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(1)

学位研 究 第

5

号 平成

8

9

月 ( 論文)

〔 学位授与機構研 究紀要 〕

英 国におけ る単位 累積 互換 ( Cr edi tacc u

m

ul at i onandt r ans f e r : CAT) 制度 の歴 史的展 開

‑現代 の高等教育制度改革 の行方 ‑

HistoricalDevelopmentofSystemsforCreditAccumulationandTransfer (CAT)inBritishHigherEducation:

ExaminingtheOn‑goingReform ofBritishEducationalSystems

iiii MariIKE

ReseaychinAcademicDegyees,No.5 (September

,

1996)thearticle〕

TheJournalofNationalInstitutionforAcademicDegrees

(2)
(3)

英国におけ る単位 累積互換 ( Cr edi tacc umul at i onandt r ans f e r : CAT) 制度 の歴史的展 開

一現代 の高等教育制度改革 の行方 一

池 マ リ*

は じめ に

1

本稿の 目的

現在,英 国の高等教育は大 きな転換点 を迎 えている。その一つが,

1990

年代初頭以降本格化 した,高等教育の 「 大衆化」 の方 向へ の制度改革 の動 きである。 これ を支 えるのは,経済的側 面か らの高等教育の普及の必要性 ( 右派 ) ,又は,社会 的平等の観 点か らの教育機会 の民主化 の 必要性 ( 左派 ) ,に基づ く要請

1)

であ る。

単位累積互換

(Creditaccumulationandtransfer:CAT)

制度 の導入は,そ うした方向 へ の制度改革の一つ の核心 とされ る

oCAT

の基礎 にある考 え方 は, 「 評価 され うる適切 な学習に 対 しては, それが どの ような場所 でな され るかにかか わ らず,高等教育 におけ る学位 につなが るよ うな単位 が付与 され る 」

2)

であるOこれは,高等教育 におけ る参加 の機会,選択及び流動性 を増進す るこ とが必要 であ るとの政策 を,体現す るものであるD

CAT

の導入 をめ ぐる議論は,本論 で詳 しく述べ るよ うに

1970

年代 か ら本格 的に始 ま り,その 後段 階的に整備 され,

1990

年代初頭の大幅 な高等教育制度枠組の再編成後 も,様 々な レベ ルや 形態での発展 を続けてい る。そ して,

CAT

の内実 であ る授業科 目のモ ジュラー化 と単位互換制 度 は,今後約

10

年 間の英国の高等教育 における最大の懸案事項の一つ とな るだろ うともいわれ ている

3)

。 しか し,

CAT

の定義や具体 的な実施方法及び程度 につ いては, 当事者であ る教育機 関間や,論者間で差違があ るOまた,

CAT

の長期的 目標 として,しば しば学問教育

(academic education)

と職業教育

(vocationaleducation)

との架橋が挙 げ られ る。だが,これが推進

され るべ き具体 的な方向や程度 につ いて も,高等教育部 門内部,雇用者お よび職業 団体 との間 で議論は錯綜 している。 こ うした状況は,英 国の高等教育 をめ ぐる様 々な事情,ひいてはその 背後にある社会,政治及び経済の あ り方 と深 い関係が あ る。したが って,

CAT

をめ ぐる議論 は, 英 国の高等教育制度改革 の行方 を追跡す るための格好 の材料 だ といえよ うD

翻 って, わが国の 「 大学改革」の枠組 の中で も,近年,大学の科 目等履修生制度や学位授与 機構 による学士号 の授与等の,

CAT

の発想に基づ く新 しい試みがな されつつ ある。確か に,敬 育制度 は,具体 的な歴史,社会,文化 的な文脈 を離れては,適切 に論 じられない。 しか し, そ うした文脈 の拘束性 を十分踏 まえた上 での類似の制度の比較 は, と くにそ うした制度 を後発的

* 学位授与機構審査研究部教授

(4)

に発展 させ ている, ない しさせ よ うとしてい る社会 に とって,有益 な教訓 を与 え うる。ゆえに, こうした問題意識に基づ いて,英国におけ る

CAT

の動 向 を包括的に実証分析す るこ とは,有意 義 な作業 であ ると思 われ るO本稿 では,そ うした包括的作業の第‑段 階 として,まず

CAT

の歴 史的展開につ いて整理す る。そ して,中世 以来の英 国の長 い高等教育 の歴史の中での

CAT

の導 入の意味,及び,1

960

年代以降の現代 の高等教育制度の改革 の文脈 でのその含意 を明 らかにす る。

英 国での

CAT

の展 開状況に関 しては,わが国での先行研究 は,歴史研究の分野 で も実証的な 現状分析 に基づ く現代制度研究 において も,極めて少 ない

4)

。とりわけ,

1992

年の全英学位授与 評議会

(CouncilforNationalAcademicAwards:CNAA)

の発展 的解消 に よ り,英国に おけ る

CAT

の制度 は新段 階 を迎 えた といえるが,こ うした変革 の歴史的意味及び この時期以降 の状況につ いて,詳細に扱 った ものは殆 どをい といって よい。わが国の

CAT

制度は,その構想 段階 で

CNAA

型の

CAT

を参考 に した ともいわれ るが,その中心 とな る学位授与機構 の発足後間 もな く,そのモデルの一つ とされた

CNAA

は発展的に解消 された とい う事情があ る。が,それ に もかか わ らず,英 国の

CAT

が現在 も発展 を続けているこ とは前述 した。したが って,その点 に着 目して も,英国におけ る

CAT

の動 向 を適切 に理解す るこ とは,今後のわが国の

CAT

制度の あるべ き姿 を考 えるにあたって,不可欠な作業 であろ うOそ して, そ うした包括的な整理の前 提 となるのが,現代 にいた るまでの歴史的展開状況の的確 な把握 であ る。

2

本稿の対象,方法及び構造

本稿 の考察対象であ る

CAT

は,以下 に述べ るよ うな

4

つ の原則にそった,教育機 関内部 での モジュラー方式 と単位制度 とを含む もの,と定義 され る5 ) Dそ うした

4

つの原則 とは,

1)

学習 は どこで もな され得 る,

2)

いかな る学習 も査定 され,単位価値 を与 え られ得 る,

3)

学習に つ いての単位 は,‑ カ所の学習場所か らもう一方の学習場所へ と移動 され得 る,

4)

広範な受 容可能性 をもつ単位換算表

(acredittariff)

が,単位 の最大 限の携帯可能性 を保証す るため の通貨

(currency)

として機能せ ねばな らない,であ る

6)

。なお,その具体 的な実施方法や形態 の如何は問わない。

本稿は,英国高等教育 におけ る

CAT

の包括的実証研 究の第一段 階 を構成す るO包括的研究 は, 時間的視 点 と空間的視点 とい う2 つ の軸 にそった分析 と,現代 的争点につ いての個別 的考察か

