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Bukkyo Unlverslty University 嵯峨諸寺門前地の近代的変容に関する予備的考察 一渡邊秀 木村大輔 小林善仁藤井暁 はじめに (1 > 問題の所在 嵯峨 嵐山は京都の西郊に位置する景勝地である 一般的には東山とな らんで京都を代表する観光地として知られているが 優れた景観と歴

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全文

(1)

嵯峨

変容

関す

予備 的

考察

一 ・

井     暁

は じ め に

1

問 題 の

  嵯

峨 ・

嵐山

京都

西

置 す

勝 地で ある。 一般 的に は

らん で 京都を代 表 する観 光 地と して られて い るが、 優 れた 景観 と歴 史 的 遺 産、 そして 田園がつ くりだす 良好な居 住 環 境の もと で 形 成さ れた 郊 外 住 宅 地 とい

側 面

をあわせ もっ て い る。

観光

地に しろ、

郊外住 宅

地に しろ、 そ れ は近

の であ り、

と は まっ た く

な る景観が わ れ わ れ の 目の 前に ある。 こ の

変 して きた 嵯峨 ・嵐 山 景 観解 くキ ー ー ドと して また近 世 と近代をつ な ぐと して り上 げた の が、 「

地」 で ある。

寺社

地に つ い て は

境 内

寺 内

・門

な ど

々 な

用語

が あ り、 ま た

社を

に して形

さ れ た

都市

と し て

寺 内

町 ・門前 町な どの 語が用い られて い る。 し か し、 こ こ でい う門前 地 と は歴 史学 的 ・歴 史 地 理 学 的概 念 とい よ り、寺社 とその

辺地 域の 現 況を踏まえて 、 狭 義に は 山 門や

地に よっ て

ま れた

宗教 的

(=境 内)の

が る旧

境 内

地 を、 広

に は 旧

境 内

地 を

社の

存在

を通 して

結合

してい るま とま りあ る地 域を

し て い る。

 

本 稿で と 注 目

る の は明治 年 間に上地さ れた旧寺 院境 内地で る。 京 都 旧

街 地の 寺 院境 内地につ い て い え ば貸 地な ど に よ り

くの 寺 院境 内 地 が江 戸

時代

に は

市街

して い た こ とが既に

指摘

さ れ (1)、 ま た江 戸

歓楽街化

し てい た

境内

地が 上 地 され 、

近代

歓楽街

へ 再 編 された

事例

な ども知 ら れて い る2

者は近 代 的景 観へ の 変

を ともなっ て い るが、 旧 市 街 寺 院境 内 地に は都市 空 間と し て の 歴史 的継 続 性が ある。 これに対 し て 、 広

内地を

所有

して い た

郊外寺

院は 上 地に よっ て

境 内

地を

きく

(2)

らし、 上地され た旧境

地は国有

され、 あるい は民 間に払い 下 げられ て、

郊外住 宅

地 な ど

た な近 代 景 観 を生み出 す こ と になっ た (3)と

え ら れる た め である。

 

そ こ で 、嵯峨 ・

山地 域に おける諸

門前 地の

変容

え る上で

題となるの は、 以下 の

4

であ る。

   嵯

峨 ・

嵐山地

区の

諸寺

に お ける上

の プロ セ ス を 明 らる こ と。

  

上地さ れた旧境 内地 (一 門前地)の広が りを 確 定 する と 。

  

上地前

の 門前 地の 土 地利 用 変化を明らか に るこ と。

  

代京

都の

諸寺

地の 土 地

ぼ し た

響を明らか    にる こ と。

 

これ らの

きな課 題に対 し て 、調 査 ・研 究 活 動は緒に就い た ぼか りで あ る が、 現 時

まで に調 査 し た資 料 とそ れか ら知 りえた

柄を以下 に ま と め、 中 間

報告

と し たい

2

地 域

 

嘉 永

5

(1852

に刊 行 された 『洛 西

内記 』(4 )とい う嵯 峨の 住 人が執

し た案 内記が ある。 太

・帷子 辻か ら上嵯 峨 道の分 ・下 嵯峨 道の 分に 分けて 嵯峨一帯の 名

旧跡を

載 し た もの で あ る。 そ の

載 内容か ら み た

嵯峨

は、 お よそ

有栖

川を

と し、

西

大堰

右岸

嵐山

清滝

川 上流の

原 を

む範 囲 ある 。

堰 川 右 岸は葛 野 郡上

で ある が 、 景 観 的に は 一 り、以 後 嵐 山 と し

範 囲に含 む もの とす る。 また、 大堰 川 左 岸は 上嵯 峨 村 ・天 龍寺門前 ・池

村 ・

尾 村 ・原 村 ・ 越

畑村

・川

端村

(下嵯 峨 村

・生 田

9

に ま た が る地 域に

して い る。   こ の

9

支 配 関係をみ る と大 き く二つ の 地 域に分け られ る。 表

1

は 明 治

10

1877

)年前 後 に 完 成 し、 内務 省へ 進 達さ れた 『旧高 旧領 取 調 帳 』 山

城国葛

(5)に 基づ い て

嵯峨

9

村高

支配高

理 し た もの であ る。 一 見 して明らか なよ うに 、

は天龍

か ら生 田

ま で の

5

・ヶ村に集 中し、 なか で も天 龍 寺 門前 ・上嵯 峨村 ・池 裏 村の

3

ヶ 村 で は大覚 寺 ・天龍 寺 ・清 凉寺 ・二

院と い う嵯峨主 要

院が 村

の ほ と

(3)

嵯峨 諸寺門前 地の 近代 的変容 IC関 す る予備 的考 察 ん どを

め て い る。 また、 川

端村

で は速

水裕

益以 下 の

の知 行 地が あ るが 、領 地 高は わ ずか で、 や は り寺 院領が

70

%近 くを 占め てい る。 これ に 対 して 、

田村は 天

寺 領が分

する と は い え石 高はわ ずか で 、 水 尾村 以 下

3

に な る と

広橋 家

と い っ た公

や 下級

人の

行 地で 、

は全 く

られ ない 。 し た が っ て、

院門

地の 近

変容

題 とす る

本稿

に お い て は 、

嵯峨

9

の うち天

龍寺

か ら生田

ま で の

5

対象

地 域 とる こ とが 最 もふ さ わ しい とい

 

治維新

後の 行政 区画 の 変 遷を

ると、嵯 峨

9

ヶ村は 明 治

5

1872

)年か ら

7

(1874

に か けて合

が進み、 上

・下

嵯峨

3

村に なっ たが、 明 治

22

(1889)

