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NO. 62
林屋辰三郎先生を悼む今 谷 明
部落のいまを考える⑩ 差別は幻想か 住田一郎 ひろば⑧ 世界を刺し違えた少年 武田秀夫 1997年度『こペる』会計報告
こべる刊行会林屋辰三郎先生を悼む
今谷
明 ︵ 横 浜 市 立 大 学 ︶ も と 四 私と故林屋先生との関係は少し変っていて、直接の門 と F ま 下生というのではない。私自身は ρ 外様の弟子 H あ る い は M 押しかけ弟子 M を自任しているが、先生にとっては 私がどういう存在だったのか、今となっては知るすべが ない。何しろ私は先生の授業なるものは一度も受けたこ とがない。そんな私に、林屋先生の追悼文を書け、とい う 編 集 子 の 御 所 望 で 、 なおかつ J 尽 都 に 闘 する林屋先生のお仕 事について﹂という 難 し い 注 文 が つ い た 。 ﹁京都に関するお仕 事 L は別に書いたこ とがあり︵拙稿﹁解説﹂︹林屋先生著 ﹃ 町 衆 ﹄ 中 公 文 庫 ︺ 、 同﹁歴史の場面を辿る立体的な案内書 L ︹ ﹃ 図書﹄五七五 号︺︶省略させて頂くが、追悼文については、私は所詮 私の接した範囲での先生の想い出しか書けない。従って し 申 ﹁ 先 生 を 偲 ぶ L に仮りて実は私自身を語ることになって あちかじ しまうのを恐れるが、予め読者の御海容をお願いする次 第 で あ る 。 まず先生との出合いから述べることにしよう。先生が 事実上主宰しておられた﹁大乗院の会 L ︵ 正 式 に は 日 本 だいむよういん 史研究会史料研究部会、拙稿寸 ﹃ 大乗院の会 ﹄ に学んだ ころ﹂歴史読本特別増刊事典シリーズ一一一号参照︶に 参加させてもらうため、鹿ケ谷の先生の御宅を訪れたの こペる 1は、昭和四一年︵一九六六︶六月の梅雨空の日の夕刻で あった。三十二年前のことで、私は大学四年生︵実は留 年して六回生︶の時である。私は当時、京都大学経済学 部の学生だったから、先生とは系累がなく、既に一年前 から同会に参加していた谷口昭君︵現名城大学教授︶の 手引きによって、恐るおそる御宅の庭を回って、会場と なっていた奥座敷の隅に座った。谷口君は村井康彦先生 の紹介で参会したと聞いていた。当時同会の常連は殆ん ど先生の直接の受講生である立命館大学日本史の学生・ 院生であった。従って谷口君と私とは、法制史と経済史 を専攻する学生という立場ではあったが、歴史学の専攻 生でないという意味では、変り種の参会者であったこと に な る 。 実は、谷口君とはほんの少し前、顔見知りになったば かりだった。その年四月、京都大学文学部で開講されて いた古文書学の授業の聴講生ということで知り合ったの である。村井先生と谷口君との関係は、その頃承ってい たような気がするが、想い出せない。とにかく、大乗院 の会へは、谷口君から誘われたのである。その時私が、 即座に入会する気になったのは、先生の御名前をよく存 じあげていて、ことに出版されたばかりの﹃天下一統﹄ ︵中央公論社、日本の歴史シリーズ︶を愛読していたか らである。また当時朝日新聞家庭欄に﹁紅と紺と L と 題 して先生が女性史記事を連載され、拾い読みをしていた ことも関係あるかも知れない。 先生自作の﹃年譜・著述目録﹄によれば、その時先生 は五二歳、﹃天下一統﹄所収の月報に載っていた顔写真 ど う が ん のとおり、童顔で温和な容姿であった。その研究会は、 そうじき一−一 毎週木曜の夜、先生宅で聞かれ、﹃大乗院寺社雑事記配 を輪読し索引カ
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ドを作成するのが内容であったが、中 途で四O
分程休憩雑談の時聞があり、師弟聞で色々問答 が行われる。それがとても面白く、私は一晩その会に出 ただけですっかりハマってしまったのである。木曜の夜 ② のサロンといえば、激石山房でのそれが想起される。 ﹃和辻哲郎随筆集﹄を読むと、芥川竜之介らの談論も、 あんな風だったのかなと思い合わされるのである。また 奥様やお嬢様の接待でお茶と菓子が出されたが、それも 楽しみの一つであった。今から考えるとか至福の一刻 μ だったが、それは元来、私が専攻とする経済学にどうも 興味が湧かず、身が入らなかったせいもあろう。このようにして私と先生の関係は、週一回の研究会を きっかけに始まり、続いた。私は卒業後役人となり、一一 年半ほど大阪の官庁に勤めたが、木曜の夜だけは残業時 間をやりくりして研究会に出るようにしていた。別に書 いたこともあるので詳細は略すが、結局東京勤務の一年 を除き、割合よく出席していたので、役人時代も林屋先 生との関係は続いていた訳である。昭和四五年九月、私 しさい は子細あって役所を退職し、京都へ戻って再び大乗院の 会に参加するようになった。翌年四月、京都大学大学院 に入学することが出来︵指導教官は岸俊男教授︶、アル バイトのため先生が編纂主任をしておられた京都市史編 纂所の編集補助員となった。今度は先生とは一面で師弟、 一面で雇主と雇員の関係になった。この仕事では、随分 と勉強にもなり、江戸初期の京都に関する古文書調査な ど楽しい思い出も多い。ただ年度末に厄介な問題が持ち 上った。アルバイトの賃上げ問題である。 