ら成 るが,ここでは まず,時間的視点か ら

CAT

を扱 う.つ ま り,英 国の高等教育制度一般の歴 史的展開の中に

CAT

の発展 を位置づけ ると同時に,

CAT

の現段階 までの制度的展 開 をた どるこ とで,

CAT

をめ ぐる議論 とその制度的展開の もつ歴史的な意味 と,現段階におけ る

CAT

の制度 の背景 とを明確 にす る。具体的には,まず第

1

章で,

CAT

導入の背景 として,英国高等教育制 度の歴史 を, とくに変動期 に焦点 を当てて簡単 に解 説す るoそ して,第

2

章 では,

CAT

の制度 化 の過程 を概観す る。ここでは,

CAT

の発展 に とって とくに重要 な出来事 を,時間的軸 にそっ て整理す るとい う手法 をとる。

そ して,ここでの歴史的評価 は,次の機会 に行 う空間的視 点か らの

CAT

の考察,及

びCAT

一 78‑

(5)

め ぐって噴出 して きている様 々な各争点に関す る議論の錯綜状況の検討‑ と,連結 されてい く こ とになる。空間的視 点か らの考察 とは, CAT を実施 してい る幾つかの教育機関の採用す る具 体 的な制度 を水平的に比較す るこ とで,現段階での実体 を整理す るこ とである。 また,各争点 に関す る個別 的検討の作業 をとお して, CAT をめ ぐる英国社会の現状が,立体 的に明 らか とな るはず である。こ うした

3

つの段階か ら成 る英国高等教育 におけ る CAT の包括的な理解 は,既 に述べ たように, わが国の将来の高等教育制度のあ り方 を考 えるに当たって,極めて有効 な も の とな るであ ろう。

なお,現代の英 国の高等教育 は, 中央政府によって全 国的に統括 されている。 しか し,イン グラン ドとウェールズ,ス コッ トラン ド,北アイル ラン ドとい う

3

つの地域 的単位 間では,磨 史的背景や具体的な制度のあ り方が,必ず しも共通 しているわけではない。それ を反映 して, CAT の発展の程度や特質 も共通点 と共 に相違点 もかな りみ られ る。本稿 では,紙面の都合上 ス コッ トラン ドと北アイル ラン ド地域 につ いては別 の機会 にゆす るこ とに して, ひ とまず イング ラン ド及びウェールズ地域 を中心に扱 うこ とにす る。

本稿 では, 関連文献 の参照 とともに,関係 当事者 の コメン トを手がか りにす るとい う方法 を とった。これは,本論 で述べ るよ うに CAT が現場 での 多様 な実践の蓄積 を経て発展 して きた も のであるために,現場 での状況 をで きる限 り忠実 に理解す る必要 があるとい う配慮に よる

そ して, そのためには,主観性 を認識 した上 で関係 当事者の コメン トを考慮に入れ るこ とが,‑

つの有効 な手段 であ るとの判断に基づ く。なおその際,個 々の関係 当事者の意見の主観性 を考 慮 し,対象者の多様性の確保 に努めたこ とはい うまで もない

7)

0

こうして得 られ る CAT の発展の歴史的理解 は,英国高等教育におけ る CAT の現状 を理解す る ための前提 となる。そ して,究極的には,今後のわが国の高等教育制度のあ り方 を考 えるにあ たって,極めて有意義な題材 となるはずである。

1章 CAT導入の背景 :英 国高等教育制度 の発展

は じめに

中世か ら現代 に至 るまでの英国高等教育の発展史は,大学の担 う社会的機能の変遷 の過程 で あ る

これは しば しば, 「 エ リー ト教育」か ら 「 大衆教育」へ の移行 として語 られ る

1)

。 また, こうした過程 は, 国家 と高等教育 との関係 のあ り方の歴史的な変化の進展 と直結 している。

英国の高等教育 のこ うした展開は, とりわけ

19

世 紀以降の

2

つの大 きな変動 を契機 とす る。

それ らは,

1)1860

年代か ら

20

世 紀初頭,

2)1960

年代 か ら

1990

年代半ば, とい う

2

つの時期 に見 られ る高等教育の大規模 な拡張 と構造上の変動 である。 これ らはいずれ も, 当時の英国の 政治,経済お よび社会的状況 と密接 に関連 している。

こうした変動 を経て,英国の高等教育 人 口は, 中世 のオ ックスフ ォー ドとケ ンブ リッジの両 大学 ( 以下,この両大学 を含めてオ ックスブ リッジとす る。)の成立以降,現代 にいたるまで爆

‑ 79‑

(6)

発的に増大 し

(20

世紀以降につ いては,付表

2

及び

3

参照 ) ,学生の出身背景 も多様化 した。ま た,高等教育 を担 う機 関の数 も約4

0

倍 に も激増 し, その各々の担 う任務や教育の性質 も様々に なった。

今 日の CAT の制度化 と活性化 は,こ うした 「 エ リー ト教育 」 か ら 「 大衆教育」‑ とい う方 向 での高等教育の発展 を促進す るもの として,1

960

年代以降の変動 の過程 で進展 して きた。そ し て,この こ とが,将来の英国の高等教育 のあ り方 をめ ぐる見解 の相違 と相 まって, CAT の推進 の是比論 の背後 にはある。

1

筋 前史

1項 1

9 世紀前半 までの状況

英 国高等教育 の歴史は,1

2

世紀のオ ックスフ ォー ド大学 と

13

世 紀のケ ンブ リッジ大学に遡 る。

そ して,1

9

世 紀前半 までは,これ らオ ックスブ リッジでは伝統的に, 「 教養教育」が中心 であっ た。

ここにい う 「 教養教育 」 とは,道徳性 と知性 を高め るこ とを目的 とし,古典 (オ ックスフォ ー ド大学 )ない し数学 (ケ ンブ リッジ大学 )が 中心科 目であ り,現実 問題 の解決 に直接役立つ こ とを目ざきない反科学 ・反技術 ・反職業教育 的性格 をもち,教育 内容 は高度 に専 門化 してい る とい う, 当時の社会的支配層 を対象 とす る教育 であ る。 また, オ ックスブ リッジでは,同時 代 の ドイツ とは対照的に研究 よ りも教育が重視 された。 さらに,入学 ない し学位取得 資格,敬 師資格お よび卒業生の進路の面 で,英匡l 国教会 と密接 なつ なが りもあった。 こ うして,

19

世紀 前半 までの, と くにイングラン ドの大学が担 っていた高等教育 とは,社会 の一部の特権的エ リ ー ト層にのみ開かれた ものだった

2)

0

また,財政や運営の観 点か らも,1

9

世 紀後半 までのイングラン ドの大学 はほぼ完全 に私 的な 機 関であ り,政府 と高等教育 との間には極めて希薄 な関係 しか存在 しなか った といって よい

3)

