕  

(28) をもたらす」ということであるとのぺて.いる。そして,彼は「わが財政運営に 

おける指導原則は,この国の名誉と尊厳と安全を守るに必要なしかるべき備え   をすると同時に,あわせて不必要な保護をしかるべくつつしみ,過届な課税を  

(29)  

賢明に/減税することである」と断言する。   

戦後の財政困窮打開の第3の方法ほ経費の削減である。これは,平和到来後   軍事費を中心に漸次おこ.なわれて きた。しかし,経費削減の方針がイギリス議  会において公認され,1830年代中頃までの国家経費の絶対額の低下傾向に.方向   性をあたえたのは1821年であった。その間の事情をつぎにみよう。  

即)Bu幻On,SりゆC紘,ppい14〜15.  

(2瑚 2月α乃.S〃γ・d,ⅩⅠⅤ.1324−.March13.,1826.  

伽)∫占査dり,1333。   

(11)

菟42巻 第1・2号  

−−J54−   154  

ⅠⅠⅠ   

(30)   

国家経費削減の要求ほ.,戦後の財政困窮を背景に1816年に.早くも出て「いる。  

たとえば,グラント(Grant,T.P.)。彼は.,所得税の廃止が決定された2カ月   後の庶民院に・おいて「この国が前代未聞の財政困窮状態にあることほ参らゆる  

l31)  

方面の認めるところである。.」とのべ,歳出入について.の詳細な計鼻をおこない  

(32)  

本年度に.ほ18,000,000ポンドにちかい赤字が出るという。ところが,彼に.よれ   ほ,こ.のような財政難に直面しても政府はそれを増税によってきりぬけようと  

し経費削減をおこ.なおうとしない。そこで「逆説的にみえるかもしれないけれ   ども,このような場合に収支をあわせる最良の通は〔政府に〕貨幣をあたえるこ   とを拒否することである。…・貨幣があたえられれほ,経費の節約は少しも考  

(33)  

慮されない。」グラントほ,経費削減額を明示することはしないがとにかく経費   削減檻よって赤字を解消することを漁猟する。すなわち,「大幅なそ・して,広   範囲の経費節減(retrenchment)以外にほ,極度の財政観窮からわれわれを救   い出しうるものはない。どれはどの経費節約(economy)をおとなうかは本院の   決定するところであろう。しかし,われわれが現在の経費規模を維持してゆく  

(:主11  

ことができないということほ,きわめて疑問の余地のないところである。_Jと断   言する。   

このような痙費削減の要求ほ翌年に.なると一層強く主張された。というの   は,不況が一時的であるという政府の楽観的な見通しにもかかわらず,産業資   本家や地主階級ゐ困窮状態が継続したからであるノ。白地ともに許す野党ホイッ   グ党の指導者ティアニイ(Tierney,G.)は,不況ほ−L時的であるという政府の見   解に反論し「もしそうであるなら,このように長く続くrL時的不況は決して存  

(3功 そして,野党ホイッグ党は経費削減を政府攻撃の好崩料として用いた(Shebab,Fり    Pγ〃gγβぶ5よ〝βTα.那加0柁,Aぶf〝d.γ玩寸如上加減旬油粕扉 f〃z♂PγOg7β−S扇研タfヤ■よ鋸硬磁    よ〝Jゐ♂劫・∠れ浦上知∂朋♂r如,0ⅩfoId,1953.pp.61〜62.う〔  

抑 ヱ月滋〝.Sαγd,ⅩⅩⅩⅠⅤ.972いMay31,1816 

(3笥」沌柑..,974へ■979.同様なことはボンソソビ−(Po¶SOnby,G・・)ものぺている(′∂∠d.,   

994.′)。  

髄)J勃♂り981 

(弛〃拍.,972〜973 

(12)

19但紀初頭に.おけるイギリス議会の経費論争   −お5−  

155  

在しない。そして,非常に驚くべきこと把,それが日々悪化しているというこ  

(泌)  

とである。.」とのぺる。   

そして.,1817年には,所得税の廃止に.伴う減収が確実となり,不況による間   接税収入の減収が発生し財政難はますます明瞭に.なった。そこ.でホイッグ党の   巨頭であり,前年の所得税廃止賛成の急先鋒であったブルーアム(BrOugbam,  

