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『殉教の記憶・記録・伝承──津和野キリシタン史記述再考──

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Academic year: 2022

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彩な切り口がある︒著者は津和野キリシタンにおける殉教の問題をめぐって︑従来の史料を通して史実・事実を客観的に究明していくというのではなく︑﹁殉教﹂として語り伝えられる︑﹁語り﹂そのものに着目するという新しい視点を導入する︒

  キリシタン研究において主流をなしてきた︑実証主義的歴史学研究とは袂を分かち︑言語論的転回︑歴史の物語り論という歴史哲学的視点から︑津和野キリシタン史の新解釈にチャレンジしようとする意欲的な一書である︒

一  本書の目次第Ⅰ部  キリシタン﹁殉教﹂をめぐる背景第一章 主題設定一 キリシタン﹁殉教史﹂研究における問題の所在二 歴史的背景︱津和野という空間︵歴史的・地理的・宗教的背景︶︱三 先行研究第二章 ﹁殉教﹂の概念史︱日本語史における﹁殉教﹂概念とその周辺︱一 はじめに二 ﹃諳厄利亜語林大成﹄︵一八一四年︶三 ﹃英和対訳袖珍辞書﹄︵一八六二年︶四 福澤諭吉﹃學問ノスゝメ﹄七編︵明治七年・一八七四年︶五 ﹃和英語林集成﹄︵初版一八六七年・第二版一八七二年・第三版一八八六年︶六 ﹃言海﹄︵一八八九年‑九一年︶ 三輪地塩著

﹃ 殉教の記憶 ・ 記録 ・ 伝承

││ 津和野キリシタン史記述再考 ││

晃洋書房  二〇二〇年二月刊A5判  ⅴ+二五八+一二頁  四二〇〇円+税 宮  崎  賢 太 郎   著者のあとがきによると︑本書は︑二〇一七年に立教大学大学院キリスト教学研究科へ提出した博士学位取得申請論文に加筆・修正を加えたものである︒著者は二〇一八年立教大学大学院キリスト教学研究科博士課程後期課程︵博士・文学︶を修了し︑現在︑立教大学文学部兼任講師で︑日本キリスト教会浦和教会︵改革長老教会︶の牧師も務めている︒

 著者は山口県津和野での予備調査の段階では︑幕末明治初期のキリシタン弾圧史におけるキリスト教の﹁死・葬・墓﹂の側面に着目し︑﹁日本的文化変容と土着の萌芽を見いだせるとの仮説を立てていた﹂という︒実際に史料収集を試みてみたところ︑あまりにもカトリックの聖職者や︑カトリックの関係者たちによって書かれたものが多すぎるという史料の偏りと︑浦上流配信徒に関する津和野藩史料がすべて焼却されていたことによって︑このテーマの追及を断念せざるをえなかった︒

 従来のキリシタン研究には︑宗教史的研究︑思想史的研究︑対外交渉史的研究︑文学・美術史的研究︑文化史的研究など多

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三 安太郎に現れた﹁聖母﹂の﹁記憶﹂四 ﹁守山裕次郎の十字架﹂の﹁記憶﹂第四章 結語  あとがき  参考文献 二  本書の概要  本書は目次からも明らかなように︑大きく二部に分かれ︑第Ⅰ部ではテーマの設定と先行研究の紹介︑本書における鍵語である﹁殉教﹂という言葉の概念設定をおこなう︒キリシタン研究における実証主義的歴史研究法に対し︑著者は津和野キリシタン殉教史研究を試みる際の方法論として︑一九九〇〜二〇〇〇年代に国内外において大きなインパクトを与えた﹁言語論的転回﹂の手法を援用し︑ここでその概念設定をおこなう︒

  第Ⅱ部では︑津和野キリシタン史に関する具体的な﹁記述分析﹂をおこなう︒そこでは歴史叙述の営みを通して︑﹁歴史﹂が生み出されていくための三つの大きな柱である﹁記憶﹂﹁記録﹂﹁伝承﹂がいかに連関し︑津和野キリシタンの殉教の歴史を紡ぎだしてきたのか︑緻密な史料分析の裏付けをもってそのプロセスを明らかにする︒

