はじめに
諸藩は、参勤交代制度、及び幕政への参画などにより、江戸に政庁を兼ねた江戸藩邸を構え、国元とは別に江戸にもう一つの家臣団を置いた。江戸で勤務するものは、江戸に常に駐在する定府、参勤交代などに伴って江戸に一定期間勤番する江戸詰の二つの形態があり、そのほとんどは後者であった。
従来、江戸詰藩士を対象とした研究は、主に、都市史の観点から考察が進められてきた。そこでは彼らを「都市江戸の構成員」として捉え、都市江戸を相対化する対象として論じられてきた。そのため、藩士による江戸勤番の問題は、藩政史研究とは別物として、江戸の都市史研究のなかだけで論じられてきた感がある。
このような研究に対して、近年「藩世界」
・ 「藩
社会」
・ 「藩
領社会」
・
「藩地域」といった概念 (1)の提示により、藩研究の対象として江戸屋敷や江戸詰藩士の研究が見られるようになった。特に、藩政史料を用い、藩士の江戸での行動と国元との関係性を指摘した岩淵令治氏 の一連の研究は重要である (2)。
承知の通り、参勤交代制などに伴う藩士の江戸勤番は、時代によって人数の増減はあったものの、近世全般にわたり連綿と続いていた。そうしたなかで、自ら江戸勤番を志願した藩士 (3)や、多額の借財を抱えながらも江戸勤番を遂行する藩士 (4)たちの存在が指摘されてきたが、彼らは江戸勤番を務めることで、どのような意義があったのだろうか。従来の都市史の観点だけではなく、藩内の位置付けにも留意しつつ検討する必要があるだろう。
そこで、本稿では、鳥取藩を事例に、藩士が江戸勤番を務める意義について、藩の政策を中心に検討する。そして、それらの検討を踏まえた上で、彼らが江戸勤番を務める意識について浮き彫りにしていきたい。
なお、本稿では鳥取県立博物館所蔵の「鳥取藩政資料 (5)」を用い分析を行う。また、一口に江戸勤番といっても、役職によって様々である。殊に、鳥取藩の江戸詰の場合は、主に江戸御供
・ 江戸御番に
大別される。前者は参勤交代によって随従し、三月に鳥取を出発し、
鳥取藩士の江戸勤番
―江戸御番を事例に
―仲 泉 剛
(史学専攻博士後期課程二年)翌年四月に帰国することを指し、後者は、参勤交代とは別に江戸藩邸の警備のために馬廻から選出されて江戸に勤番することを指す。本稿では、後者の江戸御番を検討対象とし、藩士の江戸勤番の問題を考える一つの素材としたい。
第一章 江戸御番の概要
本章では、本稿の検討対象である江戸御番について、まず、江戸御番を担った馬廻について概観した上で、実際に藩士が江戸御番に任命されてから帰国に至るまでの流れを確認したい。
第一節 馬廻の概要 馬廻とは、士身分で特別に格式のない藩士のことを指し、平士とも呼ばれる。本来は、大将の馬側に従い、騎馬の平侍を一般に馬廻と呼んだ。馬廻は各組に編成され、番頭や着座を組頭とした。組に属するものを組付(組士)と呼び、組頭に統括されていないものを無頭組(組外)と呼んだ。組のうち、米子荒尾家に属するものは米子組として米子に居住し、倉吉荒尾家に属するものは、倉吉組として倉吉に居住した。
馬廻は、平時は特別な職務はなく、武人としての修養を積むことを常としていたが、主な職務として、鳥取城内に詰める御城詰と、江戸藩邸の警備のため、一年交替で江戸勤番を行う江戸御番とがあっ た。御城詰と江戸御番の勤務はローテーションが組まれていて、それぞれが対応しあう勤務体制をとっていた。 なお、馬廻は家臣団のどのくらいの割合を占めていたのだろうか。「鳥取藩政資料」にはその詳細を知ることができる「分限帳 (6)」が残されている。これをみると、米子詰馬廻五四人、倉吉詰馬廻四六人、馬廻五四八人で、その合計は六四八人を数える。これは、分限帳に記載された藩士全体の約七割に当たり、家臣団の中核をなしていたことがうかがえる。第二節 江戸御番の一年
次に、寛保元年(一七四一)の江戸御番を事例に、実際に藩士が江戸御番に任命されてから帰国に至るまでの流れを確認したい。
江戸御番を務める藩士については、前年の八月から九月にかけて江戸御番に任命される。次の史料を確認したい。【史料1 (7)】一、 山部式部儀、来年江戸御番頭被仰付旨被仰出、於御櫓御付出座ニて、式部江申渡之、其外左之通御番之面々、是又御櫓二ノ間ニおゐて、式部初御番之面々一統並居、御目付出座ニ而、来年江戸御番被仰付旨、申渡候事 八百四拾石 加須屋助右衛門 四百石 山田兵左衛門 三百石 森川藤左衛門 三百石 山田惣左衛門
