Kobe University Repository : Kernel
Title 平和教育の研究 : 沖縄戦を中心に(A study of education
for human rights and peace : forcusing on the last battle in Okinawa)
Author(s) 小田, 義隆
Citation 研究論叢,3:19-37
Issue date 1995-10
Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher
URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008545
Create Date: 2016-12-21
平和教育の研究
一一詐ド系培地廷をとιド...[;、ふ三一ー
/"J、 匹1 尋嘩将司を
はじめに
戦後50年、私たちはいま戦争にi(.{接欄係のないす年目な環境のなかで生活している,それゆえ、
一般に乎和といわれている環境の中に住んでいるかつての戦争を体験した人々は.徐々に教を減 らしていき、戦争の恐ろしさ、悲惨さなど戦争体験が風化してきている。第ー:次限界大戦におけ る原爆の投下で、日本は唯一の被爆同として有名になった。とくに、広島・長崎の原爆による惨 事は、 JI:常に目につく。平和教育の a環として、私たち本土の人聞は、修学旅行などで広島や長 崎を牟度は訪れる。しかし、広島・長崎についての司王制教育は、積然としてしか行なわれなかっ たように思う。本土のことも模然としか学脅していない私たちの中で.どれほどの人が、1/本の 録南端に位置す・る沖縄の、戦争による被害を知っているだろうか。沖縄には連合軍の軍事拠点確 保のため.太
F
洋戦争中最大規模のアメリカ兵が投入され、それを迎え壊つIJ本市も.本:t決戦 の時間線ぎのため I~鈴を中心とした戦法中心の持久戦を展開した。つまり、沖縄の住民は .11 本 全 1:の「捨て石!となるべく、無謀としか f~i' いようのない戦いを挑む日本軍を信じたがために.多くの犠牲を払うことになったのである.
これらのことを、全国のFどもたちに知らしめなければならない.なぜならそうすることが、
これからの・ド和教育にとって、最も重大なことだと考えられるからである。とくに、教育と戦争 の関係L .̲..jj的にアメリカ軍に原爆を落とされ死傷した広島・長崎の戦災よりも、アメリカ軍 の攻撃による死傷者の上に、軍I号主義教育をめざす学校教育によって、集l司自決や学徒障の出陣 を強制し、そのことによる死傷者も多かった沖縄戦は、平和教育を発展させる際に必要不可欠な 題材だと考える。
この論文では、第・童文で沖縄戦の絡線を、次に第 '.~.ê沖縄でどのような 'f哨 l教育が行なわれ
ていたかを研究し.それに引き続いて今後の平和教育の方向を考察してゆくことにした。
昨年の森、私は 沖縄をおとずれ 沖縄戦の戦跡をめぐるとともに 、当時のi訴を聞いて、平和1 教育の必要性をひしひしと感じた。そのことが、この論文作成の動機になっていることも事実で ある。平和教育については、今後も研究を続けていきたいと考えている。乙の論文を作成するに あたり、稀々の資料を提供して下さった沖縄県教機組合教文隊長中村英古先生に感謝の念をささ げたい。
第1申 t中縄戦の実態 第l節 沖 縄 戦 の 経 緯
.沖縄磯まで
1 9 4HI" (昭和16) 12}j811早朝、突然沖縄全域に I饗戒脅報!のサイレンが鳴り響き、
r 11米開戦jの大ニユ』ースが伝わった。太、ド洋戦争の開戦早々の大戦果のごユースは全岡の人民 を熱狂させるのに十分であり、沖縄県民も例外ではなかった。しかし、=の時、多くの事'l倒煤民
にとって戦争は対岸の火でしかなく、この戦火がやがて白分の島まで燃えうつってくるとは思っ ていなかった。
‑19‑
平和教育の研究
一一詐ド系培地廷をとιド...[;、ふ三一ー
/"J、 匹1 尋嘩将司を
はじめに
戦後50年、私たちはいま戦争にi(.{接欄係のないす年目な環境のなかで生活している,それゆえ、
一般に乎和といわれている環境の中に住んでいるかつての戦争を体験した人々は.徐々に教を減 らしていき、戦争の恐ろしさ、悲惨さなど戦争体験が風化してきている。第ー:次限界大戦におけ る原爆の投下で、日本は唯一の被爆同として有名になった。とくに、広島・長崎の原爆による惨 事は、 JI:常に目につく。平和教育の a環として、私たち本土の人聞は、修学旅行などで広島や長 崎を牟度は訪れる。しかし、広島・長崎についての司王制教育は、積然としてしか行なわれなかっ たように思う。本土のことも模然としか学脅していない私たちの中で.どれほどの人が、1/本の 録南端に位置す・る沖縄の、戦争による被害を知っているだろうか。沖縄には連合軍の軍事拠点確 保のため.太
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洋戦争中最大規模のアメリカ兵が投入され、それを迎え壊つIJ本市も.本:t決戦 の時間線ぎのため I~鈴を中心とした戦法中心の持久戦を展開した。つまり、沖縄の住民は .11 本 全 1:の「捨て石!となるべく、無謀としか f~i' いようのない戦いを挑む日本軍を信じたがために.多くの犠牲を払うことになったのである.
これらのことを、全国のFどもたちに知らしめなければならない.なぜならそうすることが、
これからの・ド和教育にとって、最も重大なことだと考えられるからである。とくに、教育と戦争 の関係L .̲..jj的にアメリカ軍に原爆を落とされ死傷した広島・長崎の戦災よりも、アメリカ軍 の攻撃による死傷者の上に、軍I号主義教育をめざす学校教育によって、集l司自決や学徒障の出陣 を強制し、そのことによる死傷者も多かった沖縄戦は、平和教育を発展させる際に必要不可欠な 題材だと考える。
この論文では、第・童文で沖縄戦の絡線を、次に第 '.~.ê沖縄でどのような 'f哨 l教育が行なわれ
ていたかを研究し.それに引き続いて今後の平和教育の方向を考察してゆくことにした。
昨年の森、私は 沖縄をおとずれ 沖縄戦の戦跡をめぐるとともに 、当時のi訴を聞いて、平和1 教育の必要性をひしひしと感じた。そのことが、この論文作成の動機になっていることも事実で ある。平和教育については、今後も研究を続けていきたいと考えている。乙の論文を作成するに あたり、稀々の資料を提供して下さった沖縄県教機組合教文隊長中村英古先生に感謝の念をささ げたい。
第1申 t中縄戦の実態 第l節 沖 縄 戦 の 経 緯
.沖縄磯まで
1 9 4HI" (昭和16) 12}j811早朝、突然沖縄全域に I饗戒脅報!のサイレンが鳴り響き、
r 11米開戦jの大ニユ』ースが伝わった。太、ド洋戦争の開戦早々の大戦果のごユースは全岡の人民 を熱狂させるのに十分であり、沖縄県民も例外ではなかった。しかし、=の時、多くの事'l倒煤民
にとって戦争は対岸の火でしかなく、この戦火がやがて白分の島まで燃えうつってくるとは思っ ていなかった。
‑19‑
開戦へき顕、アリューシャンから東南アジアに至るまで、破竹の進喰を見せた
n
本積も、 42年 6 Jlのミッドウヱー海戦の敗北が分水嶺となって、 43{ド 6H のガグルカナル烏搬~以後は、
