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こぺる No.034(1996)

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日(毎月1回25日発行)ISSN 0919-4843

NO.

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部落解放同盟綱領改正案をめぐって⑥ 人間の現実から 角 樋 平一 北山散所について 岡 佳 子 第28回 『こベる』合評会から こべる刊行会

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部落解放同盟綱領 改 正 案 を め ぐ っ て ⑥

人間の現実から

角樋平

︵ 日 本 基 督 教 団 牧 師 ︶ 今 回 の 部 落 解 放 同 盟 綱 領 改 正 案 ︵ 以 下 、 ﹁ 改 正 案 ﹂ ︶ は 、 今後の部落解放運動の方向として﹁社会的諸条件の克服 と 人 権 確 立 ﹂ を あ げ て い る ︵ 注 1 ︶ 。 具体的には次の点である。﹁全ての部落での生活や教 育・産業や労働面での改善、差別事件の根絶や差別観念 の 払 拭 ﹂ 、 ﹁ 周 辺 地 域 の 低 位 性 、 他 の 差 別 の 存 在 、 非 民 主 的 な 諸 制 度 、 随 習 や 差 別 的 文 化 の 克 服 ﹂ 、 ﹁ 世 界 的 な 差 別 撤 廃 の 潮 流 と 結 合 ﹂ ︵ 注 2 ︶ 。 私は、これらは必要であり、今後も着実に進めていか ねばならないと思う。しかし、同時に、いま問題になっ ているのは果たしてそういうことだろうかとの思いがあ る 。 ︵ 注 1 ︶ ﹁ 部 落 差 別 を 生 み 出 し 支 え る 社 会 的 諸 条 件 の 克 服と人権確立に向けた闘いこそが、部落差別撤廃 へ の 確 か な 道 で あ る ﹂ ︵ ︻ 前 文 ︼ ︵ 4 ︶ ︶ 。 ︵ 注 2 ︶ ︻ 前 文 ︼ ︵ 4 ︶ 。 たとえば、いま人聞は同じ﹁社会的諸条件﹂の中に置 かれていても部落差別問題に対する姿勢や部落差別問題 の重みが異なる。程度の差はあるが、或る人は部落差別 問 題 に 問 題 意 識 を 持 っ て 対 す る が 、 或 る 人 は 無 視 す る 。 同様に、或る人にとって部落差別問題の占める割合は大 きいが、或る人にとっては大きくない。このことは被差 別部落の人においてそうであり、部落外の人においてそ う で あ る 。 このような違いが起こるのは、置かれる個別条件の中 での人間の生き方による。部落差別問題は人間にとって ﹁社会的諸条件﹂の問題であるのみならず、個々の人間 の生き方の問題でもあり、このことが同和対策事業特別 措置法施行後二十五年余を経て明らかになっているので は な い か と 思 う 。 そ の 意 味 で 部 落 解 放 へ の ﹁ 確 か な 道 ﹂ として﹁社会的諸条件の克服﹂をあげるだけでは不十分 こ,−−:.る 1

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である。いま求められているのは、﹁社会的諸条件﹂に 必ずしも規定されない人間の生き方の問題にも部落解放 の課題として向き合うことではないだろうか。 もちろん、﹁改正案﹂は人間の生き方について述べて い な い わ ー け で は な い 。 ﹁ 人 権 確 立 ﹂ が そ れ で あ る 。 ここでの﹁人権確立﹂とは、﹁全ての人が人権を等し く認め、高め合い、互いの違いを尊重し合う﹂ことを意 味 す る ︵ 注 1 ︶。これはまさに人間の生き方に関わってい る。しかし、このような﹁人権確立﹂という視点が今後 の部落解放運動の方向として十分かどうかが問題になっ て く る 。 人間の生活には種々の差別問題が染み込んでいる。部 落差別問題はその一つで、生活の中で他の差別問題や、 差別問題ではない他の抑圧、矛盾とからまり合って存在 している。そのように人聞にとって差別問題は根深いの であるから、生活と寸人権確立﹂の聞には断絶があると 言 わ ね ば な ら な い 。 この断絶に対して﹁改正案﹂が﹁社会的諸条件の克 服﹂とともに訴えているのが、啓発である︵注 2 ︶ 。 啓 発 は確かに人間の生き方に対する働きかけである。私はこ の十年程、所属する日本基督教団の一員として﹁同宗 連﹂︵﹁同和問題﹂に取り組む宗教教団連帯会議︶活動に 参加しているが、そこでの啓発活動によって多くの宗教 者が部落差別問題に問題意識を持ち、自らのあり方を問 うようになったと受けとめている。このような成果は全 国の諸国体でも当然、生まれているに違いない。 しかし、そのように啓発の成果を自覚しつつも、だか らと言って、今後も啓発を進めたらそれでよいとは単純 に は 思 え な い 。 一言で啓発と言っても様々である。本当に人間の生き 方にふれる場合も少なくない。しかし、一般に啓発は、 いわゆるグ上からのもの。になる。行政であれ企業であ れ、学校であれ宗教教団であれ、啓発する者とされる者 という力関係を程度の差はあれ背後に持ち、強制面がつ きまとう。上下関係や強制は、人間の生き方を考えるに あたって基本的な意味でふさわしくない。また、啓発は どうしても言葉上の話になる。啓発する者とされる者が 身を置いている人間の生活の中ではタテマエに終わりが ちである。タテマエが先行すると人間の生き方の中にあ る本音や真実を隠す。さらに、啓発は行政であろうと企 業であろうとどこであろうと、そこでの人間関係の中で

