植民地期 インドにおける
「
農 民 」の登 場
― ビハ ー ル州 キ サ ー ン ・サ バー の系 譜 ―小嶋常喜
1 は じ め に 世 界 各地 にかつ て存 在 した、 も し くは現 在 も存 在 す る 「農民 」1と い う 集 団 を明確 に定義 す る こ とは極 め て難 しい 。 この集 団 を経 済 的 な点か ら分 析 したA・V・ チ ャヤ ー ノ ブは、 「農 民 」 は資 本 主義 的 な利 益 追 求 の原 則 で は な く、 自家消 費 と苦痛 を ともな う労 働 との 問の独 特 のバ ラ ンス感 覚か ら農業経 営 を成 り立 たせ て いる と述 べ た[Chayanov 1966]。 「農民 」を「階 級 」 として見 れば、 そ れは生 産 関係 とそ の政治 的主 張が 直接 的 に結 びつ い てい ない 「階級 性 の低 い(1ow classness)」階級 で あ る とT・ シ ャー ニ ン は指摘 した[Shanin 1966]。 また この集 団 を歴 史 的 に位 置 づ け よう とす れ ば、彼 らの 「素朴 な」論理 に基 づ いた社 会運 動が 近代 移行 期 に多 く登場 し、歴 史的 に重 要 な役 割 を はた した とE・ホ ブズ ボー ムは言 う[ホ ブズ ボー ム1989]。 しか し同時 に彼 は、近 代 の経 済 的 分化 の た め に 「農民 」 は政 治集 団 としては徐 々 に重要性 を失 い、 よ り明確 な経済 的 ・イ デオ ロギ ー的 基盤 を持 った階級 組織 にその座 を譲 る とした[Hobsbawm 1973]。 1930年 代 の植 民地 支 配下 の イ ン ドにお い て、極 め て重 要 な意 味 を持 ち、 また有効 な民 衆運 動 の カテ ゴ リー として登場 したの も上記 の定 義が 当 て は まる 「農民(キ サ ー ン)」 だっ た。 第一 次世 界 大戦 や 世界 恐 慌 は、 農産 物 価格 の乱 高下 を引 き起 こす こ とで 「農民 」 の生活 を圧 迫 し、 イ ン ド各 地 で 多様 な農民 運動 が展 開 された 。 また イ ン ド国民会 議派 をは じめ とす る多 く 執筆者紹介 こ じ ま の ぶ よ し● 専 修 大 学 文 学 部 非 常勤 講 師 南 ア ジ ア近 現 代 史 ・2007 、「「モ-ラ ル ・エ コ ノミー 』の 死 角 ― イ ン ドの 農 民 運 動 とメ ヘ タ ―報 告(1920年)一 」、 『専修 史 学 』、42。 ・2005 、「コ ロニ ァ ル言 説 の 受 容 と内 面 化 の 過 程 一 植 民 地 期 イ ン ドにお け る 『力 ー ス ト』 の 構 築 と 「農 民 運 動 』 の 形 成 ―」、西 川 正 雄 ・青 木 美 智 男(監 修)『 近 代 社 会 の 諸 相 一 個 ・ 地 域 ・国 家 ― 』、 ゆ ま に書 房 。 [email protected]植 民 地期 イ ン ドにお ける 「農 民 」 の登 場― ビハー ル 州 キサ ー ン ・サバ ー の 系譜 ― の民族 主義 者 た ちは、民 族運 動 を拡大 す るた め に この 「農民 」 に 目を向 け た。 ビハ ール のチ ャンパ ー ラ ンや グジ ャラー トのバ ー ル ドー リーで のサ ッ テ ィヤー グ ラバ を端 緒 として、会 議派 は積極 的 に 「農民 」 を民族 運動 に巻 き込み 、非協 力 運動 と不服 従 運動 の二 度 の全 国的 な運動 にお い て大規模 な 「農 民 」 の動 員 と運動 の 大衆 化 に成 功 した。 その 後、 会議 派 の組 織 内外 の 社 会主義 者 や共 産主義 者 を 中心 とす る政 治家 た ち に よ り、全 イ ン ド農民 組 合(AIKS)が1936年 に設立 され、 「農 民 」 は全 国的 な組織 に よって代 表 され る こ とにな っ た。 『ア ビ ュダ イ』 誌(ア ラーハ ーバ ー ド)の 農民 特 集 号 での 以下 の 論説 は、 この 時代 の 「『農 民』 の登 場 」 とい う事 態 を象 徴 的 に表現 して い る2。 イ ン ドの歴 史 にお いて キサ ー ンは無視 されへ 抑 圧 されへ 従属 させ られ て きた。(略)キ サー ンは社 会 の諸 々の変 革、 宗教 的 な混乱 、政 治 的 な大変動 にお いて も背骨 の よ うに不 変 ・不 動 の輩 であ った。 もはや彼 らは そ うでは ない。徐 々に彼 らは漆 黒 か ら光の 方 向へ 前 進 を始 めた。 (略)い ま新 しい幕 が 開け、 その指 導者 はキサ ー ンの はず だ。(略) これ までの イ ン ドの 時代 は、非 キサー ンの 時代 であ った。 これか らひ とつの新 しい時代 が始 まる。 それ はキサ ー ンの時 代 として永続 す るだ ろ う。 「キ サ ー ン万 歳!」 と この 時 代 の 呼 び声 が あ が る だ ろ う [Abhyudaya, Nov. 18, 1931:9]。 本稿 が取 り上 げる ビハ ー ルの キサ ー ン ・サバ ー運 動 も、上 記 の政治 ・経 済的 な背 景 の 中で成 長 し、「キサ ー ンの 時代 」 を演 出 した運 動 の ひ とつ で あ る。 しか し本稿 が 最 も重 要 な分析 対 象 とす るの は、 「農民 」 が登 場 して くる うえでの、 カース ト運動 とい う社 会的 な背 景 であ る。1980年 代 以 降、 マ ル クス主 義や 民族 主義 とい うメ タ ・ヒス トリー に共 鳴 す る農民運 動 史研 究 は影 を潜 め、 地域 的 ・社会 的 ・文 化 的視 角 を持 つ研 究 が 主流 とな った。 例 え ば初 期 のサバ ル タン研 究 は、農 民が 多数 参加 す る各地 の民 族運 動 が中 央 の会議 派指 導部 とは異 な るタ イプの ナ シ ョナ リズ ムの主 張や独 自の運 動 の論 理 を持 って いた こ とを明 らか に した[Hardiman 1981, Pandcy 1982 , Amin 1984]。 また20世 紀 の諸 々の社 会 運 動 を、 そ れ以 前 の 宗教 ・社 会 改革運 動 や諸 カ ース ト集 団 に よる地位 上昇 運 動 とい う大 きな社 会 変動 の 中 に位置 づ け る作 業[Pandey 1990, Pinch 1996]や 、 それ らの社 会運 動が
植 民 地支 配の諸 制 度や イ デオ ロギー との交 渉 ・抵抗 とい う過程 を通 じて生 まれ た こ と を明 らか にす る研 究[Bayly 1999,Dirks 2001,藤 井2003] も多 い。 本稿 もこ う した 近年 の研 究 視 角 を継 承 し、1930年 代 の 「農民 」 の登 場 を、植 民地 状況 におけ る イ ン ド社 会 の変化 とい う枠 組 みの 中で説 明 しよう とす る もので あ る。 ただ 近年 の諸研 究 は、 人 々の プルー ラルな アイ デ ンテ ィテ ィや 複雑 に絡 み 合 っ た関係 性 な どイ ン ド近代 史 の多 様 な諸 側 面 を 明 らか にす る一 方 で、 「全体 史 」に はつ なが らない分節化 された歴 史像 しか提 供 してい ない ように 見 える。1930年 代 の ガ ンジス河 中流域 で は、「キサ ー ン」 とい うカテ ゴ リー が重要 な意 味 を持 ち、 ひ とつ の 「階級 」 として機 能 した。 この 「階級 」 は、 高位 カース トによる搾 取や 大規模 地所 での圧 制 に対す る異 議 申 し立 て の経 験 を通 じて徐 々に形 成 された。本 稿 は1930年 代 に活 性化 した ビハ ー ル州 の キサ ー ン ・サバ ー運 動を事例 に、 「キサ ー ン」 の形成過 程 とその性 格 を分 析 す る ことで1930年 代 の 「『農 民』の登 場」 とい う時 代状況 を明 らか に したい 。 