数人のアルバイト雇員の聞で組合のようなものが結成 され、煽動する者がいて賃上闘争から抜け出すことは難 しい雰囲気であった。後から考えてみると、先生は一雇主、 とはいっても金を出すのは京都市だから、先生の意のま ひきず まになる事ではない。気の弱い私は引摺られる形で団体 交渉に臨み、ついに決裂してアルバイト仲間全員辞任す る事態になった。他の人々は以後、殆んど先生と縁が切 れた形になったようだが、私は先生とは学問上の弟子の た ま た つもりでいたので、偶まその晩聞かれた大乗院の会にも さ す が 再び﹁恐るおそる﹂出席した。流石にその夜の先生はあ まり機嫌よくなかったが、私の身勝手な気持ちを許して 下さったのか、段々以前通りに笑顔で接して下さるよう ア ル バ イ ト は や め た が 、 になった。以上のような次第で、 私は修士論文の作成を控えていたので、市史編纂所へは 一利用者の立場でその後も出入りを続けた。普通なら東 京大学史料編纂所へ行かねば開覧できない京都の古社寺 の文書の写真が、市史へ行けば簡単に見ることが出来た。 これは誠に有難いことで、当時は学園紛争の余波で大学 図書館等が封鎖されていたが、私は何とか修士論文を仕 上 げ る こ と が で き た 。 市史編纂所での史料閲覧は、以後五年ほど要するに私 の院生の間続いたが、当時所員であった守屋毅氏、森谷 魁久氏、鎌田道隆氏らには随分御世話になった。守屋氏 は私と同年輩だが、学問上はずっと先輩で、芸能史を専 3 こぺる
攻し、先生の学風の最も忠実な継承者であった。しかし 氏はのち民博︵国立民族学博物館︶の助教授時代、モー スコレクションの整理の無理がたたって急逝された。先 生の落胆は大きかったに違いない。横井清先生や西川幸 治先生とお近づきになったのも、私の市史通いの副産物 で、とくに横井先生には大変かわいがって頂き、山科の 御自宅や花園大学の研究室にはよく伺った。博士課程へ の進学後、予備校講師の口を斡旋して下さったのも横井 先 生 で あ る 。 私がオーバードクターの時、先生は私の就職の決まら ぬのを心配して下さり、再び市史の嘱託に雇われること になった︵その直後、京都大学の助手に内定したので結 局市史への再出勤は三ヶ月で終った︶。博士課程在学中 に私は将来のアテもないまま結婚していたが、その媒酌 は林屋先生にお願いした。また私の拙ない処女出版﹃戦 国期の室町幕府﹄︵角川書店︶も先生の御力添えによる も の で あ る 。 当時名古屋大学教授であった佐藤進一先生に面識を得 たのも、林屋先生の紹介である。私が修士論文作成中、 その一部を中間報告の形で﹃京都市史編さん通信﹄に掲載 してもらったが、それを目にとめられた佐藤先生が、感 想を林屋先生に漏らされた。その縁で以後私は佐藤先生 の御指導︵これも押しかけ弟子だが︶も仰ぐことになっ た。ともかく、一時は喧嘩別れした市史編纂所の機関紙 に投稿したことで、私と市史との復縁は公認の形になっ たらしい。先生が大変お喜びであったのを記憶している。 私が市史編纂所から受けた恩恵は、以上のように計り 知れぬものだったが、それに対して市史へは殆んど報い ることが出来なかった。僅かに﹃京都の歴史﹄別巻に、 室町期京都関係重職表を作ったこと、平凡社刊の新版に、 侍所・所司代について小文を書いた程度である。これは しかし能力の及、ばぬためで致し方ない。先生の学問は私 などが喋々するまでもなく幅広いよ文化的 u 前近代史で あり、本領は中世史・芸能史であったと拝察するが、若 年の頃の私は帽の狭い室町政治史で、先生の学風の継承 者でもなければ、学説の遵奉者でもなかった︵但し、土 一撲の本を書いたり、日本的 H 共同体 μ の問題に私が関 心をもち続けている一因は、やはり若い頃大乗院の会に 参加した影響があるように思われる︶。そんな私が何故 先生との接触を永く続けられたのか、今になってふり返
っ て み る と 、 一に先生の高潔なお人柄への傾倒であった と思う。研究会とは別に、個人的に御自宅へお伺いする ことも多かったが、いつも家庭的に温かな雰囲気を味わ うことができた。二月十四日の告別式の裏方で、お手伝 いさせて頂いたが、林屋家の家風は、なき先生のお人柄 そ の ま ま 、
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逗 芳 d としてお家に残っているように思わ れ た 。 先生の不文律に、﹁来る者は拒まず、去る者は追わず﹂ があって、これは大乗院の会で厳格に守られていた。も う一つ、﹁一度始めた研究会は決して止めない﹂があっ たと思われる。日本史研究会や大乗院の会が、潰れそう な危機がないではなかったのによく続いたのも、右の三 つの不文律のたまものと思うが、これについて一度弱ら されたことがある。先生自作の年譜の一九七O
