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「支配の理論」を評価する

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著者 オーリン, ジェンス・デービッド, スリードレクト

, エリス・ファン, ヴァイゲント, トーマス

雑誌名 明治学院大学法科大学院ローレビュー = Meiji

Gakuin University Graduate Law School law review

巻 19

ページ 85‑106

発行年 2013‑12‑31

その他のタイトル Assessing the Control−Theory: International Criminal Court (ICC)

URL http://hdl.handle.net/10723/1768

(2)

1. はじめに

2012年3月14日のトーマス・ルバンガ・ディー ロの有罪判決は,ICCの歴史における重要な時を 画した(1)。それは,ICCの公判裁判部【訳注①】によ る最初の判決であった。ルバンガは,子ども兵士 を強制的に徴集し及び志願に基づいて編入したと いう戦争犯罪を実行したことで有罪とされ,14年 の拘禁刑を宣告された(2)

2012年12月18日,ICCは2番目の判決を行ったが,

その際は無罪であった。マティゥ・ングジョロ・チュ イは,DRC【訳注②】のボゴロ村での攻撃において実 行された,人道に対する犯罪と戦争犯罪の容疑に ついて無罪とされた(3)。ルバンガの有罪判決とン グジョロの無罪判決のいずれも,実行犯の責任に ついての「支配」の理論(Control−Theory【訳注③】 に関する激しい反対意見が存在していた(4)。ルバ ンガとカタンガ/ングジョロ【訳注④】の各予審裁判 部によって発展させられたこの理論は,「支配」

の概念を主犯責任(principal liability)と従属的 責任(accessorial liability)との間の区別を画す る中心とし,ICC規程25条⑶は参加形態について 階層的構造(hierarchical structure)を提供して いているという所説に基づいていた。ルバンガの 第1予審裁判部によれば,この階層的構造は,主 犯責任としての共同犯罪実行(co−perpetration)

には,犯罪の遂行をもたらす共同計画(common plan【訳注⑤】)にとって不可欠の寄与(essential contribution)であることの証明が必要とされる

『明治学院大学法科大学院ローレビュー』第19号 2013年 85−106頁

国際刑事裁判所(ICC)における

「支配の理論」を評価する

Jens David Ohlin, Elies van Sliedregt, Thomas Weigend

**

(訳)東 澤  靖

翻訳者によるまえがき

2012年に国際刑事裁判所(ICC)において行わ れた,2つの公判裁判部の判決(1件は有罪判決,

1件は無罪判決)は,2003年に活動を開始した ICCがようやく軌道にのったことへの安堵を与え るとともに,少なからぬ理論上,実務上の問題を 提起することになった。ICC犯罪における正犯責 任 の 一 形 態 と さ れ る 共 同 犯 罪 実 行 ( Joint Perpetration:資料25条⑶⒜参照)の概念をめぐ る論争は,今後のICCの活動(認定,訴追,弁護)

を左右しかねない重大な問題点である。この論文 は,ICCの2つの判決を踏まえて国際刑事裁判に おける共同犯罪実行をめぐる論争をきわめて効果 的に分析した論稿であるので,ここに翻訳して紹 介する。日本語への翻訳を快く承諾された,オー リン教授(コーネル大学),ファン・スリードレ クト教授(アムステルダム自由大学),ヴァイゲ ント教授(ケルン大学)には本当に感謝している。

また,京藤哲久教授(明治学院大学法務研究科 科長)には,この論文の存在を教示いただくとと もに,刑法の基礎理論について門外漢の私への懇 切丁寧な指導の労をとっていただいた。

なお,論文の原文中に一部にある,誤植等と思 われる部分は,著者の了解の下に訂正してある。

また,翻訳に際しては正確を期して原文の補充等 を行っていないので,読者の便宜のため,文末に,

翻訳者の訳注と資料としてICC規程の関係条文を 掲載してある。

(3)

ことを,示すものであった(5)

支配の理論は,刑事法学者クラウス・ロクシン の著作にその根拠を持つが,同氏は,アドルフ・

アイヒマンのようなナチの指導者を,彼らの支配 期に実行された残虐行為の実行犯として有責とす る理論を考案することを試みた(6)。ICCその他にお いて,支配の理論は論争の的となっている。もっと も,支配の理論は,公正な分類を促進するものとし て評価することもできる(7)。しかし,Fulford裁判 官は,ルバンガにおける個別意見において,支配の 理論は,⒤規程の文言によって基礎づけられてい ない,ⅱ規程の文言は責任の階層を設けてはいな い,そしてⅲ共同犯罪実行(joint perpetration【訳注⑥】 は,それぞれの共同犯罪実行者に不可欠の寄与を 求めてはいない,という意見を表明した。彼の見 解では,最後の要件は,責任のために高すぎる敷 居を設定することになるという。彼は,ICC規程 25条⑶⒜のありのままの文言読解を支持し,共同 犯罪実行に関する犯罪への寄与とは「直接にしろ,

間接にしろ,個人の寄与と犯罪の間に因果的連関

(causal link)がある場合である」と主張する(8) ングジョロの無罪判決の個別意見においてVan den Wyngaert裁判官は,支配の理論はICC規程 25条⑶⒜の通常の意味とは整合せず,25条⑶⒜は 非難可能性の階層を設けてはいないというFulford に同意する。不可欠の寄与の要件について,彼女 の見解は次のようなものである。

私の意見では,共同犯罪実行のためには,犯 罪の主要な要素の実現に直接の寄与がなければ ならない。これは,共同犯罪実行の概念そのも のに従うものである。25条⑶⒜のもとでは,犯 罪を一緒に実行した者のみが有責とされうる。

犯罪を実行することの本質は,その主要な要素 をもたらすことである(9)

Van den Wyngaertは,さらに,共同犯罪実行 と間接犯罪実行(indirect perpetration)とを

「間接的共同犯罪実行」(indirect co−perpetration)