本 稿 の構 成 は次 の通 りで あ る。第2節 で は中位 農耕 カース トの運 動 に注 目 し、 この運動 が高位 カース トとの対 立 を招 き、「世俗 的」な争 点 を も浮上 させ た こ とを明 らか にす る。第3節 で は先行 す るブ ー ミハ ー ル(Bhumihar) の運動 に焦 点 を当 てる。 この運動 は 内部 での社 会的 ・経 済 的立場 の違 い か ら分裂 し、 ブ ー ミハ ー ルの非 地主 グルー プ と中位農 耕 カー ス トが 「キサ ー ン」 と して連携 す る機 会 を準 備 す る こ とに な った。 第4節 で は、1930年 代 の 農民運 動 の基盤 とな った 「キサ ー ン」 とい うカ テ ゴリーが分 析 される。 ここで は多様 な人 々が ひ とつの カテ ゴリーの 下 に連 帯 し、「『農 民』 の登場 」 とい える状況 が いか に作 り出 された かが 明 らか に され る。 第5節 で は 、 こ の 農民 運動 が 以前 の カース ト運 動 の形 態 や争 点 を引 き継 い で いた た め に、 逆 に1930年 代 末 以 降 に運 動が 瓦解 してい く原 因 とな った こ とを示 す 。「お わ りに」で は、 階級形 成 とい う点 か ら本 稿 の論 点 を整 理 す る。 2 カ ー ス ト運 動 ビハ ー ル州 にお け る農 民運 動 の社会 的背 景 として、 中位 農耕諸 カース ト の地 位上 昇運 動 が挙 げ られ る。 なかで も、 ヤ ー ダヴ(Yadav)の 運動 は高 位 カー ス トの カー ヤ ー ス タ(Kayastha)や ブー ミハ ー ル な どの運 動 よ り やや 遅 れて 開始 され、1910-20年 代 に最 も活 発 に展 開 され た。 この運 動
植 民地 期 イ ン ドに おけ る 「農 民」 の 登場― ビハ ー ル州 キ サー ン ・サバ ー の系 譜― も高位 カ ース トの それ と同 じ く、 カ ース ト団体 の設 立 に よって ア イ デ ン テ ィテ ィの構築 と再編 成 、集 団の拡 大 ・広域 化 、政 治的発 言力 の 強化 を図 る とと もに、近代 的教 育 の普 及、 「サ ンス ク リタイ ゼー シ ョン」、牝 牛保 護 運動 な ど を通 じて社 会 的地 位 の上 昇 を図 っ た。1920年 代 の ビハ ー ル州 政 府 は、 中位農 耕 カー ス トに よる地位 上昇 運動 を、ヤ ー ダヴの地域 集 団 の名 称 を取 って 「ゴアー ラ ー運動(Goala Movement)」 と呼 んだが 、 実際 に は ク ル ミー(Kurmi)や コエ リー(Koeri)に よ る類 似 の 運動 もそ の 中 に 含 まれ る。 この運 動 は高位 カー ス トとの対 立 を招 い た。表 案は この 時期 に ビハ ー ル州 内で 「ゴ アー ラー運動 」に関連 して中位 農耕 カ ース トと高位 カー ス トの 問に起 きた事 件 であ る。 この 表 にあ る ように、「サ ンス ク リタイゼ ー 表1 「ゴアー ラー 運 動 」に よるカ ース ト間対 立
[出典]No. 60/1924, 171/1925, 7/1926, Political (Special), GBO, BSA; H. C. Prior, Bihar and Orissa in 1922, Patna, 1923; Abdy Collins,
シ ョン」 の試 みで あ る聖 紐 の着用 は、社会 的 ・宗教 的 に高位 にあ るこ との 象 徴 と してそ れ を独 占 して きた 高位 カー ス トの反発 を招 き、多 くの衝 突 が 起 きた。 この対 立 は社会 的 ・宗教 的 な もの に とど ま らず 、 土地 をめ ぐる対 立 に発 展 す る ことが しば しばあ った[小 嶋2005]。 ラ コチ ャク暴 動 は この 中で もビハ ー ル州最大 の衝 突事 件 で ある。 この事 件 で は、 当時の セ ンサ ス統計 上バ ブハ ン(Babhan)と され た高位 カース ト の ブー ミハ ール数 千人 が ゴア ー ラーの集 会 を襲撃 した。 この事件 もゴアー ラーが 「社 会 的地位 の上昇 」 とい うス ロー ガ ンの も とに行 っ た聖紐 着用 や 高位 カース トへ のサ ー ヴ ィス放 棄 な どにブ ー ミハ ー ルが反発 した こ とに起 因す る。 しか し両 者 の対立 は もっ と複雑 だ った。 事件 後バ ブハ ンは ゴアー ラー を相 手 取 っ て多 くの民 事 訴 訟 や刑 事 告発 を行 い 、 その 多 くは ゴ アー ラー との 地主 ・小 作 関係 を利用 して いた3。 た とえば ゴアー ラーの 主張 に よれ ば、 ブー ミハ ー ル側 はす で に受 け取 った はず の数 千 ル ピー にのぼ る地 代請 求 を行 い、相 手取 られた の はラ コチ ャク事件 の原 告側 の証 人 だ った4。 ゴアー ラー は再 び集会 を開 いて対 抗 し、高 位 カー ス トへ の サー ヴ ィス提 供 を控 え、将 来 的 にはすべ て の ゴアー ラー男 性 が聖紐 を身 につ け、女性 は ミル クの取 引 と燃 料 拾い をや め るこ とを決議 した。 ゴアー ラーの こう した 動 きは近 隣へ 拡大 し、ベ ー ガー ル と呼 ばれ る地 主の 自留地 で の労働 や 、冠 婚 葬祭 時 の 貢納 とい った慣 行 を停 止 した。 また 「全 村 民 が 団験 して20年 や30年 前 に失 った土地 を要 求 した」 とい う事 例 も報告 された5。 この よう にカース ト運 動 は、社 会的 ・宗教 的 ヒエ ラルキ ーにお け る カー ス ト問対立 だ けで な く、様 々な物 品や 労働力 の提供 停 止 、 また それ に対 抗 す る小作 契 約 の打 ち切 りな どを通 じて経済 的 な対 立 も惹起 した。 実 は この 対 立 の様相 は、 ビハ ー ル州や さ らに広 くいえ ばガ ンジス 河 中流域 の社 会経 済 的 な構 造 に基 づ くものだ った とい え る。 1793年 にベ ンガル管 区の一 部 と して ザ ミー ンダー リー 制が 導入 され た 時、 一部 の巨大 地所 をのぞ き、 ビハ ー ルの多 くの地 所 は規模 が小 さ く、土 地所 有 者 の地 位 は必 ず し も安 定 して い な か った。19世 紀初 頭 、地 税 は 高 額 で あ り、農業 は金 融 や商取 引 よ りも利益 を生 まない産 業 だ った。 そ して 何 よ りも土地 に対す る人 口圧 が低 く、競争 は土 地 に対 して よ りもむ しろ耕 作 者 にあ った 。安定 した地税 収入 を確 保 した い東 イ ン ド会社 政府 は、 これ ら地 主層 の法 的権 限 を強化 した[B.B.Chaudhury 1983]。し か し地主権 限の 一方 的 な強化 は不 当 な土地 の差押 さえや地 代 の恣意 的 な引 上 げ を可 能
植 民地 期 イ ン ドにお け る 「農民 」 の登 場 ― ビハ ー ル州 キ サー ン ・サ バ ーの 系 譜―
に し、 また19世 紀後 半 に人 口圧 力が 上 昇 した 結果 、 地主 の 下 で土 地 を保 有 す る ライヤ ッ ト6と呼 ば れ る多 くの農民 層 の地位 は著 し く低 下 した。