  第Ⅰ部第一章は︑本研究の主題が︑津和野藩に流配となった長崎︵浦上︶キリシタンの﹁殉教﹂を﹁素材﹂とし︑いかなる事実があったのかではなく︑いかなる出来事だったと﹁記憶され﹂﹁記録され﹂﹁伝えられたか﹂の分析にあると述べている︒

  次に津和野の歴史を簡単に振り返り︑明治新政府の近代的祭政一致の宗教政策推進に中心的な働きをなした亀井玆監︑福羽美静︑大国隆正らがいずれも津和野藩の関係者であったこと︑ 七 ﹁殉教﹂になった 000

第三章 キリシタン殉教史の概念設定一 近代歴史学の経緯︵ランケ史学からミクロストリアまで︶二 ﹁記憶﹂﹁記録﹂﹁伝承﹂の語とそれらの営為について三 言語論的転回を巡って第四章 キリシタン殉教のプロトタイプの形成一 キリシタン殉教物語の文学類型と殉教の規定について二 A・ヴィリオンの紹介する日本キリシタン殉教史︱﹃日本聖人鮮血遺書﹄と﹁映画﹃殉教血史  日本二十六聖人﹄﹂︱第Ⅱ部  ﹁殉教﹂の﹁語り﹂分析第一章 津和野の記憶と記録一 第Ⅰ部と第Ⅱ部の構成二 津和野キリシタン史の記録者たちとその記録三 津和野キリシタン史記述の﹁一次史料﹂とされるもの第二章 津和野の記録と伝承︱伝承を意図した記録︱一 津和野キリシタン史が記された﹁記録﹂の時代区分と世代二 A・ヴィリオンにおける﹁殉教︵者︶﹂の﹁記憶﹂と﹁発掘﹂第三章 津和野の記録と伝承︱創られた記憶︱一 津和野のキリシタン史における﹁逸話﹂二 高木仙右衛門と守山甚三郎に行われた﹁氷責め﹂の﹁記憶﹂

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るようになった者は三六名︵三七名︶といわれる︒次節において︑日本キリスト教史におけるキリシタンに関する先行研究について︑﹁殉教史﹂に関わる分野に絞って紹介をおこなう︒   第二章では︑日本における﹁殉教﹂という語彙の発生について検討する︒佐藤吉昭﹃キリスト教における殉教研究﹄︵二〇〇四年︶を引用しつつ︑﹁殉教﹂という訳語の初出がジアン・クラッセ著︑太政官翻訳係版﹃日本西教史﹄上巻︵一八八〇年︶に見いだされるところから︑まずマーティルダム︵Martyrdom︶を﹁殉教﹂︑マルチル︵Martyr︶を﹁殉教者﹂と翻訳したのは太政官翻訳係であったと推定︒著者はそれにとどまらず︑太政官翻訳係が﹁殉教﹂﹁殉教者﹂と翻訳するようになった経緯を︑主として幕末から明治期の英和・和英辞書の編纂史をたどることによって検証する︒

  第三章では︑本書において津和野キリシタン殉教史をいかなる視点から︑いかなる方法論をもって分析してゆくのかという研究方針を明らかにする︒﹁本稿は︑﹃殉教﹄として特徴づけられた出来事についての﹃語り﹄︑とりわけ︑その﹃語り﹄を形成する要素としての﹃記憶﹄と︑その記憶が何らかの方法によって残された﹃記録﹄︑そしてそれらが伝えられる事によって行われる﹃伝承﹄︑更に︑その伝承されたものが人の﹃記憶﹄を再形成して伝えられる︑という一連の営みを検討する事を目的としている﹂と述べている︒

  次にそのような手法を用いることとした経緯を説明すべく︑まず近代歴史学の変遷についてふりかえる︒続いてリチャード・ローティの﹃言語論的転回﹄︵一九六七年︶によって﹁言 それゆえ︑津和野藩は他藩に比し︑総勢一五三名という多数の︑しかも高木仙右衛門︑守山甚三郎という最も信仰堅固といわれた両名を藩預かりとするにいたった経緯に触れている︒