年七月条 学園紛争期の自然発生的な勉強会に文化史懇談会と 名づけ、第一回月例会を聞く。 と記されている。私はこの年九月に東京から戻って、こ の会にも早速はせ参じたのであるが、会場は先生が教授 であった京都大学人文科学研究所の研究室であった。翌 年私も大学院生となったので、自然私が幹事役のような 立場に立たされたが、弱ったことに参会者が激減し、毎 月開催が危ぶまれた上に、報告者のなり手がなくて全く 困った。結局私と谷口君とで交替に報告をこなしてお茶 をにごしたこともあった。しかしこの会も私が再度東上 する昭和五五年までは続いていたから不思議であった。 この辺にも粘り強い先生の御性格が表われているではな 、 ゐ 、 A O U , ヵ 私は同年の秋、千葉県の博物館に転出となって京都を 離れたが、その博物館の評議員に先生が名を列ねておら れ、先生との公の関係は切れなかった。その頃、出張で 京都へ行き、先生御勤務の京博︵京都国立博物館︶館長 室へ御機嫌伺いに及ぶと、よく昼食を御馳走になった。 その折のことだが、かつて私の亡父が、私が大学院生に なった頃、突然先生宅を訪れ、私のことを﹁宜しくお願 いする﹂旨、頼んでいたという話を、先生御自身から知 らされた。驚くと同時に全く恐縮したが、そういう割に は、私は先生から説教らしい話を聞かされた記憶がない。 ︵その意味で、親身になって私に忠告したり、教訓して 下さっていたのは、実は横井清先生である。︶叱責され こベる 5た経験も想い浮かばない。ただ、私が論文上でとかく相 手を攻撃しすぎる点をやんわりたしなめられ、﹁今谷君 も、もう少し年をとったら、判ってくるだろう﹂とおっ しゃっていた。やはり温和な御性格そのものであった。 しかし今になって思い知らされるのは、私はそういう先 生の親心にも気付かず、甘え切っていたということであ る もう一つ、私が先生からよく注意されたのは、私には 上着の上ポケットに万年筆やボールペンを差し込んだま まにしている癖があり、それをやめるように何度も言わ れた。この癖はなかなか直らなかったが、他の先生から はついぞ注意されたことがなく、不思議に思ったことも あった。これも今になって思い当るのだが、やはりケジ メを重んじ、しどけ無さを嫌う先生の御性格からであっ たかと思うのである。 私が今の職場に移ってからは、先生は御病気がちの御 様子ながら、風俗史学会会長、古文書学会会長を無事勤 められ、学士院会員の栄誉にも輝かれた。その祝賀会が 京都のホテルで挙行され、先生の雄姿を拝した最後だろ うか。その後は病室で御目にかかった記憶の方が多い。 ことに晩年は、御目を悪くされたと承っていたので、御 見舞も如何と思われ、何となく控えているうちに、到頭 先生の許報に接してしまった。京博の下坂守氏や立命館 大学の川嶋将生さんは、大乗院の会の仲間であり、京都 で会った折ごとに先生の御具合を聞く機会はあった。最 近では、平成八年末、京都駅の地下道で川嶋氏と会い、 先生の心臓手術近しの噂を聞いたのだったが、その翌月、 今度は私が足首の複雑骨折で手術、リハビリ加療の身に なってしまい、先生の御見舞どころではなくなった。去 年夏には、これも旧会員の中村薫君が先生に謁を得て御 元気だった由の報を受け、やや安心しているうち、先生 は不帰の病で入院されたのである。お近くに居て差上げ ざんき られず九漸慌の念が深い。心から御冥福を祈ります。不 肖の弟子の一人より。合掌。 牛 主 じ ん そ ん ①﹃大乗院寺社雑事記﹄奈良の興福寺大乗院尋尊の、宝徳 二 年 ︵ 一 四 五 O ︶ か ら 永 正 五 年 ︵ 一 五 O 八 ︶ に 至 る 日 記 。 他 に 別 記 も 含 む 。 雑 事 記 と は 、 い ろ い ろ の 細 や か な 事 柄 を 書 き 記 し た も の の 意 。 ② 激 石 山 房 夏 目 激 石 自 宅 の 書 斎 。 ︵ 編 集 部 注 ︶
部落のいまを考え る ⑮
差別は幻想か
住 田 一 郎 ︵ 西 成 労 働 福 祉 セ ン タ ー ・ ︶ 私は藤田敬一さんが部落差別問題解決のキーワードと して提起した﹁両側から超える﹂営みの重要性を積極的 に受けとめてきたひとりである。さらに一歩進めて、ま ず﹁超える﹂べきは被差別部落の私たちではないのかと も主張し続けてきた。具↑体的には﹁カムアウトしの提起 であった。ところが私の﹁カムアウト﹂論に対する強力 なアンチテーゼが福岡の地で部落差別問題と真正面から 取り組んでいる自主講座﹁福岡水平塾 L のメンバーから 提起されることになった。主として、原口孝博さんの 函 霜 山 課 題 と し て の 部 落 ︵ 上 ・ 下 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 読 売 新 聞 ﹄ 九 六 年 七月四、五日︶、﹁部落差別と共同体意識の関連につい て ﹂ ︵ ﹃ こ ぺ る ﹄ 九 六 年 五 月 、 犯 号 ︶ 、 ﹁ 部 落 差 別 と 共 同 性 をどう考えるか L 、 ︵ ﹃ こ ぺ る ﹄ 九 七 年 九 月 、 日 号 ︶ 、 そ れ に森崎茂さんの﹃乾坤﹄からの引用等の論考によってで あ る 。 さらにこの間、﹃読売新聞﹄︵西日本本社︶小林清人記 者はこの論点にこだわり精力的に連載記事﹁﹃部落﹄を めぐる思考の余白﹂︵IIE
