嵯峨
諸
寺
門
前
地
の
近
代
的
変容
に
関す
る
予備 的
考察
渡
邊
秀
一 ・木
村
大
輔
小
林
善
仁
・藤
井 暁
は じ め に(
1
>
問 題 の 所在
嵯
峨 ・嵐山
は京都
の 西郊
に位
置 す る景
勝 地で ある。 一般 的に は東
山とな らん で 京都を代 表 する観 光 地と して 知られて い るが、 優 れた 景観 と歴 史 的 遺 産、 そして 田園がつ くりだす 良好な居 住 環 境の もと で 形 成さ れた 郊 外 住 宅 地 とい う側 面
をあわせ もっ て い る。観光
地に しろ、郊外住 宅
地に しろ、 そ れ は近代
以降
の もの であ り、前
近代
と は まっ た く異
な る景観が わ れ わ れ の 目の 前に ある。 こ の激
変 して きた 嵯峨 ・嵐 山の 景 観を読み解 くキ ーワ ー ドと して 、 また近 世 と近代をつ な ぐキ ー ワー ドと して 取 り上 げた の が、 「門前
地」 で ある。寺社
地に つ い て は境 内
・寺 内
・門前
な ど様
々 な用語
が あ り、 ま た寺
社を核
に して形成
さ れ た都市
の 形態
と し て寺 内
町 ・門前 町な どの 用 語が用い られて い る。 し か し、 こ こ でい う門前 地 と は歴 史学 的 ・歴 史 地 理 学 的概 念 とい うよ り、寺社 とその周
辺地 域の 現 況を踏まえて 、 狭 義に は 山 門や築
地に よっ て囲
い込
ま れた宗教 的
空間
(=境 内)の外
に広
が る旧境 内
地 を、 広義
に は 旧境 内
地 を含
め寺
社の存在
を通 して結合
してい るま とま りあ る地 域を指
し て い る。本 稿で と くに 注 目
す
る の は明治 年 間に上地さ れた旧寺 院境 内地で ある。 京 都 旧市
街 地の 寺 院境 内地につ い て い え ば貸 地な ど に よ り多
くの 寺 院境 内 地 が江 戸時代
に は市街
地化
して い た こ とが既に指摘
さ れ (1)、 ま た江 戸時
代
に歓楽街化
し てい た境内
地が 上 地 され 、近代
的歓楽街
へ 再 編 された事例
な ども知 ら れて い る(2)。後
者は近 代 的景 観へ の 変化
を ともなっ て い るが、 旧 市 街 寺 院境 内 地に は都市 空 間と し て の 歴史 的継 続 性が ある。 これに対 し て 、 広大
な境
内地を所有
して い た郊外寺
院は 上 地に よっ て境 内
地を大
きく減
らし、 上地され た旧境内
地は国有化
され、 あるい は民 間に払い 下 げられ て、郊外住 宅
地 な ど新
た な近 代 景 観 を生み出 す こ と になっ た (3)と考
え ら れる た め である。そ こ で 、嵯峨 ・
嵐
山地 域に おける諸寺
門前 地の 近代
的変容
を考
え る上で課
題となるの は、 以下 の4
点
であ る。嵯
峨 ・嵐山地
区の諸寺
院に お ける上地
の プロ セ ス を 明 らか に する こ と。上地さ れた旧境 内地 (一 門前地)の広が りを 確 定 するこ と 。
上地前
後
の 門前 地の 土 地利 用 変化を明らか に するこ と。近
代京
都の 発展
が嵯
峨諸寺
門前
地の 土 地利
用の及
ぼ し た影
響を明らか にする こ と。これ らの
大
きな課 題に対 し て 、調 査 ・研 究 活 動は緒に就い た ぼか りで あ る が、 現 時点
まで に調 査 し た資 料 とそ れか ら知 りえた事
柄を以下 に ま と め、 中 間報告
と し たい 。(
2
)
対象
地 域嘉 永
5
(1852)年
に刊 行 された 『洛 西嵯
峨名
所案
内記 』(4 )とい う嵯 峨の 住 人が執筆
し た案 内記が ある。 太秦
・帷子 辻か ら上嵯 峨 道の分 ・下 嵯峨 道の 分に 分けて 嵯峨一帯の 名所
旧跡を記
載 し た もの で あ る。 そ の記
載 内容か ら み た嵯峨
は、 お よそ東
は有栖
川を境
と し、西
は大堰
川右岸
の嵐山
、清滝
川 上流の 愛宕
山 ・樒
ヶ原 を含
む範 囲で ある 。大
堰 川 右 岸は葛 野 郡上山
田村
で ある が 、 景 観 的に は 一体で あり、以 後 嵐 山 と して 対象
範 囲に含 む もの とす る。 また、 大堰 川 左 岸は 上嵯 峨 村 ・天 龍寺門前 ・池裏
村 ・水
尾 村 ・原 村 ・ 越畑村
・川端村
(下嵯 峨 村)
・生 田村
・高
田村
の9
ヶ村
に ま た が る地 域に相
当
して い る。 こ の9
ヶ村の 支 配 関係をみ る と大 き く二つ の 地 域に分け られ る。 表1
は 明 治10
(1877
)年前 後 に 完 成 し、 内務 省へ 進 達さ れた 『旧高 旧領 取 調 帳 』 山城国葛
野郡
(5)に 基づ い て嵯峨
9
ヶ村
の村高
、領
主 とその支配高
を整
理 し た もの であ る。 一 見 して明らか なよ うに 、寺
社領
は天龍寺
門前
か ら生 田村
ま で の5
・ヶ村に集 中し、 なか で も天 龍 寺 門前 ・上嵯 峨村 ・池 裏 村の3
ヶ 村 で は大覚 寺 ・天龍 寺 ・清 凉寺 ・二尊
院と い う嵯峨の 主 要寺
院が 村高
の ほ と嵯峨 諸寺門前 地の 近代 的変容 IC関 す る予備 的考 察 ん どを
占
め て い る。 また、 川端村
で は速水裕
益以 下 の後
院侍
の知 行 地が あ るが 、領 地 高は わ ずか で、 や は り寺 院領が70
%近 くを 占め てい る。 これ に 対 して 、高
田村は 天龍
寺 領が分布
する と は い え石 高はわ ずか で 、 水 尾村 以 下3
ヶ村
に な る と広橋 家
・高
野家
と い っ た公家
や 下級官
人の知
行 地で 、寺
社領
は全 く見
られ ない 。 し た が っ て、寺
院門前
地の 近代
的変容
を課
題 とす る本稿
に お い て は 、嵯峨