1859年 のベ ンガル地 代法(Bengal Rent Act)お よび1885年 のベ ンガ ル借 地法(Bengal Tenancy Act)は 、 定額 地代 農民(raiyat at fixed rate) や 占有 農民(occupancy raiyat)な どの法 定 カテ ゴ リー を創 出 して これ ら の農 民層 に占有権 を与 えた。 しか しすべ て の農民 の状 況が この措置 に よっ て 改善 した わけ で はな い。 地主 は占有 権 が発 生 しない ジ ラー ト地(zirat) と よばれ る 自留地 の拡 大や 、非 合法 的 な地代 の引 き上 げ や取立 て に よって この損失 を補 完 しよ うと した[Robb 1979:110-112]。 農 民 保護立 法 の恩恵 を受 け た多 くは、 ザ ミー ンダー リー制導 入以 前 か ら 土地 に対 す る何 らか の権 利 を持 ってい た高位 カース ト層 であ る。彼 らは 占 有権 も し くは様々 な下級 所 有権(under-proprietary right)を 法 的 に認 め られ、又 小作 や農 業労 働 者 に 自身 の土 地 を耕作 させ る地代 生 活 者 であ り、 実 質 的 に地 主層 の一 部 を構 成 した。 た とえ ば シ ャハ ーバ ー ド県 の ラー ジ プ ー トたちが 地主 に よる たび重 な る地代 引 き上 げに対 して法廷 や時 に は実 力 を もっ て地 主 に対抗 した よ うに7、彼 らは村 落 レベ ルで権 力 を保 持 して い た[Yang 1989:228]。B・ ラーム に よれ ば、植 民 地政 府 の土 地政 策 は 大 多 数の耕 作者 に法 的保 護 を与 え る とい うよ りは、 む しろ この ような地代 生活者 の 数 を増 大 させ る もので あ った とい う[Ram 1997:110]。 この 「地 代生 活者 」 と実 際 に農業生 産 に従事 す る 「耕作 者 」 の問 の裂 け 目は、 カース トとい う点 か ら見 れ ば よ り明瞭 に なるの で はない か。丘 陵部 を除 く当時 の ビハ ール州 に連 合州 東部 を加 えた ガ ンジス河 中流域 は、住民 の カー ス ト構成 にお いて共通 した地域 で あ る。 この地域 で は、土地所 有 カー ス トの ブー ミハ ール と農耕 カ ース トの クル ミー、 コエ リー 、 ゴアー ラー の 存 在が 顕著 で ある[Schwartzberg 1968]。 ブー ミハー ル は ラー ジ プー トと ともに土 地所有 におい て排 他的 な地位 にあ り、他 方 ゴアー ラー、 クル ミー、 コエ リーの 中位 農耕 カー ス トは 「高 い技術 を備 え た勤勉 な耕作 者 で あ り、 もっ と も有能 な小 作 人」 として知 られてい た8。 したが ってやや大 雑把 に言 えば、 カー ス トの ヒエ ラル キー と土地 制度 上の ヒエ ラルキ ーが一 致す る と い う社 会経 済 的状況 を指 摘 で きる。そ して先述 の 中位 農耕 カース トの地位 上昇 運 動 とそ れに伴 う高位 カース トとの対 立 は、この文脈 で説 明可能 で ある。 た だ必ず し も 「持 つ もの 」 と 「持 た ざる もの」が 植民 地期 を通 じて固定 して い たわ けで は ない。P・ ロ ッブは、 地主 、諸 々の下 級所 有 者 、 占有 権
を持つ 農民 な どの各 法定 カテ ゴ リー の内部 で も 「二 極分 化 」が起 きて いた と指摘 す る[Robb 1979:113]。 つ ま り農民 の法 的保 護や 土地 の細 分化 に よって地位 を低 下 させ た一 部の小 規模 地 主 と、土地 を集積 した富 裕 な農 民 が、経 済 的 に立 場 を同 じ くす る状 況 も現 れた 。 中位 農耕 諸 カー ス トが カー ス トとは異 なる 「世 俗 的」 次元 で高位 カース トと連 帯 す る可 能性 が ここに あ ったの で はない か。 3 カ ー ス ト ・サ バ ー か ら キ サ ー ン ・サ バ ー へ 1920年 代 末 、 中 位 農 耕 諸 カ ー ス トが カ ー ス トの 境 界 を横 断 す る 組 織 化 に 加 わ る状 況 が 生 まれ た 。 た だ しそ の イ ニ シ ア テ ィ ブ は む し ろ 高 位 カ ー ス トの ブ ー ミハ ー ル に よ っ て 担 わ れ た 。1927年 に ビ ハ ー ル 州 バ トナ ー 郊 外 の ビ タ ー(Bihta)で 西 バ ト ナ ー ・キ サ ー ン ・サ バ ー(PashcimPatna Kisan Sabha)9が 設 立 さ れ た 。 そ の 設 立 者 で あ り、 そ の 後 ビ ハ ー ル 州 や 全 国 レベ ル で 農 民 運 動 を指 導 す る こ と に な っ た ス ワ ー ミ ー ・サ ハ ジ ャ ー ナ ン ド ・サ ラ ス ワ テ ィ ー の 自伝 か ら推 測 す る と、 ブ ー ミハ ー ル の カ ー ス ト団 体 で あ っ た ブ ー ミ ハ ー ル ・ブ ラ ー フ マ ン 協 会(Bhumihar Brahman Sabha)内 部 で の 政 治 的 ・経 済 的 対 立 とそ の 組 織 自体 の解 体 が こ の キ サ ー ン ・サ バ ー 設 立 と関 係 し て い る 。 ま た 自伝 で 語 られ る サ ハ ジ ャー ナ ン ドの 経 歴 そ の もの が 、 本 稿 が 扱 う19世 紀 末 以 来 の ビハ ー ル の 社 会 変 動 を体 現 し て い る 。 同 協 会 は ブ ー ミハ ー ル の 社 会 的 地 位 の 上 昇 を 目指 して1889年 に 設 立 さ れ た 。 ベ ナ レス の ラ ー ジ ャー を は じめ 、 当 初 地 主 層 が 協 会 内 部 で 指 導 的 な 地 位 を 占 め た 。 協 会 は カ ー ス ト成 員 に西 洋 的 近 代 教 育 を 奨 励 す る と と も に 、 ブ ー ミハ ー ル の 社 会 的 地 位 の 確 保 を 親 英 的 立 場 で 植 民 地 政 府 に 求 め た 。 典 型 的 な もの は セ ンサ ス 事 業 で の コ ミ ュ ニ テ ィの 名 称 を 「ブ ー ミハ ー ル ・ブ
ラ ー フ マ ン」 とす る要 求 だ っ た[Census of India 1911, VolV,Part I:445-5]。
彼 ら は 自 らの コ ミ ュ ニ テ ィの 歴 史 を再 構 成 し、ブ ー ミハ ー ル は 「歴 史 的 に 」 ブ ラ フ マ ニ カ ル な ヒ エ ラ ル キ ー の 中 で 最 上 位 の ブ ラ ー フ マ ンで あ る と主 張 した 。 他 方 で 彼 ら は 、 一 般 的 に 生 業 と し て い る 土 地 所 有 や 農 業 生 産 を 正 当 化 す る こ とで 独 特 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ を創 造 し て い た[TUlika1986:58-61]。 協 会 内 に は 、ブ ー ミハ ー ル が ブ ラ ー フ マ ンで あ る こ と を プ ロ ー ヒテ ィ (家 内 祭 祀)を 執 り行 う こ と で 証 明 し よ う とす る 動 き も あ っ た 。 「不 滅 の 宗
植 民 地期 イ ン ドにお ける 「農民 」 の登 場― ビハ ール 州 キサ ー ン ・サバ ー の 系譜 ― 教 」(Sanatan Dharm)を ス ロ ー ガ ンに 掲 げ る ヒ ン ド ゥー 保 守 派 の 改 革 運 動 を経 て1914年 頃 か ら協 会 に 関 わ る よ う に な っ た サ ハ ジ ャ ー ナ ン ド も、 プ ロ ー ヒテ ィ を推 進 す る活 動 に 力 を 注 い だ 。 し か し、 協 会 内 の 地 主 グ ル ー プ は プ ロ ー ヒテ ィ を生 業 とす る こ と は社 会 的 な堕 落 で あ る と して こ の 活 動 に 反 対 し、 サ ハ ジ ャ ー ナ ン ド ら と の 問 に 溝 が 生 ま れ た[Sahajanand 1950:147-153]。 サ ハ ジ ャ ー ナ ン ド ら は、 バ トナ ー 郊 外 の ビ ター に シ ュ リー ・シ ー タ ー ・