0

一方,ス コッ トラン ドでは,1

9

世 紀前半 までにセ ン ト ・ア ン ドリュー ズ

(1413

年 設立 ) ,グラ ス ゴー

(1451

年 設立 ) ,アーバーデ ィー ン

(1494

年設立 )及びエ ジンバ ラ

(1583

年 設立 )とい う

4

つ の大学が存在 していた。そ して,入学者の年齢 もイングラン ドに比べ て低 く

(15

か ら1

6

歳) 多 くの点 で中等学校 の ような ものであった。 また,幅広 いカ リキュラムの下 に哲学が重視 され, 欧州大陸諸 国の伝統 に よ り強 く影響 された講義 中心の教育 であったo これは, オ ックスブ リッ

ジの伝統 とは大 き く異なっていた点 であ る。そ して, 入学者の出身階層及び卒業生の就職先の 両方において,大学 は常 に社会移動装置 としての機能 を果 た して きた とされ, イングラン ドに 比べ て, よ り民主的であった と評価 されてい る4 ) 0

2 19

世紀後半か らの変動

しか し,以上 の よ うな伝統的な高等教育 のあ り方 は,

19

世 紀に発現 した主に

2

つの動 きに よ って変動 し始め た。 これ らはいずれ も, 人 口の急増,産業革命 の進行 に伴 う社会 的経済条件 の 変化,お よび中産 階級の伸張 といった当時の社会状況 と, その結果 としての高等教育 に対す る

‑ 80‑

(7)

社会的期待 の高 ま りを背景 とす る。

まず第‑ に,高等教育機 関ない し教育機会 の増大に伴 う, イングラン ドとウェー ルズでの一 部の特権階級以外へ の高等教育 の普及 である。 これは,

1820

年代か ら

30

年代 にかけての ロン ド

ン大学 ( ユニバー シテ ィ ・カレッジとキングズ ・カレッッジ)お よびグラム大学 の設立5 ) に始 ま り,

19

世 紀後半か ら

20

世 紀前半 にかけての, イングラン ドの地方産業都市 での設立運動 の結果 としての1

5

近 くに も及ぶ 「 市民大学 」

(CivicUniversity)6)

,お よび民族復興運動 としてのウ ェールズでの

3

つのカレッジ

7)

の設立 と学位授与権 の取得 であった。これ らの 「 市民大学 」 (そ の外観 をもじって 「 赤煉瓦大学」 と呼 ばれ る)は, オ ックスブ 1 トソジとは異な り,地域産業界 のニーズに応 えるべ く中産階級 を対象 として,科学志 向の専 門職業教育 を担 うものであった。

こ うして,大学の数 は, イングラン ドとウェール ズ とを併せ て,一挙に倍増 したのであった

なお,ス コッ トラン ドでは, この時期 に大学 は新設 されず, イングラン ドに類似す る高等教育 の拡張に関す る運動 も, と くにはみ られなか った。 また, この時期 のイングラン ドでは,女子 高等教育促進運動,大学拡 張運動や 大学 セツルメン トも活発化 し,新 旧大学 は女性や労働者階 級か らの要求 に も応 えた

8)

oこれ らの イングラン ドとウェール ズで顕著 な高等教育の規模 と機会 の拡大は,主 に地域産業界ない し一部の革新 的な大学 人のイニ シアチブに よるものであ り,徳 述す る

1960

年代以降の政府の積極的介入に よるもの とは異な る。

第二は, オ ックスブ リッジでの改革の進行 であ るO これは,以前の密接 な国教会 との関係 の 希薄化 ( 世俗化 ) ,入学者の社会階層お よび卒業生の進路 の拡大 ( 社会化 ) ,専 門職業教育 ( 法 学,工学 )の開始 ( 専 門化 )お よび科学教育の導入 ( 科学化 )等 を含む。 これは,以前の国教 会 の牧師養成所 としての両大学のあ り方が,産業革命 を経て 「 有用性」 を重視す る当時の社会 的風潮の中で,時代遅 れにな って きた こ とに起因す る。競争試験 に よる官僚機構 の改革 と拡張, 帝 国領土の拡大,学校数 の激増の結果,大量の官僚や植 民地行政官,法律家や学校教師が必要

とされ,それには従来の 「 教養教育」のみ では対応 で きな くなったのであ る9 ) 。こ うした改革 は, 幾 多の困難に直面 しつつ も,議会

10)

と リベ ラル派大学人の双方の イニ シアチブに よって達成 さ れた。

他方,ス コッ トラン ドでは,

19

世 紀後半以降,既存の大学 の改革が議論 され るよ うになった。

これは,本 国及びイン ドの官僚 試験 でのス コッ トラン ドの学生の成績が,相対 的に良 くないこ とに対す る懸念に よるものである。 また,高度 に専 門化 された教育 の妨 げ となってい るス コッ トラン ドの学位構造 も,問題 とされた。大学改革委員会及び大学法が設定 され,教育 内容は, む しろ従来のイングラン ドのそれに接近 した といって よいO こ うして, ス コッ トラン ドでは, 同時代のイングラン ドや ウェー ルズとはか な り異な る状況にあったoただ し, 当時の科学の隆 盛 を反映 して,

19

世 紀終 わ りには全ての大学 に科学学部が設立 され る等,科学教育 が重視 され

るよ うにな った点は, イングラン ドと同様 であった

11

) 0

以上の ような規模 の拡大

(20

世紀以降の学生数の変動 につ いては付表

1

参照 ) と質の変化 に よる構造変動 の結果,英国, とくにイングラン ドとウェールズでの大学 の基本構造は, 旧大学 (オ ックスブ リッジ) と新大学

(19

世紀以降の 「 市民大学」)とい う複線型 となった。そ して,

‑ 81‑

(8)

これ らの大学 は, 資金,運 営, カ リキュ ラム等の面 で極 め て 自律性 が高か った

12)

。 この点が,

1960

年代 以降の変動 の前提 とな って い る。 なお,大学以外の技術 カ レ ッジ と教 員養 成機 関 も併 存 し

13),

これ ら各 々が異な る社会 的役割 を果 たす こ とにな った。

2 1960

年代 以降の変動 第

1

項 背景 と特 質

第二次世 界大戟以後,学生数 の急速 な増大 と高等教育へ のア クセ スの制 度 的な拡大 は顕著 と な り,「 エ リー ト教育」か ら 「 大衆教育」‑ とい う移行 は ます ます増進 した。以下 に述べ るよ う な

2

度の時期 の改革 と変動 を経 て,高等教育機 関の数 は

1960

年代 以前 の約

4

倍 とな り,高等教 育 人 口も激増 した ( 付表

1

及 び

2

参照。)

こ うした現象 は,

2

つ の世 界大戟 を経 て英 国社会 で顕在化 した

2

つ の要 因に よる。一つには, 英国の経済力の衰退 に対応す るため には,科学 ・技術 の発展 と高度 の熟練労働 力の養成が必要 であ るとの認識が高 ま り,高等教育 は, その ために積極 的 な役 割 を果 たす こ とを期待 され るよ うになった こ とであ る

