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近代化産業遺産と文化的街づくり : 愛知製陶所から生まれた「芸術家横丁」とポーセリン・ミュージアム

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(1)

近代化産業遺産と文化的街づくり : 愛知製陶所か

ら生まれた「芸術家横丁」とポーセリン・ミュージ

アム

著者

十名 直喜

雑誌名

名古屋学院大学論集 社会科学篇

39

2

ページ

109-146

発行年

2002-10-31

URL

http://doi.org/10.15012/00000808

(2)

名古屋学 院大学論集 社会科 学篇 第39巻 第2号 (2002年 10月)

近代化産業遺産 と文化的街づ くり

製陶所 か ら生 まれ た「芸術 家横 丁」 とポーセ リン・ ミュー ジア ムー

目次

1.は

じめに

2.近

代化産業遺産 とまちづ くり 2.1.「 産業」の提 え方 と「産業遺産」,「産業文化」 の概念 2.2.イ ギ リスにみ る産業遺産保存の先進例 2.3.近代化産業遺産 と産業観光

3.愛

知製陶所の沿革 と工場 レイアウ ト 3.1.愛知製陶所の沿革 3.2.愛知製陶所の工場概要

4.愛

知製陶所の職場風景 と職 人像 4.1.最盛時の工場 。職場状況 4.2.各生産現場の仕事 と職 人像

5.製

陶所が育んだ愛知 ポーセ リン・ ミュー ジアム 5.1.愛知 ポーセ リン・ ミュー ジアムの沿革 と特色 5.2.愛知 ポーセ リン・ ミュー ジアムの企画展 とそ の魅力 6.「芸術家横 丁」の誕生 6.1.「 芸術家横丁」誕生の きっかけ

62.構

想か ら運営 にみる「芸術家横丁」の原点 6.3.「 芸術家横 丁 6月 祭 り」 にみ る新 たな展開

7.お

わ りに

1.

は じ め :こ 「陶都」 と呼ば才

L典

型的な単一地場産業都 市 としての装いを呈 して きた瀬戸の街か ら

,陶

磁器関連の工場が次々 と姿 を消 し

,マ

ンシ ョン な どへ変貌 してい く。1,300年の歴史 を有す る といわれ るものの

,そ

うした面影 を残す街並み は 日毎 に少な くなっている。 とくに瀬戸の近代 産業 の骨格 を成 して きた陶磁 器関連 の工場群 は

,操

業停止 に追 い込 まれ ると価値 を失 い

,手

に余 る異物 と化 し

,跡

形 もな くスクラップ化 さ れてい く。 果 た して

,工

場設備や倉庫な どはモノづ くり を停止す ると価値 を全 く失って しまうものであ ろ うか。各工場 には

,そ

れぞれの歴 史がある。 われわれの祖 父母や 父母 が

,あ

るい は近 隣の 方 々が

,職

人 として経営者 としてそこで働 いて いた。彼 らの汗 と辛苦が

,

日々の生業のぬ くも りがそ こに刻み込 まれている。 そこには また, 土練 りや原型づ くり

,絵

付か ら梱包 に至 る彼 ら の熟練・技能や経営 ノウハ ウな どが

,幾

層 に も わたって表層下 に眠 っている。われわれは

,こ

れ ら近代の瀬戸 を担 って きた産業や工場群

,作

業職場 を

,汚

い もの

,汗

や煤

,土

で よごれた塊 と捉 えがちではなか ったか。あるいは

,先

代 か らの生産 を停止 に追いや った経営上の後 ろめた さ,失 敗の産物 として,日を背 けが ちではなか っ たか。 しか し

,

これ らの苦 しい過去 。失敗 こそ, 新 しい産業

,地

域再生のための地域固有の資源 とな りうる可能性 を秘めている。 これ らを産業 文化の塊 として とらえ

,近

代化産業遺産 として 光 を当て

,地

域の活性化の文イ帥勺資産 として生 かす感性 と工夫が求め られている。 その一方では

,瀬

戸の街並みに賑わいを呼び 起 こそ うと

,行

政や市民の手で さまざまな試み がなされている。地域の活性化 を図 るうえで, そ うした行政や人 々の切実な思 いや 自主的な活 動 は貴重な資源である。 しか し

,地

域 には固有 の風土や産業

,歴

史が ある。それ らの地下水脈 と有機的に連携 し

,新

しい感性や価値観 と結び つ け

,地

域の街づ くり資産 として生かす うね り を呼び起 こした とき

,地

域の活性化 は人々を深 部か ら揺 り動か し励 ます もの となる。 そ うした創意的な試みの一つのモデル として 愛知製陶所の工場(図

1, 2)を

舞台 とした「芸

(3)

名古屋学院大学論 集 移 ノ ″

>

道 路 修 静 図

1

愛知製陶所 の レイア ウ ト

(1階

) 移 静 磁 石 原 料 置 場 榛 駐 車 場 ″ X ヽ メ / 図

2

愛知製陶所 の レイア ウ ト

(2階

)

-110-ト イ レ 白 素 地 置 場 ス ボ ン ペ 置 場 窯場 窯詰作業室 絵付作業室 出 荷 作 業 室 仕 上 作 業 場 流 込 作 業 場 素 焼 室 自 素 地 置 場 ケ ー ス型置場 ︱ ∃ ﹁ 湘 ﹁ 錮 社長室 菫嶋彫室 土 練 室 脚 ホセ│) ュージア

(4)

近代化産業遺産 と文化的街づ くり 道 路 移 ″ ″ ノ`

静 警 ス タ ッ フ 駐 車 場 駐 車 場 図

3

芸術家横 丁の レイアウ ト

(1階

) │

_」

″ X ヽ マ / 図

4

芸術 家横 丁の レイア ウ ト

(2階

) ャ イ ナ ベ イ 大 イベ ン ト場 1警 ルチャー 愛 知 フ ァ ク ト リ ー シ ョ ッ ︵展 示 即 一冗 店 ︶ 集ぃの広 場 陶 芸 工 房 ヤ イ ナ ヶ_ス型置場

(5)

名古屋学院大学論集 術家横丁」の活動があげ られ る。愛知製陶所 は, 数百年以上の歴史 をもつ老舗窯屋で

,製

,製

陶か ら絵付

,梱

包 に至 る一貫製造メーカーであ り

,西

洋 ア ンテ ィーク磁器 を生産 し輸 出 して き た。西洋アンテ ィーク・ ミュージアムをもつ同 社 は

,2001年

10月 31日 で貿易 を停止(すなわ ち自素地の生産 を停止

)し

た。その広大 な工場 の一角が図

3, 4に

み るように

,わ

ずか半年で 「芸術家横丁」 に見事 に変身 し

,新

しい型の文 イ麒勺交流の場 となっている。社長夫妻の長年の 思 い と多 くの有能なボランテ ィアや芸術家たち の創意的エネルギーが結びついた賜物 といえよ う。数十年の風雪に耐 えた工場の各設備の醸 し 出す深 く重厚 な雰囲気が

,新

しい感性 と工夫の 光 と結合 し

,独

特 のハーモニー を奏でている。 小論 は

,瀬

戸 に生れた産業再生

,地

域活性化 の新 しい試み とうね りがは らむ歴 史的プ ロセス に注 目し

,近

代化産業遺産 を地域再生 に活かす 視点か らまとめた ものである。

2.近

代化 産 業遺産 と まちづ くり 2.1。 「産業」の捉え方と「産業遺産」,「産業文化」 の概念 「世界の工場」 と呼ばれ「モノづ くり大国」 といわれてきた日本の各地域で

,モ

ノづ くりの 現場である工場がスクラップ化 され次々と姿を 消 しつつある。産業の空洞化が進むなか

,地

域 産業の再生 を図 る試み も各地で動 き出 してい る。地域の資源を見直 し

,新

事業の創造をめざ す知的・文化的インフラの整備などとも結び付 けて

,地

域 に特色ある産業 を集積 させ 多様 な ネットワークをつ くりだす試みな どもみ られ る。産業遺産を活用 した地域再生の試み も

,そ

うした動 きの中に位置づけられる。 「産業遺産 とは何か」については,「産業 とは 何か」 という本質的な問題 と深 くかかわってお り

,ま

たその国の産業発展の歴史的プロセスに 影響 されるところが少な くない。「産業」とは, 人間の社会生活全体 を維持・発展させ るために 必要な財貨・サービスを生産するための活動で あり