H・B・)ほ,「われわれほ今や未曽有の財政窮迫状態におちいっており,今年   ほ収支をあわせるのがはとんど不可能である。そして,われわれほたえざる,  

しかも急速な歳入減少の見通しをもっている。もしこのままで彼ら〔政府〕がゆ  

(36)  

くならば,彼らほどんなにしても収支をあわせることができないであろう。」と   現状を判断する0そ・して,彼は,この財政困窮を切りぬける唯一・の方法が「こ  

(37)  

の国の国家定員(establishments)を切下げること(Cuttingdown)」であるとし  

(3S〉  

て,軍事定員の縮少,高級官吏・王室費の減額を要求する。また,のちに.『財   政改革論』を著したパ−ネル(Parnell,H.B.)は,現在の財政窮乏の原因が戦時   中の放漫財政に.あるにもかかわらず政府ほその原因を取除くような経費削減の   努力をしてV、ないと政府を非難してつぎのように.のべる。「彼ら〔政府〕は,歳   入と歳出を均衡させる必要性を認める。しかし,それを英行する彼らのやり方   ほ,歳出規模の水準に歳入をあわせることである。彼らほ,破滅から国を救い   出しうる唯一・の方法血それほ歳入の水準まで歳出を引下げること−もとら   ず,すべての国家部門において■経費節減(economy and retr・enChment)の非  

r39) 常に厳しい体制をつくり出すための厳格な政策をとることもしない。」   

野党の経費削減要求にたいしてほ山部の与党議員も賛成する。たとえば,の   ちに農業不況調査特別委員会(1821年)の委員長をつとめることに.なるグーチ  

(Gooch,T.S.)は「私自身経費節約(economy)を強く主張するものであり,  

野見の尊敬する紳士と同様の確信をもってそれが大いに.,そして早速におこな  

(35=月β乃Sβγd,ⅩⅩⅩⅤⅠ1339..Tuly9,1飢7.  

(36)(37)∫ガα〝ざα7・d,ⅩⅩⅩⅤ.295りFebI・uaI■y7,1817  伽=徹侵.,296〜297 

(39)ヱガ勿得のd,ⅩⅩⅩⅤⅠ.1355.July9,1817 

(13)

第42巻 滞1・2号  

〜ヱ56一・・   156  

(40)  

まっれなけれほならない。」とのべている。   

以上のような与・野兇の経費削減要求に対処するため,リグァプール政府の   外相でほ.あったが,レドマウス内相が員族院に移ったのちほ.村政に関しても政  

(41)  

府の「代弁人」となったカースルレイが歳出歳入委員会設置の動議を提出した。  

彼は「ほじめて−申しあげるのであるが,適正な経費規模のなんたるかを,そし   て平時軋関する適正な財政運営のなんたるかをわれわれが考える暗が今やき  

(42) た」とのペ,経費削減が平和時の財政準則として必要であることを示唆する。  

ずなわち「経費が収入の水準のみならず,その水準以下砿削減され(Ⅰ・educe)な   いならば,どのような国も,そしてとくに.この国に.現在のしかかっているはど   の国債の累積をもった国は,確固たるそして安全な基礎のうえにおかれた平時   の繁栄を考えることができないということを明々白々な格率として私がおく   時,本院ほ私に.賛成してついてきて−くれるものと確偏している。これこそは,  

(4∂)  

意図している大目的が達成される唯一・の方法である。」そレて,外相ほて.の考え  

(44)  

を具体化した動議を提出し,そし七可決された。   

しかし,注意しなけれはならないことほ,カL−スルレイ外相の動議が政府の  

統一した見解をもりこんだものとほいいがたく,野先の攻勢をかわし世論を慰  

撫しようとする色彩のこいものであったということである。すなわら蔵相をは   じめとする2,3の他の閣僚は不況ないし,財政難紅たいして楽観的な見通しを   もっており,その点においてカースルレイ外相とほ.ことなっていた。1816年の   ことであるが,蔵相プァン1/タートほ,今後の財政運営のプランを示せとせま   ったグラントに対して,今後平和が継続すれば経費削減が寒地され,国債償還   

(4功 上月〃乃∫αγd,ⅩⅩⅩⅤい307.Feb工uaI−y7,1817・  

姐)才力♂∂∠−β〜∠〃〝♂γ.γ¢/〃α≠∠の鋸げ」軌■クg7 ゆ妬 Vol‖ⅩVlII.p1242,′  

姐㈹・ム肋捌脚吼ⅩⅩⅩⅤ.253いFebrualy7,1817.  