アメリカ策を主力とする連合軍の反攻の前1::惨めな敗退を繰り返していた。この大戦でtlt界の軍 事情勢は、大艦巨砲主義から航~UJ 1:義へ転換していた。との散開は、まさに航常戦力の劣勢 のためであった。しかし、太政の特闘機を作るための
H
本の同力は、i r 1 '
1戦争の泥剤化によって 消耗してしまっていた。もともと・{ r
以上の長期戦には見通しもたたない日険的な開戦であった から、戦争がながびけばながぴくほど戦局は不利になるプJであった。国内では総動員体制ぞ引 き、航空戦}Jを強化することを急務としていた。そのために航字幕地が必要となり沖縄が市都の 注目を受けるごとになった。 43fド9月、大本営は f絶対同防問jを設定し、マリアナ滞烏(サ イパシ・テニアン・グ7ム)の線に精鋭軍を配慣し、その後方の沖縄・台湾k航宅基婚を建設し て航'樫決戦に備える締想をうち立てた。大本常は,11 4 1~: 3 }j 2 2 11に沖縄守備隊第:32軍を新設し、沖縄の守備につかせた。その主 力は、中国大陸で百戦錬磨の経験そもつ精鋭部隊で、この大部隊を収容した沖縄は大混乱に臨っ た。学校・公民館 その他の公共焼設は兵合と化し、それでも足りず民家に分宿する兵士もたく さんいた.学校はi'l空学級に追いやられ、心ない兵隊のために風紀は乱れ.符地でトラブルが絶 えなかった。また、男fは兵障に取ちれ、食料も軍に徴収された。しかし、作民は、 f無敵里可f が(1分たちの島を守ってくれるIという期待と信頼から、事へのJ制tを鰍わなかった.だが頼η
の賓~3 2軍はある意味で不幸な軍隊であった.というのも、軍首腕i曹の人事異動がめまぐるしく 行なわれ.地形の認識・部隊の掌援に遅れを取るだげでなく、職場となる沖縄そのものへの不認 識や住民感情への無理解という弱点をもっていた。また、第32軍からm 9師同を台湾に移動さ せたことは、軍を弱体化させた。第9師同は.沖縄に第1陣として上陸し、現地の新兵も入隊し、
住民の協力を得て陣地構築を進め、住民の信頼の最も高い部障であり、第32慣の11'でも民新鋭 の部隊 であった。そのため、'if{片腕織も住民も痛く失望した。しかも、その穴矧めの1個師聞も 派遣されず、現地の
1 1
を動目してその補充にあてなくてはならなか"1たのである。44{ド7fl71J、集攻l'務の要h型軽といわれたサイパン島の日本軍が長砕した.とのことにより、
絶対防衛線が突破され、ノド1:が危機にさらされる乙とになった.戦略も、いかに南方の島々で敵 の進攻を食いJlめるかに量点がおかれるようになり.飛行場を建設していた沖織に、陣地構築な ど防衛の任務が課されることになった。しかも、それに必要な工具も資財も入力も現地で調達す ることが強要され、 f[持家総動員tJ..;.1が発動された。学校は兵舎になり.男子教員はH集され、
同民学校の 3 年生以 t".は、動員の対象にされた。このような軍l~ "体の全島要家化工事で.沖縄 の島々は.巨大な航宅基地に変貌していった。このことは、のちのち戦場の各地で発生する!作 民虐殺│や「集問
n
決jへと結びついていくのである.なぜならば、住民が作った飛行場や陣地 の般債は、軍にとって策事機容であり、投降した住民によって敵に知られではならないあのであ ったからである.サイパンE砕が確実になった44W7Jl7f1から.沖縄が次の戦場になるととを政府は予慰し たのそのため、 7月中に、住民そ九州に8Jj入、台湾に2fi人疎開させるように命令した。その 頃.沖縄では、米潜水艦の組織的な攻壊のために、多くの船舶凌失っていて疎開といわれても、
まずは船舶の確保が附難であった,また、政府の疎開計両と軍の県民の根こそぎ動員との聞に矛 盾があり、家族疎開はなかなかうまくいかなかった。それとは別に学費疎開も進められたが、米 潜水艦が構伏する海に.幼い子どもを送りだすととが観心として忍びなかったのだろうか、 ζれ もなかなか希塑者が集まらなかった.第lliiJの学賞疎開は、学校職員や役場臓員の努力で遂行さ れたが、 8Jj21Hに1m籾港を出発した3隻の疎開船のうち、最も船足の遅い老朽船の対馬丸が 開戦へき顕、アリューシャンから東南アジアに至るまで、破竹の進喰を見せた
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本積も、 42年 6 Jlのミッドウヱー海戦の敗北が分水嶺となって、 43{ド 6H のガグルカナル烏搬~以後は、
アメリカ策を主力とする連合軍の反攻の前1::惨めな敗退を繰り返していた。この大戦でtlt界の軍 事情勢は、大艦巨砲主義から航~UJ 1:義へ転換していた。との散開は、まさに航常戦力の劣勢 のためであった。しかし、太政の特闘機を作るための
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本の同力は、i r 1 '
1戦争の泥剤化によって 消耗してしまっていた。もともと・{ r
以上の長期戦には見通しもたたない日険的な開戦であった から、戦争がながびけばながぴくほど戦局は不利になるプJであった。国内では総動員体制ぞ引 き、航空戦}Jを強化することを急務としていた。そのために航字幕地が必要となり沖縄が市都の 注目を受けるごとになった。 43fド9月、大本営は f絶対同防問jを設定し、マリアナ滞烏(サ イパシ・テニアン・グ7ム)の線に精鋭軍を配慣し、その後方の沖縄・台湾k航宅基婚を建設し て航'樫決戦に備える締想をうち立てた。大本常は,11 4 1~: 3 }j 2 2 11に沖縄守備隊第:32軍を新設し、沖縄の守備につかせた。その主 力は、中国大陸で百戦錬磨の経験そもつ精鋭部隊で、この大部隊を収容した沖縄は大混乱に臨っ た。学校・公民館 その他の公共焼設は兵合と化し、それでも足りず民家に分宿する兵士もたく さんいた.学校はi'l空学級に追いやられ、心ない兵隊のために風紀は乱れ.符地でトラブルが絶 えなかった。また、男fは兵障に取ちれ、食料も軍に徴収された。しかし、作民は、 f無敵里可f が(1分たちの島を守ってくれるIという期待と信頼から、事へのJ制tを鰍わなかった.だが頼η
の賓~3 2軍はある意味で不幸な軍隊であった.というのも、軍首腕i曹の人事異動がめまぐるしく 行なわれ.地形の認識・部隊の掌援に遅れを取るだげでなく、職場となる沖縄そのものへの不認 識や住民感情への無理解という弱点をもっていた。また、第32軍からm 9師同を台湾に移動さ せたことは、軍を弱体化させた。第9師同は.沖縄に第1陣として上陸し、現地の新兵も入隊し、
住民の協力を得て陣地構築を進め、住民の信頼の最も高い部障であり、第32慣の11'でも民新鋭 の部隊 であった。そのため、'if{片腕織も住民も痛く失望した。しかも、その穴矧めの1個師聞も 派遣されず、現地の
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を動目してその補充にあてなくてはならなか"1たのである。44{ド7fl71J、集攻l'務の要h型軽といわれたサイパン島の日本軍が長砕した.とのことにより、
絶対防衛線が突破され、ノド1:が危機にさらされる乙とになった.戦略も、いかに南方の島々で敵 の進攻を食いJlめるかに量点がおかれるようになり.飛行場を建設していた沖織に、陣地構築な ど防衛の任務が課されることになった。しかも、それに必要な工具も資財も入力も現地で調達す ることが強要され、 f[持家総動員tJ..;.1が発動された。学校は兵舎になり.男子教員はH集され、