として組み合わせることにも批判的である。この 組み合わされた責任形態は,カタンガとングジョ

ロにおける予審裁判部によって,集団的暴力の複 雑な形態をとらえる目的のもとに発展させられて きた。Van den Wyngaertの考えるところでは,

この理論は,犯罪を実行する道具としての個人を 利用(「支配」)する,組織された権力の構造を前 提とするものであるが,ICC規程25条⑶⒜やICC 規程22条の文言とは衝突する。

Fulford裁判官とVan den Wyngaert裁判官と が好むアプローチとは反対に,ICCでの司法的実 務は,少なくともこれまでは,司法積極主義と創 造性への傾向を示してきた。この傾向は,ICC規 程が一般的な部分として詳細な規程上の定義を持 ち,また,より詳細な犯罪の構成要件文書を持っ ている事実から期待されるところの,文理的なア プローチとは対照的である。規程21条は裁判官に,

国内法で見いだされる一般的な原則よりもまず,

これらの法源を参照させるようにしているのであ る。

この論文で我々は,支配の理論に十分な法的根 拠が存在するかどうかと言う問題は検討しない し,それは他所で行われてきたことである(10) 我々は,その代わりに,支配の理論の実質を評価 したいと考えている。我々は最初に,共同犯罪実 行と間接的共同犯罪実行という,同理論の2つの 帰結に焦点を置く。3点目として我々は,支配の 理論がいくつかの側面で依拠してきたところの,

ICC規程25条⑶における,いわゆる階層性を議論 する。

2. 共同犯罪実行と「不可欠の寄与」

2. 1 支配の理論と共同犯罪実行

共同犯罪実行に関して,ルバンガの予審裁判部 は,「支配」を,「当該犯罪の実行に対するさまざ まな寄与が持つ不可欠な性質という理由による,

当該犯罪への共同支配(joint control)」と定義し (11)。同裁判部は,共同犯罪実行の事件におい ては,共同犯罪実行を定義づける特徴は分業であ るから,いずれの実行犯も通常は自らでは当該犯 罪の遂行を「支配」しない(12)。しかし,「犯罪の 客観的な要素が共同計画の枠組みの中で行動する

(4)

人間の複数性によって実行されるとき,不可欠の 仕事が割り当てられた者,そしてその結果として 自らの仕事をしないことによって当該犯罪の遂行 を挫折させる力を持つ者のみが,当該犯罪に対す る共同支配を持つと言える」(13)

共同犯罪実行を定義づける特徴は,同裁判部の 定義によれば,仮言的な力,すなわち「自らの仕 事をしないことにより犯罪の遂行を挫折させる 力」である(14)。この決定的な基準は,消極的な 用語(「しないこと」によって「挫折させる」)で 表現されるので,人が共同犯罪実行者となるため に行うべき特別な積極的行為は,そこには存在し ない。ルバンガの公判裁判部は,問題とされる当 該犯罪のいずれの要素も物理的には実行していな い場合や,犯罪現場に存在すらしていない場合に も,人は共同犯罪実行者となることができると,

実際に強調している(15)。例えば,行為者が「首 謀者」となるには,「犯罪が行われるか,どのよ うに行われるか」を決定することで十分である(16)

ルバンガの予審裁判部と公判裁判部で考案され たように,支配の理論の効果は両面的である。こ の理論は,犯罪の企ての中で,それなしには犯罪 の計画が達成に至ることができなかったであろう という意味で寄与が条件となっている参加者のみ に,(共同)実行の概念を限定する。しかし他方 で支配の理論は,犯罪の現場から遠く離れ,そし て個人的には犯罪の定義から要求されるいかなる 行為もしていない者に,実行行為性の射程を拡張 する

2. 2 Fulford裁判官による批判

Fulford裁判官は,ルバンガの個別意見で,公 判裁判部の多数意見が示した定義の拡張的な要素 には同意している。しかし彼は,その定義が「不 可欠の」,絶対必要な寄与を要求している点で,

狭すぎるものと見なしている。Fulford裁判官は,

その代わりに,共同犯罪実行のためのきわめて単 純なテスト,すなわち「個人の寄与と犯罪の実行 との間に機能的連関(operative link)」が存在す るかどうか,を提案する(17)。このテストを適用 することにより,法廷は,「事態が被告人の関与

なしにどのように展開したか,に関する仮言的な 審査」を回避することができるだろう(18)。だが,

Fulford裁判官は,彼の意見の引き続く段落にお いて,共同犯罪実行のために「個人の寄与と犯罪 との間の因果的連関(causal link)」が存在すべ きことを求めていることから,必要とされる「機 能的連関」を因果関係と同視しているように思わ れる(19)。そこでの文章は,Fulford裁判官が「因 果的連関」を正確には何と理解しているのかとい う疑問を提起する。もしある行為(例えば,殺人 者に武器を準備する)が(殺人者がその武器を使 用するので)犯罪の実行にとって「機能的」であ るなら,そのことは武器の準備と殺人との間に因 果的連関を作り出すのだろうか? もしそうであ れば,Fulford裁判官は,(共同)犯罪実行者と,単 なるほう助犯や唆し犯(aider and abettor【訳注⑦】 とを,どのように区別するのだろうか? 「因果 的連関」に異なる形態(強いものや弱いもの)は あるのだろうか? 因果関係は,問題となる要素 の存在なしには結果が起こらなかったであろうこ とを,必ずしも意味しないのだろうか? そして もし意味しないのなら,なぜ周辺的な,容易に代 替できる寄与が,単なる補助者を共同犯罪実行者 とするのに十分とされるのだろうか? 犯罪にお いて使用される武器ではなく,殺害者が犯罪現場 に乗っていく自転車を提供した者はどうなるのだ ろうか? 自転車を準備することもまた,殺害に 対して「機能的」または「因果的」連関を持つの だろうか? その問題への解答は,特定の状況下 で自転車が,殺害者が被害者の殺害に間に合うよ うに現場に到着する唯一の手段であるかどうか,