㈱ か−スルレイの動議ほつぎのとおり。「特別委員会は,1817年1月5日に糸了する年度    の連合王国の歳出・歳入を調査し報告すること,そしてまた1飢8年1月5日および1819    年1月5日紅終了する年度のそれぞれの見込の歳出・歳入(現在それらが推測される限   

りにおいて)について考察し報告すること,そしてそれらを委員会の見解を付して本院   

に報告すること,そしてまた公共の利益をそこ尤わずに上述の歳出のどの部分かを削減   

して国の負担を軽くする把.はどのような方策がとられうるかについて検討することのた   

めに任命される。」(J∂∠d・,272)   

(14)

19世紀初頭紅おけるイギリス議会の経費論争   −ヱ57−  

157,  

もすす魂財政難ほ解消するとのぺ,グラントの予想ほ.あたらないという。すな   わち「この国ほ,破産してしまうというこれらの数々め予測紅もかかわらず年   々その窮状をのりこ.えてきており,結局その大きな戦いに.おいて勝利するであ   ろう。そして,私ほ,尊敬し学識のある紳士〔グラント〕の予言が彼の先輩たち   のそれと同様軋少しも根拠のないものであることを経験が示すであろうと信じ  

(45)  

ている。.」この点ほ,当時森林大臣をつとめ,1815年の穀物法の議会通過にあた   って重要な役割をほた′したハスキッソンも同様である。彼ほ,工業の主要部門   が不況から脱出しており国家歳入も回復する紅ちがいないとのべ,「この国の  

し4tll  

状況についての暗い見通しはいだかれるべきではない。」「もれわれが以前の繁   栄状態把=まもなく役帰するであろうという楽観的な見解をもってもいいと断言  

(47)  

する。」といっている。また,当時インド監督局総裁をつとめていたカニングは,  

カ−スルレイ提案の特別委員会設露の効果に疑問を表明し,「多分その〔委員  

(48)  

会の〕作業からほあまりたいした救済ほ期待できないであろう。」という。   

かくして−,歳出歳入委員会が設置されたが,政府ほ本気で経費削減に取組む   心積りほなかったという羊とが明らかに・なる○ このことを裏付けるかのよう   に,政府は1819年に前節でふれたように不況に.もかかわらず3,190,000ポンド   の増税を提案し,ホイッグ党および急進派のほげしい批判をあびる、のである。  

王Ⅴ  

グァン1/タート蔵相は,1819年6月の庶民院において,5,000,000ボンドの  

(49)  

「確たる減債基金」をもって公信用を回復し,国債の漸次的削減をすることが  

極5)J月〃乃,Sα㌢d,ⅩⅩⅩⅠⅤ.990.May31,1816.彼は1817年にも「政府提案の財政方式が    推持されるならば,この国の将来性についても公依の償却についても,あるいはその年    の支出をまかなう財源についても現在は問題がないということを・1ノ・…私はちゅうちょす    ることなく申しあげる〔謹聴,謹聴/〕。」(ヱ助〝∫αγd,ⅩⅩⅩⅤⅠ.1352.July9,1817.)と    いっている。  

伍㊥ ∫∂摘.,1363  肌)J朗d.,1364.  

(48=月α〝Sαγ・d,ⅩⅩⅩⅤり299.Feb工■uary7,1817.  

(姻.‖翫制御・♂,ⅩL.915.J11ne7,1819,   

(15)

葦42巻 寛1・2号   158  

−J∂β−  

(∂0)  

ぜひとも必要であるという理由で,3,190,000ポンドの増税を提案した。蔵相   に.よれば,本年度ほ1,981,000ポンドの余剰金が出るものと見積ちれている   が、,それだけの余剰金でほ公債所有者にたいして公債の償還を現実に・おこなう   という約束をすることはできにくい。さらに,国の安全と名誉を保つために− 

戦を交えなけれほならなくなった場合には,それ位の小額の余剰金では財源的  

(51)  

に個窮することに.なる。かくして,どうしても増税が必要であるという0    このような政府の増税提案にたいしで野党ははげしく反対する0その中心的   理由ほ,今日イギリスがきびしい不況下にあり,その増税にはとうてし、耐えら   れないということであった。ブルーーアムほ「農業関係者と工業関係者の窮乏が  

($2)  