同民学校の 3 年生以 t".は、動員の対象にされた。このような軍l~ "体の全島要家化工事で.沖縄 の島々は.巨大な航宅基地に変貌していった。このことは、のちのち戦場の各地で発生する!作 民虐殺│や「集問
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決jへと結びついていくのである.なぜならば、住民が作った飛行場や陣地 の般債は、軍にとって策事機容であり、投降した住民によって敵に知られではならないあのであ ったからである.サイパンE砕が確実になった44W7Jl7f1から.沖縄が次の戦場になるととを政府は予慰し たのそのため、 7月中に、住民そ九州に8Jj入、台湾に2fi人疎開させるように命令した。その 頃.沖縄では、米潜水艦の組織的な攻壊のために、多くの船舶凌失っていて疎開といわれても、
まずは船舶の確保が附難であった,また、政府の疎開計両と軍の県民の根こそぎ動員との聞に矛 盾があり、家族疎開はなかなかうまくいかなかった。それとは別に学費疎開も進められたが、米 潜水艦が構伏する海に.幼い子どもを送りだすととが観心として忍びなかったのだろうか、 ζれ もなかなか希塑者が集まらなかった.第lliiJの学賞疎開は、学校職員や役場臓員の努力で遂行さ れたが、 8Jj21Hに1m籾港を出発した3隻の疎開船のうち、最も船足の遅い老朽船の対馬丸が
米潜水艦の魚常によって掌枕された。 758名の学 l賓が命を落とし、県ー民は、ますます鎌聞に背 を向けた。
ところが、との年の 10nlOIJには米機動部隊の大空襲を受け、多くの人が命そ落とし、物 的損容も多大にこうむった。JJlの損得はさらに深刻で 航空機51機、船舶155隻、弾薬約1
00万発 .~m 食料米 30Jj俵で、沖縄作戦に東大な支障をきたすことになった。さ凡}ごとの大 空襲は、守備軍の無能さを県民の眼前に露呈してしまった.とれをきっかけに、県民の疎開気運 は高まり、翌年3JJまでに九州へ6lJ入、台湾へ2万人が疎開していった"しかし、県外疎開は 不徹底に終わり 県内には約50万の県民がとり残された.軍は 中南部が鴨争激戦地になるこ とを予思し、北部の安全地帯への住民疎開を計両し、また戦闘 作業能力のあるものは、戦闘検 鱗および戦闘に参加させることそ計両した。戦闘協力と疎開はもともと矛盾した課題であり、京 はこのふたつの問題に頭を痛めることになる。前任の泉知事は、戦場行政そ指導する能力がなく.
変わって島町新知事が赴任してきた。彼は、北部疎開者そ収容する施設の設問と、食聞の確保の ために奔走したが、食料問題を解決することができなかった。食料を確保したものの、それを遺書 ぶF段を手に入れることができなかったからである。そのために、北部への鎌調者たちは、アメ
リカ市と戦うよりも、マラリア病や飢餓地獄と戦わなくてはならなかった。約束されていた、 if{ の北部疎開への協力も得るごとができず.疎開は慧航し、そうしているうちにアメリカ事がIB現 した。策の作戦地区にまで避難民の群れがひしめき、部隊の行動にも支障をきたしてくると、市 は 3 月末日をもって住民の北部移動を禁 Il~ した.
.沖縄戦開始
3月23rJ、アメリカ郁の艦載機による低空攻撃が始まり、報2‑1 rH:は沖縄本島南部の沖合 に艦影があらわれた。やがて、戦艦・巡洋艦・猷逐艦から、約3ヵJJ余りにわたって梓夜をわか たぬ艦砲射墜を浴びるととになり、文字どおりの 鉄の暴風"に吹きまくられるのである。守備 軍は 艦砲射撃の模様から上陸地点を渡川海岸と予測を立てたのだが、攻略i軍隊が真っ先に狐っ たのは、慶良問諸島であった。ここに艇船の停泊地と補給築地を機保するととがH的であった。
慶良問諸島は、守備軍の防衛の計算外の地域で 特唆艇を秘tkしているだりで、戦闘部隊は依関 されていなかった。 31‑1聞の砲壊で秘憶しであった特攻艇のほとんどを破壊され、守備隊は111f
' t
に退避する他なかった。あとには約3000人の住民がとり残され、ぞとにアメリカ軍の上院官官 隊が押し寄せてきた。住民はパニックに織り友尊重陣地に壁護を求めて殺到したが、作戦の邪嫌に なるという煙1ftで追い返された。座間味島では、 f住民は男女を問わず軍の鞍闘に協力し、若人 子どもは忠魂碑前に集合して全貝向決せよ。 jという通達がなされていたの混げ場ぞ失った人は、
家族親類ぐるみで自決した。慶良聞の住民集問自決は、蝿烏戦での‑般住民の運命唱を予i与するも のであり、アメリカ市上陸第 lrJfJにして早くも沖掛戦の縮闘が現出したのだった。
度良附諸島に根拠地を閉めたアメI}カ軍は、 4月!fIついに沖縄本島への1:降作戦を開始したa
1:陸地点は、 ~t. ,ド飛行鳴のある中掃海岸地惨であった.アメリカ市は、 8万発に及ぶ艦砲射壊 ののち航令部障の援護そ受けながら万全な体制で:t陸作戦を開始したのだがここでアメリカ慣の 思いもよらないことが起こった.いちばん彼ザ?を受けると覚悟していた t:陪時}之、守備軍の水際 反響がまったくなかったのである。こうしているうちに、アメリカ軍は完全な無JfJt上隣をはたし た。しかし守備事側では.この無血1:障も次の作戦のための一段階!とすぎなかった。アメリカ策 にとって.沖縄本島攻略は、日本本t攻略の発進基地を確保するだけでなく、樽方の111同との連
絡線を絶つ,章味でも重要であり.そのため太字洋戦争のなかでも騒人・組模の兵力そ按入してきた。
それに引き持え []本策は、最務鋭の第9師聞を引き抜かれ、現地仔集の補助兵力者全あわせても l O万余しかない。この時点から守備軍の作戦は、持久戦で時をかせいで本t:決戦の準備に寄与す
‑21‑
米潜水艦の魚常によって掌枕された。 758名の学 l賓が命を落とし、県ー民は、ますます鎌聞に背 を向けた。
ところが、との年の 10nlOIJには米機動部隊の大空襲を受け、多くの人が命そ落とし、物 的損容も多大にこうむった。JJlの損得はさらに深刻で 航空機51機、船舶155隻、弾薬約1
00万発 .~m 食料米 30Jj俵で、沖縄作戦に東大な支障をきたすことになった。さ凡}ごとの大 空襲は、守備軍の無能さを県民の眼前に露呈してしまった.とれをきっかけに、県民の疎開気運 は高まり、翌年3JJまでに九州へ6lJ入、台湾へ2万人が疎開していった"しかし、県外疎開は 不徹底に終わり 県内には約50万の県民がとり残された.軍は 中南部が鴨争激戦地になるこ とを予思し、北部の安全地帯への住民疎開を計両し、また戦闘 作業能力のあるものは、戦闘検 鱗および戦闘に参加させることそ計両した。戦闘協力と疎開はもともと矛盾した課題であり、京 はこのふたつの問題に頭を痛めることになる。前任の泉知事は、戦場行政そ指導する能力がなく.
変わって島町新知事が赴任してきた。彼は、北部疎開者そ収容する施設の設問と、食聞の確保の ために奔走したが、食料問題を解決することができなかった。食料を確保したものの、それを遺書 ぶF段を手に入れることができなかったからである。そのために、北部への鎌調者たちは、アメ
リカ市と戦うよりも、マラリア病や飢餓地獄と戦わなくてはならなかった。約束されていた、 if{ の北部疎開への協力も得るごとができず.疎開は慧航し、そうしているうちにアメリカ事がIB現 した。策の作戦地区にまで避難民の群れがひしめき、部隊の行動にも支障をきたしてくると、市 は 3 月末日をもって住民の北部移動を禁 Il~ した.