にかかっているのだろうか? もしそうであるな ら,Fulford裁判官の分析もまた,提供された手 段が「不可欠」であるかどうかを考慮に入れなけ ればならないのではないか?(20)

これらすべての疑問に対しては説得的な解答も あるかもしれないが,残念ながらFulford裁判官 はそれを提供していない。彼が示唆する共同犯罪 実行性のテストは,それゆえ漠然としたままであ り,裁判官たちに対し,犯罪実行と単なる従属的 責任との困難な識別を行うための基準を与えると

(5)

いうより,その多くを彼らの直感に委ねることに なる。Fulford裁判官は,もちろん,ICCの規程 をはじめ多くの法制度が,実行犯と従属犯に異な る量刑水準を提供していないことを指摘している 点では正しい。だが,法が犯罪行為におけるいく つかの関与形態の間で区別を設けている限り してICC規程25条⑶はまさにそのような区別を行 っているのだが(21),その法を適用する者は,

そのさまざまな名称を恣意的に用いることは許さ れない。裁判官は,同じまたは極めて類似した事 実に対し,月曜日には被告人をほう助と唆し

(aiding and abetting)で有罪とし,火曜日には共 同犯罪実行での有罪とほう助と唆しでの有罪とに 結果的には違いはないとして,別の被告人を共同 犯罪実行で有罪とするということはできない(22)

2. 3 Van den Wyngaert裁判官による批判 Van den Wyngaert裁判官は,ングジョロでの 彼女の同意意見で,支配の理論がもたらす両面の 効果の問題を取り上げた。すなわち,彼女の意見 では,この理論は,同時に広すぎるし,また狭す ぎる。彼女は,共同犯罪実行が「不可欠な」因果 的寄与ではなく(23),「犯罪の重要な要素の実現に 直接の寄与」(24)を必要とすると示唆する。Fulford 裁判官と同じように,Van den Wyngaert裁判官 は,「不可欠性」の要件が裁判官に,「被告人は全 く同じ寄与をしなかったらそれでも犯罪が行われ たかどうかについての人為的,憶測的作業」(25)

を余儀なくさせるものとして,それを拒否する。

しかし彼女はまた,Fulford裁判官の,なんらか

「因果的」要素を与える者は誰でも実行犯として 取り扱われることが可能となる,広範で軽くなで るようなアプローチを不十分なものと考える。代 わりにVan den Wyngaert裁判官は,共同犯罪実 行性を犯罪の重要な要素を直接にもたらす者に限 定する(26)。彼女は,「直接」の実行の概念が,

ICC規程8条⑵⒠ⅷ違反の文民たる住民の移動の ように,国際法で典型的な,より複雑な犯罪のい くつかには,容易に適用できないことを認めてい る。こうした場合ICCのもとに来る事件の多数 がそうであるかもしれないがに,彼女は,問題

とされる行為を計画または組織する者でさえも,

計画は「犯罪の実際の執行の本質的部分」である という理由で,「直接」の実行犯とみなすことに なるだろう(27)

Van den Wyngaert裁判官のアプローチのこう した「緩和」を,歓迎すべき柔軟性の指標と見る 者もあるかもしれない。しかしVan den Wyngaert 裁判官によって提案された順応は,「直接性」の 基準が区別されるべき内容の大まかな物差ししか 持たないことも示している。もし「直接」の因果 関係が,(Van den Wyngaert裁判官の例を用い るならば)文民たる住民の移動が実際に発生する はるか以前の計画段階での参加をも意味しうると すれば,その場合「直接」と「間接」や「離れた」

因果関係との違いは何であろうか? Van den Wyngaert裁判官は,何が「直接」かは個別の事 件の事実によって決定されると主張する(28)。し かしもし,裁判官がそれぞれ個別の事件において,

何が「直接」で何がそうでないかを決定しなけれ ばならないとしたら,なぜFulford裁判官が示唆 するように,誰が実行犯かという問題を単純に裁 判所の評価に委ねてしまわないのだろうか?

「直接性」の基準はまた,説得的な規範的根 拠も欠いている。この基準を支持するVan den Wyngaert裁判官の主要な主張は,それが個人と 共同の犯罪実行者とを等しく取り扱うということ である。すなわち,単独で行動する者は,(例え ば,被害者を撃つことにより)犯罪の重要な要素 を「引き起こす」(bring about)場合にのみ有罪 とされるので,二人やそれ以上の者が共同して行 為する場合にも同様のことが適用されるべきだ と,彼女は主張する(29)。しかし共同犯罪実行は,

個人の犯罪者による実行とは,一つの決定的な側 面で異なっている。すなわち,犯罪を行う仕事は,

共同行為者の間で分担されているのであり,また,

彼らは,犯罪の計画の結果を自分自身で「引き起 こす」必要性から,個々の参加者を解放するとい うまさにその目的で力を共同する。もし,個々の 共同犯罪実行者が犯罪の定義にある個々の要素を 個別に実行することを必要な要件とするならば,

共同犯罪実行の概念は,過剰なものとなるすべ

(6)

ての参加者は単独の実行犯として有罪とすること ができるだろう。Van den Wyngaert裁判官によ る単独と共同の犯罪実行の同質化は,こうして,

共同犯罪実行のまさに肝心な点を見失わせること になる。すなわち,共同犯罪実行者の間での作業 の分担を。

2. 4 共同犯罪実行を形作るものは何か。

それでは,共同犯罪実行が識別される特徴は何 であろうか? この問題に対する回答を示唆する 前に,なぜそれをすることが必要なのかを考えて みよう。すでに述べたように,法が実行犯と従属 犯を区別する時にはいつでも,裁判所がそれらを 単なる直感や恣意的な理由で適用することのない ように,これらの分類の間に設定すべき基準がな ければならない。それゆえ,共同犯罪実行を定義 し,他の形態の刑事責任から区別しておく必要性 は,ICC規程のように実行犯と従属犯との間を区 別するすべての法制度に存在する。

