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こぺる No.211(2010)

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旧日(毎月1回25日発行)ISSN凹194843

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こべる刊行会

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座談 会 生き方を学んできた 一尼崎・ボランティアグループ 「園」の22年 記憶の旅から明日へー写真と文 小林 茂

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写 真 と 文 小 林 茂 ヤンバン 「現在のマダン劇では、単なる両班への風刺にとどまらず、強大国の開発途 上国への圧力や収奪、また、軍事独裁への警鐘ともなる「寓話」を作り出して いますj 一一マダンの宴「ソウル・マルトゥギ

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(1984年、西部講堂) 韓国の 1980年代は民主化運動と弾圧の時代だったO韓国に留学して逮捕された同志社大 生の救援に使う写真撮影のために、年老いた父と弟とともに、私は韓国に渡ったO 光州事 件の翌82年である。酷寒の刑務所。面会が叶うどころか、自の前を鉄格子の移送車が走り 去った。 84年、「韓日フェステイパル

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が京都で開かれた。映画も演劇も交流が難しい時代だった。 イ ジャンホ 映画は、李長鏑監督の「風吹く良き日J(80年)。私が初めて見た韓国映画である。オリン ピックに向け開発が進むソウル。田舎から出てきた 3人の若者たちの苦悩と躍動感。鮮烈 だった。 演劇は、仮面を使った韓国伝統のマダン(広場)劇。地主の両班の下僕であるマルトゥ ギが大活躍する。ドラやタイコが打ち鳴らされ、韓国の役者も日本人も踊りながら登場。 テョンドゥファン 祭儀が始まった。皆の胸が震えた。全斗;換軍事政権下、韓国の劇団員が来日できるかどう か、開催ぎりぎりまで分からなかったのだ。

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生き方を学んできた

ー尼崎・ボランティアグループ﹁園﹂の二二年 園田苑設立にむけて 藤田敬一特別養護老人ホ l ム園田苑のボランティアグ そ の ル

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プ﹁園﹂の総会に招かれたのはこ

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二年五月でし た。そして今年の一月にも。いい出会いとつながりにな りましたね。ところで﹁園﹂はこの一

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月 で 設 立 二 一 一 年 とか。ここまで続けてこられた秘密は何なのか、ぜひお 聞きしたいと思ってました。最初に中村大蔵さんから園 田苑の成り立ちについて話してもらえますか。 中村大蔵いま尼崎市には特養が一七ありますが、園田 苑は二番目、八八年にできました。八六年くらいから、 この法人の母体である阪神医療生活協同組合で、これか ら迎えるであろう高齢社会について何らかの動きが必要 ではないか、ということで、誰しも特養ホ l ムを、と考 えました。だけどどのようなものをつくるかについて、 け ん け ん が く が く 賠一喧誇詩。みなさん口は達者ですから、言いたい放題、 好き放題しゃべってました。八七年くらいですかね、そ ろそろ誰が責任者になるかを決めなければという話にな じ よ う ぜ つ ったとき、あれほど鏡舌だったみなさんが見事に黙っ てしまった。私も黙りました。できるものなら避けて通 りたい、ということでしたね。 しかし、沈黙に耐えられない、おっちょこちょいの私 が、﹁やる﹂と言った。そのとき、二二名のメンバーの うち特養に足を踏み入れた経験があるのは、私一人だっ お ャ っ せ い たんです。それも私が好奇心旺盛だったからだけで、別 に特養をつくろうと思っていたわけではなく老人福祉に の ぞ 関心があったからでもない。まあ、いっぺん覗いてみる か つ て な も ん で 。 藤 田 そ れ は ど こ ? こベる 1

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中村兵庫県と神奈川県のホ

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ム。印象は、限りなくマ イ ナ ー だ っ た 。 藤田マイナーって? 中村暗い。特に兵庫の施設長から出る言葉は家族に対 する不平不満ばっかし。それに覇気がない。全国的にも ひ っ そ く そうだつたんでしょうが、老人ホ

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ム の イ メ ー ジ は 逼 塞 。 へ い そ く 閉塞しているというような感じで。私はもっと﹁荒野﹂ を走りまわりたいという気持ちがありまして、はじめの 約束では二年間だったんです。それが定年まできてしま の った。この三月で苑長を退き、社会福祉法人阪神共同福 祉会の理事長になりました。 老人ホ l ムは地域に聞かれたものでないといけない、 通過機関だと考えていました。できるだけ早く家庭に、 あるいは地域に戻ることができるような老人ホ

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ム と い うことを、みんな言うてました。だけど尼崎で最初にで きた喜楽苑の人に﹁アホな。そんなことできるはずがな い わ ﹂ っ て 言 わ れ た 。 そして私も阪神医療生協の人間も当時は、これは当然、 行政がやるべきものを我々が代わってやるんだから、行 政の補助金があって、ものが建って、運営もさほど難し くなかろうと思ったのが間違いのもとだった。園田苑を つくるためには、公的機関から八六

