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初 期 キ リ ス ト 教 教 父 思 想 に お け る オ イ コ ノ ミ ア 概 念

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(1)

序   多くの場合において︑﹁経済﹂と訳される﹁エコノミー︵economy︶﹂という言葉の基になっているギリシア語の

﹁オイコノミア︵︶﹂は︑﹁オイコス︵︶﹂︵家︑ただし︑これから見ていくように︑広い意味合いをもつ︶

と﹁ネメイン︵︶﹂︵管理する・割り当てる︶という単語から成り立っている 1︒この語は︑﹁家を管理する﹂と 稿︑﹁

初 期 キ リ ス ト 教 教 父 思 想 に お け る オ イ コ ノ ミ ア 概 念

││

 

否定神学︑悪の問題を手掛かりとして

 

││

津   田   謙   治

(2)

いう本来の語義を様々なかたちで保持したまま︑初期キリスト教思想においては︑神による人間の救済に関わる事 柄を包摂してきた︒本稿は︑この﹁オイコノミア﹂を概念史的に辿ることによって 2︑キリスト教の正統的教理の確立を巡って様々な議論が交わされた二︑三世紀において︑この語がどのような意義をもち得たかを考察することを

目的とする︒

一  古代ギリシア世界における

オイコノミア

概念   古代ギリシア世界において︑﹁オイコノミア﹂は︑基本的には元来の意味に従って﹁家﹂を取り仕切る﹁家政﹂ を指していた︒例えば︑クセノフォン︵︶は﹃オイコノミコス﹄の中で︑﹁オイコノミア﹂を医 術や鍛冶などのような﹁知 4﹂︵︶であると見なし︵1 5.1︶︑そのうえで︑﹁良き家政者に属するのは︑自らの家を上手に管理することである﹂︵1.2︶と述べている︵6.4︶︒この場合の﹁家︵︶﹂

は︑﹁住居としての建物︵︶﹂だけでなく︑家族や家財等の有用な所有物すべてを表している︵1.5‑7︶︒したがっ

て︑自分の家に属する家畜や土地など所有物を上手く用いてきちんと遣り繰りをし︑その家の財産を殖やすことがこの言葉と結び付けられていると言える︒他方で︑クセノフォンは︑﹁オイコノミア﹂の定義に続く議論の中で︑

この言葉を整理整頓の技術に関連付けている︒﹁家政﹂は家財等を﹁︵相応しい︶場所に置くこと﹂︵3.3︶も指して おり︑それらが﹁秩序正しく置かれることによって︵︶︑より美しく見える﹂︵8.20︶と彼は論じている︒クセノフォンの議論にある﹁家政﹂と﹁配置﹂という二つの視点は︑﹁オイコノミア﹂を構成する﹁ネメイ

ン﹂という語がもつ﹁取り仕切ること﹂や﹁割り当てること﹂の意味が反映されており︑両者は重なる部分も多

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い︒例えば︑乱雑に置かれた家財道具や書籍などを整理整頓して正しく配置することで︑間違って同じものを再び買うことを回避し︑出費を抑制する場合などは︑二つの視点が密接に関連していることを表している︒これら二つ

の観点から︑さらに別の資料を概観してみたい︒

  アリストテレス︵︶は︑﹃政治学﹄の前半部分で︑﹁国﹂の定義とそれを構成する要素などを明らかにしようと試みているが︑その際に︑﹁家政﹂について触れている︒﹁すべての国は︑家々から︵︶構成 されている﹂︵1253b2‑3︶ことから︑彼は﹁家﹂とその内部で行われる﹁家政﹂の概念を掘り下げているが︑クセノ

フォンの議論と比較して指摘されるべきは︑アリストテレスが財の獲得について独特の議論を展開している点であ

る︒クセノフォンが︑﹁良き家政﹂の目的に家を富ませることを据えていたのに対し︑アリストテレスは﹁︵財の︶獲得︵︶を家政の部分︵︶﹂︵1253b23‑24︶と見なしながらも︑﹁家政が︵商人の行うような︶ 貨殖術︵︶とは異なったもの﹂︵1256a10‑11︶であると捉えている︒家政術が目指すのは︑﹁善き生

︵︶﹂︵1256b32︶に必要な財を備えることであり︑﹁自然にかなう富﹂︵1257b20‑21︶を求めるものであるが︑これに対して貨殖術は︑﹁無限に向かって貨幣を増やす﹂︵1257b33‑34︶ことに逢着するのであって︑﹁自然にかなう ものではなく﹂︵1258b1︶︑﹁非難されるべきもの﹂︵ibid.︶とされる︒また︑クセノフォンが触れていなかった点とし て︑アリストテレスが国と家の統治の在り方が異なっていると指摘していたことも指摘される︒彼に拠れば︑﹁大きな家が小さな国と全く相違しない﹂︵1252a12‑13︶というのは誤りであり︑﹁家政が単一支配︵︶﹂︵1255b19︶