すでに見てきたように,単一の用語の「理論」

(問題解決のために「直接」や「機能的連関」の ような表現に依拠すること)は,共同犯罪実行の 要点が何であるかについてあまりにも一般的な考 え以上のものを提供しないので,この分野での法 の適用のために情報を与え具体化する必要性をほ とんど満足させてくれない。ルバンガの予審裁判 部によって考案された支配の理論は,二面的な

(binary)基準を提供する点では大きな利点があ る。すなわち,その者の寄与が犯罪の完成に不可 欠,すなわち必須条件(conditio sine qua non)

であるのかあるいはそうではないのか。そして ま た ,「 不 可 欠 性 」 の 基 準 は , 一 見 す れ ば

(prima vista)妥当なものである。すなわち,そ の基準は,中心的な寄与を提供した者は,犯罪の 企ての周辺にとどまってそれなしでも主要な行為 者が犯罪をできたであろう支援のみを提供した者 に比して,一般的にはより非難可能であるという 価値的判断を反映している。

だが,支配の理論でさえも,十分な精巧さを欠 いているかも知れない。問題の一つは,与えられ た行為の「不可欠な」という性格をどの観点から

決定すべきなのかという問題である。この決定は,

事前(ex ante)と事後(ex post)の観点から,す なわち犯罪を計画している段階から予測して(30) または,その完了(や挫折)から振り返って,行 うことが可能である。参加者の寄与の「不可欠性」

の分析は,例えば犯罪の計画段階など事前に評価 すればより容易であり,信頼性がある。関与した 者たちの計画を見れば,誰の寄与を代替不可能と 見なし,またどの寄与を「従属的」,すなわち計 画の成功のために有用であるが必須ではないと見 なしていたのかを決定することは困難ではない。

しかしながら,事前の見解をとることには,共謀 者の部分的な計算違いをすべて拘束的なものであ るとして受け入れなければならないという不利な 点もある。すなわち,もしAとBとが,強盗はB が銃を提供した場合にだけ成功できると考えてい るなら,そのような期待によって,事前の「不可 欠性」のテストのもとでは,Bが実際に銃を準備 する場合にはBは共同犯罪実行者となるであろう し,たとえAが強盗において銃を使用せず単なる 口頭の脅しで金を得たとしても,それは当てはま るとされることになる。事後の観点(Bの寄与は 実際に実施された強盗でも「不可欠」であった か?)を用いれば,こうした困難を回避できるが,

それは,Fulford裁判官やVan den Wyngaert裁 判官がその意見で提起した,仮言的な推測という 問題につながっていく。この強盗の仮定で,もし Aが被害者を脅すためにBの銃を実際に使用した 場合に,Bがその銃を提供しなかったら結果はど うなっていたであろうかを,確定的な程度に述べ ることはできない。Aは,たぶん強盗を同じく思 いとどまっていかもしれないし,あるいは,バナ ナか他の物体をポケットに隠して銃であるように 装って,被害者を十分に脅して金を差し出させた かもしれない。結局のところ,このように両方の 観点は,どのような事件でも異なる結果につなが るかもしれない一方で,いずれも不備があるわけ ではない。

しかしこのことは,「不可欠性」テストの主要 な問題ですらない。Fulford裁判官が記したこと とは反対に(31),ルバンガにおける裁判所の支配

(7)

の理論は,共同犯罪実行性を,狭すぎると言うよ り,むしろ広すぎるように定義しているのかもし れない。公判裁判部がルバンガの諸事実にこのテ ストを適用したやり方は,一見狭く見える「不可 欠性」テストのもとで,どれほど広く犯罪実行の 網が掛けられることになるのかを示している。ル バンガ多数意見は,共同犯罪実行者が犯罪の現場 に存在する必要はなく,彼の寄与と犯罪の遂行と の間に直接または物理的な連関すら存在する必要 がないと判示した。すなわち,実行犯は,関係あ る戦略や計画を練り上げるのを助けたり,他の参 加者を指示または支配することに関与したり,あ るいは犯罪に関与する者の役割を決定したりする ことで十分であるとされる(32)。もし,犯罪の遂 行から時間的にも場所的にもかなり離れたこうし たすべての寄与が「不可欠」であり,それによっ て共同犯罪実行性を確立するのに十分であると見 なされるのであれば,扇動犯やほう助犯と唆し犯 といった単なる従属的な責任には,何が残されて いるのだろうかと自問しなければならない。もし 例えば,2012年にある科学者が,ICC規程8条⑵

⒝ⅷのもとで禁止された化学兵器を国家の指導者 が製造することを可能にする必須の情報を提供し たとしたら,彼はその兵器の使用を予期してい たとして2014年になってこれらの兵器によって 実行された攻撃の,共同犯罪実行者となるのであ ろうか?

犯罪の中心にいてそのため実行犯と名付けられ るのに値する者と,周辺で支援的な役割にとどま りそのため従属犯として処罰される者とを,もし 区別したいと願うならば,寄与の非代替性という 1次元的な基準は,関係する一つの側面をとらえ るのみなので,不十分かもしれない。単一の要素に 基づいて区別する(魅力的ではある)考えは,や はり諦めなければならないかもしれないし,代わ って考慮されるべき一連の諸要素を求めるべきか もしれない。そうするために,(共同)実行犯と従 属犯との間の境界線は,事実的(empirical【訳注⑧】 な土台に引くことはできず,規範的(価値的)な 判断最終的には公正な帰結の概念に基づき,そ れによって外縁を柔軟なものとする判断を必要