嵯1哦

太 秦村

合併

さ れ て い る。 し たが っ て 、 明 治

22

になる と

料の うえで は 旧 生 田村 ・旧高 峨の 一と して

うこ とが 困難に なる。 そ こ で 、 本 稿で は 天龍 寺 門前 以下 の

5

か ら生 田

を 除 き、 天

龍寺

・上

嵯峨

村 ・

裏村

・川

端村

嵯峨村)の

4

、 明 治

時代 前

政 区 画

嵯峨村

峨村の

2

ヶ村 とする。 なお 、 上

峨 村 ・ 嵯峨 村明 治

36

1903

合 併 して

野郡 嵯 峨 村 と な り、大 正

12

1923

)年に

野郡 嵯 峨 町、 昭和

6

(ユ

931

に は

京都市右京 区

合併

さ れて い る。

 表

2

嵯峨

嵐 山

に お ける

主要

6

寺院

境 内

面積

変化

した もの で ある。 なお 、 『平 安 通 志 』 に は こ れ 以外に臨 川 寺 ・遍 照

・曇 華 院 の

内 地 面積が記

さ れて い る(6 )が、 旧境 内 地 面 積 の 記 載が ない た め、

に は

掲載

し て い ない 。

2

に よれぽ、 主

6

院が上 地に よっ て失っ た

境 内

地、 すな わ ち

狭義

の 門

地は

50

4

5

20

歩であ る。 さ らに 、

1

に あっ た よ うに大 聖 寺(7)・仁 和 寺 ・男 山八幡 宮な ど嵯 峨 ・嵐 山地 域 以外 の 寺社 の支 配 地が

212

317

石あっ た。 これ らも寺 社

配か ら離 れ 嵯 峨所 持 の 門

地と一

に なっ た とする とさ らに面積は大 き『くな り、 そ れ が近代の 新た な

景観

形 成の 土

に な っ てい くの で あ る。

(4)

1

嵯峨地 区の 天龍寺 門前 上嵯峨 村 池 裏 村 川 端 村 生 田 村 大 覚 寺 領

17

030588L6575104

3120

大  聖 寺 領

75

0000

天  龍  寺  領

354

5345228

3330

87

1600247

89520180

50900

清  凉  寺  領

97

8170

  尊  院  領

24

124

77 .

9810

9 .4300 0 .86000 真  乗  院  領 23 .8470 7 .8030 真   光  院  領 28 .

0000

理 性  院 領

1L70QO

仁 和 寺 領

33

20000

男山 八幡宮 社 領

32

76700

2

30000

壬 生  家  領

42

ll43

8

39700

阿  野  家  領

21

6520

59

47

0

8

6690125

85300

烏  丸  家 領 5 .453 31 .4695 46 .4895 高  倉  家  領 2 .

082

21 .

6446

3

ユ.

9835

広 橋 家 領 高 野 家 領 正 親 町 家 領 元 守 護 職 役 知 55 .92600 三 雲 宗 裕 知 行 日 下部幸恒知行 西 大寺実邦知行 上 園 実 久 知 行 尾 崎 光融 知 行 速 水裕益 知 行

025912

山 形 憲 澄 知 行 0 .25923 松 波 光 貞 知 行

212

317

0

25923

世 続 重 遠 知行

025923

河 端 清 益 知 行

025923

岡本清 庭 知 行

0

25923

速 水基 益 知 行

0

25923

藤 木 以 直 知 行 0 .25923 藤 木 有 保 知 行

O

25923

岡 本 氏 臣 知 行

0

25923

斎 藤 盛 益 知 行

0

25923

岡本 清 伸 知 行

O

25923

松 波 資之 知 行 0 .25923 計 466 。

99031497

2206335

547

σ

452

34208

資料   「旧高 旧 領 取 調 帳 』 注 1) 正確に は、男 山八幡 宮社 領之 内公 文所 領である。

(5)

嵯 峨諸 寺 門前 地の近代 的変 容に 関 す る 予備 的考察 領 主と支配 高 イ立 高 田 村 水 尾 村 原   村 越 畑 村 計

1003

0000

75

0000

7

58200

1106 .0137 97 .8170

7

61400

120

0090

31

650Q

28

0000

ll

7000

33

2000

35 .0670 50 .5113

215

6450

74

05400

157

4660

50

02650

105

7366

64

0310

64

0310

55

32000

55

3200

153 ,34600 153 .3460 55 .

9260

110

9898

110

9898

132

4400

132

4400

71

09762

71

0976

70

99762

70

9976

70

99762

70 .9976 0 .25912

0

25923

0

25923

0

25923

0

25923

0

25923

0

.25923

0

.25923

0

25923

0

25923

0

25923

0

25923

0

25923

llO

9898196

4710268

412863327

9736

(6)

2

 主要寺院の境 内地面積の変 化 境 内地面積 上 地 面積 旧境 内地 新境 内 地 町 反 .畝 .歩 町.反 .畝.歩 町.反 .畝 .歩 天 龍 寺

36

0

9

0010

5

7

2725

5

.1 .

03

鹿 王 院

5

9

8

08

1 .

3

6

.14

4

6

.1 .

24

大 覚 寺

ll

4

8

05

2

.7 .

O

04

8

.7 .

8

Ol

清 凉 寺

2

5

6

03

1

9

1

.ユ

3

0

6

4

20

二 尊 院

10

2

8

06

1

8

4

27

8

4

3

09

法輪寺

3

0

9

02

6

2

09

2

4

6

23

資 料  京 都市 参事 会編 (1895)「通 志 』 京都市 参 事 会

1

 

寺境

内地 処分 関

係資料

大 覚寺

(1

 

社 寺境 内 地 処分 関係 資料の 位

付け

 

地 理 学が近代 以 降の社 寺 門前 地 を対

と して 景観 復 原 を行 う際に 活 用し て きた

資料

と言え ば、 地 形 図や地 籍 図(8)な ど の 地

図類

が 一

あ る 。 しか し、明 治初 期 に おい て は 地 形図 ・地 籍図 と も その

事業

が緒に

い たばか りで あ り、 地

形図

な ど は 一

地域

限定 的

作成

されるの み であ っ た。 本

稿

の 対 象 地 域で ある嵯 峨 ・嵐 山を 収め た 地形 図が 作 成されるの は 明 治

20

年 代 前 半(91の こ とで あ り、 そ れ以 前に 作 成さ れ た 当 該 地域の 地 形 図は

在 しない 。 また地籍 図に つ い て は 、 地

や地

租改

事業

に 関

して

々 な地

籍 図類

作成

さ れてい る ものの 、

地方

地域

に よっ て

残存状

な り、 記 載

容 や地 図と し て の 精 度につ い て もか な りの相 違が認め られるな ど、

くの 問題 点を含んで い る(lo)。

 