︶で追い続けている。これ までの部落問題へのアプローチとは異なる視点からの斬 新な記事内容である。正直、よくもこのような記事が商 業新聞で連載できるなあと感嘆することしきりであった。 多分、ほんの数年前では考えがたい内容となっている。 それだけに、賛否相半、はしながらも読者へのインパクト は大きかったように推察できる。この問、途切れがちで あった部落差別問題に関する人々の対話を再構築する材 料を提起した功績は大きいに違いない。 しかし、私には記事内容にいくつかの疑問点もあり、 不満な点もあった。送付してもらった連載記事のコピー や原口論文を何度も読みかえしながらも最後まで違和感 は拭えなかった。二月の﹃こぺる﹄合評会での報告依頼 もこの違和感についてならと引き受けたのであるが、当 日の朝まで内容をまとめきれずレジメすらできあがらな い、ていたらくだった。ままよと臨んだ合評会に福岡か ら原口さんと松永幸治さんがわざわざ出席されていたの には驚き、感謝の言葉もなかった。当日の論議を詳細に 報告することは小論では不可能である。ましてまとめる こ;Zる 7﹂となど到底できない、私の雑感と受けとめてもらいた し、
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新聞連載記事や原口論文に対する私の最大の疑問点は、 ﹁﹃部落﹄は共同幻想であり、意識の囚われであって、 ﹃部落﹄も﹃部落民﹄も実体としては存在しない。これ は私たちがすでに確認した考え方である﹂との断定にあ る。もしこの論が正しいとするなら、同じく森崎茂さん の主張を受けて小林記者が紹介する﹁﹃部落民は存在し ない﹄という考え方を徹底的に突き詰めるならば、名乗 るか名乗らないかということは問題になりょうがない。 なぜなら、﹃部落民﹄は現実の人間としては存在しない のだから。﹃私は﹁部落民﹂だ﹄と告げることは、それ が存在するという考え方をぎりぎりのところで認めてし まう、つまり、﹃部落民﹄の存在を実体化してしまうこ とにな﹂り、私が提起する﹁カムアウト﹂は自家撞着に ︿ み 陥ってしまう。それ故、私とすればこの見解に与するこ とはできないのである。しかしながら、私もまた、拙文 ︵ ﹁ ﹃ 同 和 は こ わ い 考 ﹄ 通 信 ﹂ 九 五 年 一O
月 、 閉 口 す ︶ で ﹁部落差別問題はそもそも共同幻想に基づく人と人との 関係性の上に根強く成り立ってきた L ものとして捉えて いた。だが、この共同幻想が何を指すかについて原口さ んとの間に微妙なずれが存在していることに気づいた。 私は今日ただいま現存する部落、部落民への差別がほん らい無根拠︵差別の無根拠性︶であるにもかかわらず、 現実に部落差別問題として機能する意識状況を﹁共同幻 想 L と捉えてきたのである。私にとって、実体としての 部落・部落民は大前提であった。この点で原口さんの ︿共同幻想であって部落も部落民も実体としては存在し ない﹀という立場とはまったく平行線のように見える。 がしかし、同時に彼は︿部落の共同性や部落民性﹀にプ ラスイメージを感じつつこだわり続け、実体としての部 落・部落民と次に示すように格闘しているのである。 ﹁なぜ、現在の﹃部落﹄の居住者や﹃部落民﹄と自己認 定する人々が自分たちの祖先の悲惨と苦痛に満ちた歴史 や十字架を一身に背負い、いくら証明できないと言われ でも、自己の内部に部落民性を抱え込んでしまうのか、 問題はここからである﹂と。この点について彼の友人は ﹁︿共同幻想﹀は共同幻想であって、共同幻想という実体 ではない﹂として、原口さんの主張を矛盾ではないかと 指摘する。しかし、私はむしろこの点への原口さんのこ だわりに共感を覚えているのである。このこだわりがあったればこそ、原口さんは再び解放運動の場に戻ってき た に 違 い な い の だ 。 昨年末の﹃こべる﹄合評会で福岡の浴口さんは高校時 お り ー代まで澱のようじ心に刷り込まれた部落・部落民へのマ イナスイメージが原口さんの提起する︿共同幻想として の部落﹀によってはじめて払拭され、肩の荷がいっぺん におりたと述べていた。が同時に、彼自身は現実に彼が 生まれ育った部落への人々による差別的まなざしゃ行為 から自由にはなれなかった、とも語っていた。私は浴口 さんが部落・部落民へのマイナスイメージを払拭するの に、︿共同幻想﹀という観念装置がどうしても必要だっ たとは思えない、︿差別の無根拠性﹀に気づくことで十 分乗り越えられたのではないかと考えている。︿共同幻 想としての部落﹀に部落・部落民が実体として存在しな いのなら、部落差別も存在しないのであろうか、存在し たとしても観念的な実像のないものとなるだけなのであ ろうか。浴口さんの地域への囚われも観念のなせる黙で し か な い の で あ ろ う か 。 藤田敬一さんはこの点について﹁部落民というのは、 部落差別︵意識︶を媒介にして成り立つ人と人との関係 の中の幻像であって、部落民という民が存在しているわ けゃない。しかし、この幻像が実体化される。 落民というものは存在しない。存在しないのに存在させ ら れ る ﹂ ︵ ﹃ こ ぺ る ﹄ で の 大 賀 さ ん と の 対 談 、 九 四 年 九 月 、 四号︶と指摘する。この﹁幻像が実体化される L メ カ ニ ズムを原口さんはどのように捉えられるのか。先にも指 摘したように、私には原口さんが実体としでの部落・部 落民を否定しているとは思えない、それだけに彼は︿共 同幻想﹀論の肥大化に足をすくわれているように思うの だ が 、 ど う だ ろ う か 。 原口さんが︿共同性や部落民性﹀にこだわるその内実 は︿共同幻想﹀に支配されてきた差別・被差別双方の民 による歴史的社会的営みに拠っているものに違いない J いうまでもなく、︿共同幻想﹀は部落・部落民に対する 外からの一方的な差別意識︵まなざし︶だけでなく、部 落・部落民側にもそのまなざしに反応しつつ独自に形成 してきた︵せざるを得なかった︶生活空間や意識をも支 配してきた。それ故、︿共同幻想 H 部落差別の呪縛﹀は 部落・非部落双方を捉えて放さないのである。 私は長年この国の支配的な社会規範でもあった︿共同 幻想﹀によって︿実体化された部落・部落民﹀の存在か ら今日の部落差別問題の取り組みは出発すべきであると つ ま り 部 こぺる 9
