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能海寛 求法の軌跡ー東京修学時代の日記を中心にー 利用統計を見る

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能海寛 求法の軌跡ー東京修学時代の日記を中心に

著者

飯塚 勝重

著者別名

IIZUKA Katsushige

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

38

ページ

37-46

発行年

2003

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00009381/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

能海寛

求法の軌跡

1 1 1

東京修学時代の日記を中心に

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はじめに 一能海寛と英文会 二能海寛と事業計画 お わ り に はじめに 明治時代中期、日本人で初めてチベットの領域に立ちいたった能海寛 (一八六人│一九

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一?)は、念願のラッサまでの行程を中途不明にして、 消息を絶った。明治三四年四月のことである。年齢僅かに三四才であった が、彼が残した日本仏教界への、チベット求法の要請は鮮烈であった。 しかし、その後は僅かに数名の僧侶がチベットに赴き、生死を賭して必 要とする﹃一切蔵経﹄幾組かを入手したものの、欧米列強がアジアに進出 し、植民地化への蛾烈な争いを繰り返す中、日本にとっては遠隔の地であ り、情報は必要としても、焦眉の急となったチベットに対し、国家として ( 1 ) の行動、仏教界挙げての行動を懲撮するまでには至らなかったのである。 因みに明治・大正期にチベット・ラサに到着・滞留した日本仏教僧は次の 能 海 寛 求法の軌跡

通 り で あ る 。 河口恵海 第 1 回 明治三四年三月│一二五年五月 第 2 回 大正 三 年 八 月 │ 四年一月 寺本腕雅 明治三八年五月!三八年六月 青木文教 大正二年 月 五年一月 多田等観 大正二年 九月

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一 一 一 年 二 月 寺本腕雅や河口慧海、多田等観らが、想像を絶する危難の末にもたらさ ( 2 ) れた﹁一切蔵経﹂他の諸資料は、大学や研究者のもとに秘蔵され、入蔵熱 をもたらしたといわれるチベット求法のエネルギーは、充分な結実を見る ことなく拡散され、今日に至っている。 能海がいっ、チベットを目指すようになったかは、すでに、隅田正一一一の 精綾な研究があり、最も早く、京都普通教校に入学した明治一九年の一

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( 3 ) 月二三日、同室の蚊野悟治郎にうち明けたことに由るとされている。最近 でも、白須浄真が論文﹁能海寛チベットへの旅立ち﹂の中で、能海がいつ チベットを意識したかについて、岡崎秀紀が見出した能海と同学の梅原竜 ( 4 ) 北が後に慶磨義塾の﹁学報﹂に寄稿した一文などに基づき、﹁京都普通教 七

(3)

能 海 寛 求 法 の 軌 跡 一八八八(明治二一)年前後には、このような高揚した意 ( 5 ) 識に達していたことになる﹂としている。 校 入 学 二 年 余 、 実際に能海がチベットに旅立てたのは、 一八九八年一一月のことである が、当時の緊張したアジア情勢の影響を受け、旅は終始苛酷なものであっ た。しかし、常に生死の境にさらされながら、 一日も欠かさず勤行し、本 を読み、研究を怠らない。旅の途次に挙げた学問的成果は、思師南候文雄 らに届けられ、郷里の自坊島根県金城町浄蓮寺にも送られていた。また、 能海の旅費出資もとの東本願寺への上申書および友人には旅程と見聞を記 す書簡が届けられ、能海の失院後、﹃能海寛遺稿﹂として寺本腕雅が編修、 ( 6 ) 出版されるもととなった。 能海のこうした報告は奇しくも当時の中国・チベット情勢を生々と伝え るものであったが、こうした律儀な報告類を作成する下地は、すでに少年 時代から、書き続けていた日記にある。 浄蓮寺に中国やチベットから旅の日記が届けられ、旅立ち以前の日記類 を含め、庖大な資料があることを発見したのは、郷土の偉人を発掘し続け ていた前掲隅田正=一の功績である。能海の活動を再び全国に紹介し、研究 者を掘り起こした努力は敬服のほか無いが、それによって、村上護が、ほ ほ同時代に哲学館(現東洋大学)に学び、チベット旅行を成し遂げた河口 ( 7 ) 慧海と能海の生涯を対比的に描いた﹃風の馬﹂があり、世界情勢を背景に その一生を浮き彫りにした伝記﹃能海寛 ( 8 ) 嘉伸によって出版されたのである。 チベットに消えた旅人﹂が江本 人 能海寛と英文会 一(一)残された能海の日記 ﹁はじめに﹂で触れたように、能海は短い生涯であったが、郷里を離れ て生活を送る過程で多くの日記類を残している。特に、旅行の途次におけ る 日 記 は 、 そ の 櫨 ま り ご と に 、 ﹁ 渡 清 日 記 ﹂ 、 ﹁ 飛 越 関 碑 記 ﹂ 、 ﹁ 進 蔵 朝 偽 記 ﹂ などと名付けられていた。そのため、能海の全生涯は、探検の途中で消息 を絶った割には、その行動を詳細に辿ることが可能となるものであった。 しかし、これまで公けに紹介されたものは、研究に必要な部分的なものに ( 9 ) 過 ぎ な い 。 一刻も早く全ての日記文が整理され、現代語訳されることを望 む の で あ る が 、 一つの制約は、すでに多くの月日の日記が欠落し、その所 在が全く不明なことである。人間・能海像をより正確に映し出す為にも残 念 な こ と で あ る 。 その残り少ないながら、今私たちが目にしうるものの中で、能海が京都、 東京と修学を重ねる月日の聞に書かれた日記は、﹁春秋ノ日記﹂或いは ﹁春秋日記﹂と題されていたようである。 能海が明治二三年一月から、福沢諭吉の慶麿義塾で学修し、その後、井 上円了の哲学館に転じたのは明治二四(一八九一)年一月であり、明治二 六年七月まで在学する。この間、能海がチベット探検をどのように考え実 行しようとしていたか、彼の求法を願、つ心と行動の軌跡を探る上で、この ﹁春秋日記﹂は決定的に重要な資料となる筈である。 しかし、残念なことに岡崎秀紀の調査を基にしても次の日付のものが残 ( 日 ) されているに過ぎない。(一部筆者修正)