こ の よ うに 、 歴 史 地理学が従 来

使

用 して きた近

代景観

資料

で ある 地

形 図

・地

図に は

つ か の

資料 的

制約

存在

す る。 と くに 明

治初期

に 限っ た場 合、 それ らの使 用は よ り困難 な状 況にある。 し たが っ て 、当該期 に おける景 観 復 原を行

5

た め に は地 形 図や地 籍 図に 代わ る資 料を提 示す る 必 要がある。 そ こ で 、 本

で は 明治 初

の 社

地の

原を 可

とする

(7)

嵯峨諸 寺門前 地の近代 的変 容に関 す る予備 的考 察 資 料 として、 明治

4

(1871)

か ら

わ れた

社寺

境内地処

分に 関

し て

成 された 資料に注 目する。 一 資 料に は境 内 地処 分 時 門前 地 を描

図や処 分

過を

文書

な どが

存 在

し、 これ らの

料を用い る こ と で境

分に

う門

地の

変化

確 認

する こ とがで きる。 以下で は 、

明治

初 期に 景観の

変化

が想

され る

社 寺

地 に つ い て、

峨 ・

嵐山

主 要な寺 院で ある大 覚寺の 門前 地を例に境 内地処 分 以 前の 状 況を復 原 する とと もに 、 処 分に

う門

地の

化を検

して い く。

2

 

初 期の 社

寺境 内

地 処 分   明 治

2

1869

)年、 明治 政 府は封 建 的 領 有 制の 解 体 と政 府 財 源の強 化を 目 的と して 、 諸

大名

か ら封 土 と領 民を返上 させ た。 しか しなが ら、 版 籍

還 が

実施

され、

諸大名

領有

地が政

所有

となるなか で 、

神社

寺院

有 する土 地は

然と し て 旧

の ま まで あ り、 旧

藩領

理する上で も

社寺

領の

介在

なか らず

障害

となっ て い た。 そこ で、 明

4

1871

正 月

5

日、

神社

院の

内地を処 分

る布 告(ユユ)(以下、 第

1

次上 地令)が 太 政 官 よ り

告示

さ れ、 社

寺境

内地 の処 分が

始 さ れ た。 こ の

ag

 

1

次 上 地 令は 「 前 之 通

置候

処」 とな っ て い た

社 寺

境 内

地に

して 、 「

各藩版籍奉

還 之

末社 寺

ノ ミ土 地 人 民私

姿

相 成

相 当

る と

、 「

内」 を 除 く土 地の 上 地 を

じるもの であっ た。 社 寺 境 内地の処 分に つ い て は 、 大 蔵

が編

した 『

寺境

内 地 処 分誌』(ユ2)に そ の概 要が記さ れ て い る。 また、

京都府

下で

わ れ た

社 寺領

分に 関 して は 、

林忠 男が

詳細

検討

っ て い る (ユ3)。 こ こ では

先行研 究

参考

に しつ つ 、 関

係資

を併 用 しなが ら社 寺境 内地の 処 分

過に つ い て み て い

 

明 治

4 年

正 月の 段 階で 上地の

とさ れたの は 、神 社 ・寺 院が旧幕 府や

諸大名

か ら土 地の

税の

納 権、 あ るい は 租 税 納

の 免 除を承 認 された

朱 印

地 ・

黒印

地 ・除 地 などの 土 地で あ り

境内

対象

か ら 除外 された (図 1)。 し か し、

内地処 分に 関する取 り調べ を担

した

府藩

に よっ て 境 内範 囲の確 定

準が 異 なる とい う不

合が 生 じて い た た め、 政府は めて

年 5

24

日に 境 内 区 別基 準14)を府

県に 示 し、 田畑 ・ 山 林 ・荒 地 (墓 地 を除 く)は 全て 上 地の 対

と さ れた。 加 えて

7

4

日の太

(8)

      (狭 義の境 内 〉

      図

1

  社 寺領の区分 注 〉 大蔵 省管財 局 『社 寺 境 内 地 処 分 誌 』、大 蔵 財 務協会、ユ954よ り作成。 政 官 達(ユ5)で は 、神 社 境 内の 範 囲 を 「本 社 及 建 物」 の 敷 地に 限 定 し、 その 他は上 地 する旨が示 さ れ た。 以 上の法 令で 示さ れた境 内外 区 別の 基 準は 社

に とっ て

め て

しい もの で あ り、 上地の

対象

は 「

内主 域」を除 く「

内附属地 に まで

拡大

され た。  これ らの 法 令 を受 けて、京都 府で は各 社 寺に対 し て境 内 地 を描い た絵 図 と

調 書の 作 成 ・提 出 を

じ、 これ を もと に 実 地検 分 を行い 新 基 準に基 づ

境内

確定作業

実施

した 。 こ の と きに 、

か ら

京都府

へ 提 出 さ れ た

図が 『

京都 府庁 史料

』 似 下、『府庁 史料』)に

さ れ て い る。 厂

境 内外

区 別 原 図」(16>似 下、 「原 図 」)が そ れで あ り、

愛 宕

紀伊

・乙 訓の

4

分 が現 存 して い 。 「原 図 」 を通 覧 して 気 付 くこ とは、 社 寺 ご と に 見ら れ る記 載 内 容の 違 い で あ る。 嵯峨 ・嵐 山の 主 要な寺 院(17)で ある

清凉寺

大覚寺

・二

尊 院

の 「原 図」 を比

して み る と、

内 地の

囲を示 す

朱引線

が記されてい る

3

ともに

通 するもの の、 そ れ 以

で は

通 点が見 当た ら

、 それぞ れ 記 載

る内容が異 なっ て い る。 この 「 原 図」 を もと に

券掛

が実 地

分を

境 内地

定された の だが 、記

載 内容

差異

か ら も

推 察

される よ うに

り調べ の 成 果は一

、 なか に は再

検査

を必 要とす る

社寺

もみ られた (18)。

 