O

と くに これは,科 学 ・技術系 の教育 の充実 とその学生 の増大 に対す る 社会 的要請 として顕在化 した

14)

o そ して, もう一つ は,英 国社会 の人 口の増大 お よび国民の生 活水準の向上 が,教育機会 の 「 民主化」 の主 張 を高め た こ とであ る

15)

。 さ らに,近年 では,社 会 の 「 効率性」 の向上 を主眼 とす る政策 が,高等教育 の 「 経済的効率 性」 の推進 とい う形 で制 度改革の支柱 とな ってい るこ とも, 見逃せ ない。

こ うした移行過程 は,

1960

年代 前半 よ り現在に いた るまでの約

35

年 間に及ぶ。 そ して,後 に 詳 し く述べ るよ うに,主 に

2

つ の時期 に区分 され るO第一 は,

1963

年 に提 出 され た高等教育 に 関す る 「ロビンズ報告 書 」

16)

以降,

1960

年代 か ら

70

年代 にか けて であ る。 そ して第二は,

1979

年 の保守党政権 の成立以 降, と くに

80

年代 後半 よ り現在 にいた るまでであ る

17)

。 なお,数育上 の経済的浪費 を回避す るため に

CAT

の導 入が議論 され本格化 したのは,この第二の時期 であ っ たC

また, こ うした約

35

年 間は.理 念の上 では,英 国高等教育 の伝統 だ った 「 教養教育」 の衰退 と,それに代 わ る 「 教育 の経済 イデ オ ロギー 」

(Economicideologyofeducation)

の台頭 と 定着 の過程 であ る。「 教育 の経済 イデ オ ロギー」 とは, 「 教育 とは,適切 な知 識 と人材 の生産 に よる英国経済へ の貢献 を最大化す るため に, 国家 に よって管理 ない し運営 され るべ き経済的な 資源 であ る」 とい う信 条 であ る。具体 的には,科学 ・技術 と職 業教 育 を重視 し,教 育機 関の経 済性 と国家 に対す る責任 を強調す る。 この理 念は,

1960

年代初頭 に高等教育 が新 しい教育省の 管轄 の下 におか れ るよ うに な って以降,急速 に顕在化 して きた

18)

。 そ して, 当該約

35

年 間の う ちに, この新 しい理 念に基づ いた国家的な高等教育制度 が伸 張 して きたの であ る

なお, こ う した国家的 な高等教育制度 の伸 張 は,

a)大学の国家 に対す る従属化 ,

ち)大学 以外 の高等教 育機 関 (ポ リテ クニ クとカ レ ッジ)の国有化, とい う

2

つの現 象か らな る

19)

0

また, その よ うな 「 教育 の経済的 イデ オ ロギー」 に基礎 をお く国家 関与 の深長 は,主 に高等 教育機 関‑ の政府補助金付与 に関す る制度 の一連 の改革 をとお してであ った。す なわち,

1919

‑ 82‑

(9)

年 に設立 され,大学 と政府 との間の 「 緩衝装置」 としての役割 を担 っていた 「 大学補助金委具

合 」(UniversityGrantsCommittee:UGC)20)

の機能変化 と,それ と伴行す るポ リテ クニ ク とカレッジのための「 高等教育地方 当局 のための国家諮問委員会 」

(NationalAdvisoryBoard forLocalAuthorityofHigherEducation:NAB)

の設立 とその活動 の活発化,及びその 後の両者の再編成 と統廃合 である。つ ま り,

1960

年代か ら現在 に まで連 な る変動 は,政府, と くに教育省 と大学 との間の補助金制度 をめ ぐる攻防が軸 とな っているの である

21)

。 また, こ う した過程 は,高等教育 の全体 的な組織構造の観点か らは,「二元的制度 」

(Binarysystem)

の 確立 と, その崩壊 及び一元的構造 の再編成, とい う転換現象 として も語 られ る。

しか し, こ うした一連の変動 は,高等教育機 関に関す る,財政,管理及び構造 といった面 で の,あ くまで も対外的な制度 の転換 であ る。そ して, こうした転換 は,高等教育の価値, 目的, 教授 ない し学習の内容や方法 といった対 内的な局面 での変動 とは,必ず しも直結 していない と いわれ る。つ ま り,対外的制度 面 での 「大衆教育」化 と,対 内的文化面 での 「 エ リー ト教育」

の残存 とい うア ンバ ランスな現象が,今 日の英国高等教育 には顕著 に見 られ る。そ して,

CAT

をその典 型例 として挙 げ る論者 もい る

22)

。 こ うした‑ ‑ ド面 とソフ ト面 との間のア ンバ ランス が,現在頻繁 に指摘 され る多 くの緊張や制度の機能不全 の原因 となってい るとの指摘 も多いの である

23)

0

2

項 概 略

1 1960

年代初頭 か ら

70

年代 : 「 二元的制度」の確立 と強化

1963

年 に刊行 された高等教育 に関す る 「ロビンズ報告書」 は, 当時の人 口の増大 とそれに伴 う高等教育 の普及‑ の社会 的圧 力に対 して,将来の有効 な対応策 を模 索す るための ものであっ た。ここでは,能力のある者は高等教育 を受 け るべ きとす る基本的な考 え方にそって,既存の 大学の拡張,上級技術 カ レッジの格上 げ,新 大学 と教具養成 カ レッジに対す るよ り一層の 自由 の付与,等が勧告 された

24)

0

保守党政権下 で提 出 されたロビンズ報告書 で主張 された高等教育 の拡 張は,

1964

年以降の労 働党政権の下 で,

1)学生数 と政府補助金額 の増大25)

,

2)

新大学 の設立

26)

,

3)上級技術 カ

レッジの大学へ の格上 げ

27),4)30

の公立 ポ リテ クニ ク

(1966

年 )

28)

ォ‑ プン ・ユニバー シテ ィ

(OU)(1969

年 )の設立

29),5)

新教育省

(DepartmentofEducationandScience)

CNAA

の設立

(1964

年 )

30)

,

6)

留学生の学費の相 当額の値上 げ

(1967

年 )

31)

, とい う形で実 現 された。 こ うして, イングラン ドとウェー ルズでは,数 の倍増 した大学及びその数 に匹敵す るほ どの ポ リテ クニ ク等 その他 の教育機 関の存在 を基礎 として,高等教育 人 口も

2

倍近 くに ま で激増 した ( 付表

1

及び

2

参照 ) 。また,ス コッ トラン ドにおいて もオー プ ン ・ユニバー シテ ィ

と共に

4

つの新大学が設立 され,大学 の数 は倍増 し,高等教育 は一層普 及 した

32)

0

これ ら一連 の出来事 は,高等教育 の規模 の拡大に加 えて,英 国高等教育 におけ る組織面 と権

力面の双方 での構造的変化 の端緒 となった。つ ま り,私 的部 門 (自律 的な大学 )と公的部門 ( 政

府の直接的な管理 の下にあるポ リテ クニ ク等の非大学高等教育機 関 ) とを内実 とす る 「 二元的

(10)

