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源氏物語と植物-植物使用の効果-

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Academic year: 2021

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− − a − − a z a a @ a a ヨ 寝 酒 舎 喜 怒 返 ぷ 山 々 れ あ M V J −島 玄 奪 内 a y ﹁ 仏 d z p ︽ 乙 f f i 奪 実 ︿ e r g − 、 z a T p t h ! 解釈の仕方も非常に丁寧で用例も多い。その点細かい所か ら調べる場合にはこの辞典の果す役割は大きいように思う 又角川古語辞典に於ては単語のあらゆる角度から考愚さ れていて、文献用例なども古いものが多い。要は調べる目 的によって適否を判断すべきだと思う。これらの結果より 知りうることは、その語の持つ意味、発生過程・変化・転 化と追求すればするだけの問題があること、そして一つの 辞典が必ずしも完全なものではない乙いうことである。

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n H H H ’ 寸 戸 ︼ ここに揚げたものは、八項目とも資料が必要な訳で、 限られた紙面では理解されにくいかと思う。参考資料 は、論文の方をみて載きたい。

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植物使用の効果

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古 素

閑 it. し カ1 き 本文は、先に提出した卒業論文﹃源氏物語と植物﹄を﹁ 国文研究﹂の記事用として、要約したものである。 卒業論文は、先ず物語に現われた全部の植物及び木や草 ・花等植物関係の言葉の前後の文を摘出し、これに文学面 からと植物学上からの考察をなし、それらを資料として、 研究の主目的を﹁登場の植物は、物語にどんな効果を与え ているか﹂に置いて総論を纏めた。しかし、本文は、原稿 枚数の制限もある為、資料の分は一切省略し、総論もその 一部を省略、或いは削除した。 文中引用する源氏物語の原文は、﹁日本古典文学大系、 源 氏 物 語 、 一

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五巻﹂により、原文の所出巻名は、︿桐査﹀ のように記し、作者紫式部は、﹁作者﹂と略称した。

源氏物語の植物

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源氏物語五十四帖中に使われている植物は、若菜・竹等 のような総合名称や月の桂などの想像のものも含めて百十 余種である。︵細部の表省略︶ この百十余種は、万葉集の約百六十、枕草子の約百四十 に比べるとその数は少いが、万葉集に於ては長年月の聞に 各階層の人々が、植物に関連して、日本全国に於て、見た り、聞いたり、感じたりして千五百余首中に詠みこんだも のであり、枕草子のものは同時代の人の作ではあるが、自 然趣味を中心とした随筆であるので、植物の数だけを比較 するのは適当でない。 源氏物語における植物は、前日記両文献より数こそ少い、が

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時には数巻に亘る数場開を繋ぐ骨粗ともなり、また、人物 の表現に、人々の心理描写に、或いは場面の展開等に大き な役割を巣し、物語の重要な構成要素になっていること口 特 長 が あ る 。 また、二十余に亘る花・木・草等の言葉は、時には、桜 とか、梅とかの植物そのものと代えて巧みに用いられ、文 人ゲ一簡潔化したり、変化を与えたり、余韻を持たせたりする 効民合挙げている。﹁花﹂を語幹とする言葉の如きは、六 卜に近い。︵細部の表省略︶

植物名のつく人達 一 山 氏 物 語 に 現 わ れ る 人 物 は 、 十 一 尼 君 十 余 人 一 の 如 き も 一 人と数えて、四百八卜余人、歴史上や架空の人物六十一を 加えると合計は約五百四十余人である。そして、物語に実 在の間百八十余人も、境遇が異なり、官位、地位が変わり 或いは対話上の一敬称その他によって同一人でも多くの呼称 がある。例えば、光源氏には、﹁御子、若宮一に始まって ﹁故院﹂に至るまで四十三、その内、内大臣、殿、大将な ど一般的なものを除いた﹁光る君、源氏、六条院﹂等源氏 国有のものだけでも卜三の呼称、かあり、紫の上には﹁若君 若草﹂から﹁なき人﹂まで三十六、︵内﹁紫の一上、春の上 ﹂など国有のものは十二︶あるなど前記同百八十余人の一総 ての呼称は数え切れない程のものである。 この多数、旦は煩雑な人物の名を、優雅に、また簡明に し、更に読者にその人物のイメージをさえ持たせるものに 植物名を附していることがある。 光源氏が、理想の女性をめざして教育し、妻の座に据え た、源氏に次ぐ物語中のヒロインに、作者は﹁紫の上﹂の 名を与えた。源氏は、北山において﹁:::むらさきの根に かよひげる野辺の若草﹂八若紫﹀の歌に見るように、まだ 表草であった紫の上を見初めた。紫の上は、源氏の実母桐 査更衣の悌がある義母、また恋人でもある藤査︵中宮︶の 姪に当る。その頃はまだ、紫の色、紫草の根に通える若紫 であった紫の上は、その後八御法﹀の源氏五十一才の八月 に亡くなるまで源氏と並んで物語の中心人物となった。作 者、が、﹁紫の上﹂の名を附したのは、紫のゆかりの故もあ ろう、紫色が服制上臣下最上のものであると同じく、物語 中最上の女性だとの意味もあろうが、﹁紫の上﹂の名をつ けた為に、読者は﹁紫﹂の言葉を見、また聞く度に、この ヒ ロ イ ン の 存 在 を 強 ノ \ 意 識 さ せ ら れ る 。 桃園式部卿の官の女を﹁朝顔の宮﹂という。孫 7 7 女 の 一 身 分で賀茂の斎院に選ばれる程の宮は、恐らく第一流の皇室 女性であったろう。源氏も、朝顔の﹁匂ひ殊にかはれる﹂ を見ては、その枝を折って泰り、﹃見しをりの露わすられ ぬ朝顔の花のさかりはすぎやしぬらん﹄と消息し、宮の容 貌の衰えるのさえ心配する程の執心振りであったが︿朝顔

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司 令 ︼ ! ‘ j V 3 1 与 語 s r i l 4 e a 3 a 曳 a z a 努 ヨ a J 号 電 ﹀、宮は遂に源氏の意に従わぬ程の人柄でもあった。 朝顔は、現在ではありふれた花であるが、物語の成立頃 は、渡来薬草の牽牛子が、漸く観賞植物になり初め、まだ 新奇な珍らしい花として貴ばれていたであろう。今日にお いても朝顔の宮といえば、朝顔の花容のような楚々たる姫 宮が想像される。当時の人は我々以上に新しい輸入植物朝 顔の花のように清く貴い姫宮と思い浮べたであろう。 は ま ゅ う 花散呈は、タ霧が、﹁︵父源氏が︶浜木綿ばかりの隔差隠 し つ L 、何くれとなくもてなし紛らはし給ふめるも宜なり けり﹂と評する位の醜女である。しかし、また、﹁心ばへ 斯様に柔らかならむ人こそ相思はめ︿以上乙女﹀と思う程 立派な人柄であって、源氏も長男のタ霧のみならず、孫の 次郎君、三の姫君の養育という大任さえこの夫人に任せる 程重く見ている。花散里は染色・裁縫の技にも長じ家庭的 な女性でもあった。﹁花散る﹂といえば、淋しさを感じる が、作者は、この女性の人格を枝上豊艶に咲き誇る花より も、庭に散り敷く静かな花弁の美しさに似たものとしてか く名付けたのではあるまい γ か 。 光源氏が、始めて逢ったその明け方に見た常陸の宮の姫 は、﹁居丈の高う、を背長﹂だっただけでなく、﹁普賢菩 薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、さきの方 すこし垂りて、色づきたる事、ことの外うたであり﹂八以 上末摘花﹀と思う程醜い偉大な赤鼻の持主であった。この べ 托 ば な ゐ か 姫を﹁末摘花﹂と呼ぶ。。末摘花は紅花の別名、紅花は紅 花、﹁末摘花﹂はいうまでもなく姫の赤鼻をも、ちった緯名 である。源氏は、﹁階隠のもとの紅梅﹂が色づいても、﹃ く れ な ゐ の 花 、 ぞ あ ゃ な く う と ま る L 梅のたち枝はなつかし けれど﹄︿以上末摘花﹀と詠む程、赤といえば赤鼻の姫を 思い出し、恐怖さえしている。しかし、直接に榔撤するこ とはなく、他人にその醜貌を知らせることもなく、却って 同情を寄せ、一度契った人として最後まで生活その他の而 父 に あ か 倒を見ている。末摘花に関連して出ている言葉は、航・紅 ぽた︿れない 花・紅などで、末摘花の名を聞いても赤鼻の醜悪を感ずる より先に、女世の化粧に不可欠のむを思い、次で源氏のヒ ューマニズムを思い、源氏の漁色に対する嫌味も緩和する の で あ る 。 父題担黒の大臣と不縁になった母北の方と共に我が家を去 り ゆ く 姫 は 、 悲 し み の 歌 ﹃ ・ : : ・ 真 木 の 柱 は 我 を 忘 る 危 ﹄ を 真木柱の干割れに挿し込んで︿真木柱﹀、﹁真木柱の姫君﹂ の名を得た。菅公の﹁東風吹かば:::﹄の故事と趨きを同 じくするこの姫の悲しみは、向日公の伝説を知る今昔の読者 の 胸 を う つ で あ ろ う 。 その他、植物名のついた人には、﹁荻の葉・大和撫子・ 若草﹂等もある。また、栽植する植物の名が宮中建物の名 となり、ひいては、そこに住む人々の名となった、﹁桐査 の更衣・桐査の御方・藤査・藤査の宮・梅壷﹂等もある。