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/行われることになる。その結果、そこでの人間関係にお ける歪みや対立が啓発活動に反映し、啓発の中身を入間 関 係 が そ こ な い か ね な い の も 現 実 で あ る 。 私は、啓発は進めねばならず、啓発の持っとれらの問 題点も改善していけばよいと考えているが、しかし、基 本的な意味でこれらの問題点は啓発だけでは生活と﹁人 権確立﹂の間にある断絶を埋めることができないし、人 間の生き方にも必ずしも反映しないことを示しているの で は な い か と 思 う 。 い ま 間 わ れ て い る の は こ の 断 絶 を ど ー 一 う 芳 え る か と い う こ と で あ り 、 求 め ら れ て い る の は こ の 断絶に向き合うことのできる部落解放運動ではないのだ ろ う か 。 ︵ 注 1 ︶ ︻ 前 文 ︼ ︵ 1 ︶ 。 ︵ 注 2 ︶ ﹁ 我 々 は 、 人 権 啓 発 の 積 極 的 な 推 進 を 、 行 政 、 企業、マスコミ、学校、宗教、法曹、芸能、政党、 議員等各方面にはたらきかけ、差別観念の払拭と 人 権 思 想 の 普 及 高 揚 に 貢 献 す る ﹂ ︵ ︻ 基 本 目 標 ︼ ︶ 。 四 以上のような思いを持つのは、私の心の中で人間の次 の二つの現実を打ち消すことができないからである。 ; ¥, 一つは、人間にとって最も切実に感じられるのは、い わゆる社会問題よりも自分のことだという現実である o a こうした人間の姿を私は必ずしも否定すべきもの色は考 えていないが、人間のこの現実のために部落差別問題や ﹁人権確立﹂という課題は、自己の生き方としてそれを 選択する者以外には自らの課題になりにくい。生活と ﹁人権確立﹂との聞に断絶が起こるのは、﹁社会的諸条 件﹂のみならずこの人間の現実にもよっている。 もう一つは、人聞は身近な隣人との関係の中で生きて い る 現 実 で あ る 。 隣 人 と の 関 係 の あ り ょ 、 か に よ っ て 人 聞 は、或る事柄には心を傾け、或る事柄には無関心となる。 部落差別問題についても生活の中での人間の様々なつな がりや、被差別部落の人と部落外の人の関係の現実が部 落 差 別 問 題 に 対 す る 姿 勢 を 作 る 。 今後、部落解放運動は﹁社会的諸条件の克服﹂と﹁人 権確立﹂に取り組む一方、他方ではそれだけで終わるの ではなくブ人間というものをさらに追究し、その現実の 元での部落解放も求めていかねばならないのではないだ ろ 、 っ か 。 こJくる 3

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北山散所について

岡 佳 子 ︵ 大 手 前 女 子 大 学 ︶ 散所︵さんじよ︶この語は、現在知られているかぎりでは奈良時代の七四七年︵天平十九︶の対前に初め て現れており、当時より平安時代初期のころまでは、だいたいにおいて直接的な支配・管理の系統には属さ な い 場 ・ 人 を 意 味 す る 語 と し て 岡 市 い ら れ て い た よ う で あ る 。 平 安 時 代 中 期 ご ろ か ら 室 町 時 代 に か け て は 、 荘 ぞ う や ︿ 園 領 主 の 領 地 の 一 部 、 、 お よ び そ こ に 定 住 す る こ と を 認 め ら れ て 年 貢 の 代 り に 雑 役 を 務 め た 人 を 指 す 語 と し て 用 い ら れ る は 、 円 に な り 、 以 降 江 戸 時 代 に か け て は 、 と く に 賎 祝 さ れ た 人 叶 − の ト 部 、 な ら び に そ の 集 住 地 を 指 す語として流布・定着し、近代に及んだものとみられる。このように、律令制のもとに発した散所の語は 長 い 歴 史 を 持 ち 、 最 終 的 に は 被 差 別 部 落 の 一 部 を 指 す 語 と し て 定 着 し た の で あ る が 、 そ の 問 の 歴 史 的 変 遷 を 、 各時代・時期の特質との関係からどのようにとらえるべきかについては、語源論、身分制論、職能論、賎民 論 、 被 差 別 部 落 形 成 史 等 々 の 見 地 に 立 っ て 諸 説 が 出 さ れ 、 さ か ん な 論 議 が か わ さ れ て き て い る 。

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横井清︵日本史大事典・平凡社︶より︵編集部抜粋︶ 0 はじめに 中 世 、 京 都 に お い て 社 寺 の 支 配 を 、 つ け た 散 所 に は 、 紙 い 叩 く ま 園杜の今少路散所、東寺の猪熊散所・八条院町散所、相 国寺の北畠・柳原散所、北野社の西京散所などがあり、 それらの様相は当時の公家の日記や社寺の記録に記され ている。だが、なかには名称が確認されるだけで、支配 も所在もさほど明らかでない散所も多い。本稿で取りあ げる﹁北山散所﹂も﹃京都の部落史﹄に若干の史料が掲 載された程度で、ほとんど注目されることがなかった散 所 で あ る 。 ところが、わたくしが京都市歴史資料館在職中にたず ︵ 2 ︶ さわった﹃史料京都の歴史﹄第六巻北区編の史料調査 の過程で、中世後期の北山散所と近世のこの地域の関係 史料を検索する機会に恵まれた。そのうち一部は北区編 ﹁小北山村﹂の項に紹介したが、今回は、それらをまと めて提示

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、 さ ら に 周 辺 の 村 落 の 状 況 か ら 、 そ の 姿 を 一 浮

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北山散所の初見は、﹃北野天満宮史ね﹄所収の﹁日間 慶世日記﹂永禄二年︵一五五九︶七月二日条である。 一、二日、神明脇畠北山さん所ニ与四郎と申者ニ六 し か れ ど も 百五十文ニ売申候、然共此畠ニ違候ハ、本銭に て返候いつるとて与四郎おや八郎左衛門返状取候 也、此帳ゆい付申也、売けん︵券︶あん︵案︶文 も ゆ い 付 を く 也 、 これは、北野社の目代が﹁北山さん所﹂の与四郎に畠 を売却したが、親の八郎左衛門に銭と売券を返却したと いう記事である。ここに記された畠の傍らの﹁神明﹂と し ん め い し や は、北野杜の北に記られる高橋神明社のことで、ここか ら北西一町のところに紙屋川にかかる高橋があり、そこ を 渡 る と 平 野 社 に 至 る 。 ま た 、 こ の 記 事 と ほ ぼ 前 後 し た 時 期 、 ﹁ 北 山 唱 門 士 ﹂ が史料に見える。それは、﹃大徳寺文記﹄の﹁即時主判 長会亭厳 λ 獣﹂のなかで天文十八年︵一五四九︶九月二 十 八 日 の 年 紀 を 持 つ 異 筆 の 部 分 で あ る 。 四 十 文 曙 ﹂ い ん 文 代 也 百 姓 尚 一 ﹂ 開 閉 比 一 一 一 郎 兵 衛 こ よ み わ ら 書き込みのために、内容は判然としないが、暦ーと藁 の 代 、 四十文を百姓﹁北山唱門士三郎兵衛﹂が十二月に 納 め た と 解 す る の で あ ろ う か 。 も っ と も 、 南 北 朝 期 か ら や 史料上に姿をあらわす声聞師は、室町期にいたり、民間 おんみようじ の 陰 陽 師 と し て 、 占いや暦の配布なども生業としたと し よ う も U いうから、この史料では、藁と暦が唱門士 H 声聞師から 納 め ら れ た と 解 す る べ き か も し れ な い 。 す l b