9
ヶ村
の うち天龍寺
門前
か ら生田村
ま で の5
ヶ村
を対象
地 域 とする こ とが 最 もふ さ わ しい とい えよ う。明
治維新
後の 行政 区画 の 変 遷を見
ると、嵯 峨9
ヶ村は 明 治5
(1872
)年か ら7
(1874)年
に か けて合併
が進み、 上嵯
峨村
・下嵯
峨村
・嵯峨
野村
の3
ヶ 村に なっ たが、 明 治22
(1889)年
に嵯1哦
野村
が太 秦村
に合併
さ れ て い る。 し たが っ て 、 明 治22
年
以降
になる と資
料の うえで は 旧 生 田村 ・旧高田村を嵯 峨の 一部と して扱
うこ とが 困難に なる。 そ こ で 、 本 稿で は 天龍 寺 門前 以下 の5
ヶ村か ら生 田村
を 除 き、 天龍寺
門前
・上嵯峨
村 ・池裏村
・川端村
(下 嵯峨村)の4
ヶ村
、 明 治時代 前
・中期
の行
政 区 画で い え ぽ上嵯峨村
・下嵯
峨村の2
ヶ村 とする。 なお 、 上嵯
峨 村 ・下 嵯峨 村は明 治36
(1903
)年
に合 併 して葛
野郡 嵯 峨 村 と な り、大 正12
(1923
)年に葛
野郡 嵯 峨 町、 昭和6
(ユ931
)年
に は京都市右京 区
に合併
さ れて い る。表
2
は嵯峨
・嵐 山
地域
に お ける主要
6
寺院
の境 内
地面積
の変化
を示
した もの で ある。 なお 、 『平 安 通 志 』 に は こ れ 以外に臨 川 寺 ・遍 照寺
・曇 華 院 の 新境
内 地 面積が記載
さ れて い る(6 )が、 旧境 内 地 面 積 の 記 載が ない た め、表
に は掲載
し て い ない 。表
2
に よれぽ、 主要
6
寺
院が上 地に よっ て失っ た境 内
地、 すな わ ち狭義
の 門前
地は50
町4
反5
畝20
歩であ る。 さ らに 、表
1
に あっ た よ うに大 聖 寺(7)・仁 和 寺 ・男 山八幡 宮な ど嵯 峨 ・嵐 山地 域 以外 の 寺社 の支 配 地が212
.317
石あっ た。 これ らも寺 社支
配か ら離 れ 嵯 峨所 持 の 門前
地と一体
に なっ た とする とさ らに面積は大 き『くな り、 そ れ が近代の 新た な景観
形 成の 土台
に な っ てい くの で あ る。表
1
嵯峨地 区の 天龍寺 門前 上嵯峨 村 池 裏 村 川 端 村 生 田 村 大 覚 寺 領17
.030588L6575104
.3120
大 聖 寺 領75
.0000
天 龍 寺 領354
.5345228
.3330
87
.1600247
.89520180
.50900
清 凉 寺 領97
.8170
二 尊 院 領24
.124
77 .9810
9 .4300 0 .86000 真 乗 院 領 23 .8470 7 .8030 真 光 院 領 28 .0000
理 性 院 領1L70QO
仁 和 寺 領33
.20000
男山 八幡宮 社 領32
.76700
2
.30000
壬 生 家 領42
.ll43
8
.39700
阿 野 家 領21
.6520
59
.47
ユ0
8
.6690125
.85300
烏 丸 家 領 5 .453 31 .4695 46 .4895 高 倉 家 領 2 .082
21 .6446
3
ユ.9835
広 橋 家 領 高 野 家 領 正 親 町 家 領 元 守 護 職 役 知 55 .92600 三 雲 宗 裕 知 行 日 下部幸恒知行 西 大寺実邦知行 上 園 実 久 知 行 尾 崎 光融 知 行 速 水裕益 知 行025912
山 形 憲 澄 知 行 0 .25923 松 波 光 貞 知 行212
.317
0
。25923
世 続 重 遠 知行025923
河 端 清 益 知 行025923
岡本清 庭 知 行0
。25923
速 水基 益 知 行0
.25923
藤 木 以 直 知 行 0 .25923 藤 木 有 保 知 行O
。25923
岡 本 氏 臣 知 行0
.25923
斎 藤 盛 益 知 行0
.25923
岡本 清 伸 知 行O
.25923
松 波 資之 知 行 0 .25923 計 466 。99031497
.2206335
.547
σ452
.34208
資料 「旧高 旧 領 取 調 帳 』 注 1) 正確に は、男 山八幡 宮社 領之 内公 文所 領である。嵯 峨諸 寺 門前 地の近代 的変 容に 関 す る 予備 的考察 領 主と支配 高 (単イ立:石) 高 田 村 水 尾 村 原 村 越 畑 村 計
1003
.0000
75
.0000
7
.58200
1106 .0137 97 .81707
.61400
120
.0090
31
.650Q
28
.0000
ll
.7000
33
.2000
35 .0670 50 .5113215
.6450
74
.05400
157
.4660
50
.02650
105
.7366
64
.0310
64
.0310
55
.32000
55
.3200
153 ,34600 153 .3460 55 .9260
110
.9898
110
.9898
132
.4400
132
.4400
71
.09762
71
.0976
70
.99762
70
.9976
70
.99762
70 .9976 0 .259120
.25923
0
.25923
0
.25923
0
.25923
0
.25923
0
.259230
.259230
.25923
.0
.25923
0
.25923
0
.25923
0
.25923
llO
.9898196
.4710268
.412863327
.9736
表
2
主要寺院の境 内地面積の変 化 境 内地面積 上 地 面積 旧境 内地 新境 内 地 町 反 .畝 .歩 町.反 .畝.歩 町.反 .畝 .歩 天 龍 寺36
.0
.9
.0010
.5
.7
.2725
.5
.1 .03
鹿 王 院5
.9
.8
.08
1 .3
.6
.144
.6
.1 .24
大 覚 寺ll
.4