,農

オ村魚業から製造業

,鉱

,さ

らには芸 術 。文化的な分野に至るまで

,す

べての経済活 動が含 まれる叱 それでは,「遺産」とは何かが 次に問われて くる。「遺産」というと

,

日本では 「残 されたもの」 とのニュアンスが強いが

,英

語の

Heritageに

は「後の世代に伝えるもの」の 意味合いが強 く

,次

世代や未来へ向けた捉え方 をしている(2)。 「産業)貴産」(Industrial heritage)と いう1場 合

,後

者の

Heritageの

視点が重要なポイン ト となる。「産業遺産」とは

,産

業にかかわる諸活 動を支え担ってきた人々の働 き様

,生

き様であ り

,そ

こで築かれたノウハウ

,生

活文化の歴史 的蓄積である(3)。「その国の

,そ

の時代 を担った 人々の生活文化 と知恵の結晶(4)」 と捉 えること もできる。 そうした産業にかかわる人々が職場や生活の 場で織 りなす働 き様や生 き様

,そ

こで築かれた ノウハウや生活文化の総体が,「産業文イロであ る。産業は

,モ

ノやサービスの生産 。供給機能 だけでな く

,そ

こで培われた多様なノウハウ 。 文化の塊でもある。後者の側面に着 目するのが, 「産業文イロ である(5)。 日本ではこれまで ,「産 業文イロ という概念は注 目されず市民権 を得て おらず,「産業遺産は文化である」という認識 も 定着 していなぃ(6)。 しか し,産 業の空洞化に伴っ て産業遺産の散逸が進行するなか

,地

域経済の 再生 を図るうえで不可欠な固有の地域資産 とし て再言刊面し活か してい くには,「産業遺産」や「産 業文イロ という概念や視点が

,重

要性 を増 し不 可欠 となってきている。

(6)

近代化産業遺産 と文化 的街づ くり

2.2.イ

ギ リスにみ る産業遺産保存の先進例 ヨーロッパ各地では

,1980年

以降

,中

心市街 地の製造業跡地 (工場や倉庫な ど

)を

地域 おこ しの インキュベータ として活用す る試みが行わ れて きた。 その先駆 をな したのは

,イ

ギ リスに おける産業遺産 を中心 とす る産業文化保存の運 動である。 産業革命の発祥の地

,イ

ギ リスにおいて も産 業遺産保存の歴 史は

,決

して長 くはない。最 も 早 い保存の動 きは1930年に遡 り

,本

格 的 に火 がつ いたの は1960年代 の こ とで

,ロ

ン ドンに ある鉄道時代のシンポル,「ユース トンアーチ」 の破壊が産業遺産 を見直す草の根保存運動の引 き金 となった。 さらに

,産

業文化 に価値 を見 い だ し始めたのは

,荒

廃 した地方都市 を活│'生化す るための再開発プ ロジェク トが始 まったの と機 を一 にす る(7)。 1999年 9月 か ら1年間の イギ リス留学 中,筆 者 はアイア ンブ リッジ渓谷博物館や シェフ ィー ル ドのケーラム・アイラン ド産業博物館,ス トー ク・ オ ン・ トレン トのグラ ッ ドス トー ン陶器博 物館 な ど産業遺産保存の実例 を見学す る機会 に 恵 まれた(3)。 アイアンプ リッジ渓谷博物館 「産業遺産 を見 るなら

,ア

イア ンブ リッジ渓 谷博物館」 といわれ る。その産業遺産のすば ら しさ もさることなが ら

,産

業;貴産 を生か した文 化都市構想が魅力的である。 ビジ ョンづ くりに 10年間 もかけたが,さ びれ朽 ち果 てていた コー ルブル ックデールの谷が

,1960年

代 に世界有数 の文化・観光の街 として甦 っていった経緯 は, 瀬戸な ど多 くの磁場産業都市 に示唆 と勇気 を与 える。 さびれた とはいえコールブル ックデール には

,産

業遺 産 が破 壊 されず に残 り多 くの ス トー リーが眠 っていた。 コールブル ック社が小 さいなが らも

,そ

れ らを伝 える小 さな博物館 を 運営 していた。そ うした火種が

,文

化戦略 を軸 とす る経済再活性化 ビジ ョンと結びつ き花開 く のである。 アイア ンブ リッジ渓谷博物館 は

,同

渓谷に広 が る各種博物館

,史

,観

光名所のマルチサイ トな集合体 である。ナ シ ョナル・ モニ ュメン ト としての溶鉱炉 と世界最初の鉄橋 を中心 に産業 革命期の生活 。作業様式 と一体 となって復元 さ れてい る。「ブ リスツヒル野外博物館」でヴ ィク トリア時代の衣装を見 にまとい

,当

時の活動 を デモ ンス トレー シ ョンす るスタ ッフのほ とん ど は

,ボ

ランテ ィアである。常時

,200人

のスタッ フ

,150人

の ボランテ ィアが働 き,展示物 を媒介 に して来訪者 とのふれあいや コミュニケーシ ョ ンを重視す る新 しい博物館のあ り方が追求 され てい る。 ケーラム・ アイラン ド産業博物館 ベ ッセマー転炉の発祥の地で

,鋼

の町 として 発展 したシェフ ィール ドには

,ケ

ー ラム・アイ ラン ド産業博物館がある。巨大蒸気機関車は,

1時

間 ご とに運転 されて人気 を集め

,

日玉展示 物の一つ になっている。各工房では

,専

門の職 人による鋼製品づ くりの実演が定期的に行われ 彼 らの技 に見入 る人 も少な くない。 グラッ ドス トー ン陶器博物館 英 国陶磁器のメ ッカ といわれ るス トーク・ オ ン・ トレン トにあるグラッ ドス トー ン陶器博物 館 は

,昔

なが らの工業風景 を動態展示 した もの である。1971年に同陶磁器工場の解体が持ち上 が った ときに,保存 を望む市民の運動が高 ま り, 工場 を博物館 として保存す ることになった。同 博物館の シンボル に もなっているポ トルオーブ ンは

,

日本に最初 に初回された石炭窯である。 1950年代 には

2千

個 あった ものが

,ガ

ス 。電気 への転換が進むなか1970年代 には数十個 に減 り

,現

在 では貴重な遺産 となってい る。展示室

(7)

名古屋学院大学論 集 には

,陶

工 たちの過酷な労働環境や健康状態 を 伝 える資料

,

まさに「陶工哀史」が展示 されて いた。 イギ リスか ら何 を学ぶか イギ リスの産業遺産保存の歴 史か ら学ぶ点 は 少 な くない。一つは

,発

明家や貴族の もた らし た光の部分だけでな く

,労

働者の過酷 な労働環 境や生活 な どに も目を向け

,そ

うした影の部分 を も客観的かつ リアル に次世代 に伝 えている点 である。 二つ は

,産

業遺産 を支 える人材や管理・ 運営 の仕組み,貝な原確保の知恵 。戦略

,税

制 な どに み る先進的 な保存の システムや ノウハ ウで あ る。保存の動 きが市民 レベルで興 って きたイギ リスでは,開 発後,ほ とん どが非営利団体 によっ て管理・運営 され

,独

立採算 を目指 している。 保存 にかかわ る人材の層 は厚 く

,地

元の大学 と 提携 し

,産

業遺産保存のための「人づ くり」 ま で手がけている例 (アイア ンプ リッジ

)も

み ら れ る。開発の財源 は豊かで

,税

制面で も様 々な 優遇措置が ある。サ ッチャー政権以降における 行財政改革の嵐のなかで も,工夫 を しなが ら「生 涯教 育 としての産業遺産」 を守 っていった過程 な ど

,参

考 にすべ き点が多い(9)。

2.3.近

代化産業遺産 と産業観光 欧米 で産業遺産の研究が始 まったの は

,基

幹 産業であった重工業の凋落後であ り

,主

要各国 の政府 は産業遺産 を「産業革命以降の工業 中心 の近代化遺産」のなかで提 える傾向が強い。 一方

,

日本では,「 文化遺産」として大切 にさ れてい るものは

,前

近代的な もの

,非

工業的な ものが多 く,「生 きるために生産する」ことの社 会的地位が相 対的に低い。産業文化への国民の 関心が極めて低 く

,産

業技術は市民にとって, 「お金を儲 けるための道具」にすぎず「何か卑 しい」イメージす らある。「お金を儲けな くなっ た」過去の産業は

,環

境問題が厳 しさを増すな か,「価値がな く使い道のない廃棄物」とみなさ れかねない。こうして,日本では,現 在をつ くっ てきた過酷な近代の歴史に真正面から向き合 う 機会を失い

,身

近な祖父母の時代は「空自の時 代」 として分断 され

,語

り継がれ議論 されるこ とも少なかった(1°)。 それ故,「近代化遺産」に目 を向け調べ ることは

,近

代 日本の再発見で もあ る(11)。 「近代化遺産」が「文イ」オ」の範疇に入った ことにより,「文イ観オ」のあり方に大 きな変化 を もたらした。「文イ麒オ」概念は大 きく拡大 し