ラ ー ム ・ア ー シ ュ ラ ム(Shri Sita Ram Ashram)を 開 い た 。 この ア ー シ ュ
ラ ム は 、 プ ロ ー ヒ テ ィ を 奨 励 す る活 動 の 前 提 と な る サ ンス ク リ ッ ト文 献 学 習 の 機 会 か ら ブ ー ミハ ー ル が 排 除 さ れ て い た た め 、 子 供 た ち が サ ン ス ク リ ッ ト文 献 を 学 習 で き る よ う に 設 立 され た もの だ っ た 。 た だ しそ こ で は 、 他 の カ ー ス トの 子 供 へ も門 戸 が 開 か れ て い た 。 ま た 近 隣 に は耕 作 者 の 問 で 悪 名 高 い 地 主 の 地 所 が 点在 して お り、 ア ー シ ュ ラ ム の 活 動 は そ れ らの 地 所 で 耕 作 に従 事 す る ゴ ア ー ラ ー た ち が 抱 え る 問 題 に も向 け ら れ る よ う に な っ た[Sahajanand 1950:154-159]。 1926年 の ブ ー ミハ ー ル 協 会 の 大 会 で は 、 会 議 派 所 属 の チ ョ ウ ド リ ー ・ ラ グ ヴ ィ ー ル ・ナ ー ラ ー ヤ ン-シ ン が 反 英 派 と し て 初 め て 大 会 議 長 に 選 出 され 、 プ ロ ー ヒテ ィの 推 進 が 公 式 な プ ロ グ ラ ム と して 採 択 さ れ た 。 しか し こ の 時 、 協 会 へ の 寄 付 の 額 に 関 わ りな く 同 じ床 に 座 る と い う提 案 に ラ ー ジ ャ ー や マ ハ ラー ジ ャ ー を含 む 「バ ー ブ ー 」 た ち が 反 発 し 、 地 主 グ ル ー プ とサ ハ ジ ャ ー ナ ン ド ・グ ル ー プ の 問 の 立 場 の 違 い が い よ い よ 露 に な っ た 。 「カ ー ス ト ・サ バ ー な の だ か ら同 じ カ ー ス ト内 で は 皆 平 等 な は ず だ 」 と サ ハ ジ ャ ー ナ ン ドは 主 張 し た が 、 カ ー ス ト ・サ バ ー とい う組 織 自体 に彼 は も は や 期 待 を か け て い な か っ た[Sahajanand 1950:162]。1927年 末 に サ ハ ジ ャー ナ ン ドは 、 ア ー シ ュ ラ ム を カ ー ス トに 関 わ りな く耕 作 者 一 般 の 生 活 条 件 の 改 善 を 目 的 と す る西 バ トナ ー ・キ サ ー ン ・サ バ ー に改 組 した 。 ブ ー ミハ ー ル 協 会 は1929年 の ム ン ゲ ー ル(Monghyr)で 開 催 さ れ た 大 会 で 、 地 主 グ ル ー プ の 指 導 者 ガ ネ ー シ ュ ・ダ ッ ト ・シ ン の 議 長 選 出 を 巡 る混 乱 が 起 き て 以 来 活 動 を停 止 し た[Sahajanand 1950:176-182]。 4 「農 民 」 の 登 場 西 バ トナ ー ・キ サ ー ン ・サ バ ー は 、 地 主 の ジ ラ ー ト地 拡 大 を 可 能 に す る
ビハ ー ル借 地 法改 正 に反対 す る運 動 を広 め るた め、1929年 に ビハ ー ル州 キ サ ー ン ・サバ ー(Bihar Prantiya Kisan Sabha、 以 下BPKS)と して州 全 土 に組織 を拡 大 した 。1930年 に不 服 従 運動 が 始 まる と、BPKSは 会 議 派 に協力 して活動 を休 止 した。しか し、内陸部 の ビハ ール では塩 のサ ッテ ィ ヤ ー グラバが 効果 的 な戦術 とはな らず、 ビハ ー ルでの不 服従 運動 は当初 低 調 だ った。州 会議 派指 導部 が運 動 の中心 をチ ョキ ダー ル税 の ボイ コ ッ トに 移す と、 ようや く農村 部へ も運動 が拡 大 した。チ ョキ ダール は ビハ ー ル州 の警 察力 を補 完 して治安 を改善 す るため に各村 に配置 され たが 、そ の費用 を賄 うチ ョキ ダー ル税 は極 めて不 人気 だ っ た。 したが って会 議派 に とって、 階層 間 に亀 裂 を もた ら さない このチ ョキ ダー ル税 のボ イ コ ッ トは理想 的 な 戦 術 となった 。 サ ハ ジ ャーナ ン ドを含 むBPKSの メ ンバ ー も不服 従 運動 に参加 した が、 各地 で は大 規模 地 主 に反 発 す るプ ロパ ガ ンダが広 まってい た。 チ ャ ンパ ー ラ ン県 最 大 の ベ ッテ ィア ー(Bettiah)地 所 で は 「会 議 派 の指 導 者 た ち」 が ドラムや鐘 を叩 いて村 々や市場 を回 り、地代 の不 払 い を説 い た。 同地域 の郡役 人 はそ の よ うな 「危 険分子 」 の主張 が公 式 な会議 派 の方針 と食 い違 うこ とを報告 した10。ガヤ ー県 の テ ィカ ー リー(Tikari)や アマ ー ワー ン (Amawan)な どの大規 模 地所 にお いて も、在 地 の キサ ー ン ・サバ ー 指導 者 が 地 代 不 払 い 運 動 を 起 こ し て い た11。バ トナ ー 県 の デ ィ ナ プ ル (Dinapur)で は、 地元 の キサ ー ン ・サ バ ー指 導 者 が農 民 に対 す る圧制 を や め る よ う会議 派や 県 当局 を交 えて地 主 と交渉 を して いた。 ラジ ェー ン ド ラ ・プ ラサ ー ドを含 む会 議派 指導 部が 同地 区 を訪問 す る こ とに なる と、 キ サ ー ン ・サ バ ー指 導者 は慌 てて農民 た ち にカ ッダ ル(手 紡 ぎ ・手織 りの服 =カ ーデ ィー)を 着 て来 る よ うに強 く言 い 聞かせ てい た よ うに、公 式 な会 議 派の プ ログ ラム は しば しば農民 の関心 事 で はなか っ た12。 この ような事態 の背 景 に は、世界 恐 慌が ビハ ー ルの農民 に及 ぼ した深 刻 な影響 があ っ た。農 産物価 格 の下 落や信 用 の収縮 とい った全 イ ン ド的 な影 響 に加 え、 ビハ ー ルで は地 代 の金納 化 が大 きな問題 となった 。か つ て現 物 納 の割合 が 高か った南 ビハ ー ルの ガヤ ー、ム ンゲー ル、バ トナ ー、シ ャハ ー バ ー ドの各 県 で は、物価 が高 水準 にあ った1920年 代 に金納 化 が進 ん で い た。 したが って世 界恐 慌に よる農産 物価 格 の暴落 は、地代 を到 底払 う こ と が で きない 高額 な もの に した 。同様 の状 況 にあ った連 合州 で は、 ザ ミー ン ダー リー制 地域 で さえ も不 十分 とは い え地 税 ・地 代 の減 免 が実 施 された 。