であるのに対して︑﹁政治は自由で等しい者たちの支配﹂︵1255b20︶であるとされている︒したがって︑国の運営に

関わる政治と︑家の運営に関わる家政は相違し︑区別されるべきであるとされる︒

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  他方で︑﹁家政﹂とはやや離れた文脈で︑﹁オイコノミア﹂は﹁配置﹂という意味をもつことがあった︒例えば︑ ハリカルナッソスのディオニュシオス︵︶は︑﹃ポンペイオスへの手紙﹄の中で︑﹁彼︵クセノフォン︶が称賛されるに値するのは︑その主題だけではなく︑⁝その配置︵︶のためなのである 6﹂︵4︶と

述べており︑歴史の叙述にあたって出来事をどのように配置するかを﹁オイコノミア﹂という言葉で表している︒

このような用法は︑修辞学などの分野に見出される 7︒ 二  ストア主義における

オイコノミア

概念の拡張

  前節では︑﹁オイコノミア﹂のもつ﹁家政﹂と﹁配置﹂の意味を確認したが︑ストア主義において︑この概念は

﹁家﹂の範囲を万物へと拡げることになる 8︒ただし︑ストア主義においても︑元来の﹁家を取り仕切る﹂という意味は見出される︒例えば︑アレイオス・ディデュモス︵︶は︑ストア主義の倫理に関係する議論の中

で﹁彼ら︵ストア派︶が言うには︑勤勉な者だけが家政術に長けて︑良き家政を担う者︵︶であり︑その

うえ︑財殖術を担う者︵︶なのである︒というのも︑家政術︵︶は︑家に有用なものに関わる理論的で実践的な技術であるからである︒したがって︑家政︵︶は︑支出と労働を整理すること︵︶

であり︑また所有物と田畑からの労働とを気遣うこと︵︶である 9﹂︵11d︶と述べており︑ここでは﹁オイコ ノミア﹂とそれを担う﹁オイコノモス﹂がともに﹁家政﹂の意味で用いられている︒彼は︑アリストテレスと異なり︑特に財殖術を家政と区別しているようには見えず︑また﹁家は⁝小さな国のように見える A﹂︵2.7.26︶と捉えて

いることからも︑アリストテレスとは異なった﹁家政﹂観をもっていることが窺える B︒

(5)

  他方で︑初期のストア主義者クリュシッポス︵︶のものと見られる文献の中では︑一見すると︑本来の﹁家政﹂の意味から離れた﹁オイコノミア﹂の議論が見出される︒ストア主義を批判したプル

タルコス︵︶の資料に拠れば︑ストア派の基本的な考え方に従って︑﹁共通の自然が万物に拡がっ

ており﹂︵1050C︶︑宇宙万有において﹁生起するすべてのものが︑⁝その︵自然の︶ロゴス︵︶に従っている﹂︵1050C‑D︶とされているが︑この万物の統御のことを彼は﹁オイコノミア︵︶﹂︵1050C︶と述

べている︒万物の統御は﹁家政﹂から大きく離れているように見えるものの︑﹁家﹂を﹁国﹂や﹁世界﹂にまで拡

張して理解することは︑ヘレニズム時代のストア主義に見出される思考であり︑その範囲を﹁管理する﹂ことは

﹁オイコノミア﹂の本来の意義からかけ離れたものとは言えないであろう C︒しかしながら︑この万物の統御としての﹁オイコノミア﹂は︑単に拡大された範囲の﹁家政﹂としてのみ捉えられるべきではない︒というのも︑統御を

行うのは人間としての家政者ではなく神的存在とも言えるべきものであり︑またこの統御は人間に降りかかる悪な

どに関わる点で︑哲学的ないしはある種の宗教的な思考に結び付くからである︒プルタルコスは︑クリュシッポスの思想として次のものを残している︒

しかし︑神は悪徳を罰し︑多くのことを悪人を懲らしめるために行うと︵クリュシッポスは︶述べている︒そ

れはちょうど︑︵彼の著書である︶﹃神々について﹄第二巻の中で彼が述べているとおりである︒﹁諸々の国で

︵起こっている︶ように︑時として︑手に負えないことが善人たちに降りかかる場合があるが︑それは︑悪人

たちへの懲罰のようなものではなく︑それとは別の統御︵︶に︵従っている︶のである﹂︒︵1050D‑E︶   ここでは︑この世界で人間に降りかかる災厄のようなものが︑世界の統御である﹁オイコノミア﹂に従って起こ