b︵ 5 ︶ ﹃ 思 内 h U ﹄に﹁被 ν ニ 散 所 者 一 帯 一 醐 師 ﹂ と あ る よ う に 、 中世の散所者は声聞師とみなされていたから、北山唱門 士 三 郎 兵 衛 の 居 住 地 も 北 山 散 所 で あ っ た 可 能 性 が 強 い 。 ﹁ 北 山 ﹂ は 、 京 都 の 北 西 部 、 衣 笠 山 の 東 麓 の 平 野 部 を ふ口わらのきんつね さす広域名称である。鎌倉初期、藤原公経が、ここに 仏堂を中心とする広大な別荘である﹁北山殿﹂を造営し ま つ え い た。北山の呼称はここに始まる。北山殿は公経の末高の さいおんじ 西国寺家の代々へ伝領され、やがて室町幕府三代将軍足 U ぷ つ ど う 利義満が譲り受けて、豪壮な殿舎や持仏堂︵金閤︶など を造営した。﹁北山山荘﹂である。義満の死後、山荘は こ,−−:.る 5

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ぽ だ い し よ ろ ︿ お ん じ 彼の菩提所となり 1 北山鹿苑寺として寺院化した。鹿苑 寺の西には足利歴代将軍の葬送をつかさどった等持院や 真如寺があり、これらの寺院を中核とする一帯が北山と 呼称されるようになった。中世後期には諸寺院の門前に 集落が展開し、広域の北山郷が形成された。永禄二年に 北山散所の与四郎が買った地は、紙屋川をはさんで、鹿 苑寺の東側にあり、北山散所民の居所は北山郷内に位置 し て い た と 考 え ら れ る 。 さらに、天正期にいたると、いくつかの史料に散所の 記載が認められる。たとえば﹃大徳寺文書﹂に含まれる 秀吉時代の検地帳や田畑目録には散所の肩書をもっ人び との名前が記されている。︵表 1 ︶は、天正十四年︵一 た っ ち ゅ う き し だ 五八三︶八月二十九日に大徳寺の諸塔頭が指出した り ゅ う し よ う U ︵ 6 ︶ の ﹁龍期寺田畠目録﹂に載る北山領の田畠の内わけであ る。前年の天正十三年十一月二十一日、秀吉は大徳寺に 宛て領知千五百四十石余の寄進状を発給し、さらに翌年 十一月二十三日にも同様の朱印状を下した。おそらく、 この目録は、寄進された領知の内、龍期寺分を大徳寺が 改めたおりのものであろう。 龍朔寺分の回畠は、北山郷内、平野・平野田・八丁 柳 ・ 宮 の 西 な ど 、 平野社の西北に散在している。耕作者 の居住地である平野や松原はのちに近世村となる地域で、 長 7 A H u b ﹂ 酌 やはり北山郷内にある。耕作者のうちコ一一所﹂の肩書を ロ ょ う は た もつ者が七名おりバ彼らはおもに上畠を耕作している。 同時期の成立と推測される﹁大徳寺方丈田畠目録﹂に U ょ う で ん も、北山郷平野田や八丁柳にある方丈分の上田や上畠 で よ 一一 つ 百 て 二 新 石 規 .,.. C,)t, 」 員又 の 定 → さ

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権 考

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も ら と れ で る も 安 そ 堵 の さ 総 れ 石 た 高 の 耕 作 者 に 、 ﹁ 三 所 ノ 二 郎 左 衛 門 ﹂ ﹁ 三 所 ノ 五 郎 左 衛 門 ﹂ さ ん じ よ ﹁算所ノ孫次郎﹂の名があがっている。加えて、天正十 七年十二月二十三日付の﹁山城国北山大徳寺江相渡帳﹂ に も 、 ﹁ 宮 の 西 、 甚 七 畝 二 十 歩 ﹂ の耕作者に ﹁ さ ん 所 三 郎 ﹂ の名が記されている。ここには、 ﹁ ひ ら の 田 五 畝﹂を耕作する﹁小北山の五郎兵衛﹂との記述もあるが、 小北山もまたのちに近世村となる地域である。 当 時 、 秀吉が大徳寺に寄進した朱印領は、 北山の他に 西賀茂や大宮郷などにあった。両地域には中世から大徳 あんどー 寺領があり、寄進とはいっても旧知行の安堵に近いもの と 思 わ れ る 。 だ が 、 ﹃ 大 徳 寺 文 書 ﹄ 宇 ﹄ ふ 品 、 l l 北山地域の中 世 文 書 は ほ と ん ど 見 ら れ ず 、 お そ ら く 、 北山は、秀吉に