,文

イ観オ行政は保存・保護主義から利用活用の方向 へ,言刊面視点 も国家 。国土的観点から地域的な 視点へ とシフ トしている。 「近代化遺産」には

,産

業遺産をは じめ土木 遺産や建築遺産などがあり多様であるが

,そ

の 中心に広義の産業遺産がある。これまで議論 じ てきた産業遺産については

,産

業革命期以降の 近代の ものをベースに してお り

,

より正確には 「近代化産業遺産」 と表現することができる。 近代化産業遺産は,「その地域の

,近

代を担った 人々の労働 。生活文化 と知恵の結晶」であり, 地域固有の資源であ り資産である。 それらは,企業の経営破綻や工場閉鎖など「汗 を流 し

,苦

労 したけれど

,報

われなかった」 と いう失敗や苦 しい過去が詰 まった もので もあ る(12)。 しか し

,そ

の失敗 と苦労のなかにこそ , 様々なノウハウや叡智

,文

化が眠っている。「個 人の獲得する知識の質 と量は

,失

敗経験で決 ま る(13)」 とぃわれる。それは

,地

域や組織の次元 で も同様である。苦 しい過去に向き合い

,そ

こ から叡智を汲み出 し,新しい時代に合った定式, シナ リオをつ くってい く。近代化産業遺産は, 新 しい産業へのインキュベータとなる可能性 を

(8)

近代化産業遺 産 と文化 的街づ くり 秘めてお り

,地

域の資源・資産 と捉え積極的に 活かすことが求 め られている。 歴史や地域文化を物語る近代化産業遺産を観 光資源 として生かすには

,新

しい観光理念やコ ンセプ トが求 められる。「観光」とは

,中

国の古 典 『易経』にある「観国之光」に由来する言葉 で

,そ

の地域のよさを他地域の人にみせ ること によって

,相

互 に交流を図ることを意味する。 この「観光」の原点に立脚 した「産業観光」の 新 しいコンセプ トが注目される(14)。 それ らをふ まえて,「産業観光」を次の ように定義 したい。 「産業観光」とは

,産

業遺産をはじめ とする「産 業文イ麒オ」を「地域の光 (特色)」 として捉え, それ らに関する情報・ス トー リーを広 く発信す ることにより

,内

外の人々の関心・興味を呼び 起 こし

,交

流・啓発を促す活動である。さらに, それによって人々が

,地

域の産業文化に接 し, 触れ合い

,眺

,理

解を深め

,非

日常の体験や 交流 を通 して人生 をより豊かなものにし

,さ

ら には新 しい産業文化の芽を育てる活動である。

3.愛

知製 陶所 の沿革 と工場 レイア ウ ト

3.1.愛

知製陶所の沿革 愛知製陶所 は

,瀬

戸市内の下陣屋町 にある会 社 で

,欧

米輸 出向 けに西洋 ア ンテ ィーク磁器 を 製造販売 して きた。創業 は江戸時代以前 にさか のぼ る老舗窯屋で,「瀬戸の陶祖」加藤景政 を先 祖 に もち

,現

当主 の加藤高康 氏 は

29代

目にあ た るとのことである(15)。 近世では

,瀬

戸の経塚 山で窯業 を営んでいた孫兵衛景政の次男

,佐

次 右衛間が

,1662(寛

2)年

に北鳴背戸側の瀧 澤 に移転 して窯 を築いたのが

,始

ま りと言われ ている(16)。 新製染付磁器 を始めたのは

,初

代五平の時で あ る。

2代

目五平 は

,1822(文

5)年

に尾張 藩 より

,本

業窯か ら新製磁器 に全面的 に転業す る藩許 を得ている。

5代

目の加藤五平 (∼1909 年

)は

染付食器 を製造 し

,輸

出に力を入れた。 貿易第1号は 1886(明 治 19)年 で

,こ

の年 は国 内 が 不 況 で 販 路 開 拓 の た め 輸 出 に 乗 り出 す(17)。 1899(明 治32)年

,陶

巧合資会社 を設立

,専

ら輸 出品の製造にあたった(18)。 工場の建設・増築 加藤高康社長の祖父 にあた る

6代

加藤五 平 (1890∼1959年)は

,1906年

に父の経営す る陶 巧合資会社 に入社 し

,製

型 に従事 し輸 出品の原 型づ くりにたず さわ る。1909年には家督 を相続 して

6代

目五平 を襲名 し

,西

谷古狭間山に工場 を建 て磁器お よび陶器の製造 を行 う(19)。 1915, 17年には相次いで工場 を増築(各々

2階

,丸

窯増築

)し

た(20)。

1926,7年

開催の商工省工芸 品展覧会 に出品入賞す るな ど多 くの入賞 を果 た し

,1928年

に 日陶連 (日本陶磁器連合会

)が

設 立 され るとその専務理事 に

,34年

には理事長に 就任 した。1931年に第

2工

場 を建設 し

,石

炭窯 を設置 して輸 出品の製造にあてる(21)。 最盛期の経営 を担 う加藤恒夫 (先代社長) 社長の父

,加

藤恒夫 は

,1938年

6代

五平か ら有 限会社愛知製陶所 を引 き継 ぎ

,以

来 1980 年 に社 長交代す るまで

42年

間 にわた り

,最

盛 期 の愛知製陶所 を担 って きた。第二次大戦 中に 中国で

,手

槽弾 にあた り足 を負傷す る。1948年 には有 限会社か ら帥愛知製陶所 にな り

,欧

米輸 出を再 開す る。連合軍の 占領下 にあった当時の 輸 出品には,「 オキュパ イ ド・ジャパ ン」 とい う 刻印が1甲されていた。愛知製陶所 に働 いた職人 たちは

,先

代社長 を懐 か しむ。「社員 と一緒 にど ろ どろになって働 いていたので

,誰

が社長か一 日では判 らなか った」。「ワンマ ンではあったが,

何でもよくご存知で

,よ

く教えてもらった」

「品

物がものを言っているが

,お

,わ

かるか

?」

(9)

名古屋学院大学論集 と聞かれたこともあるという。 西洋 ア ンテ ィーク磁 器 に特化 す る加藤 高康 (現社長) 西洋ア ンテ ィーク製品に特化 したのは

,加

藤 高康社長の時代(1980年∼)で ある。ア ンテ ィー ク・ デ ィーラーやギフ トシ ョップのバ イヤーか らは,「18∼

19世

紀の もの を復刻 して谷大しい」と 要請 され

,メ

トロポ リタン

,ス

ミソニア ン

,ウ

イ ンター ツアー・ ミュー ジアムなど米国の ビッ グ・ ミュー ジアムか ら

Reproductionの

引 き合 いがあった という。 主要な輸入業者(イ ンポーター)に は

,ニ

ュー

オー リンズに本社のある

United China and

Glass Cornpany φやCharis Sadek lrnporting ([)olnpany,Ardalt lnlporting Cornpany,Ar_ nart IInporting Conlpany,Ignaz Straus and

Company,A.A.Importing Companyな

どが あげ られ る。 インポーター との契約取引には, 日本の第二者 (船積会社や 中小の専門商社

)を

入れ るように した。「手数料 は高 くない し

,第

二 者 を介在 させ てお く方が

,荷

物や お金が関係す る取引ではクッシ ョンがで き交渉 し易い」 との こ とである。 加藤高康社長は,1964∼

66年

2年

,米

国 に留学 した。留学先は途中で

,サ

ンフランシス コ州立大学 か らフ レズ ノ州立大学 に変 えてい る。留学 中には

,ク

リスマス体暇 など上辟交的長 い休暇 中を利用 して

,取

引先のイ ンポーター を 表敬訪問 して回った と言 う。 日本か らの若造が わ ざわざや って来た 。

/

とい うことで

,食

事 を おごって くれた り泊めて くれ るなど歓待 して く れ るインポー ターが多かった。留学時代 に築い たそ う した関係 や一宿一飯 の恩義 が

,帰

国後 ず っ と役 に立 った とのことである。若造の時 に 世話 を してや った し

,よ

く知 っているとい うこ とで

,先

方 も「こうい うもの を作 って くれ」 と 気安 く頼んで くる。先方の代が変わっても

,そ

の息子たちとも親 しく付 き合 うことができた。 「最後 までお付 き合いできたの も

,結

局はそう いう人たちで した」。 輸出

100%を

続けてきたが,円 高が職:く なか, ついに

2001年

10月 31日 には貿易を止め上絵 付部門のみ残 して素地生産の停止に踏み切 る。 最近では中国に押 され

,採

算が合わな くなって いたからである。「中国品では物足 りな く,ど う して もうちの商品 を欲 しい」 とい うインポー ターに支 えられて今 日までやって きた。イ ン ポーターは

,1995年

頃 までは欧州 も少な くな かったが

,近

年ではほとんどは米国である。「先 代か らの付 き合いなど

,い

いインポーターに恵 まれました。1960年 代から続いていたお客で, 先方 も

60歳

前後になっていました。こちらか ら

,そ

ろそろ生産仕舞いをしたいと申 し述べ ま した」。加藤高康社長 と二人三脚でやってこられ た奥様 (加藤富子さん

)の ,

しみ じみ とした述 懐である。貿易を止めて半年以上過 ぎた今 も, 「こういうものをつ くって くれ」 という注文が 舞い込むという。 事務所などには当社でつ くられた各種(食器, 人形