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英文日記・旅行日記等 ( 一 ) ﹁ 春 秋 日 記 ﹂ 第?(二か)競﹃春秋の日記﹄石峰(明治二二年九月?同一O月二

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日 か ) 第四時抗﹁春秋ノ日記﹄石峰(明治二三一年一月一日同二月二八日) 第九競 明治二四年一月一日作﹃春秋日録﹄於東京(﹁春秋日記﹂第 十八巻 明治二四年一月一日│同一一二日﹁春秋日録﹂第十九 巻同二月一日│二八日) 第 競﹃春秋日記﹄(廿六巻廿七巻)石峰(明治二四年九月一日 一 O 月 三 一 日 ) 第十六競 明治二五年三月一日作﹁春秋日記﹄巻世一巻世二巻世三 天頂山石峰(明治二五年三月一日│同五月一九日) 第廿四競﹁春秋日記﹄五四巻(明治二七年一月一日) 合 乙 ﹃ 英 文 日 記 ﹂

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昨 冨 ゆ ﹃ ︻ リ 己 ( 知 慧 と 慈 悲 ) No. I 明治二三年一月二二日 No. 2 明治二三年二月二八日 No. 3 明 治 一 一 三 年 三 月 三 一 日 No.

4

部分のみ Nu 5 部分のみ 残された資料は僅少であるが、その中から、能海が何を考え、何をしよ うとしていたのか、さらに条件を絞って、肝要の部分を抽出してみたい。 能 海 寛 求法の軌跡 一 I l l i -( 二)英文会へのこだわり すでに、隅田や岡崎の研究で、能海は京都普通教校以来、英語を率先し ( 日 ) て学修し、将来に備えようとしていたことが明らかになっている。明治二 二年九月文学寮に入って、能海の時間割では、週一二

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時間のうち、英語関 係は九時間も授業を受けていたと記している。 能海はすでに京都普通教校時代、組織的な英文会の結成を手がけていた ょ う で あ り 、 明 治 二 二 年 九 月 一 一 一 一 日 に ﹁ 河 口 君 ニ 逢 イ 英 文 会 ノ コ ト ヲ 一 寸 話 ス ﹂ とあり、その年一O月二日に自ら責任者になって ﹁英文会一周年ナリ、英文会ヲ引受河口

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ヘ ト 前 田

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( 得 念 か ) ヘト二通ノO? ト 書 出 ス ﹂ とある。しかし、能海はその年一一一月、京都での修学を止め東京に出奔す る。東京に出て慶鷹義塾一予科に合格したあと、明治二三年一月二八日の目 ロ い ' ﹂ 呈 ロ v u ﹁ 英 文 ヲ 以 テ 主 義 ト ス ベ シ 否 方 便 ト ス ベ シ ﹂ と書き、翌二九日には

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自 己 冨 司

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己 免 ﹄ ヲ作リ英文を作リ主義ヲ述セントス﹂ とあり、英文を何らかの用途に役立てたい意向が一不される。それから一ケ 月後の二月二七日、能海は ﹁漢文和文ガツタナヒ悪文トカ云々ハ更ニハジズ予ハ外ニ目的ヲ有スレ パ ナ リ 若シ英文ニ於テ英字ニ於テ和歌ニオイテ平仮名ニ於テ悪キト云 ハレタナラハ予ハ夫レヲハヂトナス﹂ と書き、ここでも英文の習得が、 一定の目標のもとに懸命に行われていた 九