  続いて著者は本書において扱われる﹁津和野キリシタン史﹂の概略を取りまとめて紹介する︒本書で扱われる事件の背景理解のために︑ここでその骨子のみを紹介しておこう︒

  肥前国彼杵郡浦上村︵現在の長崎市︶には島原の乱の頃より︑幕末にいたるまで多数の潜伏キリシタンが存在していた︒時折り密告により︑集団的に組織の摘発・処分が長崎奉行の手によって行われた︒キリシタン信徒組織が一網打尽的に摘発される事件を﹁崩れ﹂と呼ぶが︑浦上村では﹁浦上一番崩れ︵一七九〇年︵寛永二︶︶﹂から﹁浦上四番崩れ︵一八六七年︵慶応三︶︶﹂まで都合四回発生している︒

  一八六八年︵明治元︶︑浦上四番崩れによって三四一四名の信徒が検挙された︒その中の主だった者一一四名が第一陣として津和野︑萩︑福山の三藩にわかれて流罪となった︒翌一八六九年︑残る三三〇〇名も第二陣として名古屋︑和歌山︑金沢︑岡山︑広島︑鹿児島︑津和野など︑西日本各地の二〇藩にお預けとなり︑改宗のための説諭・拷問が加えられた︒津和野藩にお預けとなった一五三名と︑津和野流配中に生まれた一〇名を加えた一六三名を﹁津和野キリシタン﹂という︒

  一八七三年︵明治六︶キリシタン禁制の高札は撤廃され︑流配信徒たちは帰郷する︒津和野流配者のうち︑キリシタンを捨てなかった不改心帰還者六八名︑キリシタンを捨てた改心帰還者五四名︑死亡者四一名で︑この中で後に﹁殉教者﹂と呼ばれ

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にあたりながら分析してゆく︒   第一章第二節では︑津和野キリシタン史を扱った各文書・史料・資料の執筆動機や成立過程について具体的に見ていく︒まず浦上の潜伏キリシタンで︑津和野の光琳寺に流配幽閉された高木仙右衛門の口述筆記である﹃覚書﹄︵以下﹃高木覚書﹄︶は︑迫害を受けた側が残した︑現存する最も古い記録である︒流配前の長崎での出来事や︑津和野で起こったことを︑浦上に帰還した四年後に口述筆記したもので︑七九頁からなる︒

  津和野キリシタン史を語る上で重要な一次資料はパリ外国 宣教会宣教師フランシスク・マルナス︵Marnas, Francisque 1859‑1932︶の﹃日本キリスト教復活史﹄︵以下﹃復活史﹄︶である︒開国前後から浦上四番崩れ︑浦上教徒流配事件︑明治六年の禁教撤廃にいたる歴史を中心に扱った大部のもので︑後の浦川和三郎や池田敏雄らの著作に大きな影響を与えている︒

  浦川和三郎は一八七六年長崎に生まれ︑両親は浦上四番崩れで鹿児島に流配となっている︒一九〇六年カトリック司祭となり︑長崎公教神学校校長︑仙台教区司教を歴任し︑キリシタン史研究者としても著名である︒浦川は﹃日本に於ける公教会の復活前篇﹄︵一九一五年︶の例言の中で︑マルナスの﹃復活史﹄を主な下敷きとし︑津和野から帰ってきた古老を自ら訪ねて聞き取りを行ったものを加えて執筆したと記している︒

  ヴィリオンの﹃鮮血遺書﹄は︑彼がミサの中で日本の殉教者について説教したものを︑信徒の加古義一が筆記し︑編纂出版したものである︒同書にはヴィリオンの﹁聖人観﹂や﹁殉教観﹂が混入しており︑第一次資料としての資料価値は低いが︑ 語論的転回﹂というパラダイムが生みだされ︑歴史学は新たな転換点を迎えたこと︒一九七〇年代にはイタリアのギンスブルグやレーヴィを中心に︑﹁ミクロストーリア﹂と呼ばれる社会史的・文化史的側面にも注目する手法が提示されたことを説明する︒ミクロストーリアとはミクロな対象に対し︑集中的に歴史学的検証・調査・叙述を行う歴史方法であるが︑本書は言語論的転回とミクロストリアの二つの手法を合わせ試みている︒

  第四章では︑江戸初期のキリシタン時代において殉教とはいかなる意義を有し︑いかように殉教のストーリーが物語られ︑殉教のプロトタイプが作り上げられてきたのかを振りかえる︒