制 度(Binarysystem)の確 立,及 び教育 省 とい う単 一 の政 府機 関 に よ る高 等教 育全体 に対す る管轄制度 の樹 立(UGCと大蔵 省 との直接 的 なア クセ スの否定 も含 む )であ る。 「ロ ビンズ報告 書」 は,新 しい タイプの教 育機 関の創 設 を提 唱 してはお らず,現実 の こ うした動 きの全 てが こ の報告 書 の勧告 に そ うもの だ った とは, 必 ず し もいえな いO結局 , ポ リテ クニ クの設立 に よる 高等教育 の公 的部 門の設定 は, 自律性 が極 め て強 いため に政府 の コン トロー ルが 及 び に くい大 学 に対抗 した もの で あ る といわれ て い る。つ ま り,地 方 自治体 のチ ャ ンネル を とお して ではあ るが,政府 は, 自 らの高等教育 政 策 をポ リテ クニ クの運営 に反 映 させ 得 る。 こ うして,既 存の 大学 とは別個 の シス テム を創 設す るこ とで,高等教育 改革 を推 進 しよ う とした。これが, 「二元 的制 度」 の政策 的 な含意 で あ る とされ て い る33)。 こ うして, それ までの 「大学 ‑高等教育 」 と い う図式 は改め られて高 等教育 の観 念 は拡 大 され た。 それ と同時 に,政 府 , と くに教 育 省 に よ る積 極 的な高等教 育 政 策へ の 関与 も開始 され た。従 来 の高等教 育 は,UGCと非 公式 な団体 であ る副学長 ・校 長 委具合 (CommitteeofVice‑ChancellorsandPrinciple:CVCP)34)を中 核 とした 自律 的 な大学 運営 を内実 として いたO こ うした伝 統 的 な あ り方 は,転 換 点 に立 た され たの であ る。

しか し,こ う した1960年代 の改革 は,あ くまで も従 来 の大学 以 外 の高等教 育機 関 の設立 ‑ 「二 元 的制 度」 の創 出 一に よる高 等教育 の規模 の拡 大 であ り,伝 統 的 な大学 の あ り方 その もの に対 して,直 ちに直接 的 な影 響 を及 ぼす よ うな もの ではなか った。確 か に,OUの 設立 に よ り,パー トタイム学 生 の数 の増加 と学 習形 態 の 多様性 が もた らされ た。 だが, これ は全体 的 な大学 の あ り方 に影響 を及 ぼす よ うな もの では なか った。 この点が,1980年 代 後 半 よ り本格 化 す る変動 と は大 き く異 な る 「分 離 (Separation)に よ る変化35)の意 味 であ る。 また, この時期 には,高 等教育 の将 来 に対 す る楽観 的 なムー ドが社 会 の 中には見 られ た こ とも,1990年代 とは 異 な る と され る36)

0

1970年代 に は高等教育 を受 け る学 生 の数 が最 大 とな り (1参 照 ),その結果 ,財 政 面 での圧 力 も増 大 して,UGCに対 す る補 助 金額 の 削減 が続 いたDそ して,削減 され た補 助 金 を有効 に配 分 す るため に,UGCは大学側 の補助 金 申請 と交付 金 の運 用 に関す る精 査 をす る よ うに な った。

こ うして,UGCは各大学 の 内部事 項へ 精 密 な関与 をす るこ と とな り,この こ とは,UGCが今 ま での よ うな受動 的 な立場 を触 れ て, 大学 に対 して圧 力 をか け る存在 とな った こ とを意 味す る。

他 方 で,官庁 と議 会 に対す るUGCの影響 力 は低 下 した。これ は,大学 の収 支 計算 が会 計監査 の 対 象 とな った こ と,学 費 の額 が一律教 育 省 に よ って決 定 され る よ うに な った こ と,従 来 の補助 金制度 の5年 シス テムが崩壊 した こ と等 に象徴 され る37)0

また,1960年代 以 降の高等教 育 の拡 張 は教 育 水 準 を低 下 させ た との批 判 も噴 出 した。 さ らに, 高等教 育 にお け るポ リテ クニ クの比重 も高 まった。 こ うして, 高等教 育 をめ ぐる議 論 が活 発化 す る とともに,政 府 は高等教 育政 策 の決定 につ いて, よ り積極 的 な役 割 を果 た さ ざる をえ な く な った。

‑ 84‑

(11)

2 198

D 年代 か ら現在 にいた るまで :一元的構造の再編成

1979

年 に成立 した保守党政権 は,費用の効率,責任, 緊縮財政お よびよ り一層の中央集権化 を政策の中枢 にす えて,積極 的に中央集権 的な高等教育政策の推進 を試みた。そ して,学生数 の増大 と,経済効率 の向上 のための政府歳 出の制 限の両者が,政府 に よる高等教育拡張政策 と して推進 され るこ とになった

38)

。 と りわけ,大学 とポ リテ クニ クを一括 して高等教育政策の視 野に入れて経済性 を高め たい政府 と,両者 を独立 した別個 の存在 として共存 させ たい大学側 と の対立は大 きか った。結局,大学側 の強力な反対 で,政府の試みは挫折 したが, その結果, ポ

リテ クニ クと地方の教育行政機 関 との間の複雑 な関係 は持続す るこ とになった

39)

a

1981

年 の補助金削減 は大学側 に とっての相 当な経済的打撃 とな り,

UGC

の排他的な資金配分 権 限は存続 し続けた ものの, これ以降,大学の政府‑ の従属化 とポ リテ クニ クの国有化の双方 の動 きは極めて顕著 になったO まず, ポ リテ クニ クの運営 をめ ぐって,保守党政権 の中央政府 と労働党政権が 多数 を占め る地方政府 との間の対立が顕在化 したo結局,

1981

年 に, ポ リテ ク ニ クに関 して

UGC

と同様の役割 を果 たす ことを任務 とす る国家諮問委員会

(NationalAdvisory BoardforLocalAuthorityofHigherEducation:NAB)

が設立 され, ポ リテ クニ クに

も中央政府の政策が明確 に及ぶ こ とになった。

さらに,

UGC

の 自律 的な地位 の低下 は明 白となったOとくに,

1981

年 とそれ以降の一連の補 助金削減 に

UGC

が積極的に対応す る過程 で

,1970

年代 よ りみ られた

UGC

に対す る大学側の反感 は, ます ます高 まったOそれ と同時に,教育省は,特定の方向づ け を図 りなが ら,高等教育政 策の策定 と実施 に関す る自らのイニ シアチブを増進 していった。そ して次第に,

UGC

はこの時 期以降,政府の政策に基づ いて設定 された戦略方 向にそって行動す るよ うになった

40)

。 さらに,

ポ リテ クニ クの部 門での

1982

年 の

NAB

の設立の結果,大学 お よび

UGC

システムは,ポ リテ クニ クも含む高等教育の うちの単 な る一部分 にす ぎな くな り,高等教育全体 での比重 は低下 したの である。

結局,ポ リテ クニ クをめ ぐる中央政府 と地方政府 との争 いは,

NAB

の設立に よって も解消 さ れず,ポ リテ クニ クを完全 に資金配分 の面 で中央政府の管轄 に移行 させ るために,

NAB

に代 わ るポ リテ クニ ク ・カレッジ資金評議会

(PolytechnicandCollegesFundingCouncil:PCFC)