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っていることが述べられている︒クリュシッポスは︑悪が生じなかったとすれば﹁善もまた存在していなかったで あろう﹂︵1050F︶と考え︑﹁オイコノミア﹂には善悪すべての配置が含まれているとされる︒万物に拡がる自然のロゴスは︑意志をもって善人を救済し︑悪人を裁くという側面をもたないのである︒

三  ユダヤ教の七十人訳聖書とキリスト教の新約聖書   ここまで概観したような︑﹁家政﹂としての﹁オイコノミア﹂概念は︑ユダヤ教世界においても同様の用法が見

出される︒例えば︑前三世紀頃からアレクサンドレイアを中心としてヘブライ語からギリシア語に翻訳されたとさ

れる七十人訳聖書では︑﹁イザヤ書﹂の中に二箇所︑﹁オイコノミア﹂という言葉が見出される︒

そして︑︵宮廷の管理者である︶お前︵シェブナ︶は︑自分のオイコノミア︵︶から︑そしてその地位から遠ざけられるであろう︒⁝そして︑︵神である私は自らの僕である︶彼︵エルヤキム︶の両手の中にお

前のオイコノミア︵︶を与えるであろう⁝︒

  ここでの職務は︑二箇所とも宮廷の官職の任務に関わる事柄 Dを指しており︑家を管理する﹁家政﹂としての﹁オイコノミア﹂概念と大きな相違はないように見える︒しかしながら︑例えば︑クセノフォンにおいて︑﹁家を取り

仕切る者﹂︵オイコノモス︶が︑家に属するものを自らの判断で主体的に管理することに主眼が置かれていたのに

対して︑﹁イザヤ書﹂で用いられている﹁オイコノミア﹂を担う者は︑上位の立場の者︵神なども含む︶から任命ないしは委託されてそれを行っており︑この意味で﹁オイコノミア﹂は﹁務め﹂や﹁任務﹂の概念を内包している

点は注意すべきであろう E︒

(7)

  他方で︑新約聖書に目を向けるならば︑七十人訳と同様の用法が確認され︑パウロ︵︶が神に与えられた﹁務め﹂を果たす役割を認識していたことが彼の書簡﹁コリント人への第一の手紙﹂の中から窺える︒

このようなわけで︑人は我々をキリストの僕として︑そして神の神秘の管理者たち︵︶

として理解するべきである︒この場合に︑管理者たち︵︶において求められているのは︑信頼に足る者と見なされることである︒︵4.1︶

  ここでは︑神に与えられた﹁務め﹂を果たす者として︑﹁オイコノモス﹂の複数形が用いられている︒同様の意

味での用法は︑同一の書簡の後にもう一度見出される︒

というのも︑もし私がそのこと︵福音を告げ知らせること︶を自分の意志で実行するとすれば︑私は報いを得るであろう︒しかし︑もし私が自分の意志でなしに︵実行するとすれば︶︑私はオイコノミア︵︶を

委託されたのである︒︵9.16‑18︶   神に与えられた﹁務め﹂が︑﹁オイコノミア﹂として表現されているが︑その務めの内容は︑ここでは﹁神の神秘﹂の管理や﹁福音の宣教﹂に結び付けられている︒このことから︑新約聖書で用いられる﹁オイコノミア﹂の中

に︑元来の﹁家政者﹂や﹁管理人﹂の職務に留まらない︑新しい意味を見いだそうとする潮流があった︒その流れ

の一つに位置付けられるリルゲの分析に従って︑パウロと彼の名による書簡に見られる﹁オイコノミア﹂を三つに分類した上で︑その意味を吟味したい F︒

︵1︶使徒の職務

  既に見たパウロの書簡における務めを︑神の救済計画の一部を担う﹁使徒の務め﹂と見なし︑このような用法を

(8)

パウロの名による書簡の次の二箇所からリルゲは見出している︒まず︑﹁コロサイ人への手紙﹂の中では︑﹁私は︑

神のオイコノミアに従って︵︶︑即ちあなた方を神の言葉で満たすように私に与えられた

︵オイコノミア︶に従って︑︵教会の︶奉仕者となった﹂︵1.25︶と述べられており︑神の言葉を伝え︑教会の奉仕者

として働く使徒の職務が﹁オイコノミア﹂と表現されている︒次に︑﹁エフェソ人への手紙﹂では︑﹁確かに︑あな

た方︵異邦人︶は聞いたであろう︑あなた方のために私︵パウロ︶に与えられた︑神の恵みのオイコノミア︵

︶を﹂︵3.2︶と記述されているが︑ここでも福音を異邦人たちに告げ知らせる使徒の職

務が﹁オイコノミア﹂とされている︒確かに︑ここでの﹁オイコノミア﹂は使徒の宣教活動に結び付けられてお

り︑最終的には神の救済に繋がるものである︒しかしながら︑その目的が宗教的な意味に通ずるために︑﹁オイコ

ノミア﹂に含まれる元来の﹁務め﹂という意味を特殊なものへと変更する必要はないであろう︒

︵2︶救済への教育

  ﹁テモテへの第一の手紙﹂に見られる﹁神話や家系図に没頭しないように︵人々に命じなさい︶︑︵というのも神 話や家系図は︶信仰における神のオイコノミア︵︶よりも︑無意味な詮索をもたらす︵からである︶﹂︵1.4︶という記述は︑リルゲに拠れば︑神話などのような誤った教えに従うのではなく︑信仰をもって