  著者は日本人の間にキリシタンの殉教イメージを大きく定着させたものとして︑映画というメディアをとりあげる︒パリ外国宣教会のフランス人宣教師A・ヴィリオン︵Villion, Aimé 1843‑1932︶は︑一八六八年︵明治元︶に来日し︑津和野キリシタン殉教の発掘︑紹介に多大な貢献をなした︒彼はレオン・パジェス︵Pagés, Léon 1814‑1886︶の﹃日本廿六聖人殉教記﹄および﹃日本切支丹宗門史﹄をもとにして︑﹃日本聖人鮮血遺書﹄︵一八八七年︑以下﹃鮮血遺書﹄︶を著し︑明治期以降の日本人のキリシタン殉教観形成に多大な影響を与えた︒平山政十は﹃鮮血遺書﹄を下敷きとして日活映画作品﹃殉教血史日本廿六聖人﹄︵一九三一年︶を製作し︑日本人への殉教イメージの浸透におおいに寄与したという︒

  第Ⅱ部第一章から第三章では︑本書のテーマを分析するために︑津和野キリシタン史の記録者たちとその記録を綿密に史料

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代と世代の二つのカテゴリーから分析してみせる︒アライダ・アスマンは﹃記憶の中の歴史﹄︵二〇一五年︶のなかで︑歴史のエポックを形成する世代が如何にして誕生し︑その世代という概念が何であるのかを歴史を解く鍵とする考えを提示している︒著者はこの考えを本書に援用し︑津和野キリシタン史の叙述者たちの﹁年代﹂や﹁世代﹂に着目して時代区分をおこない︑その叙述自体の特徴を検証する︒

 その作業のために︑著者は﹁津和野キリシタン史叙述とその関連事項﹂という詳細な年表を作成する︒年表をまず﹇表Ⅰ﹈の﹁前期叙述期﹂と﹇表Ⅱ﹈の﹁後期叙述期﹂に大別する︒﹇表Ⅰ﹈はさらに﹁第Ⅰ期︵記憶の草創期︶﹂﹁第Ⅱ期︵記憶の形成期︶﹂﹁第Ⅲ期︵第二世代の叙述期︶﹂の三期に区分され︑﹇表Ⅱ﹈は﹁第Ⅳ期︵乙女峠の聖地化期︶﹂﹁第Ⅴ期︵第三世代の叙述期︶﹂の二期に区分される︒

  第三章では︑﹁殉教﹂とは当初から﹁殉教﹂だったのではなく︑ある死についての記憶が語られていく中で︑絶えず︑新たな解釈が行われ︑書き改められ︑書き加えられていく中で﹁殉教﹂という記録が作り上げられ︑伝承されていくことを確認する︒そのために︑津和野キリシタンにまつわる三つの代表的 な話を取り上げて論証する︒手法としては︑﹃高木覚書﹄︑﹃守山覚書﹄︑マルナス﹃復活史﹄︑浦川和三郎﹃旅の話﹄︑永井隆﹃乙女峠﹄︑池田敏雄﹃キリシタンの精鋭﹄の中で該当箇所を丹念に抜き出し︑語られた部分を比較分析していく︒

  第Ⅱ節では︑三つの話の中のひとつ︑津和野牢として用いられた廃寺であった光琳寺で︑氷の張る池に裸で浸けられる﹁氷 六版を重ね︑戦前︑広範な読者を獲得した書物であった︒続いて︑守山甚三郎・沖本常吉・池田敏雄︑その他の研究者による津和野キリシタン研究について考察しているが省略する︒

  第一章第三節では︑一次史料をいかなるものと理解するかという問いを発する︒福井憲彦﹃歴史学の現在﹄︵二〇〇一年︶を参照しつつ︑﹁史料﹂と﹁資料﹂の違いについてその定義を確認する︒従来︑一次史料とは︑﹁当事者が書いた文書﹂︑二次史料とは﹁それ以降の者たちによって書かれた文書﹂という標準的な理解がある︒キース・ジェンキンズ︵Jenkins, Keith︶は﹃歴史を考えなおす﹄︵二〇〇五年︶の中で︑﹁過去は決して本当には知ることはできず︑中心なるものはなく︑物事を正確に捉えるために参考にする﹁深層的な﹂資料︵サブテクスト︶はない﹂と論じ︑一次史料︵オリジナル史料︶を優先しそれらの文書を物神化する事への批判をおこなっている︒