植 民地 期 イ ン ドに お ける 「農 民」 の 登場 一 ビハ ー ル州 キ サー ン ・サ バ ーの 系 譜― しか しビハ ー ル州政府 は この物価 下落 は一 時的 な もので あ る と して、特 別 な地代 減 免措 置 を行 わ なか っ た[Williams 1943:1]。 最終 的 に地 税 当局 が この深刻 さを認識 し、 ビハ ー ル借 地法112条 に基 づ く全 面 的 な地代 改定 のた め の土地 査 定実 施 を決 断 した の は、会 議派 州 政権 下 の1937年 の こ と だ った。 その報 告書 は、再査 定が 行 われ たほ とん どの地域 で地代 が高水 準 にあ る こ と、 また実 際 に記録 されて い るよ りも高額 な地代 が 支払 わ れて い る こ とを明 らか に した[Williams 1943:2-5,41-48,54]。 この問題 に対 処す るため 、会 議派 の運動 が停 止 した1933年 以 降 、キサ ー ン ・サ バ ー運動 が本格 化 した。BPKSは1929年 以 降常 設組織 とな り、州 ・ 県 ・郡 レベ ル で組織 化 が図 られ た。 しか し、BPKSに つ い て研 究 した ウ ォ ル ター ・ハ ウザー や アル ヴ ィン ド ・ダー スが キサ ー ン ・サバ ー は組織 とい うよ りもむ しろ運動 だ った と指摘 す る よ うに、そ の主要 な活 動 は指導 部が 各 地 を行 脚 して 集 会 を 催 す 「巡 業 」 だ っ た[Hauser 1961:156,Das 1983:111]。 例 えば1933か ら35年 まで の 問 にキ サ ー ン ・サ バ ー 主催 の 集 会 が500回 行 わ れ、 そ の うち350回 にサハ ジ ャー ナ ン ドの 姿 が 見 られ た とい う[Sinha 1935:9-10]。 指 導部 の顔 ぶれ は依然 と して ブー ミハ ール ・ブラー フマ ン協 会 との連続 性 を示 してい た。BPKS設 立 時 に は、議長 の サハ ジ ャーナ ン ド、事務 局長 の ク リシュナ ー ・シ ンハ 、 そ して州立 法参 事会 議員 と して借 地法 改正 反対 運 動 とBPKS設 立 に尽 力 した ラー ム ・ダヤ ー ル ・シ ンな ど、か つ て ブ ー ミハ ー ル協 会 内で ガ ネー シュ ・ダ ッ ト・シ ンら地主 グル ー プに対抗 した面 々 が名 を連 ね て いた。 そ の他1930年 代 ビハ ー ルの キサ ー ン ・サ バ ー運 動 で 強力 な指 導力 を発揮 した ジ ャー ナ リス トのヤ ムナ ー ・カル ジー や社 会 主義 者 の ラー ムナ ンダ ン ・ミシュ ラ もブー ミハ ー ルで あ った。 BPKSで は、小 規模 地主 、各種 占有 権 を持 つ小作 人 、そ の ほかの小 作 人 や農 業労働 者 が相 互対 立 を回避 しなが ら 「キ サー ン」 とい う緩 やか な連帯 の 中で行 動 し、彼 ら共 通 の 問題 に立 ち向か う方針 が取 られ た。1936年 の マ ニ フェス トはそ れ をつ ぎの よ うに表明 して い る。 キサ ー ン ・サ バ ーの 目的 はキサ ー ンの団結 で あ る。 キ サー ンとはそ の 第一義 的 な生 業が耕 作 であ る者 であ る。 それ ゆ え、 キ サー ン ・サバ ー は た だ ライ ヤ ッ トの サバ ーで は な く、 耕作 か ら収 入 を得 てい る ライ ヤ ッ トや小 規模 ザ ミー ンダー ル、そ して労 働者 の サバ ーで あ る。 これ
ら3者 は団結 して 自 らを 日に 日に貧 困へ と追 いや ってい る諸権 力 と闘 わ ねば な らない[Sahajanand 2003 vol.6:97-102]。 そ して この 「キサ ー ン」 が抱 える問題 を平和 的かつ 合法 的 に解決 す る と い う姿 勢 が1936年 こ ろ まで は維 持 さ れ た。 不 服 従 運 動 後 、BPKSは ガ ヤ ー、バ トナー、 プール ニヤ ーの各県 で 農民 の現状 につ いて調査 を行 った 。 そ こで まず 指摘 され たの は、 地 主が 地代 受 領書 を発 行 しな い こ とであ る。 地主 は小作 人 の受領 書不 所持 を口実 に地代 の 二重徴 収 や追 い立 て を企 てた。 また小 作 人が 地主 に提供 す るサ ラー ミー(各 種 礼金)や ベ ー ガー ル、灌 漑 設 備 の使 用 料 高 騰 や 地 主 が そ の 管 理 を怠 っ て い る 問 題 も指 摘 さ れ た [Sahajanand 2003 vo1.6:37-78]13。 各 地で 開催 され たBPKSの 集 会 では、 地代 の減免 や 農産物 の納 入価 格 の引 き上 げ な ど、政 府 の救 済策 を期待 ・要 求す る主張 もな され た(表2参 照)。 ザ ミー ンダー ルや植 民 地 政府 に対 す る反発 は確 か にあ った もの の、彼 らの 「不 正 」 を正 しなが ら既存 の社 会 的 ・ 制 度 的枠組 み の 中で農民 の経 済 的 ・社 会 的状況 を改 善 して い くことが 目指 され た。 5 運 動 の 「急 進 化 」 と 「農 民 」 の 間 の 亀 裂 世界 恐慌 以 来 の ビハ ール農 民 の経 済 的苦境 は1934年 の大 地 震 や 慢性 的 な水 害 に よっ て厳 しさ を増 し、1930年 代 後半 にな って も緩 和 す る こ とは なか った。ビハ ール州 の会 議派 政権 が行 った先述 の土 地査 定 は、サ ハ ジ ャー ナ ン ドらが 明 らか に したガヤ ー県 の農 民の 窮状 が さ らに広 範 囲 にわ た って い る こ とを証 明 した[Williams 1943]。 この 時期 の キサ ー ン ・サ バ ー運 動 は、会 議 派社会 党 や イ ン ド共 産党 な どの左 翼勢 力 か らの 関与 ・指導 が増 大 して徐 々に 「急 進化 」 して い った。 キサ ー ン ・サバ ー運 動 の一 つの転 機 はガ ヤ ー県 の テ ィ カー リー 地所 で の小 作 争 議 だ った。1935年7月 に 開催 され たテ ィカー リー の集会 で 、A・N・ シ ンハ らガ ンデ ィー主 義者 は既 存 の テ ィカー リー地 所 臣民協 会(Tikari Raj Praja Sammelan)が 調 査員 会 を組 織 し、 ラー ジ ャー に農 民 の窮状 を進 言す るこ とで問題 を解 決 すべ き と 主張 した。 これ に対 し、 ジ ャ ドゥナ ンダ ン ・シャル マー らは 「小作 人 も土 地 に対 す る同等 の権 利 を持 つ べ きで あ り、 それ を達成 で きる方法 はサ ッ テ ィヤー グ ラバ しか な い」 と主 張 した。結 果 的 に臣民 協 会 はBPKSの 指
植 民地 期 イ ン ドに お ける 「農 民」 の 登場 ― ビハ ー ル州 キ サ ー ン ・サバ ー の系 譜― 導 下 に入 る とい う決 議 が採 択 され、 「階級 協 調 路線 」 が 放棄 され た'4。さ らに1935年11月 に開催 された第3回 州 農民 会議 は、BPKSと して初 め て ザ ミー ンダー リー制 の廃 止 を決議 した。サ ハ ジ ャーナ ン ドは、社 会主 義や マル クス主 義 、 ま してや 革命 につ い て なんの確 固 た る確信 や 知識 が なか っ た に も関 わ らず ザ ミー ンダール の不正 を見 か ねて この結 論 に至 った と回想 表2 ビハ ール 州 キ サーン.サ バ ー 主催 の 集 会 の事 例(1934年8月)
して いる[Sahajanand 1950:237]。 1936年 以 降、 集会 の雰 囲気 は一 変 した。 開会 時 の宗教 的 な歌 や 詩 の リ サ イ タル は、ザ ミー ンダー リー制廃 止 を訴 える歌 に な り15、シュ プ レヒ コー ル もよ り急進 的 な ものが叫 ば れ る ように なった 。 革命 万歳 、 イギ リス支 配 を打倒 せ よ、 資本主 義 を打倒 せ よ、ザ ミー ン ダー リー制 を打倒 せ よ、 キサ ー ンの世が うち建 て られん こ とを、労働 者 の世が 打 ち建 て られん こ とを(略)16。 集 会 での指 導者 の演 説 は政治色 を強め 、政府 や ザ ミー ンダール だけ でな く会 議派 に対 す る批 判 も増 え た。彼 らはザ ミー ンダー リー制 の廃 止 や イギ リス支配 の終 焉 を伴 う 「革命 」 を頻繁 に口 に した 。キ サー ン ・サバ ー はザ ミー ンダー ル との対 決姿 勢 を明確 に し、運 動 は暴力 的 な展 開 をみせ は じめ た。 州政府 に報 告 され た件数 で い えば、小 作人 に よるザ ミー ンダー ルの殺 傷 事件 は1938年 以 降急 増 した17。 