非常に深刻であるということほ本院のすぺての者の認めるところである。」との   べ,「かかる税を賦課するために選ばれた今日はどの不適当な時期ほ.この国の  

(53)  

歴史のいかなる時代においても存在しない。」と断ずる。また,ティアニイほ,政   府の増税提案は痍乏を訴える請願者たちにたいして「唯一・の健全な救済策は諸  

(54)  

君に更に税金を課することである。.」と返答するよ.うなものであり,それは「全  

(55)  

国民にたいする侮辱以外のな紅ものでもない。.」とはげしく政府を非難する。さ   らに,スカ−レット(Scarlett,J.)ほ,不況下に3,000,000ポンド余りの増税を   するのほは.なほだ解せないとし「産業を圧迫せずに租税ほ徴収されえない○そ  

して,私が今までに聞∇、た〔景気〕回復のあらゆノる方怯のうちで,′増税はもっと  

(醐 そ・の内訳はつぎのとおりである(′∂揖.,923.)。  

外国産羊毛にたいする  

増税20万ポンドを含む関税   500,000ボンド  

1;400,000ポンド   500,000ポンド   500,000ポンド   130,000ポンド   130,000ポンド   国内産アルコ・−ル飲料  

コ・−ヒt−とココア  

30,000ポンド   3,190,000ポンド   合  計  

伍11∫∂∠dり918 

離)J鋸d.,951‖同様のことはティアニイも指摘する(J∂jdい,933.)。  

(53)乃査d,954 

錮脚〃舶.,933 

(16)

19坦紀初頭におけるイギリス議会の経費論争   一乃9−  

159  

(56)  

も訳のわからないものである。」と批判する。   

増税に.反対する野免ほ,減債基金のための余剰金をつくるのであればなに.よ   りも経費削減を実行せよと政府に∴せまる。ティアニイほ,「彼ら〔政府〕があらゆ   る分野において国家の安全と一激する限度まですべての国家定員(establish・  

ment)を削減し(reduce)たというこ享を示すまでは,ピタ−・文といえども増税  

(る7)  

をする権利をもたない。.」ときぴしく主張する。また,急進派の指導者の1人で   あるハーグィ(HaI・Vey,D.W.)ほ「現在ほ国東の負担を増大するような時では.  

ない。もし減債基金を増額するこ.とが必蟄であるなら,国の経費を削減するこ  

(58)  

と(Ⅰeducing)に.よってそれをおこな え。」とのべ,経費削減が実行されるまであ   らゆる増税提案に反対すると宣言する。   

そして,具体的な経費削減項目としてほまず第1に軍事費があげられる○テ   ィアニイは,陸軍が「国家の安全とコンステイテ.ユ.−ショソの安全の双方にと  

(59)  

ってあまりにも大きすぎる」とのぺ,国の安全を十分に守る範囲内でも年1,00   0,000ポンドの削減が可能であるという0また,急進派のと.ユ−・ムほ,人民の   窮乏にもかかわらず軍事熱が高まっているとし緋の服と金モールで飾りたてた   部隊の街頭行進を非難して,「金モーリレと礼服はイギリスの名声になにもつけ  

(60)  

加えない。」ときびしく断ずる。また,軍事費に関連して植民地経費の削減も指  

(61)  

摘されている。経費削減の第2の項目は徴税贋である。大幅な経費削減が世論  

(56)∫∂査d,967.  

67)J凝♂.,934い  

(5扮 j職dり987,.June8,1飢9けただし,急進派もホイッグ党も,バクストソ氏が幻想のう    えにたった減横基金と評した当時の減依基金には反対していない。たとえば急進派のヒ    ュ・−・ムは「私は,500万ポンドーーあるいは,さらに.増額して−800万ポンド鵬を減債基    金に.充当する妥当性についてほ全く賛成である。しかし,私は,この国の現在のような不    況状態紅おいて300万ポンドを課税すること紅は全く反対である。」(∫∂ダd・,986.)とのぺ    る。また,ホイッグ党のデイアニイほ「減債基金の額を500万ポンドに増額するため紅増    税をおこなうのが必要でない…‥・と私は現在いうもりはない。」(J∂よd・,932.June7,   

1819.)とのべ,減債基金そのものは認める。その他に,マーティン(MaI・tin,SiI−で.   

B,)(J肋死ぶαデー♂,ⅩL.1お9..Tulyl,1819.),グラント(ヱ月〃乃.Sαγd,ⅩL.994.  