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能 海 寛 求法の軌跡 ことを強調している。 これに対し肝心の東京における英文会のことであるが、京都の英文会と の関係はどうなっていたのか、関連する資料が無く全く不明である。但し、 岡崎秀紀が﹃石峰﹂第三号誌上に研究紹介された上述のグヨ色。

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N01 の一五頁には グ

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﹃ 切 口 内

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と 題 し 、 N ω ﹃ 子 。

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NN 口 弘 ( 明 治 二 二 年 一

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月 一 一 一 一 一 日 ) 日 付 を 付 し て 、 何 回 包 山 田 町 円 。

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匂 。 包 口 問

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白 由 。 ﹁ 向 田 口 曲 目 路 島 患 者 身 、 当 日 岳 諸 問 。

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ロ わ ゆ 件 。 田 口 の わ ゆ 回 同 町 己 申 Z 0 4 司 切 口 門 田 島 田 ぺ 由 ℃ ロ ﹃ 唱 。 理 -とあって、京都において明治二一年秋、英文会が結成されていたことを伝 えると共に、結成の趣旨を簡潔に伝えている。 その趣旨は、﹁英語が今や全世界において最も多くの地域で使われてい る。従ってわれわれの思想も英語によって表明する必要がある。その英語 の習得には作文と会話の二種類がある。しかし、会話はそれを話す相手が いなければ意志を伝えることが困難であるが、 一方、英作文は、如何なる 遠隔の土地にでもその意志を伝えることが出来、新仏教徒の目的成功の為 にも是非必要である。﹂とするものであった。 只、東京に出て暫くはこの英文会のことは出てこない。哲学館に変わっ ても、当初の一 1 1 1 1 1 1 二月の日記からはそうした組織に関わっていた様子も見 えず、どのように考えていたのか、不明である。 しかし、能海は英文を活かした何らかの組織を東京で作ることを諦めた わけではなく、残されている僅かな日記類であるが、貴重と思われる次の 四 0 記述が明治二五年三月一七日になって突然のように出てくる。 ﹁大野ト英文会ノコト話ス彼冷タンナリ﹂ とあり、継いで同一八日には ﹁夜英文会ニツキ考へ作文ヲモ少シナセリ 昨日ハヨク考エテスコシア ヤブマレタレドモ今日 ハマタハズムコトニナレリ 此業ノ如キ作文ツ の タナキモ志モ高ク目的モヨク熱心モアリ不得手ノモノユヘ仕様モナキコ ト(作文)又仏教徒中ニテモ主ニ青年ノモノノ励ミニセパサホド人モソ シルコトナカルベシ ソシラパソシレ一度ハ仕遂ズニオクモノ款﹂ とあり、英文会結成に、何らかの事業目的を盛り込んで作文をしていた様 子がうかがわれるのである。しかも、仏教徒ではなかなか言い出せないよ うな事業であったのか、この事と能海が考える後述の事業との関係が微妙 に交錯するのである。 能海自身の日記では、この頃、英文雑誌を編修出版することを試みてい たと思われる時であり、なるべく大勢の人の力により事業をやりとげよう としてかなり緊張した状況にあったと思われる。しかし、和文の日記から は英文会が発足したという記事を見出すことが出来ないのである。 能海寛の事業計画 ー学校経営と英文雑誌発行計画 能海寛が京都普通教校に入学して、反省会や南候文雄の影響を受け、早 い時期からチベット探検を決意していたと云われる。しかし、能海寛が書 き残した京都時代、東京・慶応義塾・哲学館時代の現存する日記からは、 それを直接示唆する記事は一向に見あたらない。明治二二年一

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月七日の

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1 4 司 u e ﹄ r b t ユ エ ロ p b v ﹁来年ノ今月今日比(頃か)思フ侭ニ成行カ否カミタヤ念願成就シオラ パ 最 モ 説 フ ヘ シ ﹂ とあり、或いはとも思われるが、東京に出、哲学館か慶応義塾かと入学を 考えるさなかの心境として、明治二三一年二月三