1988

年に設立されたOこれは

,1987

年の自書

41)

を受けた

1988

年の教育改革法

(EducationReform Act)

に基づ く。この改革 に よ り,中央政府 の コン トロールが強力に及ぶ よ うになった

42)

。そ し て,大学部 門で も

PCFC

との対象性 を保 つ ために,同法に基づ いて

UGC

に代 わ る大学資金評議 会

(UniversityFun°ingCouncil:UFC)

が設立 された。こ うして,大学の政府‑ の従属化 は,制度的に達成 されたのである

43)

0

さらに,

1992

年 には,遂 に従来の高等教育 におけ る 「 二元的制度」が廃棄 され,全ての ポ リ テ クニ クが大学 に昇格 して学位授与権 を獲得 し,

CNAA

も廃 止 された。こ うして,イングラン ドとウェール ズ とを併せ て36の新大学 は発足 し, ス コッ トラン ドにおいて も,

4

つの大学が誕 生 した。それ と同時に,

UFC

PCFC

は,高等教育資金評議会

(HigherEducationFun°ing Councils:HEFCs)44)

に統合 された。これは,

1991

年 の 白書

45)

を受 けた

1992

年 の継続教育 ・高

一 85‑

(12)

等教育法

(FurtherandHigherEducationAct)

に基づ く構造的転換 であ り,経済効率 の向 上 を目指す政府の積極 的介入 を制度化 した ものである。そ して,

HEFCs

の機能 は,教育機 関に 助成金 を付与す るこ とではな く,具体 的な教育サー ビスの提供 と交換 に財源 を支給す るこ とで ある点が,明確 に された

46)

oこれは,「 援助か ら契約へ」とい う発想の転換 を意味す るものであ り

47),

高等教育 の分野に契約 の観念 を導入 した もの といえよう。 こ うした 「二元的制度」の廃 棄 は,

1980

年代半 ば以降の学生数 の増大の需要 に対す る, ポ リテ クニ ク部 門の相対的な成功 と 大学部 門の不成功,お よび新 設の

UFC

の機能不全 と対照的な

PCFC

の作業 の活発化 とい う状況 に由来す る。つ ま り,

1980

年代 の高等教育の拡大 と経済の衰退 の歯止め といった社会的要請に 対 して,大学 と

UGC

が十分 に対応 できなか った とい う政策立案者側 の評価 であ る

48)

。こ うして, 両部 門間 を統合 して,競争原理 を導入 し,資金付与 を媒介 とす る 「 外部評価 に よる質的効率 の 保障」 を達成す る

49)

こ とで,外部か らの大学の改革 を実現 しよ うとい う政策が,政府 の主導の 下 で現実に制度化 され るこ とになったのであ るO

さ らに, 同法 に よ り,継続教育 カレッジも地方政府 の管轄か らはずれ るこ とになった。 こう して,継続教育部 門において も,継続教育資金評議会

(FurtherEducationFun°ingCouncil:

FEFC)

をとお して, 中央政府の直接的な コン トロールが及ぶ こ とになったのである

50)0

こうした

1992

年の改革は

,1960

年代のそれと比較 して, 高等教育全体 を包含す る「 統合

(integration)

による変化」 と呼ばれ

51)

,英 国高等教育 の大転換点足 りうると評価 されてい る。 また, これに よ り,継続教育 をも含む中等後の教育

(postsecondaryeducation)

全体 を包含す る,米 国的 な垂直的統合 ともいえるよ うな国家的制度の出現す る可能性 も示唆 された

52)

。 こ うして,

1990

年代 の改革 は,「 エ リー ト教育」か ら 「 大衆教育」へ とい う英 国高等教育の移行 を,制度 的な観 点か ら政策面 において決定づ けた といって よい。 また,実際に,高等教育人 口も,

1980

年代後 半以降 ます ます激増 し,実体 的な数値 の上 で も 「 大衆教育」化は達成 された といって よい ( 付

3

参照) 0

しか し, その一方 で,前述 した ような対 内的側面に関す る変化 の緩慢 さ との落差 も指摘 され てい る。 また,

1960

年代 とは異な り,高等教育 の将来に対 しては,社会の 中で悲観 的なムー ド が支配的だ ともいわれ る

53)

oゆ えに,以上 の よ うな対 外的制度面 での変革 の実際上 の含意は, 現段 階では一見す るほ どには明 らか でない といわ ざるを得 ない。

2

CAT

の展開

は じめに

既 に述べ た ように,

CAT

は,4つの原則に基づ く教育機 関内部 でのモ ジュラー方式 と単位制 度 を内実 とす る。これは,

19

世紀に米 国で発達 した授業科 目単位制度の影響 を受 けてお り

1

)

,1960

年代以降,英 国では高等教育‑ の導入の議論が始 まった。

こ うした

CAT

の導入 と展 開は,「 エ リー ト教育」か ら 「 大衆教育」へ とい う高等教育全体 の激

‑ 86‑

(13)

しい変動 の文脈 の 中での現 象 であ る。 ただ し, その発展 の過程 は単 線的 ではな く,肝余 曲折 し なが らも様 々な要 因が偶 然に複合 した結果 の産物 といわれ る

2)

。前節 で述べ た よ うに,

1960

年代 以 降の英 国の高等教育 の発展 は,大学の 自律性‑ の 国家 に よる介入の伸 張の歴 史で もあ る。 し か し, CAT に関す る限 りでは,従 来,政 府 の姿勢 は それほ ど明確 な もの ではな く3 ) , む しろ, その導入は草 の根 レベ ルの イニ シアチ ブに よるものであ った。一部 の教育 関係 者 を中心 とす る 特定 の教育機 関での実践が,様 々を要 因 と複合 して全 国的規模 に拡 大 した ものなのであ る4 ) 。と くに,

1980

年代後半以 降の

18

歳 人 口の減少‑ の対応 として,高等教育 の カ リキュ ラムに柔軟性 をもたせ るこ とで,従 来高等教育‑ のア クセスが 困難 であった層 を も高等教育 に取 り込み, そ の対象 を拡 大 して いこ うとい う政策 レベ ル での動 きが,大 きな推進 力 とな った

5)

0

1960

年代初頭 か ら現在 にいた るまでの CAT の発展 の歴 史は,その導 入 と定着 の程度 に よって,

1979

年 までの前 史以降大 き く

3

つ の段 階 に分 け られ る。す なわち, 1)