.Tune8,1819)も同様の発言をしている。  

伽)ヱ月滋乃・ゞαγd,ⅩL935...Tune7,1819.  

(醐 ′∂∠♂り986。.June8,1819.  

酎)ノ勃d.,984.;J∂∠dり936いJ11ne7,1819..   

(17)

籍42巻 箆1・2号   160   ーJ6β−  

であるというブルーアムは,「一散税の多くの官庁ははとんど不用であり,それ   らほ廃止されうるであろう。そうしない時には,仕事の豊を増加するという  

(82)  

方法において節約(saving)が実行されうるであろう。」という○また,パーネル  

(63)  

ほ,徴税行政が昔のままで「冗長で浪費的」であるとのべ,関税部門において  

(64)  

は−・時間もかかるほずのない仕事に1人が1日を賛してル、ると指摘する○第3   に.ほ,王室費の削減が要求される。たとえば,ヒ.コ.−ムは「地位が高ければ高  

(65)  

いはど,その地位にいる者はその他の者に範を示す義務が一層多くある。」との   べ,1,200,000〜900,000ポンドの王室費の削減はただちに・出来るという○   

以上のようなホイッグ党および急進派の要求に.たいして,政府はそれを不可   能とする。蔵相ほ,さきの増税提案において,徴税費の節約についてほ考慮し  

て−いるが軍事費について−は大幅な削減が不可瀧という○す額わちト刷われわ   れは,この国の恒久的な平時軍事定員(peace establishment)と正当に考えら   れる水準に.達した。この項目において更に大幅な削減(reduction)がおこなわ  

(66)  

れうるということほ考えられない。」また,カニソグは,徴税費の削減によって  

もが期待しているはどの剰余金の捻出ほできないとし,「経費の削減(reduction)  

の政府さまざまな方策が論議されたけれども,野党の紳士諸君によってな挙れ   た経費節減(retrenchment)提案のどれも,1,000,000ポンドに・はとんど近いも  

(67)  

のほみることができなかった。」という。   

政府ほ,野党の要求する経費削減がたいした効果をうまないとのぺると同時   に,減債基金の増額の重要性を説く。ハスキッソンは,フランス,プロシヤ,  

陥功Jみ摘.,955.  

脚」抽−dり981.June8,1飢9.  

(紬 パーネルは,同年7月紅民事・軍事の全行政部内における行政機構の改革の動議を提    案している(ヱ助邦5αγd,ⅩL.1429〜1438.Julyl,1819.;J∂柑.,1551〜1569−・J111y   12,1819.)。その動議のうちのひとつをあげると,徴税行政については「簡明な商人の会   

計方式がすべての部局で確立され,省の規則および歳入法規が単純化されるならば,そ    のような改革は徴税費を大幅に削減することに.なるであろう。」(J∂よd.,1431〜1432一っと    のべている。  

脚.相加購摘,ⅩL..985巾June8,1819∩この点はパ−ネルも同株である(J∂よ−d.,981・)。  

(66)′∂摘.,924..June7,1819.  

仰.抽玖,972.   

(18)

19世紀初頭に.おけるイギリス議会の経饗論争   −ヱ6J−・  

161  

ロシア,カ・−・ストリアなどの列強にまけ・ないだけの減債基金をもって国債償還   をおこない将来にそなえる必要があることを強調する。すなわち「もし不幸に  

してわが利益の守護又はわが名誉の提言のために.−・戦をまじえなければならな   くなった場合,戦闘を強力にそして勝利するよ.うにおこなうための最良の準備   として,平和時に今後の負担軽減の努力をするのがわれわれの義務であり政策  

(68)  

であります。」又,カースルレイ外相は,対フランス戦争による国債負担を遅滞   なく適当な水準まで削減しなければならないとのべ,「蔵相の提案は,単に・公   債所有者に便宜を与えることを意図したものではない。そ・れほ,国民全体−−一   彼等ほ.公債が削減されるまでは安心できないであろうー【に利益をもた、らすぼ  

(89) ずである。」と主張する。  

く70)   (71)   

このように反論する政府の増税動議にたいし,野党側ほ経費削減の修正動議   を提出した。しかし,採決の結果,政府原案が186票対76票で可決された0そ  

して,政府の増税はすべての税目において可決された。したがって,1819年に   は,野党側が全面的に敗北したといえよう。  

V   

1821年は,戦後の経費論争史における画期をなす。というのは,この年に,  

これまで政府と野党との間でおこなわれてきた経費削減論争に・決着がつけら   れ,ホイッグ党および急進派の経喪削減要求が庶民院と員族院において事実上  

燈8)∫∂∠dり961〜粥2.  