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日に ﹁福塾モ大学ニ入ル目的ナリハ何ゾ予ニ望ミナシ 予ハコレニ入ルニ只 一す位置ノミ得タキナリ 年限モオヨソ五・六年必定(側線筆者)﹂ とあり、何の為の位置であるのか、予科では時間がかかりすぎると悩んで いた能海にとっては、早く大学本科に入りたかったのであり、当初は当然 入学できるものと思っていたのであろうが、仮に大学に在籍できたとして それが一寸した位置を意味していたのであろうか。 しかも、同二月五日に唐突に ﹁資本考ヘ考吏ニ漫然々々鴫呼ノミ資本ノ為ニ学問上ノ思想モ偽教上及 ヒ教徒ノ将来思想モ文章モ英文モ更ニ考出テスシテ勉強セラレサル上ニ 却テ資ノ為ニ脳病ヲ起サントス 鳴呼遠寺ノ鐘ハタ拝ヲシラシ日モカス 、 気 死 二 入 ル 如 、 ン ﹂ と、少なからずの資本を必要とし仏教徒に関わる事業を考えた節が伺える。 案の定、その五日後の日記には、初めて心境を披涯する事業計画につい て ﹁予学成就上ハ仏教大学校を設立シ所業合同シテ南俊君ヲハ校長ニ命ジ 文学科ヲオク 撰科ヲオキテ仏学専門トナス 生徒ハ僧俗ヲ撰パス資本 ハ御本山及ヒ

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( 門 か ) 徒 ト ス ﹂ とある。更に同一八日には 能海寛 求法の軌跡 ﹁大ニ私立大教校ヲ我郷里ニ設立シタキ存念起コル 処ハ薬

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師 か ) 山ノ南ナリ 普通科高等科別科等生徒モ殆ド十名 五人位ヒノ教員ニテ ヨ ロ シ ﹂ と、あたかも熱に浮かされた如くである。 そうした熱き思いが、僅か数日後であるが、同一一一二日に ﹁到底資本ニ見込ミナキトキハ五年間ノヒマヲモライテ洋行スルニ若ク ナ ン 如何ナル苦ヲナスモカマヒナクハワイ国 南米ブラジルカラ北米 英欧 皆東洋ヲ回ルニ若クナシ﹂ と一転して弱気に転じている。しかも、チベット行きでなく、洋行に逃避 しようとする気持は、ほんの筆の滑りであろうか。ここで暫く日記類の記 録が見いだせないのは誠に残念である。 哲学館に転じた明治二四年の一ーー二月および九一

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月の日記には、将 来を記す特別の記事はない。ここで注目すべきは一

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月一日に ﹁タ麹町元園丁ニ行究学ノ事ヲ受付ニ頼ミ羽書ヲ以テ師ノ講義始マルヲ 報知スト約ヲ得﹂ とあり、同二

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に は ﹁午前麹町ニ行ク散克律始マル﹂ と、後のチベット行に関わるであろう南俊文雄のもとでのサンスクリット 学習を始めている。 麹町行きはその後長く続くのであるが、翌二五年三月一九日突然のよう ﹁英文会ノコト一時モワスルコトナシ 志ハ大快喜 北行思立チテナラ ス 鮮行又ナラズ 此度 此度ノコトナラズト実ニ予ハ不幸ノモノナリ 四

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能海寛 求法の軌跡 斗リハ必ズナルモノノ如キ預算シツレパ

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ル ナ リ ﹂ と書き、上述の洋行が単なる筆先のことでなく、その上、朝鮮行きまで考 えていて、その旅行が逃避的目的であったかのようにさえ見えるのは驚き である。しかも、﹁此の度のこと﹂が英文雑誌の発行にあると見えるのは、 以後の数日間の緊迫した日記から伺えるのであるが、それが京都で結成し た英文会の設立趣意であり、三、四年かけて漸く実現させようと云う段階 に至ったように見える。しかし、その人脈がどのようなものかは不明であ るが、翌三月二

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目 、 ﹁神田ヲ回リ三省堂ニテ英文印刷ノコトヲ問フモハ子ツケラレイソガシ ト云ウ 大ニ落胆(略)シカモ不幸ノ休日ナル哉之ガ為数日モ英誌上ニ 差 支 エ タ リ ﹂ とある。同二二日には ﹁麹町行白山に英文ノコト相談シ賛成ヲ得赤阪ニ共ニユキ相談アヒトト ノヒ南保氏ヘ羽書ヲ出サシ﹂ と あ る 。 同 三 月 一 一 一 一 一 日 、 友 人 篠 原 が 出 版 条 例 を 調 べ 、 そ れ を 大 い に 感 謝 し 、 四月八日の発行の準備に具え、京都以来の知己や宣教会、文学寮ヲ始め、 内学院、大学寮、かつて京都で関係した高等中学、尋常中学に書面を出し ている。殆ど資金と原稿の依頼であろうが、その成り行きを期待して ﹁宣教会と南篠ノ一一方先ヅトトノハパ殆ド成リタルモノノ如シ 実ニ此 ノ事業ノ為ニハ 夜モ子ラレズシテ心配シ仏陀ノ加ゴアラパ四月八日ニ 新仏教徒ノ生マレンコト必セリ﹂ しかし、この計画は一寸した組離を生ずる。同三月二五日、おそらく翻 訳上の必要かと思うが、麹町の白山兼知のもとに行き、彼が南俊文雄から 四 借りている﹃ダンマパダ﹄を借りたのであるが、肝心の南僚は ﹁今日から名古屋地方ヘ出立ナレパイソガシクトテ此書外ニ英文ナシ 落 タ ン セ リ ﹂ と早くも計画の狂いを見せ、更に翌二六日 ﹁岩田君来リ井上円了ニ相談スルモ金ノ為ニ危ブム 参正者ハアル考ヘ ナ ( 略 ) 夜 牛肉十斤七八名会合 由 テ 子 ル ﹂ 十一時マデ牛飲馬食 とあるが、折角集まった仲間が、英文会の者か、出版に係わるものか、或 いは単なる友人なのかも判然としないのであるが、この日を境に雑誌の話 しは日記に表れない。その上、翌二七日以降、体調も崩していて弱気になっ ていたのか、先ず二七日には ﹁臨遁ノ志盛ンニシテ厭世冗聞皆気ニサワル 鳴呼如何シテ世ニ