.沖縄戦開始
3月23rJ、アメリカ郁の艦載機による低空攻撃が始まり、報2‑1 rH:は沖縄本島南部の沖合 に艦影があらわれた。やがて、戦艦・巡洋艦・猷逐艦から、約3ヵJJ余りにわたって梓夜をわか たぬ艦砲射墜を浴びるととになり、文字どおりの 鉄の暴風"に吹きまくられるのである。守備 軍は 艦砲射撃の模様から上陸地点を渡川海岸と予測を立てたのだが、攻略i軍隊が真っ先に狐っ たのは、慶良問諸島であった。ここに艇船の停泊地と補給築地を機保するととがH的であった。
慶良問諸島は、守備軍の防衛の計算外の地域で 特唆艇を秘tkしているだりで、戦闘部隊は依関 されていなかった。 31‑1聞の砲壊で秘憶しであった特攻艇のほとんどを破壊され、守備隊は111f
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に退避する他なかった。あとには約3000人の住民がとり残され、ぞとにアメリカ軍の上院官官 隊が押し寄せてきた。住民はパニックに織り友尊重陣地に壁護を求めて殺到したが、作戦の邪嫌に なるという煙1ftで追い返された。座間味島では、 f住民は男女を問わず軍の鞍闘に協力し、若人 子どもは忠魂碑前に集合して全貝向決せよ。 jという通達がなされていたの混げ場ぞ失った人は、
家族親類ぐるみで自決した。慶良聞の住民集問自決は、蝿烏戦での‑般住民の運命唱を予i与するも のであり、アメリカ市上陸第 lrJfJにして早くも沖掛戦の縮闘が現出したのだった。
度良附諸島に根拠地を閉めたアメI}カ軍は、 4月!fIついに沖縄本島への1:降作戦を開始したa
1:陸地点は、 ~t. ,ド飛行鳴のある中掃海岸地惨であった.アメリカ市は、 8万発に及ぶ艦砲射壊 ののち航令部障の援護そ受けながら万全な体制で:t陸作戦を開始したのだがここでアメリカ慣の 思いもよらないことが起こった.いちばん彼ザ?を受けると覚悟していた t:陪時}之、守備軍の水際 反響がまったくなかったのである。こうしているうちに、アメリカ軍は完全な無JfJt上隣をはたし た。しかし守備事側では.この無血1:障も次の作戦のための一段階!とすぎなかった。アメリカ策 にとって.沖縄本島攻略は、日本本t攻略の発進基地を確保するだけでなく、樽方の111同との連
絡線を絶つ,章味でも重要であり.そのため太字洋戦争のなかでも騒人・組模の兵力そ按入してきた。
それに引き持え []本策は、最務鋭の第9師聞を引き抜かれ、現地仔集の補助兵力者全あわせても l O万余しかない。この時点から守備軍の作戦は、持久戦で時をかせいで本t:決戦の準備に寄与す
‑21‑
る方針に変更することを余儀なくされた。アメリカ箪の無血上院には、大本字f・台湾方両軍は大 きなショックを受けた。というのも、沖縄作戦は正式には、 「天1月作戦!といって、沖慢の飛 行場を室御した航空R作戦であり、飛行場を無庇抗で敵に明け渡したごとに納得がいかなかったか らである。ごのように、大本営と現地事の聞に沖縄戦をめぐる作戦思想の対立を抑えたまま敵の 上陸を迎えることになった。 1".陪部隊は、その日のうちに飛行場を占領し、 2 、 ~n で使HI 可能 までに整備した。そして4JJ51Jまでには、中古都ふ帯を制11:しそこに軍政府を開設して市領地医 の住民対策に乗りfIiし 沖縄本島を南北に分断した。
沖縄本品を市北に分断したアメリカ市は、北部方耐の掃討のために別動隊を送η、主力の第2 4'i事を日本策司令部のある首1ft域に向けて併准させた。 1'1[<<織への進行の途中には、 21fi:3墳の 地ド陣地が構成され.血でI伽をあらう緩近戦が中部戦線で5013以上も続いた。とくに、嘉象潟 地、前聞街地、安m52潟地、運玉森.弁が岳等の丘陵陣地の争奪戦は、 A進一退の激聞となっ た.アメリカ軍のシャーマン戦車の攻司確に対して、 IJ本軍は地形を利用した反軍や、夜間の切り 込み隊などで対抗した。しかし5月ド旬までには丘陵陣地のほとんどが
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J;領され、n
本軍主力部隊のが:J6Ji1f名が戦死し、軍司令部は「設が軍の戦力は消耗し尽くした。!と判断せざるをえ なかった。アメリカ前側も.この中部戦線で2万 6:F名の戦死者をだし.その数は太平洋戦争で も最大規模となった。またアメリカ軍lごは、精神陣省者も続出したのこの戦線がいかに激しかっ たかがうかがわれる。この
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部戦線でも.多数の地元住民が巻き込まれ犠牲になった。ヲjたちは 防衛隊に動u
されて戦闘に参加し.婦人、少年までもが明i薬運送、炊事班、道案内 野戦包帯所 などに配関された。老人、子ども、母親たちは、部落周辺の自然洞聞に避難していた。部隊に付 いておれば安全だという職場心坪も働いて、との地域の住民の多くは南部へ退灘す‑る機会を還し てしまったのである。アメリカ!曜の攻懇は もっぱら沖縄本島とその付属厳島だけに集中していて、広大な飛行場と 1個師団あまりの兵力を配備していた先島方耐には成時作戦の矢は向けられず、ほとんど無傷の まま終戦を迎えた。付属際島の伊江島には東洋・と誇祢した飛行場があり、これを確保しようと するアメリカ軍と、逆手IJffJを阻止しようと寸る
u
本軍の問で激戦が繰り広げられたのというのも.本島の中部地域&制圧されていたために、本島からの援護を受けられず倒立無援の 五貯戦"を 強いられたためである
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陪部隊は、艦砲射慢のあとに殺到してきた。やがて守備隊の銃は焼け ただれ、弾薬は庇を以いてしまった。守備隊は義勇隊や救護班・炊事腕などの婦女子を加え.濃 筆中の住民もかりだして戦闘班を編成し、急造爆神、手術弾、小焼、竹槍などをもたt 夜間切 り込みにかり/11した。なかには、乳のみ児をおぶって切り込みに参加した母親もいた。また部隊 本部で傷病兵の看護にあたっていた教壇班の少女たちも、ついには黒髪を務として'ポ繋}こ身をか ため爆需を背負っτ
敵戦車}こ体匂たりしていった。 1遡聞の激戦のあと、守備隊はほぼ全滅.‑1500名の戦死荷のうち 1500名が烏の住民であった。烏のいたるところにある自然壌に輝怒 していた性民は 敵戦車の 馬乗り吹唱壁"を受けて遇げ場を失い、防衛隊の持っていた燦需や手 楠弾で自爆するものがあいついだ。また混戦中に
H
本兵に殺書された住民も数名でた。まさに、沖縄戦の典明白占UJ:縮闘であった。
さて、 5月下旬アメリカ市はついに首里械のまわりの丘陵帥地を山領し、徐々に軍司令部にjfl ってきた。守備前の戦力も主力の85%を失い、残りの4hあまりの兵力もそのほとんどが防衛 隊などの補助兵
H