境 内地 処 分 が行われてい た この 時期は、地 券 交 付や地 租 改正

業 などが 開始され た

で も あ り、 これ らの

業 と の 関連か ら社

境 内地の処 分は急 が れた。 政

の 重

要施策

で あ る地

租改

事業

初、

大蔵省

轄で あっ

(9)

嵯峨諸寺門前地の近代的容に関る予備 的考察 た が、

業の

性質

上か ら内務

と関連 す る

項が

な くなか っ たため、 明 治

8

1875

)年

3

月、両 者の に地 租 改正

務 局が設 置 された。 当 時、社 寺

政の

担当機 関

は 教

に 関 する

事項

を教 部

が担 当 し、 そ の他の

事 項

は 内

務 省

大蔵省

担 当

してい た ため

社寺境 内

処分

も地

租改

事務 局

と改

租事

業の 一と し て

わ れる こ と とな っ た (1g)。

 

改正

務 局は土 地の

名称

を区別 し、 所

者を

確定

す る

作業

め る なか で、

社寺境

別が

判然

と して い ない ため 地 租

業に

支障

を きた し て い る と して、 同

6

月29

日付で

府 県

に 「

寺境

外 区

調

則」  似 下、 第 2 次上 地令 )を通 達 し、

境 内外

区別 取 調の

推進

を図っ た。

2

上 地

で は社

境 内地の

を 「

祭典 法

用二 必需場 所 」 と し、 これ を 「

新境 内

」 と

め、 そ れ以

の土 地は 「

上 地」 と心

調

べ を

うよ うに

指示

さ れ た。 こ の と き

規に

境 界

め る

は 「

塹堤

ノ地 形」 に よっ て判 別 し、 境 内 域を示 す

示の設 置を明記 し てい る。 こ に よ り

境 内外

区別の 明

準 が示 され、 以

は こ の

2

上地

に 基づ

境 内

確定作業

わ れた 。

  第

2

上地

発令

う社

寺境

区 別

調の

に つ い て は 、 『

庁史料

』 に

る 「

社寺境 内外 区

取調帳

」  (以下、「取調 帳」)か ら

る こ と がで る。 「 取調

」 は処 分 された

境 内

地の

訳 と

分の 経 過 を

社寺

ご と に記 し、 こ れ を京 都 府が郡 別に ま と め 、内務 省へ 提 出 し た もの で ある。 『

庁史料

』 に

る 「取調

」 は

京都府

側の 控 (22)で あ り、

後年

変更

を示 す

述や

境 内

地の

旧に関 する 図

な どが

め られてい る。 「

調

」 の

記載

を もと に大

覚寺

内地

分につ い て み る と、 処 分以

境内

地は

11

4

8

5

歩 (

11

3867

  )で あ り、 こ の うち大 覚 寺 境 内分 と して

2

1

6

8

2

万ユ

448

  )、

覚勝

内分と して

5

3

26歩

5342

  )、 合

計 2

7

4

2

679Q

  )が 「

現境 内

存 置見

込 之

判 断

さ れ、 こ の

16

53

  )が墓地分 として

め られて い る。 旧

内に

め る

i

内の

合は

23

%程で し か な く、実に全体の

4

分の

3

以上が上地された こ と になる。 「

調

」 に は 山林に 関する記 載が見られない が 、 明治

9

1876

)年

3

月に 地

券掛

か ら土

木掛

出さ れ た

書類

に 「山 林

反 別

五拾 壱 町五

大 覚寺

境外

地」 とあ るこ と か ら、 明 治

9

に 上 地さ れてい た もの と み られ る(23)。

(10)

3

覚寺

門前 地の

変容

 

内地

分の

として 、 大

覚寺

幅にその 規模 を縮 減 された こ と は 前

認 し た と お りで あ るが、 そ れで は

11

町を超え る広 大 な境 内地と は 一

ど の うな っ た の で あ ろ うか。 これ を

原す る上で 有 効な

が、

先程

の 「

取調 帳

」 と同じく 『

府庁 史料

』 に

社寺境 内外 区別取調

に関する

であ る (24

 

2

次上地 令で は 第

6

条で 「取 調 帳 」 の 作 成を規 定す る と と もに、 第

8

条で は 「取 調

」 に 絵 図を添

し、 伺 書を提 出する よ う指 示が な され て い る。 こ れに 基づ き

成さ れ た もの が 「

寺境

外 区別

図 面」(25)(以 下、 「 調帳付 図」

であ る。 「 取 調

帳付

図」 は 旧

内地の

実測

図を地目別に 色 分け し た もの であ り、 境 内 と境 外の 範 囲は それぞれ 実 線と点線で区別 されて い る。 ま た 「

調 帳」 の 添 付 図面 と い う性格か ら、 図 内に は 境 内外 区別 取 調の 結

と して 分 類 別に

処分

が ま とめ られ、 そ れ らの

所在

す 記

が書

入 れ られて い る。

 

この 「

取 調帳付

立っ て

作成

された

図が、 明

8

1875

か ら

15

1882

)年 頃の 作 成26)とさ れ る 「社 寺 境 内外 区別 図」(27)(以下、 「 図」)で あ る。 「区別 図 」 は 第

2

次上 地

に 基づ く境 内外 区 別の 線 引 き結 果を示 し た

測 図で あ り、

大覚寺分

は 「 分 間弐千 分一」 で

成さ れて い る。 図 中に は 「士

族敷 地

」 ・「人

」 な ど に分け られた区

ご と に

面積

(坪

記載

さ れ 、情

変 更を指 示

が記さ れてい る。 これ らの情 報が 「取 調

付図」 を作 成す る際に 活 用 され、 境 内 地の 状 況に 関 する情 報の 更新 も行 わ れてい る。

 

調

帳付

」 ・厂区別 図」 に

前節

れた 「原 図」 を

え た

3

図 が、 社

境 内外 区別

調に

係 し て作 成 された 絵 図類である。 それぞれの 絵 図の

を整理すると 「

取調

帳付 図が明 治

16

18

1883

85

)年、「

図」 が

明治

8

 一一 

15

、 「 原 図」 が明

4

6

1871

−−

73

であ る。 よっ て、 「 原 図」・「区別 図」・「取 調

帳付

図」 の 順に

記載内容

認し てい くこ とに よ り境 内地の 変 化を空 間的に把 握 する こ と が 可 能 となる。

 

これ まで みて きた よ うに 、 社

寺境

内地 処分で 処 分 対

と さ れた境 内 地 と

(11)