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万円ほど金を借 りたんです。それに二四時間施設は行政の規制もきつい一 ふ ろ し き し、お金も桁が違います。だから、風日敷に書類を包ん一 で、県庁の横に下宿してればよかったと思うくらい、県一 庁に日参しました。そして色々と注文がついても、とに一 かくハンコをもらうまでグッと我慢に我慢を重ね、ゃっ一 と 八 八 年 一

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月一一一日の入居までこぎつけました。一 合計一億円以上の借金を抱えましたけれども、阪神医一 療生協の組合員からの寄付はもちろんですが、医療生協一 の役員、支部員をあげてほとんど毎日曜日、﹁お金をく一 ださい﹂と各戸をまわった。一口五

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円。一口の方も一 おられましたけど、圧倒的多数の方は一二口、四口、五口、一 一

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口というような感じで寄付をくださいました。それ一 が大体三

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万 円 く ら い 。 一 八八年五月、それまでよく出かけていた岡山県のハン− セン病療養所のある長島に﹁人間回復の橋﹂が架かった。一 そこで、私は﹁人間回復の橋﹂になぞらえて﹁老人復権一 ひ そ 白 の ホ l ム ﹂ を つ く ろ う と 心 密 か に 思 っ た ん で す 。 同 藤 田 ボ ラ ン テ ィ ア グ ル ー プ ﹁ 園 ﹂ が で き た の は ? 一 中 村 オ ー プ ン の 前 で す 。 う ち は 一

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月ですけど、一 ﹁ 園 ﹂ は 九 月 で す 。 一 2

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の結成へ と し 坂本敬子知り合いだった中村さんから﹁老人ホ l ム を つくる。ついては地域とのかかわりを持つ、そういう施 設をつくりたいから、手伝ってや。かかわってや﹂とい うのが最初の呼びかけです。でもそのとき、私自身、特 別養護老人ホ

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ムなんて全く見たこともなかったですし、 どういう方が入られるかということも知りませんでした。 ただそのとき東京の東村山でしたか、老人ホ

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ムが火災 に遭ったというニュースが出たころだったんです。﹁ぁ、 そういう所をつくろうとされているのかなあ﹂って。 でも、とにかく﹁かかわってや。かかわってや﹂とい うことで、松井泰子さんと浜口千恵子さんと私の三人が、 とりあえず発起人になって﹁一度集いませんか﹂という 呼びかけをだしたんです。 藤田呼びかけの文章に﹁﹁園田苑﹂をありきたりの施 設ではなく地域社会の味がする施設、作られた福祉を受 けるだけでなくみんなで創る福祉の一つとしてチャレン ジしてみたい﹂とありますね。 坂本はい。でもね、ボランティアをしたこともなかっ たし、ボランティアが何をするのかも知らなかったので、 大阪のボランティアセンターに勤めている方に来ていた一 だいてお話を聞いたり、喜楽苑に行って苑長さんに会っ一 たりというようなことをしながら、もう一方では、中村一 さんが郵便ポストに入れてくださる、﹁老人ホ

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ムとは一 どういうところか。どんなことをしようと思っている一 か ﹂ と い っ た 資 料 な ど で 学 び ま し た 。 一 藤 田 い わ ゆ る ﹁ 中 村 苑 長 の ポ ス ト 作 戦 ﹂ 。 一 坂本そうです、そうです。どういう施設をつくろうと一 なさっているのか、ほほ理解ができてきました。かかわ一 るなら、一人よりはグループのほうがいいんじゃないか一 な と い う こ と で 、

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の仲間や、私自身が二

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年間、一 化粧品や小間物をあきなうお店してたもんですから、そ一 こで知り合った方だとか、そういう方たちに、ちょっと一 声 を か け て 。 一 ご ま だ 一 胡摩田睦子私と松井泰子さんとは、その

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のつな一 がりなんですね。松井さんが副会長されたときに私が広一 報部長だったのです。そのときの役員で﹁お茶のみ会﹂一 をつくっていました。中村大蔵さんは何代かあとの会長。一 だから園田苑のボランティアの話がでたときは、ごく自一 然 に 松 井 さ ん を 通 じ て 声 を か け ら れ ま し た 。 一 坂本グループを組もうと思った時点で、こういう人た一 ちに、とその顔が私のなかにあり、松井さんには松井さ一 こぺる 3

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んの思い浮かべる顔がありました。 藤田徳田さんは、どこでつながるんですか? 徳田道子私はね、小学校はちょっと年代的にずれてい るんですけど、地域の公民館で﹁子育て学級﹂というの がありまして、松井さんと坂本さんが、いろいろお世話 をしてくださっていたんです。その関係で、声をかけて いただいたんですよ。私の住む地域は隣の町になります ので、その出会いがなかったら多分ここに来ていたかど うかわからない。そのとき、うれしくも坂本さんに芦を かけていただいて。ボランティアという言葉はちょっと 聞いたことがあるくらいでした。まあ何か学ぶことがあ るんじゃないかなって思って、グループに入れていただ い た ん で す 。 藤 田 荒 木 さ ん は ? 荒木繁子私は坂本さんのお店にお化粧品を買いに行っ てました。それで多分、声をかけられたと思うんです。 そこしかつながりがない。だって、育友会の人とは、全 然交流がありませんでしたから。みなさんのお顔も知ら な か っ た ん で す よ 。 藤田日々の暮らしのなかで、いろんな出会いがあり、 つながりがある。それが特養設立にかかわって、発起人 ができ、声をかけ合い、グループをつくって、人びとが 藤田中村さんに聞きたいんやけど、﹁地域とかかわる、一 地域がかかわる特別養護老人ホ l ム﹂というイメージは一 ど こ か ら で て き た ん で す か 。 一 中村私の見てきた老人ホ