弐百五拾石 木戸直右衛門 弐百五拾石 平尾甚右衛門 弐百石 本郷幸内 弐百石 諏訪庄内 弐百石 岡嶋藤兵衛 弐百石 片山清四郎 これは、元文五年(一七四〇)八月一五日の記事である。江戸勤番中は、本来の組を離れ江戸番頭の支配を受けることになっており、この年は山部式部が江戸番頭となり、一〇名の藩士が江戸御番に選出されている。選出された藩士は、「御櫓二ノ間」にて来年の江戸御番を命じられる。
選出された藩士は、江戸勤番の準備をし、翌年二月には、出発前に「御櫓之間」において、祐筆が道中や江戸詰に関する御法書を読み、江戸勤番の心得を確かめる。なお、江戸御番は毎年三月一〇日を交替日と定められており(「例年之通三月十日代りニ江戸相替り候様被仰出」 (8))、その日に合わせて、江戸番頭を筆頭に江戸へ向かうことになる。そして、一年間の江戸勤番を終え、三月一〇日に次の江戸御番の藩士と交替する。江戸御番の職務を終えた藩士は、前後四〇日間の暇を与えられ、多くの藩士は帰国の道中に伊勢参りや京
・ 大坂などに立ち寄っている (9)。
第二章 江戸勤番における政策
本章では、江戸勤番を務めることが、藩内においてどのような意 義を有していたのかという問題について、特に、江戸御番に関する藩の政策に注目してみていきたい。第一節 江戸勤番における手当の構造
まず、江戸勤番における手当の構造について確認したい )(1
(。
鳥取藩は、江戸勤番の藩士に対して、①物成の増給、②路銀、③道中扶持、④江戸扶持、⑤借銀などを支給した。①は、江戸勤番を務める藩士に対して、江戸勤番の前年と江戸勤番の年の二年間物成の増給を行ったものである。また、旅費である②や、③や④の扶持は、江戸勤番に係る必要最低限の費用であった。そのため、ほとんどの藩士は、⑤を借りて江戸で生活せざるを得なかった )((
(。とりわけ、何度も江戸勤番を務めた藩士は借財が累積し財政難に陥る場合が多く、それが原因で江戸勤番を断る藩士もいた )(1
(。こうした借財制度の問題は、鳥取藩だけではなく諸藩にもみられ、家中財政逼迫の原因となっていた )(1
(。
このような問題について、熊本藩士田中左兵衛が藩主細川綱利に出した意見書には次のような記載がある。【史料2 )(1
(】
御家中江戸御供衆へ御借物多く被成御借候程、御家中つふれ申儀ニ御座候、其子細者、御知行
・ 切米の外に先借仕候事候へ者、
誰々も悦すき好み申事御座候、後ハ捨り申か、又ハ御知行をさ
し上、引込罷居申事眼前ニ御座候、かり銀米御座候へハ、何と仕候而もむさと仕り申と相見へ申候、ケ様ニ御座候而者、後々可被召上者御座有間敷と奉存候、又常々身持を能仕、御奉公を欠し不申、身体相応の勤を仕候者者、能御奉公人の様に奉存候、ケ様之者をハ 聞召上、御詞にて成共御感被成候得者、脇之しまりにも成可申歟と奉存候、左様に無御座候得者、身を詰、万嗜御奉公心懸申甲斐も無御座、述懐ニ可奉存候、ケ様の事にて、御家中風俗も直可申様奉存候 田中は、先に述べた江戸勤番に伴う借財制度が、「家中つふれ」の原因となっていることを指摘している。そして、その上で、奉公をよく務めた功労者に対して、何かしらの形で褒賞を与えるべきであると提言している。つまり、江戸勤番を実直に務めた藩士に対して、何等かの保障制度を打ち出さなければ、江戸勤番を積極的に務める意義(「御奉公心懸申甲斐」)がないと主張している。この点について、鳥取藩ではどのような政策がなされていたのか、次節以降、①藩士の待遇面、②藩における勤務実態の掌握の観点からそれぞれみていきたい。
第二節 藩士の待遇と江戸勤番
ここでは、藩士の待遇と江戸勤番の関係性について、新知に対す る物成の待遇の政策を事例にみていきたい。 一般的に、大名家臣団のうち、譜代や「御家久敷者」の待遇ついては、特に優遇され、新参者のそれとは区別がなされていた。鳥取藩では、新たに藩士となったものに対し、直ぐに知行所を与えず、五年間の後知行所を与えていた。 明暦二年(一六五六)藩士の知行物成を平し免とした際には、新知は平し免より五分下げとなり、その後、四物成となった際には、新知は五年間三ツ五分と規定された。ただし、江戸勤番を務めた場合には、次のように定められていた。【史料3 )(1
(】一、 新知被下衆之内、三分御かり、山内平右衛門
上少兵衛 ・ 村
・
服部次左衛門
四人之内山内平右衛門 谷左太郎、此四人去暮物成迄三分さかり、 ・ 渋
・ 村上少兵衛