﹁オイコノミア﹂に従うことを説こうとしており︑この﹁オイコノミア﹂とは︑神が信仰者を救済へと導く教導的

役割をもっているとされている︒確かに︑このような教師のような役割は︑キリストを模範的教師と見なす東方のキリスト教では特別な意義を見出すことがあるかも知れないが︑やはり︵1︶と同様に元来の﹁務め﹂に包含されて

も問題はないであろう︒ここでは︑信仰を通じてパウロに託された神の務めという意味を汲み取ることができる︒

(9)

︵3︶救済の思し召し   リルゲに拠れば︑次に見るような﹁オイコノミア﹂が神の救済計画そのものであり︑これを担うことが︵1︶で確

認した使徒の職務であるとされる︒これについては︑﹁エフェソ人への手紙﹂の中に二箇所見出される︒まず︑第

一章の記述では︑﹁︵神は︶我々に自らの意志の神秘を知らしめるが︑それはこの方︵キリスト︶において定めていた自らの決心に従ったものであり︑︵また︑それは︶時間の充溢のオイコノミアのため︵

︶であり︑それは即ち︑キリストの内に万物をまとめあげること︵︶であり︑天上のも

のも地上のものもすべてのものをこの方の内に︵まとめあげることである︶﹂︵1.9‑10︶とあり︑ここでは時が満た

されて︑キリストにおいて万物が統合されるという︑神が前もって定めていた救済計画の内容が︑﹁オイコノミア﹂として語られているとされる︒次に第三章では︑﹁︵パウロに与えられた神の恵みとは︑︶万物を創造した神におい

て永遠の内に隠されていた神秘のオイコノミア︵︶が︑どのようなものかを明るみにするも

のである﹂︵3.9︶と述べられており︑神は隠された神秘としての﹁オイコノミア﹂を実現するとあるが︑この神秘が神による人類救済の計画であるとされている︒しかし︑このような解釈が︑リヒターやアガンベンが特に再検討

を示唆していた新約聖書の誤った﹁オイコノミア﹂理解であり︑彼らに拠れば︑ここには神の活動や働きかけとい

う従来の意味以上のものは含有されていないとされる︒第一章の﹁オイコノミア﹂は︑直ぐ後ろの箇所の﹁アナケファライオーシス﹂︵語義的にはキリストを頭としてまとめること︶を指しており︑これが救済の一部と見なされ

得るとしても︑神の﹁働きかけ﹂と理解される︒そして第三章の﹁神秘のオイコノミア﹂も同様に︑永遠の内に隠

されていたのは︑神の秘められた計画としての﹁神秘﹂ではなく︑神の﹁働き﹂である﹁オイコノミア﹂が永遠の

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内に隠され︑神秘なのだとされる G︒   このようにして見てくると︑七十人訳聖書︑新約聖書の双方の箇所には︑﹁オイコノミア﹂元来の﹁務め﹂や

﹁働きかけ﹂のような意味だけが残ることになるが︑そのように捉えるならば︑ストア主義における﹁神︵または

自然︑ロゴス︶の世界統御﹂という理解との相違が問題となる︒世界に対する働きかけという点で新約聖書とスト

ア主義の記述に重なる部分はあるものの︑例えば﹁エフェソ人への手紙﹂第三章に見られる︑神の﹁自らの決心﹂に従った働きかけ︑という意志的側面は︑ストア派のような世界統御が自然に内在的に備わった働きという思考と

一致するとは考えにくいであろう H︒ 四  初期の教父たちの議論

  次に︑新約聖書の記述をもとに︑教父たちがどのように﹁オイコノミア﹂概念を用いようとしたかについて分析

したい︒使徒教父たちの議論は︑基本的には新約聖書におけるものと大きな相違はない︒パウロとその名による書

簡を繰り返し参照しているアンティオケイアのイグナティオス︵︶は︑﹃エフェソの信徒への手紙﹄の中で伝統的な﹁家政﹂の意味で﹁オイコノミア﹂を用いているほかに︵6.1︶︑キリストについての説明の際に﹁と