  著者は津和野キリシタン信徒たちはただ死んだではなく︑なぜ﹁殉教﹂したでなければならないのかという素朴な疑問を抱く︒そして︑カトリック信仰における﹁殉教者﹂の価値付けや意味づけに関する思想的な検証ではなく︑どのように﹁死者﹂が﹁殉教者﹂であると語られていったかという叙述を問う︒著者は先述したジェンキンズの批判を受け入れ︑本書における﹁一次史料﹂とは︑これまで﹁語り﹂﹁叙述﹂されてきたものの中に示されている︑﹁意味付けられ﹂︑﹁意義付けられ﹂︑﹁価値付けられ﹂た津和野キリシタン史叙述のそのすべてが︑本稿にとっての﹁一次史料﹂となると述べている︒

  第二章では︑津和野キリシタン史が書かれた﹁記録﹂を︑時

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三  コメント   評者のキリシタン研究のきっかけも遠藤の﹃沈黙﹄と出会い︑﹁殉教﹂の謎解きに関心を持ったからだった︒遠い異国から言葉も通じない南蛮人の宣教師がやってきて︑罪人として十字架に磔になったゼズスという人物が唯一の神であると知らされた日本人は︑その言葉をどう受け止めたのであろうか︒しばらくして迫害が始まり︑少なからざるキリシタンが殉教を遂げた︒その後︑宣教師がひとりもいなくなっても︑幕末までさらに二百数十年間︑信徒たちは仏教徒を装いながら秘かに信仰を守り通したという︒この不可思議な﹁殉教﹂という現象を一体どう理解したらよいのか︑どう説明がつくのか?

  この問題と取り組んで五〇年︒評者なりの一つの結論をえるには到った︒﹁殉教﹂もいとわず信仰を守り通したというこれまでの歴史認識は︑限りなく美しくも悲しい﹁夢とロマンの物語﹂に対する現代人の憧れの心情が投影された幻想だったのではないか︒たしかに﹁殉教﹂はあったが︑殉教者と呼ばれた人々が命を捧げたのはキリスト教への信仰のためではなかった︒なぜなら彼らはキリシタンとは何かほとんど伝え聞いてはいなかったからである︒ただ︑先祖が大切にしてきたことだけは確かで︑子孫の務めとして命がけで守り通してきたのだ︒キリシタンといわれる人々の信仰の実像は︑多神教から一神教への改宗ではなく︑伝統的な神仏信仰や先祖崇拝の上に︑南蛮渡りのご利益のある新しい神をひとつ付け加えたに過ぎなかったのではないかということである︒

  プライベートな長話をしすぎたが︑本書を読み進めていくう 責め﹂の拷問を受けた高木仙右衛門と守山甚三郎の記録を扱う︒第Ⅲ節では︑光琳寺の庭で極寒のなか三尺牢内に放置されて死んだ安太郎︵享年二九歳︶について︒仙右衛門と甚三郎は︑安太郎の死の数日前に︑直接本人の口からきれいな十七︑八歳くらいのマリア様のような婦人が現れたという話を聞いた︒﹁津和野の聖母出現﹂の話である︒第Ⅳ節は︑﹁守山祐次郎の十字架﹂について︒祐次郎は甚三郎の弟で︑一八七一年︵明治四︶激しい拷問によって死んだ︵享年一四歳︶︒始め﹁十字に横たえられた杉丸太に縛り付けられ﹂と叙述されていたものが後に﹁十字架に架けられ﹂と記述されるようになる︒

  全体の結論として︑著者は以下の三点を挙げている︒   第一に︑キリシタンが拷問を受けて死亡したという出来事は︑﹁殉教した﹂と語られて初めて﹁殉教﹂となり︑カトリック共同体の中で共有される価値となる︒