,動

物など

)の

西洋アンティーク磁器が所 狭 しと立ち並ぶ。ラベル (製品名

)が

付いてい るのは

,愛

知県陶磁資料館で展示 され返却 され たものである。

3.2.愛

知製陶所の工場概要 陶磁器の製造は

,原

料づ くりから製品出荷 ま でを一貫 して行おうとすると

,大

規模な工場が 必要 とな り

,小

資本では難 しい。瀬戸では製造 工程の分業が発達 し

,土

を専門 とする「土屋」, 製陶業者から型や土を与えられて素地 をつ くっ ている「素地屋 (生地屋)(22)」

,絵

付を専門 とす る「絵付屋」などがあ り

,市

内の陶磁器工場の

(10)

近代化産業遺産 と文化的街づ くり 大部分 はこの発達 した分業 を利用 して きた。 こ う した中で

,愛

知製陶所 は図

1, 2に

み るよう に

,約

2千

坪 の敷地 に製土か ら製陶

,焼

,絵

,製

品出荷に至 る一貫製造工程 を有 し

,2001

年 10月 末 まで稼動 していた。分業 の 多い瀬 戸 では, こうした一貫工場 は少な く

,現

在 もその 姿 を残 してい るの はほ とん どな くなってお り, 近代の瀬戸 を担 って きた産業遺産 として も貴重 な ものがある。 愛知製陶所の工場群 (図

1, 2)は

東西 に伸 び

,東

か ら西に作業が流れ るレイアウ トになっ てい る。東か ら西方向に向けて磁石原料置場, 製土作業場

,鋳

込(流込)。仕上作業場

,素

焼 室, 施釉作業場

,本

焼成作業場(窯場

,窯

詰作業場), 自素地置場

,転

写貼作業室

,絵

付作業室

,吹

付 室

,変

電室

,絵

付作業室,_上 絵付窯

,出

荷梱包 作業場

,事

務所が立 ち並んでいる。 愛知製陶所の東端 に位置す る磁石原料置場 に は

,現

在(2002年6月 29日)もなお

,イ

ン ドの 石英

,益

田の長石

,大

草の陶石

,藤

岡 (瀬戸) の蛙 日粘上

,朝

鮮 カオ リン

,フ

ランスの玉石の 各小 山が残 ってい る。 フランス玉石 は黒曜石 の 一種で非常に硬 いが

,残

されたフランス玉石の 小 山は

,使

い古 されて角が磨 り減 り丸 くなった ものばか りである。 1階お よび地下

2階

か ら成 る製土工場が

,磁

石原料置場の西隣 にある。製土工場の1階北東 端 に,大 き目の石 を砕 くクラ ッシャーが ある(図 5)。 クラッシャーの傍 に残 された「1982.10. 1の 調合」表 と記 された板が日に留 まった。「土」 の配合銘柄 として中部陶石

,伊

西陶石

,

日陶陶 石

,益

田長石

,印

度長石

,サ

,カ

オ リン,「釉 薬」原料の配合銘柄には焼カオ リン

,生

カオ リ ン

,混

合長石

,種

,タ

ルク

,釜

山長石が表示 されていた。地下の東側には図 6に みるように, 大 きな トロンメル(回転師

)4基

が並んでいる。 2ト ン製が

2基,1.5ト

ン製が

2基

ある。トロン メルのなかに陶磁器原料 とフランス玉石を入れ 回転 させなが ら

,硬

いフランス玉石で原料 を磨 り潰すのである。トロンメルに入れるフランス 図

5

製上工場 の クラ ツンヤ

のfit石作業 注:中村儀朋 さんが撮影 (2002年 2月 2511)した もの。

(11)

名古屋学 院大学論 集 図

6

製土 工場 の地 下1階にあ る トロンメル 注:加藤高康社長が撮影 したものである。 」 ご

玉石の量 は

,陶

磁器原料 よりも多い。

48時

間稼 動 させ て磨 り潰 しが完 了す る。 磨 り潰 された磁 Lは

,地

下1階の中央に位置 す る精製機で鉄粉などの各種 不純分 を除去 した 後

,地

2階

の貯泥槽 に入れ る。貯泥槽 は

4基

あ り

,各

トロンメル に対応 している。

1階

南側 中央寄 りに

,白

い帆布の ぎっ しりと並んだフ ィ ル タープ レスがある。地 下

2階

の貯泥槽か らパ イプで送 られて きた泥状の原料 を

,フ

ィル ター プ レスで脱水 させ る。水分だけ帆布 を通 して流 し,残 った粒子 を煎餅型の粘土プ レー トに して, ベル トコンベアで

1階

の貯泥槽 に送 りこむ。貯 泥槽では

,化

学調味料 を加 えて練 り直 し泥 に還 元 して

,地

下の タ ンクに入れ

,攪

拌 しなが ら気 泡 を抜 き 2日 間寝かす。「寝か し」は原料 を安定 した性状 に熟成 させ ることであ り

,熟

成期間は 重要な意味 をもつ。 製陶工場 は

,鋳

込・仕 L作業場

,乾

燥室

,素

焼 室

,施

釉作業場か ら成 っている。鋳込 。仕上 作業場 は

,製

上工場の西側 に隣接 している。製 上li場の地下 タンクか ら泥状 の原料 をパ イフ° で

,鋳

込 。仕上作業場の

2階

に送 り込み寝かす。 1∫liでは

, 2階

か らパイプで送 られて きた泥奨 で型 を使 って鋳込 をす る。泥奨の残 りは,1り‖尼 されて地下 に下 り

,地

下の タンクか ら製土工場 の地下 タンクに戻 され

,原

料 として再利用 され る。 施釉場 の北側 に位置す るのが本焼成作業工場 で

,窯

場 と窯詰・窯出作業場か らな り

,現

在 は 窯場 の西寄 りに

4m3の

ガス窯(シャ トル窯

)が

2基

ある(図7)。 このガス窯は1979年 7月 10 日に設置 された ものである。その東側 に トンネ ル窯の跡が約

40mに

わたって残 っている。 こ の トン不ル窯は

,1968年

12月 3日 に設置 され た もので

,11年

間 にわたって稼動 した後

,シ

ャ トル窯に置 き換 えられた。それぞれの設置時期 につ いて は

,現

社 長 の記憶 で も曖 味 にな りか かっていたが

,彼

の指 さすコンク リー ト床 に設 置年月 日がハ ッキ リと刻 まれていた。 本焼 成作業 工場 と白素地 置場 の西側 には,

(12)

近代化産業遺産 と文化 的街づ く│) 図

7

本焼 成工場 の窯場 一 シャ トル 窯2基と トンネル窯跡一 出所:堀 正雄・祐紀子 『写真手控中占 愛知製陶所 2001年秋の記憶』 1970年に鉄骨造 りに変わった絵付 工場がある。 絵付作業室の北側 には転写貼作業室

,吹

付室, 変電室

,絵

付焼 成室が並んでいる。 絵付焼成室 には

,九

形電気窯

2基

と角形電気 窯

3基

がある(愛知製陶所内では

,そ

れぞれ「丸 窯」,「 角窯」と呼んでい る)。 九形電気窯 は

,中

心部 にニクロム線の巻かれた中心棒があって上 下 に昇降可能 になってお り

,上

か らもの を入れ て下部か ら積み上 げてい く。縦 に深 いか ら入れ に くく

,

また丸いために棚つ くりも難 しい。作 業が大変で量 もこな しに くいが

,中

心 に電気が 通 るため均等 に焼 けて焼 きむ らが出ない とい う 品質上の利点がある。一方

,角

形電気窯は もの を入れやす く量産がで きるが

,中

心部がす尭けに くく焼 きむ らが出やすい。かつては丸形電気窯 が主流であった。絵付職 人の中島孝俊 さんによ ると

,戦

前 に彼が勤めていた名古屋陶器製造所 で は大正時代か ら昭和10年代 にかけて丸形 電 気窯が8台ほ どあ リフル稼働 していた とい う。 その後

,角

形電気窯に置 き換わ り

,瀬

戸では丸 ナ 「′電気窯はほとんど姿を消 して しまう。愛知製 陶所で丸形電気窯が残っているのは,「焼 きむ ら のない良い ものをつ くるために必要だったか ら」(加藤高康社長

)と

のことである。

4.愛

知製陶所 の職 場風 景 と職 人像

4.1.最

盛時の工場 。職場状況

4.1.1.生

活状況・ 勤務形態 寮 。社 宅 会社 には寮や社宅が あ り

,最

盛期 の昭和 30 年代 には

300人

も働 いていた。九州か ら中卒の 新 人が瀬戸 に集団就職 でや って きて

,愛

知製陶 所 で も常時 30∼

60人

は ど働 いていた。工場 の 北側 には男子寮が あって,20∼

30人

の男子従業 員が住んでいた。南側 には女子寮が あ り 20∼ 30 人の 女子従業員が常時住み込み

,数

家族が住む 社宅 もあった。加藤高康 さんが社長 になる 1980 年頃には,従業員が 120∼130人 ,売上高は約3 億

5千

万 円になっていた。

(13)