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これらの女御・更衣等の名が、淑景舎の更衣とか、飛呑 舎の宮とか、凝華舎の御方とかの如き清風の呼び方よりも 女性の筆になる源氏物語にふさわしく感じられるのはいう ま で も な か ろ う 。 源氏物語中、植物名を持つ人物は、 桐査の更衣、藤査と藤査の宮︵四人︶、大和撫子、撫子 若草、初革、荻の葉、朝顔の姫宮︵宮︶、夕顔、花散里 帯木、梅査、末摘花、紫の上︵若紫・紫・紫の君︶、真 木柱︵の姫君︶、紅梅の御方 であるが、これらの人々が総て女性であるとは、これらの 女性に優雅な感じを与えるのみならず、不知不識の間に物 語全般にも柔らか味を感じる効果を挙げている。作者の狙 いもまたそこにあったのではなかろうか。 男性中、若君タ霧を撫子と呼び、また、藤中納一言、藤宰 相等藤がつく人があるが、前者は愛子の意味であり、後者 の藤は藤原氏の藤であって、前記とはその意味が異る。

植物による人物表現 愛子を撫子や大和撫子などの言葉を以て表現する例は多 の ち いが、源氏物語の作者は、後の玉震に﹁撫子﹂を用い、そ の母夕顔を撫子の古名﹁常夏﹂を用いて表現した。 夕顔は契りも浅い億に、なにがしの院であえない最後を ﹁くもりなく赤き山吹の花の細長は、かのにしの対にた 遂げ、源氏にとって露忘れられぬ思い出の多い女である。 作者は子の玉霊に現代名︵平安時代の︶撫子を、母親夕顔 おのずか に古名の常夏を用いることによって、自ら親子の関係を感 じさせている。常夏の﹁とこ﹂は、契る意味の﹁床﹂にも か L れば、常にの一意味の﹁とこ﹂にもか L る。夕顔とは契 りあり、常に思い出づる女の意も兼ねた巧みな命名といえ ト l m A 夕顔の子の玉霊は、後には﹁山吹﹂に擬せられ石。玉重 が西の対に移って間もなくその部屋に渡った源氏は、玉霊 の 美 貌 に つ い て 、 ﹁さうじみも、あなをかしげとふと見えで、山吹にもて はやし給へる御かたちなどいと花やかに、ここ、ぞ曇れる と見ゆるところなく、隈なく匂ひきら/

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、 し く 見 ま ほ し きさまぞし給へる﹂︿初音﹀ と 思 い 、 タ 霧 も 、 ﹁昨日見しハ紫の上の︶御けはひにはけ劣りたれど、な るに笑まる L さまは、たちも並びぬベくみゆ﹂ る 程 で 、 ﹁八重山吹の咲きみだれたるさかりに、露のか L れ る タ 映ぞ、ふと思ひいで﹂ ている。八野分﹀ 年の暮に源氏はその容貌にふさわしい装束を選んで、各 婦人達に贈った。源氏が

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-前 自 問 戸 ﹂ 育 つ 、 小 、 そ っ 古 う 主 う ヰ キ H Z −

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﹁くもりなく赤き山吹の花の細長は、 て ま つ れ 給 ふ を ﹂ 紫の上は、見て見ぬ振りをしながら玉霊の容姿を思い合わ すのだった。︿以上玉童﹀ 即ち、源氏・紫の上・タ霧三人共玉童を山氏に見たて与 い る 。 更 に 、 三月になりて、六条殿の御前の藤・山吹のおも

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ろきタ ばえを見給ふにつけても、まず見るかひありて居給へり し御さまのみ思し出でらるれば、:・﹃思はずに井手の 中道へだっともいはでぞこふる山吹の花﹄顔に見えつつ ﹂八真木柱

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− − − 源 氏 さうじみも﹁あなをかしげ﹂とふと見えて、山吹にもて はやし給へる御かたちなどレと花やかに:::︿初音﹀ ||源氏 かの見つるさきん\のを、桜︵紫の上ゾ・山吹︵玉霊︶ といはば、・:八野分﹀||夕霧 と何れも山吹に見たて L い る 。 玉置は、物語中でも最も恵まれない悲惨な環境に育ちな がら、総ての困難を切り抜け、成長した後は、貴婦人とし て他に劣らぬ美容と才智を持ち、源氏も心から懸想する程 の女となり、母となっては愛情こまやかな賢母として子供 の養育をする等、物語中でも特殊な性格を持ち美事な行動 をした人である。その人にたとえる山吹は日当りよりも木 か の に

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の 対 に た 蔭に育つが、その花の色の鮮かさは人の心をひき、振り返 らせる程の美しさで、恰も玉霊の生い立ちゃ容姿や性格に も似たものがある。作者は玉霊を描くに当って、 1 4 霊 の 一 経 歴と性格は山吹に似たものだと考えたのであろろ。 桜は花の女王とされ、古来日本人に親しまれて来た。ヒ ロイン紫の上、川桜に擬えられるのは当然であろう。 ﹁面影は身をも離れず山ざくら心のかぎりとめて米

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か ど ﹄ ︵ 源 氏 ︶ ﹃あらし吹く尾上の桜散らぬまを心とめけるほどのはか なさ﹄︵尼君︶八以上若紫﹀ と贈答された歌、か、紫の上が﹁桜一になぞらえられる始め である、が、源氏が北山に行く時の﹁山の桜はまだ

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か り に て﹂の叙景や、北山を去る時の﹃宮人と行きて語ら

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山 さ くら・・﹄の歌も、ただに叙景や述懐として工なく、若紫を 桜にたとえる一つであろう。 若紫は、二条院に移り﹁紫の一君﹂となった。﹁いとも美 しき片生﹂ながら﹁何心もなくて物し給ふさま、いみじう らうた﹂き紫の君は、﹁無紋の桜の細長﹂を﹁なよらかに 着なして﹂いた。︿末摘花﹀ 源氏の妻となった﹁採の上﹂は、六条院の春の閣に住 む。野分の朝、父源氏の命で見舞に来たタ霧は、東渡殿の 辺りで、﹁見とほしあらはなる廟の御座にゐ給へるし﹁も のにまぎるべくもあら﹂ぬ紫の上を見て、

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-﹁ 気 一 旦 同 く 清 ら に さ と 匂 ふ 心 ち し て 、 春 の あ け ぼ の 一 の 霞 の 間より、おもしろきかぱ肢の咲きみだれたるを見る心地 がし、明石の姫が藤の花ならば、﹁見つるさきのん\の﹂ 紫の上は桜だと思った。︿以上野分﹀また、六条院寝殿女 一一一の宮の所で婦人方の合奏が行われた折め紫の上は、﹁花 といは工桜にたとへても﹂という容姿であった。 その翌日紫の上は急に重態となった。死亡の崎さえ開い た巷の人の問には、﹁かく足らひぬる人は、かならずえ長 からぬことなり﹂﹁なにを肢にといふ古事もあるは・:﹂ など、うちさ Y めいたのであった。八以上若菜下

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源氏の妻という地位・美貌・尊敬と儲慢、これらを万人 の愛する桜にうつ

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、そしてまた北山の﹁若紫﹂から﹁紫 の上﹂の晩年まで桜に擬えているが、死後も二条院や六条 院の人々は、事ある毎に、﹁春の桜は、げに長からぬに

