近世後期最上紅
花 の輸送経
路に関
す る一考察
目次 はじ めに
⒈
第一章
日本 海諸 産物の
流 通
⒉
㈠
米穀
㈡
米穀以外の産物
㈢
最上紅
花 第二 章 最上紅花の
商 品として
の性 格
⒌
㈠
価格
㈡
費用 負担 と代金
の 支 払
㈢
紅花 輸送 の季節
的 特 殊 性
㈣
濡荷の
染 料 品 質への影響 第三 章 輸送上の工夫
⒎
㈠
大石田
ま での駄送
㈡
船積荷の分
散
㈢
神仏 へ の 祈 願
㈣
京都紅
花 問屋の対
応 第四 章 輸送日数
と運 賃
⒐
おわ りに
⒒
添付 資 料 図1
敦賀 入 津 船 数
、米
・大 豆 入 津 数 推 移 図2
藩政時
代 に お ける 最上 川流域概
略 図 表1
敦賀 よ り 上 り 荷駄 数 の 比 較 表2
越前三国大幸屋清三郎船
紅花積
荷 内訳
(文 政十 三年 秋 田 湊破 船)
表3
一駄当
り 運賃換算 史料 集
( 史 料 1
~
⒘
) 注(補
足 説明、参考文献)
はじ めに 最上 紅花と は
、出 羽国 を流 れる最 上 川 中 流域
、現 在 の 山 形・ 天 童・ 東根 一帯を 中 心 と す る
、い わゆ る村山 地 方で 生産
、干 花 に 加 工 さ れ 京都へ出荷された植物
染 料 である
⑴。天童・谷地・長崎・楯岡など
は 紅 花の 主 要 産 地 で あ った
。京 都紅 花 問 屋か ら 紅 染屋へ 渡 った 紅花 は西 陣織の糸
を染 め、ま た 化 粧 用の 紅と なった。
日本 海海 運 で は、
背後 に京
・大 坂 の 市 場 を控 えた越前敦賀
・若 狭 小 浜 が
、特に 東北
・北 陸地方 の 諸産 物を琵琶湖経由
で 畿内 へ送る拠 点として
、近 世以前 か ら重 要な 機 能 を果た し てき た。
敦 賀 に荷揚げ され た荷は 琵 琶湖北 岸 の塩津または海
津 へ 陸 送さ れ、
琵琶湖経
由 で 大津に渡し
、 そこから畿内諸都市
へ 送 ら れた ので ある。
しか し、寛文十二年(
一六 七二
)、 出羽国幕府領の
年 貢米(御
城 米)
を 江 戸 へ 輸送す る ため
、河 村 瑞 賢によ り 西廻り航
路( 酒田―日 本海
―赤 間ケ関
( 下関
)― 瀬 戸 内 海
―大 坂―
江戸
)が 整備さ れ る と
、 日本海には
官 船だけで
なく 各地の商船が盛
ん に廻航し
、米 穀 だ けで な く 日 本 海側 の様 々な産 物 が西廻り
航路 で運ばれ
るよう に な っ た
。 その 様な 中で、
最 上紅 花は
、西 廻 り 航 路 整備 後も、
大 部 分 が 敦 賀
~琵 琶 湖 経 由 で 京 都( 京都紅花
問屋)
へ 送られた
。多 くの日 本 海諸 産物
(以 下、
米穀
・ 海 産物
・ 銅 な ど の金属 類
・ 材 木
・ 青苧な ど 特に 東 北・ 北 陸地 方を中心と
す る 日 本海側の様々な産物
を「日本海
諸産 物」
と記す
)が 西廻 り航路で運
ば れる中、
最 上 紅 花 は
、なぜ 西廻 り 航路整 備 後も 敦賀
~琵琶 湖経 由 で 京 都 へ 送 られ たの であ ろうか。
以下 に、
最 上 紅 花 に関 す る 研究 史を 概観す る
。 最上紅花
に関す る 研究は昭
和四十 年(一九
六 五)
以降 の 研 究が多 く
、研究 書と して は、
今 田 信一
『最 上紅 花史の研究』
が著 名である。
本書 は
、最 上 紅 花 の生 産 高 と 品 質( 生 産 高 の 向 上 と 品 質低 下 の 問 題
)、 山形藩財政と最上紅花(専売制不