・ 服部次左衛門は江戸 御番相勤候ニ付、当暮より惣なミ四つ成ニ被遣候、渋谷左太郎ハ未江戸へ不参ニ付、御番相勤候迄ハ三分さかり、残五分さかり之衆ハ、江戸御番勤候ハヽ、四つ成ニ可被遣事、其内ハ不被遣事【史料4 )(1
(】一、 新参衆江戸相勤候迄ハ五分下り、但江戸御番不相勤候共、五年過候ハヽ、惣並之物成可被下との事
【史料3】
平右衛門 過せずに物並となるとある。【史料3】に記載された藩士四人(山内 る。これによれば、新知の藩士でも江戸勤番を務めれば、五年を経 史料4】は、新知の藩士の物成についての史料であ ・ 【
・ 村上少兵衛
・ 服部次左衛門
・ 渋谷左太郎)のうち、山内
平右衛門
・ 村上少兵衛
・ 服部次左衛門の三人は江戸御番を務めたこ
とにより四ツとなっているが、渋谷左太郎は、未だ江戸御番を務めておらず、四ツにはなっていない。
次に、貞享四年(一六八七)の物成の御定を確認したい。【史料5 )(1
(】一、 江戸御不仕御城詰分の新知は三ツ五歩、外に三歩御足米被下、但、五年過候得者、御足米共に四ツ三歩被下事一、 新知は御城詰にても三ツ五歩、外壱ツ成の御足米被下事一、 御馬廻新知其年より五年迄三ツ五分、六年目より四ツ成被下、但江戸御番相勤候得者、五年より内にても四ツ成被下 但、詰江戸三年より物成直の事
これをみても、江戸御番を務めたか否かで待遇の差があったことがわかる。その後、天明年間の「御定」にも、「新知は御城詰にても三ツ五歩被下、五年過六年目より四ツ被下候、但江戸御番相勤候得者、五年内にても被下候」と江戸御番勤務による五分下げの免除が規定されている。 以上、新知の物成に対する待遇について具体的にみてきた。新参者は、譜代や「御家久敷者」たちとは区別された規定がなされていた。しかし、法令をみると、江戸勤番を行うことでその区別は免除される仕組みがみられた。このように藩は、江戸勤番の有無によって待遇の差を作り出していたのである。第三節 勤務実態の掌握
では、実際に、藩が江戸御番を務めた藩士たちの勤務実態をどのように掌握していたのかについてみていきたい。【史料6 )(1
(】一、 御馬廻侍中、廿ケ年以来江戸御番并御使他国江之御使相勤申書出シ仕様ニと、組頭中江触候事 これは、寛文一二年(一六七二)七月八日の記事である。馬廻の藩士たちの二〇年間の江戸御番などの職歴について調べるように組頭へ命じている。このことから藩側も江戸御番を務めた藩士たちの勤務実績を掌握しようとしていたことがうかがえる。
また、享保八年(一七二三)には、次のような史料が確認できる。【史料7 )(1
(】一、 於江戸御番
・ 御使者
・ 御供相勤候者共、弥無懈怠相勤可申
候、此以後勤方之品御吟味可被仰付候間、左様ニ相心得候
様ニ被仰出、御番之面々、尤定詰之者へも申渡、奉畏由申来事同日一、 上村弥右衛門儀、今年迄六年一日も無懈怠相勤候ニ付、為御褒美、御召之小袖壱被遣、申渡候処、無大形難有奉存由申来事同日一、 高木善右衛門
海甚左衛門 ・ 内
丹与三左衛門 ・ 伊
庄権平 ・ 新
・
岡野和助
・ 河村文太郎
・ 河合伝左衛門、右七人之者共、無 懈怠御奉公相勤、御機嫌被思召由被仰出、申渡候処、何も難有奉存由申来事同日一、 去ル丑寅両年、三丁火消相勤候者共、左之通御褒美被遣由申来事
御召御袷 寺西佐左衛門 上同 大塚吉兵衛 右丑年九月迄、寅年 右丑年春より同暮迄 六月より同年暮迄
芝 御上屋敷 到来御袷 四宮藤右衛門 上同 渡辺仁兵衛 御上屋敷 御上屋敷
到来御袷 片山五兵衛 上同 山本加兵衛 芝 芝
上同 嶋田甚右衛門 上同 安富弥七郎 右寅ノ年分 但、右之内藤右衛門
・ 仁兵衛
・ 五兵衛
・ 加兵衛 江は、於爰許可申渡由、申来事 【史料7】では、
「於江戸御番
・ 御使者
・ 御供相勤候者共、弥無懈 怠相勤可申候、此以後勤方之品御吟味可被仰付候」とし、勤務実態について掌握するように命じた上で、江戸御番を怠らずに務めた藩士に対しては、褒賞を与えるように命じている。【史料7】をみる限り、褒賞は勤務の功績によって様々であったことがわかる。なお、鳥取藩士山田家には、江戸御番の職務内容が詳細に記された「秘役 )11
(」と称する史料が伝来している。職務内容の記載のうち、「壱詰皆勤 御上下、弐詰皆勤 御袷、三番皆勤 御小袖」と褒美についても詳細に書かれており、藩士たちにも褒賞の有無が意識されていたことがうかがえる。