でしかなかった。小銃も4分のiにしかいきわたらない状織で.食料も1ヵfj 分しか残っていなかった.軍の戦力は尽きてしまったと参謀たちは判断したが、乙こへきて参謀 や師問長の産見は 2 つに分かれた。首唱戦線で最後の総攻軍を敢行して f~併すべし、という意見 となお持久戦を続行すべしという意見である。沖縄戦をめぐる作戦についての対なは厳後まで枯 る方針に変更することを余儀なくされた。アメリカ箪の無血上院には、大本字f・台湾方両軍は大 きなショックを受けた。というのも、沖縄作戦は正式には、 「天1月作戦!といって、沖慢の飛 行場を室御した航空R作戦であり、飛行場を無庇抗で敵に明け渡したごとに納得がいかなかったか らである。ごのように、大本営と現地事の聞に沖縄戦をめぐる作戦思想の対立を抑えたまま敵の 上陸を迎えることになった。 1".陪部隊は、その日のうちに飛行場を占領し、 2 、 ~n で使HI 可能 までに整備した。そして4JJ51Jまでには、中古都ふ帯を制11:しそこに軍政府を開設して市領地医 の住民対策に乗りfIiし 沖縄本島を南北に分断した。沖縄本品を市北に分断したアメリカ市は、北部方耐の掃討のために別動隊を送η、主力の第2 4'i事を日本策司令部のある首1ft域に向けて併准させた。 1'1[<<織への進行の途中には、 21fi:3墳の 地ド陣地が構成され.血でI伽をあらう緩近戦が中部戦線で5013以上も続いた。とくに、嘉象潟 地、前聞街地、安m52潟地、運玉森.弁が岳等の丘陵陣地の争奪戦は、 A進一退の激聞となっ た.アメリカ軍のシャーマン戦車の攻司確に対して、 IJ本軍は地形を利用した反軍や、夜間の切り 込み隊などで対抗した。しかし5月ド旬までには丘陵陣地のほとんどが
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J;領され、n
本軍主力部隊のが:J6Ji1f名が戦死し、軍司令部は「設が軍の戦力は消耗し尽くした。!と判断せざるをえ なかった。アメリカ前側も.この中部戦線で2万 6:F名の戦死者をだし.その数は太平洋戦争で も最大規模となった。またアメリカ軍lごは、精神陣省者も続出したのこの戦線がいかに激しかっ たかがうかがわれる。この
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部戦線でも.多数の地元住民が巻き込まれ犠牲になった。ヲjたちは 防衛隊に動u
されて戦闘に参加し.婦人、少年までもが明i薬運送、炊事班、道案内 野戦包帯所 などに配関された。老人、子ども、母親たちは、部落周辺の自然洞聞に避難していた。部隊に付 いておれば安全だという職場心坪も働いて、との地域の住民の多くは南部へ退灘す‑る機会を還し てしまったのである。アメリカ!曜の攻懇は もっぱら沖縄本島とその付属厳島だけに集中していて、広大な飛行場と 1個師団あまりの兵力を配備していた先島方耐には成時作戦の矢は向けられず、ほとんど無傷の まま終戦を迎えた。付属際島の伊江島には東洋・と誇祢した飛行場があり、これを確保しようと するアメリカ軍と、逆手IJffJを阻止しようと寸る
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本軍の問で激戦が繰り広げられたのというのも.本島の中部地域&制圧されていたために、本島からの援護を受けられず倒立無援の 五貯戦"を 強いられたためである
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陪部隊は、艦砲射慢のあとに殺到してきた。やがて守備隊の銃は焼け ただれ、弾薬は庇を以いてしまった。守備隊は義勇隊や救護班・炊事腕などの婦女子を加え.濃 筆中の住民もかりだして戦闘班を編成し、急造爆神、手術弾、小焼、竹槍などをもたt 夜間切 り込みにかり/11した。なかには、乳のみ児をおぶって切り込みに参加した母親もいた。また部隊 本部で傷病兵の看護にあたっていた教壇班の少女たちも、ついには黒髪を務として'ポ繋}こ身をか ため爆需を背負っτ
敵戦車}こ体匂たりしていった。 1遡聞の激戦のあと、守備隊はほぼ全滅.‑1500名の戦死荷のうち 1500名が烏の住民であった。烏のいたるところにある自然壌に輝怒 していた性民は 敵戦車の 馬乗り吹唱壁"を受けて遇げ場を失い、防衛隊の持っていた燦需や手 楠弾で自爆するものがあいついだ。また混戦中に
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本兵に殺書された住民も数名でた。まさに、沖縄戦の典明白占UJ:縮闘であった。
さて、 5月下旬アメリカ市はついに首里械のまわりの丘陵帥地を山領し、徐々に軍司令部にjfl ってきた。守備前の戦力も主力の85%を失い、残りの4hあまりの兵力もそのほとんどが防衛 隊などの補助兵
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でしかなかった。小銃も4分のiにしかいきわたらない状織で.食料も1ヵfj 分しか残っていなかった.軍の戦力は尽きてしまったと参謀たちは判断したが、乙こへきて参謀 や師問長の産見は 2 つに分かれた。首唱戦線で最後の総攻軍を敢行して f~併すべし、という意見 となお持久戦を続行すべしという意見である。沖縄戦をめぐる作戦についての対なは厳後まで枯抗したが、河初からの持久戦論が主導権を掘り、南部に撤退することになった.ぞして.軍司令 部を摩文{:岬の洞窟陣地におき、あくまで時間稼ぎの出血作戦を続続するととになった.しかし、
この際大きな犠牲を払うことになった。それは、傷病兵の処債である。
r
戦陣訓』の i生きて虜 凶の辱めを受けずjの軍律によって捕虜になるととが許されず、作戦の足手まといになる垂傷患 者は手樹弾と送業で撚Fをするという決断がくだされた。資雨量カリでn
決するもの、衛生兵に銃剣 で刺し殺されるものなど含め、その教は5,6千にのぼるとみられている。また、軍が撤過した 南部でも 10万人の避薙民と3Jj人の兵が灘間状態になり、至る所で軍民間の衝突が発生した.例えば、食料を徴発したり、それそ炉!~守するものはスパイとして、処刑された.
摩文仁岬を合む許躍武半島での戦闘はおよそ1ヵ月続いた。障と海からの包開網を完成させた アメリカ軍は、 6月 71:1ごろから日本策の前線陣地に猛攻をかけてきた。 61)1 7円前線を突破 し、 11本取が頑強に立てこもる地下の嗣簡をひとつずつ機滅していった。洞簡のなかには戦闘員 と混じって避難民も隠れていた。アメリカ軍は.戦闘員の掃討と殺行して避難民の救助も進めな くてはならなかった.そのために.掃討作戦は予定よりかなり遅れた。アメリカ軍は、~から f '1:命を助けるピラlを何十万枚もばらまき、スビーカーからも投降を呼びかけたが 避難民は日 本軍1:監視され、 「投降するものはスパイとして射殺する。 Iと併されていて、両手をあげて敵 陣に投降しようとした兵隊や住民が背後から友軍によって実際に狙撃されたためなかなか壕から
IHてこられなかった。持久戦のために.住民は日本軍の舗にされたのである。
また、洞簡に避i醸すらできなかった者はもっと苛掃であった。友¥ftlとよって壌を追い出され、
砲傾弾雨のなかをぷ往在住し、食べるものもなく水さえ飲めない日が幾日もあった。艦砲によっ てできた池が唯‑の水飲み場であったが、水両にはウジがおり、辺りには死体が累々と転がって いた。ことぎれた母親に抱かれて無心に乳をl吸っている子どもや、死んでいる子どもをおぶって 遇げ同る母観もいた。保護持が動けなくなると子
r
ちは純ぎながら蝕死号待つしかなかった。だ れも他人の1ft話をする余力がなかったのである。最後まで'ポと行動をともにしてきた学徒隊も, 1 8 Hに激戦の真っ只'.'で解散命令がだされ、
制11を敵に占領され進退きわまってfl燥するものも多く111た。乎うじて脱出できたものも、梅岸 まで追い詰められ.捕虜になるか自決した。!孝文{二岬の両翼にのびた荒崎梅伴やギーザパンダの 海岸線は、障と海からの猛攻を受けて阿持叫喚の惨状を尽していた。 ひめゆり隊"が手摺弾で 最期を遂げたのもこの海作である。
6月 191/,アメリカ京は司令部壌のある摩)(f:圧の鐙まで迫り、最高司令下fの牛島中将は、
iliの運命も最期の時がきたと判断し.