名古屋学 院大学論集 図

8

停止 した まま時 を刻 む愛知製陶所の製土工場 出所:堀 正雄・祐紀子『写真手控中占 愛知製陶所 2001年夏の記憶』 製土室は図 8に みるように

,昨

年に停止 した ままの姿で作んでお り

,時

間が止 まって しまっ たかの如 き様相 を留めている。地下 1階 の トロ ンメル (図

6)の

歯車を見て

,板

金屋の父をも つ堀田真澄 さんは「この歯車を父がつ くってい たの/」 と目を輝かす。 また

,彼

女のご主人の 父は

,陶

磁器屋の番頭で梱包職人であった。商 品力漕llれないように,藁縄で括っていたという。 工場の空 き地や片隅などでか くれんぼをして遊 んでいた。陶磁器の街 として生 きてきた過去の モノづ くり現場が

,父

母や祖父母たちの生活の 場が

,こ

こでは くっきりと見えるのが魅力的で ある。 工場での勤務形態 昭和

30年

代が一番忙 しかった。中島孝俊 さ ん と加藤成良さんによると,「間に合わないと徹 夜作業をよくやった」。輸出の場合,「どの船 にい くら積め」 という積み切l)となる。それに間に 合 うように,「いつ までに見本を出せ」と来る。 「社長がやかましく

,

日曜 日もなかった」 とい つ 。 通常は,月 に2回

,1日

と 16日 が休みであっ た。始業 はほ とん どが朝

8時

である。中島さん の職場 (長江陶器

)で

は終業の定時は

21時

で, その後は徹夜 となることも少な くなかった。加 藤 さん (愛知製陶所

)の

場合

,始

業 は

8時

,終

業 は

19時

であ り

,昼

休 みは

12時

∼12時

40分

までの

40分

間であ る。途中

,10,15時

10分

間の休憩がある。残業 となると

22時

まで とい うのが多かった。最盛期 の頃

,同

社の絵付け職 場 に

25入

以上 は働 いていた。流れ作業 なので, 自分 だけ先には帰 りに くい。一人いな くなると 作業が滞 り能率 も上 が らな くな るか らである。 休 憩時 には

,外

で 日向ぼっこを している光景 も あれば

,板

間で寝 そべ っている一 こまも見 られ た。また,「工場の空地で

,バ

レーボール をよ く や っていた」(加藤成良

)と

の こ とである。

(14)

近代化産業遺産 と文化 的街づ くり 4。 1。

2.写

真・ ビデオが語る最盛時の職場風景 8ミ リカメラが捉えた

63年

当時の作業風景 1963年 当時の

,38年

も前の愛知製陶所の姿, 工場内の作業風景が

,ビ

デオになっている。白 黒ではあるが

,当

時の状況力錮央像 として記録 さ れている。絵付職人であった加藤成良さん (63 歳

)が

8ミ リカメラに撮 り自ら編集 した貴重な 記録である。加藤さんは写真撮影が好 きで

,昭

30年

代の愛知製陶所の工場内作業風景 を克 明に写真に納めている。「先代社長から『撮 って お くように』 とよく言われた」 とのことで

,仕

事中も大っぴ らに職場風景 をカメラに撮 った り していた。「工場 を作 り直 した ときも全部撮 っ た」 とのことで

,そ

れらは未整理のままになっ ているものが`多いという。 幸いにもそれらの一部が

,加

藤 さんの手でビ デオに編集されていて

,当

時の工場風景を物語 る貴重な資料

,生

き証人になっている。「芸術家 横丁6月祭 り」(6月 16日

)で

はテレビ画面に 放映 され

,椅

子に座 って興味深 く映像に見入る 見学者が少な くなかった。「このビデオをじっ く りと見たい./ 撮影者の加藤 さんや関係者の 方 々か ら当時のエ ピソー ドを詳 しく聞いてみた い/」。その思 いが

2週

間余後 に実現 した。7月 3日

,加

藤成良 さん と広瀬 勇男 さん (76歳

)の

お二 人か ら

,愛

知製陶所の工場の

2階

で約

1時

間半

,テ

レビ画面 を見入 りつつお話 を伺 った。 絵付職場の作業風景 絵付工場の板場 には

,1963年

当時の絵付職場 を撮 った写真

8枚

が拡大 されて張 ってある。当 時の絵付工場 は今 よ りも西側 で

,現

在 の事務所 があるところに位置 していたが

,1970年

に現在 地 に移動 し

,骨

組み を全部鉄骨 に改築 した。 ス トーブが焚かれている冬の絵付職場

,そ

れ ぞれ花瓶や灰皿,半 月皿の絵付作業風景である。 写真 (図

9)や

ビデオには

,学

生帽 をかぶ って い る15∼16歳の若者や

,セ

ー ラー服 を着 た若 い女性 もみ られ る。彼 らは

,集

団就職 で九州 か らや って きて間 もない若者たちである。絵付職 場 では家族 ぐるみで働 く姿 も映 ってい る。「 これ は母 と娘

,こ

ち らは親父 と息子

,向

こうは親父 と兄弟の

3人

連れ」 と加藤成良 さんが言えば, 広瀬 さんがそれに領 く。 絵付の責任者 はいたが

,肩

書 きは付 いていな 図

9 1963年

の 愛 知 製 陶所 にみ る絵 付 作 業 の 光 景 注 :加 藤成良 さんが1963年に撮影 した もの。 左側 の写真 には学生帽 をかぶ った若者,セーラー服姿の若 い女性 がみ られ る。右側の写 真で女性 グループの作業 を立って覗 いている男性 は

,絵

付作業の責任者。

(15)

かった。絵付作業は図

9に

み るように

,グ

ルー プでや るこ とが多 く

, 4人

1組

とか

2人 1組

で や っていた。二人一組の場合

,一

方が線 を描 く と他方 は縁線 を描 くといった具合 で作業 が進 む。加藤成良 さんのお じさんが見本 を描 いてい る一 こまも見 られた。 まずバ イヤーか らの注文 を基 に具体的に見本 として手描 き表現 し

,そ

れ をバ イヤーにみせ る。バ イヤーが

OKを

だす と ゴム製の判子にす る。 各工場 での作業風景 鋳込んだ後工程の仕上 げでは

,花

瓶 に手の部 分 を付 けていた。素焼窯は本焼窯に比べ ると小 さ く

,600∼

800℃ で焼 く。素焼 品に釉薬 を塗 る 作業では

,釉

薬 の入 ったタンクに品物 を ドブー ンと浸 けているシー ン(図

10)が

見 られ る。施 釉の後

,品

物のお尻

(=底

)の

部分 をきれいに 拭き取 るシー ン(図 11)も 出て くる。釉薬が品 物の底 につ いた まま焼 くと

,ひ

っついて しまう ので底 についた釉薬 を拭 き取 るという。大 きい 品物 は上の棚 に

,小

さい ものは下の棚 に積 んで い く。1,350度に達す る本焼窯では,窯 職 人が6 尺 の細長 いモ ロ板の上 に

,約

20個

の品物 を水 平 に載せ て運 んでい る。品物 を載せ て重 くなっ たモロイタを

,水

平 に保 って運ぶのは大変であ る。やがて台車 に代 わ り

,運

ぶ作業 は随分楽 に なった。当時 は

,す

べてエ ンゴロに詰めて窯に 入れていた。石炭焚 きのために

,焼

成品に灰が 降 りかか るの を防止す るためで もあった。焼成 後 は

,す

ぐに窯の出入 り口をふ さいだ レンガを 取 り崩す。で きるだけ早 く冷 ますためである。 翌 日にな ると

,窯

か ら焼成品 を取 り出す。窯の 中は天丼が真 っ赤な状態で約300℃ あ るが

,入

口か ら空気 を送 り込み

,特

製の分厚 い手袋 をは めて取 り出 し作業 を行 う。特製手袋か ら白い煙 が出て

,燃

え出 した りもす る。 転写張 り作業では

,絵

のつ いたシール を張 っ て水洗 いを していた。現在 は合成樹脂のカバー コー トが発達 し,洗 わな くて もよくなっている。 製品では,「卵型花瓶 が,大 ヒッ ト商品だ った。 6イ ンチ, 5イ ンチ, 4イ ンチの