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セ ン ﹂ と、そして、ここに将来の事業方針を転換するのか、二八日に至り、 ﹁(体悪くリューマチのように手足、身体など痛く、死ぬのではないか と遺言まで考え) マ ヅ 予 決心セルコトアリ 今日カラタトヒ少々ナリ トモ金ヲタメ財産ヲ造ル手段ヲトリ 数百万ノ金ナリ 而シテ后業ニハ 着手スベキコト必ズ先ヅ実行シテ牧畜 其 他 布教等ニ金 農業 鉱 山 ヲタメルコト第一肝要ナリ﹂ と あ る 。 因みに同年四月にはいって、盛んに地学や人類学雑誌を読むと共に、二 六日には地学協会の演説を聞き、同二九日には ﹁中央亜細亜地理ヲシラブ 真 ニ 面 白 シ ﹂ と我々の興味を大いに引く記事がある。それは三月二八日の日記にある、 従来考えていた事業から﹁必ず先ず実行すべきこと﹂に着手しようとして

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いることと関わるのではないかと思われるからである。 以上の僅かに残された日記からであるが、明治二五年三月まで、能海の 手記から直接チベット行きを一不す文字は記されてこなかった。英文会を作 り、新仏教徒の目的達成のために組織化を考え、大学程度の官同等の仏教学 研究者を育成するため、郷里での学校経営を考えたのは、浄蓮寺後継者意 識の表れであろう。しかも、学校経営の為には一寸した位置と多額の資本 がいることにより、それは次の手段として見送ったのであろう。 次に目指した英文雑誌の出版も、明らかに京都以来の英文会結成と両日 的であると思われる。しかし、これも思うように進まなかった。只そのこ とが成功しなかったときに具えてか、能海は南僚のもとで、サンスクリツ ト学習を続けていた。そして、その中から、明治二六年七月、哲学館の学 業を閉じると共に、世間に向かって、チベット探検の必要が追っているこ とを明らかにした。この間の事情を、 のちに能海はチベット行きの準備に 逐われる中で、次のように回想する。 すでに、明治二九年五月七日付け、東本願寺執事渥美契縁あて、チベツ ト行きの許可と保護を願い出たあとであるが、明治三

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年五月九日、﹁予 と西蔵﹂をノ

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ト に 記 し て い る 。 それによれば(一部欠字、判読不能丈字あり) ﹁(一)明治二十一年東温譲印度留学ノ為出発其送別会ニ於テ入蔵ノ必要 ヲ述べ彼ノ行ヲ送ル (二)明治二十五年十二月(款)自身入蔵ノ任ニ当ラント決ス コ レ ヨ リ 先キ廿四年一月以来南保師ヨリ少シッ、党語ヲ学ブ仏教経典ノ原本ヲ 得タキノ念生ス観無量寿経ノ如キ最モ其一ナリ(是一)又海外宣教会、 能海寛 求 法 の 軌 跡 反省会は当時予ノ精神タリ然ルニ布教上翻訳上ニ於テ原本ノ考究、歴 史ノ探索最モ必要ニシテ而モ之レ其実地ニ著テ調査サルベカラス 特 ニ釈尊ノ停ヲ明ニシ

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(大乗非か)偽説ノ問題ヲ確実ニ解釈セ ント欲セリ宜シク仏教根元地