嵯峨 諸寺門前 地の近代 的変容に 関する予備 的考 察 は、 社 殿 ・

堂宇

の建つ

境 内

と門

地 な どの

境 内

附属 地か ら な る空 間で あっ た。 こ の こ と か ら境 内地の 変 化 を

討 す るこ と は 、 すな わ ち門

地の

化を み るこ と に な が こ で 下で は、 まず 「原 図」 を もと に 明

治初年段階

で の

境 内

地の

状況

復原

し、 その

内 地

分に

内 地 の 変 容につ い て 門

地 を 中

に 厂区 別 図」・「

調

帳付

図」か ら

検討

して い く。

 

原 図 」 は大 覚 寺の 境 内主域を 「本坊」 と記 し、 その

を、 南 と西に 門前 地を描い て い る(図

2

)。 図の

下隅に は 「葛 野 郡

嵯峨村大覚

」 と

明記

さ れ てい る。

門前

地に は

31

の 土 地

画と人

名及

び土 地の 状 態 が 記され 、 なか に は複

の 人

が記 され る区

存在

する。 門前 地の うち 、 本 坊の す ぐ南に位 置 する区 画に は林を

わすと み られ る

樹 木

かれ、 道 路を挟んだ向か い 区画に は 「旧 院家

勝 院」 ・ 「

勝 院

地 」 ・「

宝幢院

地」 と

され て い る。

覚勝 院

大勝

院 ・宝

院は院

ば れた

大覚寺

子 院28)でる が、 原 図に は

覚勝

院 と宝

院の 区 画に の み 「従 前 之 通 」 と朱 書 きが な され、 区画の 四 隅が

書 きの

で、 四辺が

朱線

で 囲まれて い る。 同様の 朱 書 きは本 坊の 周 囲に も記され、 その

囲は

本坊

と川を

ん だ 西

1 区画

西

ぶ。

 

「 原 図」 に

られ るこ うした

朱書

きは他の

院の 厂原図」 に お い て も

認で きる もの で あるが、

述し た 「 原 図」 の

経緯

や 「

従前

之 通」 の

載 な どか ら、 第

1

上地

づ き

京都府

断 した

境 内

地の

囲を

し た もの とみ られ る。 こ こ で注 目されるの が、 「大 勝 院 邸 」 と記さ れた 区 画で あ る。 「原 図 」 を

る と、 こ の 区 画の 北

と南

書 きの

が 記されてい るの だが、 こ ち らは

朱線

で囲ま れ てい ない 。 同

に 、

朱線

まれて い ない

書 き

本坊

の 北 西 に おい て も

確認

され る。

内地の

囲は 京都 府に よ る実 地

分を経て確

し たが、 社

側か ら

出 された 「 原 図」 を

味 し、 予め境 内地の

囲を

書きの

で示 し た

に現地

視察

確認

し た上 で

め て

内地 と

断され た箇

線で

み 「

従前

之通」 と記入 した もの と推 測で きる。 こ の こ とか ら、大 勝 院は こ の と ぎ既に廃

に なっ て お り、

内地か ら除

さ れ た もの と

え られ る。

  寺

院 以

区 画に 目を転 じる と、 人

の 記 さ れた

区画

い が

られる こ と に

気付

く。 例え ぽ、

勝 院

地南 側の 区画に は 「井 関

地」 と記

(12)

        図

2

  処 分以 前の大 覚 寺境 内地 注) 明治5 (1872)年 「社 寺 境 内 外 区 別 原 図

」、京都 府 立 総合資 料館 所 蔵 『京都 府 庁 史料』 明5−47を トレー

(13)

嵯 峨諸寺 門前 地の 近代 的 変容に関する予備 的考 察 さ れて い るが 、これ と向か い

勝 院南 側の 区画に は 「野 路井 孝 治 江

地」 とある。 人

ろ に 「 貸地」 と

くもの と 「江 貸地」 と

くもの と の

2

種 類 が

存在

するの で ある。 この 違い が

意味

するか に つ い て現

時点

た るこ と は言え ない が 、 前 者は

勇が他 者へ

貸与

して い る土地を

し、

後者

は大

覚寺

が 野路 井

治へ

与して い る土 地を示 してい るもの と

推察

される。

井 関氏

・野

路井 氏

は と もに

大 覚寺

坊 官

め た

(2g)で あ るが、 「原 図 」 に は 両 氏の 他 に も石塚 ・ 勢

・ 細 川 な ど大 覚

勤仕

し た 坊 官 ・侍 家 ・格 勤 とみ られ る人 名が記されて い る。 「原 図 」 に は これ 以 外 の を もつ 人 名や姓の ない 人 名

られ、 坊

な ど の 例 と同

に 「

地」 と

表記

さ れてい る。 これらの

人名

につ い て、 その

詳細

は不

であ るが、

寺に従属 する かあるい は 大 覚 寺の 土 地 を借 り

けてい た人々 で あっ た と 推 測 され る。 「原 図 」 の 一部の 区画に は、 「 」 ・「当地 畑」 と い う記 載が見 られ る。 し か し、

大半

の 区 画に は土地 利 用を示す 記

られ ない ため 、 これ ら

実際

に ど の よ うな

利用

を さ れてい たかに つ い ては、

述の 坊

・侍 家 ・格 勤以外の人 名 と同じ く判 然 と しない 。   こ の よ うに、明治 初 年 段 階の 大 覚寺 境 内 地は、境 内主 域 と大 沢 池及び門

地か ら な り、門前 地は

塔頭寺

院と

覚寺に 勤仕

る人々 な どへ の

地か ら

構成

されてい た こ とが

原 図」の

記載

か ら

らか に っ た。

第1次

上 地

に基づ く境

地 の

囲は、 境 内主域 と

院に 限られ、 廃 寺に なっ てい た塔 頭 と大 沢 池大 部 分につ い ては境

内外

と判 断さ れ、 門前 地と同じ く上 地の

対象

とさ れ た。 土 地

用の 状 況や記 載さ れ た人名な ど に つ い て は、 そ の 一

が 明 らか に なっ た もの の 不 明な点が

く残る。

 

明 治

7

(1874 )

ll

月、 社 寺 境 内外 区別の

進を 企 図 し た 内 務

に取 調

遣を通 達 し、 取 調を行 う上で必 要な書類や図 面 類の 調

を翌

3

月まで に行 うよ う指 示 し た (30)。 この とき境 内外の 区 別を注 意 し て行い 、 実測図面を整 備す る旨が併せ て 指 示さ れて い るが 、 その 後に 出さ れた教 部