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きたのしゃけ さて、この時期に﹁北山山所村﹂の記述が﹃北野社家 に つ き ︵ 9 ︶ i つ い U ふしん 日 記 ﹄ 天 正 十 七 年 六 月 の 築 地 普 請 の 記 事 に 認 め ら れ る 。 お お ま ん ど こ ろ へ い ゆ 築地普請は、この前年に豊臣秀吉が大政所の病気平癒 を願い寄進した一万石を費用にあてておこなわれ、その おり廿北山山所村・等寺︵持︶院・松原・大将車 ︵ 軍 ︶ ・ 西 京 、 此 村 之 衆 参 、 ふ ︵ 普 ︶ 請 仕 候 ﹂ と 、 近 郷 の 各 村 の 衆 が 集 ま り 普 請 に 参 ノ 加 し た と い う の で あ る 。 こ こ さ ん じ よ では、等持院村や松原村、大将軍村とともに山所村︵散 所 村 ︶ が 記 述 さ れ て い る 。 近 世 初 頭 に は 、 北 山 散 所 は 、 近郷の村落同様に、農地の耕作を基盤とする村落へと展 閲 し た の で あ ろ う 。 天正年聞の山所村︵散所村︶は、江戸時代には正式な 呼 称 と し て 定 着 し な か っ た 。 ﹁ 元 禄 郷 帳 ﹂ ﹃ 天 保 郷 帳 ﹄ 享保十四年︵一七二九︶の﹁山城国高八郡村名帳﹂など の郷帳類、さらに鹿苑寺蔵が所蔵する﹁山城園都酢郡北 よ ほ う さ か い お ぼ え ︵ 臼 ︶ 山郷四方境覚﹂︵以下﹁四方境覚﹂と略す︶にも、散 所 村 の 記 述 は な い 。 上記の諸郷帳のうち﹁四方境覚﹂は、国絵図作成のた め、正保二年三六四五︶に行われた全国調査にさいし、 旧北山郷に属する諸村の庄屋たちが、奉行所にあて十月 う つ し こ ん ち い ん 一日付で提出した文書の写で、鹿苑寺境内地、金地院 ひでんいん 領山、非田院領山をはじめ、大北山村、小北山村、平野 村、松原村の明細が記されている。当時、鹿苑寺住職で ほ う り ん じ よ う し よ う か ︿ め い き ︵ 日 ︶ み そ か あった鳳林承章の日記﹃隔箕記﹄同年九月晦日条にも 郡廻の奉行両人、今日北山村へ来たるなり。板倉廊 う 叩 か み 防守殿の者両人、関屋市郎右衛門・梅戸八郎右衛門 と云う者両人なり。在々所々、日本国中の田畠方 境・人数・家数書き立て指し上ぐるなり。小北山 村 ・ 松 原 村 ・ 平 野 村 ま た 、 大 北 山 庄 屋 の 内 の 村 な り 。 然るに依り、大北山の帳を同紙に書き入るなり。其 れ故、小北山村・松原村・平野村の庄屋の書物、予 の 手 前 に 於 て 請 け 取 り 置 く な り 。 ︵ 原 漢 文 ︶ け ん ぷ ん と、京都所司代配下が実地に検分し、村々の庄屋が集ま り、大北山村の帳面に家数や人数を書き入れたと記され ており、その帳面の写しが﹁四方境覚﹂と思われ、この 史 料 的 な 価 値 は 高 い 。 中世の史料に見える﹁北山散所﹂が、近世にどのよう ーーーーーーー目ーーーーーーーーーーーーーーーーー−ーーーーーーーーーーーーーー−−−−−ーーーーーーーーーーーー−ーーーーーーーーーー『目白ーーーーーーー−−−ーーーーーー こぺる 7

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な変化をとげたかを推測するために、まず﹁四方境覚﹂ から正保年間の北山郷内の状況をうかがってみよう。 ︵ 表 2 ︶は、郷内村落の石高、領主、庄屋などを一覧 表にしたものである。北山郷の北部に位置するのが大北 山村で、村域内に鹿苑寺がある。鹿苑寺の他、金地院、 平野社の三領主の支配を受け、それぞれに領主庄屋がい る。鹿苑寺門前には七十六軒、金地院領内には三十軒の 総計百余軒が居住し、北山郷内では最大の村落である。 大北山村の南に、位置するのが小北山村と平野村である。 ﹁四方境覚﹂では、小北山村三十九軒、平野村十七軒と いうように家数・人数は区別して記載されているが、村 高・領主は二村あわせた形で記載されている。江戸時代 の名所記や絵図などによると、平野社の西にその門前集 落として平野村、小北山村はその北の大北山寄りに位置 しており、このこ村は明らかに別の集落である。おそら く中世末期には、平野村と小北山村はそれぞれに独立し i J ら カ た ‘ た村落であったが、江戸初期の幕府による村方編成のお ︵ U ︶ りに、一村して村高や領主が設定されたのであろう。村 内は大徳寺領、平野社領、天龍寺領や諸公家領などに細 分化され、小北山村庄屋と大徳寺領庄屋がいた。松原村 は大徳寺の検地帳や﹃北野社家日記﹄にも名が記載され ていた村落で、小北山村の南に位置しておりブ多くの寺 J 院や諸公家領が設定され、実相院と金地院の領主庄屋が い た 。 このように、幕府に提出するための公式文書には、大 北山・小北山村・平野村・松原村の四ヶ村の名称しか記 されておらず、散所村の記述はまったくない。ところが、 前述の﹃隔葉記﹄のなかで、散所村︵算所村︶の動向が 筆者鳳林承章との関わりのなかで、姿をあらわすのであ る 。 ﹃ 隔 箕 記 ﹄ 寛 永 十 七 年 ︹ 一 六 四

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︶ 五 月 十 八 日 条 に は 、 あ ま っ き 等持院領の山を算所村・松原村の百姓盗み、剰え 喧嘩に及ぶ故、公事と成る。今日の対決、板倉周防 せ ん さ く 守殿に於て、穿盤有り。算所村の百姓三人・松原の ろ ら っ し ゃ っ か ま っ 者二人龍舎仕るなり。 と、等持院領の山に算所村と松原村の百姓が、山盗みに け ん か ぜ た 入 っ て 、 暗 一 嘩 沙 汰 を 引 き 起 こ し 、 京 都 所 司 代 の 牢 舎 に 載 がれたとある。これが﹃隔箕記﹄における算所村の初見 だが、以後二十年にわたり算所村の記事がなく、寛文年 聞 に 、 ふ た た び 算 所 村 が 登 場 し て い る 。

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表1 等級 場所 面積 石高 耕作者 上回 八丁榔 1畝10歩 3斗5升 平 野 又 三 郎 上回 八丁柳 8畝 1石 2斗f 松 原 典 八 郎 上回 宮西 7畝15歩 1石 1斗2升5合 宗林 中田 八丁柳 1反 1石5斗 松 原 瀬 二 郎 中田 八丁柳 1反 10歩 2斗 松 原 藤 衛 門 下回 八丁柳 3畝 3斗 次郎左衛門 下回 平野田 5畝 5斗5升 三 所 奥 二 郎 上畠 八T柳、 4畝15歩 4斗9升4合 松 原 奥 助 上畠 入丁柳 2畝 1斗2升 四郎二郎 上自 八丁柳 I畝15歩 9升 平 野 奥 五 郎 おいわけ 上自 平野田 6畝10歩 6斗9升7合 三所禰三左衛門 上畠 平野田 1畝13歩 1斗5升5合 三 所 粥 三 郎 上畠 平野田 1畝5歩 l斗2升5合 三 所 奥 三 郎 上畠 平野田 1畝2歩 1斗 6合 三 所 粥 四 郎 上畠 平野田 l畝 1斗 三 所 藤 五 郎 上畠 平野田 7畝5歩 7斗8升5合 三 所 源 五 郎 下畠 .平野田 5畝20歩 7斗4升4合 平野三郎左衛門 表2 村名 石高(石) 領主・高(石) 人数・家数 庄屋・年寄 大北山村 (回)373.87336 鹿苑寺 291. 9296 北山鹿苑寺門前 鹿苑寺領庄屋次郎右衛門 (畑) 47.1648 金地院 90.487 342人(男160・女182) 鹿苑寺領年寄三丞 平野社 43. 79 76軒 金地院領庄屋彦左衛門 金地院百姓大北山内 金地院領庄屋又左衛門 101人(男72・女69) 平野社領庄屋市兵衛 30軒 小北山 (田)268.877 大徳寺 137 .09 小北山村 小北山村庄屋三右衛門 平野村 (畑)150 天龍寺 60 224人(男135・女99) 大徳寺領庄屋新左衛門 平野社 46.826 39軒 小北山村年寄市右衛門 川鰭家 43.45 平野村 小倉家 43.45 88人(男47・女41) 花園家 43.45 17軒 宮内卿 32.545 代官蔵入地 11.411 松原村 f田) 155.567 代官蔵入地 65.5955 ll2人 金地院領庄屋市丞 (畑) 82.553 実相院 171.44 95軒 実相院領庄屋兵庫 川鰭家 65.955 小倉家 65. 955 花園家 65. 955 平野社 9.465 かんせい 0.7 9 こぺる