成 立の地域的特
殊性)
、 紅花商人 の成立と発展(
城 下町 商人と在
方商人
、 京都 紅花問 屋 との取 引
)、 紅花輸送
、京 都紅 花問屋仲間制度の成立
と廃止、
江戸打越荷
問 題( 武 州紅花の江戸打越と山形の関わり)
、最上紅花衰退の原因など、最 上紅 花を 様 々 な 側 面か ら詳 細に 研 究 し た も の で あ る。
論文では
、山 形城 下 お よび在方の紅花
荷 主 で あっ た旧家 に 所蔵さ れて いる史料
に基づき紅花荷
主 の経営形態を解明したものが
多 い。
代表的 な ものに、
岩田浩太郎
「 山形城 下 町商 人 長 谷川吉郎次家にお ける紅花取引の実態―嘉永~安政期を中心に」
、 横山昭男「近世後 期に お け る紅花流通と城下町
商 人の存在
形態―最上
紅 花問 屋佐藤 家を 中心 として
」な ど があ る。
最 上 紅 花 は 生 産高では
全 国 一を誇 っ てい たが、品質面
では 問題 があり(
5ペ ージ参照)
、 京都紅花市場 におけ る 動 向 として 最 上紅花の仕
切 相場は他
産 地 紅花に 比 較して 低いもので
あ った
。し かし
、長 谷 川 吉郎次 家 では
、産 地を最 上 地方 に 限 定 せ ず、
奥州
・武 州・ 常州 など から も品質 吟 味による
良質 紅花 の選抜買
付けを 行 い、
品質査定
に基づく指値
(京 都紅 花 問 屋 を 介し て西 陣 な どの 紅染 屋に紅花
を 販 売 す る 際 の 荷 主 側 の売 り付 け希望 値段)
を 定め、
そ の 上 で、
京都紅 花 問屋まか
せにせず
、売 り付け 交 渉を 行うた め に 上 方 へ 支配 人を派 遣 し、
利 益 を あ げ る べ く 価格交渉 を行っ て い た
。そ の結 果
、嘉 永
~安 政初 年にお け る 長 谷川 家の 紅花 出 荷 総量は 二 八〇駄前
後 で
、安 政元年には一九四〇
両 余の純益をあ
げて いるこ と な ど が 明 らか にさ れ て い る
。長 谷川 家、
佐 藤 家 以 外で は、柏 倉 家、
稲村家、柴崎家文書などに
よる論文がある。
紅花 輸送に 関 し て は、
今田 信一氏 の 研 究 に詳 しく、
ま ず
、船町
~ 大石田間の
最 上川急流難所の改修普請
や 両者の利権に関わ
る訴 訟 問題
、大 石田ま で の駄送 に 伴う宿駅継
ぎ 立てや 脇 街道駄送
禁 止 の問 題 を とりあげ、
次 に
、京都への紅花輸送に関し
て は
、一部に陸路江 戸廻りの輸送も皆
無ではなかっ
たが、大部分は敦賀
~ 琵琶 湖経由
(北 廻り
)で 送 ら れ て いたこ と を 明 ら か にして い る( 第 一 章、
㈢節 参照)
。 更に、海上輸送と破船対策、琵琶湖~大津間の輸送、輸送 運賃と日数に
も触 れて いる。
し かし、
紅 花輸送経路
と 西廻り航路整 備後の 関 連につい
ては 言及し て いない。
前記の横山昭男論文
で も輸 送経 路に つ い て 触 れて いるが、
やは り西 廻り 航 路 と の 関 連 は述 べて いな い。
前述した様に、多くの日本海諸産物が
西 廻り航路
で運ばれる中
、 最上紅花は、
なぜ 西廻り航路整備
後 も敦 賀~
琵 琶 湖 経 由で 京都へ送 られたので
あ ろ う か
。別の言い方を
す る ならば、
なぜ西廻り航路で 運ばれなかったのであ
ろうか。本稿
では、この点の解明を中心に
、 最上紅花の
輸 送 経 路に関す
る事 項 を 考察す る
。 まず、