「全軍将兵の3ヵJJにわたる勇戦敢闘により遺憾なく清一の任務を遂行し得たるは同慶のでりなり。
然れどもいまや)J折れ矢尽き軍の運命 rJ.タに迫る。既に部隊聞の通信途絶せんとしifli司令符の指 拷は至難となれり。爾今*部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し儀後迄敢闘し悠久 の大義に1:くべし。 j
という軍命令を発して、組織的戦闘の終了を告げた。
22[1,摩文仁の山阪は占領され、手翌日未明、第 32軍の残存将兵は総員切り込みを決行し、
牛島司令官と長参謀長は割腹自決した。この[)をもって組織的戦闘は終結したのだが. fニ記の軍 命令lごしたがって、残存部隊による避繋戦が始まるのである.市司令
1 1
のn t
たによって、戦闘を 収拾する責任者が不Itとなり、沖縄戦は終わりのない戦闘となった。 2:~日からアメリカ市の全 面的な掃討作戦が開始され 7H2Hに沖縄作戦の終了が正式に'rli"tされた。残存将兵の中には、戦前から教育されていた『無敵皇軍1や『阜市不敗 iの神話を信じて般降 を拒否するものも多く、日本の降伏 (8
n
1 S日)後も 1211頃まで遊懲訴動を継続した掃隊も 抗したが、河初からの持久戦論が主導権を掘り、南部に撤退することになった.ぞして.軍司令 部を摩文{:岬の洞窟陣地におき、あくまで時間稼ぎの出血作戦を続続するととになった.しかし、この際大きな犠牲を払うことになった。それは、傷病兵の処債である。
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戦陣訓』の i生きて虜 凶の辱めを受けずjの軍律によって捕虜になるととが許されず、作戦の足手まといになる垂傷患 者は手樹弾と送業で撚Fをするという決断がくだされた。資雨量カリでn
決するもの、衛生兵に銃剣 で刺し殺されるものなど含め、その教は5,6千にのぼるとみられている。また、軍が撤過した 南部でも 10万人の避薙民と3Jj人の兵が灘間状態になり、至る所で軍民間の衝突が発生した.例えば、食料を徴発したり、それそ炉!~守するものはスパイとして、処刑された.
摩文仁岬を合む許躍武半島での戦闘はおよそ1ヵ月続いた。障と海からの包開網を完成させた アメリカ軍は、 6月 71:1ごろから日本策の前線陣地に猛攻をかけてきた。 61)1 7円前線を突破 し、 11本取が頑強に立てこもる地下の嗣簡をひとつずつ機滅していった。洞簡のなかには戦闘員 と混じって避難民も隠れていた。アメリカ軍は.戦闘員の掃討と殺行して避難民の救助も進めな くてはならなかった.そのために.掃討作戦は予定よりかなり遅れた。アメリカ軍は、~から f '1:命を助けるピラlを何十万枚もばらまき、スビーカーからも投降を呼びかけたが 避難民は日 本軍1:監視され、 「投降するものはスパイとして射殺する。 Iと併されていて、両手をあげて敵 陣に投降しようとした兵隊や住民が背後から友軍によって実際に狙撃されたためなかなか壕から
IHてこられなかった。持久戦のために.住民は日本軍の舗にされたのである。
また、洞簡に避i醸すらできなかった者はもっと苛掃であった。友¥ftlとよって壌を追い出され、
砲傾弾雨のなかをぷ往在住し、食べるものもなく水さえ飲めない日が幾日もあった。艦砲によっ てできた池が唯‑の水飲み場であったが、水両にはウジがおり、辺りには死体が累々と転がって いた。ことぎれた母親に抱かれて無心に乳をl吸っている子どもや、死んでいる子どもをおぶって 遇げ同る母観もいた。保護持が動けなくなると子
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ちは純ぎながら蝕死号待つしかなかった。だ れも他人の1ft話をする余力がなかったのである。最後まで'ポと行動をともにしてきた学徒隊も, 1 8 Hに激戦の真っ只'.'で解散命令がだされ、
制11を敵に占領され進退きわまってfl燥するものも多く111た。乎うじて脱出できたものも、梅岸 まで追い詰められ.捕虜になるか自決した。!孝文{二岬の両翼にのびた荒崎梅伴やギーザパンダの 海岸線は、障と海からの猛攻を受けて阿持叫喚の惨状を尽していた。 ひめゆり隊"が手摺弾で 最期を遂げたのもこの海作である。
6月 191/,アメリカ京は司令部壌のある摩)(f:圧の鐙まで迫り、最高司令下fの牛島中将は、
iliの運命も最期の時がきたと判断し.
「全軍将兵の3ヵJJにわたる勇戦敢闘により遺憾なく清一の任務を遂行し得たるは同慶のでりなり。
然れどもいまや)J折れ矢尽き軍の運命 rJ.タに迫る。既に部隊聞の通信途絶せんとしifli司令符の指 拷は至難となれり。爾今*部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し儀後迄敢闘し悠久 の大義に1:くべし。 j
という軍命令を発して、組織的戦闘の終了を告げた。
22[1,摩文仁の山阪は占領され、手翌日未明、第 32軍の残存将兵は総員切り込みを決行し、
牛島司令官と長参謀長は割腹自決した。この[)をもって組織的戦闘は終結したのだが. fニ記の軍 命令lごしたがって、残存部隊による避繋戦が始まるのである.市司令
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たによって、戦闘を 収拾する責任者が不Itとなり、沖縄戦は終わりのない戦闘となった。 2:~日からアメリカ市の全 面的な掃討作戦が開始され 7H2Hに沖縄作戦の終了が正式に'rli"tされた。残存将兵の中には、戦前から教育されていた『無敵皇軍1や『阜市不敗 iの神話を信じて般降 を拒否するものも多く、日本の降伏 (8
n
1 S日)後も 1211頃まで遊懲訴動を継続した掃隊もあったが、 7月2Hのこの時点が沖縄戦の終
r
であったのである.第2節太平洋戦争における沖縄戦の意義と特徴
次に 沖縄戦の経緯をふまえたうえで沖縄戦とはいったいなんであったのか、戦場の実相はど うだつたのかを考えてみたいと思う。しかし、それはさまざまな要素と局耐が錯綜しているだけ にすべてを語り尽くすことができない。また.さまざまな生存者たろの証言も戦場でのおかれた 環境や立場によって変わってくるものである.とくに苛酷な激戦敗からの生存者ほど周聞の状況 を客観的に観察する余絡がなく、記憧の核心部分が宅 I~l 状態になりがちだと考えられる。数々の 文献のなかの戦場体験者たちの証言のなかから.共通する要素を抽出して体系づけ繋理すること は、沖縄戦を平和教育の教材として活用するにあたり必要なことだと考える。以下に、多くの生 存者たちの証言から沖縄戦の特徴を5ポイントにしぼって考察したいと思う。
1)長く激しい国内地上鴨
まづ第1のポイントとして挙げられることは 100日に及ぶ長期戦であったととであるa こ れは沖縄守備軍の作戦方針を「戦略持久戦 lに決め、ごの本土決戦を有利にみちびくための時間 稼ぎの捨石作戦を最後まで貫いたからだと与える。もし 沖縄守備軍が海軍の要請どうりに飛行 場を死守するためアメリカ箪の1:陪作戦に対して「水際撃滅暢法lに出たり、アメリカ軍が守備 隊の予惣どうり港川Ji両から上降していたとしたら、これほど戦闘が長引くこともなく 1週間と たたないうちに潰滅していたであろう。
次に沖縄幌が大規模な地上戦であったととが挙げられる.なぜ航~戦や艦隊戦でなく地上戦だ ったのかが問題になるが、それはアメリカ軍の沖縄攻略の目的が r沖縄奪取、基地としての整備.