いうのも︑我々の神イエス・キリストは︑神のオイコノミアに従って︵︶マリアによって胎内に

置かれてダヴィデの子孫から︑そして聖なる霊から︵生まれたからである︶︒この方は︑生まれ︑洗礼を受けたが︑それは受難によって水を浄めるためであった﹂︵18.2︶と記述している︒ここでの﹁オイコノミア﹂も︑新約聖書に

見られるような︑神の﹁働きかけ﹂︑ないしは神にキリストが託した﹁務め﹂として用いられている︒ただし︑後

(11)

者の意味でとる場合︑新約聖書では多くの箇所で神がパウロに与えた職務として﹁オイコノミア﹂が語られていたのに対し︑ここではイエス・キリストに﹁オイコノミア﹂が託されている点が強調されているように見える︒尚︑

神による世界への﹁働きかけ﹂︵統御︶に関係して︑ローマのクレメンス︵︶は﹁この方︵神︶の

統御︵︶によって揺れ動く諸天は︑平安においてこの方に従っている︒昼と夜は︑この方によって配置された走路を完遂し︑互いに︵走路を︶妨げることはない﹂と述べており︑﹁オイコノミア﹂の﹁オイコス﹂

と同根の単語である﹁ディオイケーシス﹂︵︶というストア主義によく見られる語を用いて︑神が世界を統

治する様子を描いている I︒   他方で︑護教家の時代になると︑タティアノス︵︶やアンティオケイアのテオフィロス︵

︶が﹁オイコノミア﹂を修辞学的な議論の﹁布置﹂の用法で用いているほかに J︑殉教者ユスティノス︵

︶が﹃ユダヤ人トリュフォンとの対話﹄の中で﹁オイコノミア﹂を繰り返し用いて︑この語とキリストとの結

び付きを強めている︒彼は︑イグナティオスの表現に非常に似たかたちで︑キリストが﹁オイコノミアに従って

︵︶︑処女マリアを通じて﹂︵120.1︶到来したと述べ︑またユスティノスの﹁この方の受難のオイコ ノミアに︵︶﹂︵30.1︶という表現は︑キリストの十字架上での受難が﹁オイコノミア﹂に 包含されることも指摘される︒そして︑ユスティノスにおいては︑神が世界に働きかける﹁オイコノミア﹂を父から与えられた務めとして自らの視点で相対化している点も特徴的と言える K︒

⁝︵キリストが︶これら︵律法の遵守︶すべてを敢えて行ったのは︑これらを通じて自らが義とされるためで

はなく︑万物の造り手であり︑主なる神である︑この方の父が望んでいたオイコノミア︵︶を完

(12)

遂するためであった︒︵67.6︶   ユスティノスは︑父なる神による﹁オイコノミア﹂という解釈を保持したまま︑その役割を担うキリストに焦点を当てている︒彼は他の箇所で︑キリストが﹁︵万物の創造者が︶命じ︑行い︑関わることの他には何も行わない﹂

︵56.11︶と述べているが︑この世界での働きはキリスト︵もしくは場合によっては天使︶が担い︑父なる神自身は

﹁諸天を超えたところに永遠に留まっている﹂︵56.1︶とされる︒それは︑如何なるものによっても﹁見られることなく︑触れられることもなく﹂︵ibid.︶︑また如何なる﹁場所においても︑また全世界においても包括されない方﹂

︵127.2︶だからである︒ユスティノスは︑このように否定神学的に父なる神の在り方を探求することによって︑地 上で直接的な働きをキリストに帰着させ︑両者の位置付けを明確にしようと試みている L︒ 五  キリスト教の正統と異端との境界線上の議論

  護教家たちの活躍した時期と重なるグノーシスは︑特に二世紀頃に勢力をもったユダヤ・キリスト教周縁の混淆

的思想の一つとされる︒グノーシス主義者は︑地上的世界を不完全と見なすことから︑この世界を造った造物主

︵創造神︶と︑この世界から人間の霊を救い出すアイオーン︵救済神︶とを峻別し︑人間が自らの本質である霊を

この救済神と同一であることを認識︵グノーシス︶することが救済につながると理解する︒

  万物の造り主を貶め︑さらに創造神よりも上位の神々を措定するグノーシスを論駁した教父たちの文献からは︑グノーシスも﹁オイコノミア﹂という概念を用いていたことが窺える︒例えば︑リヨンのエイレナイオス︵

︶が﹃異端反駁﹄の中で伝える︵いわゆる︶プトレマイオス派︵︶のグノーシス

(13)

主義者たちの思想においては︑﹁オイコノミア﹂は救い主を構成する要素の一つとして理解されている︒救い主は︑﹁︵至高神たちに由来する︶アカモートから霊的なものを︵受け取り︶︑︵アカモートによって生み出された︶造物主