第 一 章 で 西 廻り航路整備前
後 の日本海諸産物の流通の
変 化 を整理し、
そ のうえで
、西 廻り航 路 整備後も最上紅花が敦賀~琵琶 湖経由 で 京都へ運ばれた
こ とを先 行 研究に学びながら確認
す る
。そ して
、第 二 章 以降 で
、最 上 紅花 が敦 賀
~ 琵 琶 湖 経 由で 運ば れ た のは
、
「最上 紅 花の商 品 としての性格」
が 最大の要因であっ
たこ とを 史 料 に基づく考察で明らかにし、合
わ せ て、
「輸送上の工夫」
、「 輸送日
数と運 賃
」 に つ い て も 言及 す る
。 第一章
日本海諸
産 物 の 流 通
㈠
米穀 敦 賀 の打它 家旧蔵の
『 指 掌 録
』
⑵に、
「 慶 安 以 来着 津之米 大 豆年々 員数船数共」
とし て
、慶安元年~文化
十 年まで の 敦 賀 入津船数およ び 米・ 大 豆 入 津数 の記録 が あ る
。こ の記 録を詳 細 に 分 析し て、
西 廻 り航 路整備 前 後の敦 賀 入津米
・入 津 船 数 の 推 移( 図 1 参照)
が 明ら かにされて
い る
⑶。
小 野正雄氏によ
れば、
敦 賀にお け る入津米量の 時期 的変動は、
大 き く 次の 三つの 時 期 に 区 分 され る。
第 一 期は 七 六 万 俵 の入津米をみ
た寛文四
年をピークとし
て 入津 米量 が 六
〇万俵 台を 堅 持 す る 承 応
~ 寛 文の 時期
、第 二期は 六
〇 万 俵 か ら 一 五 万 俵へ 激減して
いく延宝~
元 禄期、
第 三期はほぼ一五
万 俵の線を中心
とし て横ばいを
続 け る 宝永以 降 の時期である。
こ のように、
敦 賀へ は 寛 文期 まで は 年 平 均 六〇 万俵 台の入 津 米 量 が あ った が、
そ の 後、
西 廻 り航路 整 備に より一五万
俵 台 へ と激減し
たこ と が 分 か る。
その減少 分は 西廻 り 航 路 に よ り 直 接
、大 坂・ 江戸 方 面 へ と 運 ば れ た ので あ る
。 幕府によ
る出羽国御城米の江戸
廻米は 西廻 り航路整備
以 前に も 御用商人の
請 負によ り 行 わ れて いたが、
御 用 商 人 請負制では海損な ど は 一 切 請負 人の負担
で あっ たため請負
料 は高 額 で あった。
河 村 瑞 賢 は
、こ の請 負制 を止め、
堅牢な塩飽島
の船など民間の船
を雇用し て 官 船 と し
、 酒 田 には いわ ゆ る 瑞 賢 蔵と いわ れ る 米 蔵 を 設 置 し た。
ま た 寄港 地を定め
て 整 備し、
岩 礁 で 危険な下関
湊 には水先案内船を
備え
、要 所 に は 毎 夜 烽 火を あげ て 廻 船 の 目 標 とさ せる な ど
、航 路 の 安全性を
高めた の で あ る
⑷。
これにより
、日本海
に は官船 だ けで なく 各地の 商 船 が 盛ん に廻 航 し、
米穀だけでなく
日 本海側の様々な産物
が 西廻 り航路 で 運ばれる よう にな ったのであ
る
。
㈡
米穀以外の産物 米 穀 以 外 の日 本海 側の諸 産 物 に ついて、
西廻 り航 路整備 前 後の変 動 を 知 る 手が かり となる 数 値 史 料は少ない
が
、次 の 二 つ の史 料を比 較 し てみた い
。一 つ は
㋐「 元 禄 七年の敦賀から海津
・ 塩 津
・大浦へ の諸 荷物 駄 数 の 記 録」
⑸、一つは㋑「安永七年~天明二年まで五年
間 の敦賀より
大津着諸荷物駄数の年平均
値」
⑹である。
㋐ は 西廻り 航路整備