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( ネ か ) パ ル ﹂ ﹁ 西 蔵 ﹂ ノ 如 キ ハ充分ニ探索セサルベカラス ( 略 ) ( 是 一 一 ) ( こ の 間 日 本 人 で 入 蔵 を 試 みた四五人が悉く断念していることを挙げ)愛ニ於テカ予ハ果シテ 蔵ニ入ルコトヲ得ラレル、ヤ否ノ問題ヲ実地ニ解セント欲シテ支那四 川省ノ道ヨリ試ミント遂ニ決心セルニ至レリ(是三)予ノ此ノ決心セ シ頃己ニ在印度川上君ノ蔵行ノ企テアリシコトナレドモ予ハ当時之ヲ 知ラズ廿六年五六月頃款ノ反省雑誌ニ依リテ之ヲ知レリ若シ己ニ予カ 決心ノ前ニ此コトヲ知レオリシナラパ予ノ蔵行或ハ成サザリシャモシ レズ兎ニ角知ラズシテ決心セリ果夕、ンテ

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﹂ とあり、此の手記からすれば、他人の入蔵行動を見ながら、自身の決心は ( 辺 ) 明治二五年頃という。 以上のことから、能海の著書﹃世界に於ける仏教徒﹄(明治二六年一一 月)、さらに一、二の彼の手記、報告などを加えてであるが、(例えば﹁中 央公論明治三二年二月号掲載、漢口からの棲井義肇への書簡など)資料の ある限りにおいて言えることは、能海のチベット求法の決心に至る過程は おおよそ次の順序を踏んでいったのではないかと考えられるのである。 能海寛入蔵行決意の軌跡 1 現今の欧米宗教学界の事情を見れば、インドやチベットの仏教を探検 研究した結果、今後の世界は仏教が大勢を占めるであろうと言われるほ 四

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能海寛 求法の軌跡 どになっている。 2 このような情況では、 アジアに優れた仏教国日本も、もはや一宗派や 本山主義にとらわれず、旧仏教から脱脚し、世界の仏教徒、則ち、新仏 教徒の誕生が必要である。 3 新仏教徒はアジアの仏教を欧米に広める必要があり、(能海の考えと しては)特に言語上世界に優勢な英語圏(英米など) での布教から始め る必要があると考える。 4 英語の布教の為には、仏教典を英語に翻訳しなければならない。 5 正しい翻訳の為には、正しい仏典が必要であり、(大乗非仏説を明ら かにする為にも)正しい仏陀の伝記を入手しなければならない。 6 この正しい仏典と仏陀の伝記は、漢訳仏典ではなく、インドの原典で あるサンスクリット(党語)によることが必要であるが、今はインドに なく、ネパ

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ルかチッベトに行って入手しなければならない。 7 経典入手の上は先ず経典を翻訳する事が新仏教徒の仕事であり、新仏 教徒は英会話よりさきに正しい英作文を学習しなければならない。その ためには英文会によって互いに啓発し、また雑誌を発行し、併せて資金 の 確 保 も 図 る 。 8 さらに高等な仏教研究をなすため専門の仏教大学を設立し、良い教師 のもと、正しい仏典翻訳者を継続的に育成しなければならない。 9 仏典入手に当たっては、明治二一年以来幾人かが、すでに西蔵行きを 表明し、行動を起こしているが、未だに成功した者がいない。

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ルやチベットは、山岳地で、鎖国状態の国であり、経典入手に は探検しながら進む必要があり、 一人の力では到底無理である。欧米各 四 四 国が亜細亜探検をしているように、国力を背景とする充分な資金と、少 なくとも五

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人の同行者が必要である。 11 しかし、日本で国もしくは宗門でこれほどの規模で経典を入手しよう とする気運にないのは遺憾である。

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しかも、チベットは欧州列強のアジア進出に包囲網が狭められ、この アジア最大の仏教国の命運も風前の灯火の状態である。 13 能海自身は、早くからチベット探検の必要を説いていたのであるが、 いまだだれも実行できていない。自分にとっては仏典翻訳、大学設立も 急ぎ必要であるが、先ずチベット消失の危険があり、その前に、自身が 先行して探検に行かざるを得ない。 おわりに 以上、少ない資料を通して能海のチベット探検の決意に至る経過を探つ てきたのであるが、この過程の中で、能海の意外な事業欲と、しかし余り にも無邪気とも思われる挫折の数々を見てきたのである。 京都普通教校、大学林、慶応義塾、哲学館とひしとして勉学する中で、 先ず苦しんだのは、学資にも事欠く貧乏状態である。その上、必ず郷里に 帰らなければならないとする檀家との約束があった。しかし、新時代に生 を受け、深く学んだ学問をいかに活かすか、新仏教徒としていかに奮闘す べきか、生来真面目な能海には重圧がかかるが、それに挑戦する事も檀家、 自坊に対する報思である。それ故に 能海は、自坊浄蓮寺の継承者である ことを十分承知して、郷里で何が出来るか、最高の事業を懸命に探してい たのではないか。