3種

類のサ イ ズがあって

,

ものす ご く出荷 した」 という。 ま た

,丸

や四角

,下

が膨 らんだ り上が膨 らんだ り の 「3点花瓶」や「サ イレン トバ トラー」 もよ く出た。絵柄や

,色

もピンク

,タ

ー コイズ (青 緑),イ エ ロー と違 っていた という。 製品の梱包作業場 では

,子

どもが段 ボールの 中に入 って遊んでいるシー ン もみ られ る。広瀬 さんに よると

,昭

20年

代 に瀬戸 に来 た時 は, 本箱 の時代 で昭和

30年

代の初め頃 まで続 いた とい う。段 ボール には緩衝材 として

,木

毛 が使 われていた。木毛 は木材 を細 く切 った ものであ る。

4.2.各

生産現場の仕事 と職人像

4.2.1.鋳

込・仕上職場の仕事 と成形・鋳込職人 製土・ 鋳込のオールマイテ ィ 広瀬勇男 さん (76歳

)は

,動

力成形 お よび圧 力鋳込

,機

械 鋳 込 を担 って きた職 人で あ る。 1946∼

50年

まで鳴海製陶で動 力成形 の仕事 を して いた。1951年に瀬 戸 に来 て数社 で働 いた 後

,1965年

に愛知製陶所 に入 る。「動 力成形 を や っていた人が辞めて しまったので

,そ

の後釜 に と請われて」とのこと。以来

36年

間にわた り 愛知製陶所で

,定

年後 は嘱託 として

,素

地生産 を停止 す る

2001年

10月 末 まで勤め上 げ る。 「いろんな仕事 をや って きた。圧力鋳込 をや っ てい る人がやめ ると

,今

度 は圧 力鋳込の担 当に な り

,

また機械鋳込 をや っている人が辞めたの で,機械鋳込 もや り,総責任者の代行 もや った」。 製上 。製陶関係では,「 窯の仕事 と釉薬塗 り以外 は

,ほ

とん ど何で もや った」 とのことである。 入社時が麟 の ピー クで

,以

降は時代 とともに 名古屋学院大学論集

(16)

近代化産業遺産 と文化 的街づ くり 図

10

素焼 品 に釉薬 を塗 る作業 出所:ナ,I II:雄・祐紀 子I写真手控帖 愛知製陶所 2001 年夏の記憶』 図

11

施釉 後の一部拭 き取 り作業 の光景 出所:堀 正雄・祐紀子 『写真手控中占 愛知製陶所 2001年夏の記憶』

(17)

名古屋学 院大学論集 図

12

鋳 込作業場 の光景 出所:堀 正雄・祐紀子 『写真手控中占 愛知製陶所 2001年夏の記憶』 だんだん と厳 しくなる。「人があまり入らな くな り

,い

ろいろな代行をこなさざるを得な くなっ た」 という。 鋳込 と仕上にみる仕事模様 窯職人の石丸 賞 さんによると

,鋳

込・仕上 工場では,最盛期 には多 くの男女が働いていた。 鋳込には男性

8人

,仕

上 には女性が

10数

人か ら

20数

人いた。「鋳込

1人

につ き

,仕

3人

の 比率」(加藤高康社長)という。鋳込は

,入

力の いる作業である。石膏の型は重いハ そこに泥 奨が入ると倍加 し

,少

し型が大 きくなると一つ で20 kgを超 えるものになるなど

,ち

ょっとし た作業にも1宛力が要 る(図 12)。 石丸さんの話で は

,広

瀬 さんは大変な力持ちで

,体

はそれほど 大 きくはないが飯 をた くさん食 う人だったとい う。型の内部をみると

,継

ぎ目がある。型から 取 り出 した鋳込品を台車に載せ

,屋

内の風通 し のよい場所においてお くとす ぐに乾 く。仕上で は

,そ

のデコポコになった継 ぎ日の所 を女性の 作業者が削 り取 る。素焼前の未だ柔 らかいもの であ り,注 意深 い器用な手 さば きが必要 になる。 写真 に撮 られた1963年といえば

,広

瀬 さん が愛知製陶所に入社す る

2年

前の こ とである。 少 しわか りづ らい シー ン もあった ようだが

,加

藤 さん と一緒 にビデオ を見なが ら熱弁 を振 るっ ていただいた。ビデオを見終わった後

,17時

も 過 ぎ薄暗 くなってはいたが

,鋳

込仕上工場の, 彼の旧仕事場 に私 を導 き

,動

力成形や圧力成形 な どの機械 を指 さ しなが ら説明 して くれた。 動力成形 では

,丸

い ものや皿 をつ くる。丸型 等 の煎餅状 に した粘土 を

,石

膏の中に入れ機械 コテで一気 に成形す るのである。粘土は ドレン 機 で よ く練 り

,

ピンホールになるような空気 を 抜 いて しまう。複雑 な形状 を した ものは

,鋳

込 成形 に よ り型 を使 って成形す る。手で型に鋳込 んでいたのが,1機械 による圧力鋳込に替わ り, さらに機械鋳込へ と移っていった。圧力鋳込機は, 圧縮空気を利用 して泥 を押 し│■げ鋳込む。 コン プ レッサーの諸条件 などは計器板 に表示 され コ ンピュー タで制御 され るようになっている。

(18)

近代化産業遺産 と文化 的街づ くり 4。2.2. 窯職人のイ士事 とコ哉場 窯一筋

,40年

1930年生 まれの窯職 人

,石

丸 責 さん (71 歳)は,エ ネルギー革命下で石炭産業のスクラッ プ化が進行す る中

,九

州三菱炭鉱 を1960年に

30歳

の若 さで退職 し

,瀬

戸地域 にや って きた。 三郷の陶磁器メーカーに入 り

, 4∼ 5年

,窯

関係の仕事 に就 くが

,そ

こでの窯は重油焚 きの シャ トル窯であった。1965年に愛知製陶所 に入 り

,95年

には

65歳

で定年退職す るも,臨 時職員 と して

2001年

10月 末 まで窯の管理 を一 手 に 引 き受 けて きた。

40年

以上 にわたる窯一筋の道 である。 入社 した頃は

,素

焼 窯に

1人

,本

焼 窯

2人

, 上絵付窯1人

,働

いていたが

,本

焼 窯の担 当者 が定年退職す るので

,そ

の代わ りにと先代社長 か ら声がかか り入 る。定年退職の頃(1995年) は人が減 って

,素

焼 窯 も本焼窯 も彼一人で切 り 盛 りしていた とい う。「何故,そんなに長 くここ で働 いたのですか」という質問には,「誰 もやか ま しい人はお らず

,

自分の好 きな ように仕事 を や らせ て もらえたか ら」 と答 える。 「窯焼 ノー ト」 窯場の隅の棚には

,今

も「窯焼ノー ト」が置 いてある。石丸さんが鉛筆で記録 してきた もの だ という。1994年 以降の分で

,10数

ページで昨 秋 を迎え終わっていた。ノー トには

,天

,火

入時間

,セ

,

ヒカセ

,

トメ

,ボ

ンベの項 目が 横に展開 し

,タ

テに時系列で火入 日ごとに記録 されている。「天気」の項はハ レ

,ア

,ク

モ リ の区分がされている。天気によって温度の上が り方がかな り違 うという。「火入時間」は早朝5 時頃で

,夕

方の

18時

頃まで約

13時

間にわた り 焼 く。「セメ」というのは最初に1,000℃ にあげ てか ら1,200°

Cの

まで一気に引 き上げることを 指 し,「ヒカセ」というのはさらに1,360℃ まで 上げることである。「ボンベ」の項 には,「

4-l⑩

」 といった記入がある。これは「

4号

を使い切 り, 1号 を

10時

間使用 した」という意味だ という。 ガス窯用に

4本

のガスボンベがあるが

, 1本

を 使い切 らないで終了 して残 りを次回に回すこと がよくあるからとのことである。 「他社 は1,350℃ まで上 げ るが

,う

ちは1, 360℃ まであげる」。この10°

C上

げるのは大変な ことで

1時

間かかるが,「そうしないと艶が出な いか ら」。とくに,「青の艶を出すのは難 しく,青 色を焼 く時は1,370℃ まで上げる」 という。 シャ トル窯の内側 シャ トル窯

(4m3)の

窯の内部は図 13に みる ように

,日

算で幅

1.4m,両

壁の高さ

1.8m,

奥行 き

3m,天

丼はアーチ状 をな し中央部の高 さは

2mあ

る。その中に

,台

車が 2台 搬入され る。高さ約

0.7mの

台車には図 14に みるよう に

,施

釉後の素焼品を載せた棚板 を幾段にも積 み上げる。背丈の高い品物では棚板に

3段

ほど 積むが

,背

丈の低い品物 (小皿など

)の

場合に は

20段

くらいになるという。棚板 を支 える小 柱 として差 し入れるのが「つ く」である。「つ く」 に支えられて棚板が幾段にも積み上げることが 可能になる。「つ く」は

,0.5寸

か ら 14寸 まで高 さが多様で三角壁の形状が多いが

,高

いものに なるとギリシア神殿の柱のように下部 と上部が 膨 らんだ四角柱の形状 も見 られる。 窯内の壁 レンガを指差 して,「これは耐火レン ガですか」 と尋ねると

,耐

火レンガではないと のこと。「重さが違います」という。確かに手に 持って上辟交すると

,こ

の レンガは軽い し

,壊

れ るとバラバラになる。一方

,耐

火レンガは少 し 重い。バラバラに壊れることがな く一部手直 し し易いという。

(19)