考えてきた。つまり、藤田さんのいう﹁幻像が実体化さ れる﹂﹁存在しないのに存在させられる﹂部落・部落民 を積極的に私たちが︿引き受ける﹀ということによって である。原口さんのこだわりとも共通するものとして、 ︿共同幻想﹀であるにもかかわらず、人々︵部落・非部 落を含めて︶の前に︿実像のごとく﹀横たわる部落・部 落民とはいったい何なのか。実体なのか、虚構なのかが 問 わ れ て い る の で あ ろ う 。 私にとって︿共同幻想﹀はやはり︿差別の無根拠性﹀ を 示 す 言 葉 で し か な い 。 藤田さんは﹁部落民とは何か﹂との自らへの聞いと悪 戦苦闘してたどり着いた見解︵基本的に前述と同じ︶の 最後に、﹁各自が関係を変える主体としてむき合い、差 別|被差別関係の止揚にむけた共同の営みのなかで、 万 部 落 民 H との名指し・しるしづけ・意味づけを関係の 双 方 か ら 無 化 す る こ と が も と め ら れ る ﹂ ︵ ﹃ こ ぺ る ﹄ 九 六 年三月、部号︶とすでに二年前に提起されていた。﹁幻 像が実体化した L ものとして
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部落民 U と の 名 指 し ・ しるしづけ・意味づけ﹂が存在しているのなら、いった んはか部落民 μ を ︿ 引 き 受 け る ﹀ 部 落 民 が 存 在 せ ね ば 、 ﹁差別・被差別関係の止揚もひいては双方による無化﹂ も起こり得ないのではないか。関係を変えるためにむき 合った主体が差別・被差別の︿実体﹀を素通りして何を 止 揚 し 何 を 無 化 す る の か 。 私の﹁カムアウト﹂はこの文脈に合致した提起に違い ない。ところが、前述の指摘のあとに森崎さんは私の提 起についても﹁隠すことはないが、名乗ることもない﹂ といい、﹁名乗らないことは隠すこととは違う。名乗ら ないということの方がもっと激しく強い態度であり、困 難なことなのです﹂と受けとめる。私にはどうして名乗 らないことが﹁もっと激しく強い態度であり、困難なこ と な の ﹂ か 理 解 不 能 で あ る 。 もちろん、名乗らない立場も、﹁カムアウト﹂が強制 されるべきものでないことも当然として認めるが、その 場合でも両者に優劣があるわけではない。敢えて、私が 寸カムアウト﹂にこだわるのは、部落差別問題における ︿幻像と実体とのずれ・歪み﹀を双方の対話によって確 認し、ただすためなのである。実像は︿実体の顕在化﹀ に基づく対話によってしか明らかにならないとも考えて いる。同時に、私たちにとって︿実体の顕在化 V は 自 ら を客観的に捉える作業を求められることでもあるのだ。 第 一 歩 は 踏 み 出 さ れ ね ば な ら な い 。ひろば⑮ 武 田 秀 夫 ︵ ﹁ 霞 塾 ﹂ 主 宰 ︶
世界を刺し違えた少年
黒磯の中学生が女教師を刺殺した事件をめぐって斎藤 次郎、芹沢俊介、藤井誠二の三氏と話し合った座談会の 冒頭、﹁まずはタケダさんから口を切ってもらって L と いきなり言われ大いにうろたえた。半年ほど前の夏の終 わりに、神戸の事件について、やはり斎藤さん芹沢さん て い だ ん と鼎談をおこなった時にぼくはずいぶん多くのことをし き A J L J 雲 母 書 房 ︶ 、 そ の ゃ べ っ た の だ が ︵ ﹃ 三 輪 車 疾 走 ﹄ 一 日 号 中で、酒鬼菩薮聖斗と名乗る少年を、タンク山の草に座 して目の下に広がるニュl
タウンの灯りをながめやがて その目を翻して頭上に広がる星空に思いを致したことが あるにちがいないもうひとりのジョパンニ︵宮沢賢治 ﹃銀河鉄道の夜﹄の主人公の少年︶、緑色の切符ではなく 冷たく光るナイフを手にしてしまったマイナスのジヨパ ンニという自分なりのイメージによって語った上で、そ の酒鬼蓄積少年にむかつて、︿ナイフを持たない徒手空 拳のジヨパンニ﹀というあり方もあったのではないかと 言ったら彼はやはり笑うだろうかと述べた、円その後に 読んだ佐川一政の﹁少年A