後未 だ 日 の浅い時期、
㋑は 西廻り航
路が十 分 に軌道に乗っ ていた時期の数値
である
。 両 者 を対比させたの
が 表 1 である。
表1 の各品 目 の 年 間生 産高 などの経年推
移が不明
である か ら
、㋐
→
㋑ の 減 少 分 が
、そ の ま ま 西 廻 り 航 路で 運 ば れ た と す る の は 早 計で ある が、銅 や 鉛・四十物(塩
鮭 などの海産物)
・ 材木などの大幅減 は、
西廻り航路による大坂廻漕の可能性が大き
い とい え る であろう
。 特に、
天 明 期 は 松 前 の 近江商人
( 両 浜 組
)が 衰退し、
北前船が台頭 する過渡期であり
、い わゆる松
前物と 呼 ばれる海
産物 は北前 船 に よ り大 坂へ運 ば れ て い る
⑺。なお、加賀笠・布・奉書類などの軽量物
に大きな
増 減 が 無 く
、銅
・鉛や 材 木 の 重 量物 に大 幅減が あ る の が 注 目さ れ る
。積 替え が 大 変 な 重 量 物 は 海 上 輸送 が 便 利 で あ っ た と 考え られ
、ま た
、紅花など
の 軽 量荷は 積 替え が容 易なこ と
、小 型 廻 船で、
ある程度まとまった量の荷の輸送が可能
であ ったなどの利点が
考
えられる。
次に、
大 坂への
「 元文元 年 諸色登高
并銀高表」
⑻から出羽
産の主 要 な も の を書上げると、
米以外では、
諸材 木・ 銅
・ 生 蝋
・ 青 苧
・ 大 豆・ 小 麦 などとなる。
材木
・ 銅 など は 重 量物であり
、また青苧
は あ るが 紅 花 は 無 い な ど
、こ れ ら の 諸 品 は 西 廻り 航 路 で 運 ば れ た と 考え られ る
。更 に
、瀬 戸内 海直 島の 難 船 史料 によ る積荷の
内訳
⑼に、
こ れら諸品の品
名が見られるのも、
西 廻 り 廻 漕 を裏付けるものとい
う ことが で き る
。
㈢
最上紅 花 最上 紅花の 荷 主 か ら京 都紅 花問 屋に送 ら れる 紅花 荷は、
ま ず
、最 上川の積出し拠
点 で あ る大 石田まで
駄送され、
そ こ か ら 川 船で 最上 川河口の酒田
へ送られた。
酒田で積合廻船に積替
えら れ日本海を敦 賀 へ
、そ こか ら琵 琶 湖 北 岸 の 塩 津( ま た は海津
)へ 陸 送さ れ、
琵琶 湖を船 で 渡っ て 大 津、そして京都へと送られた。
この こと は
、 安 政 二 年
( 一 八 五 五
)、 江 戸 小 間 物 問 屋 丸合 組 か ら 奉行所 へ 提出 され た「紅 花 荷 物 商法取調
申立候 書 付
」
⑽に、
紅花 荷物之 内
、奥 羽国々 ハ 其 土 地買 次商人ヨ
リ荷主 と も江 仕入致 候、
紅花荷 物 古 来 ハ 年 々 秋 彼岸 前 迄 ハ 北 廻 と 唱、
羽州 最 上 川 大 石 田と 申所 ヨリ船 積 いた し、
越前敦 賀 湊江相 廻
、同 所ヨリ 上 方 筋 へ 直廻い た し、
秋彼岸後ヨ
リ 紅花荷物御当地へ相廻、
私 共仲間江
引 請
、市中江売捌、
又上方筋江も私共ヨリ為相登、
売捌候仕来ニ御 座候、
( 以下略)
とあ る こ と か ら 知 るこ とができ
る
。 なお
、右 史料は
、紅花荷物
江戸 打 越 一件
(武 州紅 花の 江戸通 過 に ついて、江戸紅花問屋が武州紅花荷主に
対して起こした訴訟事件)
の際
、奉 行 所 へ 提 出さ れた もので あ るが
、村 山地 方で は
、紅 花 荷物 江戸 打越 禁止に 対 し