名古屋学院大学論集 図

13

ンャ トル窯の内部構 造 と搬 入 され た台車 出所:堀 正雄・祐紀子『写真手控帖 愛知製陶所 2001 年夏の記憶』 図

14

施釉 され た素焼 品 を搭 載 して ンヤ トル 窯 (本焼 成

)に

向か う台車 出所:堀 正雄・祐紀 r『 写真手控帖 愛知製陶所 2001年夏の記憶1

(20)

近代化産業遺産 と文化 的街づ くり 図

15

シャ トル 窯の小 窓か ら「色 見」 出所:堀 正雄・祐紀子 『写真手控中占 愛知製陶所 2001年夏の記憶』 焼 成中に,「 色見」をす る。窯の小窓か ら中を 覗いて

,あ

る一定温度の もとでの還元雰囲気の 状況や焼 け具合等 を見 るのである(図 15)。 その 全体のハーモニーによって

,発

色な どが微妙に 違 って くる。 窯詰・ 窯出作業の変遷 石九 さんが入社 した1960年頃か ら3∼

4年

後 にエ ンゴロか ら棚板 に替 わった。円筒形の小 さなエ ンゴロには小 さな品物 で4∼

5個

入 れ て

,そ

れ を重油焚 きの トンネル窯に入れ る。焼 成後 には,窯 の反対側か ら押 して きて取 り出す。 その際に

,エ

ンゴロが よく引っ繰 り返 る。エ ン ゴロか ら棚板 に替わったのは

,そ

の防止のため であった。棚板 に替 わって

,窯

の積み下 ろ し作 業 は随分楽 になった とい う。石丸 さんの入社 当 時

,窯

詰 。窯出作業 には

3人

いたが

, 1∼ 2人

でで きるようにな り

,や

がて石九 さん一 人で全 てや るようになった。窯出 しは焼成の翌朝

, 5

6時

頃に行 う。作業帽・ 作業服 を被 って一 人 で行 うのだが,「眉毛 をジャ リと焼 いたことが何 度 もあった」。 石丸 さんは

,素

焼 窯の管理 も兼任 していた。 鋳込・仕l」1場には種 々なタイプの台車が今 も 並 んでい る。重い ものや柔 らかい ものを運搬す るか らであろ う。仕上品 を積載 した台車は

,素

焼窯に入れ る。素焼後は

,台

車で施釉作業場 に 運び込む。釉薬 をつ けた くない部分 には

,嘘

引 きしてパ ラフ ィンを付 ける。施釉後 はす ぐに乾 くが

,品

物の底 につ いた釉薬 は

,ス

ポ ンジで拭 き取 る。本焼成の際

,棚

板 にこび りつかない よ うにす るためである。 ロー ラー を回 しなが らそ の上 に水分 を含 ませ たスポンジを載せていて, 底 についた釉薬 を水で瞬時 に溶か して拭 き取 る のである。 石 丸 さんが定年退職 す る1995年当時

,作

業 者 はかな り減 っていて

,製

土・鋳込

2人

(広瀬 さんが製土 も兼任

),仕

3人

,窯

1人

,見

本作 成1人

,絵

付1人

,転

写1人

,出

荷1人の計10 人であった。

(21)

名古屋学院大学論集 図

16

絵 付職 人の筆 さば き―「芸術 家横 丁春祭 り」(2002.5.3-4)に て― 注:中村儀朋 さんが撮影 (2002年 5月 3日)した ものである。

4.2.3.絵

付職場 に働 く絵付職人の仕事 と趣味 二人の絵付職人 によるデモ ンス トレーシ ョン 芸術家横丁の一角では

,ボ

ランテ ィア活動 と して愛知製陶戸孵寺代 と変わ らずに絵筆 を握 り, 今 も元気 な絵付 け作業姿 を見学者 に開陳 され る 二 人のシニア絵付 け職人が 目につ く。1921年生 れの中島孝俊 さん (81歳

)と

加藤成良 さん (63 歳

)で

ある。彼 らは

,瀬

戸の最盛期 を担 って き た職人であ り生 き証人で もあ り

,そ

の鮮やかな 筆 さば き(図 16)に

,見

学者の視線が釘付 けに なる。 絵付

50数

年の一級陶磁器技能士 (上絵付) 中島孝俊 さん (81歳

)は

,一

級陶磁器技能士 (上絵付

)の

資格 を もってい る人の中では最年 長だ とい う。絵付 けの仕事 に携 わって

50数

年 になる。名古屋の陶磁器 メーカー といえば,「日 本陶器か`名陶'(名 古屋製陶株式会社

)か

」とい われたが

,戦

前 は名陶 に勤めていた。兵隊か ら 戻 った1946年に

,瀬

戸へ養子でや って きた。養 子先の義父が茶碗の絵描 きだ ったので

,初

めは 茶碗の絵 を描 いていた。1953∼

68年

の間に勤め た岡部商店時代 は

,人

形の全盛期 で

,人

形の見 本 を描 いていた。原型師が型 をつ くり鋳込んだ もの に

,見

本 となる絵 を描 き

,バ

イヤーに見せ て

,い

くら欲 しいか といった注文 をとる。1969 年か ら定年 (1988年)ま でいた長江陶器では, 主 に花瓶や皿の見本 を描 いていた。定年後 は, 愛知製陶所で臨時社員 として働 いていた。中島 さんの絵 は日本画風であるが

,加

藤成良 さんの 絵 は九谷焼風 で盛絵が使われている。 愛知製陶所 で絵付一筋

47年

間 ―愛知県第 1号 の一級陶磁器技能士(上絵付)一 加藤成良 さん (63歳 )は

,1954年

にお じの紹 介 で愛 知製陶所 に入 り

2001年

に退 社 す る ま で

,47年

間ず っ とここで働いて きた。お じの滝 川 八郎 は「日展」 に も出展す る陶芸作家で

,愛

知製陶所の見本描 きで もあった。彼 に弟子入 り したが

,職

場 では絵付 に とどまらず

,窯

焚 きか

(22)

-128-近代化産業遺産 と文化的街づ くり ら接客に至るまで何で もや らされた。文字通 り のたたき上げである。おかげで何 を聞かれて も 応えられるようになった。国の技能検定制度が できたときに試験 を受け,一級陶磁器技能士(上 絵付

)の

資格を得たが

,愛

知県での第 1号 とい う。陶磁器に関する国の技能認定資格には

,絵

,ロ

クロ

,機

械ロクロ

,鋳

,原

型がある。 鋳込の部門は

,受

験者がいな くなっているとい う。「絵付 もそのうちにな くなるのではないか」 と案ずる。なお原型には「捨型製作」があり, それがないとつ くれないハ 製品ができると必 要な くなるというものである。二人は日を揃 え て,「一級技能検定士をとって も自己満足 してい るだけ」 という。資格がな くて も仕事はできる からである。 下絵素地の焼成温度は1,350°

Cで

ある。最近 では調合を変えると1,200℃で暁けるもの もあ るが

,素

地 が弱 くな る。上 絵 の焼 成温 度 は 800∼830°

Cで

,20年

ほど前か ら耐酸絵の具 を 使っていて,食器の鉛は

5 ppm以

下に抑えられ ている。米国で鉛が出て気分が悪 くなる事件が 起 きて以来

,食

器には規制が厳 しくなったとい つ。 「仕事に関係 したことで一番嬉 しかったこと は何か」 と二人に質問 した。加藤さんは「見本 の絵を描いたのが,よ く売れたとき」,中 島さん は「展覧会で入賞 したとき」 という。中島さん は愛知県知事賞 2回 をは じめ数え切れないほど 受賞されている。加藤さん も負けてはいない。 愛知県知事賞 1回 をはじめ瀬戸市長賞 4回

,中

日新聞社賞 1回 など

,各

種の受賞は 15回 を数 える。 趣味に生 きる絵付職人 体みの少ない時代を過ごした二人であるが, ともに趣味を大切に してきた。加藤さんの趣味 は山登 りである。年に 45回 も山に登っていた とい う。土曜の夜か ら日曜 にかけて

,仲

間 と山 に登 る。盆,正月にな ると,合宿す るのが常だ っ た。冬山は御嶽山が多かった。登山中には6∼7

mの

深 い積雪の中に

,6畳

ほ どの雪洞 をつ くっ て

,仲

間7∼

8人

で合宿す るのである。夜 にな ると, よ く歌 を歌 った。雪山には

,

しんみ りし た歌が よく似合 う。死 を覚悟 したような歌 を歌 うこ ともあった とい う。三国山や猿投 山には, トレーニ ングのために砂 や石 をザ ックに入れて よ く登 った。 中島 さん も