から心魂的なキリストを身に纏わされ︑オイコノミアから︵︶身体を巻き付けられた︒︵その身

体は︶心魂的な実体をもっているが︑語り得ない技巧によって︑︵目に︶見えるもの︑触れられるもの︑受苦できるものとなるために︵救い主に︶用意された︒他方で︑彼︵救い主︶は質料的なものを全く受け取らなかったと彼

ら︵プトレマイオス派︶は言う︒というのも︑質料は救済を受容しないものだからである﹂︵1.6.1︶とされる︒プト

レマイオス派では︑至高神たちに由来する霊的要素︑霊的存在に劣る造物主に由来する心魂的要素︑そして最も劣

った質料︵物質︶的要素の三つの要素が考えられている︒救い主は最上位の霊的要素から遣わされる筈であるが︑霊的要素だけでは十字架上で受難できないため︵仮現論︶︑人間の救済が成立しなくなる︒そのため︑心魂的要素

が救い主に帰属させられている︒心魂的なキリストと﹁オイコノミア﹂からの身体の関係は︑エイレナイオスが繰

り返し引用しているにもかかわらず︑明らかにされているとは言えず M︑恐らくキリストの﹁かたち﹂と﹁材料﹂のようなものと想定される︒この﹁材料﹂が物質的なものではないことは上記の引用から明らかであるが︑これが後 の箇所で﹁救い主がオイコノミアから︵︶の心魂的な身体を纏った﹂︵1.9.3︶と言い換えられている

ことから︑﹁オイコノミア﹂が心魂的な領域のものを指していることが分かる︒

  やや複雑に見えるのは︑﹁オイコノミア﹂が心魂的な要素や領域だけでなく︑その領域を支配する造物主の統御

も指すことがあるからである︒救い主が身に纏った﹁心魂的な身体﹂は﹁言い表し難いオイコノミアが予めの計画

に従って準備していたもの﹂︵ibid.︶であり︑この説明の前でエイレナイオスは︑造物主が﹁求められた時までこの

(14)

世界のオイコノミアを遂行するであろう﹂︵1.7.4︶と記述している︒ここから︑グノーシスでは︑霊的な真の神々で

あるアイオーンではなく︑彼らより劣った造物主が世界を統御する様子を﹁オイコノミア﹂という言葉で表現し︑また同時にこの﹁オイコノミア﹂を通じて︑救い主は物質的な肉体ではなく心魂的な身体をもったとされる︒

  このような思想に対するエイレナイオスの批判は︑造物主の世界統御と子の受肉という二つの点に向けられてい

る︒彼は︑﹁オイコノミア﹂という同じ言葉を用いて︑次のように論駁する︒

︵教会は︶﹁天と地と海と︑それらの中のすべてのものを造った﹂全能の父である唯一の神への信仰を受け継い

できた︒そして︑我々の救済のために肉体をとった唯一のキリスト・イエスへの︵信仰を受け継ぎ︶︑聖霊への

︵信仰を受け継いだ︶︒︵この聖霊は︑︶預言者たちを通じて︑我々の主である愛すべきイエス・キリストの到

来︑処女からの誕生︑受難︑死者からの復活︑肉体に包まれたままの昇天というオイコノミア︵ N︶を告げ知らせた⁝︒︵1.10.1︶

  この箇所の後には︑再臨︑﹁エフェソ人への手紙﹂︵1.10︶で﹁オイコノミア﹂と結び付けられていた﹁万物の統

合﹂や審判など︑キリストの業が挙げられており︑エイレナイオスはこれらのキリストの世界との関わりにおける活動を﹁オイコノミア﹂という言葉に内包させている︒彼は︑グノーシスによって分断された神と造物主を唯一の

神へと元通り統合するとともに︑この神がキリストを通じて世界に働きかけることを﹁オイコノミア﹂と見なして

いる︒

(15)

六 

オイコノミア

の神学的意義と発展   ここまで︑初期のキリスト教において︑﹁オイコノミア﹂が用いられる文脈を分析してきたが︑最初に概観した 元来の﹁家政﹂概念︑即ち﹁家を遣り繰りすること﹂という言葉の核となる部分は︑様々な文脈においても保持されているように見える O︒ただし︑この﹁家﹂は世界や天にまで拡張されることもあり︑﹁遣り繰り﹂は働きかけや

務めに置き換えられ︑また家を取り仕切る目的は︑財を殖やして家を保持することから人間の救済へと変容を受け

ている︒これらの変遷を通じて明らかになる点の一つは︑﹁オイコノミア﹂が意味の拡張などの変化を受容しつつ

も︑別の言葉に完全に置き換えられることなく初期キリスト教において保持されていたということである︒それは︑この概念が教理の発展の中で主題となる様々な問題を解決していく中で︑直接的ないしは間接的に︑重要な役