1979

年か ら

1985

年 まで,

2)1986

年 か ら

1992

年 まで,

3)1992

年 以 降, であ る。 この 中で も,高等教育制度 の改革が本 格化 し始 め た

1986

年以 降の展 開はめ ざま しい。 しか しその一方 で,

1992

年 に従 来の高等教育 の

「 二元的制度」が崩壊 した後 は,今 後 の CAT のあ り方 をめ ぐって様 々 な争点が噴 出 し,混沌 とし た状態にあ る。こ うして,英 国高等教育 の歴 史の中では相対 的 に短期 間で発達 して きた CAT は, 今後 の英 国の高等教育 の発展方向に直接 的に関わ りうる ものであ るだけに,将来 の高等教育 の 全体像 の議論 と相 まって,現在激 しい論議 の対象 となってい るの であ る。

1

節 制度化の背景

(1978

年以前の前史) 第

1

「ロビンズ報告書 」

(1963

年)の影響

英 国高等教育 におけ る CAT の展 開は,主 に

1970

年代 後半以 降の過去

20

年 間の もの であ る。し か し, その端 緒 は,既 に

1963

年 の ロビンズ報告書 に見 られた。 ここでは,学生 の選択 とが Jキ ュ ラムの柔軟性 を増進す るため の手段 として,単位互換 の有用性 が説か れて いたの であ る。 た だ し,予想 され る大学 ス タ ッフの反対 を懸念 して,慎重かつ 防御 的 な表現 に限定 されて いた

6)

ロビンズ報告 書以後,

1980

年代 後半以 降の CAT の活性化 の組織 及び運営面 での基礎 となった のは,

1969

年 の オー プ ン ・ユ ニバー シテ ィ

(OU)7)

の設立 と,

1960

年代 後半以 降の幾つかの教 育機 関でのモ ジュ ラー方式の採用 であ るo こ うして,

1960

年代初頭か ら始 まった高等教育 の変 動 の 中で, CAT もその推進手段 として,徐 々にではあ ったが導 入 と制度化 の兆 しがみ られた。

これは,この段 階 では未 だ部分 的 な試み にす ぎず, OU 以外 では顕著 な成功 を収 め た ともいいが たい。しか し,ここでの動 きは次 にみ るよ うに, CAT の本格 的導 入の契機 とな った

1979

年 の 「ト イネ報告 書 」

8)

の基盤 とな った こ と,及 び結果 的 に その後 の CAT の原型 とな った とい う点 で, 英 国高等教育 におけ る CAT 前史 として位 置づ け られ よ う。

2

項 オー プ ン ・ユ ニバ ーシテ ィの設立

(1969

年 )

OU は,

1963

年 の設立 当初 よ り,一貫 して単位制度 を基礎 とす るモ ジュ ラー構造 を採用す る。

また,高等教育 におけ る流動性 と柔軟性 を高め るため の それ以 外の 多 くの初 め ての試み ‑過去

‑ 87‑

(14)

の学習の認定, 中間資格 の付与,マルチ メデ ィア学習方法の利用,大規模 な学生向けガイダン ス と支援 システムの提供,学習達成記録 としての成績証明書の発行 等 ‑ もな され 後の

CAT

活 性化のための様 々な仕組みのモデル を提供す ることに もな った。

その結果,

OU

は,英国高等教育 でのパー トタイム学生の比率 の急上昇 とい う結果 をもた らし,

1970

年代後半か ら

80

年代 にかけての「オープ ン ・カレッジ連合

(OpenCollageFederation:

OCF)

にモデル を提供す るこ とともなった

9)

。こうした O U の活動 は全体 として極めて高 い評価 を受けてお り,

CAT

の最初の制度化 としての意義は大 きいのみな らず,その後の発展へ与 えた 影響 も極めて重要 であったO

3

項 教育機 関でのモジュラー方式の採用

1960

年代末か ら7

0

年代初頭 にかけて, ロン ドン大学 と幾つかの ポ リテ クニ クを含む公的部 門 の教育機 関は,モ ジュラー方式 を採用 した。 これは,1

970

年代末以降顕在化 してい く,教育機 関でのイニ シアチブの萌芽 であった。

1960

年代前半か らの ロン ドン大学 でのモ ジュラー方式採用に関す る議論 は,

1967

年 の科学部 での実施 に始 まって,1

979

年 までには大学全体 の単位制度化 に結実 した。ただ し, ここではモ ジュラー方式の扱 いにはそれほ ど野心的ではな く,学生側 に とっての柔軟性 は限定的な もので しか なか った といわれ るO もともとこの改革 は,実質的には各学部 の教員が, 中央か らの コン トロール を緩 くす るために積極的に支援 した もの とされ る。そ して, 当初 の 目標 として表明 さ れていた学生の幅広 い選択の確保や学部間の協 力等は,殆 ど実現 しないままであった, とも評 価 されている

10)

a

他方 で,1

970

年代初頭の公的部 門‑ポ リテ クニ クとカレッジーの一部の教育機 関でのモジュ ラー方式の導入は, ロン ドン大学の場合 とは異な りか な り積極 的な ものであった。 これは,‑

ッ トフィール ド, ロン ドン市, ミ ドルセ ックス及びオ ックスフォー ドの,

4つの ポ リテ クニ ク

にみ られ る。そこでは, モ ジュラーの長 さで定義 され るセ メスター ない し トリメス ター制,主 及び副専攻,複合科 目の履修の可能性等が制度化 された。また,学生の選択 の幅が拡大 され,「 高 等教育デ ィプロマ」をとお して中間学位 の取得が可能 とされていた

11)

。ただ し,ここでの

CAT

制度 の発展 は,以下の よ うな

3

つの要 因に よって減速 されて もいた。す なわち,米国の ものの ように単位制度 よ りもモ ジュラーに比重がおかれているこ と,各々の教育 ス タ ッフに よる抵抗 と当時の

CNAA

CAT

に対す る唆味 な態度 ‑ポ リテ クニ クの運営 に関 して独 自性 と多様性 とを 奨励す る反面 で一貫性 と構造上の堅実 さを要求す る‑,及びポ リテ クニ クは徐 々に学生の選択 幅の拡大に対 しで懐疑的 とな り科 目上の忠実 さを再 び要求す る方向に傾 く傾 向にあったこと, であ る

12)

2節 歴史的展開

1

CAT

の導入へ

(1979

年か ら

1985

年 まで)

この時期 には,英 国高等教育全体 におけ る

CAT

の意義が,様 々な形 で関係者間で明確 に意識

‑ 88‑

(15)

され始め,

CAT

をめ ぐる人脈 ネ ッ トワー クも徐々に発展 して,

CAT

の制度化へ 向けての 「 草の 根」運動 の拡大がみ られた。

1

「トイネ報告書 」

13)(1979

年)

その直接的な契機 になったのは,1

979

年 の 「トイネ報告書」 であ る。 ここでは, 当時の単位 互換活動 の規模 と潜在性が包括 的に記 され, また,将来の高等教育 での資源 の浪費の回避のた めには,単位制度 を利用す るこ とが有効 であるこ とが提案 されていた。なお,報告書は