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ムは、人里離れたとこにあ一 り、﹁草いきれはすれども、人いきれがしない﹂環境。一 人は生まれてくるとき人に固まれ喜ばれて誕生するなら、一 死んでいくときも多くの人に固まれ見送られて当たり前、一 そういうことではないかなと。 人会があり、お寺があり、そして 坂本私は、ここへお嫁に来て、住民になりました。婦 集まるというのが、何とも不思議ゃなあ。

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活 動 が あ り で 、 つながりがすごい。そしてお店をしていたことで、ある 意味、どなたにでも声はかけられる条件がありました。 藤田九月九日には、何人が集まらはったんですか。 坂本三四人でした。 藤田みなさんをこう見ていましでも、活動家らしいと ころはないですよね。 中村行動家。既成の活動家が﹁なんで、こんなにょう け集まるの?﹂とびっくりしてたですね。 地域住民立老人ホーム

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藤田つまり特養建設予定地域の住民が、建設を認める かどうかということだけではない? 中村はい。地域住民立老人ホ l ム。﹁金も出せ。口も 出 せ 。 足 も 出 せ ﹂ 0 藤田これまでの特養は、世聞から隔離されたようなと ころにあったから、本来﹁地域﹂がないんだよね。それ を街の真ん中に建設する。反対運動は予測しましたか。 中村いや。しかし、もし反対運動が起こるなら、それ までの私の地域性が問われるわけでね。もちろん、母体 が阪神医療生協でしたから、もともと地域住民とのつな がりが強い。だからこそ、﹁地域住民立﹂の老人ホ

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ム 、 ﹁住民の出資と住民の運営参加﹂による老人ホ l ム を つ くりたかったんです。 藤田そんなところは当時、珍しかった? 中村珍しいですよ。今でも珍しいと思います。兵庫県 の老人ホ l ムの施設長が集まると、﹁中村さんとこは住 民立ゃしなあ﹂って言います。もちろん労働組合にも頼 みにいって、どんどんお金ももらいました。 藤田だけど、これまでご自身がかかわってきた

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とかでつながれた人間関係を大事にして。 中村その方を大事にしようと思ったわね。﹁あんたら が入るかどうかは別として、あんたらの老人ホ

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ム ゃ ん か ﹂ っ て 。 藤田中村さんから﹁地域とかかわる、地域がかかわ る﹂老人ホ

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ムというイメージをお聞きになって、どう 思いました? 坂 本 老 人 ホ

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ムそのものがわからないですから、全く イメージとしては湧かなかったんですけど、でも話を聞 いたり、丈章を読んでいくうちに﹁ああ、そうか﹂と、 ﹁園﹂をつくる頃にはそこそこ理解していましたね。 藤田先ほど中村さんは、二一つの﹁出せ﹂を呈首ったけれ ど、みなさんのお気持ちはどうでした? 坂本﹁がんばるぞ!﹂といった意気込みはなかったで す。ただ私、グループつくるのが好きでしたから。﹁地 域推進グループ﹂だとか﹁子育て学級﹂だとか、いろん なことをやっていました。自分の子育ての聞にね。です から、またここで、新しい一つのグループをつくって活 動する。そしてそこへ地域の人びとが寄って来たらいい なあって、そういう感覚でしたね。 藤田それほど肩に力が入っていたわけではない? 坂本はい。 こベる 5

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ボランティア活動開始 ∼

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藤田さあ、いよいよスタートしました。活動の内容を 紹 介 し て く だ さ い 。 胡摩田月例の活動としては、喫茶と居酒屋。喫茶は毎 月一回ですね。苑の行事と重ならない限り。 藤田喫茶店を聞くんですか。 胡摩田開くんです。みなさんに集まってもらってお菓 子とかを作って。居酒屋は二カ月に一回。 藤田名前はついてるんですか。 胡摩田﹁喫茶そのちゃん﹂﹁居酒屋そのちゃん﹂ 0 藤田﹁ちゃん﹂がついてるの? 胡摩田﹁ちゃん﹂です。はい︵笑い︶ 0 中村居酒屋は以前は毎月聞いていました。 胡摩田生け花、お習字。塗り絵、折り紙とかね。そう いうのを月に一回してます。それから手仕事と言いまし て、入居者の衣服のボタン付けをしたり、ゆるんだズボ し っ し ん ンのゴムを直したり。先日は、湿疹とかを引っかいたら ひ も いけない方の手袋の紐をつけたりしました。それとお話 し相手というのをしてます。﹁みんなで歌おう﹂。これだ けが一応月例の、﹁園﹂主体でやってる活動です。 藤田いま、参加者はどれくらいおられますか。 胡摩田常連は二