醐 一拍玖,943.  

Ⅳα 政府の300万ポンドの増税動議はつぎのとおり。「公務の難局に対処し,公信用を充分    に支える位の国債の漸次的な償還を実行し,そして,〔国儀の〕現在の負担の一一部を今後    軽減するという見通しを国民に与えるために,支出をこえる国家収入の明確な余剰金,   

すくなくとも5,000,000ポンドの余剰金の存在することがぜひ必要であるとと、うこと,   

そして,この重要な目的を達成するために年3,000,000ボンドの租税の戚課によって国    家収入を増加させることが正当であるということ。」(J∂紘,9れJune8,1819・)  

貯1)野党側の修正動議はリドリィ(Ridley,SirM∴W.)に・よっで提出されたつぎのよう    なもの。「国債の償却のために充当される見積り余剰金のために,今日,すなわち現在の   

ようなこの国の困窮状態のもとで,そして−,あらゆる実行しうる経費節減(ⅠetI■enCh−   

ment)が国家経費において実施されるまでは,新税の戚課に.よって人民の負担を増加す   

ることほ不適当である。」(Jみ∠♂.,991り)   

(19)

−ヱ62−   第42巻 寛1・2号   162  

認められたからである。   

まず庶民院払おけるその経緯からみよう○この年における庶民院の経軒別滅  

(72)  

派の立役者ほ,1812年に議会に入って以来30年間「急進派の指導者」といわれ,  

財政問題に精通していたと,コ.−ム議員であった。彼の経費削減演説は戦後の経   費削減論争のなかでもっともすぐれたものであり,それまでの経費削減論を総   括すると同時虹そ・の後の急進派の経費削減論の原型をなすものといえる。ゃや   詳しくと一ユ.−・ムの演説をみよう。   

ヒュームの経費削減論の根底に.は,これまでの経費削減論者と同様にイギリ   ス社会全体をおおっている深刻な戦後不況というものがある。いわく「虚業関   係者,貿易関係者および製造業者がひとしく困窮しているということがほっき   りと私の念頭にある。農家の不況ほはとんど前例のないほどのものといわれて  いる。ユ米資本も少なくない損害をこうむった。あらゆる貿易取引は,それを営  

(73)  

むことを面白くさせるはどの利益をはとんどうまなくなっている。」そして,彼   ほ,このような不況を救済するために経費を削減し,そのことによって生じた   余裕財源を使って減税をする必要が卒ることを力説する。つづけていわく「一山   私ほ,〔不況からのl〕救済がこの国の経費を削減し(reducing),そして公租公課  

(74)  

を軽減すること紅よってのみ与えられるという見解である。」またいわく「かな   り大幅な経費節約(economy)こそが不況を除去し公信用をささえるために必   要である。減税のみが効果的な不況回復をおこない国家信用をささえるであ  

(75)  

ろう。」そして,このような認識こそがこれまでの論者とこ.となる点である。こ    れまでの論者も,経費削減に.よって−不況にくるしむ人民の租税負担の軽減をし  

ようということを考えてはいたが,その主たる論点は浪費的な経費を削減する   こと紅そそがれ(1819年7月のパーネルの経費削減動議がその代表例である),  

この時のと.ユ.1−ムのように経費削減を不鱒回復のための減税に朋確に結びつけ   たものはみられなかった。  

打切 rカββ才ぐ′ど0乃αγ\γ〆〟αfま∂乃αJβ∠∂gγ−α抽γ,Vol.X.pい230.  

㈹桐)2∬弼.ゞαγ・d,Ⅴ1345..June27,1821.  