さらに、翌年の享保九年(一七二四)には、藩士の御目見についても規定されている。次の史料を確認したい。【史料8 )1(
(】一、 去年江戸御番之者共之内、坂川彦左衛門
・ 宮田直右衛門、
御番無懈怠相勤候ニ付、御目見被仰付、御意有之候、米子
中嶋勘右衛門、倉吉向平右衛門
・ 水野覚左衛門、是又去年
御番無懈怠相勤候付、右之御意、但馬
・ 志摩より申渡事 江戸御番之面々、前々は江戸又は道中ニ而御目見被仰付、無懈怠相勤候者共江は、御意有之候得共、御交代之時節替り候ニ付、右之通於御城御目見被仰付事
御目見について、これまでは江戸や道中において命じられていたが、今後は、特に怠りなく務めた藩士は、御城において命じられるように決められた。
第四節 江戸勤番の忌避とその対策 前節では、藩は、藩士たちの江戸勤番の勤務実績のみならず、江戸での勤務態度についても掌握し、江戸勤番を怠りなく務めた藩士には褒賞を与える政策をとっていたことを述べた。しかしながら、その一方で、一八世紀中頃には、病気や経済的理由などによって江戸勤番を忌避する藩士が顕著となり、その対応が問題となっていた )11
(。【史料9 )11
(】一、 伊丹此右衛門儀、去年江戸御番被仰付罷越候処、病気之由ニ而、毎度御番御使者御供等御断申上、数日御奉公致懈怠候段、達御耳候処、病気とハ乍申、御人少之砌、殊、限り有之、江戸御奉公不参而巳之段、不届之至思召候、依之、 遠慮被仰付旨被仰出、其段組頭神戸栄馬を呼出し、於御櫓御目付出座ニ而申渡之
伊丹此右衛門は、江戸御番に任命されるたびに、病気と称して江戸御番を断っていたようである。これに対して、藩は「殊、限り有之江戸御奉公不参而巳之段、不届之至」とし、「遠慮」を仰せ付けている。
このような藩士の江戸勤番に対する忌避の問題は、鳥取藩に限った問題ではなかった。例えば、久留米藩では、正徳三年(一七一三)に次のような法令が確認できる。【史料
相納むへき旨申付候、右之趣謹守セしむへき事 旅役之多少を計り、江戸詰料として百石ニ五俵より十俵迄屹度 賞を顕し、今更在国之輩ニハ、諸役無役等其勤仕の甲乙に随ひ、 き事也、是ニよりて職務励ミ勤め旅役打続く輩ニハ、先達て其 頭たるもの同意に是を許諾セしむる事、非義無道の至甚其儀な これを免れ、飽まて食ひ暖にきて安逸遊末のミ事とし、其支配 其分限を量り人品之択ミて申付候ニ、或病気或不勝手と号して の本意なるに、近世此旨に違ふ事なく、多く江戸詰他国に使等 凡勤士之輩大小新故ともに各心力を尽して相励ミ勤事致事仕官 (前略) 10】 11)(
右之通ニ思召、江戸詰料被仰出候間、面々組支配へ申聞らるへき事 巳 (正徳三年)十月右之通拝聞、畢て平組之面々ハ其頭宅え召呼申聞之 これによれば、「江戸詰他国に使等」は、藩士の分限や人品を考慮して選出しているのに対して、多くの藩士は病気や経済的理由で役を断るものが多いという。こうした現状に対して、久留米藩では、政務出精のものには褒美を与え、江戸勤番を断ったものには、勤務の実態や役の多少を考慮し、「江戸詰料」として一〇〇石につき五俵から一〇俵の納入を義務付けている。
第三章 藩士の勤番意識
本章では、江戸御番に伴う藩士の選出方法、及び藩士が江戸御番を志望する理由について検討し、藩士の勤番意識を明らかにしていきたい。
第一節 藩士の選出方法
まず、江戸御番を務めた藩士の選出方法についてみていきたい。ここで、改めて第一章で掲げた【史料1】に注目したい。寛保元年(一七四一)の江戸御番に選出された藩士とそれぞれの藩士が所属し ている組の関係性は次の通りである )11
(。加須屋助右衛門:荒尾長門組 山田兵左衛門:天野図書組森川藤左衛門 :池田悦之丞組 山田惣左衛門:山岡帯刀組木戸直右衛門 :羽田修理組 平尾甚右衛門:太田伊賀組本郷幸内 :津田周防組 諏訪庄内 :乾上総組岡嶋藤兵衛 :乾上総組 片山清四郎 :菅伊勢組 これをみると、乾上総組から二名の藩士の名が確認できるが、基本的には各組から藩士を一名ずつ選出しており、組ごとに江戸御番の順番が決められ、江戸御番を務める藩士が選出されていることがわかる。また、史料中に「順番」という文言が確認でき、各組に属する藩士のなかにもその順番が決められていたようである )11
(。そのことは次の史料からもうかがえる。【史料
一、来年江戸表御番頭坂田治太夫 11】 11)(
・ 安倍甚兵衛順番ニ付
、可被仰付哉之旨、相伺候処、治大夫義、来年江戸御番頭被仰付旨申来事