なかで もバ カー シ ュ ト闘争 はこの 時期 を画期 とす る もの だ った。 この 時 期 、多 くの農民 の保 有地 が地 代 の未払 い な どを理 由 にザ ミー ンダー ルの手 に渡 った 。バ カー シ ュ ト地 と呼 ばれ る これ らの土地 を農 民が 占拠 ・回復 す る こ とも し くはそ の土地 の作 物 を奪 取 す る こ とがバ カー シュ ト闘争 であ る。 ガヤ ー県 ナ ワー ダー郡の レーオ ラー(Reora)は 、同県 にお けるバ カー シュ ト闘争 の中心 地 とな った。地 主 と農 民 との問 の調停 の試 みが1938年 末 に 失 敗す る と、 ジ ャ ドゥナ ンダ ン ・シャルマ ーの も とで 「サ ッテ ィヤ ーグ ラ バ 」が 開始 された。 農民 た ちはバ カー シュ ト地へ の 「不法 侵入 」 を繰 り返 し、作物 を刈 取 り、畑 をク ワで耕 した 。 シ ャルマー が逮捕 された あ とはサ ハ ジャー ナ ン ドとJ・P・ナ ー ラーヤ ンが この 闘争 を引 き継 いだ[Sahajanand 1950:276-278]。 ム ンゲー ル県 バ ル ヒヤ ー ・ター ル(Barhiya Ta1)で のバ カー シュ ト闘 争 も、 共産 主義者 で あ りかつ在 地 のキ サー ン ・サバ ー指導 者 の カルヤ ーナ ン ド ・シ ャル マ ーの 関与 に よ って1936年 頃 か ら激化 した。 運動 に参加 し た8ヶ 村 の総 面積1万5千 ビー ガーの うち、9割 以上 が 地主 のバ カー シ ュ ト地 とな ってい た。農 民側 はム ンゲー ル県 当局 を介 した個 別事 例 ご との調 停 を拒 否 し、集 団的 ・一括 的要 求 に よって よ り多 くのバ カー シュ ト地 の回 復 を 目指 した。農 民側 に有利 な調 停 が見 込め ない と、紛 争地で の作物 の奪
植民 地 期イ ン ドにお け る 「農民 」 の登 場― ビハ ール 州 キサ ー ン.サ バ ー の 系譜 ―
取 、 さ ら に は 地 主 側 が 作 業 を行 っ て い る 脱 穀 場 を 襲 撃 す る な ど、 実 力 を 伴
う 「サ ッテ ィヤ ー グ ラ バ 」 を展 開 した 。 そ の ほ か 、ラ ー フ ル ・サ ー ン ク リ ッ
トヤ ー ヤ ン 指 導 下 に 強 力 な 運 動 が 展 開 さ れ た サ ー ラ ン県 の ア ム ワ ー リ ー
(Amwari)[サ ー ン ク リ ッ ト ヤ ー ヤ ン2000,Sankrityayan 1950vol.2:
313-314]、 ガ ヤ ー 県 の テ ィ カ ー リ ー 地 所 、 さ ら にバ トナ ー 、 シ ャハ ー バ ー
ド、 ダ ル バ ン ガ ー の 各 県 で もBPKSの 指 導 下 に バ カ ー シ ュ ト闘 争 が 展 開
さ れ た 俵3参 照)。
表3 バ カ ーシ ュ ト闘 争 の 事例
[出典]No. 28(A), 29(11), 29(II)(B), 29(V), 79, 428, 573, /1939, 120(1) and 307/1940, Political (Special), GB, BSA; S. No. 17 and 18, Freedom Movement Papers in Bihar, BSA; Sahajanand, [1950)1985よ り作 成 。
しか しこの時期 におい て も、キ サー ン ・サバ ー運動 は ビハ ー ルの民衆 運 動 史上 の 「遺 産」 を引 き継 い でい た。 第一 に、バ カー シュ ト闘争 にみ られ る運 動 の 「急 進化 」 に も関わ らず 、依然 と して農 民 の大 きな関心事 だ った の は地主 へ の地代 以外 の生 産物 や労役 の提 供 とい った問題 だ った 。 またバ カー シュ ト闘争 の舞台 の ひ とつ とな った脱穀 場 にお いて争 点 となった の は、 あ くまで も地 主 との 「公 正 」 な分 配 だ った。 これ らはBPKSの 公 式 な プ ログ ラ ムの 中 に 「早急 に実 行 され るべ き要 求」 と して組 み 込 まれ て いた [Sahajanand 2003 vol.6:97-102]。 第二 に 、1936年 のAIKS設 立 に よる キサ ー ン ・サバ ー の規 律 強化 ・拡 大化 を経 て も、 依 然 と してBPKSは 上 意 下達 が 貫徹 した組 織 で は なか っ た。 例 えば レー オ ラーでの バ カー シュ ト闘争 の 開始 は、直 接行 動 を切望 す る キサ ー ンたちが ジャ ドゥナ ンダ ン ・シ ャルマ ーに直 訴 した こ とが きっか け だっ た とサ ハ ジ ャーナ ン ドは回想 してい る。 シャルマ ー氏 は、 「耕 地 を耕 せ 。植 え られ てい る稲 の量が い か に少 な くと も作物 を奪 取せ よ」 と言 った。 キサ ー ンた ちは次 の よ うに返答 し た。 「われ われ は助 言 を欲 しい ので は ない。 われ われ は あな たが何 ら かの 道 を見 出 して くれ る もの と理 解 して い た。 も しわれ われ に御 託 を 並 べ るの であ れ ば立 ち去 って くだ さい。 われ われ を死 なせ て くだ さい。 さもな けれ ばあ なた もク ワを もって耕 して くだ さい。稲 を刈 取 っ て く だ さい。 そ うす れ ばわ れわ れ はあ なた に従 い あ なた と ともに命 を捨 て ま し ょう」 と。 この言葉 を聞い て シ ャル マー氏 は決 意 し、 「これか ら 私 は刑 務所 に行 きます。 状況 はこの有 様 です。 ここ にや って来 て見 て くだ さい。 あ なた に相 談 しなか った こ とを許 して くだ さい」 と私 に伝 言 を寄 せ た[Sahajanand 1950:277]。 バ ル ヒヤー ・タール で も状 況 は同 じだ った 。 カルヤ ーナ ン ドは 当局 に逮 捕 され る前 に、現場 にや って来 て切迫 した事態 を 自分 の 目で確 かめ て欲 し い とサハ ジャー ナ ン ドに手紙 を送 った18。地 主側 との妥協 が 成立 した後 で サハ ジ ャーナ ン ドは現地 へ赴 い たが 、集会 で のサハ ジ ャー ナ ン ドの演 説 を 当局側 が 「まるで カル ヤー ナ ン ドの行為 に異 を唱 えて い る」 と評 した よ う に、彼 が農 民 を説得 しなけ れば な らない ほ ど、 闘争継 続 を求 め る強 い圧力 が 存在 した19。こ うしてBPKSも しくはそ の最高 指導 者 であ るサ ハ ジ ャー
植 民 地期 イ ン ドに お ける 「農 民 」の 登 場― ビハー ル 州キ サ ー ン ・サバ ー の 系譜 ― ナ ン ドの承 諾 を得 ず に、在 地 の論 理 で 闘争 が展 開 され る こ とが しば しば あ った。 第 三 に指摘 され るの は、 「キ サ ー ン」 内部 で は依然 と して カー ス ト意識 が 強 固だ った こ とであ る。1930年 代後 半 の キサー ン・サ バ ー運動 「急 進化 」 は、 「農 民 」 を よ り厳 密 に定 義 してそ れか らはみ 出 した者 との 問の 亀 裂が 露 に なって い く過 程 だ った。例 えば プール ニヤ ー県 の コー シー河流 域 で は、 ダルバ ンガ ーの ラー ジ ャーが経 営す る巨大地所 内に 占有権 の あ る保 有地 を 持 つ 「ライ ヤ ッ ト」 とその 下 で実際 の耕作 作 業 を行 うサ ンタル刈 分小 作 と の 問に 「小作 争 議」が起 きて いた 。 しか しこの過 程 は単 な る 「農民層 分解 」 で はない 。各 地のバ カー シュ ト闘争 で は、農民 の 問の亀 裂 が しば しば カー ス トの境界 にそ って現 れた 。 