㈹」恨ん1416−,   

(20)

19亡巨紀初頭におけるイギリス議会の経費論争   −ヱ63−−   

163  

不況回復−→減税−→経費削減という基本的観局を提示したのち,ヒ・ユー・ム   ほ具体的な経費削減と減税を提案する。彼ほまず経費削減の基準年を決める○  

それほ,第1に1817年の財政委員会がそうしたという理由で,第2軋必要とす   る国家定員(establishments)がその時点と今日とでほはとんど変化がないとい  

しこい  

う判断に.よって1792年が選ばれ,その時と1821年との比較検討が主としておこ   なわれる。  

(77)   

ヒ.ユ.−・・ムは,「■公共サーヴィスのどの部門の効率をもそ・こなわずに」,4,000,  

000ポンドの経費削減が実行できるという。筍1に.国債費に.ついて。彼ほ,国債   費が1792年の9,577,972ポンドから1821年の31,252,612ポンドに・大幅に・増加し   たことを指摘し,「・‥…それだけによ.っても,財源を枯渇させないようにして   国が△偵所葡者ゐ信頼を維持するために.ほわが国家定員(establishments)の大  

(78)  

暇な削減(reduction)が必要であるということがはっきりするであろう。」との   べる。しかし,国債費についてほこれ以上に/言及して.し、ない○   

寛2に/軍事費に.ついて。軍事費(陸・海軍費,軍需品費)ほ1792年の4,760,69   4ポンドより1820年の16,715,408ポンドへと増加しその鹿加額が11,954,714ポ  

ンドになること,1821年の軍事費が1820年を除き1817年以降の平和回復後の軍   事費のなかで最大であることを指摘し,政府ほ口では大いに・経費の節約をいう   が実行していないと非賂する。そして,陸軍費についてほ近衛兵10,000人と植   民地駐屯軍10,000人の削減に.よる753,955ポンドの経費削減をはじめとして第  

3表のような経費削減を提案する。海軍費についても,それが1792年の1,985,  

428ポンドより1821年の6,382,786ポンドへと4,397,358ポンドも増加したこ   と,そして海軍費も1817年以降平和になったに.もかかわらずはとんど変化して  いないことが指摘される。そして「就役申の戦艦がはとんどなく任務に.ついて   いる水兵もわずか14,000人であるような平時に.おいて,国がその部門〔海軍〕の   ため紅大規模な費用を支出しつづけるぺきかどうかを本院は考えるぺきであ  

㈹ j削れ1346.  

椚)′∂さd.,1351.  

㈹.抽玖,1357.   

(21)

籍42巻 寛1・2号    算3表 ヒ.コ.−ムの経費削減提案  

164   一丁6J−  

l経費削減凱)  

経 費 削 減 項 目    1.植民地駐屯軍と近衛兵(20,000名の削減)  

2‖同上に伴う陸軍特別手当  

3.95連隊(650名編成)を75連隊(800名編成)に削減   41同上に伴う兵舎(イングランド)  

5.同上に伴う兵舎(アイルランド)  

6.同上に伴う兵端(イングランド,アイルランド)  

7.グレイいブリテンと植民地の陸軍参謀俸給   8い アイルランドの陸軍参謀俸給  

9.陸軍最高司令官俸給   10.陸軍省費   11..高級副官俸給  

12.同上(スコットランド)  

13.主計総監俸給   14.同上(スコットランド)  

15.陸軍法務総監俸給   16.同上(スコットランド)  

17軍政本部長俸給   18.−軍医俸給  

19.アイルランド軍管区  

20小窓原兵および義勇農騎兵費(イングランド)  

21.同上(アイルランド)  

22…陸軍士官学校蟄  

2畠,陸軍士官学校収容所(阜Syl11m)費   24..退職給在外支給事務費  

25∴海外およか国内の守備隊費   26.新兵徴募費  

27.古参の大隊士官俸給   28.陸軍病院費   29…退役手当  

753,955   300,000   211,000   80,000   40,000   115,000   10,943   

6;538    4,000   10,000   

1,500   351    1,500   622    2,180   650    4,600    2,200    3,500    20,000    9,000    7,244   12,000   

2,025   12,440    20,000   18,870   10,000   

8,000   計   】1,668,118(2)   

1小定給  

2,、建艦費  

3..ドック費  

(22)

19世紀初頭に.おけるイギリス議会の経費論争   −ヱ6∂−  

1…クワ−とクエストミンスターの要塞費   2…経費  

3−臨時費  

15,818(4)  

139,191   77,500   釘   】 232,509t5)  

∫  

毒  250,000  

【   

計   250,000   雑1.雑費  

費1 ̄ ̄ ̄  

岳1・050,000  

計+ 1,050,000  

】  

討   】4,359,170㈲   

(出所) 2ガα乃ざα㌢・d,Ⅴ.1413〜1416.June27,1821.   