達や 第

2

上 地

けて

成され たの が 「 区別 図」 で ある(3ユ)。 「 区別 図」 の 作 成は 、

述の と お り明

8

15年

と か 、 「原 図 」 後の 境 内地や 門

地 の状 況を知 る上 で

有効

である。

 

区別 図 」 は図題 に 「新 旧境 内外 区別」 とあるよ うに 、新 旧境 内地の 区

(14)

別が図示さ れて い る。 大

覚寺

塔頭

覚勝

院 ・宝 幢 院に は 、 そ れ ぞ れ 「

内」 と

記載

さ れ、 「

」 と同

囲が

新境

内と

め られ てい る。 し か し、

宝幢 院

につ い て は 、

坪数

「 四

廿五

」 が

朱線

され、 「

シ 八 畝五歩

」 との 指示が書 き加え られ て い る。 「取 調 帳 」 に よ る と、 私 墾畑 地 と荒蕪 地の

に 「元 宝

院 跡 地記 載が あ り、前 者に は 「反 別八畝五歩 元 宝

幢 院

跡 地 是ハ

自費 開

墾 之

大 覚寺

十一

月届

出 之分」(32)と記さ れて い るこ と か ら、

11

に 宝

院が

とな り、 その跡 地の 一 部が大 覚

に よっ て 開墾された こ とが分か る。 ま た 「原 図」 で境 内地か ら除外さ れ た旧 大勝 院

地につ い て は 、

朱筆

で 林 と

記されて い る。

 

区別 図 」 に は 「原 図」 で

られ た

細な土地 割が描かれて い ない ため 区 画の実数は不 明で あるが、 区 画

に は畑 ・人家 っ た 土 地の 区別 と坪 数 が 明記されて い るこ とか ら、 土地利 用の状 況が判 明す る。 ま た 厂 族 敷 地」 と記さ れた

画に土 地

用は 明

さ れ て い ない が、 厂区 別 図 」 に は 厂

取調帳

」 に 記

され る地

の 分 布や 「

調

付 図」 へ の

更 点な どが

朱 書

きされてい る こ と か ら、 「

取 調帳

」 と

対応

させ る こ と に よ り士

族敷 地

の 土地利 用 状 況 が 明 らか と なる。 「区別 図 」 の 記

か ら明 治

8

一一 

15

年の 門 前 地の 状 況を み る と、 「原 図 」 で 畑 とされた 区画に変 化は 見ら れず、新 たに 宝

地が畑 地 化 して い る。 「 」 で

坊官

・侍 家 ・

勤 とみ ら れ る

人名

されてい た

区画

に は 「

士族 敷

地」 とあ り、 この うち

覚勝 院

院南 側の区画 内は旧家 来 居 住地 で あっ た。 「 取 調

」 に よ る と、 旧 家 来 居 住 地は明治

6

1873

)年

9

月に 租 税 寮へ 伺 書 が 出された後、井 関 實 勇ほ か

8

へ 下 げ

され てい る も う一方の士 族

地であ る

大覚

寺 西 側の 区 画 は 田地であっ た と み られる が、 「

区別

」 に は 「

」 とある の に対し て 、 「取 調

」 の 面積 記 載に は 「田地 此 反 別

反六畝 歩」 とある た め、両者の記 載は大 幅に異な る。 処 分の 経 緯を見る と、明 治

7

6

月に 林

康 郎

ほ か

1

に下 げ

されて い る こ と か ら、 「原 図 」 に 「林 恰

地」 と ある

区画

が田

であっ た と

え られる。 これ ら以

区画

と して は 、 門

地 の南部に 「人 家」、 旧 宝幢 院邸 地の 西 側に 「民 家 」 と記され た一画が見 られ る。 こ れ らの 区 画は 、 「取 調

」 の 記 載か ら 「人民 居 住 地」 で あっ た

(15)

嵯峨 諸 寺 門前地の 近変容に関する予備 的考察 こ とが分か るが、 その 屋

が 自

て られた もの で あっ た こ とか ら

本 多

平次

ほ か

13名

へ 下げ

さ れ て い る こ の よ うに 、 明

8

か ら同

15

の 間に

大覚寺

境 内

地で は

頭の 宝

幢院

廃 寺

とな り、

大覚寺

境内

地は さ らに縮 小 された 。 また かつ て の

境 内

地で ある門前 地で は、 既に明 治

6

年か ら土地の 下 げ渡 しが行われ、 これらの 土地は 大 覚寺に勤 仕 して い た人々 な どの

所有

地 と なっ た。

 

こ うし て

大覚寺

境 内

処分

了 し、 その

果は 「取 調

」 とそれに

添付

さ れた 「取調

帳付

図」 に ま と め られ、 内務

へ 提 出された。 葛 野郡の 「取 調 帳 」 と 「取 調 帳付 図」 は、 明治

18

10

月に提 出さ れ て い る こ とか ら、 「区別 」 の

記載

を も と に

成 され た とみ られ る が、 両 図を 比

す る と門

地に

若干

変化

られ るこ とか ら、 厂

調

帳付

」 は 「区別 図」

変更点

を盛 り込ん で

作成

された と

え られ る。

 

取 調 帳 付 図 」 は 地 目別に着 色されて い る た め 、 その 記 載か ら門前 地の 土 地 利 用 状 況を

る こ とがで

る (図

3

)。 「

区別図

」 に

られ た 「士

族敷

地」 と 「

・「

の 人民

居住

地は 宅 地 と して

赤色

着色

され、

大覚寺

西 側の 士

族敷

地 に られた 田 地 も同

色 されて い るこ と か ら宅地 化 し た もの と み られる。 ま た

大覚寺

が 開墾 し た

宝幢

院跡 地の

はそ の 一部が荒 蕪 地 となっ て い るもの の 、 門

地 全

と して は こ れ以

に 土 地

利用

上で の

化は見 られ ない 。

4

   括

 

以 上、 社

寺境

内地処 分に関

を用い て 、

大覚寺

地の

原とそ の 変 容につ い て

考察

して た。

内 地 処分 以

大覚寺境

内 地は、

ll

を超え る

広大

な もの であ り、 そ れ らは

境 内

主 域 と

境 内

附属地で

成 され、

境 内

附属 地に は

山林

や 門

地が

ま れて い た 。 明

4

か ら段 階的に行わ れた

境 内

地処 分の

地は境 内主域

と有住の

塔頭寺

院地に 限 定さ れ 、附 属の 山林を始め隣接す る大沢 池か ら 門前の 宅 地 ・

地、

廃寺

と なっ た

勝 院 ・宝

院の 跡 地に至る まで 、 旧

内地の

4

3

以 上が上 地 された。

 収

公さ れ た 門

地 に は、

関氏や野

路井

氏な ど

坊官

屋 敷

(16)