割を担っていたからであると推測される︒

  既に新約聖書の中で︑﹁オイコノミア﹂は神に関わる事柄とも結び付けられて用いられていたが︑この概念は︑教父たちの解釈を通じて︑次第に神が自らの子であるキリストを通じて世界に働きかける事柄と結び付いた︒この

変遷の思想的背景には︑初期キリスト教の教父たちが︑ユダヤ人︑哲学者︑またはグノーシス主義者などとの論争

を通じて︑キリストの位置付けを明確にしようとする試みがあったことが想定される︒教父たちは︑ユダヤ教徒に対して︑神とキリストの関係を否定神学などを用いて明らかにしようと試み︑また︑哲学者やグノーシス主義者に

対しては︑多神論ではなく一神論でなくてはならない理由や︑神が物質的な肉体を身に纏った意義などを明確にし

ようとした︒キリストと受肉に関する問題については︑既にグノーシスの﹁オイコノミア﹂概念で触れているが︑

(16)

一部のプラトン主義者やグノーシス主義者は物質的世界と肉体を霊的なものに対置して蔑視する傾向があったた

め︑特にグノーシスでは真の霊的な神は肉体を身に纏うことはないと考えた︒他方で︑グノーシスにおける﹁オイコノミア﹂的な視点に立つならば︑霊的な神は完全で善であるため︑この世界を統御することは考えられない︒何

故なら︑この世界には︑確かに善いものもあるかも知れないが︑不条理も悪も存在するからである︒即ち︑彼らに

拠れば︑神が善であるにもかかわらず︑その世界統御は善とは言えないとされる︒既に本稿で見た︑ストア主義の世界統御を批判したプルタルコスも︑まさにこの点を指摘している︒このような世界における悪の問題に応答しよ

うとすることを一つの目的として︑グノーシスでは神より劣った心魂的な造物主がこの世界を不完全なかたちで統

御︵﹁オイコノミア﹂︶していると捉え︑霊的な神の存在は善で完全なまま保持しようとしたと考えられる︒

  このような神義論的解決を︑初期のキリスト教が受容することが不可能なのは明白である︒正統信仰において︑万物の創造神を陥れることは出来ないからである︒既に見たように︑エイレナイオスは︑そのために世界に働きか

ける﹁オイコノミア﹂を父なる神に戻すとともに︑その内実を受肉や受難︑昇天や再臨など︑子なるキリストの業

と見なした︒そして彼は︑それを聖霊が預言者を通じて伝えたと理解したのである︒また同時に︑彼は同じ著作の中で︑悪の問題にも答えようとしている︒彼に拠れば︑人間は︑﹁それら︵善と悪︶の両方の知識と思考﹂︵4.39.1︶ を通じて︑より善いものを選び取り︑﹁完全なもの﹂︵4.39.2︶へと近づこうとするのである P︒このように︑ユスティ

ノスのような護教家によって父なる神が否定神学的に理解された結果︑子であるロゴスが世界に働きかけたという解釈や︑ここまで見たようなグノーシスに対する論駁を通じて︑初期のキリスト教では︑世界に働きかける﹁オイ

コノミア﹂が︑父・子・聖霊によって遂行されることを証明しようとしたと言える︒

(17)

  初期キリスト教において﹁オイコノミア﹂概念を用いて神と世界との繋がりを考察する在り方は︑モナルキア主義との論争を通じて更に深められることになる︒モナルキア主義者たちは︑教父たちが子としての神の役割を重視

したことを理由の一つとして︑これを父と子の二人の神々と見なし︑厳格な一神教に立ち戻るべきだと唱えた︒彼

らは︑神の﹁唯一の﹂︵モノス︶﹁支配﹂︵アルケー︶を掲げ︑その﹁単一支配﹂︵モナルキア︶に整合性をもたせるために︑父と子と聖霊が時代を通じて様態を変化させると説いた︒即ち︑ちょうど水が固体としての﹁氷﹂︑液体