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人くらいかな。どれか一つに必ずか かわってる方は二二、三人。 藤田すると全部で四十数人。会員というか、﹁園﹂に 加わるには何か条件があるんですか。 胡摩田ありません。会費は年に千円いただいてます。 藤 田 義 務 は ? 胡摩固ないです。一応、月に一回二時間程度のボラン ティアをしましょうっていうのが申し合わせ。 藤田園田苑に泊めていただくと、朝、坂本さんとかが 配膳を手伝うてはりますわね。あれは何か順番とか決ま っ て い る の で す か 。 坂本﹁園﹂として定例でやってるものの他に、自分の できることを自分のできる時間にやりましょうと。だか ら私は日曜日の朝、食事介助ができるので。 藤田勝手にやってはるわけ? 坂本はい。徳田さん比花壇の世話を毎日・:。 藤田勝手連ですなあ。 坂本勝手連です。 藤田﹁苑﹂が主軸で、﹁これをしてください、あれをし てください﹂と指示・依頼し、﹁園﹂が﹁はい、わかり ました﹂と、それを受けてサポートするという感じでは 6

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ないね。﹁園﹂のメンバーは風のように﹁苑﹂に入り、 風のようじ﹁苑﹂を出ていく。それでいいんですか。 中村いいんです。お年寄りが、それで満足するかぎり。 ひ い ら ざ 亡くなった柊さんがお酒飲んでいたとき、﹁中村くん、 し ん ど な い か 。 あ ん だ け ボ ラ ン テ ィ ア が 来 て ﹂ と 一 三 一 口 う 。 しんどいって思ったことがない。﹁煩わしくないか﹂。煩 わしいっていうたら年中煩わしいがな。職員の集団だっ て煩わしい。大体、ボランティアを取り仕切ろうなんでい う発想は私になかったし、取り仕切ろうって言ったって できひんし。それを取り仕切ろうとするからしんどくて 煩わしくなるんです。 藤田地域の女性たちが風のように﹁苑﹂に出入りする ことによって職員にもいい緊張感が出てくるでしょうね。 坂本そうだと思います。 藤田ところで、普通の発想からいくとグループに統率 集団があってスケジュールを立て、﹁あなた何月何日に 行ってよ﹂とかいうもんでしょ?そんなことはないん で す か 。 坂本ないです。毎月の定例会で予定を決めて、みなさ んに配る。それを見て、﹁あっ、この日にかみんなで歌 おう μ があるんだな。じゃあ空いてるから行こか﹂って い う 感 じ 。 藤田行くか行かないかはメンバーの自由意志? 胡摩田はい。そうです。 中村多くの老人ホ l ムにはボランティアコーディネー ターがいる。ボランティアの窓口を設けてるところもあ る。うちの場合は﹁勝手にやってる﹂って感じです。だ から職員も﹁勝手に来てる﹂という受けとめ方。要する に﹁園﹂の真髄は勝手にやってるということ。掃除する だけのボランティアもいい。暇つぶしの、ボランティアも いい。たばこボランティアもいい。 胡摩田昔おられましたね、たばこボランティア。タバ コを召される方なんですけど、たばこを吸われる入居者 とたばこを吸いながらおしゃべりするだけ。 中村さんは、﹁みなさんに労働力としてかかわっても らうんじゃない。みなさんは、入居された方が心豊かに 日々を暮らせるように、かかわってほしい﹂って言われ きれい ましたけど、私は椅麗好きなオパチャンなんで、見かね て、掃除機をかけたことがあります。ベッドの下とかに 冬など綿がいっぱいたまっている。﹁そんなことはして くれんでもいい﹂とおっしゃったけど、﹁いや、ちょっ とさせて﹂と言うて、しました。﹁させて﹂と言ってす る分には、何もおっしゃらないので。 坂本﹁あんたたちは、ヘルパ l の手伝いをするために こぺる 7

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上) 2004年 4月 苑のお庭で野点

下) 2004年12月 職員とボランティアの協働で年末恒例のお餅っき

た真上) 2000年12月 年米恒例のしめ純づくり

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ボランティアグループをやるんじゃないんですよ﹂って。 そのころ中村さんから聞いた、﹁利用者とともに遊び、 時聞を共有する﹂﹁施設とボランティアは新しい地域づ くりの担い手﹂﹁施設とボランティアは互恵の関係﹂と いう言葉が忘れられません。それがどういう意味なのか、 どうすることがそうなるのかと考えて続けました。最初 はね、お風呂のお手伝いとか、掃除をするとか、とにか く全部手伝いました。まるまる一年くらいは。 胡摩田お風呂の外介助とかも資格もないのに平気でし ました。中介助は、もちろん職員の方がされますけど、 ふ 上がって来られて身体を拭かしていただいて、自分の子 どもの世話をするみたいな感覚ですよね、相手はお年寄 り で す け ど 。 坂本だからそういうことをやりながら、私たちが園田 苑に慣れ、入居者に慣れて、こういうことをやることが 中村苑長の言われたことなんだとはっきりわかってきた のは、二年か三年後です。 街に溶け込む園田苑 藤田園田苑と﹁園﹂の関係は、外の人からどう映って た ん や ろ ね 。 中村非常に特異に見えてたんとちゃいますか。建設途一 中でも周辺住民より、何のクレームも私たちゃ行政にな一 かった。これは、尼崎市が脱帽したと、はっきり言いま一 し た ね 。 藤田金銭要求ももちろんない? 中村ない。むしろ﹁くれ﹂って言ってる方ゃから。一 藤 田 な い の が 一 番 か 。 一 中村ともかくお金がない。職員だけでできることは高一 が知れている。入居者は今も昔も五