.8
.05
2
.7 .O
.04
8
.7 .8
.Ol
清 凉 寺2
.5
.6
.03
1
.9
.1
.ユ3
0
.6
.4
.20
二 尊 院10
.2
.8
.06
1
.8
.4
.27
8
.4
.3
.09
法輪寺3
.0
.9
.02
6
.2
.09
2
.4
.6
.23
資 料 京 都市 参事 会編 (1895)「平安通 志 』 京都市 参 事 会1
社
寺境
内地 処分 関
係資料
から
みた
大 覚寺
門
前
地
(1
)
社 寺境 内 地 処分 関係 資料の 位
置
付け歴
史
地 理 学が近代 以 降の社 寺 門前 地 を対象
と して 景観 復 原 を行 う際に 活 用し て きた資料
と言え ば、 地 形 図や地 籍 図(8)な ど の 地図類
が 一般
的で あ る 。 しか し、明 治初 期 に おい て は 地 形図 ・地 籍図 と も その作
成事業
が緒に就
い たばか りで あ り、 地形図
な ど は 一部
の地域
で限定 的
に作成
されるの み であ っ た。 本稿
の 対 象 地 域で ある嵯 峨 ・嵐 山を 収め た 地形 図が 作 成されるの は 明 治20
年 代 前 半(91の こ とで あ り、 そ れ以 前に 作 成さ れ た 当 該 地域の 地 形 図は存
在 しない 。 また地籍 図に つ い て は 、 地券
交付
や地租改
正事業
に 関係
して様
々 な地籍 図類
が作成
さ れてい る ものの 、地方
や地域
に よっ て残存状
況
が異
な り、 記 載内
容 や地 図と し て の 精 度につ い て もか な りの相 違が認め られるな ど、多
くの 問題 点を含んで い る(lo)。こ の よ うに 、 歴 史 地理学が従 来
使
用 して きた近代景観
の復
原資料
で ある 地形 図
・地籍
図に は幾
つ か の資料 的
な制約
が存在
す る。 と くに 明治初期
に 限っ た場 合、 それ らの使 用は よ り困難 な状 況にある。 し たが っ て 、当該期 に おける景 観 復 原を行5
た め に は地 形 図や地 籍 図に 代わ る資 料を提 示す る 必 要がある。 そ こ で 、 本章
で は 明治 初期
の 社寺
門前
地の復
原を 可能
とする嵯峨諸 寺門前 地の近代 的変 容に関 す る予備 的考 察 資 料 として、 明治
4
(1871)年
か ら行
わ れた社寺
の境内地処
分に 関係
し て作
成 された 資料に注 目する。 一連の 資 料に は境 内 地処 分 時の 門前 地 を描い た絵
図や処 分経
過を示
す文書
な どが存 在
し、 これ らの資
料を用い る こ と で境内
地処
分に伴
う門前
地の変化
を確 認
する こ とがで きる。 以下で は 、明治
初 期に 景観の変化
が想定
され る社 寺
の 門前
地 に つ い て、嵯
峨 ・嵐山
の 中で も 主 要な寺 院で ある大 覚寺の 門前 地を例に境 内地処 分 以 前の 状 況を復 原 する とと もに 、 処 分に伴
う門前
地の変
化を検討
して い く。(
2
)
明
治
初 期の 社寺境 内
地 処 分 明 治2
(1869
)年、 明治 政 府は封 建 的 領 有 制の 解 体 と政 府 財 源の強 化を 目 的と して 、 諸大名
か ら封 土 と領 民を返上 させ た。 しか しなが ら、 版 籍奉
還 が実施
され、諸大名
の領有
地が政府
の所有
となるなか で 、神社
や寺院
の領
有 する土 地は依
然と し て 旧来
の ま まで あ り、 旧藩領
を整
理する上で も社寺
領の介在
が少
なか らず障害
となっ て い た。 そこ で、 明治
4
(1871
)年
正 月5
日、神社
・寺
院の境
内地を処 分す
る布 告(ユユ)(以下、 第1
次上 地令)が 太 政 官 よ り告示
さ れ、 社寺境
内地 の処 分が開
始 さ れ た。 こ のag
1
次 上 地 令は 「従 前 之 通被
下置候
処」 とな っ て い た社 寺
の境 内
地に対
して 、 「各藩版籍奉
還 之末社 寺
ノ ミ土 地 人 民私有
ノ姿
二相 成
不相 当
」 である との 理由
か ら 、 「現在
ノ境
内」 を 除 く土 地の 上 地 を命
じるもの であっ た。 社 寺 境 内地の処 分に つ い て は 、 大 蔵省
が編纂
した 『社寺境
内 地 処 分誌』(ユ2)に そ の概 要が記さ れ て い る。 また、京都府
下で行
わ れ た社 寺領
の処
分に 関 して は 、竹
林忠 男が詳細
な検討
を行
っ て い る (ユ3)。 こ こ では先行研 究
を参考
に しつ つ 、 関係資
料
を併 用 しなが ら社 寺境 内地の 処 分経
過に つ い て み て い く。明 治
4 年
正 月の 段 階で 上地の 対象
とさ れたの は 、神 社 ・寺 院が旧幕 府や諸大名
か ら土 地の所
有権
や租
税の収
納 権、 あ るい は 租 税 納付
の 免 除を承 認 された朱 印
地 ・黒印
地 ・除 地 などの 土 地で あ り、境内
地は 上地
の対象
か ら 除外 された (図 1)。 し か し、境
内地処 分に 関する取 り調べ を担当
した府藩
県
に よっ て 境 内範 囲の確 定基
準が 異 なる とい う不都
合が 生 じて い た た め、 政府は 改めて 同年 5
月24
日に 境 内 区 別 の 基 準(14)を府藩
県に 示 し、 田畑 ・ 山 林 ・荒 地 (墓 地 を除 く)は 全て 上 地の 対象
と さ れた。 加 えて7
月4
日の太(狭 義の境 内 〉
…
鵞
黒
欝
図1
社 寺領の区分 注 〉 大蔵 省管財 局 『社 寺 境 内 地 処 分 誌 』、大 蔵 財 務協会、ユ954よ り作成。 政 官 達(ユ5)で は 、神 社 境 内の 範 囲 を 「本 社 及 建 物」 の 敷 地に 限 定 し、 その 他は上 地 する旨が示 さ れ た。 以 上の法 令で 示さ れた境 内外 区 別の 基 準は 社寺