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東京で、大学入学を望んだのも、英文会結成を望んだのも、彼にとって は地方に於いて、一定の組織力を持って事業を起こす為に必要なことであっ た。又、チベットに行き、山岳地の地理や地学、産業などを探り、帰郷し た後は、それをもとに、訳教事業などに莫大な資金が必要であるから、山 がちの故郷を中心に、牧畜、農業、鉱業などの事業も合わせ起こす事を望 んでいたのではないだろうか。拙著﹁長江物語﹂に一部を訳出した﹃渡清 日記﹄には、無事郷里に帰った場合の、其の後の寺院経営について事細 かに方針を書き残しているが、むろんその中に、浄蓮寺を基盤に、会員制 の講組織を考え、それに海外布教の文字も加えている(同二五

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頁 ) 0 いくつかの夢が浮かんでは消えた。我々が見る限りでは、慎重で計画的 な能海の内面が以外にもろく、おざなりの大仰な計画で却って自己を苦し めていたかに見える。 しかし、能海は内なる葛藤を無駄にはしなかった。七転八倒の苦しみを すべて現実のマスゲームの如く蘇らせ、世界の仏教徒としての日本が今何 をすべきか命題を明らかにした。(真宗大谷派)本山執事渥美契縁宛﹁歎 ( 日 ) 願﹂(明治二九年五月九日)下書きに ﹁特ニ仏教古来ノ経典ハ印度ニ存セズシテ却テ西蔵国ニ望ミヲ属シ大乗 非仏説ノ盛ナルモノハ仏教史ノ財料ノ欠点ヨリ生スルモノニシテ仏陀ノ 聖伝伝播ノ歴史蔵国仏教ノ状態国体等ヨリ蔵国将来ノ方進等何レノ点ヨ リ考フルモ蔵国ノ探検愈々急ニ逼リ(略)此蔵国ノ地理言語国体経典等 大林上ノ観察を試ミント欲シテ入蔵ノ義ヲ発心スルモノニ有之候ヘハ ( 略 ) ( 側 線 筆 者 ) ﹂ とあり、それ故保護と支援を願い出たものである。しかも、先に引用した 能 海 寛 求法の軌跡 明 治 コ 一

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年五月九日、﹁予と西蔵﹂に記すように、﹁又海外宣教会、反省会 は当時予ノ精神タリ然ルニ布教上翻訳上ニ於テ原本ノ考究、歴史ノ探索最 モ必要ニシテ(側線筆者)﹂と、京都修学以来の、仏教先進国が持つ責任 を、経典の英語翻訳を以て外地に布教しようとした決心を未だ捨て去って いないのである。そして、明治維新以降、欧化思想をもって、 アジアに君 臨しようとする国家に対し、 アジアで最も高度に発達した仏教国日本の責 任として、同じアジアにおいて、存亡の危機に立たされている古くからの 仏教国チベットを、 いち早く救出すべきことを堂々と主張した。そうした 結実の書が﹃世界に於ける仏教徒﹄だったのである。 能海がこの書で主張したことは、不幸にして彼の手によっては実現しな かった。しかし、これを読み、彼の主張を知った日本の国民、或いは仏教 徒は、能海の主張が仏典の収得だけにあるのではなく、翻訳をも含めた、 国家を挙げた布教事業を促していたことにあることをどのように受け止め ていたのであろうか。能海の宿題は未だ残されたままであるように思われ る の で あ る 。 能海のチベット探検は途中で消息を絶った為、帰国していたならばと言 う仮の話は困難である。而も、能海は終始探検は、単独行を避けるべきと 考えていたであろう。未知の世界であり、中国・チベットの内外ともアジ アの動乱の最中にいて、単独行がいかに危険であるかは、すでに計画段階 で十分承知していたことである。まして能海は真宗大谷派の僧として、或 いは生涯計画の事業として、組織をいかに活用すべきかを常に考え行動し ていた者である。この能海と対照的なのは、黄葉門に属し、むしろ禅宗僧 としての個人的行動をとった河口慧海のチベット行きである。当初から、 四 五

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能海寛 求法の軌跡 一人と決めていた河口のチベット行きは、仏典の収集とともに修行をも兼 ねた聖地巡礼の旅行であったのである。 注 ( 1 ) 当時の西域を中心とするいわゆるグレート・ゲームと表されるヨーロッパ 諸国探検隊と日本大谷探検隊などとの関係については、金子民雄﹃西域探 検 の 世 紀 ﹂ ( 岩 波 新 書 二 O O 一 了 一 二 ) 参 照 。 ( 2 ) 白須海真﹁能海寛チベットへの旅立ち 1 明治青年仏僧はなぜ入蔵を試みた の か ﹂ ( ﹁ ア ジ ア 遊 学 ﹄ 二 三 号 勉 誠 出 版 社 ) ( 3 ) 隅田正三﹁チベット探検の先駆者哲学館で学んだ﹁能海寛﹂の生涯﹂ (﹃東洋大学井上円了センター年報﹄