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も、おぼえまさる物となむ﹂︿匂宮﹀と生前の紫の上を偲 んで語り合うのであった。 的 品 川 内 上 、 が 愛 孫 匂 官 に 、 自 分 の 愛 す る ﹁ 紅 梅 と 絞 は 、 花 の 折/\に心と父めて、もてあそび給へ﹂と生肱から遺言し て譲り、匂宮は、この桜を﹁古ふろが桜は咲きにけり﹂︿以 上匂宮﹀といって愛し、二条院で浮舟の母北の方の日に映 った匂宮は、﹁いと清らに、桜を折りたる様し給ひて﹂︿ 東屋﹀いたことなど、匂宮と桜の関係が多いのは、紫の上 あらうかと先乙考察した、が、重ねて考えると均語こちら︵つ を 桜 に た と え ? に 余 韻 で あ ろ う 。 花散里は、屡々﹁橘﹂を以って表わされている。源氏が出 景肢の妹の三の君︵花散里︶を訪れようと中河の辺りを過 ぎると橘とゆかりがある郭公が鳴いてい伐る o 女御の邸に着 くと﹁近き橘の去り懐しう匂ひて﹂郭公がまた山き搾る σ 源氏は、﹃橘の呑をなつかしみ邦公花散る旦をたづねて、そ とふ﹄と﹁忍びやかにうち論じ給ふ﹂のであったっ川女御 もまた、﹃人目なく荒れたる宿はたち花の花こそ州のつ主 となりけれ﹄との給った。︿以上花散旦﹀情にかよう花山 里という源氏の気持がよく表われている。 ﹁ 卯 月 J ばかりに・:月さ

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出でたり、一源氏が化散叩の 郎に赴く途中、風のまに/\いい去りがする。花山川市心の勺 橘に変りてをか

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ければ、さ

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出で給へるに﹂︿以

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、そこは末摘花の常陸の官邸であり、橘の花散川県では仕 かった。源氏は、花故里と陥とな県一く結びつけ、わく道々 も 思 っ て い た 。 六条院の庭造りにおいても、源氏は花散問中の町一北のひ んがしは、:::卯の花咲くべき垣根をことさらに被

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て 、 背 思ゆる花たちばな・:などゃうの花くさ作\を航るにた。 ︿乙女﹀ 橘云々には、古今集の﹃五月待つ花たちばなり行をかげ ば 昔 の 人 の 袖 の 香 、 ぞ す る ﹄ の 意 を 引 い て よ く 使 わ れ る 、 か 、 花散用一の場合も例外ではない。花散里の名の意味はこうで 民 主 ト れ 、 F U イ 交

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、 E £ ト ヒ 、 E H 司 乳 、 、 河 百 円 、 許 可 J ヨ ミ レ 信 号 J 主 主 ↓ こ E

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4 H 閉 山 匡 t \ \ LJi 、 ︿ 7 あろうかと先に考察したが、重ねて考えると物語にあらわ れる花散里の性格は、家庭的な、何物をも包容する暖い心 の持主であり、その存在を特別に意識させる事はしないが 何かあればその人を思い出さずにはいられない様な人柄で ある。それは恰も橘が左程目立たぬ小さい花ながら、強烈 でないやわらかな稜郁とした香を持つのに似ていると思わ れ る L 備の白い花弁が一両に散り敷き、ほのかな呑りが漂 っている様、それが花散旦の性格ではなかろうか。

植 物 名 の 利 用 ︵ 後 人 に よ る も の ︶ 制氏物語成立後、本文にはないが、物語解読の使宜上後、 の人の付した通称の人名も少くない J 植物関係にそれを求 め乙と、死残時の巻名によったもの︵例えぽ葵の上、柏木 ︶、川蝉する巻名によった JU の︵紅一栴︶、歌中の句を用い た 7 もの︵溶史の官、軒端の一荻︶、その住いに栽培している 杭物名によるもの︵桃園兵部刑の官、タ関心などがそれで、 藤伝内如く、藤査中宮、藤査女御などと同じ藤査でも同一 人と出らない U M 明らかにしたもの J め る コ 巻名も、文中の一歌によるもの、討によるもの、住いの名 に上ゐもの等、五十四帖出、植物関係は、 制打川、帝木、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、 賢木、花散円 h 、蓬生、松風、朝顔、常夏、藤袴、莫木柱、 梅 枝 、 藤 一 一 葉 、 若 菜 上 ・ 下 、 柏 木 、 紅 梅 、 椎 木 、 早 蕨 、 宿 木 と二十圧に達する。 人名について見ると、比較的若死した柏木でも、原文中 の称呼は二十二あり、内十三は他の人物の称呼と同一であ り、残りの九の中においても他と紛れないものは僅かに﹁ 岩漏る中将﹂の一つぐらいであるが、柏木の通称によって 如何に後学の者が物語研究に便宜を得ているか計り知れぬ ものが r のり、これも作者が一部の人じはあってもその性質 をも推測し得るような植物名を付けた影響によるものであ 人 ご っ 。 7 1 ・ つ / 一 /一\ '-J の 宴 花 車工 源氏物語には、祝賀に、社交に、八ム私にわたり花・紅葉に つ け 紅 葉 の 賀 ・ 花 ︵ 桜 ︶ の 宴 ・ 藤 の 宴 ・ 萩 の 一 宴 等 、 が 催 さ れ た ことが記されている。菊の宴がないのは、当時まだ宴の対 羊となる程消の閤主が発注

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ていなかった為であろうか。 ー次位院に行幸の紅葉賀に灼いて、主人公光源氏は大きく クロースアップされた。その試楽における源氏中将の舞は 帝が出川将のに比し格段に優れている旨仰せられ、藤査も ﹁おほけなき心なから支しかぽ、ましてめでたく見えまし 一と思しな、から、﹁殊に侍りつ﹂と聞え給ふ程の出来映え であった。行幸の当日は猶更で、源氏は試楽の日と同じく

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青海波を舞ったが、挿頭のむ葉が散ると左大将は、﹁御前 なる菊を折りてさしかへ﹂た。︿以上紅葉賀﹀帝は御満足 その他の方 J U 源氏もまたこの時のことが、氷く忘れられな 、 。 / 後の花の宴で、春宮はこの一 i 御紅葉の賀のをりおぼし出 でられて﹂﹁かざし給はせ、切にせめたまは﹂している︿花 宴

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。下って、冷泉帝が紅葉のさかりに上皇朱雀院と御一 約に六条院の源氏邸に行幸になったのは源氏三十九才の秋 で、紅葉賀から二十一年を経ているが、源氏自身なお当時 を忘れず、﹁朱雀院の一紅葉の賀の例のふることおぼし出で ら﹂れた程である︿藤裏葉﹀ミ十八才の源氏が﹁正三一位し 給ふ﹂栄誉を得たのも紅葉賀の﹁その夜﹂︿以上紅葉賀﹀ の こ と で あ る 。 紅葉賀の巻の読者は、庭に散り敷く紅葉の錦、拍から舞 い務ちる紅葉の美を限に浮べると共に、その紅葉の中で舞 −の袖を翻す若き日の源氏のあで姿を想像出来る o 作 者 は 、 この情景描写に当り、たけ︵紅葉の黄や紅の色のみを用いず 菊を配し、﹁いひ知らず吹き立てるもの一、音どもにあいた る松風﹂のあたる常盤の松の色を配し、舞の名もインヂゴ ︵計一む色を思わせる青海波を選び︿以上紅葉賀﹀、種々の 色を合む情景の中に紅葉を浮き上らせ、紅葉と共に舞う源 氏の動きを出している o 花の宴の一つに、﹁二月の廿日あまり、 南殿の桜の宴せ させ給ふ﹂た﹁桜の花の宴﹂がある︿花宴﹀。﹁紅葉賀﹂ の折の様に、大仕掛の御宴ではないが、ここでは御宴に臨 んだ藤直中宮、弘徽殿女御の心中の葛藤が大きく措かれて い る o また、源氏、が、臨月夜と初めて違い、この関係が発 展してやがては源氏の須磨下りの原悶ともなることがこの 宵 起 っ て い る 。 源氏は、須磨の一配所で、﹁南殴の桜は盛りになりぬらむ 一年の花の宴に:・﹂︿須磨﹀と当時を懐しみ、薄雲女院 崩御に際しては二条院の御前の桜を御らんじては、花の宴 の を り 7ぱど思し出﹂で、﹁今年ばかりはとひとりごち給ひ ﹂人市民﹀、花の宴に出座あった在りし日の藤査中宮を偲 んでいる。朱雀院は春宮としてこの宴に啓せられたが、後 に冷泉帝の桜の頃、朱雀院行幸の際春健闘怖が舞われると、 ﹁土日の花の宴のほどおぼし出でて﹂﹁またさばかりの事見 て む や L ︿乙女﹀との給わしている o こ の 花 宴 の 記 事 は 、 宴そのものだけでなく、源氏と臨月夜との関係、須磨・明 石落ち等の序ともなっているといえよう o 花宴後間もなく、二一月の廿日余り、右の大般の邸の一弓の 結の一後には、藤の花の宴があった。源氏は弓の案内には応 じなかったが、四位の少将の迎えもあり、帝の御勧めもあ って、﹁御装などひきつくろひ給ひて、いたう暮る L 程 に またれてぞ渡り給ふ﹂た︿花宴﹀ o 作者は、この宴を設け る こ と に よ っ て 、 源 氏 、 が 先 に 弘 徽 殿 の 細 殿 に 立 ち 寄 り 、 一 一 一