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寛文二年︵一六六二︶十二月二日には﹁小北山算所村 く さ や ま で み か ん ひ と お り より草山手納む。例年の如く、庄屋黄柑一折之を捧ぐる なり。﹂と﹁小北山﹂を冠した﹁算所村﹂が草山の年貢 を納め、庄屋が蜜柑を進上したとの記事が見られる。こ れを皮きりに、鳳林承章は、同五年一月七日に﹁小北山 村の庄屋久左衛門札の為来たる。扇子二本之を捧ぐ。算 さしだるいつか 所村惣中より、例年の如く、指樽一荷・豆腐五丁・昆布 一把之を捧ぐるなり。﹂と、小北山村庄屋である久左衛 門が正月に訪れ、算所村惣中からも例年のように祝儀が 届けられたと記している。この久左衛門は、翌年の一月 七 日 条 に ﹁ 小 北 山 算 所 村 の 庄 屋 久 左 衛 門 年 頭 の 札 の 為 、 来て扇子二本之を捧ぐ。算所社惣中例年の如く、指権一 荷・大根一把・豆腐之を捧ぐるなり。﹂とあるように ﹁小北山散所村庄屋﹂と記されてもいる。ここから、鳳 林承章が久左衛門 H 小北山村庄屋 H 小北山散所村庄屋と 見 な し て い た こ と が 明 ら か に な る 。 寛 永 十 二 年 ︵ 一 六 三 五 ︶ に 起 筆 さ れ た ﹃ 隔 箕 記 ﹄ に は 、 寛文年間までに四人の小北山村の庄屋が姿を現す。最初 の庄屋が、三四郎と久左衛円である。久左衛門について は、寛永十七年六月二十日条に﹁今日、小北山の庄屋久 あ い か な し カ 左衛門死ぬるなり。年来の悪人、誰ぞ相愁みある哉。 子 孫 の 者 ま た 心 底 喜 ぶ べ き な り 。 ﹂ と 、 そ の 死 が 記 さ れ 、 m w m u v t u さらに鳳林は彼を﹁年来の悪人﹂と思っている。その 跡 を つ い だ の が 、 ﹁ 四 方 境 覚 ﹂ に も 記 さ れ て い る コ 一 右 衛 門で、寛永十七年から明暦二年︵一六五六︶まで庄屋を 勤め、この跡を、先代の庄屋久左衛門の孫がつぎ、祖父 同様に久左衛門と名のった。こののち九左衛門は﹁小北 山村庄屋﹂として﹃隔箕記﹄に記述されるが、やがて寛 文年聞になると小北山散所村庄屋と呼ばれるようになる の で あ る 。 ︵ 表 2 ︶ に も 明 ら か な よ う に 、 小北山村は鹿苑寺の支 配 を 、 つ け て い な い 。 そ れ に も か か わ ら ず 歴 代 の 庄 屋 た ち ひ ん ぱ ん が頻繁に鹿苑寺を訪れているのは、﹁四方境覚﹂に﹁草 も の な り あ わ せ て は 山手鹿苑寺領之分、物成合四石者小北山村・松原村 うけられもうし 三ケ所より山被 ν 申 候 也 。 ﹂ と あ る よ う に 、 鹿 苑 寺 領 の やまう 草山を大北山村のほかに松原村と小北山村が山請けして いたためであった。このような理由から小北山村庄屋は 年 末 に 草 山 手 を 納 め 、 翌年の正月には年頭の礼に鹿苑寺 を訪れて惣中よりの祝儀を持参するのを例年の習わしと していた。してみると、さきに記した、寛文二年十二月

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、 一 一 日 に ﹁ 小 北 山 算 所 村 ﹂ が 例 年 の よ う に ﹁ 草 山 手 納 ﹂ を お こ な D たという記事は、これを記した鳳林承章が小北山村 と算所村を同一視していたことを意味するものだろう。 、やがて、寛文六年︵一六六四︶九月に算所村と大北山 鹿苑寺門前村のあいだで激しい争論がおこった。九月四 日 条 に 鳳 林 は 以 下 の よ う に 記 し て い る 。 お う り ょ う っ か ま っ 当寺領の境内、算所村庄屋久左衛門押領仕る開 団地、当寺領百性︵姓︶より、奉行所に訴状を捧げ さ せ 、 先 日 、 裏 判 出 づ 。 今 日 対 決 、 今 日 公 事 な り 。 し か 怠 ら 然るに依り、庄屋彦左衛門井ぴに三郎兵衛・弥左衛 門 対 決 に 出 づ る 。 吉 ︵ 田 ︶ 権 右 衛 門 は 御 朱 印 井 ぴ 写 ・ 当山の画図等持参し、玄関迄詰むるなり。御朱印箱 かんぞうす 持つ故、閑蔵主を遣わすなり。坂口半兵衛また吉権 い え ど 供 に 遣 わ す な り 。 然 る と 難 も 、 今 日 は 対 決 な き な り 。 ことのしだいは、算所村庄屋久左衛門が開団地を横領 し、鹿苑寺領の門前村の百姓が奉行所に訴えて出、その 公事のために、門前村庄屋が奉行所に出向くことになっ たというのである。この日の公事は中止されたが、十日 後の九月十四日、雨宮正種のもとで、算所村と大北山村 一 庄 屋 が 対 決 し た 。 そ の 結 果 は ﹁ 当 寺 の 理 運 、 相 済 む な り 。 先 年 よ り 聞 く の 田 地 の 事 、 ま た 重 ね て 穿 盤 あ る べ き の 旨 、 奉行申さるなり。﹂と、大北山村の勝訴となった。しか 哲 人 夫 ︿ し開墾田については、重ねて奉行の詮索を受けることに なり、十一月十七日に鹿苑寺の代官である吉田権右衛門 が﹁大工共召し連れ、高橋河原に赴く。図聞の田地な り。﹂と開墾地に出向き、十二月十二日に﹁当所高橋の 上境内絵図﹂を雨宮正種のもとに持参した。ここから問 題 の 開 墾 地 が 高 橋 の 北 方 、 紙 屋 川 の 河 原 で あ っ た と 知 れ る 。 高橋は洛中に赴くための交通の要所で、洪水で流出す る た び 、 鹿 苑 寺 門 前 村 の 百 姓 た ち が 修 復 に 赴 い て い る 。 その位置からして大北山村域に含まれる地点だが、そこ をなぜ算所村が横領したかは定かでない。もっとも中世 ぽ い と く 後期、高橋神明社脇の地を散所民が買得していたことか らみると、古くはこの地域における散所の占有権があっ たのかもしれない。さらにそこが河原であることも興味 深い。ともあれ、この一件の後、関係が悪化したのか ﹃隔実記﹄からは、小北山村、および算所村の記述が消 え る 。 こベる さて、鳳林承章は、﹃隔葉記﹄のなかで、同一の村落 を ﹁ 小 北 山 村 ﹂ と 呼 び 、 ま た ﹁ 算 所 村 ﹂ と も 呼 ん で い る 。 11