とすることを認識すべきである。この価値的な判 断に関連する諸要素は,事実それ自体はその規範 的な価値判断の手がかりを与えないことから,

個々の事件の諸事実から導き出すことはできな い。しかしながら可能なことは,犯罪の企てにお いて「中心的な」役割を示し,それゆえ共同犯罪 実行性を示すことになる諸要素を特定するように 努めることである。そのような諸要素に同意する 場合であっても,与えられた事実関係の中ではそ れらの諸要素が反対の方向を示すかもしれないの で,なお個々の事件で多くの司法的な比較検討や 衡量を行う余地がある。しかし少なくとも,我々 は,境界線にある事件を合理的に評価するための 基準を持つことにはなるだろう。

そのような基準を定義していく一つのアプロー チは,犯意(mens rea)を中心とするものであ る。共同犯罪実行の事件では,共同計画への参加 あるいは少なくとも支持が存在しなければならな いことは,しばしば強調されてきた。一定の合意

黙示であってもを基礎に他者と協力する者で なければ,個別の実行犯として有責であっても,

「共同」実行犯とはなり得ない。共同犯罪実行性 にとって他にどのような犯意が必要とされるか は,それぞれの犯罪の定義によっている(33)。し かしながら,共同計画は,その用語が国際裁判所 で伝統的に理解されてきたように,実行犯と従属 犯との間にもしばしば存在することに留意すべき である。すなわち,扇動犯は初期の段階で実行犯 と一緒に自覚的に行動し,そしてほう助犯と唆し 犯もまたしばしば,主たる実行犯との合意を基礎 として犯罪の遂行を支援する。それゆえ,そのよ うな最小の合意の存在は,共同犯罪実行にとって 必要ではあるが十分な条件ではない。この論文の 著者の一人は,最近,集団的犯罪を集団が行うと いう共同意思(joint intention)が,共同犯罪実行 の典型的な要素だという考えを発展させてきた。

すなわち,このアプローチのもとで必要とされる のは,共同犯罪実行者の間での共同思案(joint deliberation)や副次的計画の調整である(34)。関 連する可能性があるもう一つの主観的な要素は,

犯意という最小の要件を超えて,犯罪の企ての成

(8)

功に向けられた強い個人的利害である。そのよう な個人的利害は,結果に利害を持つ者は利他主義 や固定料金によって行動する者に比べ,他の事情 が同じであれば(ceteris paribus),より熱心か つ持続的に寄与するであろうから,共同犯罪実行 の(弱い)指標と見なされるかもしれない(35)

別のアプローチは,客観的要素をより強く強調 する。もしそのアプローチを従うなら,人の寄与 の代替不可能な性格が,共同犯罪実行性の指標と して強く重視され,そして共同犯罪実行性の認定 の必要な要件と見なされるかもしれない。犯罪の 計画の実施にその寄与が本質的な影響を持たない 者は,「中心的」または「不可欠」の参加者とい う資格を与えられることはほとんどない。しかし,

前に指摘を試みたように,寄与の代替不可能性は,

すべての状況において共同犯罪実行性を帰結する 十分な条件となるわけではない。一つの選択肢は,

近接性,犯罪の本質的な要素の遂行に時間的に近 接した仕事,という要素を加えることである。ロ クシンは,その著作でこの問題の国際的な論争に 幾ばくかの影響を与えてきたが(36),未遂の段階 に達した後に犯罪に参加している者のみ共同犯罪 実行者と考えられるべきだと示唆してきた(37) こうした限定は正しい方向に向かうものである が,共同犯罪実行を未遂の定義の気まぐれに依拠 させることになることから,少し「技巧的」にす ぎるかもしれない。しかし客観的アプローチのも とでは,実際の犯罪の遂行への「支配」の要素が,

共同犯罪実行の重要な指標になる。典型的には,

共同犯罪実行者は,犯罪が実際に実行されるかど うか,そして直接に犯罪行為(actus reus)に参 加することによって,少なくとも直接の行為者に よる犯罪の遂行を例えば電話で監視すること によって,どのように実行されるかを,(共同)

決定する(38)

要するに,ルバンガ多数意見によって提唱され た支配の理論における「支配」の概念は,一次元 的にすぎるかもしれない。求めるべきなのは,主 観的と客観的な両方の要素を含む共同犯罪実行性 のより包括的なモデルである。典型的な要素は,

共同の企ての計画へのその者の関与,犯意,そし

ておそらく企ての成功に対する個人的な利害であ る。加えて,犯罪の計画の成功への寄与の重要性 と犯罪の実際の遂行への寄与の近接。主観的と客 観的のいずれの要素がより強く強調さるべきか は,議論の対象である。しかし,関連するかもし れない一連の異なる考慮要素を認識しさえすれ ば,その議論を合理的に導いてゆくことができる。

3. 間接的共同犯罪実行

Van den Wyngaert裁判官は,ングジョロ無罪 判決の同意意見において,間接的共同犯罪実行

(indirect co−perpetration)として知られる責任 形態を分析し,その理論はICC規程25条3⒜に含 まれるものではないと結論づけた(39)

この問題は最高度の重要性を持つ,というのは,

アル・バシール【訳注⑨】やケニアの事件を含む最近 のICCでの起訴の多くが,被告人の犯罪実行を,間 接的共同犯罪実行として訴追してきているからで ある(40)。確かに,その理論がなぜそれほどに強力 なものであるかを理解するのは容易である。ICC は,犯罪の現場(そして犯罪行為)から遠く離れた,

最高位のレベルの実行犯に焦点を置くので,検察 局は,街頭レベルの実行犯による物理的な犯罪の遂 行に,被告人を結びつける連結の原理を主張しなけ ればならない。

この理論を形づくるブロックは,ドイツの刑法 理論を通じてICCの判例にすでに導入された,他 の責任形態の組み合わせに由来している。ルバン ガで,ICCの予審裁判部は,共同犯罪実行者を,