(再三)(1)経蘭削減額の単位はポンド。  

(2)小計ほ原表では,1,663,127ポンドである。誤りと思われるので訂正した。  

(3j/J\計ほ原義でほ,1,108,543ポンドである。誤りと思われるのでi汀正した。  

(4)この数字は原表では脱落。  

(5)小計は原表では,216,691ポンドである。誤りと思われるので訂正した。  

(6)総計は原表では,I4,288,361ポンドである。誤りと思われるので訂正した。   

(79)  

る。」とのべ,彼の海軍費にたいする基本的な考え方を表明する。すなわち,彼   ほ,「能率の高い海軍力をもつこ.とほ非常把.大切である。しかし,国の財政が   許す以上の,あるいぼわれわれと−・戦をまじえそうな軍勢以上の軍艦をもつと 

(80〉  

とほ浪費であると私にほ思われる。」そして,1792年と1821年の戦艦数を比較し   それが2倍になっていることを指摘して,「われわれは軍艦をつくりすぎてい  

(81)  

る。」<訃−ク(Yorke,SirJ・)>という主張に賀意を表する○そして,第3表の   ような海軍費の削減を提案する。   

第3に徴税費について0それほ,6700万ポンドの税収入のうちで4,365,000  

ボンド紅蓮する。ヒ,ユ.−ムほ,徴税方法の改善によって1,050,000ポンドの節   約ができるという。  

仔9)∫々査d..,1383い  

(80)∫∂よdリ1387い  

(組〃記一,1392〜1417.   

(23)

発42巻 算1・2弓   166   

■鵬J66−・  

かくして,第3表のように4,359,170ポンドの経費が削減されうる○そうす   ると,石けん,峻燭,なめし皮および塩のように徴税費を多く要し,勤労階級   を圧迫している租税の減税が可能となる。それらの減税額は3,715,428ポンド  

となり,人民に.とって大きな利益となる。そして,ヒ.ユ.−ムほ減税によっで人   民を富裕にするこ.とこそ政府の安定に資するものであることを強調する0すな   わち「人民のポケット紅残される貨幣が多ければ多いはど,政府ほますます強  

力に掌り公信用ほ安定するであろうこ・とを私は付言する〔謹聴,謹聴・/一〕0人民  

の〔租税〕負担を軽くしようとする政府においてほ,消費税および関税の徴収官  

(82)  

の半分,現在いる軍隊の半分で十分であろう〔謹聴,謹聴/〕。」そして,産業資   本の利害を代弁すると.コ.−ムは,地主儀員にむかい経費削減を支持するよう呼   びかけ「もし彼ら〔地主議長〕がそのような濫費を支持しつづけるならば,借地   農および地主,彼らの速挙区民は彼らの困窮状況から救われることを決してあ  

(83)  

てにしてはいけない。」という。巌後に,やんやとほやされるなかでヒュームほ,  

(84)  

徴税費をふくむ行政費と軍事費の削減をめぎす決議案を提出した0   

以上のようなヒェームの決議案軋たいしては多くの者が賛成する○ たとえ   ば,ティッチフィーI)Vド(Titchfield,Marquisof)は「われわれを救い,われ   われに蟄の救済をあたえるために.ほ,われわれほ数10万ポンドでほなく数100   万ポンドを削減(cut off)しなければならない。そして−,そのような減額′(dト   minution)ほ,軍隊の縮少によってのみ実現することができる○現在のような  

(82)J∂紘,1416.  

(83)Jみ∠♂,1382い  

恰亜 決議案はつぎのとおりである。「いくつかの歳入部門の運営と徴税についての方法およ    び経費紅関して詳細な調査がおこなわれるべきであるということ,すべての俸給,とく   

紅そのうちでも通貨価値の増大と国の園窮状況に関連して調整されるために1797年以降    引上げられたものについて注意ぶかい改訂がおこなわれるべきであるということ,公共    の利益をそこなわずにあらゆる経費削減(Red11Ction)が,とくに軍事定員とその常設編    成(Establishments)においておこなわれるようにIこの国の歳出とそれに関するすべ    ての行政部門について厳しい監督がおこなわれるぺきであるということ,これらのこと   

を国民の租税負担の−・由を軽減するという意図で国王陛下が慈悲ぶかくも指示されんこ   

とをおそれおおくも願いあげるためiこ国王陛下にたいする勅語奉答文が提出されるべき   

である。」(J∂査d,1417‖一)   

参照

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