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それも寛永年間の等持院領への山盗事件のおりに﹁散所 村﹂ととうとつに記述され、二十年後の寛文年間に再度 出現し、鹿苑寺との関係が悪化した開墾田の横領のおり に明確に﹁散所村﹂と記されているのである。このよう な状況をどう解釈すればよいのであろうか。そして﹁四 方境覚﹂という公式記録には散所村はまったく記されて いないのである。してみると﹃隔葉記﹄における﹁算所 村﹂は鳳林承章の記憶のうちにある散所とみなすことが で き る だ ろ う 。 記憶のうちにある散所とはいえ、中世の北山散所が小 北山村域にあったことは、﹃隔実記﹄の記事をして明確 となろう。さらに天正期の大徳寺の検地帳に記載された 田 畑 の 場 所 は ﹁ 平 野 田 ﹂ ﹁ 八 丁 柳 ﹂ ﹁ 宮 の 西 ﹂ な ど で あ っ たが、こニは、すべて近世の小北山村域内である。ちな みに、近世、小北山村に四十石の所領を設定されていた ︵ げ ︶ 天龍寺所蔵の﹁享保四年亥四月北山検分記﹂には、小北 山村庄屋の屋敷を中心に小北山村の各家と、集落の西側 に 散 在 す る 大 徳 寺 領 も 描 か れ て い る 。 ︵ 図 1 ︶ も っ と も 、 天正期の大徳寺の検地帳には散所とともに﹁小北山﹂の 地名も現われている。おそらく中世の北山散所に近接す る 場 所 に 小 北 山 の 集 落 が あ っ た か と 考 え ら れ る 。 そ し て 、 中世末期から近世にかけ、散所村は小北山村のうちに吸 収 さ れ て い っ た の で あ ろ う 。 ﹃ 隔 葉 記 ﹄ 以 後 、 ﹁ 散 所 村 ﹂ と 記 さ れ た 史 料 は 見 あ た み こ らない。しかし、近世中期に小北山村域に神子町が成立 していたことが諸史料より明らかになる。たとえば﹃肘 ど う け ん よ ん し ゅ う ︵ 路 ︶ 堂見聞集﹄宝永六年︵一七

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九 ︶ 三 月 二 十 五 日 条 に は 、 こ れ あ り の こ ら ず 二 十 五 日 夜 、 ’ 平 野 の 神 子 町 三 十 余 在 ν之侯処、不 ν 焼 失 す 、 一 軒 残 る 、 と、平野の神子町の焼亡が記されている。その規模は三 十軒、正保期の小北山村の軒数三十九軒、平野村は十七 軒であるから、その場所は平野村というより、小北山村 の可能性が強い。さらに寛政十一年︵一七九九︶刊行の ﹃ 奇 遊 談 ﹄ の ﹁ 高 橋 神 明 ﹂ の 項 目 に も ﹁ さ て 此 ︵ 高 橋 ︶ み こ 近き小北山といふに、今も亙といふものありて、か、る わざをなす事は、ふかく此わたりにあることぞと思いや ら れ ぬ ﹂ と 記 し 、 亙 の 伝 承 を 伝 え て い る 。 この北山神子について、江戸前期に鷹ケ峰光悦町の領 ほんあみこうえっ 主であった本阿弥光悦の子孫が後代に編纂した﹃本阿弥 ︵ 初 ︶ 行状記﹄下巻に興味深い話が記されている。宝永年中に

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品川ザ、リ

享保四年亥四月北山検分記(天龍寺蔵)

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幕府の要職にあった荒井筑後守君美が内命により御政道 調べのため上京し﹁北山の神子甚だあやしき物なりと お お せ わ た ら る 疑ひにて、神子共を町奉行より被ニ仰渡一にて、筑後守殿 ニ れ & り 御吟味有 ν之﹂と神子共の詮議をおこなった。神子たち は﹁これは、先祖代々伝来の秘法にて、只今まで相勤候 事にて、別にあやしき事も鉦わ之候﹂と申し聞きをした が許されず、北山でも名人と呼ばれる神子が荒井君美の 前にでて神下しを行い、源義経の霊を呼び出したという のである。神子の先祖伝来の秘法とは﹁年代隔り候仏﹂ を呼び出すこと、すなわち口寄せや占いなどであった。 この江戸時代の神子町の形成には、ニこが中世におい て声聞師たちが住む散所であったということが深く影響 しているだろう。さらに、それは小北山村の東に位置す る平野社の復興とも関わるものだろう。応仁の乱の後に いちじるしく荒廃していた平野社は慶長五年三六