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人。ショートステ一 イを含めて五四人です。夜間ケアスタッフが二人。管理一 宿直を入れたって三一人、私を加えても四人ですよ。いつ一 たん何か起こったら、この四人で五四人の対応はできな− ぃ。だからご近所さんと仲のええ関係をと:・。司 藤 田 盆 暮 れ な ん か を 配 っ て る わ け で は な い 。 − 中 村 な い 、 な い 。 逆 に 盆 暮 れ を も ら っ て る 。 − 藤田街の真ん中にあって、しかもドアがいつも聞いて、一 外出自由の状態。以前泊らせてもらったとき、朝食後に一 車椅子のおばあさんが、苑の玄関先まで出て、低のぼり一 う た 一 見ながら歌を唄っておられました。通勤・通学する人ぴ一 とが、そのすぐ前を通っていく。そこには﹁苑﹂と街が一 一体化した光景がありました。こういう施設が可能だと一 いうのは何だろう?

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胡摩田完全に街に溶け込んでますよね。一番大きいの は中村苑長の考え方かなあ。﹁園田苑だより﹂を各家庭 にずっと入れておられます。そうすると、朝、お掃除な んかしてはって、中村さんが配って歩いてる姿を見たら、 ﹁あ、この近所やったら私が配りますよ﹂っておっしゃ っ て い た だ く 方 も い て 。 藤田あれは郵送じゃなくて配布ですか。 胡摩回全部手配りです。 藤 田 手 配 り ? 胡摩田はい。その地域で、で﹂この近所だけは私が配 ります﹂っておっしゃる方が何人もおられますもんね。 私の友達もみんな配ってます。 中 村 い ま 七 九

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号になる﹁園田苑だより﹂を置いてく れてる散髪屋さんが二軒。それから歯科医院と皮膚科医 院とか。医院の待合室に﹁園田苑だより﹂が置いてある んです。寿司屋のおっちゃんがトイレに、ちゃーんと貼 ってくれている。頼んでもいないのに。 胡摩田ですから、﹁園田苑だより﹂によって地域の人 びとは園田苑とはどんなところかよくわかっていただい て い る ん で す ね 。 あの小中島に福祉力が 坂本そこでね、﹃園十年誌﹄から私の好きな文章を紹 介 さ せ て く だ さ い 。 ﹁ボランティアグループ ざ い ま す 。 十 年 前 、 ﹁ 園 ﹂ 十周年おめでとうご いえ十一年前、園田苑設立に向けて、﹁ボ ランティアグループをつくろうと思う。ボランティア がかかわるかどうかで、その施設の雰囲気が大きく変 わる﹂と中村苑長︵当時阪神医療生協事務局︶は主張 されました。えっ!小中高にボランティア?ここ は 芦 屋 じ ゃ な い ん だ よ 。 た い せ き 公害の街尼崎。ヘドロが堆積した藻川、メタンガス がプクプク泡を吹く庄下川、その中でも、小中島は、 ついこの前まで、ちょっと雨が続けば床下浸水する住 宅にへばり付いたドブ川があり、東園田からは﹁川向 め く そ こう﹂と差別されていた。︵外からみれば目糞、鼻糞 な ん だ け ど ・ ・ ・ ・ ・ ・ ︶ 行政の施策もいつも実施は後回し、下水道だってほ とんど最後だったわね。その小中島で高尚なボランテ こぺる 11

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ィア?似合わないよ。第一昼間家にいる人は、働き にいけない乳幼児を抱えた母親か、老人ばかり。ちょ っと手が離れればみなパ l トに出るし、一銭にもなら ない、ボランティアなんかする有閑マダムがどこにいる ものか!無理、無理! しかし、私の予想は見事に裏切られた。 熱心に育友会︵

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︶活動をされてきた方々を中 心に園田苑誕生前にボランティアグループ﹁園﹂が結 成 さ れ た 。 だ つ る グ 掃 き 泊 め に 鶴 μ ︵ ち ょ っ と 言 い す 、 ぎ ? ︶ と い っ た 感 ま ぶ じで肱しい存在でした。小中島も捨てたものではない、 と、うれしくなりました。 あれから十年、肩を張らずに自由に伸び伸びと自己 表現をはかる場として﹁園﹂を活用しているメンバー の姿に勇気を頂きながら、すっかり小中島の地域に福 祉力がついてしまいました。 あ い あ い 先日も仕事の途中で、医生協助け合いの会﹁愛逢く らぶ﹂の事務所に立ち寄られた保健婦さんが﹁ほんと に小中島っていい所ですね、この辺に住む人は、幸せ ですネ﹂と言ってくださいました。 あの﹁川向こう﹂が、今は誇り高き﹁川向こう﹂に 感じられます心︵外からみればやっぱり目糞、鼻糞か な と 思 い つ つ : : : ︶ ﹂ ︵ 兼 行 栄 子 ﹁ ﹁ 園 ﹂ が 地 域 を 変 え た﹂。ボランティアグループ﹁園﹂日周年記念誌﹃園 の窓﹂一九九八年十月一日発行より︶ 12 藤 田 え え な あ 。 自分を育てる 坂本中村さんに﹁あなたたちの