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-4 4 E メ υ 曙官〆 ι v − d b u ‘ の口に行ってふと袖をとらえた女、即ち、後の臨月夜め身 一五を明確にする機会を与え、臨月夜との関係の一発展、そわ あ や 以後の波調の序となし、物語に変化と文を出す素地を作っ て い る o ︿藤一一葉﹀の藤の一花の宴は、内大臣の私宴で、内 大日一家と、その婿たるべき宰相タ霧のみの集いである。 組問大宮の許で育ったいとこ同志のタ霧と雲井の雁は、 幼い同から相思の間柄であったが、雲井の雁の父内大臣の 不理解で長年その恋を果し得ない。しかし、内大臣、が娘の 婿と

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て周囲の男性をながめるとタ霧に勝る者なく、遂に はタ認に許さ£るを得ず、その許す機会がなとうか

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っ て いたり作者は、この内大臣の心情を、 ここらの年頃のおもひのしるしにや、かのおと父も名残 なくおぼし弱りて、はかなきついでのわざとはなく、さ すがにつきづきしからんと思ずに︿藤一一葉﹀ と記している。内大臣は、藤の花のさかりに宴を聞き、そ れを機としようと企て、息柏木を案内に立てる。タ雰の父 源氏は、﹁思ふやうありてものし給へるにやあらむ:・﹂ ︿藤一美葉﹀といって、親心から自分の御料の直衣と下裂を 着せてタ一拐を送り出した。タ霧が雲井の雁を許されて、長 年の芯を成就したのはこの一宴の夜であり、作者は、巧みに 藤の花に恋のピリオドを打たせている。 冷泉帝は女二の宮が薫に降嫁の一﹁明日の日とての日、藤 査にうへ渡らせ給ひて藤の花の宴せさせ給ふ﹂﹁おほやけ わざにて、あるじの宮の仕うまつり給ふにはおらず﹁︿宿 木﹀即ち、皇女降下に際する御別れの公式宴を聞かせられ た。上達部・殿上人が集い、親王達も集り、楽所の人々も 石され、参加の人々の奏楽もあった。この盛大な宴で最も 両日を施したのは婿蓋⋮で、帝から御盃も、御歌 J U 賜 っ た 。 し か

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、作者は、このめでたい宴に、九百日て女二の官の母 藤十一宜女御に懸想し、女御が入内、女二の宮が生まれ長ずる に及んでは、そのこの官を得んと思っていた紅梅右大臣を 列席させ、その傷心の状を拙き、物語に抑揚をつげること を忘れていない。

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-目JI 栽 源氏物語所出の前裁は、庭先に植えた草木の種類や状態 だけの叙述でなく、人々の心理、生活の一状態や情景、人物 の描写等に用いられている。主なものを用途別にすると次 の よ う で ﹂ め る 。 ハ 円 心 理 描 写 ︿桐長﹀御前の宝前栽のいとおもしろき盛りなるか﹂御覧 ず る や う に て 、 忍 び や か に ・ : : ・ 更衣死去後、桐査帝傷心の情態で、御覧になっている前 栽のおもしろき盛りと反対。 ︿夕顔﹀ほどなき庭に、、されたる呉竹、前栽の露は、猶

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: :111 | | か Lふる所もおなじごときらめきたり。 源氏が夕顔と共に見た五条夕顔の仮住いの庭、 民の生活を知った。 ︿タ蹴﹀御前の前栽かれ

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に虫の音も鳴きかれて:: かの夕顔のやどりを思ひ出づるもはづかし c タ制限死後二条の院に引きとられた右近の感慨。 ︿紅茶賀﹀一胸のやるかたなきをほど過ぐして大い殿へ﹂ とおぼす。御前の前裁の何となく青み渡れる中に、常夏の 花 山 中 、 山 に 咲 き 出 で た る を 折 ら せ 給 ひ て 、 藤 h 況の生んだ若宮を、御身の幼い時そっくりだといわれ た後の源氏の心境。 八 代 会 ﹀ 君 は 聞 の 一 安 の 一 勾 欄 に お し か Lふりて、指枯の前栽且 給ふ程なりけり 0 ・ : ・ ﹁ 雨 と な り 平 一 ー と な り に け む 今 は 知 ら ず ﹂ L ﹂うちひとりごちて、頬杖っき給へる御さま 誌 の 上 死 技 後 の 一 源 氏 傷 心 の 有 様 。 ︿ 作 待 出

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秋の雨いと静かに降りて、御前の一前栽の色々人 だれたる露の

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げさに、御袖も濡れつ t A ・ : ・ ﹁ 前 栽 ど も こ そ後りなくひもとけ侍りにけれ:::めはれにこそ﹂とて、 柱によりゐ給へるタぱえ、いとめでたし 市官女御里帰りの際、源氏は前栽の花を見る悼に、自ら の感情を前栽の花によせて口にした。 ︿判断﹀あなたの御まへをみやり給へば、枯れ枯れなる 前栽の心ぱへもことに見渡されて、のどやかに眺め給ふら 源氏は庶 む御有さま・かたちも、いとゆかしく哀にて・ 桃園の宮の女五の宮と話しながら、源氏は気持も限も朝 顔前斎院に向けている。 ハハ朝顔﹀しをれたる前栽のかげ心苦しう、遣水もしとい たくむせびて、池の一氷もえもいはず婆きに、童ベおろして 雪まろばしせさせ給ふ。 朝顔前斎院のことで紫の一上は不興、源氏は御機練直しに 大悶りする、雪まろやはしも源氏の考えた御機嫌直しの一 で 主 η た ﹁ ︿常夏﹀おまへに乱れがはしき前栽なともうゑさせ給は ず、撫子の色をと与のへたる庶の大和の包いとなっかしく 結ひなして 他の掃人は春夏秋冬の庭を作ったが玉置のは抑子一色で ある。玉霊の性格の一端がうかにえる。玉量は u d 日 て 撫 子 と も 呼 ば れ た 。 ︿若菜下﹀遣水・前栽のうちつけに心ちょげなるを見い だし給ひても、あはれに今日まで経にけるを思ほす。 二 条 の 一 院 で 病 気 療 養 中 の 紫 の 上 の 一 心 境 。 ︿横笛﹀うち荒れたる心地すれど、あてにけたかく住み なし給ひて、前栽の花、ども虫の立円しげき野辺とみだれたる ゆふぱえを見わたし給ふ。 故柏木邸は荒れたが、故柏木の一夫人吉葉の宮の生活は . ・ : タ 一 霧 、 が 訪 れ た 時 の 前 栽 の 有 様 。 タ 霧 が 後 に 宮 と 結 婚

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− a , 曹 司 劃 遥 竃 宮 製 M 塚 、 “ J a する前提の気分が十分察しられる。 ︿タ霧﹀前の前栽の花どもは心にまかせて乱れあひたる に : : : い で 給 は ん 心 ち も な し 。 小野の山荘に落葉の宮を訪ねたタ霧の心境。 ︿幻﹀七月七日も:::まだ夜、深うひとところ起き給ひて ::前栽の露いとしげく::・いで給ひて﹃たちばなのあふ せは雲のよそに見てわかれの庭に露ぞおきそふ﹄ 紫の上死去後、傷心の源氏の七夕の夜の感慨と歌。 ︿匂宮﹀お前の前栽にも、春は梅の花の国をながめ給ひ 秋は:::物げなきわれもかうなどは、いとすさまじき娼枯 の頃ほひまでおぼし捨てずなど 薫の薫りに何とか追いつこうとする匂宮のあせり。呑を たくばかりでなく前栽の花の香をさえうっそうとしてい ヲGo ︿宿木﹀かれ/\なる前栽の中に、尾花の物より殊に手 をさし出でて招くがをかしう見ゆるに 匂宮は、妻中君への薫の手紙でやきもきしている。鮫妬 心から尾花も中君を招く薫の手に見えた。この後匂宮は ﹁ほに出でぬ物思ふらし篠す L き:﹂と詠んだ。 同 生 活 状 態 の 描 写 ︿帯木﹀ゐ中家だっ柴垣して、前栽に心とめて植ゑたり 中 河 の 紀 の 守 邸 。 ︿夕顔﹀御心ざしの所には、 木立・前栽などなべての所 に似ずいとのどやかに、心にくく住みなし給へり。 故春宮の六条御息所の生活。 ︿末摘花﹀::前の前裁の雪を見たまふ o ふみあけたる 跡もなくはる/\と荒れわたりて、いみじうさびしげなる 末摘花邸の荒れた様。 ︿明石﹀木立・立石・前栽などの有様:::﹁心のいたり 少なからむ絵師はえ書き及ぶまじ﹂と見ゆ 明石入道の浜辺の館。 ︿明石﹀前栽どもに虫の声をつくしたり 明石入道の岡辺の館。 ︿蓬生﹀木草の葉もたけふ凄くあはれに見なされしを、泣 水かきはらひ前栽のもとだちも涼しうしなして 源氏の心遣いで、常陸の宮︵末摘花︶邸の手入れ。 e ︿松風﹀前栽どもの折れふしたるなどつくろはせ給ふ。 大井の里の明石の上の住い、源氏の心遣いで手入れ。 同 情 景 及 び 人 物 描 写 ︿夕顔﹀−前栽の色々乱れたるを、通ぎがてにやすらひ給 へるさま、げにたぐひなし。 六条御息所の見た源氏の姿。 ︿須磨﹀前裁の花いろ/\咲き乱れおもしろき夕暮に、 海見やらる L 廊に出で給ひて庁み給ふ御さまの:::この世 の物とも見え給はず