﹂ の 言 葉 を 借 り て 、 ﹁ そ う だ 、 君は本来書くために生まれた人聞なのだ! L ||と、つ まりはナイフをベンに持ちかえることによって君は危険 な自分を生きのびさせることができたのではないか l i l と少年に言いたい気持がある、そう述べてもよかったの ゃ く だがてそれが崇ったのだろう。お前がそんな益もない ろ う 言辞を弄した半年後に、実際にバタフライ・ナイフを手 にした少年が教師を刺殺したではないか、つまりは︿ナ イフをベンに持ちかえた徒手空拳の酒鬼蕃蔽少年﹀など という夢想がいかに無力であるかが証明されたようなも よ ろ のではないか、ナイフによって自らを鎧うしかない少年 たちの群れがこんなに増大しているではないか、いった ︸いお前は今度のリアルな、あまりにリアルな事態をどう 考えているのか、きりきりと述べ立ててみよという暗黙 の問いかけが、﹁まずはタケダさんから口を切ヲて﹂と こベる いう言葉にはこめられているようだつた。 ぼくは﹁それはないよ﹂とうろたえ、逃げようとした 11のだがなかなかそうもいかず、﹁とにかくあの中学生が かわいそうだという気持ちばかりが強くてねえ﹂という ようなことをうろうろとしゃべったらあとはもうはかば かしく言葉が出なくなって、五時間にわたる座談会の時 間を黙しがちに過してしまったのだった。 なぜそういうぶざまなことになったか。 つ ら つ ら 反 省 し て み る に 、 ぼくの気持の中にはあの少 年がかわいそうだという思いと重なるようにして、あの 女の先生がもう少し別の対応の仕方をしていたら少年を あそこまで追いこむことにはならなかっただろうという 三 q r り 憾みがあるのにそれを口にすることがはばかられてよう 言わないでしまったために、そのあとのことも言えなく な っ て し ま っ た の だ 。 もちろん殺された教師は﹁なにも殺されることはなか った﹂し、少年は﹁なにも殺すことはなかった﹂、そう いうひどい事件であって、なくなった教師は気の毒だし 少年の責任は重い。にもかかわらず、ぼくの心の中には ﹁あの少年がかわいそうでならない﹂という気持がとて も強くあり、にもかかわらず死者を前にしてそれはとて も言いにくいことなのだ。もし言えば、﹁殺された先生 の方がもっとかわいそうではないか L という反発が必ず おこる、だろう。しかしぼくは思うのである。その反発を 押し切ってそのことをなんとかして言わなければ、少年 とその先生との聞に起きた不幸な出来事を救うことはで きないと。なくなられた先生にしても世間一般の同情 ||﹁生徒思いのとてもいい先生だったのに、ナイフを ふりまわして簡単にキレルひどい生徒によって殺されて しまった。気の毒だ﹂といった言葉によって︿浮かばれ る﹀とはとても思えないし、ましてや文部大臣の特別顕 彰や持ち物検査の実施などといったことで先生の死が ︿浮かばれる﹀とはとても思えない。ぼくは信じるのだ が、あの女の先生がもし生命をとりとめていたら、入学 以来援してきたその少年がいま、﹁すぐにキレてナイフ をふりまわすひどい生徒﹂ときめつけられていることに 対して、﹁それは違う L と弁護し、もしかしたらさらに ﹁私の方にもいけないところがあったのです﹂とさえ言 うかもしれないと思うのだ。教師というのはそういうも のだと、かつて教師のはしくれであったぼくは思う。に もかかわらずそうしたことのくさぐさを口にするのがと て も し に く い 。 そうした思いが座談会の席にいながらぽ
くの口を重くさせていたのだと思う。 女教師は授業終了後に少年を廊下に呼び出し、﹁先生、 なにか悪いこと言った?﹂とたずね、少年は﹁言ってね えよ﹂と答えたというが、︵ぞのあと﹁ねえよっていう 言い方はないでしょう﹂﹁うるせえな﹂というふうにこ とが進んで少年がナイフをポケットから取り出すという ようになっていくわけだがて たしかに教師は ﹁ な に か 悪いこと﹂を言っていないし、少年は﹁一言ってねえよ﹂ と答えるしかない。にもかかわらずことは起きた。やは り別のレベルの﹁何か悪いこと﹂が両者の葛藤のうちに あったと考えざるをえないのである。 教師の﹁なにも悪いことを言っていない﹂そのことが ||﹁正しいこと﹂を言っているそのことが、しかし生 徒を追いつめることに結果としてなるということ、それ が今の学校という場では十分にありうるということをほ くたちはよくよく考え抜かねばならないと思う。 ここでぼくは十年以上も前に新聞に連載したコラムの 一 つ を 思 い 出 さ ざ る を え な い 。 少年に ﹁ ど け
l
っ ! ﹂ そう叫びながらホl
キで殴りかかった少年は、し かし、そのとき、私の顔を打たずに腰を打ちました。 打つ気なら打てたはずの顔を避け、とっさに彼は腰 を打ちました。私もまた、よければよけられたのに そうはせず、小柄な少年に黙ってそのまま打たれま し た 。 私が教師をしていたころに起きた小さなできごと で す 。 ホl
キは折れて激しく飛び、周りの生徒はハッと 凍りついたようになりましたが、折れたラワンの棒 つ切れを握った少年は、その手をぶるぶる震わせ、 私をにらみながらまた叫びました。 ﹁ ど けl
っ ! なんでいつもお前が出てくるんだ。 ど け 」 私はそのとき自分の背に他の生徒をかばったわけ ではなく、私のうしろには何もないはずなのに、な ぜ少年は﹁どけl
っ!﹂と叫んだのか。少年は私の 背後に何を見ていたのか。 こぺる 13荒れた中学ではいろいろなことが起きます。大方 は忘れてしまったのに、この小さなできごとだけは 不思議に心に残り、その意味を解いてみよといつも 私にささやきかけます。 どう考えても彼は、私に打ってかかりながら、私 を打ちたかったのではないのだ。立ちはだかる私の 背後にわだかまるなにものかを打ちたかったのだ。 自分の生をはばみ、自分の生に常日ごろ圧迫を加え ち ょ う ち ゃ く 石なにか動かしがたい大きなもの、それにこそ打榔 を加えたかったのだ、 ホ
l
キという武器で。ドン・ 、 、 、 、 キ ホl