イ… 旧

ロ …地 ハ …人 民 ニ …藪 地 ホ…畑 地 ヘ …池地 ト… 林 地 チ … 私墾 リ…荒蕪        図

3

  大 覚寺 旧境 内地の状況 注1) 明 治ユ6 (1883) 年 「 社 寺境 内外区 別 図 面」、京都府 立 総 合資 料館 所 蔵 『京都 府 庁史 料』 明ユ6−48一追2   より作 成。  2) 記号イ〜リは、「 社 寺境内外 区別取 調帳」、『京都 府庁 史料』 明16−48一追1の記載と対応している。

の 人々の居 住 地や耕 作 地が広が っ て い た が、 これ らの土地は境 内 地 処分 に伴い

明治

下 げ られた。 これに よ り、 そ れ まで

配上 一 っ た

大覚寺

と門

地は切 り離され

明治

の もと で 一

(17)

嵯峨諸門前 地の 近代 的 変容に 関 す る予備 的考 察 配され る こ と となっ た 。 しか し、

境 内

地 処

に関す る 一

図類 ら 門 前 地の 景 観を考察 し た なか で は、無住 寺 院の 廃 寺 化の ほ か に 目立っ た変 化 は

確認

さ れ なか っ た こ とか ら、

内地 処 分に よ る景 観へ の 影 響は割 合 少な か っ た と

え る。

 境 内

地処 分に よっ て上 地さ れた 門

地や

属の

林な ど は 、 一

内 地に

旧(33)さ れた もの の 、

大部

分 が

官有 地

有 地

と し て

20

年代 前

製 地 形 図34)、 あ るい は 地 籍 図に 見 ら れ る景 観へ と続い て い く。 現

嵯峨

山が もつ 郊 外 住 宅地と して の 面や

観光

地 と い う面が現れ るに は鉄

の 開通や バ ス 路

たねぽな ら ない が、 こ うした 開発の 基

を生み 出し た の が社

境 内

地処

で あっ た。

II

嵐 山

地域

(1 )

 

地 籍 図の種 類作 成 過程

 普段 我

々 が地籍

と呼ん でい るもの に は 、 大

く分けて

2

類がある。 一 は昭和

26

1951

の 国土調 査

に 基づ い て作 成 さ れた新 地 籍 図 と呼ぽ れ るもの で あ り、

明治期

成さ れ た 旧 地

図で ある 似 後、 旧地籍 図 を地籍図とす)(35)。

新地籍

図がほ ぼ

地割境

地番

だけ を記

して い る の に対 し、地 籍 図に は 地 割 境界 線や地 番は もち ろ ん、地 名や各 地割の地 目 ・

級な ど

くの

情報

が記 述さ れ て い るこ とか ら、 歴 史 地 理 学

究の

料 と し て地

名収集

景観復 原

な ど に

い られて きた。 そ こで

本章

で も地籍 図の 作 成 過 程 とその利 用につ い て述べ てい たい 。

 

4

は 地籍 図 及び新 地 籍 図の 作 成時 期

法律な どの 互 的な関係 と

備置

系譜

的に 示 した もの で ある。 これ に よ る と明 治期に作 成 さ れ た地

図は壬

引絵 図

、 地

改 正 地

引絵 図

、 地

押 調

正地 図、 地

図の

4

であっ た こ とが わか る。

し、 図

4

した過 程で 作 成 され た各 地 籍 図は 、 それぞ れ の

業や法 律の 目的に よっ て

に違 い が み られ る。 また、 全 府 県で

4

種 類 と も作 成されたわけで は な く、

時期

府 県

に よっ て

つ 異なっ て い る(36)。 以 下で は 、 こ の よ うな経

図の

特徴

につ い て概

して い く。

(18)

大 蔵 省 な い し地 租 改 正 事 務 局 主 管

      

   十

一 明 治17(IS84)年12月 明 治8〔1B75}5月 間 掌の一        1 地 租二閏ス ル所 帳 簿 様 式 制 定 十 明 治22CISS9 )年3月 土 地 台 帳 規 則 制 定       地 券 廃 止    土地 台 帳付 属 地 図

地 台 帳地 図 備 置 場 所の移 管 甌 町村の分 郡 役 所 明 治22(18B9)年5月 府 県収 税 部出 張 所 毆 直    府 県 収 税部出 張 所に移 管 市の分 府 県 庁 明 治29(ISBS)年le月 税 務 管 理 管 匍公布      税務署に移管 昭 和22(tg47)年 3月 土地 台 帳 法       家 屋 台 帳 法 公 布 昭和25 (1950)年 8 月 土地台帳法 施行規則制定 法 務 局・同 支 所・出 張 所 (登 記 所冫に移 管      土地 台 帳 付 属 地 図 図

4

    ↓

明治 期作 成地籍図の系譜 と備 置場 所

 

引絵

 

 

地引絵 図は地 券 交付 作

っ て

成された地 籍 図をい う。 こ の 地

は調 査 時に 実 測が

わ れず、 従 来の 検 地 帳や名 寄

な ど の 反 別を

(19)

嵯 峨諸 寺門前地の 近代 的変 容に関 す る 予備 的考察 基

と し、

所有者

申告 制

を とっ てい た こ と か ら、 正

な 土 地 区画 あるい は面 積を

す こ と よ りも、

土 地の 位 置や配列の把 握に主 眼を置い て い た の で ある。 さ らに 、 調 査

落 地の 発 生を防 ぐため 、 土 地の位 置の

表示

と し て地

設定

さ れ、 地

券番号

と して も用い られ た (37)。

 

図の

に し て も宅 地に家 型の記

が用い られ、

社や

な ど に

画 的な

描写

われ るな ど、 従

村絵

図の

様 式

用 さ れた と ころ が

か っ た と いわ れ て い る。 しか し、 明 治

6

1873

に は地

租改

正 法が公

され た こ とか ら、

作 業

切 っ た

や改 租 作

に 切

えて

継 続

した

な ど

々 で あっ た (38)。

 

地 租 改正地 引 絵 図

 