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O ︶、西洞院時慶によって再興された。やがて明暦年同一 には、境内で歌舞伎奥行がおこなわれ、江戸時代中期に は門前の平野村には、社家の屋敷や水茶屋などもたち並 ︵ 幻 ︶ ぶようになった。このような門前町の繁栄のなかで、口 寄せを業とする神子たちが集団で居住する神子町もまた 繁 栄 し た の で あ ろ う 。 中世後期の京都の散所は社寺の支配を受け、地子や雑 役を免除されるかわりに、散所民たちが境市の掃除や軒 し ん 請などの労役をおこなった。では、北山散所は、いずれ の社寺の支配下にあったのだろうか。もっとも、中世の 北山散所の史料は乏しく、わずかに﹃大徳寺文書﹄の ﹁見性寺年貢公事覚書﹂から、北山散所に声聞師がいた 可 能 性 を 指 摘 で き る だ け で あ る 。 だが、この地域の、中世から近世の状況を念頭におく と、北山散所の支配ゃ、その成立についても幾分かの推 測 を 加 え る こ と が で き る 。 ま ず 、 そ の 名 称 が 問 題 に な る 。 ﹁ 北 山 散 所 ﹂ は ﹁ 北 山 ﹂ という名称を冠されている。さきに述べたように、北山 の地名は藤原公経の北山殿に由来し、北山殿は足利義満 の北山山荘となり、そののちに北山鹿苑寺となった。鹿 苑寺門前には集落が成立し、それが近世には大北山村と なる。大北山村の呼称はさほど古いものはなく、中世に

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︵ 忽 ︶ は,﹁北山村﹂と呼ばれていた。したがフて、鹿苑寺の門 前集落として北山村が、その南に北山散所があったと考 えられないだろうか。ここに大徳寺領が設定されたのは、 盛一臣政権下においてで、それ以前は、むしろ、北山村と ともに、鹿苑寺の支配のもとにあった可能性が高い。 鹿苑寺は義満の菩提所で、その西の等持院や真如寺は 足利歴代将軍の葬送を司った寺院である。北山は鹿苑寺 を中心に展開する足利家の菩提の地、葬送の地である。 ここに散所がありキヨメを職能とする散所民がいでも、 決して不自然ではないだろう。北山散所は鹿苑寺、もし くは等持院などの北山の諸寺院と強くつながる散所であ る ま い か 。 足利家とかかわりが深い寺院の散所の例は他にも見ら れる。それは、足利義満が相国寺に寄進したといわれる 北畠・柳原散所である。この地は幕府から諸役免除され る代わりに寺内の掃除役を勤めている。周知のように相 し ゅ ん お く み よ う は 国寺は、義満が春屋妙高の進言により二十年の歳月を かけて建立した臨済禅院で、以後足利氏の厚い保護を、つ けた。足利氏が相国寺に散所を寄進したならばス同様の 行為が洛外の足利氏とかかわりの深い北山の寺院におい てなされるという推定もうなずけよう。 やがて冷戦国期にいたると、足利将軍家は弱体化し、 それに伴う鹿苑寺や等持院の疲弊は北山散所と諸寺院の つながりを弱めた。天正期に、この地に大徳寺領も設定 されると、その関係はいよいよ弱まり、大徳寺の検地帳 における状況が生まれ、﹁山所村﹂も成立した。そして 江戸幕府の近世村の編成のもとに、北山散所は小北山村 へ 吸 収 さ れ た の で は な い だ ろ う か 。 中世において、北山散所が鹿苑寺の支配を、つけた散所 という想定が正しいものであるならば、江戸時代前期の 鹿苑寺住職である鳳林承章が、﹃隔翼記﹄に所領を横領 する小北山庄屋久左衛門を﹁算所村庄屋﹂と記し、その 祖父を﹁年来の悪人、誰や相愁みある哉﹂と罵った理由 が浮かびあがる。近世村落としての平安な営みをつづけ ているはずの小北山村が、過激で先鋭的な動きをなすと きに、鳳林承章は中世からの記憶をよみがえらせ、この 地域を﹁算所村﹂と記したのであるまいか。それは、か つて鹿苑寺の支配下にあった散所が、新領主である大徳 寺や公家たちの力を背景に、旧支配者にはむかうことに 対するある種の﹁怒り﹂の意識を含んだ言葉であろう。 こべる 15

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京 都 部 落 史 研 究 所 編 、 第 三 巻 史 料 中 世 四 三 O 頁 、 第 十 巻 年 表 七 三 頁 。 ︵ 2 ︶ 京 都 市 編 平 九 社 刊 。 ︵ 3 ︶ 北 野 天 満 宮 史 料 刊 行 会 編 、 北 野 天 満 宮 刊 。 ︵ 4 ︶ ﹃ 大 日 本 古 文 書 ﹂ 家 わ け 十 七 第 七 大 徳 寺 文 書 十 一 四 O 号 。 ︵ 5 ︶ ﹃ 大 日 本 古 記 録 ﹂ 正 長 元 年 六 月 十 日 条 。 ︵ 6 ︶ ﹁ 大 日 本 古 文 書 ﹂ 家 わ け 十 七 | 八 第 二 五 五 二 号 。 ︵ 7 ︶ ﹁大日本古文書﹄家わけ十七八 第 二 五 五 一 号 。 ︵ 8 ︶ ﹁大日本古文書﹄家わけ十七|五第二 000 号 。 続 群 書 類 緊 完 成 会 編 。 ︵ 9 ︶ ︵ 日 ︶ 内 閣 文 庫 編 ﹃ 内 閣 文 庫 所 蔵 史 籍 叢 書 ﹂ 五 五 ・ 五 六 巻 。 山 口 泰 弘 家 文 書 ︵ 京 都 市 歴 史 資 料 館 所 蔵 写 真 資 料 ︶ 。 鹿苑寺文書︵京都市歴史資料館所蔵写真資料︶。尚、前 掲﹃史料京都の歴史﹂第六巻三二三・三五三・コ一七二具 に 本 文 が 掲 載 さ れ て い る 。 ︵ 日 ︶ ︵ ロ ︶ ︵ 日 ︶ 赤松俊秀編 幕府の編纂になる﹃元禄郷帳﹄﹁天保郷帳﹂には二村併 記の形ではなく﹁平野村﹂として村高が記されている。ま た﹁京都府地誌﹂には両村は別村で明治元年に合併したと 鹿 苑 寺 刊 。 ︵ 日 ︶ あ る 。 ︵ 日 ︶ 庄屋三四郎については寛永十六年八月二十九日条・同十 七 年 一 月 九 日 条 に 記 載 さ れ て い る 。 ︵ 凶 ︶ 三右衛門は寛永十九年一月七日に庄屋として年頭に鹿苑 寺 を 訪 れ て か ら 明 暦 二 年 一 月 七 日 の 年 頭 の 拝 賀 に い た る ま ︵ 口 ︶ で ﹃ 隔 実 記 ﹄ に 頻 出 す る 。 次 代 の 久 左 衛 門 の 初 見 は 、 同 年 十 二 月 二 十 一 日 条 、 こ こ に 先 代 の 孫 と 記 さ れ て い る 。 天 龍 寺 文 書 ︵ 京 都 府 立 総 合 資 料 館 所 蔵 写 真 資 料 ︶ 。 ︵ 四 ︶ ﹃ 続 日 本 随 筆 大 成 ﹄ 別 巻 。 ︵ 四 ︶ ﹃ 日 本 随 筆 大 成 ﹄ 二 十 三 巻 。 ︵ 却 ︶ 正木篤三著﹃本阿弥行状記と光悦﹄︵中央公論美術出版 刊 ︶ 収 載 。 ︵ 幻 ︶ 平野社頭の歌舞伎興行や茶屋営業等の史料は﹃史料京 都 の 歴 史 ﹂ 第 六 巻 三 五 五 ・ 三 五 六 頁 に 収 載 し た 。 ︵ 幻 ︶ 鹿 苑 寺 文 書 の 慶 長 十 四 年 の 板 倉 勝 重 黒 印 状 に も 北 山 村 の 記述があり︵﹃史料京都の歴史﹄第六巻三二 O 頁 ︶ 、 近 世 に も 北 山 村 の 呼 称 が 使 用 さ れ て い る 。 付 記 本稿をなすにあたり、山路興造氏、川嶋婚生氏、小林丈広氏 か ら 多 く の ご 教 示 を 得 た 。 末 尾 な が ら 感 謝 の 意 を 表 し た い 。