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活動は社会活動 ですよ﹂とよく言われていました。私たちが子どもを通 して親になり、人間になる、そういう場所だって。﹁あ あ、そういうものなんか。単に子どもがどうのこうのじ ゃなくって、やっぱりそこで自分も勉強して、自立した 女性になるところなんだ。子育ての聞の勉強って、すご いな。その後の生き方につながるんだな﹂と。﹁園﹂の 活動を通して、それをあらためて実感しました。 徳田坂本さんから声かけられて、﹁入ろう﹂と思った とき、そこまで自分を育てていたというか、自分が育っ ていたということが何かとても嬉しかったですね。 坂本

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活動の時代に、中村さんの思いというのか な、いろんなところで話されているのを聞いて、 で 育 っ て き た と い う か 。 予 ﹂ w ﹂ 幸 ﹂ 酢

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徳田初めは人のためになることができるとか、そうい う思いがあったんですけど、実際にかかわる中で、自分 を見つめたり、自分が変わることにつながっていたなっ て思いますね。園田苑にかかわってなかったら、この二 二年、どんな生活していたのか想像がつかないくらいで す。ここでも自分が生かされているってことをとても感 じ ま す ね 。 ある日、﹁喫茶そのちゃん﹂で認知症の方と一緒に歌 を唄ったり、いろんなことをしてましたらね、その方、 歌がお好きで、楽しく歌えて、﹁私、今日まで生きてて よかったと思います﹂って言われたんですよ。もう私、 感動しましてね。認知症になっても﹁いま、生きててよ かった﹂って思われたその場に一緒にいれて、その雰囲 気を一緒に味わえたっていうことじゃないですか。です から、これからも﹁生きててよかった﹂っていう思いを 一緒につくれたらいいなと。この言葉は私の支えなんで す 。 自 分 を 変 え た 一 言 葉 で も あ り ま す し 。 藤田徳田さんが心を開いて、外の世界に心を向ける一 つの大事なきっかけを、﹁園﹂がつくったと。 徳田﹁園﹂に入ることで、たくさんの人に出会えまし た。多分、家庭にいてたら出会わない方たちとの出会い が、本当にたくさんあって。楽しいことも大事だし、好 きなことも大事だけれど、社会に役に立っと言えば大げ さですが、何かちょっとでいいから役立ちたいと思って い る 自 分 が い ま す 。 藤田荒木さん、いかがですか。振り返ってみて。 し ゅ う と め 荒 木 お 姑 さ ん と 一 緒 に 住 ん で ま し た が 、 昭 和 六 二 ︵一九八七︶年に亡くなり、ちょうど子どもも大きくな って手がいらない。坂本さんから声をかけられたのがそ のころ。内気で消極的な性格ですから、家にずっといた ら、多分、欝状態になっていたと思、つんですよ。全く知 らない土地に嫁に来たでしょ。だから初めは新幹椋見な がら、あれに乗って故郷の博多に帰りたいなあって、い つ も 思 っ て た ん で す 。 好奇心で﹁園﹂に入って、最初にお風呂の介助に行っ たんです。まずお風呂から上がられて、髪を乾かすぐら いできますよね。ただの主婦ですから。洋服に着替える とき、最初にいい方の手から入れた。いい方が着せやす いから着せた。そしたら、悪いほうの手が入らない。動 かないから。素人で何もわからなかったんですね。悪い 方から入れなくちゃ、入れられないっていうことに気づ きました。﹁あっ、そうか l ﹂みたいな感じでね。だか ら最初、園田苑の敷居が高かったんです。それで何年か 行つてない。もう私は、ダメだって思って。いつから敷居 こべる 13