,休

日になるとよく山に登 った。 しか し

,そ

れは信仰のためである。木曾の御嶽 山

(3,067m)や

駒 ケ岳

(2,956m)の

お参 りは, お年寄 りや女性の先達 を しての 3日 がか りの登 山である。

5合

目で一服 し

,夜

中の

2時

に歩 き 出 して

,朝

の ご来光 を拝 み

,10時

ごろに項上 に つ く。中島さんは神主で もあ り

,地

鎮祭 な どで は祭礼の先達 をつ とめ る。祭礼の2∼ 3日 前か ら節制禁欲す る。地鎮祭 に行 く前には

,水

をか ぶ って身 を清 め下着 を替 えて出か け る。神 主 だ ったお祖父 さんに連れ られて天台山によ くお 参 りしていたが

,50歳

頃,神様のお告げがあ り, この道 に入った という。以来

, 7年

,12月

に なると 21日 間,節制禁欲の修行 に入った。12月 の最初の大安が開始 日である。朝

5時

に起 きて 風 呂場で冷水 をかぶ り

,素

足で氏神 にお参 りす る。

6時

に帰宅 し写経 を して

, 7時

半 に仕事 に 出かけるのである。

70歳

位 までは水 をかぶ って いたが

,今

は医者 に止め られている。肺気腫で 「

5年

の寿命」 といわれたが

, 5年

をす ぎて も 元気である。ご本 人は,「絵 に勢 いがな くなった」 と言われ るが

,背

筋 もピンと伸び

,声

もよ く通 り, 日がねな しで筆 さば きも見応 えがある。今 も毎朝

,読

経 を欠か さない。 工 場経営 のや り方や雇 い主の タイプ に よっ て

,雇

われ方や企業への愛着な どは随分 と違 っ

(23)

名古屋学 院大学論 集 て くるようである。「愛知製陶所では

,職

人 さん たちを大事 にされて きた ようです」 との声 をボ ランテ ィアの方か ら耳 に した。長年

,こ

こで働 いて きた とい う鋳込み職 人や絵付 け職 人たち の

,ボ

ランテ ィア として会場の設営 に力を尽 く た り実演作業 にいそ しむ姿が

,何

よりも雄弁 に 語 っている。

5.製

陶 所 が 育 ん だ 愛 知 ポ ーセ リ ン・ ミュー ジア ム 5。

1.愛

知ポーセ リン・ミュージアムの沿革 と特 色 愛知ポーセ リン・ ミュージアムの沿革 愛 知 製 陶 所 の 加 藤 高 康 社 長 は西 洋 の ア ン テ ィーク・ ポーセ リンの愛好家で もあ り

,1997

年 9月 に工場隣接地 に「愛知ポーセ リン・ミュー ジアム」を開館 した(図 17)。 窯屋が美術館 をも つ例 は

,有

田や益子など代表的なや きもの産地 ではみ られ るが

,瀬

戸ではこれ までなかったこ とである。最初は

,愛

知製陶所 を尋ねて きた人 に限定 していたが

,2000年

か ら一般公開に踏み 切 る。これ までの人館者表 をみ ると

,2001年

6 月末 までに

2千

人を超 えてお り

,福

,山

梨, 東京

,神

奈川

,大

,福

岡な ど全国各地 に広が る。彼 らの8∼

9割

は女性で,専 門誌や インター ネ ッ ト

,

ロコ ミを通 じて ミュー ジアムの見学 に 見 え

,絵

付用 に自素地 を買 って帰 る人 も少な く ない とい う。来館者 は「芸術家横丁」の誕生後, 増加傾向にあ り

,ま

た彼 らが 口伝 えに芸術家横 丁の こ とを広めて くれ るとい う。 建物 は

,父

である先代の加藤恒夫が中国陶磁 器の コレクシ ョンのために建 てた ものである。 京都陶磁器試験場 に勤務 した経験 をもつ加藤恒 夫 は

,中

国古陶磁 に傾注 した。1951年以後

,約

30年

間 に収集 した中国古陶磁 は総数

60数

点 に のぼ り

,先

史時代の彩│`飼か ら清朝の粉彩に至 る まで中国各時代の ものが集め られた。′IFl夫は, 収集 した中国古│`旬磁

,

とくに定窯の自磁や宋代 の青磁

,清

朝五彩などを, 自家生産品に随分 と 図

17

愛知 ポーセ リン・ ミュー ジアムの外観 注:中村儀朋 さんが撮影 (2002年 6月 30日)した ものである。

(24)

-130-近代化産業遺産 と文化的街づ くり 参考 に した。 中国陶磁器の復刻版 を求めて くる 米国 インポーターがいて

,

レフ°リカの対米輸 出 は

,米

中国交回復 に よ り中国陶磁器が米国に直 接 入 るようにな る1970年代 初め まで続 いた と い う。 これ らの収集品を次代へ伝 えたい という 思 いか ら

,1983年

には収蔵 品 目録の刊行

,お

よ び愛知県陶磁資料館への寄贈 を行 った(23)。 日本で唯―の「セープル窯を中心 としたポー セ リン・ ミュージアム」 中国陶磁器に関心を寄せた父 とは対照的に, 加藤高康社長は西洋のアンティーク・ポーセ リ ンに傾注 した。 ミュージアムにはヨーロッパの アンティーク磁器 を復刻製造するための参考品 として集めた作品が並ぶ。アンティーク・デ ィー ラーなど海外のバイヤーが「見本に」 と持 って きたものや 自分で独 自に収集 したものなど多岐 にわたる。国内では有田と清里 (山梨県

)に

次 いで

3館

目のポーセ リン・ ミュージアムである が

,有

田と清里はマイセンが中心なのに対 し, 愛知ポーセ リン・ ミュージアムはセーブル窯が 中心 という点に特色がある。日本で唯一の「セー ブル窯を中心 としたポーセ リン・ミュージアム」 ということができるが,その他にもマイセン窯, ロイヤルベル リン窯,ウ ィーン窯,ド レスデン, リモージュ等々

,磁

器が製造されたヨーロッパ のほとんど全ての国々の磁器製品が展示 されて いる。 西洋アンテ ィーク磁器の収集 とその背景―復 元 と創作 の原点一 加藤高康社長は

,

自らの手で転写紙 に原版 と な る絵の下書 きを描 く職 人で もある。そ うした 作業 は先代社長 もや っていた もので

,そ

れ を見 て育 った彼 も描 くようにな り

,何

時 しかそれ に のめ りこんでいった とい う。彼の描 いた下書 き に基づ いて

,絵

付職 人が見本 をつ くる。陶板 に 描 いた筆稿 は

,転

写屋 に手渡 され る。西洋磁器 の各種収集品は

,デ

ザインづ くりにあたって彼 の貴重な リソースとなる。参考にしヒントにす るなかで

,本

物の持つ底知れぬ魅力に気づ き, その虜にな り

,

また絶 えず励 まされ力を授かっ てきたという。 アンティーク・デイーラーが「参考品に」 と 持って くる西洋アンティーク磁器は本物ではあ るが

,見

えに くい部分に少 しひびが入っていた り

,小

指が欠けていた りするなど, どこか欠陥 のあるものが少な くなかった。それを丁寧に復 元するのである。そうした復元技術にも精魂 を 傾ける。やがて,「こういう西洋アンティーク磁 器が欲 しい。/」 といった知識欲に火がつき, 自 らのお金を継 ぎ足 して収集にあたる。そうした なかで

,収

集品の陣容が整ってきたという。 加藤高康社長の制作スタイル も

,次

第に変 わってい く。「こういうものをつ くって くれ」と いうバイヤー・ニーズヘの対応型か ら,「これを

つ くりたい」

,「

これをつ くれば売れそうだ」とい

う提案型へ脱皮 していったのである。やがて

,

バイヤーも面白い商品を見つけないとやってい

けなくなり

,「

何かないか

?」

と探す時代になる。

メーカーとしても

,注

文をとるためには

,魅

的でバ イヤーが欲 しが る もの をいか に先取 りし てつ くるかが問われ るようにな り

,そ

れに積極 的 に応 えて きた。円高 に もかかわ らず

,人

手の か か る磁 器 製 品 の輸 出 メーカー と して最 近 (2001年 10月 末)までや って来 られたのは,そ のおかげであるという。 館 内には,フランス,ドイツ,イ ギ リス,オー ス トリア

,ロ

シアの王侯貴族たちが宮殿で使用 した食器や

,ア

メ リカの大統領がホワイ トハ ウ スで使 った器などのサーヴ ィング ピース類

,食

卓の中央 を飾 ったセ ンター ピース類

,そ

れ に部 屋部屋 を楽 しく華や か な雰囲気 に していた ク イー ンオブフランスや ジャンヌ グル ク

,眠

り姫

(25)

名古屋学院大学論集 七宝鎌 金具付 セ ンタービース、 1352年 セープル繁 。 花饗類。雛 紀 マイセン書 “ 商像甕プラーク “"世編 κPM. 図

18

愛知 ポーセ リン・ ミュー ジアムに展示 され るヨー ロ ッパ 名窯の磁器 出所 :パ ンフレット「愛知ポーセ リン・ ミュージアム」

参照

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