に とっ て極
め て厳
しい もの で あ り、 上地の対象
は 「境
内主 域」を除 く「境
内附属地」 に まで拡大
され た。 これ らの 法 令 を受 けて、京都 府で は各 社 寺に対 し て境 内 地 を描い た絵 図 と取
調 書の 作 成 ・提 出 を命
じ、 これ を もと に 実 地検 分 を行い 、 新 基 準に基 づ く境内
地の確定作業
を実施
した 。 こ の と きに 、各
社寺
か ら京都府
へ 提 出 さ れ た絵
図が 『京都 府庁 史料
』 似 下、『府庁 史料』)に残
さ れ て い る。 厂社寺
境 内外
区 別 原 図」(16>似 下、 「原 図 」)が そ れで あ り、愛 宕
・葛
野 ・紀伊
・乙 訓の4
郡の 分 が現 存 して い る。 「原 図 」 を通 覧 して 気 付 くこ とは、 社 寺 ご と に 見ら れ る記 載 内 容の 違 い で あ る。 嵯峨 ・嵐 山の 主 要な寺 院(17)で ある清凉寺
・大覚寺
・二尊 院
の 「原 図」 を比較
して み る と、境
内 地の範
囲を示 す朱引線
が記されてい る点
は3
枚
ともに共
通 するもの の、 そ れ 以外
で は共
通 点が見 当た らず
、 それぞ れ 記 載す
る内容が異 なっ て い る。 この 「 原 図」 を もと に地券掛
が実 地検
分を行
い 、 境 内地の範
囲が確
定された の だが 、記載 内容
の差異
か ら も推 察
される よ うに取
り調べ の 成 果は一定
せ ず、 なか に は再検査
を必 要とす る社寺
もみ られた (18)。境 内地 処 分 が行われてい た この 時期は、地 券 交 付や地 租 改正
事
業 などが 開始され た頃
で も あ り、 これ らの事
業 と の 関連か ら社寺
境 内地の処 分は急 が れた。 政府
の 重要施策
で あ る地租改
正事業
は当
初、大蔵省
の管
轄で あっ嵯峨諸寺門前地の近代的変容に関する予備 的考察 た が、
事
業の性質
上か ら内務省
と関連 す る事
項が少
な くなか っ たため、 明 治8
(1875
)年3
月、両 者の 間に地 租 改正事
務 局が設 置 された。 当 時、社 寺行
政の担当機 関
は 教義
に 関 する事項
を教 部省
が担 当 し、 そ の他の事 項
は 内務 省
と大蔵省
が担 当
してい た ため 、社寺境 内
地処分
も地租改
正事務 局
の も と改租事
業の 一環と し て行
わ れる こ と とな っ た (1g)。地
租
改正事
務 局は土 地の名称
を区別 し、 所有
者を確定
す る作業
を進
め る なか で、社寺境
内外
の区
別が判然
と して い ない ため 地 租改
正事
業に支障
を きた し て い る と して、 同年
6
月29
日付で府 県
に 「社寺境
内外 区
画取
調規
則」 似 下、 第 2 次上 地令 )を通 達 し、境 内外
区別 取 調の推進
を図っ た。第
2
次
上 地令
で は社寺
境 内地の範
囲を 「祭典 法
用二 必需ノ場 所 」 と し、 これ を 「新境 内
」 と定
め、 そ れ以外
の土 地は 「悉皆
上 地」 と心得
て取
り調
べ を行
うよ うに指示
さ れ た。 こ の と き新
規に境 界
を定
め る際
は 「溝
塹堤墻
又者
道
路等
ノ地 形」 に よっ て判 別 し、 境 内 域を示 す表
示の設 置を明記 し てい る。 こ れに よ り境 内外
区別の 明確
な基
準 が示 され、 以後
は こ の第
2
次
上地令
に 基づ き境 内
地の確定作業
が行
わ れた 。第
2
次
上地令
の発令
に伴
う社寺境
内外
区 別取
調の結
果に つ い て は 、 『府
庁史料
』 に残
る 「社寺境 内外 区
別取調帳
」 (以下、「取調 帳」)か ら知
る こ と がで きる。 「 取調帳
」 は処 分 された境 内
地の内
訳 と処
分の 経 過 を社寺
ご と に記 し、 こ れ を京 都 府が郡 別に ま と め 、内務 省へ 提 出 し た もの で ある。 『府庁史料
』 に残
る 「取調帳
」 は京都府
側の 控 (22)で あ り、後年
の変更
を示 す記
述や境 内
地の復
旧に関 する 図面
な どが収
め られてい る。 「取
調帳
」 の記載
を もと に大覚寺
の境
内地処
分につ い て み る と、 処 分以前
の境内
地は11
町4
反8
畝5
歩 (11
万3867
)で あ り、 こ の うち大 覚 寺 境 内分 と して2
町1
反6
畝8
歩
(2
万ユ448
)、塔
頭覚勝
院境
内分と して5
反3
畝26歩
(5342
)、 合計 2
町7
反4
歩
(2
万679Q
)が 「現境 内
二存 置見
込 之分
」 と判 断
さ れ、 こ の他
に16
歩
(53
)が墓地分 として認
め られて い る。 旧境
内に占
め るi
現境
内の割
合は23
%程で し か な く、実に全体の4
分の3
以上が上地された こ と になる。 「取
調帳
」 に は 山林に 関する記 載が見られない が 、 明治9
(1876
)年3
月に 地券掛
か ら土木掛
へ提
出さ れ た書類
に 「山 林反 別
五拾 壱 町五拾
歩大 覚寺
境外
地」 とあ るこ と か ら、 明 治9
年
以前
に 上 地さ れてい た もの と み られ る(23)。(
3
)
大覚寺
門前 地の復
原と変容
境
内地処
分の結
果 として 、 大覚寺
が大
幅にその 規模 を縮 減 された こ と は 前節
で確
認 し た と お りで あ るが、 そ れで は11
町を超え る広 大 な境 内地と は 一体
ど の よ うな空間で あ っ た の で あ ろ うか。 これ を復
原す る上で 有 効な資
料
が、先程
の 「取調 帳
」 と同じく 『府庁 史料
』 に残
る社寺境 内外 区別取調
に関する絵
図類
であ る (24)。第
2
次上地 令で は 第6