レーオ ラー で は、回復 した土地 の カー ス トを 問わ ない平 等 な分配 にブー ミハ ール小作 が 反発 した[L.Singh 1992:25]。 バ ル ヒヤ ー ・ター ルで は地 主 との合意 が成 立 した後 にブー ミハ ー ル小 作 が 集 会 を開 き、地 主 と交渉 して優 遇 された地 代率 でバ カー シュ ト地 回復 を 目 指 す こ とが決 定 され た20。シ ャハ ーバ ー ド県 で は、バ カー シュ ト闘争 につ いて はキサ ー ン ・サバ ーの支 援 を仰 ぎつつ も、政治 的 に は会 議派 や左 翼勢 力 で はな く、 ヤー ダ ヴ、 クル ミー、 コエ リー な どの中位 農耕 カース トを支 持基 盤 とす る トリベ ニ ・サ ング(Tribeni Sangh)と 呼 ば れ る組織 を作 る 動 きが見 られ た21。この ように1930年 代後 半 の 「急 進化 」 した キサ ー ン ・ サバ ー運 動 も、農 民 の過去 の経 験 との連 続 性を見 せ てい た。 6 お わ り に 1930年 代 の ビハ ー ル にお け る キサ ー ン ・サ バ ー運動 は、会 議 派 の民 族 運 動 や左翼 政 治運動 か らの 関与 に加 え て、世界 恐 慌や様 々な 自然災 害 な ど を背景 に活 性化 した。 そ して本稿 が 明 らか に した ように、 この運 動 に はそ れ以 前 の カー ス ト運動 との強 い 連続 性 が見 られ た。1920年 代 まで の カー ス ト運 動 の経験 は、「キ サー ン」とい う緩 やか な 「階級 」を基盤 に した キサ ー ン ・サ バ ーの設 立 に大 き く寄 与 した。 しか し本 稿が 提示 してい るの は カー ス トとい う 「虚偽 意 識 」か ら解 き放 たれ耕 作 者 た ちが、 「キサ ー ン」 とい う 「階級 意 識」 に基 づ いた組織 的 ・政 治 的運動 を展 開す る とい う、民 衆運 動 の 「発展 モデ ル」 では ない。 すで に見 た よ うに 「キ サー ン」 内部 で は依 然 として カース ト意識 が 強固 であ り、 それ は しば しば この 「階級 」 に亀 裂
を生み だ し、そ の後の キサ ー ン ・サバ ー運 動 を左右 す る こ とに もな った。 ここで 問題 となるの は階級 意識 と コ ミュニ テ ィ意 識 の相克 で あ る。 これ につ いて はかつ てD・ チ ャ クラバ ルテ ィ とA・K・ バ グチの 間で 論争 があ っ た。 チ ャ クラバ ルテ イは、労 働者 の 意識 や文化 が 「ポ リテ ィカル ・エ コノ ミー 」分析 に よって還 元主義 的 に説 明 され る既 存 の方法 論 を批判 す る。 彼 は植 民地期 カル カ ッタの ジュ ー ト工場 労働 者 が、 なぜ組 織 的 な労働 運動 に 「発展 」 し得 なか ったか とい う問いか ら、彼 らの 「前資 本主 義 的な」 コ ミュ ニ テ ィ意 識、行動 様式 、社 会 関係 な どにつ いて 明 らか に した[Chakrabarty 1990]。 これ に対 してバ グチ は、 「ほ とん ど生存 の危 機 に あ った」 ジュー ト工 場 労働者 の意 識形 成 に経済 的 な要素 が考 慮 され ない の はおか しい とい う。 さ らにバ グチ は、植 民地状 況 にお け る 「宗派(コ ミュナ ル)意 識 」の 変化 ・形 成 を例 に挙 げ なが ら、チ ャク ラバ ル テ ィが植 民地 状 況 とい うもの を考慮 せず 、 また 「前資 本主 義的 」 な諸 関係 の 形成 過程 が 明 らか にされ な いの は 「非 歴史 的」で あ る と批判 した[Bagchi 1990]。 チ ャクラバ ル テ ィ は、そ もそ もなん らかの 「発展 」 や 「変 遷 」 を想 定 したマス ター ・ナ ラテ ィ ヴ 自体 を否 定 して い るので 、「形成 過程 」 は提示 で きない と反 論 した 。 また、 「コ ミュナ リズ ム」 な どの起源 を安易 に植 民 地状 況 や 「外 国 人の 手 」 に求 め て しま うバ グチ の姿 勢 に も疑 問 を呈 した。 た とえ ば炭 鉱 ・工場 ・プ ラ ン テ ー シ ョンな どで、 ヨー ロ ッパ 人経 営者 だ けな くイ ン ド人 経 営者 も圧政 的 で あ ったの は、植民 地 的 な強権 主義 と ともに植 民 地支 配 よ りも長 い歴 史 を 持 つ わ れ わ れ 自身 の 「非 民 主 的 な 」 伝 統 が あ っ た か らだ と主 張 した [Chakrabarty 1991]。 チ ャク ラバ ル テ ィの議 論 は初 期 の サバ ル タ ン研 究 グル ー プが本 質 論 的 な 「自律 性 」 を強 調 した立場 を よ くあ らわ して い る。 彼 らは植 民 地支 配下 にお け る支 配側 の イ デオ ロギー 上の ヘゲ モ ニー を認 め ず 、 そ こ にサバ ル タ ンの 自律 的 な主体 を構 築 す る こ とが可 能 だ と考 え た [Guha 1997]。 しか しそれ は、 「近代 」 と 「植 民 地主 義 」の影 響 をあ ま り に も軽 視 して い ないだ ろ うか。 本稿 はカー ス トを 「前 資本 主義 的 」 な もの で はな く、植民 地支 配 の諸 政 策や それ に被 支配民 が対 応 ・反発 す る なか で大 き く変 容 を遂 げた 「新 しい もの」 として扱 った。 そ して この カー ス トの経験 を媒 介 に して 「農 民 」 と い う一 つの 「階級 」 が形 成 され た。E・P・ トム ス ンは、 「階級 」 とは 「そ れ(it)」 とい う言葉 で表 す こ とが可能 な物体 では ない とい う。 も し階級 を 物体 と して見 よ う とす るな らば、そ れ はさ まざ まな職 業 ・所得 ・階層の 人 々
植 民 地期 イ ン ドに お ける 「農 民 」 の登 場― ビハ ール 州 キサ ー ン ・サバ ー の 系譜― の マ ル チ チ ュ ー ド と し て し か 見 え な い 。 た だ そ れ が い っ た ん 動 き始 め る と、 他 の 階 級 に対 応 し な が ら行 動 を繰 り返 し て ゆ く中 に ひ とつ の 階 級 と して 彼 らの 姿 を 見 つ け る こ とが で きる 。 だ か ら階 級 は 「そ れ 」 で は な くて 「現 在 進 行 中 の で き ご と(happening)」 な の だ とい う[Thompson 1965:365]。 1930年 代 の イ ン ドに 登 場 し た 「農 民 」 も、 ち ょ う ど こ の よ う な 「階 級 」 で あ っ た と筆 者 は 考 え る。 カ ー ス ト運 動 で の 経 験 や キ サ ー ン ・サ バ ー で の 実 際 の 活 動 が 、 様 々 な 経 済 的 階 層 や 社 会 集 団 を緩 や か な 連 帯 の 中 で 行 動 す る こ と を可 能 に し、 「キ サ ー ン」 とい う ひ とつ の 「階 級 」 た ら し め て い た 。 註 1 本 稿 で は 日本 語 の 「農 民 」、ヒンディー語の 「キサーン」、英語の'peasant'をほぼ同義語 として 用 い る。 2 この時 期、農 民 を扱 う小 説 や雑 誌 の記 事 が飛 躍 的 に増 加 した[Orsini2002:322-341]。
3 Telegram from Pallat Mahton to the Chief Secy
, Government of Bihar and Orissa (GBO), 14 Jan. 1926, 7/1926, Political (Special) Department (PS), GBO.