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自分が思いに沈めば皆も心細いだろうと須磨の諭居で心 遣いする源氏の姿。 ︿松風﹀物どもしな/\にかづけて、霧の絶問にたちま じりたるも、前栽の花に見えま、がひたる色あひんはど、殊に めでたし 桂院に泊った源氏の出発の有様で、こ L ではかずけ物を 前栽の花にたとえている。 ︿野分﹀南のおと父にも前栽つくろはせ給ひげる折にし も、かく吹き出でて この文は野分の惨害をはっきりさせる。 ︿藤一塁栄﹀前栽どもなど小さき木どもなりしも、いとし げき陰となり タ霧新夫婦が住むことになった祖母故犬宮の一一一条殿の庭 二人は嘗て此処で祖父母の膝下に育った。 ︿柏木﹀前裁に心いれてつくろひ給ひしも、心にまかせ て繁りあひ 柏木死去後の一条の宮の荒れ方である。タ霧は屡々訪れ る 。 ︿御法﹀すごく吹き出でたる夕暮に、前栽見給ふとて脇 息によりゐ給へるを、院わたりて見たてまつり給ひて 紫の上は病気療養中、源氏はその小康状態を見て喜び、 ﹁今日はいとよく起き居給ふめるは。この御前にてはこ よなく御心もはれん\しげなめりかし﹂という。 ︿ 総 角 ﹀ ま ぎ る L ことなくあらまほしき御すまひに、御 前の前栽ほのかには似ず、おなじ花の姿も木草の除きざま も殊に見なされて・::起きおはしましけり o 母女三の宮の三条の宮焼失後、蒸は六条院に移り佐ん 、 F ﹂ 0 1 7 j ︿東屋﹀こなたの廊の壷前栽のいとをかしう、色々に咲 き乱れたるに・・:端近くそひ臥して眺むるなりけり 匂宮は二条院で新しい女童を見、次で浮舟を見た。 ︿東屋﹀端の方に、前栽みるとて居たるは、いづくにか − 劣る、いと清げなめるはと見ゆ。 常隆守の北の方が見た少将の姿。 八東屋﹀なぐさめに見るべき前裁の花もなし 匂宮の好色わずらわしく、一二条わたりに隠れた浮舟の一応 如何にもあわれである。 八千習﹀造りざま、故ある所の木立おもしろく、前栽も をかしく故を尽したり。 浮舟を引きとった貴い身分の尼の庵の有様で、尼の尚良 さ が よ く わ か る 。 以上をみると、前栽の様子・植物の種類等自然の、ミニユ チユアとしての前栽の模様が書き表わしてあるだけでなく 源氏物語の人々は前栽を眺め、物を思い、傷心を慰し、或 いは悲しみを倍し、また時には前栽を舞台として恋合育て 恋の葛藤の芳をのばしていたことがわかる。

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前記摘記には、︿乙女﹀の六条院の四季の前栽は別項に 掲げるので、︿野分﹀の﹁中将の下襲か、御前の査前栽の 宴もとまりぬらむかし﹂は、単なる行事のことなどで省い た。また、物語中にある桐査・藤壷・梨査・悔壷等の前栽 が、桐、藤等であり、﹁明日とての日、藤査にうへ渡らせ 給ひて藤の花の宴せざぜ給ふ﹂︿宿木﹀た藤査の藤が、蒸 から今上の御かざしに折ってまいらせたことなども、物語 における前栽、が、夫々の役割を果しているものといえよ

﹀ 勺 ノ

四 季 の 草 木 六条の院には、春の上︵紫の上︶、夏の御方︵花散里︶ 秋好中宮︵冷泉院の后の宮、後の人のつけた通称︶、冬の 御 方 ︵ 明 石 の 一 上 ︶ 春 夏 秋 冬 四 季 の 婦 人 が 住 み 、 そ の 久 口 々 の 町には、四季夫々の前栽が植えられた。︿乙女・削蝶・野 分﹀の記述から、その品種を摘記すると、 ! J J 4 9 1 4 p s i −

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3-光源氏一辰己一春の花の木︵数をつくず︶ 一一五葉・紅梅・桜・藤・山吹・ 春 一 紫 の 上 一 ! 一 一 ︵ 南 ︶ 一 岩 廊 崎 ・ 苔 ・ 柳 一︵春の上︶一芳一︵秋の前栽を交ぜる︶ 夏の木のかげつくるもの 呉 竹 ・ 森 の 様 な 木 ・ 卯 の 花 同 一 一花散旦一丑寅一一・花橘・御子・義被・くたに 重 一 一 ヒ 一 ︵ く た に は 、 木 丹 、 叩 九 、 く

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一 ︵ 夏 め 御 方 ︶ 一 ︵ 刺 ︶ 一 b な し ? ︶ ↑︵春秋の木草をか︵せろ︶ 一 束 の 間 一 菖 蒲 ︵ 馬 場 あ り ︶ ト 一冷泉院一未申↑秋わ野合つくる︵もとの山あ 秋 一 の 后 の 百 一 一 り ﹂ − r 一 ︵ 四 ︶ 一 紅 葉 の 木 ど も ︵ ⋮ 同 一 好 一 怖 札 口 ︶ 一 比 一 撫 子 、 紫 苑 一 ︵ 北 国 築 き わ く ︶ 明石の上一戊亥一その隔ての垣にから竹・しげ 一 一 ︶ 斗 と 一 一 一 松 の 木 ︵ あ さ 顔 ︶ 晶 一 ︵ 冬 の 御 方 ︶ 一 ︵ 閏 ︶ 一 菊 ・ 龍 胆 ・ わ れ は 顔 た る 杵 原 一 一 一 ・ 名 も 知 ら ぬ 深 山 木 ど も 住 む 人 町 前 栽 の 品 種 事

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これらの品種は、四季それ p p l にふさわしいものである が、注目すべきは、紫の上の庭には、﹁秋の前裁をばむら むらほのかにまぜたり﹂、花散旦の庭には、﹁春秋の木草 その中にうちまぜしとあり、秋好中宮と明石の上にないこ とであって、これは婦人達の身分に関連 L ての源氏の希望 を表わしたものと思える。 秋好中宮は、一の院の御子前坊の子で、帝の孫、現在は 中宮で四婦人中最高の地位。紫の上は、先帝の御子三条式 部卿の宮の娘で、これまた帝の孫、源氏現在の第一夫人。 花散里は父母こそ不明であるが一蹴景殿女御の妹で現在源氏 の第二夫人。源氏は、出生地位の劣れる紫の上には秋好中 宮の秋の前栽を、花散旦には、中宮の秋の木平と紫の上の 春の木草をまぜ植えて、身分の劣れる分を補わんと、 ν た の ではなかろうか。明石の上は、母系で中務の宮の曾孫、父 系で大臣の孫に過ぎ、ず、所謂た丈人であり、従ってその町 も﹁北のおもて築きわけて﹂、また﹁その隔ての垣﹂も設 けたのであろう o た三﹁われは顔なる枠原﹂は、四婦人中 子があるのは明石の上だけで、﹁われ一人が母である﹂と いう誇らしい気分を表わしていると思える。また、﹁をさ /\名も知らぬ深山木どもの木深きなど﹂も、その一女房達 、か中将の君とか、中務、式部などという名もない田舎育ち であることを意味するものであろう。