条で 「取 調 帳 」 の 作 成を規 定す る と と もに、 第8
条で は 「取 調帳
」 に 絵 図を添付
し、 伺 書を提 出する よ う指 示が な され て い る。 こ れに 基づ き作
成さ れ た もの が 「社寺境
内外 区別
図 面」(25)(以 下、 「取 調帳付 図」)
であ る。 「 取 調帳付
図」 は 旧境
内地の実測
図を地目別に 色 分け し た もの であ り、 境 内 と境 外の 範 囲は それぞれ 実 線と点線で区別 されて い る。 ま た 「取
調 帳」 の 添 付 図面 と い う性格か ら、 図 内に は 境 内外 区別 取 調の 結果
と して 分 類 別に処分
面積
が ま とめ られ、 そ れ らの所在
を示
す 記号
が書き
入 れ られて い る。この 「
取 調帳付
図」 に先
立っ て作成
された絵
図が、 明治
8
(
1875)
年
か ら15
(1882
)年 頃の 作 成(26)とさ れ る 「社 寺 境 内外 区別 図」(27)(以下、 「区別 図」)で あ る。 「区別 図 」 は 第2
次上 地令
に 基づ く境 内外 区 別の 線 引 き結 果を示 し た実
測 図で あ り、大覚寺分
は 「 分 間弐千 分一」 で作
成さ れて い る。 図 中に は 「士族敷 地
」 ・「人家
」 な ど に分け られた区画
ご と に面積
(坪蜘
が記載
さ れ 、情報
の 変 更を指 示す
る朱
書き
が記さ れてい る。 これ らの情 報が 「取 調帳
付図」 を作 成す る際に 活 用 され、 境 内 地の 状 況に 関 する情 報の 更新 も行 わ れてい る。「
取
調帳付
図 」 ・厂区別 図」 に前節
で触
れた 「原 図」 を加
え た3
枚
の絵
図 が、 社寺
境 内外 区別取
調に関
係 し て作 成 された 絵 図類である。 それぞれの 絵 図の作
成年
代を整理すると 「取調
帳付 図」が明 治16
〜18
(1883
〜85
)年、「区別
図」 が明治
8
一一15
年
、 「 原 図」 が明治
4
〜6
(1871
−−73
)年
であ る。 よっ て、 「 原 図」・「区別 図」・「取 調帳付
図」 の 順に記載内容
を確
認し てい くこ とに よ り境 内地の 変 化を空 間的に把 握 する こ と が 可 能 となる。これ まで みて きた よ うに 、 社
寺境
内地 処分で 処 分 対象
と さ れた境 内 地 と嵯峨 諸寺門前 地の近代 的変容に 関する予備 的考 察 は、 社 殿 ・
堂宇
の建つ境 内
主域
と門前
地 な どの境 内
附属 地か ら な る空 間で あっ た。 こ の こ と か ら境 内地の 変 化 を検
討 す るこ と は 、 すな わ ち門前
地の変
化を み るこ と に もつ な がる。 そ こ で 以下で は、 まず 「原 図」 を もと に 明治初年段階
で の境 内
地の状況
を復原
し、 その後
の境
内 地処
分に伴
う境
内 地 の 変 容につ い て 門前
地 を 中心
に 厂区 別 図」・「取
調帳付
図」か ら検討
して い く。「原 図 」 は大 覚 寺の 境 内主域を 「本坊」 と記 し、 その
東
に大
沢池
を、 南 と西に 門前 地を描い て い る(図2
)。 図の左
下隅に は 「葛 野 郡上嵯峨村大覚
寺
」 と明記
さ れ てい る。門前
地に は31
の 土 地区
画と人名及
び土 地の 状 態 が 記され 、 なか に は複数
の 人名
が記 され る区画
も存在
する。 門前 地の うち 、 本 坊の す ぐ南に位 置 する区 画に は林を表
わすと み られ る樹 木
が描
かれ、 道 路を挟んだ向か い 側の 区画に は 「旧 院家覚
勝 院」 ・ 「大
勝 院邸
地 」 ・「宝幢院
邸
地」 と記
され て い る。覚勝 院
・大勝
院 ・宝幢
院は院家
と呼
ば れた大覚寺
の 子 院(28)である が、 原 図に は覚勝
院 と宝幢
院の 区 画に の み 「従 前 之 通 」 と朱 書 きが な され、 区画の 四 隅が朱
書 きの丸
で、 四辺が朱線
で 囲まれて い る。 同様の 朱 書 きは本 坊の 周 囲に も記され、 その範
囲は本坊
と川を挟
ん だ 西側
の1 区画
、及
び大
沢池
の 西岸
に及
ぶ。「 原 図」 に
見
られ るこ うした朱書
きは他の寺
院の 厂原図」 に お い て も確
認で きる もの で あるが、前
述し た 「 原 図」 の作
成経緯
や 「従前
之 通」 の記
載 な どか ら、 第1
次
上地令
に基
づ き京都府
が判
断 した境 内
地の範
囲を示
し た もの とみ られ る。 こ こ で注 目されるの が、 「大 勝 院 邸地 」 と記さ れた 区 画で あ る。 「原 図 」 を見
る と、 こ の 区 画の 北東
と南東
の角
に朱
書 きの丸
が 記されてい るの だが、 こ ち らは朱線
で囲ま れ てい ない 。 同様
に 、朱線
で囲
まれて い ない丸
書 きは本坊
の 北 西 に おい て も確認
され る。境
内地の範
囲は 京都 府に よ る実 地検
分を経て確定
し たが、 社寺
側か ら提
出 された 「 原 図」 を京
都府
が吟
味 し、 予め境 内地の範
囲を朱
書きの丸
で示 し た後
に現地視察
を行
い 、現
状を確認
し た上 で改
め て境
内地 と判
断され た箇所
を朱
線で囲
み 「従前
之通」 と記入 した もの と推 測で きる。 こ の こ とか ら、大 勝 院は こ の と ぎ既に廃寺
に なっ て お り、境
内地か ら除外
さ れ た もの と考
え られ る。寺
院 以外
の 区 画に 目を転 じる と、 人名
の 記 さ れた区画
に違
い が見
られる こ と に気付
く。 例え ぽ、大
勝 院邸
地南 側の 区画に は 「井 関實
勇貸
地」 と記図
2
処 分以 前の大 覚 寺境 内地 注) 明治5 (1872)年 「社 寺 境 内 外 区 別 原 図」、京都 府 立 総合資 料館 所 蔵 『京都 府 庁 史料』 明5−47を トレー