テのように。なのに、またしてもしたり顔の 教師が立ちはだかる。風車のように。お前なんか打 ったって仕方ないのに、お前を打つという仕方でし か、その大きなものを、おれは打つことができない ・::。かくして少年は、教師をなぐったワルガキと いうケチな存在になりさがる。傍観する人々の目は、 風車しか見ないから。風車のむこうに少年が見てい たものを見ょうとはしないから。 だが、少年よ。私は、打ちかかるお前のまえから 身をよけることをしない。な、ぜなら私は、君が打とっ
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の 部 なの
だ か ら ︵朝日新聞﹁色鉛筆 L 一 九 八 八 年 三 月 三 十 日 ︶ ほうきで殴りかかったその生徒は、卒業式の直後に電 話をかけてきた。 ﹁先生が学校をやめるって聞いたけど、 おれたちのせ い っ ・ ﹂ ﹁そんなことないよ。自分の都合でやめるんだから心配 す る な よ ﹂ そう答えると、少年は電話のむこうで ﹁先生、そのうちに飲もうよ。もういいだろう? L と言い、ぼくは﹁ああーそのうちにな﹂と答えたのだが、 彼の担任でもなかったぼくは以後その少年と会うことは なく、東京から遠く離れた所で今は結婚して働いている と人づてに聞くだけだが、それから十年以上がたつて、 黒磯の中学生は、ほうきではなくナイフを握ってその女 教師の背後にあるものに向かったのだと思う。たとえそ の日、その教師とのあいだに具体的な心的葛藤があり少 年はその女教師そのひとを刺したつもりではあっても ︵その葛藤の実際をきちんとときほぐしてみつめることをぼくたちはしなければならないだろう。その一方で︶、 それをこえて、少年はその教師そのひとを刺そうとした のではないというのがぼくの了解の仕方である。にもか かわらず少年はその教師そのひとを刺すというかたちで しか、その日頃自分を保健室へとのがれさせトイレで恒 吐させるまでに追いつめてくるもの||それは少年の外 部にある何かであるとともにその日ごろ少年の内部に迫 りあがってきて自分自身を圧迫してやまない何かとして も少年には感受されていただろうーにそれに反撃する ことができなかったのだ。かくしてその教師はそうした 少年の状況︵もう一度言うが、それは少年の内と外とを ふくんだものだ︶の最先端に立つで少年のナイフを受け 止めざるをえず、少年は少年で、教師を刺殺したとんで もない生徒|!現代の荒れる中学、荒廃した生徒たちの 悪しき典型として世間の標本箱に嫌悪と憤激のピンでと められて終わろうとしている。 この教師を、そして少年を、どうにかして救うことが で き な い か 。 一九六一年、台北市において、中学生の少年が同じ年 齢のガ
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ルフレンドをナイフで刺殺し死刑の判決が下さ れたが、国民政府が台北に移って以来初の未成年による 殺人事件として各界で議論が噴出し、再審の結果、十五 年の懲役刑が少年に言い渡されるということがあった。 その衝撃的事件もそのままならやがて次々と起こるさま ざまの﹁前代未聞の﹂事件の濁流に押し流され忘れ去ら れただろう。しかし、ここに、犯人の少年と同じ中学校 に学んだ一人の少年がいて、十四歳の彼はこの事件をわ がこととして深く心に留め、三十年後の一九九一年にそ ク l リ ン チ エ れを一本の映画﹁枯嶺街少年殺人事件﹂に昇華させるこ とによってその事件を、殺された少女を、殺した少年を、 いわば救うことに成功したのである。 次回、楊徳昌︵エドワード・ヤン︶ の﹁枯嶺街少年殺 人事件﹂をとりあげていろいろと考えてみたい。 ︵ つ づ く ︶ こぺる 151
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年度『乙ぺる」会計報告
一般会計収支計算書 財 産 目 録 自1997年2月1日 至1998年1月31日 1998年1月31日現在 科 目 金 額 区 分 項 目 一般会計 購 読 料 4,649,285 資産の部 現金現預金金 基金および寄付金 513,140 97,342 受 取 利 息 2,778 普通預金 誌 代 売 上 231,300 西京都陣支中央店信用No金.0庫555464 110 通 信 費 5,544 京都銀行 広 告 料 30,000 出町支店 No.483979 28,145 預かり金 10,000 郵出便町貯郵便金局 No.20195771 64,494 定 期 解 約 1,000,000 郵便振替貯金 雑 収 入 400 No.01010-7-6141 317,679 郵政誤徴収返金 120 定額預金出町郵便局(10件) 5,877,000 当年度収入合計 6,442,567 資 産 A口,._ 計 6,384,770 前年度繰越金 1,393,251 負債の部 未払い金。
収 入 合 計 7,835,818 負 f責 iロ、〉 言十。