租改

正地 引

図は地

租 改

事業

に基づい て

成さ れ た地

図である。 こ の

事業

調 査して 地域

規模

が きわめ て 不

均等

に なっ てい た近世以 来の を区画 し直 し、 その

し く

番号

けられた。 地

につ い て も 区 画 し

された

元に

た な地

が設

された 。 こ の

たに 設

され た地

は そ の

100

い られる が 、 そ の ころ にな る と分

に よっ て

番 ・欠

が生 じて

錯 綜

を きた した。 こ の よ うな こ と か ら町

番整

事業

が発

さ れ、 昭

37

1962

5

に 「

住居表示

に関 する

法律

」 が

め られた3g)。

 

こ の 地租 改正

業に お け る調 査 に お い て も壬 申地券 交 付 時の 調 査 と同じ く

申告

制が と られた。 しか し、 土 地 面積に 関 して は

測が

わ れ 、

申告

に つ い て も

1

ご との

調

査を地

順 に

記載

し た

面とそ れ を

現 し た地

引絵

図を もっ て

重な

査が

わ れ た。

し、

測が

わ れ たの は民

地 の み であ り、 官 有 地や課 税 対

外 の 土 地は見 取 りで済 ま して い る府 県 も

か っ た (40)。

 事業 開始

時 期に つ い て は

各府 県

で そ れ ぞ れ

な る。 近

だ けで も

7

1874

に 開

さ れ た

府 県

が滋

(近 江)・豊 岡 ・

兵庫

(摂 津)・

大 阪

・ 堺 ・和 歌 山、 明 治

8

(1875)年 開始が京 都 ・兵庫 (磨)名 東 (淡 路 っ て い る4D 。

 

地 租 改 正地 引 絵 図の 作 成に際 して 、

内で は そ れ ぞ れ が雛 形を示 す な ど して

一を図っ た が 、

各府県

間に よ る違い が生 じた。

事業

実 施 期 間中

(20)

明治

8

に これ まで

SE

−一・の ま まで あっ た 間

竿

・面積 単 位の

1

間が

6

尺、

1

反 が

300

一 され た た め 、 その

前後

量 基

の 異な る地 籍 図が

され、 さ らに

目を

彩色

に よっ て

別 し て い る もの もあっ た の で ある。 一 般 的に地租 改正地 引絵 図に は一

図、 字 図、 全 村 図の

3

種 類が作 製 され て い るが 、こ れ も県に よっ て は一

図を省 略 し た り、字 図あ るい は全 村 図 を作 成しなか っ た

が あっ た りと

一 さ れて い なか っ た (42)。

 

調

査 更

正 地図

 

明 治

17

1884

12

月に

県庁 ・郡役 所 ・町 村 戸 長役 場に土 地

台帳

え 置か れる こ とと な り、 そ の た め に新た に土 地 台 帳を作 成す る こ と となっ た。 それは 地

と地

改正 地 引 絵 図を もと に 作 成さ れ たが、 こ の 両者 と実 地と の

相違

し か っ た。

に 地

租改

地引絵 図

技術 的

未熟

村民

た ちに よっ て

成さ れ た と ころ もあ り、 測 量の 不正

さ と

遺漏

脱 落地 が

か っ た43)。 こ の こ とか ら土 地 台 帳

成 機 関で あ る

は明

18

1885

2

月に

へ 地租 改 正

事業

に お ける

りと 、 そ の

の 変動を調 整

る 旨 を命 じた。 こ の と き

成さ れた地 籍 図を地押 調 査 更 正 地 図 と

して い る。

 

こ の 地押 調 査 更正地 図は初め土地

量 や地図 作成 につ い て規 準が

され る こ と が な く、

来の 方

が踏 襲 された た め 、 不

全な もの が

かっ た。 そ こ で 大蔵 省は

府県

へ 内訓を通 達 し、一定の 方 式を

し た 。 こ の 内訓で 近 代 的測 量

器を用い た 測量 方 法や縮 尺な どが

定さ れた こ と か ら、 精 度 の

も作 成される よ うになっ た反 面、 内 訓 通 達以

成された 地 図との に精 度 の 差 が生 じた の で ある (44)。 こ の よ うに して

成 された地

調 査更正 地 図は、 その

の 明

22

1889

3

に公

された 「地 台

規 則」 に よっ て 土 地

台帳付属

地図 と

さ れ る よ うに なっ た。

在、

所や

役場

法務局

登記所

保 管

されてい る

図 と

ばれて い る もの に は 、 こ の とぎの 地 籍 図 が

く残っ て い る。

 

地籍 編

地 籍 地 図

 

地 籍編

地 図は全 国地籍 編

調査に づ い て

さ れ た地 籍 図の こ とをい 。 この

地籍

図は

記の

3

と は

若干異

なっ た

性格

し て い る。 それは前 記の

3

者が大 蔵省 ない し は 地租 改正

務 局主管に よっ て行わ れ た の に対して 地 籍 編

事 業は 内務

地理 寮 (後に 地 理局)主 管で わ れた こ

表 1 嵯峨地 区 の 天龍寺 門前 上 嵯峨 村 池 裏 村 川 端 村 生 田 村 大  覚 寺 領 17 . 030588L6575104 . 3120 大   聖   寺   領 75 . 0000 天   龍  寺  領 354 . 5345228 . 3330 87 . 1600247 . 89520180 . 50900 清  凉  寺  領 97 . 8170 二   尊  院  領 24 . 124 77 . 9810 9 . 4300 0 . 86000 真  乗  院  領 23 .8
図 9  嵯峨 ・嵐 山 進 ん で い た と い え よ う 。   大 正 13 ・ 14 年 と 昭和 7   − ll 年 を 比 較 し て 注 目す べ き 点 が も う 一 つ あ る 。 そ れ は 嵯 峨 町 周 辺 か ら 嵯 峨 町 へ の 転 入 の 事 例 が 6 例見 出 さ れ る こ と で あ る 。 材木商 3 例 ( 前 住 地 : 太 秦 ・嵯峨 野 ・ 生 田 )、 司法 代 書 1 例 ( 前住 地 : 太 秦)、 画 家 1 例 ( 前 住 地 : 嵯 峨
表 6   嵯峨 町職 業 別 人 口 ( 市 統 計 書 ・ 府 統 計 書 ) T7 S5 業   種 人   口 世帯 主数 人  口 世帯 主数 農                 業 ll47 381 792 冖 漁   業   ( 水   産   業 ) 16 7 6 一 ( 鉱               業 ) 一 一 24 一 工                 業 325 176 705 一 商                 業 742 297 930 一 ( 交       通  

参照

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