嵯 峨諸寺 門前 地の 近代 的 変容に関する予備 的考 察 さ れて い るが 、これ と向か い 合 う
覚
勝 院南 側の 区画に は 「野 路井 孝 治 江貸
地」 とある。 人名
の後
ろ に 「 貸地」 と続
くもの と 「江 貸地」 と続
くもの と の2
種 類 が存在
するの で ある。 この 違い が何
を意味
するか に つ い て現時点
で確
た るこ と は言え ない が 、 前 者は井
関實
勇が他 者へ貸与
して い る土地を示
し、後者
は大覚寺
が 野路 井孝
治へ貸
与して い る土 地を示 してい るもの と推察
される。井 関氏
・野路井 氏
は と もに大 覚寺
の坊 官
を勤
め た家
(2g)で あ るが、 「原 図 」 に は 両 氏の 他 に も石塚 ・ 勢多
・ 細 川 な ど大 覚寺
に勤仕
し た 坊 官 ・侍 家 ・格 勤 とみ られ る人 名が記されて い る。 「原 図 」 に は これ 以 外 の 姓を もつ 人 名や姓の ない 人 名 も見
られ、 坊官
な ど の 例 と同様
に 「貸
地」 と表記
さ れてい る。 これらの人名
につ い て、 その詳細
は不明
であ るが、大
覚
寺に従属 する かあるい は 大 覚 寺の 土 地 を借 り受
けてい た人々 で あっ た と 推 測 され る。 「原 図 」 の 一部の 区画に は、 「畑 」 ・「当地 畑」 と い う記 載が見 られ る。 し か し、大半
の 区 画に は土地 利 用を示す 記載
が見
られ ない ため 、 これ らの 区画
が実際
に ど の よ うな利用
を さ れてい たかに つ い ては、先
述の 坊官
・侍 家 ・格 勤以外の人 名 と同じ く判 然 と しない 。 こ の よ うに、明治 初 年 段 階の 大 覚寺 境 内 地は、境 内主 域 と大 沢 池及び門前
地か ら な り、門前 地は塔頭寺
院と大
覚寺に 勤仕す
る人々 な どへ の貸
地か ら構成
されてい た こ とが「
原 図」の記載
か ら明
らか に なっ た。第1次
上 地令
に基づ く境内
地 の範
囲は、 境 内主域 と塔
頭寺
院に 限られ、 廃 寺に なっ てい た塔 頭 と大 沢 池の大 部 分につ い ては境内外
と判 断さ れ、 門前 地と同じ く上 地の対象
とさ れ た。 土 地利
用の 状 況や記 載さ れ た人名な ど に つ い て は、 そ の 一部
が 明 らか に なっ た もの の 不 明な点が多
く残る。明 治
7
(1874 )年
ll
月、 社 寺 境 内外 区別の推
進を 企 図 し た 内 務省
は府
県宛
に取 調官
の派
遣を通 達 し、 取 調を行 う上で必 要な書類や図 面 類の 調達
を翌年
3
月まで に行 うよ う指 示 し た (30)。 この とき境 内外の 区 別を注 意 し て行い 、 実測図面を整 備す る旨が併せ て 指 示さ れて い るが 、 その 後に 出さ れた教 部省
達や 第2
次
上 地令
を受
けて作
成され たの が 「 区別 図」 で ある(3ユ)。 「 区別 図」 の 作 成は 、前
述の と お り明治
8
−15年
の 間とされる こ と か ら 、 「原 図 」 後の 境 内地や 門前
地 の状 況を知 る上 で有効
である。「区別 図 」 は図題 に 「新 旧境 内外 区別」 とあるよ うに 、新 旧境 内地の 区
別が図示さ れて い る。 大
覚寺
と塔頭
の覚勝
院 ・宝 幢 院に は 、 そ れ ぞ れ 「新
境
内」 と記載
さ れ、 「原図
」 と同様
の範
囲が新境
内と認
め られ てい る。 し か し、宝幢 院
につ い て は 、坪数
「 四百
廿五坪
」 が朱線
で消
され、 「廃
シ 八 畝五歩畑
ニ スヘ シ 」 との 指示が書 き加え られ て い る。 「取 調 帳 」 に よ る と、 私 墾畑 地 と荒蕪 地の項
に 「元 宝幢
院 跡 地」 の記 載が あ り、前 者に は 「此反 別八畝五歩 元 宝幢 院
跡 地 是ハ自費 開
墾 之廉
ヲ以大 覚寺
江下渡
明治
十一年
一月届
出 之分」(32)と記さ れて い るこ と か ら、明
治11
年
以前
に 宝幢
院が廃
寺
とな り、 その跡 地の 一 部が大 覚寺
に よっ て 開墾された こ とが分か る。 ま た 「原 図」 で境 内地か ら除外さ れ た旧 大勝 院邸
地につ い て は 、朱筆
で 林 と表
記されて い る。厂区別 図 」 に は 「原 図」 で
見
られ た詳
細な土地 割が描かれて い ない ため 区 画の実数は不 明で あるが、 区 画内
に は畑 ・人家 ・林とい っ た 土 地の 区別 と坪 数 が 明記されて い るこ とか ら、 土地利 用の状 況が判 明す る。 ま た 厂士 族 敷 地」 と記さ れた区
画に土 地利
用は 明記
さ れ て い ない が、 厂区 別 図 」 に は 厂取調帳
」 に 記載
され る地種
の 分 布や 「取
調帳
付 図」 へ の変
更 点な どが朱 書
きされてい る こ と か ら、 「取 調帳
」 と対応
させ る こ と に よ り士族敷 地
の 土地利 用 状 況 が 明 らか と なる。 「区別 図 」 の 記載
か ら明 治8
年
一一15
年の 門 前 地の 状 況を み る と、 「原 図 」 で 畑 とされた 区画に変 化は 見ら れず、新 たに 宝幢
院邸
地が畑 地 化 して い る。 「原図 」 で坊官
・侍 家 ・格
勤 とみ ら れ る人名
が記
されてい た区画
に は 「士族 敷
地」 とあ り、 この うち覚勝 院
や旧
宝幢
院南 側の区画 内は旧家 来 居 住地 で あっ た。 「 取 調帳
」 に よ る と、 旧 家 来 居 住 地は明治6
(1873
)年9
月に 租 税 寮へ 伺 書 が 出された後、井 関 實 勇ほ か8
名
へ 下 げ渡
され てい る。 も う一方の士 族敷