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、 二 G O O -七 ) ( 4 ) 龍 北 学 人 ﹁ 西 蔵 探 検 家 能 海 寛 氏 の 事 ﹂ ( ﹁ 慶 慮 義 塾 学 報 ﹄ 第 九 三 号 明 治 三 八 ・ 八 ) ( 5 ) 白 須 浄 真 前 掲 二 注 。 (6)寺本腕雅編﹁能海寛遺稿﹄(大谷大学一九一七、後、一九九八年、五月書房 復刻刊行) ( 7 ) 村上護﹁風の馬西蔵求法伝﹂佼正出版社一九八九) ( 8 ) 江本嘉伸﹁能海寛チベットに消えた旅人﹄(求龍堂一九九六・六) ( 9 ) 例えば拙著﹃長江物語﹂(大修館書庖一九九九)﹁第四章能海寛渡清日記 ( 抄 ご な ど ( 叩 ) 岡 崎 秀 紀 ﹁ こ れ で す べ て わ か る ﹃ 能 海 寛 研 究 ﹄

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文献紹介

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﹂ ( 未 定 稿 ) (日)隅田正三前掲注コ一、岡崎秀紀﹁慶応義塾時代の能海寛について﹁慶藤義 塾学報﹂とア│ノルド卿との出会いを中心にして│﹂(﹁石峰﹂五号一九九 八 年 二 月 ) ほ か 参 照 。 ( ロ ) 隅 田 正 コ 一 ﹁ チ ベ ッ ト 探 検 の 先 駆 者 ・ 求 道 の 師 八 九 ) ( 日 ) 同 右 能海寛﹄(波左文化協会一九 四 六 付 1チベット入境僧の自伝、伝記、回想録(個別研究書などは省略)など 河口慧海﹁西蔵旅行記﹄(博文館一九

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四、なお﹃河口慧海著作集﹄全一六巻 別巻四巻(うしお書応)の内、第一巻一九九八、同第二巻一九九九に復刻収 載ほかに﹃チベット旅行記(一五)﹄(高山龍三校訂・講談社学術文庫) 一 九 七 八

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重版﹁第二回チベット旅行記﹄﹁第一部入蔵記﹂(講談社学術文庫 一九八一講談社)河口正﹃河口慧海日本最初のチベット入国者﹄(春秋社一 九六一、再刊二 0 0 0 ) 高山龍一一一﹃河口慧海人と旅と業績﹂(大明堂一九九九)高山龍三編著﹃展望 河 口 慧 海 論 ﹄ ( 宝 蔵 館 二 O O 二)ほか諸論考 奥山直司﹃評伝河口慧海﹄(中央公論新社二

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三)奥山直司﹁高楠順次郎 と河口慧海脱亜と入亜の仏教学﹂(﹃大法輪﹄一九九九・六)ほか諸論考 能海寛﹃世界に於ける仏教徒﹄(哲学書院一八九三一、一一) 寺本腕雅編﹁能海寛遺稿﹄(大谷大学能海寛追悼会一九一七、なお一九九八年 五月書一房より復刻出版)隅田正三﹃チベット探検の先駆者求道の師﹁能海 寛﹂﹄(波左文化協会一九八九)村上護﹃風の馬西蔵求法伝﹄(佼成出版社 一 九 八 九 ) 江本嘉伸﹃能海寛チベットに消えた旅人﹄(九龍堂一九九九) 寺本腕雅横地祥原篇﹃蔵蒙旅日記﹄(芙蓉書房一九七四) 青木文教﹃秘密の圏西蔵遊記﹄(内外出版社一九二コ一、のち﹃西蔵﹄芙蓉書房 刊所収一九六九) 多国等観牧野文子編﹃チベット滞在記﹄(白水社一九四八) 2 参 照 文 献 等 山口瑞鳳﹃チベット﹄上・下(東京大学出版会一九八七・一九八八) 柏原祐泉﹁日本仏教史近代﹄(吉川弘文館一九九 O ) 圭室諦成監修﹃日本仏教史近世篇近代篇﹄(法蔵館一九六七) 菅沼晃﹁国粋主義の主張と哲学館﹂﹃現代日本と仏教 E ﹄ ( 平 凡 社 二 000 年 ) 拙稿﹁哲学館を巡る河口慧海と能海寛﹂(﹁石峰﹂第七号二 0 0 0 ) ﹃ 南 係 先 生 遺 芳 ﹂ ( 第 七 六 ・ 七 九 通 ) ( 南 俊 先 生 遺 芳 刊 行 会 篇 一 九 四 二 ) ほ か 。

参照

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