犯罪に対して共同支配を行使する実行犯と定義し (41)。加えて,ロクシンは,ある者が直接の実行犯

彼ら自身が刑事的に有責でありうるを,階層 的に組織化された構造という手段によって支配す る場合,その者は間接的実行により有罪となり得 るという考え方を発展させてきた。彼はこれを,

組織支配(Organisationsherrschaft),あるいは 組織された権力装置を通じた犯罪実行と名付けて きた(42)。これら2つの責任形態を結びつけるこ とにより,検察局とICCは,間接的共同犯罪実行 の原理実に強力な訴追道具と表現できるもの

(9)

を発展させた。すなわち,その原理は,犯罪の物 理的な実行犯から相当に離れた被告人の訴追を,

2本の軸によって可能とする(43)

この理論は,広範な適用可能性を想定できる。

すなわち,その理論はもちろん,カタンガ/ング ジョロ事件に限定されない。その理論は実際に,

ICTY【訳注⑩】での実行犯に関する訴追戦略を定義 する,共同犯罪企図(JCE)【訳注⑪】とまったく同 じように,ICCにおける国際的刑事的訴追の将来 を代表するようになるかもしれない。国家的また はそれと同様の組織的残虐行為を含む大部分の事 件では,犯罪行為の実行のために,政府や反乱軍 のなかで複数のハイレベルの高官が協力するだろ う。さらにこうした高官は誰一人として自らは直 接に犯罪を行うことはしないだろう。むしろ,彼 らの一人かそれ以上は,その権限のもとにある垂 直的な官僚機構を利用するだろう。その結果する ものは,きわめて効果的な作業の分担である。あ るいは,この理論の擁護者はそのように主張し,

そのようにして水平的なレベルにあるすべての指 導者の非難可能性を,等しく完全な実行犯とみな す。確かにこれは,カタンガ/ングジョロ事件で のもともとの理論である。カタンガもングジョロ は,両名とも,各自が自由にできる反乱組織を利 用し,それぞれの軍隊を結びつけることによって のみ,残虐行為を実行できたとされていた。それ ゆえ,検察局によれば,それぞれの被告人は,自 らの部隊の行動だけでなく,他方の部隊の行動に も責任があった(44)。この交差する責任は,間接 的共同犯罪実行の原理の最大の強さを示してい る。指導者は,自らの命令下にある個人だけでは なく,その協力者の命令下にある個人にも責任を 負うことになるのである。

3. 1 責任形態は自由自在に結合できるか?

我々の見解ではVan den Wyngaert裁判官がこ うした責任形態に警戒感を表明したことは正し いことであるが,最も重要なことに,Van den Wyngaert裁判官は,25条の文言にはそのような 臨機応変(ad hockery)を正当化するものはな にもないと主張した(45)。25条⑶⒜は「他の者と

共同して」また「他の者を通じて」犯罪実行する ことを定めているが,これらの責任形態を結合す る可能性には言及していない(46)。別々の責任形 態は,特別の正当化なしに結合できるのだろう か?(47) そのような結合に懐疑的となることに は規範上の根拠があるし,また,そのような結合 は,国際刑事法一般と,個別的にはICC規程と,

両立するのかどうかが判断されなければならな い。間接的共同犯罪実行の事件では,そのような 事件であれば被告人らが,それぞれの責任形態の 基準を独立に満たすだろうと主張されるかもしれ ない。そうであるなら,共同犯罪実行と間接犯罪 実行と,両方の要求が独立に満たされる。それな らそのことの害悪は何だろうか?

間接的共同犯罪実行は,ICC規程25条で用いら れる文言としての間接犯罪実行と共同犯罪実行の 概念を素直に適用すること,より以上のものを含 んでいる。カタンガ/ングジョロの予審裁判部の 犯罪事実確認決定は,双方の軍隊の協力があって のみ,被告人らは国際犯罪を完遂することが可能 であったと結論づけている(48)。しかしそれは,

それぞれの被告人が協力と間接犯罪実行の両方の 基準を満たしているという事件ではない。実際,

そのような事件であれば,間接的共同犯罪実行の 原理は,余計なものとされたであろう。すなわち,

検察官は,単に共同犯罪実行と間接犯罪実行とを 選択して,これらの原理のいずれかを事件に適用 して進めることができたであろう。しかし例えば,

支配の理論の最初の適用の試みの1つである ICTYのスタキッチ事件では,公判裁判部は,た とえ実際の殺害を実行したのが彼の共同犯罪実行 者の部下であったとしても,スタキッチは犯罪の 正犯として責任があると判断した(49)。その場合,

スタキッチは,殺害を実行した垂直的組織を個人 的に支配していたわけではないので,間接犯罪実 行の基準を独立に満たす事件ではない。問題は,

そのような原理の拡張が,間接的共同犯罪実行と いう原理の司法的適用により自然にもたらされた 結果であるのか,あるいは,その原理自身の中に そもそも内在しているのかということである。

このことは,間接的共同犯罪実行に関する適切

(10)

な理論を構築することが,不可能だと示唆するも のではない。しかしながら,そのような構築がで きると単に仮定することもできないし,また,そ うした理論は,規程のありのままの文言の素直な 適用だとは決していえない。この理論を構築する ためには,支配の理論がドイツの刑法原理におい てどのように展開してきたか,そして刑法の教義

(Dogmatik)の基本的諸原則を独立に検証しなが ら,支配の理論がどこまで拡張されるべきなのか,

についての司法的認知が必要とされる。いくつか の理論は,この新しい責任形態を25条⑶⒜の生の 素材から導き出されるものとして説明するに違い ない。カタンガとングジョロは,いずれも共同意 図(common intent)を形成することにより,そ れぞれの軍隊の範囲を超えたと主張された。彼ら は,2人で両者の軍隊に対する権力を持つ,1つ のチーム・集団を構築した。この事実は,カタン ガの軍隊の行為をングジョロに法的に帰責するこ と,またその逆のことを正当化するかもしれな (50)。しかしながら,適切な理論においては,