地であ る大覚
寺 西 側の 区 画 は 田地であっ た と み られる が、 「区別
図 」 に は 「千
四百
六十
二坪
」 とある の に対し て 、 「取 調帳
」 の 面積 記 載に は 「田地 此 反 別壱
反六畝 歩」 とある た め、両者の記 載は大 幅に異な る。 処 分の 経 緯を見る と、明 治7
年6
月に 林康 郎
ほ か1
名
に下 げ渡
されて い る こ と か ら、 「原 図 」 に 「林 恰貸
地」 と ある区画
が田地
であっ た と考
え られる。 これ ら以外
の区画
と して は 、 門前
地 の南部に 「人 家」、 旧 宝幢 院邸 地の 西 側に 「民 家 」 と記され た一画が見 られ る。 こ れ らの 区 画は 、 「取 調帳
」 の 記 載か ら 「人民 居 住 地」 で あっ た嵯峨 諸 寺 門前地の 近代的変容に関する予備 的考察 こ とが分か るが、 その 屋
敷
が 自費
で建
て られた もの で あっ た こ とか ら本 多
弥平次
ほ か13名
へ 下げ渡
さ れ て い る。 こ の よ うに 、 明治
8
年
か ら同15
年
の 間に大覚寺
旧境 内
地で は塔
頭の 宝幢院
が廃 寺
とな り、大覚寺
の境内
地は さ らに縮 小 された 。 また かつ て の境 内
地で ある門前 地で は、 既に明 治6
年か ら土地の 下 げ渡 しが行われ、 これらの 土地は 大 覚寺に勤 仕 して い た人々 な どの所有
地 と なっ た。こ うし て
大覚寺
の境 内
地処分
は完
了 し、 その結
果は 「取 調帳
」 とそれに添付
さ れた 「取調帳付
図」 に ま と め られ、 内務省
へ 提 出された。 葛 野郡の 「取 調 帳 」 と 「取 調 帳付 図」 は、 明治18
年10
月に提 出さ れ て い る こ とか ら、 「区別図 」 の記載
を も と に作
成 され た とみ られ る が、 両 図を 比較
す る と門前
地に若干
の変化
が見
られ るこ とか ら、 厂取
調帳付
図 」 は 「区別 図」後
の変更点
を盛 り込ん で作成
された と考
え られ る。「取 調 帳 付 図 」 は 地 目別に着 色されて い る た め 、 その 記 載か ら門前 地の 土 地 利 用 状 況を
知
る こ とができ
る (図3
)。 「区別図
」 に見
られ た 「士族敷
地」 と 「人家
」 ・「民家
」 の 人民居住
地は 宅 地 と して赤色
に着色
され、大覚寺
西 側の 士族敷
地 に見 られた 田 地 も同様
に着
色 されて い るこ と か ら宅地 化 し た もの と み られる。 ま た大覚寺
が 開墾 し た宝幢
院跡 地の畑
はそ の 一部が荒 蕪 地 となっ て い るもの の 、 門前
地 全体
と して は こ れ以外
に 土 地利用
上で の変
化は見 られ ない 。(
4
)
小括
以 上、 社
寺境
内地処 分に関す
る資
料
を用い て 、大覚寺
門前
地の復
原とそ の 変 容につ い て考察
して きた。境
内 地 処分 以前
の大覚寺境
内 地は、ll
町歩
を超え る広大
な もの であ り、 そ れ らは境 内
主 域 と境 内
附属地で構
成 され、境 内
附属 地に は山林
や 門前
地が含
ま れて い た 。 明治
4
年
か ら段 階的に行わ れた境 内
地処 分の結
果、大
覚
寺
境内
地は境 内主域部
と有住の塔頭寺
院地に 限 定さ れ 、附 属の 山林を始め隣接す る大沢 池か ら 門前の 宅 地 ・耕
地、廃寺
と なっ た大
勝 院 ・宝幢
院の 跡 地に至る まで 、 旧境
内地の4
分
の3
以 上が上 地 された。収
公さ れ た 門前
地 に は、井
関氏や野路井
氏な ど坊官
・家士 の屋 敷やそ のイ… 旧
家
ロ …田地 ハ …人 民 ニ …藪 地 ホ…畑 地 ヘ …池地 ト… 林 地 チ … 私墾 リ…荒蕪 図3
大 覚寺 旧境 内地の状況 注1) 明 治ユ6 (1883) 年 「 社 寺境 内外区 別 図 面」、京都府 立 総 合資 料館 所 蔵 『京都 府 庁史 料』 明ユ6−48一追2 より作 成。 2) 記号イ〜リは、「 社 寺境内外 区別取 調帳」、『京都 府庁 史料』 明16−48一追1の記載と対応している。他
の 人々の居 住 地や耕 作 地が広が っ て い た が、 これ らの土地は境 内 地 処分 に伴い明治
政府
か ら彼
らに払
い 下 げ られた。 これに よ り、 そ れ まで支
配上 一体で あ っ た大覚寺
と門前
地は切 り離され 、明治
政府
の もと で 一元的
に支
嵯峨諸寺門前 地の 近代 的 変容に 関 す る予備 的考 察 配され る こ と となっ た 。 しか し、
境 内
地 処分
に関す る 一連の絵
図類か ら 門 前 地の 景 観を考察 し た なか で は、無住 寺 院の 廃 寺 化の ほ か に 目立っ た変 化 は確認
さ れ なか っ た こ とか ら、境
内地 処 分に よ る景 観へ の 影 響は割 合 少な か っ た と言
え る。境 内
地処 分に よっ て上 地さ れた 門前
地や付
属の山
林な ど は 、 一部
が境
内 地に復
旧(33)さ れた もの の 、大部
分 が官有 地
・民有 地
と し て 明治
20
年代 前
半
の仮
製 地 形 図(34)、 あ るい は 地 籍 図に 見 ら れ る景 観へ と続い て い く。 現在
の嵯峨
・嵐
山が もつ 郊 外 住 宅地と して の 面や観光
地 と い う面が現れ るに は鉄道
の 開通や バ ス 路線
の 開業
を待
たねぽな ら ない が、 こ うした 開発の 基礎
を生み 出し た の が社寺
の境 内
地処分
で あっ た。II
[嵯
峨
・嵐 山
地域
の地
籍
図
とそ
の利
用
(1 )
地 籍 図の種 類 と作 成 過程
普段 我
々 が地籍図
と呼ん でい るもの に は 、 大き
く分けて2
種