 第二に︑殉教の記憶は循環する︒﹁殉教﹂としての﹁記憶﹂は︑それが﹁記録﹂され︑語られ﹁伝承﹂される中で︑﹁殉教の出来事であった﹂として﹁記憶﹂されるものとなる︒

  第三に︑津和野キリシタン史は︑最も堅固な信仰を持つといわれた高木仙右衛門や守山甚三郎のような極めて個人的な記憶に負っている︒とりわけ︑甚三郎は父国太郎も弟祐次郎も津和野で殉教し︑みずからも﹁氷責め﹂の拷問を体験し︑故郷浦上に帰還後もその信仰生きぬいた者として﹁生ける殉教者﹂とも称され︑浦上信徒全体の代表的人物となった︒

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な事項の確認作業も怠りない︒広く日本人にキリシタン殉教史のイメージを浸透させた日活映画﹃殉教血史  日本廿六聖人﹄については︑古い﹃キネマ旬報﹄まで目配りするなど︑他面において著者は実際には豊かな﹁一次史料﹂をふんだんに用いた緻密な実証的研究をおこなっている︒

  ここで手短に感想を述べておきたい︒まず本書において︑著者は﹁言語論的転回﹂理論研究のためのひとつの事例として津和野キリシタン史を取り上げたのか︑津和野キリシタン史研究の新たな地平を切り拓くために新しい理論の援用を試みようとしたのかという点である︒前者ならば︑欧米を中心とする新たな方法論を紹介し︑援用するのに問題はないが︑むしろ読み手の知識や理解力のほうに問題があることを恐れるが︑繰り出される多岐に亘る諸説の断片的な言説によって︑焦点が分散し︑やや議論の深まりやまとまりに欠ける感なしとはしなかった︒

  これほど緻密な論証によって明らかにされた結論の価値︑意義はどこにあるのか︒津和野キリシタン史研究を通して日本キリシタン史︑すなわち﹁日本人とキリスト教﹂という究極的な課題にもっと深く切り込んでいける可能性があったのではないか︒著者自身︑第一章の主題設定で︑キリスト教の﹁死・葬・墓﹂という側面から︑キリスト教信仰の日本的文化受容と土着の萌芽を見出せるのではというきわめて興味深い仮説を立てて研究を進めていたと述べている︒津和野キリシタン史研究に関わる史料不足が決定的であったとしたら︑なぜ津和野に拘泥し続けたのか︒ほかの研究対象は考えられなかったのか︒いずれにせよ︑次なる研究テーマとして再挑戦を期待したい︒ ちに︑著者と評者の問題意識の根底には共通する点がかなりあるのではないかと感じたからである︒評者は﹁殉教﹂という現象を長崎県下のカクレキリシタンの民俗学的調査を主軸として実証的に追及してきたが︑著者はこれまでのキリシタン研究における常道ともいうべき実証主義的歴史学の研究方法を排し︑新しい言語論的転回︑歴史の物語り論という視点から歴史哲学的分析を試みたのである︒

  評者は著者のこの新しい試みに接し︑これまでとは全く異なる地平に立たされ︑少なからざる戸惑いを禁じえなかった︒著者が引用したジェンキンズの﹁我々は過去を知ることなど出来ない︒なぜなら過去は︑文字通り﹁過﹂ぎ﹁去﹂っているのであり︑完全再生など出来ないからである﹂という言葉は実証主義歴史学の全否定とも思えたのだ︒さらに実証主義歴史学における強い一次史料重視の姿勢を文書の物神化として批判し︑著者は本稿では︑過去に﹁津和野キリシタン史﹂について語られた全ての﹁語り自体﹂を﹁一次史料﹂とみなすという︒﹁言語論的転回﹂においては︑ランケの実証主義的な史学概念では﹁科学﹂の一分野として捉えられていた歴史は︑﹁文学﹂﹁創作文学﹂﹁フィクション﹂の一つのジャンルとして認識されるという︒いつから歴史学はフィクションとなったのか︒

  津和野キリシタンにおける殉教の問題を扱う著者の研究姿勢であるが︑津和野の歴史的︑地理的︑宗教的背景や︑先行研究は無論のこと︑キーワードである﹁martyrdom 殉教﹂﹁mar-tyr 殉教者﹂という言葉の日本語翻訳の由来まで確認し︑﹁史料﹂と﹁資料﹂︑﹁一次史料﹂と﹁二次史料﹂の相異など基本的

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