4 Petition from Shiamlal Gope, Huo Gope, and Bhopal Gope to Governor of Bihar and Orissa, 7/1926, PS, GBO.
5 Extract of the confidential diary of the Superintendent of Police(SP)
, Monghyr, 15 Mar. 1926; From M. J. Dixon, District Magistrate, Monghyr, D. O. 35-C, 6Mar. 1926 both in 7/1926, PS, GBO.
6 ライヤ ッ ト(Raiyat)は 耕 作 の 目的 で ザ ミー ンダー ル の下 で 土 地 を 保 有 す る 者 を 指 す 。 7 Progs 214-34
,May 1863,Judicial Deptt,west Bengal state Archives. 8 Bengal District Gazetteer
, Gaya, p.98.同 様 の 記 述 は ビハ ー ル 州 の す べ ての 県 の 地 誌(Gazetteer) で 見 ら れ る 。管 見 の 限 り、植 民 地 期 に お け る カ ース ト別 の 土 地 所 有 ・保 有 状 況 を ビハ ー ル 全 体 で 統 計 的 に 示 した 資 料 ・研 究 は な い 。サ ー ラ ン県 に つ い て はA・ ヤ ング が この 上 位 カ ース トに よ る 排 他 的 土 地 所 有 と小 作 経 営 に お け る 中 位 農 耕 カ ース トの 重 要 性 を 指 摘 し た[A .Yang 1989: 43-48]。 ま た 連 合 州 東 部 各 県 の 土 地 査 定 報 告 書 の カ ース ト別 土 地 所 有 ・保 有 統 計 も 同 じよ う な状 況 を 示 して い る[小 嶋2007:(8)]。 9 本 稿 で は 「純 粋 な 」階 級 組 織 の 意 味 合 い が 強 い 「農 民 組 合 」 とい う訳 語 は用 い な い 。
10 A report by Dheccaha Tahsildar
, L. N. Singh, 7 Aug. 1931, attached to Memo 4131, 13 Aug. 1931, 34/1931, PS, GBO.
11 Report by L. N. Singh, 9 Aug. 1931, attached to Memo 4131, 34 of1931, PS, GBO. 12 Extract of the confidential diary of SP
, Patna, Memo 2361-R, 13 Oct. 1931; Supplementary weekly confidential diary of the SP, Patna, 17 Nov. 1931, 34/1931, PS, GBO.
13 From A. P. Middleton, the Commissioner of Patna Division, to R. E. Russell, the Chief Secy, GBO, D. 0. 278-C, 10 Nov. 1934, 163/1934, PS, GBO.
14 Extract of the confidential diary of SP
15
Memo No.1031 S.B.,30 Jan.1939,28(A)/1939,PS,Government of Bihar(GB).
16
Memo No. 1174 S. B., 24 Jan. 1940, forwarded from Deputy Inspector General of Police, C.I.D., Patna, to the Chief Secy, GB, 573/1939, PS, GB.
17
From W. A. Goodbole, Commissioner of Patna Division, to Russell, D. O. 164/C, 159/1938, PS, GB.
18
Memo No. 4282 S. B., C. I. D., 6 May 1939, Translation of an intercepted letter, 3 May 1939, from Karyanand to Sahajanand, 29 (V)/1939, PS, GB.
19
From G. K. Gokhale, the Collector of Monghyr District to Russell, 6 May 1930, D. O. 280-C, 29 (V)/1939, PS, GB.
20
From M. M. Philip, the Collector of Monghyr District, to Russell, D. O. 485-C, 14 Sep. 1939, 28 (II) (B)/1939, PS, GB.
21
Fortnightly confidential report, Arrah, 11 July 1939, D. O. 959-C, S. 18, Freedom Movement Papers in Bihar (FMPB); Weekly confidential diary of the Deputy Superintendent of Police, Sasaram, 20 Aug. 1939, S. 17, FMPB; Fortnightly confidential reports, Arrah, 23 May 1939, D. O. 751-C, and 10 Oct. 1939, D. 0. 1637-C, both in S. No. 18, FMPB; Fortnightly confidential report, Arrah, 11 June, 1941, D. O. 650-C, S. No. 21, FMPB.
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植 民地 期 イ ン ドに お ける 「農 民」 の 登場 ― ビハ ー ル州 キ サ ー ン ・サバ ー の系 譜 ―
Summary
The Making of Kisan in Late Colonial India: Social Background of the
Bihar Provincial Kisan Sabha
Nobuyoshi Kojima
Keywords: Kisan Sabha, Bihar, peasant, caste
The 1930s in Indian history saw the emergence of a new category, 'Kisan', with the popularization of national movements and a vitalization of the peasant movement. This article attempts to analyze the socio-historical context of this phenomenon by concen-trating on the Kisan Sabha movement that evolved in Colonial Bihar. The most impor-tant and immediate tradition related to this movement can be traced back to social mobility movements by certain middle-ranking agricultural castes such as Yadav and Kurmi since the beginning of 20th century, whose central goals were to reconstruct their identity in order for their castes to move upwards in their social hierarchy.
Their actions, which often invited violent clashes with the opposing upper-castes, provided them with experiences of concerted assertion through an organization of caste sabha. These experiences also highlighted agrarian issues shared by many in the agricul-tural castes, and thereby made it possible for them to unite under common agrarian issues, providing them with a broader platform. Thus the Kisan Sabha movement of the 1930s in Bihar provided momentum for this phenomenon and produced a new category of Kisan, under which people from various socioeconomic origins were loosely encapsulated. Under the leadership of the Kisan Sabha, the Kisan put forward common demands and fought against large-scale landlords.
The emergence of this new category can be seen as a process of class formation. This very loosely united body of people is a product of their common experiences of inter-caste conflicts, which provide a common platform for behaving as a class while consisting of groups living in different material conditions. However, there is a strong presence of particular castes in major Kisan struggles, and they consequently took on significant roles in organizing and mobilizing people in the Kisan. Eventually, this continuity from previ-ous caste sabhas and the newly formed Kisan Sabha gradually began to undermine the loosely united class toward the 1940s, when the class of Kisan was being eroded while rifts were widening between caste lines.