、積極 的な 反対は 行 わ な かっ た も の の
、紅 花 荷 物江戸打越一
件の規定書に調印す
る 者は少なく、
江戸経由で上方へ 輸 送 された 最 上紅花は
少な かった の で は な い かと 見ら れ て い る
⑾。
次に
、敦 賀
~ 琵琶 湖経由 で 送 ら れた最上
紅花の 数 量 を 知る 史 料 と して は
、前 出 の「 七 里 文書
」(『 大 津市 史』
下 巻 資料 編
)に 安 永 七
年(一七七八)から天明二年(一七八二)まで五ヵ年間の「敦賀よ
り 大 津 着 諸荷 物駄 数
」の 品 目 別 合計 が記 載 さ れ て い る
。こ れに よ れ ば、紅花総
量 が「三 千 百拾 駄
」 とあり、
年平 均で 六二 二 駄 と な る
。 また
、嘉 永 四 年( 一 八 五 一
)~ 同 六 年 に
、敦 賀の 荷 揚 問屋で あ る 田 保 孫 右衛 門方に荷揚げされた最上紅花荷は
お よそ五七〇
駄
~ 七
〇
〇駄ほどであった
⑿。
村山 地 方 の 紅 花 の 年間 生 産 高 を 正 確 に 把 握するの
は困難 で ある。
それ は
、山 形 藩 で は
、しば しば 領 主 の 交 替が あり
、そ の 都 度
、領域 が変 わり、
村 山地 方での領域
が 錯綜していたことが背景に
ある。
近
世初期、最上氏(五七万石)が改易になると、山形に鳥居氏(二二
万石
)が 入 部 し た が
、山形 藩は
、そ の 後
、保 科氏
、松 平 氏
、奥 平氏
、 堀田氏、
秋元 氏、
水 野 氏と藩主が交
替し、
そ の都度、
領地 が縮小し、
元 禄 頃には十万石、
十 八世 紀半 ば に は六万 石 となった
。そ の一 方で、
元山形藩
領の中 に は 幕 府領や諸
藩 の 分 領 が 増 大し
、し か も
、最 上 川 の中 流域 にあた る 山形
、天 童、
東根 周辺 の領域は複
雑 に入 り組 ん で
いた ので あ る
⒀。例えば、天保十三年(一八四二)の村山郡内の各
所領 は次の通
り で あった。
すなわち、
天 領四
( 柴 橋、
寒河 江、
尾花 沢
、東根
)、 在 地 藩領四
( 長瀞、
上 山
、天童
、山 形)
、飛 地藩領五
( 北 目、
北 口
、柏 倉
、山 辺
、左 沢
)、 預 所一
( 漆 山)
、旗 本 領 一( 深堀
)、 その 他(朱 印 地外)
と なって い る
⑿。
この よう な 状 況 で はあ る が
、民 間 記 録 で ある
「大町 念 佛 講 帳
」な どを基に、
宝 暦期~文政期までの十
二 年 分の村 山 地方の年
間 紅 花生 産高が集
計されている
⑿。それによれば、他の農産物と同様に豊凶
の差があり、
多い 年では寛政
十 二年
(一八〇〇)
に一四〇〇
駄
、少 ない年で
文 政 四年
(一 八二 一)
に五〇
〇 駄となってお
り
、十 二年分 の平 均で は 約 八〇〇 駄 とな る。
この 平均 年 間 生 産 高 と 前出 の 敦 賀 着 の 紅 花荷駄数
を比較 す る と
、 年間 で、
最 上 紅 花 総生産高
のお よそ八
〇
% 前 後が 敦賀
~琵琶 湖経 由 で運 ばれ て い たこ とが 分か る。
以上
、第 一 章 で見 てき たよ うに、
河 村瑞賢に
よる 西廻り 航 路 整 備 以 後
、米 穀 だ け で な く 日本 海側 の様 々 な 産 物 が西 廻り 航路 で 運 ば れ る よ うになっ
たが、
最 上紅花は西廻り
航 路 整 備以後も
大部分 が 敦賀
~琵 琶湖 経 由 で 京 都へ運ば
れた
。