春秋優劣論に始まる一連の物語 六条の院の庭には、様々の植物が植えられるが、︿務一工 ﹀で源氏は、二条の院に里帰り中の斎宮女御︵秋好小宮︶ に、﹁春の花の林、秋の野のさかりをとり J ぐ 、 に 人 争 ひ 侍 りける﹂﹁いづかたにか御心寄せ侍るべからん﹂と春秋優 劣論を持ちかけ、﹁狭き垣のうちなりともその折の心見知 るばかり、春の花の木をも植ゑわたし、秋の草生も制り移 して、いたづらなる野辺の虫なも住ませて、人に御覧ぜ主 せんと思ひ給ふるを﹂と造園の意志を述べている。源氏が 三十二才の秋であり、六条の院完成の二年前であお。 ﹁しづかなる御住まひを﹁おなじ広く見どころありて、 こ Lふかしこにておぼつかなき山黒人などをも集へ住ません ﹂の御心にて﹂﹁六条京極のわたりに中宮のふる官のほと りを凹町をしめて﹂造営を始めたのは、源氏一二十一二才の時 であった o 紫の上が、父式部卿の官の五十の御賀も同じく するならば一珍らしからん御家にて﹂と工事を急がぜて、 つくりはてられたのは源氏三十問才の八月であったの造営 の企函から完成まで二年、物語の巻は︿薄雲﹀から間に︿ 朝顔﹀ど置き、ハ乙女﹀の巻末に至っている。 六 条 の 院 の 造 山 口 n 終 り 、 春 の 上 の 紫 の 上 は 、 ﹁ 十 九 廿 の 御

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つらひは、この頃にあはねど﹂の秋である為、彼岸の頃に 源氏と共に急ぎ移転、花散里は紫の上にそひて、秋好中宵

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− ョ , 窃 響 調 活 弱 3 F d 有 者 建 前 呼 肉 、0 3 記 看 1 i はそれより五、六日過ぎに、冬の方明石の上は神無月に移 った。作者は移転時期も四婦人の季節によく合致させてい る 。 秋である o 中古は早速に、・﹃心から春待つ園はわが宿の 紅葉を風のってにだに見よ﹄の消息と共に、御箱の蓋に秋 らしい色々の花・紅葉を取りまぜ、濃き紫の柏、紫苑の織 物をかさね、赤朽葉の羅の汗れと何れも秋の色彩の服装を した女童に届けさせた。紫の上は、﹃風にちあもみぢはか るし春の色を岩根の松にかけでこそ見め﹄との文を、御箱 の誌には苔を敷き、美事な造り物の五葉の枝につけて返し たが、源氏は、﹁この紅葉の御消息いとねたげなめり o 春 の花ざかりにこの御いらへはきこえ給へ。この頃紅葉を言 ひくたさんは、立田姫の思はん事もあるを。さし退きて花 のかげにたち隠れてこそ強き言は出で来め﹂と忠告した。 秋好中宮と春の上のこの遣取は地の春秋の争いである。 ︿以上乙女﹀ 紫の上の春の園では、百花総乱の﹁三月の二十日あまり の頃はひ﹂、紫の上は﹁唐めいたる舟﹂を﹁おろしはじめ させ給ふ﹂た。この日、源氏からも中宮の御ましを勧誘し たが、中宮の御身分ではそう軽々しく御出ましも出来ず、 同引きに応じたのは中宮の女房達だけであった。女房達は、 華 一 一 ん 仙 舟 お ろ し の 行 事 を 、 翌 日 ﹁ げ に 春 の 色 は え お と さ せ 給ふまじかりけり﹂と﹁花におれつ L 聞 え ﹂ か わ し た し 、 中宮は、秋の町で、春の園の賑いを﹁物へだてて、ねたう 聞し召し﹂たのである o 中宮と紫の上の二度目の春秋戯で あ る 。 紫の上が舟おろしの日取りをこの日にしたのは、翌日が ﹁中宵の御読経のはじめ﹂であり、後記の演出の効果を一 層大きくしようとする考えがあったことは、舟の装ひも﹁ いそぎそうぞかせ給ひて﹂とあることによっても知られ る 。 翌日の中宮の御読経始めに当って、紫の上から仏前へ供 えられた花は、銀・金の瓶にきした桜と山吹であり、﹁鳥 ・蝶に装束きたる童﹂達は、﹁御前の山ぎはより漕ぎ出で て中官の御前に出づるほど風吹きて瓶の桜﹂はすごし散っ た o 中官から童ベどもへの禄は、桜と山吹の細長であった し、﹁花園の胡蝶をさへや下草に秋まつ虫はうとく見るら ん﹄との紫の上の消息をお届けしたのは中将タ霧、中宮は タ霧に﹁ふぢの細長そへて女の装束かづけ給﹂ひ、﹁かの 紅葉の縄返りなりけり﹂とほ与えんで消息を御覧あり、﹁ きのふは、ねに泣きぬベくこそは、﹃こてふにも誘はれな やまぶき まし心有て八重款冬をへだてざりせば﹄﹂との御返りがあ った︿以上胡蝶﹀。春秋の争いはこ L でやっと終ってい る 。

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-なお紫の上の春の園に植えであった山吹は、舟おろしの 日美事に咲き匂い、招かれた中宮の女房達は、この美事な

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山吹に寄せて歌を詠み、山吹に擬らえられる西の対の玉霊 に﹁中の思ひに燃えぬベき若君達など﹂︿胡蝶﹀は、夜を 徹しての遊びにその歓を尽したのである。 以上は、春秋優劣論に始まって、中宮御読経の日のこと まで、読者をして少しの退屈も感ぜしめない程変化がある 一連のストリーであり、更に山吹に擬せられる玉霊に関ず るストリーの閉幕でもある o ︵ 植 物 に よ る 人 物 表 現 参 照 ︶ そ

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て、これらの全場面に活躍し、各場面を繋いでいるの は、人物と色々な植物である。

あ や 物語の文をなす植物 源氏物語においては、一場面に出た事はその場岡山内でな く、吹々に展開されて行くことが多く、おのずから文とな る。植物がその繋ぎの役をなしているものの例を挙げてみ る。什幼い匂宮は、病弱の紫の上の﹁私が亡くなったら﹂ + A R み 4 9 との問いに対し、﹁父帝、母明石女御より祖母上が好きで す、祖母上死んではいけませんよ﹂と答え、紫の上から対 の前の紅梅と桜を譲られる︿御法﹀。 .紫の上の残後、匂宮はこの桜を﹁まろが桜が咲いた、帳 を立てたら散るまい﹂といって、自ら名案だと思う。源氏 は 宮 の 一 言 葉 を 聞 き 、 ﹁ 馴 れ 聞 え ん 事 も 残 り 少 し ゃ : : : ﹂ と + A験 + 涙ぐむと、宮は、﹁いやな事だ、祖母上と同じことを仰せ になる﹂と伏目になって、泣き面をかくした︿幻﹀。 。玉霊邸で、桜の細長の大君と薄紅梅の中君が碁を打っ ている時、兄左近中将は桜の枝を折って来て﹁御身達、が 小さい時、この桜を私のだ、私のだと争ったことがあるが 父は大君のだ、母は中君のだといったのが、御身達に気 に入らなかった様だ﹂と懐旧談をする o 姉 妹 は 桜 を 賭 け て勝負の後、中君が勝ち、夫−々味方した女房達、童のな れきまでが、賑かに歌の応答をする。その後、大君は、 冷泉院の御息所となり院の寵愛が深いが、先に入内の方 々から怨まれ、大君への思慕が叶わなかった帝は御気嫌 が悪く、玉霊の気苦労は絶えない。一方玉童は、院の御懸 想を忌んで院に参ることも出来ないが、蔭の事情を知らぬ 大君は、昔の桜の争いでも母は中君に味方をなさったが、 その名残りに、今も私をお構いにならぬと怨む様になる︿ 竹 河 ﹀ 。 同八一梅枝﹀の﹁二月の十日、雨すこし降りて﹂の後は、 御 ま へ ち か き 紅 梅 : : : さ か り に 、 色 も 香 も : : : 花 を め で つ L おはするほどに:::ちりすぎたる梅の枝につけたる 御 文 : : : し ろ き に は 梅 を 彫 り て : : : ︵ 歌 ︶ ﹃ 花 の 香 は : : : 散 り に し 枝 に と ま ら ね ど : : : ﹄ : : : 紅 梅 襲 の : : : そ の 色 の 紙 に て : : : 御 前 の 花 を 折 ら せ 給 ひ て ︵ : : : 歌 ︶ ﹃ 花 の 枝にいと