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が低くなったのか覚えていませんけど。 藤田気づいたら敷居をまたいでいた? 荒木そうなんです。 胡摩田私が車椅子介助を頼んだからです。 荒木あっ、そうそう。それを頼まれて、一人でするよ りも二人でしたほうがラクだし、覚えられますしね。園 田苑の理事長が何でも﹁そうだ、そうだ﹂って言ってく ださるので、私にできることは何か、できることをすれ ばいいんだ、と思うようになりました。いまでは、苑か ゐ い さ つ ら阪急園田駅に行くまで挨拶しないときはないくらい、 ﹁こんにちは。こんにちは﹂と言うて。知り合いが増え たということです。そういう出会いがあって園田苑に行 っ て 、 こ の ﹁ 園 ﹂ か ら 地 域 へ : ・ 。 藤田園田苑経由。 荒木はい。いろんな地域の活動にも参加するようにな りました。大正琴をやってるんです。ボランティアで、 あちこちの特養とかに招かれて演奏してます。 中村いま園田苑経由と言ったでしょ?園田苑がス タートでも園田苑止まりではないんです。 園田苑から地域へ 藤 田 そ の 辺 は ど う で す か 、 坂 本 さ ん 。 一 坂本そうですね。﹁園﹂が園田苑と地域の架け橋にな一 ればいいなって常に願ってきました。そういう意味では一 地域の方たちが園田苑に馴染んでいただける一つの役割− はできたのかなあと思っています。初めは園田苑のボラ− ンティアをすることだけで精一杯だろうと予想していま− したが、コ一年、五年とたってきましたら、ほとんどの方− が活動の範囲を地域に広げようと言うようになりました。一 地域活動ですね。地域での食事会や助け合いの会だとか。一 藤 田 食 事 会 っ て 何 で す か 。 一 坂本私たちボランティアが調理して、そこへ地域の一− 人暮らしの高齢者に来ていただいて、一緒に食べるとい一 う会を立ち上げて、今年で一八年目に入りました。一 藤 田 そ れ 、 よ ろ し い な あ 。 ’ 一 坂本食事会をはじめて二年後、阪神医療生活協同組合− の組合員くらしの助け合い﹁愛逢くらぶ﹂が発足し、一

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年間の活動をへて二

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四年に法人格を取得し

NPO

一 法人﹁愛逢﹂が誕生、私は初代理事長を五年務めました一

﹁愛逢﹂の活動は介護保険事業・助け合い・配食サー ビス・啓発活動︵講演会など︶。また昨年一一月にホー ムホスピス﹁愛逢の家﹂を立ち上げました。

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園田苑ができたことによって、地域を見る、福祉を考 える、そういう仲間が増えました。それは想像以上でし たね。地域に福祉力がついたという実感がありますね。 胡摩田私も配食部門にかかわっています。火曜日と水 曜日、調理させていただいているんです。 藤田一人暮らしの方に配食する? 胡摩田はい、大体五

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食 く ら い 。 藤田すごいなあ。 胡摩田届けでるんです。 坂本月曜日から土曜日まで毎日。 藤田ありゃりゃ。 坂本﹁愛逢﹂として雇っている人は二人だけ。あとは こういう地域の方がボランティアで来てくださっている。 藤田ボランティアで? 坂本はい。すごいですよ。 胡摩田そこで給料もろてたら大変ですけどね。一

O

年 に な る ね 、 配 食 も 。 坂 本 一

O

年 以 上 や ね 。 胡摩田それにも最初からかかわってるんです、私。 藤田バイクに乗って運ぶんですか。 坂本自転車をおす人もあれば、自動車の人もいるし。 胡摩田医生協の各支部には車で届ける。そこから手配 りです。ふれあいセンターの近くはみな手配りで。− 藤田それは、助かりますよね。で、坂本さん。小中島田 に は 孤 独 死 は あ り ま せ ん か 。 一 坂本うーん。あの方は? 胡摩田あの方は孤独死じゃないわ。在宅介護に行くよ一 うになってたのに一

O

時になっても来ないから

N

さんが一 見に行って、亡くなってるのを発見した。それで警察が一 来てパタパタして。それからあの、寿老人会の

M

さん。一 あの方も孤独死じゃないと思う。朝までは生きておられ一 たからね 0 ほ ん で

NTT

の旅行に行くようになってたの− に来ないから、それで家へ電話かけて、﹁

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ちゃん、見一 に行け﹂って行ったら、流しで亡くなっていた。孤独死一 じ ゃ な い と 思 う 。 一 き は く 一 藤田地域におけるつながりが稀薄になっていると解説一 されてもありがた味はない。セーフティネットなんてい一 うカタカナ文字を使わずに、日常の暮らしの中で、そこ一 で生き合えるような、なんとか支え合っていけるような、一 そ う い う ボ ラ ン テ ィ ア が 求 め ら れ て い る ん だ な 。 一 ところでみなさんのお話を聞いていて気づいたことが一 あ る 。 そ れ は ね 、 行 政 が で て こ な い と い う こ と 。 一 坂 本 あ あ 。 一 藤 田 一 たとえば部落解放運動では必ず行政の話がでてく こベる 15

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る。たしかに市役所としてやるべきこと、できることが ある。そうなんだけ巴、みなさんの話の中では行政が全 然でてこない。それはものすごく面白い。恐らくみなさ んが自立してはるからゃないかな。 坂本ボランティアを始めたとき、全く何も知りません でしたでしょ。だから、勉強しました。県社協のボラン ティアカレッジや、そのとの﹁大学院﹂まで行きました。 ボランティアをただやってるのではないと思っています。 何のためにやるのか、とかね。ボランティアってどうい うことかと学習はしてきました。 しかも頭だけで考えてはいない。必ず身体も動い 藤田 て い る 。 坂本動きながら考える。それがよかったのかなあ。 藤田もう一つ而白いなと思うのは、﹁出会い﹂が﹁つ ながり﹂になっているということ。 荒木はい、そうです。 藤田そしてその﹁つながり﹂が﹁新しい出会い﹂を招 きょせる。これがええ。一回出会って終わりじゃなくて ね。それは恐らく、みなさんがワクワクしてはるからや む け っ と思うよ。坂本きん、二二年も続いている秘訣は何です ョ 。 , 刀 坂本 ヵ ー 楽しいからでしょうね。楽しくて生き甲斐をもら っ て い る か ら で し ょ う ね 。 一 藤田多分、そうだと思います。﹁義母と無理と厄介一 感﹂では続かない。原理や主義・主張から出発していた一 ら続かない。みなさんの生き生きした話から元気をもら一 った感じです。今日は長時間、ありがとうございました。一 ︵ 二 O