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第 m a 回 ﹁ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 ︵ け ・ お ︶ か ら 部落解放同盟の綱領改正案をめぐ る議論については、連載特集が一段 落したらまとめて合評会を持つこと にして、しばらく報告者に話題を提 供してもらって討論するという形を と る こ と に し ま し た 。 そこで、今回は住田一郎さんの ﹁部落を名乗る意味|畑中敏之著 ﹃ ﹁ 部 落 史 ﹂ の 終 わ り ﹂ を 読 ん で ﹂ 。 終了後、﹁今回は息づまるような話 だった﹂と感想をもらされた方がお ら れ ま し た 。 ﹁ ρ 私は部落民です U と 名乗ることにどんな意味があるの か﹂というテ l マは、名乗る人にも 名乗られる人にも、ある種の緊張を もたらさずにはおきません。名乗る 人には﹁なんのために名乗るのか﹂ が、名乗られる人には﹁名乗りをど のように受けとめるか﹂が問われる からです。部落差別︵意識︶を媒介 にした人と人との関係を変えるには、 部落差別にかかわる自己証明・自己 表明とそれが引き起こす波紋の心理 過程、内面的意味の検討は避けて通 れない課題ですが、これまであまり 議論されてこなかったように思われ ます。議論されても、ほとんどは ﹁名乗りのしんどさ﹂の強調にとど まっていたのではないでしょうか。 しかし住田さんは、子どもが将来 きっと差別を受けるだろうと予測し ながら、どう対処してよいかわから ず、家の中でも話題にしにくいと感 じている部落の親たちの苦衷を承知 のうえで、﹁部落民自身が部落を名 乗ることなしに、部落差別問題の顕 在化、したがって部落解放運動の前 進は不可能であり、誰に強制される のでもなく、自らの内面からの︿突 き上げ﹀に応えるかたちで積極的に 名乗ることによって部落差別と向き 合う自己を形成することが大事だ﹂ とおっしゃる。﹁名乗るか名乗らな いかは、あくまでも本人の自由であ って、自由であるからこそ、その名 乗りには積極性があるのでは﹂とい う意見に対して、住田さんはもちろ ん同意されましたが、事柄が個人の 内面に深くかかわる以上、一律に ﹁かくあるべし﹂とはいかない。し かも、ある人が述べたように、﹁名 乗る﹂前に﹁部落民とはなにか﹂と いう大問題がひかえています。血 統・系譜論では収まりきれない状況 がたしかにあるからです。今回の合 評会では充分議論できませんでした が、定義いじりに陥らないように気 を付けながら追求したいテ l マ で す 。 最後に住田さんから﹁本人が部落民 でないと思ったら部落民でなくなる のか﹂との問い返しがありました。 さてこれにどう答えるか。大きな宿 題 を 出 さ れ た 感 じ で す 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ ﹃ 乙 ぺ る ﹄ 合 評 会 の お 知 ら せ 一 月 二 七 日 ︵ 土 ︶ 午 後 二 時 よ り 話題提供者藤田敬一 つ 部 落 民 d め ぐ る 最 近 の 議 論 に つ い て ﹂ き 京 都 府 部 落 解 放 セ ン タ ー 方 第 二 会 議 室 EO 七五|四一五一 O 三 一 O 編集・発行者 こべる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区寺町通今出川上jレ四丁目鶴山町14阿件社 Tel. 075 256 1364 Fax 075 211 4870 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 010107 6141 第34号 1996年1月25日発行

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三 四 号 一九九六年 一 月 二 十五日発行︵毎月 一 回 二十五日発 行 ︶ アメリカの古典児童文学には、どうし て孤児が多いのか 。 一 二 冊の代表的な 児 童文学 に共通する 物 語構造 や類似性 を心理 学 的アプロ ー チによっ て 分 析 、 主人公の子どもを思春期のアメリカ合 衆国の 歴 史的心理に重ねて、社会・文 化的分脈の中で解 読 す る 。 オ ズ の 魔法使い / ハ y クルペリ 1 フィンの冒険 少女レベ ッ カ/小公子 / 類猿人タ l ザン 王子と乞食/ トム・ソ l ヤ!の 冒 険 若草物語 / トピ l ・ タイラ! ハンス・プリンカ 1 / 秘密の花園 少 女パ レ ア ナ A 五 判 ・ 三 四 八 頁 ・ 定 価 三 、 九六 O 円 ︵ 本体三 、 八四五円 ︶ 京都市上 京区寺町今出川上ル 4 丁 目 鶴山町刊訂吋件十 4 1 mO 七 草 ︹ 二 五 六 ︶ 一 三 六 四 ・ ︵ 二 二 ︶ 四 八 七 O V D ’ 日 W4T 一 九九 三 年五月 二 十 七 日 第 三 種郵便物認可 定価 三 百 円 ︵ 本体 ニ 丸 二 円 ︶

参照

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