別個の組織を支配して共同意図に向けて動員を行 う場合の個人と,単一の垂直的組織に対し結合さ れた権限を共同して行使する場合の個人とを,注 意深く区別する必要がある。後者は,単一の権力 装置を通じた軍事政府モデルの間接的共同犯罪実 行を構成するのに対し,前者は,複数の垂直的組 織を通じた共同犯罪実行に相当する(51)。これら の事例における「支配」の異なる構造により,原 理を適用すべきそれぞれの状況に応じた司法的基 準も,異なるかもしれない。これまでのところ,

ICCは,そうした相違を満足な程度には探究して こなかった。

3. 2 25条のもとでの組織の役割

Van den Wyngaert裁判官はまた,支配の理論 の中で組織の重要性が増大していることに不安を 表明した。簡単に言えば,彼女は,25条は国際犯 罪を行う(persons)への間接的支配には適用 されるが,犯罪を行う組織への間接的支配には適 用されないと主張した(52)。これは複雑な問題点 であり,さまざまな予審裁判部が不十分ながらも

説明を試みてきた点である。もちろんすべての組 織は,犯罪的なものでも会社でも,自然人から構 成されている(53)。そのため25条は,支配が組織 を通じて行使される場合でも,人の間接的支配に 適用される。問題は,その原理が,被告人と実際の 犯罪を行う物理的な実行犯との間に介在する法的 に重要な仲介者としての特別の地位を,「組織」に 与えることが適切かどうかということである(54) Van den Wyngaert裁判官にとっては,組織の概 念は,規程には何らの根拠もない迷惑なものであ る。さらには,街頭レベルの実行犯に対する個別 の支配が直接的というよりもむしろ(官僚機構を 通じて)ますます薄まっていく状況を,必然的に 含むことになるというのである。この異議には,

議論の余地がある。実際にロクシンの理論は,組 織は指導者の命令を当然のこととして実行するの で,官僚的な支配はそれ自身のやり方で「近接的」

(immediate)だと強調していた。

もしICCの上訴裁判部が,間接的共同犯罪実行 という文脈で組織支配を用い続けたいと願うので あれば,それは,なぜ組織を通じた間接犯罪実行 が25条の文言や同条の「者」への言及と両立する のかを説明する,より深い理論的な議論とともに なされるべきである。1つの議論は,組織という のは,犯罪における犯罪行為を実行する街頭レベ ルの実行犯に対し被告人によって行使される支配 を示す,便宜的な法的簡略表現にすぎないという ものかもしれない。このアプローチのもとでは,

組織支配はそもそも区別された責任形態ではな く,それゆえ25条の文言に存在しなくても関係が ない,ということになる。むしろ,25条の間接犯 罪実行の基準に到達するための1つの道筋として 分類されるだろう。すなわち,その見解のもとで 間接犯罪実行犯は,他の者,いわゆる近接の行為 者(immediate actor)を通じて,確かに犯罪を 行うことになる。組織は,「通じて」の要素を提 供することになる。すなわち,組織は,間接犯罪 実行犯を行為者に結びつけるのである。

25条における組織の役割を支持するかもしれな いもう一つの潮流は,国際刑事司法の他の分野で の重要な原理において増大している,組織の重要

(11)

性である。例えば,人道に対する犯罪における

「組織の計画や政策」という要件は,いまでは広 範または組織的な攻撃という要件とともに受け入 れられてきた要素である(55)。この要素は論争の 対象となっていて,除去した方がよいと考える者 もあるが,ICCでの最近の事件はこの要素を中心 に立論されている(56)。例えば,ケニアの容疑者 に対する起訴は,人道に対する犯罪の組織的な要 件と,組織された権力装置の組織的要件との両方 を満たすために,2つの組織の存在ムンギキ

(Mungiki【訳注⑫】)とICCが「ネットワーク」と呼 称する組織に依拠している(57)。国際刑事法に おける「組織」についての首尾一貫した司法的理 論は,これらのすべての問題を,1つの総合的な 犯罪性(macro−criminality)の理論のもとに全 体的に説明しなければならないだろう。

3. 3 未必の故意

ICCが間接的共同犯罪実行に依拠し続けること への,最後のそしておそらく最も重要な異議 は , こ れ ら の 事 件 へ の 未 必 の 故 意 ( Dolus Eventualis)の適用に関するものである。未必の 故意という用語は,競合し,しばしば相互に抵触 する諸定義のゆえに,悪名高い。すなわち,その 用語は,何かを解明するというより,むしろわか りにくくするかも知れない。国内そして国際的な レベルの研究者は,それがいわゆる「意志的な」

(volitional)部分,例えば将来に向けた被告人の 態度(忍従,認容,承認あるいは同意のいずれか)

を含むかどうかについて,さまざまに議論してき た。また,未必の故意がコモンローの同類である 無謀さ(recklessness)と類似のものであるかど うかまたはより広いものであるかについて,

並行する論争がある。しかしながら,すべての定 義は,未必の故意が将来の出来事の単なる可能性 を予見することの責任を含むことには,同意して いる。

行為者が害悪ある結果を直接には予見していな い場合に,刑事責任を拡張する一つの方法が,

ICTYによって工夫されてきた。JCE【訳注⑪】の第 3のバリエーション(JCEⅢ)のもとで,JCEへ

の参加者は,共同の企てを推進する中でなされた,

合理的に予見可能な他の参加者のいかなる行為に 対しても有責とされる。JCEⅢは,このようにし て,合意された射程の外にある共同事業者が遂行 した犯罪について正犯またはそれと同等の 罪を認める。これまでICCは,JCEの原理を採用 することに消極的であった。ICCは,ICC規程25 条⑶⒟にJCEの原理を読み込むことを拒否するこ とによって,刑事法理論の分析において厳格であ るという評判を作り出した。だが,ICCが支配の 理論を採用することに向けられた理論的根拠は,