沖縄諸島における制空、制海権の確保J (アイスパーグ作戦計画)であり沖視の島々を完全に占 領し、その安全を確保するために敗残兵を徹底的に掃討しなければならなかったからだと考える。
このような日米両軍の思惑が絡んで長く滋しい地上戦を繰り広げるととになった。
2)現地自給の総動員作戦
沖縄戦は、総動員体制の頂点をきわめたものであったo 1 945年6H 2 3 fH:公布された!
問民義勇兵役法Jにより戦闘参加I可能の男交を軍の指持ドに置き、これをもって「同家総動員法 i に基づく総動員体制が完成したといえる.さいわい本Lでは.この体制が発動することなく敗戦 を迎えた。しかし沖縄では.その頃には既に総動員体制は実施されていたσ 防衛隊は f陪暇防衛 召集規則lにより既に‑12年に召集されていたがそれでも足りずに44年1011に改正されて、
満17才以上満45.J"の男子にも適用され戦闘に参加させられた"だが防衛召集者だけではまだ 兵力が足りないと判断Lた軍は、中等学校の男友生徒 青年学肢の男女生徒まで動員した。いわ ゆる f鉄血勤皇隊J rひめゆり隊jで知られる学徒隊である.これらは、法的根拠のない学強制 的な異例の召集であったが、あくまで 志願"による動員ということであった。県下のすべての 中学校、女学校から学徒隊が従軍していてその教は2T名以上であった。そして、戦局が不利に なっていくにつれて にわか兵隊"扱いだったこれらの防衛隊や学徒隊たちも.爆雷や手摺弾を もって前線にIfi墜させられた。沖縄住民の戦闘参加はこれだけにとどまらず、兵員の消耗が激し くなるにつれて.避難民のなかからも手当たり次第補助要員を徴収し、老人、子どもまで足腰た つものはすべて I戦闘参加者jにさせられた.
3)軍民混在の戦場
一般邦人が戦線に巻き込まれた例は、サイパン、フィリピン.満州でもみられたが.これらは 引き上げの時機を逸してしまったせいであり、沖縄のようにはじめから住民を戦力として扱った のは特異な例であった。だが戦場における住民は'司まからみれば必要でもあり務虜でもある矛宿し た2面性をもっていた。守備軍は住民の戦力化の方針があったから疎開計両も円滑に進まず、陣
あったが、 7月2Hのこの時点が沖縄戦の終
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であったのである.第2節太平洋戦争における沖縄戦の意義と特徴
次に 沖縄戦の経緯をふまえたうえで沖縄戦とはいったいなんであったのか、戦場の実相はど うだつたのかを考えてみたいと思う。しかし、それはさまざまな要素と局耐が錯綜しているだけ にすべてを語り尽くすことができない。また.さまざまな生存者たろの証言も戦場でのおかれた 環境や立場によって変わってくるものである.とくに苛酷な激戦敗からの生存者ほど周聞の状況 を客観的に観察する余絡がなく、記憧の核心部分が宅 I~l 状態になりがちだと考えられる。数々の 文献のなかの戦場体験者たちの証言のなかから.共通する要素を抽出して体系づけ繋理すること は、沖縄戦を平和教育の教材として活用するにあたり必要なことだと考える。以下に、多くの生 存者たちの証言から沖縄戦の特徴を5ポイントにしぼって考察したいと思う。
1)長く激しい国内地上鴨
まづ第1のポイントとして挙げられることは 100日に及ぶ長期戦であったととであるa こ れは沖縄守備軍の作戦方針を「戦略持久戦 lに決め、ごの本土決戦を有利にみちびくための時間 稼ぎの捨石作戦を最後まで貫いたからだと与える。もし 沖縄守備軍が海軍の要請どうりに飛行 場を死守するためアメリカ箪の1:陪作戦に対して「水際撃滅暢法lに出たり、アメリカ軍が守備 隊の予惣どうり港川Ji両から上降していたとしたら、これほど戦闘が長引くこともなく 1週間と たたないうちに潰滅していたであろう。
次に沖縄幌が大規模な地上戦であったととが挙げられる.なぜ航~戦や艦隊戦でなく地上戦だ ったのかが問題になるが、それはアメリカ軍の沖縄攻略の目的が r沖縄奪取、基地としての整備.
沖縄諸島における制空、制海権の確保J (アイスパーグ作戦計画)であり沖視の島々を完全に占 領し、その安全を確保するために敗残兵を徹底的に掃討しなければならなかったからだと考える。
このような日米両軍の思惑が絡んで長く滋しい地上戦を繰り広げるととになった。
2)現地自給の総動員作戦
沖縄戦は、総動員体制の頂点をきわめたものであったo 1 945年6H 2 3 fH:公布された!
問民義勇兵役法Jにより戦闘参加I可能の男交を軍の指持ドに置き、これをもって「同家総動員法 i に基づく総動員体制が完成したといえる.さいわい本Lでは.この体制が発動することなく敗戦 を迎えた。しかし沖縄では.その頃には既に総動員体制は実施されていたσ 防衛隊は f陪暇防衛 召集規則lにより既に‑12年に召集されていたがそれでも足りずに44年1011に改正されて、
満17才以上満45.J"の男子にも適用され戦闘に参加させられた"だが防衛召集者だけではまだ 兵力が足りないと判断Lた軍は、中等学校の男友生徒 青年学肢の男女生徒まで動員した。いわ ゆる f鉄血勤皇隊J rひめゆり隊jで知られる学徒隊である.これらは、法的根拠のない学強制 的な異例の召集であったが、あくまで 志願"による動員ということであった。県下のすべての 中学校、女学校から学徒隊が従軍していてその教は2T名以上であった。そして、戦局が不利に なっていくにつれて にわか兵隊"扱いだったこれらの防衛隊や学徒隊たちも.爆雷や手摺弾を もって前線にIfi墜させられた。沖縄住民の戦闘参加はこれだけにとどまらず、兵員の消耗が激し くなるにつれて.避難民のなかからも手当たり次第補助要員を徴収し、老人、子どもまで足腰た つものはすべて I戦闘参加者jにさせられた.
3)軍民混在の戦場
一般邦人が戦線に巻き込まれた例は、サイパン、フィリピン.満州でもみられたが.これらは 引き上げの時機を逸してしまったせいであり、沖縄のようにはじめから住民を戦力として扱った のは特異な例であった。だが戦場における住民は'司まからみれば必要でもあり務虜でもある矛宿し た2面性をもっていた。守備軍は住民の戦力化の方針があったから疎開計両も円滑に進まず、陣
地構築や空事薬運搬などに従事させられた。しかし、アメリカ軍が1:障を完了して戦線が徐々に不 利になってくると、軍民協力関係は崩れて、壕や食糧の確保、陣地の秘院という而で住民の行動 が邪魔になってくる。また住民が敵の手に落ちると、京l敵行為に走るかもしれないという不信感 も潜仮していて、軍は住民を監視するようになってきた。南部戦績では守備軍と避難民が錐居状 態になったが、ここでは敗残の戦場心理が働きまさに弱肉強食の概限状態が鰻り広げられた。避 難民や兵隊のなかに子どもや負傷者がいると敵に陣地が暴露されるという理由で絞殺したり毒殺
したりされた.このように、戦場では弱いものから願に犠牲になっていった.