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心を染むるかな人のとがめん香をぱつ L め ど ﹄

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涙 ぐ む と 、 宮 は 、 ﹁ い や な 事 だ 、 祖 母 上 と 恒 じ ご ム ﹂ 主 事 生 軍 覇 空 想 唱 r g q 4 u t j が とある短い文の中に、梅関係の詞が十三も出るが、梅・紅 梅の詞は僅かに四回、而も実物は紅梅と梅が枝だけで、他 の二同は彫刻の模様と襲の色白であり、殆んどが花や枝で 代用されているにも拘らず、読者の心は梅に引きつけられ 後の歌の﹁花の校﹂が朝顔の君を意味することさえ気付か ぬ 穏 に な っ て く る 。 州側︿若菜上﹀の蹴鞠の記事における、 御附の間にあたれる桜のかげによりて、人々花の土も忘 れて::・桜の直衣のやム萎えたるに花の雪のやうにふり か t ふればうち見あげて、しをれたる枝すこしおし折りて ::花乱りがはしく散るめりや。﹁桜は避きてこそ﹂な どのたまひっ L も 同 じ 例 で あ る 。 例これと反対に、竹の場合は、一竹・から竹・くれ竹− e なよ竹・わか竹﹂と色々と使いわけ、ハ乙女﹀の六条の院 の肢造りにおいては、同じハチクを、花散旦の庭のは﹁く れ竹﹂とし、明石の上の住いには、﹁から竹﹂としている 如き例もある o 作者は物語執筆に当り、大きな構成を考える一方、次の 段附においてはその仕組みに色々の工夫をこらし、小さく は言葉のいいまわし︵修辞﹀にも細心の注意を払ってい る。それらが、物語全般を通じて美事た郊をなしているの である。物語は文字を目で見るだけでなく、読めば耳から 11= も入る。同語の重複を避けて、音韻的な効果を挙げること にも留意されていることがわかる。

引 歌 と 植 物 源氏物語成立の頃は、和歌に通ずることは上流社会や文 化人の必須の素養であり、和歌そのものが言葉でもあった と思える。作者が物語中に引いた一句も d 当時の読者は作 者の言わんとする所を直ちに理解し得たであろうし、歌の 要所を捉えて簡潔に書き現わされた方が返って興味をそ L り、強烈な刺戟となったかも知れない。 付引歌には植物関係のものが多いが、こ L には桜関係の みを摘記してみる。︿花宴﹀ほかの散りなむと教へられた り け む 見る人もなき山恩の桜花ほかの散りなん後ぞ咲かまし︵ 古 今 ・ 伊 勢 ︶ ︿薄雲・柏木﹀今年ばかりは ・深草の野ベの桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け︵古 今 ︶ ︿若菜上﹀桜は避きてこそ 春風は花のあたりをよぎて吹け心づからやうつろふと見 む ︵ 古 今 ︶ ︿若菜下﹀なにを桜にといふ古事もあるは 待てといふに散らでしとまるものならば何を桜に思ひぎ ~ ~7 ~

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さまし︵古今・古今六帖﹀ ︿柏木﹀あひみん事は 春ごとに花の盛りはありなめど逢ひみんことは命なりけ り ︵ 古 今 ︶ ︿幻﹀おほふばかりの袖求めけん人よりは大空におほふ ばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ、︵後撰︶ ︿匂官﹀春の桜はげに長からぬしも 残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中はての憂けれ ば ︵ 古 今 ︶ : : : 意 を と る ︿竹川﹀咲く桜あれば散りかひ曇り 桜花散りかひ曇れ老いらくの来むと言ふなる道まがふだ に ︵ 古 今 ︶ んハ竹川﹀散りなむのちの形見に 桜 色 に 衣 は 、 深 く 染 め て 着 む 花 の 散 り な む 後 の 形 日 比 に ︵ 古 入 門 ソ ︶ ︿椎本﹀春のつれん\ 思いやれ霞こめたる山里の花待つほどの春のつれん\︵ 後 拾 遺 ︶ ︿早放﹀主なきゃどの 浅茅原の主なき宿の桜花心やすくや風に散るらむ︵拾遺︶ ︿浮舟﹀見れども/\飽かず 引税霞たなび︵山の桜花見れどもあかぬ君にもあるかな︵ ﹂ の 今 ︶ ロ物語中の文には直接出ていないが、引歌に横物が出て いるものがある。例えば、へ夕顔の︵空蝉︶﹁益田はまこ とになむ﹂︵源氏﹀﹁生けるかひなきゃ、誰が言はましご とか﹂の応答は、﹃ねぬなわの苦しかるらん人よりも我ぞ 益 田 の A r − け る か ひ な き ﹄ ︵ 拾 遺 集 ︶ 中 の ﹁ 生 け る 甲 斐 な し ﹂ の語、そして空蝉の心情を表わしており、益田の池の﹁ぬ じゅんきい なわ︵呼︶﹂が蔭にかくれている。 八一浮舟﹀の﹃﹁誘ふ水あらば﹂とは思はず﹄という浮舟 の言葉も、﹃位びぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あら ば往なんとぞ思ふ﹄︵古今集︶中の一句を使っており、﹂ 誘う水があっても浮草の様に、その方に往こうとは思わな い﹂浮舟の心情をいとも筒潔に表わしている。 同引用しているのは、和歌中の句だけではく漢詩からの もある。白居易、長恨歌の﹁太液芙蓉未央柳、芙蒋如間柳 如屑﹂や﹁在天願作比翼鳥、在地願為連理枝﹂などが使わ れていることはいうまでもない。 帝は、女二宮を薫に下す御気持があり、蒸を碁の相手に され、﹁よき賭物はありぬベけれど軽々しくはえ渡すまじ きを何をかは﹂と仰せになる。お負けになると、﹁ねたき わざかな、まづ、今日はこの花一枝ゆるす﹂と宣わすっ薫 は、﹁御いらへ聞えさせで、下りておもしろき校を折りて 、まゐ﹂った。︿宿木﹀この一段は、皇女御降嫁の御内諾 であるが、これは、和漢朗詠集、恋・紀斉名﹁聞得圏中花

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-十 口 人 戸 寸 ﹂ 養艶、請君許折一枝春﹂の趣旨の小説化といえる。 以上は、極く一部の例であるが、和歌・漢詩の引用は、 文の簡易化よりもむしろ詳しく書かれぬ’為に、物語の一興味 を増し、物語を派手なものとしている。

色 彩 と 植 物 源氏物語には、白・里山・赤・青︵今日の緑︶・紫等現代 の色名もあるが、襲の色目と共に植物名の色名が多く用い ら れ て い る 。 的昔、葡萄、くちなし、蘇芳、丁字︵呑染︶、楳︵月 草 、 一 露 草 ︶ 、 橡 、 紅 ︵ 紅 花 ︶ 、 紫 、 ハ 山 ︶ 一 監 一例悦、一卯の花、女郎花、柑子、︵浅、前︺葱、栗、胡 桃、萱亙ー、桜、紫苑、橋︵皮﹀、藤、柳、山吹 等があり、その内的の項は染色原料名がその位色名となっ ている。物語中の色名、裂の色彩等の大部は植物の名をそ の ま L 色彩名、としているが、作者は、植物、着物の色、誌 の色目等をうまくミックスし、時には漸層法によって大き な効果を挙げている。 ハ門野分で、タ霧が秋好中宮を見舞うと、中日は女童達に 龍の虫に露飼わせられていたが、その童達は、﹁山草子加子 こき薄き柏、ともに女郎花の汗杉などゃうの時にあひたる﹂ ものを着て露を飼い、また﹁撫子などのいとあはれげに吹 き散らさる L 枝ども﹂をとって来る。吹き来る風は、﹁紫 苑こと件\に匂﹂っている︿以上野分﹀。読者は、この文 を読んで、実際の植物と着物の色、同州の香りとを分からか ねる心持がするであろう o

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八相蝶﹀の舟おろしの日、紫の上の庭には桜・山吹・ 藤が咲き匂っていた。翌日の中官の御読経始めに、誌のト からは桜、山吹が仏前に奉られ、それを惨ぐる烏・似の女 童達は、中宮かめ桜弱・山吹袋の納長を問問り、中日の河川へ 御使いじ参ったんグ霧には、マ騰の制長をへて女の以来九ペつ け給﹂うた。こ与でも生柏物の色どりと着物の色が附然と し て い る 。 在は主な例であるが、その他においても鉾の組一り尖取の 色を別ち︿藤真実の行事﹀、或いは粋人の装束と河聞の純 物の色との対比をうまく描き出して︿岩菜下、作で﹀ おり、それらも多くは、植物や指物名の色とりのし乙 で あ る 。 I ¥ Lノ 功 ︿ の 栴 成 と 柏 物 泌氏物語においては、屡々その修討において漸層法によ る効果を挙げているが、これにもまた植物が用いられてい る こ と が 多 い 。 年たちかへるあしたの笠の気色::数ならぬ 円 H J V 円 べ U U)