明確にそのような形で述べられたことはないけれ ども(58),少なくとも部分的には,JCEというも っと有害な原理を明示に採用することなしに,そ のもとで可能とされる同様の結論に到達してきた のかもしれない。

ICCによって適用される間接的共同犯罪実行 は,JCEⅢやそのピンカートン類似の代位責任

(vicarious liability)(59)と,確かにあまり違いは ないのかもしれない。未必の故意の責任が課され るやいなや,構造の類似性が浮かび上がってくる。

明確にするために,この分野には矛盾する先例が あり,ICCの裁判部の中には,未必の故意が同裁 判所に訴追された犯罪の大部分には適用されない と結論づけてきたものもある(60)。しかしいくつ かの裁判部は,未必の故意(あるいはその改訂版)

が30条【訳注⑬】に合致していると宣言してきた。そ して,間接的共同犯罪実行と結合された時に両者 は,議論のあるJCEⅢときわめて類似した結論を 生み出す(61)。とりわけ,間接的共同犯罪実行は,

被告人の共同犯罪実行者の一人が作動させた垂直 的な権力機関により遂行された犯罪について,有 罪とすることを許容するものである。もし未必の 行為が混合付加されれば,組織された権力機関が,

水平的な共同犯罪実行者の間で同意された犯罪の 試みの一部でなかったとしても,有罪が許容され ることになる。ルバンガの予審裁判部によれば,

唯一の制限的原則は,被告人がそのような犯罪が 遂行されるかも知れないことの可能性を認識し,

その可能性に自らを調和させるか同意していなけ ればならないというものである(62)。確かに,同

(12)

予審裁判部は,「容疑者は,犯罪の客観的要素を もたらすリスクが少ない場合には,そのような客 観的要素が自らの行為や不作為から結果するかも 知れないという考えを,明確にまたは明示的に受 け入れていなければならなかった」ことを認めて いる(63)。それによる結果は,被告人と共同犯罪 実行者がたとえ犯罪に対する態度をまったく異に していたとしても,両方とも正犯として訴追され る点でJCEⅢに実質的に類似している。被告人は 犯罪を望んでいなかったが,それでも起こるかも 知れないとわかっていた。しかしながら共同犯罪 実行者は,本格的な意図で犯罪を間接的に実行し たかも知れない。この理論の利点が何であろうと,

それがJCEⅢの基礎となっている前提から,相当 に離れていると振る舞うすべきではない(64)。い ずれも,リスクを取る行為の,責任を含んでいる のである(65)

このことは,多くの法域で用いられる未必の故 意が,刑事的有責性の根拠とされるのに正当な心

理状態【訳注⑭】ではないと,示唆するものでは決し

てない。それは確かに正当なものである。むしろ,

原理に関わる問題は,適用可能な心理状態が「別 段の定めのある場合を除くほか」は故意と認識

(intent and knowledge【訳注⑮】)であると規程30条 に表現された,そもそもの犯意の基準と両立する かどうかである。故意と認識は,「通常の成り行 きにおいて」結果が生じることの意識を要求する。

ICC規程の起草過程を著述している権威ある注釈 者の大部分は,未必の故意が30条の基準では明示 的には対象とされていないことに同意している。

例えば,ロジャー・クラークは,よく知られてい るように「未必の故意とそのコモンローの同類で ある無謀さは,ローマでのコンセンサスによって 追放を受けた」と書いていた(66)。鍵となる一片 の証拠は,1996年の準備委員会報告の草案であり,

それは,未必の故意と無謀さを小項目に含んでい たが,後に削除されて,ICC規程の最終版では形 になることはなかった(67)

問題点を繰り返すと,このことは,未必の故意 に対する型にはまった世界的な懐疑を,何ら呼び かけるものではない。むしろ問題点は単に,間接

的共同犯罪実行の状況に未必の故意を適用するこ とは影響力があるものだということであって,そ のためICCは,それが個人の有責性の原則と両立 するかを決定することについて,注意深く歩みを 進めなければならないのである。間接的共同犯罪 実行であるとして訴追される被告人は,自らは個 人的に指示していない垂直席な組織によって実行 された行動に,責任があるとされる。その犯罪は,

未必の故意の場合には,被告人によって望まれた ものではなく,可能なリスクとして予見可能であ るにすぎない。この被告人の仮言的な有責性のレ ベルは何であろうか? 確かにそのような個人 は,何らかの責任形態のもとで何らかの犯罪では 有罪であるが,そのことがここでの問題ではない

問題は,彼らがロクシンの名付ける正犯の背後 の正犯(Täter hinter dem Täter),すなわち犯 罪作戦の背後に立つ黒幕,に値するかである。25 条には間接的共同犯罪実行が明示的には掲げられ ていないことに照らせば,ICCは,そのような分 類が正当化されることに疑いないようにすべきで ある。現在までのところ,これまでの裁判所の意 見は,この任務をいまだ達成していない。

4. 非難可能性の階層性?

4. 1 犯罪参加への規範的アプローチ

支配の理論の擁護者によれば,25条⑶⒜は,犯 罪参加への規範的アプローチと呼ばれるもの表現 している。すなわち,正犯(principal)は,犯罪 の遂行を物理的に必要とされないが,それに決定 的な影響力を持っているという意味で「最も有責 な」者である。これは,有責性の自然的または事 実的アプローチ(empirical approach【訳注⑧】)と 称されるものと対照的されるが,後者は自然の世 界や現実に生じた原因と効果を出発点とする(68)

「事実的な用語法」では,実行犯は,犯罪の主要 な要素を行い,それによって犯罪を「実行」しま たは「行う」ものである。従属犯(accessory)

や共犯者(accomplice)は,犯罪行為をもたらす 寄与をする者である。共犯に関するアングロ・ア メリカン法は,物理的な「遂行」(commission)

参照

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