類がある。 一つ は昭和26
(1951
)年
の 国土調 査法
に 基づ い て作 成 さ れた新 地 籍 図 と呼ぽ れ るもの で あ り、他
は明治期
に作
成さ れ た 旧 地籍
図で ある 似 後、 旧地籍 図 を地籍図と記す)(35)。新地籍
図がほ ぼ地割境
界線
と地番
だけ を記述
して い る の に対 し、地 籍 図に は 地 割 境界 線や地 番は もち ろ ん、地 名や各 地割の地 目 ・等
級な ど多
くの情報
が記 述さ れ て い るこ とか ら、 歴 史 地 理 学研
究の資
料 と し て地名収集
や景観復 原
な ど に用
い られて きた。 そ こで本章
で も地籍 図の 作 成 過 程 とその利 用につ い て述べ てい きたい 。図
4
は 地籍 図 及び新 地 籍 図の 作 成時 期 ・事
業 ・法律な どの 相互 的な関係 と備置
場所
を系譜
的に 示 した もの で ある。 これ に よ る と明 治期に作 成 さ れ た地籍
図は壬申
地券
地引絵 図
、 地租
改 正 地引絵 図
、 地押 調
査更
正地 図、 地籍
編纂
地籍
図の4
種
類であっ た こ とが わか る。但
し、 図4
で示
した過 程で 作 成 され た各 地 籍 図は 、 それぞ れ の事
業や法 律の 目的に よっ て表
現法
に違 い が み られ る。 また、 全 府 県で4
種 類 と も作 成されたわけで は な く、作
成時期
も府 県
に よっ て少
しず
つ 異なっ て い る(36)。 以 下で は 、 こ の よ うな経緯
と各
地籍
図の特徴
につ い て概観
して い く。大 蔵 省 な い し地 租 改 正 事 務 局 主 管
十
一 明 治17(IS84)年12月 明 治8〔1B75}年5月 間 掌の統一 1 地 租二閏ス ル所 帳 簿 様 式 制 定 十 明 治22CISS9 )年3月 土 地 台 帳 規 則 制 定 地 券 廃 止 土地 台 帳付 属 地 図一
土地 台 帳・地 図 備 置 場 所の移 管 甌 町村の分 郡 役 所 明 治22(18B9)年5月 府 県収 税 部出 張 所 毆 直 府 県 収 税部出 張 所に移 管 市の分 府 県 庁 明 治29(ISBS)年le月 税 務 管 理 管 匍公布 税務署に移管 昭 和22(tg47)年 3月 土地 台 帳 法公布 家 屋 台 帳 法 公 布 昭和25 (1950)年 8 月 土地台帳法 施行規則制定 法 務 局・同 支 所・出 張 所 (登 記 所冫に移 管 土地 台 帳 付 属 地 図 図4
↓
明治 期作 成地籍図の系譜 と備 置場 所壬
申
地券
地引絵
図壬
申
地券
地引絵 図は地 券 交付 作業
に伴
っ て作
成された地 籍 図をい う。 こ の 地籍
図は調 査 時に 実 測が行
わ れず、 従 来の 検 地 帳や名 寄帳
な ど の 反 別を嵯 峨諸 寺門前地の 近代 的変 容に関 す る 予備 的考察 基
礎
と し、所有者
の申告 制
を とっ てい た こ と か ら、 正確
な 土 地 区画 あるい は面 積を表
す こ と よ りも、各
土 地の 位 置や配列の把 握に主 眼を置い て い た の で ある。 さ らに 、 調 査時
に脱
落 地の 発 生を防 ぐため 、 土 地の位 置の表示
法
と し て地番
が設定
さ れ、 地券番号
と して も用い られ た (37)。地
籍
図の表
現法
に し て も宅 地に家 型の記号
が用い られ、神
社や寺
な ど に絵
画 的な描写
が行
われ るな ど、 従来
の村絵
図の様 式
が採
用 さ れた と ころ が多
か っ た と いわ れ て い る。 しか し、 明 治6
(1873
)年
に は地租改
正 法が公布
され た こ とか ら、作
成作 業
を打
切 っ た県
や改 租 作業
に 切換
えて継 続
した県
な ど様
々 で あっ た (38)。地 租 改正地 引 絵 図
地
租改
正地 引絵
図は地租 改
正事業
に基づい て作
成さ れ た地籍
図である。 こ の事業
の 調 査に 際して 、 地域規模
が きわめ て 不均等
に なっ てい た近世以 来の 字を区画 し直 し、 その字
に新
し く番号
が付
けられた。 地番
につ い て も 区 画 し直
された字
を単
元に新
た な地番
が設定
された 。 こ の新
たに 設定
され た地番
は そ の後
約100
年
近く
用い られる が 、 そ の ころ にな る と分筆
・合筆
に よっ て枝
番 ・欠番
が生 じて錯 綜
を きた した。 こ の よ うな こ と か ら町名
地番整
理事業
が発足
さ れ、 昭和
37
(1962
)年
5
月
に 「住居表示
に関 する法律
」 が定
め られた(3g)。こ の 地租 改正
事
業に お け る調 査 に お い て も壬 申地券 交 付 時の 調 査 と同じ く申告
制が と られた。 しか し、 土 地 面積に 関 して は実
測が行
わ れ 、申告
に つ い て も1
筆
ご との調
査を地番
順 に記載
し た帳
面とそ れ を表
現 し た地引絵
図を もっ て厳
重な実
地検
査が行
わ れ た。但
し、実
測が行
わ れ たの は民有
地 の み であ り、 官 有 地や課 税 対象
外 の 土 地は見 取 りで済 ま して い る府 県 も多
か っ た (40)。事業 開始
時 期に つ い て は各府 県
で そ れ ぞ れ異
な る。 近畿
地方
だ けで も明
治
7
(1874
)年
に 開始
さ れ た府 県
が滋賀
(近 江)・豊 岡 ・兵庫
(摂 津)・大 阪
・ 堺 ・和 歌 山、 明 治8
(1875)年 開始が京 都 ・兵庫 (播磨)・名 東 (淡 路)とな っ て い る(4D 。地 租 改 正地 引 絵 図の 作 成に際 して 、
各
府県
内で は そ れ ぞ れ が雛 形を示 す な ど して統
一を図っ た が 、各府県
間に よ る違い が生 じた。事業
実 施 期 間中の 明治