CAT

を,

「 本質的に,資格,部分 的資格及び学習経験 は,学生が一つの授業科 目か ら他 の授業科 目‑ と移 動す るために,教材や勉強の達 成程度 を不必要に反復せ ずに勉強上 の進歩 を達成す るこ とが で きるよ うに,適切 な承認 ( 又は信用 )を与 え られ,かつ,学生が不都合 な時間の浪費 をせずに よ り一層の教育経験 と資格 を与 え られ,従 って,蓄積 された教育 資本の極 限かに貢献す るよう な過程」 と定義 してい る

14)

。こ うした単位制度活用の主張の背後 にあったのは, OU での経験, オープ ン ・カレッジの継続 ・成人教育 といった公的部 門でのモ ジュラー方式の伸 張,及びラン カシャーでの コンソシウムの活動 であ る

15)

0

そ して,

CAT

の活性化 のためには単位互換 に関す る包括的な情報提供 と相談サー ビスの制度 の整備が必要 であ るこ とも強調 されていた。なお, この主張 を受 けて教育省 に よって1

980

年代 初頭 に設立 されたのが,教育相談及び単位互換情報サー ビス

(EducationalCounselingand CreditTransferInformationService:ECCTIS)

であった

16)

ただ し,一般 に トイネ報告書の重要性 は, その 内容 自体や結果 としての

ECCTIS

の創設の招 来 とい うよ りも,歴史的に初めて,英国の教育制度 のための潜在的に重要 な手段 として単位 を 強調 した点にある といわれている

17)

。 と くに,教育機 関内の流動性 (モ ジュラー方式 ) と対外 的な一般 的流動性 ( 単位 累積互換 )の双方の観点か ら単位制度 に明示的に言及 したこ とだ とさ れ る

18)

0

トイネ報告書 での

CAT

の重要性 の明示 を契機 として,以下 に述べ るよ うに,

1980

年代初頭以 降,高等教育‑ の

CAT

の本格 的な導入に向けての動 きが, と くに

2

つの レベ ルで活発化 した。

一つは,高等教育 に携 わ る教育担 当ス タ ッフ 自身に よる議論 であ り, もう一つ は,継続教育部 門 と高等教育部 門 との関係づ けに関す る動 きであ る。 さ らに,1

970

年代 に続 いて,大学及び ポ

リテ クニ クでのモ ジュラー化 も進行 した。

2

「レバ ーハルメ報告書

(1981‑83

年)

高等教育 に携 わ る教育担 当ス タッフ 自身に よる議論 の一つの主要 を成果は,1

981

年か ら

83

年 にかけて刊行 された 「レバー‑ ルメ報告書 」

19)

であ る。保守党政権下 での大幅 な高等教育補助 金の削減等,

1980

年代 の英 国社会 には高等教育 に対す る悲観的なムー ドが漂 っていた。 レバー

‑ ルメ報告書は, こ うした状況の下 で,教育担 当フ タッフ 自身が作成 した当時の高等教育の現

状 に関す る評価報告 書 であ る。これには,

CAT

の促進,よ り広範 なア クセス,学生の技術の向

上,労働市場 との対応の推進,学生側 の選択 の増大等の,か な り革新 的な高等教育改革 の提言

(16)

も含 まれていた。

そ して,注 目すべ きは, この作業 に参画 した教育機 関の教育担 当ス タ ッフの 多 くが,翌年以 降,高等教育団体や大学の上級 ポス トにつ くこ とにな り,その結果, 「レバー‑ ル メ ・ネ ッ トワ ー ク」とでも呼べ るよ うな‑大勢力が出現 した点であ る

この勢力は, と くに1

980

代,

CAT

を 含む高等教育政策 において,強い影響 力 をもつ ようにな る

20)

。 これが, この報告書の もつ最 も 重要 を歴史的意義 である といえよう。

3

継続教育 との関連 におけ る発展

継続教育部 門 と高等教育部 門 との関係づけに関す る動 きは,高等教育部 門での議論 と,継続 教育部門での動 きとの

2

つがあった。前者 は,政府補助金配分 団体 に よる継続教育 の発展 に関 す る議論 であ る。 もともと,公的部 門 と大学部 門 との間には,継続教育 に関す る捉 え方に大 き な相違がみ られたoす なわち, NAI 引 こ代表 され る公的部 門が,一般 的な教育環境 をよ り包括的 に変革 してポ リテ クニ クや カレッジの利益 を守 るため に,継続教育の概 念 をできる限 り広げ よ うとす る。それに対 して,

UGC

に代表 され る大学部 門は,その教育の中核 である通常の学部教 育 に変化 を生 じさせ ないために, その概念 を大学院 と経験 を経 た後の専 門職 の発展の問題に特 化 させ て捉 えようとす る

21)

。こ うした状況の下 で,

1984

年 には.継続教育 に関 して,

NAB

UGC

とに よる別個の報告書が出された。

NAB

の報告書は,継続教育の発展 のために高等教育 で必要 とされ る事柄 として,共通 の単位枠組み,授業科 目のモジュラー化,以前の経験学習の認定, 単位証明書の利用等の意義 を主張 した。そ して,新 しい制度 をつ くるために,職業 団体 と雇用 者 との間の綿密 な協 力の必要性 も説 き,全 ての関係 当事者 に よる単位互換の原則の受容 が必要 であ るとした

22)

。 こ うした

NAB

の主張は,1

987

年 の

NAB

UGC

との共同報告書

23)

に発展 し, 後に述べ る1

987

年 の政府 白書

24

) に大 きな影響 を与 えたのであ るOそ して, その後の高等教育政 策策定 と教育機関 でのア ジェンダに,単位制度 を組み入れ させ るこ とになったD こ うして,高 等教育におけ る単位互換の地位 は確立す るこ とになったのであ る

後者の継続教育部 門での動 きとは,

OCFs

の出現 と発展 であるCこれは,一定地域 の大学,ポ リテ クニ ク及び継続教育 カレッジ とが提携 関係 を結 び,今 まで高等教育 とは殆 ど無関係 だった 成人等が.容易に高等教育にア クセスで きるよ うにす るものであ る。ここでは,

OU

の制度にな らって,単位 が品質保証 と互換の手段 として利用 されていたDこ うした

OCFs

は,

1978

年 の ラン カス ター大学 を中心 とす るイングラン ド北西部 の連合

25)

に始 ま り,1

980

年代 には様 々な地域 で 展 開 した

26)

。そ して,1

991

年には,「 全英 オープ ン ・カレッジ ・ネ ッ トワー ク 」

(NationalOpen CollegeNetwork:NOCN)

の創 設にいたることになる

27)

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こ うして.継続教育 に関す る議論 は,職業 ない し専 門職教育 との単位互換の問題 をも顕在化 させ てい くこ とになった。 これは,

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歳人 口の減少に対応 して,高等教育 の カ リキュラム を自 由に して,今 まで高等教育 とは無関係 とされて きた層 をも高等教育 に と りこんでいこうとす る, 政策 レベ ルでの動 きと連動す るもので もあったO

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参照

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