4)正規軍人をうわまわる住民被害
沖縄県援護課がまとめた沖縄戦戦死者は、本土111身兵6万5908名、沖縄出身軍人軍属2Jj 8228名、援護法の適用を受けた戦闘に参加したー般住民5万5246名、受けていないー般 住民3万8754名、アメリカ軍1万2520名、計20li656名となっている。 r沖縄出身 軍人軍属Jの中には防衛隊や学徒隊、男女義勇隊なども合まれていてこれに終戦前後のマラリヤ 病者や餓死者なども含めるとー 般沖縄県‑民の犠牲者数は、 15万人前後になると推測されるの当 時の県人口約60Ji人とすると4分の1の確率で鴨没していたことになる。この戦投者の多さは I最後のー兵までjという軍の医砕方式が徹底されていたためであり、またこの方針が住民にも 適用されたことに起因していると考える.
5)アメリカ軍占領の長期化
沖縄戦は、アメリカ軍側の作戦を策定する段階で.既に沖縄を本土から分雌する方針であったe
それゆえアメリカ軍攻略部隊は、多様な情報収拾活動、沖縄の腰史・地理・風俗習慣などの調賓
・研究.将兵への教育、心理作戦、主主撫E作、難民の手厚い保護など、占領政策のために周到な 準備を展開していた.そしてアメリカ軍は沖縄本島に無血1上障をはたした5日後にいちはやく軍 政府を開設し、海軍布告第・号を(ニミッツ布告)を公布して琉球諸島の本t:からの分離を宣言 した。 46"fl月2911には、マッカーサーのGHQ覚書によって北緯30度以南の陶.両諸島は、
正式に日本の行政から分離されることになった.とれに対し、日本政府はi母体3堅持のため一貫し て同意を与えている。このように戦時中と同様に沖縄は捨石のような扱いをうけ、 72年の復活 のfIまでアメリカ軍の軍事支配が27年間続くことになったのである.
以上のような沖縄戦の特徴と意義をふまえたうえで、沖縄戦におけるもっと細部の諸相をみて いきたいと思う。
第3節沖縄戦と子どもの犠斡について .鉄血勤皇隊とひめゆり隊
沖縄戦のまくが切って落とされようとしている頃、私立学校を含めた沖縄県ド十数校の中等学 校の男女生徒たちが、第32 'illの命を受付、男子は鉄血勤皇隊として、女子は従軍看護婦として、
それぞれ出陣していった。男子空徒は、そのうちわけとして、県立第
‑ ' T
学校舎が371名.県 立第二中学校生が]1 4名、県立第三中学校生が363名、八重山中学校生が20名、県立工業 学校'4:が94名、県立水産学校4'.が19名、県立農林学校生が 173名、JJt覇市立商業学絞'/:が 99名、思立開府中学校生が81名、そして 沖縄師範学校男子部のすべての韓民と侠徒:386 名の合わせて1780名の教師と生徒たちが職場に送られた。これらの'1:徒は、通信、食料運搬、弾薬運慣など正規の兵隊並みの任務に就かされた。このなかでも、全校職員生徒が一ー部の病欠者 をのぞき、 ‑人残らず動員された沖縄師側学校男子部の師範隊は、守備軍司令部に夜属し、沖縄 戦の属初から最後まで軍と運命をともにしている点からも、他の動車隊より苛酷な任務が多かっ
‑25‑‑
地構築や空事薬運搬などに従事させられた。しかし、アメリカ軍が1:障を完了して戦線が徐々に不 利になってくると、軍民協力関係は崩れて、壕や食糧の確保、陣地の秘院という而で住民の行動 が邪魔になってくる。また住民が敵の手に落ちると、京l敵行為に走るかもしれないという不信感 も潜仮していて、軍は住民を監視するようになってきた。南部戦績では守備軍と避難民が錐居状 態になったが、ここでは敗残の戦場心理が働きまさに弱肉強食の概限状態が鰻り広げられた。避 難民や兵隊のなかに子どもや負傷者がいると敵に陣地が暴露されるという理由で絞殺したり毒殺
したりされた.このように、戦場では弱いものから願に犠牲になっていった.
4)正規軍人をうわまわる住民被害
沖縄県援護課がまとめた沖縄戦戦死者は、本土111身兵6万5908名、沖縄出身軍人軍属2Jj 8228名、援護法の適用を受けた戦闘に参加したー般住民5万5246名、受けていないー般 住民3万8754名、アメリカ軍1万2520名、計20li656名となっている。 r沖縄出身 軍人軍属Jの中には防衛隊や学徒隊、男女義勇隊なども合まれていてこれに終戦前後のマラリヤ 病者や餓死者なども含めるとー 般沖縄県‑民の犠牲者数は、 15万人前後になると推測されるの当 時の県人口約60Ji人とすると4分の1の確率で鴨没していたことになる。この戦投者の多さは I最後のー兵までjという軍の医砕方式が徹底されていたためであり、またこの方針が住民にも 適用されたことに起因していると考える.
5)アメリカ軍占領の長期化
沖縄戦は、アメリカ軍側の作戦を策定する段階で.既に沖縄を本土から分雌する方針であったe
それゆえアメリカ軍攻略部隊は、多様な情報収拾活動、沖縄の腰史・地理・風俗習慣などの調賓
・研究.将兵への教育、心理作戦、主主撫E作、難民の手厚い保護など、占領政策のために周到な 準備を展開していた.そしてアメリカ軍は沖縄本島に無血1上障をはたした5日後にいちはやく軍 政府を開設し、海軍布告第・号を(ニミッツ布告)を公布して琉球諸島の本t:からの分離を宣言 した。 46"fl月2911には、マッカーサーのGHQ覚書によって北緯30度以南の陶.両諸島は、
正式に日本の行政から分離されることになった.とれに対し、日本政府はi母体3堅持のため一貫し て同意を与えている。このように戦時中と同様に沖縄は捨石のような扱いをうけ、 72年の復活 のfIまでアメリカ軍の軍事支配が27年間続くことになったのである.
以上のような沖縄戦の特徴と意義をふまえたうえで、沖縄戦におけるもっと細部の諸相をみて いきたいと思う。
第3節沖縄戦と子どもの犠斡について .鉄血勤皇隊とひめゆり隊
沖縄戦のまくが切って落とされようとしている頃、私立学校を含めた沖縄県ド十数校の中等学 校の男女生徒たちが、第32 'illの命を受付、男子は鉄血勤皇隊として、女子は従軍看護婦として、
それぞれ出陣していった。男子空徒は、そのうちわけとして、県立第
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学校舎が371名.県 立第二中学校生が]1 4名、県立第三中学校生が363名、八重山中学校生が20名、県立工業 学校'4:が94名、県立水産学校4'.が19名、県立農林学校生が 173名、JJt覇市立商業学絞'/:が 99名、思立開府中学校生が81名、そして 沖縄師範学校男子部のすべての韓民と侠徒:386 名の合わせて1780名の教師と生徒たちが職場に送られた。これらの'1:徒は、通信、食料運搬、弾薬運慣など正規の兵隊並みの任務に就かされた。このなかでも、全校職員生徒が一ー部の病欠者 をのぞき、 ‑人残らず動員された沖縄師側学校男子部の師範隊は、守備軍司令部に夜属し、沖縄 戦の属初から最後まで軍と運命をともにしている点からも、他の動車隊より苛酷な任務が多かっ
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