一方で、何らかの事情で順番ではないものの江戸御番に選出された藩士がいる。次に掲げる史料は、享保八年(一七二三)の江戸御番選出に関する史料である。
【史料
町飛脚ニ申来、今日於御座敷、御番頭ヲ初申渡候、米子 一、来年江戸御番、左之者共被仰付由、去ル五日之夜到来申候 12】 11)(
・
倉吉江は、申遣事
御番頭 坂川彦左衛門 倉吉 石原刑部 治左衛門名代 向平右衛門 竹村金右衛門 宮田直右衛門 水野覚左衛門 平井元右衛門 遠藤勘右衛門 米子 中嶋藤左衛門石原刑部儀、順番ニ而ハ無之候得共、来年御番頭ニ被仰付被下候様ニ、水野宜睡度々御願申上候ニ付、被仰付候
享保八年(一七二三)の江戸番頭選出に際しては、石原刑部が江戸番頭に選出されるように、水野宜睡が働きかけ、実際に江戸番頭に選出されていることがわかる。
これらは江戸番頭の事例であったが、江戸御番については次の史料を確認したい。【史料
仰付候段、今日組頭菅伊勢江以切紙申渡候事 御番被仰付旨被仰出、此間御番之儀ハ申渡候得共、依願被 一、片山清四郎儀、左之通奉願、其段達御耳候処、願之通江戸 13】 11)( 願候、以上 来酉年江戸御番被仰付被下候は、難有仕合奉存候、此段奉 在、第一老人壱人差遣申儀難仕御座候、何卒御慈悲を以、 面仕度旨、昨今年ニ至り、別而度々申越候得共、不勝手罷 江戸江罷在候、及老年候付、存命之内、何卒急ニ老母ニ対 一、私老母江戸出生之者御座候処、老母実母今年八拾六歳ニて
申 (元文五年)閏七月日 片山清四郎 菅伊勢殿 これは、【史料1】で確認した寛保元年(一七四一)に江戸御番を務めた片山清四郎の願書である。これによれば、江戸には八六歳になる老母が居るという。そして、老母が存命のうちに対面するために江戸御番を務めたい旨を組頭の菅伊勢へ願い出ている。【史料1】をみると、実際に江戸御番を務めていることから、この願い出は許可されたのであろう。
このように江戸御番の順番ではないが、何かしらの理由で、江戸御番に選出された事例があった )11
(。
第二節 江戸勤番の志願理由 前節で確認したように、江戸御番の選出方法には基本的には順番の認識があったようであるが、江戸御番を自ら志願し、順番ではな
いものの選出された藩士がいた。彼らは如何なる事情で江戸御番を志願したのだろうか。ここでは、藩士の江戸御番の志願理由を検討し、彼らの勤番意識をみていきたい。
佐藤宏之氏は、江戸は最先端の学問
・ 芸術
・ 情報の集積地であっ たことに注目し、江戸藩邸は、藩士にとって職務で向かう場所であったとともに、学問や芸術を学ぶために主体的に向かう場所であったことを指摘している )1(
(。
鳥取藩では、藩士の私用の外出は一切禁止とされていたが )11
(、学問
・
武術などについては、次のような法令が確認できる。【史料
猶又厳重ニ相心得候様被仰出候事 儀無之可致候、万一心得違之輩於有之者急度其品被仰聞候間、 ニ相聞、以之外之事ニ候、以来御門出入□限幷ニ途中共聊猥之 何れも可相守者勿論之事ニ候得共、間ニハ近来猥之向も有之哉 御家中之面々芸術為修行他所幷諸屋敷通行之儀者御法も有之、 14】 11)( 但し、御用之透々尚又文武出精廉直之心懸厚く可致事 これは、慶応三年(一八六七)に出された法令である。注目すべきは、江戸での外出について、芸術修行であれば問題がないとされている点や、武術
・ 学問の修行については江戸での勤務の間に行っ
てもよいことになっていた点である。実際に村山金左衛門が馬術稽 古のために、江戸御番の「詰越」を願い出たところ、願いの通り、翌年も江戸御番を務める許可が下りていること )11
(から、藩によって奨励されていたことがうかがえる。
このように、江戸は文化の中心地であり、江戸勤番は藩士にとって、武芸や芸術を学ぶまたとない機会となっていたことは言うまでもない。しかし、こうした江戸での学びは、江戸勤番の意義とは別の役得として捉えるべきであり、むしろ、藩士自身の「家」の維持や再生産といった面ではどのような意義があったのか。
例えば、次の史料を確認したい。【史料
高也 之処、願之通被仰出候事、久次郎儀ハ、三百石並之被遣物 一、左之面々儀、来年江戸御番被仰付被下候様、左之通奉願候 15】 11)( 一、 佐分利久次郎儀、親家督被仰付候已来、御奉公不申上候付、来年江戸御番被仰付被下候様奉願、尤物成御戻し之儀ハ、近年並も御座候儀故、如何様被仰付被下候様口上書ヲ以申聞候事