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it!l11 う ち だ に ・ : 伸ましていと三玉をしける御前は、庭よりはじめ見どこ ろマ多く、みがきまし給へる御方々の有様、まねびたてむも 言の葉足るまじくなむ 村春のおと父の御前、とりわきて梅の香も御簾のうちの 匂ひに吹きまがひて、生ける仏の御国とおぼゆ。さすがに うちとけてやすらかに住みなし給へり︿以上初音﹀ 作者のいわんとする所は、川円であり、紫の上の住いは極 楽浄土の如く、紫の上は、庭の梅の香の如く競争者もなく 安らかに住んでいるというにある、が的伺の文が如何に付を 強烈に感じさせているかいうまでもない。 。的御まへちかき紅梅さかりに、色も香も似るものなき ほどに、賛兵部卿の宮わたり給へり 帥 花 を め で つ t A おはする程に 判前のさい院よりとて、ちりすぎたる梅の枝につけたる 御文もてまゐれり 付同時に頼んであった香も届けられ、二つの瑠璃の杯に 入 れ 、 そ の 一 つ の ﹁ し ろ き に は 梅 を 彫 り て ・ : ・ : な よ び や か になまめかしくぞし給へる﹂ 仙川朝顔前斎院の文には、﹃花の呑は散りにし枝にとまら ね ど : : : ﹄ と あ っ た 村源氏は、使の者に﹁紅梅襲の唐の細長そへたる女の装 束、かづけ給ふ﹂た 川御返りもその色の紙にて御前の花を折らせ給ひてつけ さ せ 給 ふ ﹂ 0 更 に 制御硯のついでに、﹃花の技にいと父心を染むるかな人 のとがめん呑をばつ L めど﹄と書いた︿以上梅枝﹀。 作者のいわんとする所は、例の朝顔前斎院に対する源氏 の気持を表わした歌であるが、川

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川によって深刻強烈な も の に な っ て い る 。 日間的常陸の宮の姫君末摘花の邸は荒れている。允まに立 ちよる兄禅師も浮世離れした聖で﹁しげき草・蓬をどにか き払はむ物とも思ひより給はず、か kふ る ま λ に浅茅は躍の 面も見えず、しげき蓬は軒を争ひて生ひのぼる﹂ 帥霜月ばかりになれば:::朝日・ゆふ日を防ぐ、蓬・祁 のかげにふかう積りて、越の白山思ひやらる L : 例案内を乞うた惟光も、﹁昔の跡も見えぬ蓬の繁さかな ﹂と源氏に報告する程で、 判その状態を聞いては、末摘花に懸想する源氏さえ、﹁ ﹃尋ねても我こそとはめ道もなく深き蓬のもとの心合﹄と ひとりごち給ふ﹂のだった。 的しかし、流石は源氏で、﹁下部どもなどつかはして、 よも、ぎ払わせ﹂周囲の板垣などの修繕をさせた︿以上蓬 生 ﹀ 。 的から肘まで、末摘花邸の蓬であるが、作者の考えは結 局はその様に落ちぶれた姫も見棄てない源氏のやさしい心

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-﹂ は ヰ ム μJ レ V 私 剖 刑 t d L f 軍 曹 覇 聖 篭 控 訴 許 ℃ 繋 U 3 ⋮ を表わさんとするにある。叙景の詞を積み重ねるだけでな く、それ p p l に変化を持たせ、同において最高調に達せし め、肘で蓬を払わせる源氏の温情を出している。 局的柏木亡き後、落葉の宮の住む一条の宮の荒れ方は、 ﹁ こ Lふかしこの砂子うすき物のかくれのかたに、蓬も所得 がほなり﹂という有様である。

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タ霧は、一日落葉の宮から一管の笛を贈られ、母御息 所は、?﹂れなむ、まことにふるき事も伝はるべく聞きお り侍りしを。か Lふ る 蓬 生 に う 、 、 つ も る λ もあはれに見給ふる を﹂との言葉をそえられた。 ﹁蓬生にうづもる与もあはれに見給ふるを﹂という御息 所の言葉で、この笛の由緒あ一る尊いものであること、が表現 されているが、仰の﹁蓬も所得がほなり﹂は、一蓬生の i 一の効果を一層大にしている。同じ漸層法によりなが ら、前例同は五度辞句を重ねているが、この同の例は二度 重ねただけでこの様に効果を挙げている。

作者紫式部と植物 紫式部は、その作品源氏物語に多くの植物を問いている が、その知識はどうして得たであろうか。 式部は父の任地越前にも赴いた。きっと、その往復の道 々で、また越前での生活中に京と異った各種の植物がその 眼に触れ、或いは、太宰府に勤めていた兄、筑紫路にいた という親友の便りや話からも得る所が少くなかったろう o しかし、主な生活本拠である京近郊・家庭・宮庭にい同げる ものが知識の基礎であり、中でも文献、特に和歌によるも のは多いと思われる。 ともあれ、総じていえることは、作品源氏物語中に見る 植物の生態等の記述は正確であり、時には作者に l て 始 め て 為

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得るような詳細・また繊細なものもあること一七あ ス u

舟おろしの日は、ゴ一月の二十日あまり︵陽暦刊リド旬で 一般の桜は散る頃︶であった。作者は、この時季泣いに就 いて、﹁はかには慮り過ぎたる桜も今はさかりに日午人 r 一

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と 詐 り 、 柳 が ま い に 芳 を ふ か な い 正 月 廿 日 ︵ 陽 暦 一 一 汀 山 中 旬 ﹀ 婦人方の合奏の場における女一二の官の御方の姿を摘一与する には、この季節違いを辞るのに、﹁二月の中のトリ許の古 柳のわっかにしだり始めたらん心地して﹂︿若菜下﹀とい う詞を用いている。︵なお、紫式部

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記には、﹁二月ばか りのしだり柳の様したり﹂というこれに似た文句がある﹀ 0 物静かな小野の山荘の辺りで、タ霧の限に触れたものは ﹁枯れたる草の下より、われひとりのみ心長う這ひ出でて 露けく見ゆる﹂龍胆であった。﹁九月十余日﹂︿タ霧﹀︵ 陽 暦 十 月 中 旬 ︶ 頃 開 花 、 一 一 這 う 龍 胆 は ツ ル リ ン ド ウ で あ る 。 時期と合った、簡潔なその品種、その生態の美事な書き表

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わし方である。 ﹁花はかぎりこそあれ、そ L けたる礎などもまじるかし。 人の御かたちのよきはたとへむかたなきものなりけり一ハ 野分﹀との一文は、玉童の美容を花に警えたものであるが 園芸家・植物学者等その道の専門家は別として、花の美を 薬まで調べ、これこそ完全美の花とこのように断ずる人が 幾人あろうか、また、筆を執る程の人にしても、花の美を かくまで詳しく書き表わし得る人があろうか。 作者は植物に詳しい。旦つ、叡智’ D 正以て鋭く観察し、巧 みな筆によって、植物を物語中に活躍させている。前記、 議の観察と使用の如きは、その極致といえよう。

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-ひ 源氏物語が固文学史上でも、また、世界文学とでも誇る べき不朽の一大ロマンであることは、私が今更諜々するま でもないが、以上は植物に関する聞からみた源氏物語であ プQo 豊富な知識と鋭い観察力の所持者である作者は、巧みな 筆致で物語を書いた。植物の面においてもまた然りで、物 いわぬ植物も、物語中の恋の成行に、人と人との葛藤に、 人物の栄枯盛衰に色どりと潤いとを与えている。 源氏物語は、一千年もの昔に書かれた。しかし、今日我 々がこれを読む時、旧新の用語の相違というハンディキヤ ツプがありながらも、なお今日に草せられたかの様な新鮮 な感じを抱くのは、物語中に織りなされる人と植物の深い つながりや密接な融け合いがその一役を買っているからで あ ろ う 。 作者紫式部は、源氏物語中に、実に巧みに植物を使って いる。幾多の物語中でも、源氏物語程登場植物がその効果 を挙げているものはないのではなかろうか。

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-に表われた美

~u 本 美

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付 ﹃金閣寺﹄は昭和三十一年一月から十月まで、つ新削﹄ に 連 載 さ れ た 一 一 一 島 一 一 一 ト ー 一 才 の 時 り 長 編 小 説 で あ る 。 こ れ は 昭和二十五年七月一日早朝に起った金閣寺放火事件、か、素 材となっている。作者と小林秀雄氏との対談によると、作 者は事件の詳細や犯人である青年僧の経歴などを糾裕に調 査していることが分る o 事実、主人公に与えられている条

参照

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