編 集 費 1,935,000 差 引 正 味 財 産 6,384,770 印刷・製本代 2,344,315 1997年 度 会 計 監 査 報 告 通信交通費 1,008,504 金銭出納帳、預金通帳、郵便振込等、監査いたしましたと 原 稿 料 386,000 ころ、金銭の処理、帳票の処理が確かにされていることを認 消 耗 品 費 29,907 めましたので、ここに報告いたします。 1998年3月20日 子 監 費 57,652 こべる刊行会 振込手数料 55,670 代 表 土 方 銭 殿 返 金 11,000 会 計 監 査 前 川 勝 彦 ⑮ 定 額 貯 金 1,500,000 支 出 合 計 7,328,048 当年度収支差額 ム885,481 次年度繰越収支差額 507,770鴨水記 マ第臼回﹃こぺる﹄合評会︵
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︶ は、山下力さんに論文﹁解放へと 導く力を育むために|奈良における アンケート調査から﹂︵一・二・三 月号︶の背景について語っていただ きました。山下さんにとって気にな るのは、教育・啓発が進んでいると 言われる奈良県でも被差別部落に対 する差別意識が薄められていないこ とであり、青年活動家たちが差別的 言動にどう対応したらよいか戸惑っ ていることです。部落問題から逃げ た自らの体験などを踏まえ、部落解 放運動はなにか大切なものを見逃し てきたのではないか、組織の運動は あったけれど個人がどうするかは脇 に置いてきたのではないかと山下さ んは自問する。この間いが﹁差別に 出会ったとき、あなたならどうしま すか﹂というアンケート調査につな が っ た の で し た 。 ご承知の通り部落解放運動の中で は﹁部落民としての社会的立場の自 覚にもとづく自立・自闘・自主解 放﹂が強調されてきました。しかし 肝心カナメの﹁自﹂の中身が議論さ れたという話は聞いたことがない。 掛けがえのない、取りかえのきかな い存在としての個人を抜きにして成 り立つ運動・組織とはいったいなに か。山下さんの問題意識はおそらく このような根底的な問いにまで立ち いたる可能性を予感させます。戸惑 いつつも山下さんの提起を受けとめ ようとしている奈良の青年活動家の 姿が印象的でした。 マ合評会のあと、こぺる刊行会の総 会が開かれました。例年、三月末の 合評会が終わるとそのまま総会に移 行し、短時間ですませる習慣になっ ていまして、儀式めいたものは一切 なし。編集と会計についていくらか 議論する程度です。それが自慢の夕 、不だったんですが、今年は少々緊張 が 走 り ま し た 。 別掲会計報告をご覧になればお分 かりのように今期は大幅な赤字です。 事務局で調べたところ、第一に現在 の購読部数ではもともと赤字であり、 基金を取り崩さざるをえないこと、 第二にこれまで黒字になっていたの は購読費の前納とカンパによること などが明らかになりました。赤字を 補填してきたのは、いまもとぎれる ことなく送ってくださる基金︵一口 五千円︶とカンパです。なんとか採 算 ベl
スの千六百部をと考えていま す。読者拡大にお力添えくださるよ う お 願 い し ま す 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ コ ﹂ ぺ る ﹄ 合 評 会 の お 知 ら せ 5 月ω
日︵土︶午後 2 時より 話題提供ジョン− H ・ デ イ ピ ス −K
テ l マ ﹁ ア メ リ カ に お け る 反 差 別 運 動 の 弱 点 ﹂ 、 京 都 府 部 落 解 放 セ ン タ ー j 第二会議室 旭 O 七 五 | 四 一 五 l 一 O 三 O 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下Jレ上木ノ下町73-9 阿昨社 Tel. 075 414 8951 Fax 075 414-8952 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 010107 6141 第62号 1998年5月25日発行乙
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最新の理論を視野 に 入れつつ、あくまで日本の現実か ら 発 想 し て 、 わ れ わ れ の 日 常生活に溢れている普通の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 語 る 。 −読者 は、著者の伸びのよい 論 理 を た ど る こ と で 、 自 分 の ﹁ 経 験 ﹂ や 様 々 の 意 味 の 次 元 を、もう 一 度 考 え て み る こ と に な る だ ろ う 。 − 内容紹介 序章 異 人 の 目 / 慮 じ 取 ら れ る メ ッ セ ー ジ / モ ノ の メ ツ む l ジ / 自 己 と 他 者 / 現 代 社 会 と生活/ さ ま ざ ま 怠 鍍 触 / 問 主 観 性 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン と メ ッ セ ー ジ − 五 感 の 現 在 五 感 へ の 刻 灘 ・ 橋 憲 ・ 意 隊 / 匂 い の 問 題 / 刺 潰 ・ 情 彊 ・ 記 号 ・ メ ッ セ ー ジ ・ コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 区 分 け 営 み や 拭 み と 、 結 果