一、 渡辺本右衛門儀、跡式被仰付候已来、御奉公不申上ニ付、来年江戸御番被仰付被下候様奉願 一、 山田源大夫儀、元 (元文)久二巳年江戸御番被仰付相勤、近年病身罷成、御奉公不申上候付、忰藤左衛門ヲ来年江戸
御番名代勤被仰付被下候様奉願 これは、宝暦一一年(一七六一)八月二七日の記事である。これには、佐分利久次郎
・ 渡辺本右衛門
・ 山田源大夫の三名が、翌年の 江戸御番に参加したいと願い出た際の志願理由が記載されている。ここで注目したいのが、志願理由として、三名ともに「御奉公不申上」を理由としている点である。とりわけ、佐分利久次郎は親の代より、渡辺本右衛門は自分が家督を相続して以来、奉公していないことを強調しており、馬廻の藩士にとって、江戸御番を務めることが、「家」として、また、当主としての存在証明となっていたことがうかがえる )11
(。
また、山田源大夫のように、江戸御番の志願理由とともに、病気などを理由とした倅の代番願いや、職業訓練として倅を同行させたいとする願書がみられる )11
(。こうした願い出は、「年頃之伜有之面々は、江戸ニて御供難成存、伜を代番願候様ニ被仰出候間、左様ニ相心得、勝手次第ニ伜ヲ代番ニ願候様ニ申聞候事 )11
(」とあるように、当主に代わって、「年頃之倅」が代番することが多かったようである。ただし、倅による代番は、単なる当主の代わりというだけではなく、当主になるための重要な意味合いを持っていた。次の史料から、その一端をうかがうことができる。 【史料
一、大西定平跡目 16】 11)(
・ 柘植十郎兵衛跡目、両人共ニせかれ実子、
殊江戸御番も相勤儀ニ候へハ、御知行無相違被仰付事、則内匠へ申渡事
これは、大西定平
・ 柘植十郎兵衛の家督相続の際の史料である。
ここで注目したいのは、両人の倅が実子というだけでなく、江戸御番を務めたことが「殊」と強調して記載されている点である。代番として江戸御番を務めたことが、当主になるための前提条件として認識されていたことを指摘しておきたい。
おわりに
本稿では、鳥取藩を事例として、江戸勤番に関する藩の政策や、藩士の勤番意識を検討することで、彼らが江戸勤番を務める意義について積極的な評価を試みた。特に、従来の都市論だけではなく、江戸勤番を務めることが、藩内においてどのような意義を持っていたのかに注目して検討を行った。以下、本稿で明らかになった点をまとめておきたい。
第一に、江戸勤番に伴う借財制度の問題である。藩から支給された手当は必要最低限の費用であり、多くの藩士は借銀を借りて江戸勤番を務めていた。そのため、江戸勤番に伴う借財制度が、家中財
政逼迫の要因となっており、藩では、近世中期頃から江戸勤番を病気や経済的理由で断る藩士が多くなり問題となっていた。
第二に、江戸御番に関する藩の政策に注目し、藩士が江戸勤番を務める意義を検討した。藩は、江戸勤番を務めるか否かによって、藩士の待遇面に差を作り出していた。また、その一方で、江戸での勤番実態を掌握し、江戸勤番を怠りなく務めた藩士には褒賞を与え、江戸勤番を務めない藩士には処罰を下した。このような藩の政策は、熊本藩士田中左兵衛の意見書にみられたように、家中統制の一環として制度化されたものであり、藩士に対して、江戸勤番を務めることの意義を持たせたものであった。
第三に、江戸御番に伴う藩士の選出方法についてである。藩士の選出方法は基本的には順番で行われていたが、何かしらの事情によって順番ではないものの江戸御番に選出された場合があった。また、その可能性を求めて、自ら江戸御番を志願したものがいた。
第四に、藩士が江戸御番を志望する理由について注目し、藩士の勤番意識について検討した。従来、藩士が江戸に向かう積極的な理由として、最先端の武芸や芸術を学ぶまたとない機会となっていたことが指摘されている。しかし、江戸での学びは、あくまでも最先端の学問
・ 芸術
・ 情報の集積地である都市江戸固有の側面であり、
江戸勤番の役得とは別物として捉えるべきであるため、本稿では、藩士自身の「家」の維持や再生産といった面ではどのような意義が あったのかという問題を重視し検討した。その結果、①江戸御番を務めることが、「家」として、当主としての存在証明となっていたこと、②倅による江戸御番の代番は、単なる当主の代わりではなく、当主になるための重要な職業訓練であり、家督相続の際に重要な意義を持っていたことが判明した。 以上、鳥取藩を事例に、藩士が江戸勤番を務める意義について検討した。今後は、本稿の成果をもとに、統計分析を交えた検討を行い、右に指摘した点を掘り下げていきたい。