としての﹁水﹂︑気体としての﹁水蒸気﹂に状態変化するように︑神も創造の際に﹁父﹂︑受難の際に﹁子﹂︑その

後は﹁聖霊﹂として様態を変化させ︑同時に三者が存在することはないと捉えたのである︒このように説くこと

で︑彼らは神が唯独り存在することを明らかにしようとしたのであるが︑これはグノーシスに対する論駁などを

通じて形成されつつあった三位一体の議論と真っ向から対立するものであった︒モナルキア主義者の一人に数え

られるノエトスに対する論駁書を著したローマのヒッポリュトス︵︶は︑エイレナイオスの議論を

引き継ぎ︑﹁この︵パウロの︶言葉が示しているのは⁝︑まさに︑聖なる霊と処女からなるオイコノミアの神秘

︵︶がこのロゴス︵即ち子︶のことであり︑それは神の唯一の子が成し遂げたものであるという

ことである﹂︵4.8︶と記述し︑父なる神が︑子を通じて救済へと世界に働きかけることを強調する︒そして︑父と

子と聖霊の関係を次のように説明する︒もし彼︵ノエトス︶が︑如何にして神が一であると証明されるかを学ぼうと欲するならば︑︵まず︶この方の

力が一である︵︶ことを知るべきである︒力に従えば︵︶︑神は一であり︑オイ

コノミアに従えば︵︶︑︵神の︶現出は三つである⁝︒︵8.2︶

(18)

  三者はノエトスの考えるように歴史において様態変化するのではなく︑神としての﹁一つの力﹂が世界との関わ

りにおいて三つの在り方で顕現され︑その働きにおける三位性が﹁オイコノミア﹂という言葉をもって表現されている︒ここには︑神の実体が一でありながら三つの位格をもつとする三位一体論の確立への明白な筋道が見出され

る︒このような神の存在そのものと世界への現出を分けて理解する考え方は︑後の時代に︑例えばカイサリアのエ

ウセビオス︵︶に見られるように︵﹃﹄1.1.7︶︑神の本性に関わる﹁テオロギア﹂︵神学︶と神が歴史において顕現することに関わる﹁オイコノミア﹂︵経綸︶の区別などに繋がっていくのである︒

おわりに

  以上のように︑本稿では︑﹁オイコノミア﹂概念を︑古代ギリシアから遡って用語と文脈の変遷を分析し︑初期キリスト教思想においてこの概念がどのように位置付けられるかを分析した︒ギリシア語元来の﹁オイコノミア﹂

のもつ意味は﹁家政﹂であり︑家族や家財などを含む広い意味での家を取り仕切ることを指していた︒クセノフォ

ンは﹁家政﹂の基本的な意味である﹁家の管理﹂に加えて﹁家財等の配置﹂をこの言葉に含意させている︒ストア主義では︑この﹁家﹂の範囲は世界全体にまで拡張され︑﹁オイコノミア﹂は自然による世界の統御を指すように

なるが︑自然を神として明示し︑また世界における善悪と人間の生が密接に結び付いていることから︑哲学的考察

に結び付くこととなった︒七十人訳聖書において︑この言葉がもつ主体と客体の指示内容に変化が見られ︑﹁管理する﹂﹁働きかける﹂ことと同時に︑管理や働きなどを引き受ける﹁務め﹂︵任務・職務︶の意味をもつようになっ

た︒キリスト教においては︑救済の文脈でこの言葉が用いられることが多かったが︑神が救済に向けて世界に働き

(19)

かける﹁オイコノミア﹂は︑それを担うキリストの業として捉えられるようになり︑また同時にこの概念が神学的にも重要な位置付けを得るようになった︒その背景には︑否定神学的な神理解を通じたキリストの役割の重要性

や︑人間に降りかかる不条理や悪の問題に応答しようとする教父たちの思想的営みがあった︒これらを通じて︑

﹁オイコノミア﹂は三位一体の教理の形成などに接続することによって︑さらに重要な意義をもつようになるのである︒

︵ zu Erlangen, 1955, S. 5. Dissertation zur Erlangung der Doktorwürde der Hohen Theologischen Fakultät der Friedrich-Alexander-Universität    Cf. Otto Lillge, Das patristische Wort ; seine Geschichte und seine Bedeutung bis auf Origenes, Inaugural- 1“”︶ Gerogio Agamben,  ︑﹁ er, , Marburg, 2006. Karin Lehmei-, Berlin/New York, 2005. Gerhard Richter, 稿西   2︶﹁

(20)

, 2, Torino, 2009. ︶﹃︶︒︑﹁稿﹃﹁稿﹁︿﹂︵﹃︹︺﹄︶︑稿﹂︵﹃︹︺﹄︶︑稿︒︵

︵ , Band I‑, Stuttgart, 1996‑︶︒   Hubert Cancik und Helmuth Schneider, 3︶稿

︵ Cf. Lehmeier, , S. 62.︒   1.24︶﹁︵︶︑﹁︵︶﹂ Nestle LoebOCT   Sarah B. Pomeroy, , New York, [1994], 2002.5︶稿

︒ 28PTSFC

︒ says in two volumes II, The Loeb Classical Library, Cambridge, 1985, p. 387︶ stische Wort , S. 7Stephen Usher, , The Critical Es-”︶︑︵   Lillge, “Das patri-6︶   7︶﹂︵︶︑﹁

参照

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