O 年六月二凶日、兵庫県尼崎市・特別養護老人ホ 1 ム胤一 間苑にて 16

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鴨水記 マ最近読んだ本から O ヴ イ ク ト ル ・ ザ ス ラ フ ス キ l ﹁ カ チンの森|ポーランド指導階級の抹 殺﹄︵根岸隆夫訳。みすず書房

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− 7 ︶ 0 ﹁ 一 九 四 O 年 春 、 ソ 連 西 部 、 ス モ レ ン ス ク 郊 外 の カ チ ン の 森 で 、 ソ連秘密警察は約四、四 O O 人 の ポ ーランド人捕虜将校を銃殺した。犠 牲者数は、同時期に他の収容所など で殺されたポーランド人と合わせて 二 二 、 000 人以上。職業軍人だけ でなく、医師、大学教授、裁判官、 新聞記者、司祭、小中学校教師など、 国をリードする階層全体におよんだ。 /しかしソ連は、犯人はドイツであ ると主張。さらに連合国もすべてソ い ん べ い 速の隠蔽工作に加担し、冷戦下も沈 黙を守りつづけた。︵略︶スターリ ンが、ポーランドという国自体を地 図から抹消しようとした理由は何か。 なぜゴルバチョフは、もっとも重要 な文書の公開に踏み切れなかったの か。著者は簡潔にバランスよく、独 ソ不可侵条約とカチン虐殺の関係、 欧米列強の対応と思惑、歴史家の責 任、さらにはカチンに象徴されるソ 連全体主義の根本的な問題と、ふた つの全体主義国家︵ナチ・ドイツと ソ連︶の比較まで、最新資料を駆使 しながら解析する﹂。カバーにある 紹 介 丈 の 一 節 で す 。 ナチ・ドイツの﹁民族浄化﹂に対 してソ連の﹁階級浄化﹂政策のひと つ で あ る ﹁ カ チ ン の 森 ﹂ 虐 殺 は 、 ﹁ 人 間﹂という視点を放棄するとき、人 はいかに無残な行動をとるかを教え て く れ ま す 。 O 柴田トヨ﹁くじけないで﹄︵飛 鳥 新 社 。

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− 3 ︶ o 柴田さんは御年 九十九歳。﹁私ね人から/やさしさ を貰ったら/心に貯金をしておくの /さびしくなった時は/それを引き 出して/元気になる/あなたも今 から/積んでおきなさい/年金より / い い わ よ ﹂ ︵ ﹁ 貯 金 ﹂ ︶ 。 ﹁ 朝 日 ﹂ の ﹁天声人語﹂子もその感性と表現の み ず み ず し さ に 驚 嘆 し て い ま す 。 ﹁九十歳を過ぎて出会った詩作で、 気づいたことがあります。どんなに 辛いこと、悲しいことがあっても、 せ が れ し ん せ き 私は両親や夫、伴、嫁、親戚、知人、 そして多くの縁ある方々の愛情に支 えられて、今日の自分があるんだと い う こ と で す ﹂ ︵ 一 O O 頁 ︶ 。 柴 田 さ んのおっしゃるとおり、人はみない ろんな縁でつながっている。それが 切 れ か か っ て い る の で し ょ う ね 。 ﹁ 無 縁死年間三万二千人﹂という数字に が く ぜ ん 博 然 と し ま す 。 マ 6 月号本欄で引用した現代美術家 のお名前がまちがっていました。正 しくは束芋︵たばいも︶さんです。 マ日月号から本誌の発行所が岐阜に 移ります。詳しくは誌上でお知らせ しますが、お急ぎの方はわたしまで ご連絡ください︵干五 O 一 一 一 六 一岐阜市西改回字川向一八七|四。 旭 一 O 五八二三九五三一四人︶。 しばらくごたごたするかもしれませ ん 。 悪 し か ら ず 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9阿吟社 〒6020017 Tel. 075-414-8951 Fax. 075-414-8952 Email: [email protected] http://wwwl.odn.ne.jp/aunsha 定価300円(税込)年間40C:J円郵便振替010107-6141 - ~o円Z 第211 号

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2010年10月25日発行

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ニ一一回守 二 O 一 O 年十月 二 十 五 日発行︵毎月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 一 二 年五月二十七日第三種郵便 物 認可 定 価 三 百 岡 本 体 ニ λ 六 円 阿昨社 発 売 阿 昨 社 干602-0017京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9 Tel 075-414-8951 F田 075-414-8952 定価840円 1987年6月20日第1刷発行・2003年第8刷

参照

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