(註)
(1) 岡山藩研究会編『藩世界の意識と関係』(岩田書院、二〇〇〇年)、同『藩世界と近世社会』(岩田書院、二〇一〇年)、岸野俊彦編『尾張藩社会の総合研究(一~五篇)』(清文堂出版、二〇〇一年~二〇〇四年)、高野信治「「藩」研究ビジョンをめぐって」(『歴史評論』六七六、二〇〇六年)、渡辺尚志編『藩地域の構造と変容-信濃国松代藩地域の研究Ⅰ』(岩田書院、二〇〇五年)、渡辺尚志・ 小関悠一
郎編『藩地域の政策主体と藩政―信濃国松代藩地域の研究Ⅱ』(岩田書院、二〇〇八年)、荒武賢一朗
・ 渡辺尚志編『近世後期大名家の領
政機構―信濃国松代藩地域の研究Ⅲ』(岩田書院、二〇一一年)、福澤徹三
・ 渡辺尚志編『藩地域の農政と学問
・ 金融
―信濃国松代藩地域の研究Ⅳ』(岩田書院、二〇一四年)、吉村豊雄
・ 三澤純
・ 稲葉継
陽編『熊本藩の地域社会と行政―近代社会形成の起点―』(思文閣出版、二〇〇九年)、稲葉継陽
・ 今村直樹編『日本近世の領国地域社会
―熊本藩政の成立
・ 改革
・ 展開
―』(吉川弘文館、二〇一五年)、加賀藩研究ネットワーク編『加賀藩武家社会と学問
院、二〇一五年)、鳥取藩政資料研究会編『鳥取藩研究の最前線』 報』(岩田書 ・ 情
(鳥取県立博物館、二〇一七年三月)。(2) 岩淵令治「八戸藩江戸勤番武士の購買行動と国元」(地方史研究協議会編『歴史と風土』(雄山閣、二〇〇四年一〇月)所収)、同「江戸勤番武士がみた「江戸」と国元」(『歴史評論』№七九〇、校倉書房、二〇一六年二月)などがある。なお、本稿で検討対象とする鳥取藩の研究では、同「鳥取藩
(3)佐藤宏之「藩士が江戸に向かう理由」(大石学監修 月)所収)がある。 研究会編『鳥取藩研究の最前線』(鳥取県立博物館、二〇一七年三 取藩士と江戸寺社」(鳥取藩政資料 ・ 鳥
に」(大石学監修 収)。守屋龍馬「参勤交代を支える人々―享保期の参勤交代を事例 近世史研究会編『内藤新宿と江戸』(名著出版、二〇一〇年六月)所 京学芸大学 ・ 東
―江戸から地域へ 京学芸大学近世史研究会編『首都江戸と加賀藩 ・ 東
(4)J 月)所収)。 域から江戸へ―』(名著出版、二〇一五年六 ・ 地
・ F
に鳥取県立図書館より鳥取県立博物館へ移管され、現在に至ってい 寄贈された資料群である。その後、昭和四七年(一九七二)一〇月 昭和四四年(一九六九)八月に子孫である池田徳真氏から鳥取県へ (5)本稿で使用する「鳥取藩政資料」は、旧鳥取藩主池田家に伝来し、 る。 己鍛錬が必要であった」(一五九頁)と評価している点は重要であ るという現実では、「潤う」役職にありつくにはそれなりの投資と自 高める絶好の機会であった。役職によって収入に著しい格差が生じ 素が強く、江戸での時間を有意義に使うことが本人の教養と教育を しての江戸勤番は、いうならば、若いときの「国内留学」という要 のキャリアーを積む第一歩であった」(一五九頁)ことや、「小姓と 戸勤番を遂行した理由について、「小姓組に入ることが大番士として であった」(一七三頁)とする。また、そうしたなかで、玉蟲家が江 政にとって過重な負担となったのは、勤役一般ではなく、江戸勤番 十蔵の財政構造と生活基盤を詳細に検討したモリスは、「玉蟲家の財宮 キャリアと挫折』(清文堂出版、二〇〇九年一〇月)。仙台藩士玉蟲一、江戸御番多田半左衛門始左之面々、来月罷帰候節、伊勢参 リス『近世武士の「公」と「私」:仙台藩士玉蟲十蔵の物館蔵、鳥取藩政資料、番号二五七五)。 ・ モ みられる(「家老日記(控帳)」享保一六年二月六日条(鳥取県立博 (9)例えば、享保一六年(一七三一)二月六日には次のような記事が 取藩政資料、番号二五五九)。 (8)「家老日記(控帳)」正徳五年二月二日条(鳥取県立博物館蔵、鳥 鳥取藩政資料、番号二五八四)。 (7)「家老日記(控帳)」元文五年八月一五日条(鳥取県立博物館蔵、 間頃」(一七四八~一七五〇年)とされている。 『鳥取藩政資料目録』(鳥取県立博物館、一九九七年)では「寛延年 (6)「分限帳」(鳥取県立博物館蔵番号一九〇〇)。年欠であるが、 県立博物館、一九九七年)がある。 ん関係資料も含まれている。目録として『鳥取藩政資料目録』(鳥取 が残る。また、明治末から大正にかけて行われた『鳥取藩史』編さ て作成された公文書類約一五〇〇〇点が現存し、各部署の公務日記 る。寛永九年(一六三二)から明治初年まで、約二四〇年間にわたっ
・ 京 伊勢参宮 多田半左衛門多田安左衛門 段今朝之御飛脚ニ、越前方へ申遣事 坂江逗留御暇、願之通達御耳、被遊御聞届、此 ・ 大
・ 京都へ五日 伊勢参宮
・ 京都へ五日
・ 大坂へ二日 大坂二日 渡辺伊左衛門 中村半兵衛 伊勢参宮
・ 京都へ五日 伊勢参宮
・ 京都へ三日
・ 大坂へ二日 大坂へ二日 高木作之右衛門 大塩彦之助 伊勢参宮
・ 京都へ三日 伊勢参宮
・ 京都へ五日 大坂へ三日 秋里十蔵 岡嶋藤兵衛 伊勢参宮
・ 京都へ五日 伊勢参宮
・ 京都へ五日 吉村清左衛門 安田金右衛門 伊勢参宮
・ 京都へ三日 伊勢参宮
・ 京都へ五日
・
大坂へ二日(
( 照。 10 )『鳥取藩史』二(鳥取県立鳥取図書館、一九七〇年)、三六六頁参
( る(四三〇頁)。 ば、ほぼ必ず借金ができる仕組みになっていた」ことを指摘してい て、「代表的は「江戸詰」の経費」とし、「「江戸詰」を命じられれ ヴァ書房、二〇〇六年三月)所収)。氏は、武士の債務の特徴とし 子編『徳川日本のライフコース―歴史人口学との対話―』(ミネル 11 )磯田道史「幕末武士の家計と債務―鳥取藩士の分析―」(落合恵美
( ク候ニ付、簡略出米上納当暮より三年御免之願 一、神戸平助、御知行上候処ニ、来年江戸御番被仰付、物入多 同日 迷惑仕ニ付、簡略出米上納之儀、当暮より三年御免之願 一、加藤十左衛門儀、去年江戸御番相勤、大分借銀出来、勝手 鳥取藩政資料、番号二五五八)。 12 )「家老日記(控帳)」正徳四年九月一三日条(鳥取県立博物館蔵、
( 財が累積していく状況となっていた。 るを得なかった。特に、江戸勤番の多い役職に就いていた藩士は借 番に伴う必要最低限の費用であり、ほとんどの藩士が③を借用せざ 「御扶持方代銀」、③「会所裁許御貸銀」があった。①や②は江戸勤 13 )例えば、加賀藩における江戸勤番手当は、①「知行当り出銀」、②
( 本市、一九九四年三月)、三七六頁。 14 )新熊本市史編纂委員会編『新熊本市史史料編第三巻近世1』(熊
( 取藩政資料、番号二五一一)。 15 )「家老日記(控帳)」万治四年三月三日条(鳥取県立博物館蔵、鳥
( 鳥取藩政資料、番号二五一六)。 16 )「家老日記(控帳)」寛文五年一二月一一日条(鳥取県立博物館蔵、
( 頁。 17 )前掲『鳥取藩史』二(鳥取県立鳥取図書館、一九七〇年)、三三四
鳥取藩政資料、番号二五二三)。 18 )「家老日記(控帳)」寛文一二年七月八日条(鳥取県立博物館蔵、 (
( 鳥取藩政資料、番号二五六七)。 19 )「家老日記(控帳)」享保八年六月三〇日条(鳥取県立博物館蔵、
( 家資料、番号五九)。 20 )「秘録(江戸詰中勤務規定)」(鳥取県立博物館蔵、旧鳥取藩士山田
( 鳥取藩政資料、番号二五六八)。 21 )「家老日記(控帳)」享保九年閏四月一五日条(鳥取県立博物館蔵、
( 政資料、番号一九四)。 22 )「藩邸年表中」元文元年八月五日条(鳥取県立博物館蔵、鳥取藩
( 鳥取藩政資料、番号二六一七)。 23 )「家老日記(控帳)」安永二年閏三月五日条(鳥取県立博物館蔵、
24 )藩法研究会編『藩法集
( 一〇七頁。 11 久留米藩』(創文社、一九七三年三月)、
( 一七)を参照。 25 )「組帳元文五年」(鳥取県立博物館蔵、鳥取藩政資料、番号一八
( 今日呼寄申渡事 於江戸御供御使者御免被成候、御番迄相勤候様ニ被仰出、 随分軽ク仕候而御供相勤可申候、御道中大小姓役被仰付候、 召連候、順番ニて無御座処、御供被仰付、難儀可致候得ハ、 一、山田権左衛門、去々年も江戸御番相勤候へ共、今年も可被 取藩政資料、番号二五五九)。 26 )「家老日記(控帳)」正徳五年二月六日条(鳥取県立博物館蔵、鳥
( 鳥取藩政資料、番号二五八七)。 27 )「家老日記(控帳)」寛保三年八月二九日条(鳥取県立博物館蔵、
( 取藩政資料、番号二五六六)。 28 )「家老日記(控帳)」享保七年八月八日条(鳥取県立博物館蔵、鳥
( 鳥取藩政資料、番号二五八四)。 29 )「家老日記(控帳)」元文五年八月一七日条(鳥取県立博物館蔵、
に」(大石学監修 30 )前掲守屋龍馬「参勤交代を支える人々―享保期の参勤交代を事例
―江戸から地域へ 京学芸大学近世史研究会編『首都江戸と加賀藩 ・ 東
月)所収)では、加賀藩士の参勤交代における御供について「機械 域から江戸へ―』(名著出版、二〇一五年六 ・ 地