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抑 伽 伽 伽 抑 伽 迦 抑 〃 ( 町 )

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り︑そのうち昭和一三年九月の営団閉鎖に至る迄の間に約五八○ヘクタールの土地が造成されている︒終戦までの間

に政府の助成によってどのくらいの耕地が造成されたかは明らかではないが︑そのうち干拓によるものは大正七年か

ら昭和二○年の間でほぼ一五︑○○○ヘクタールと見つもられている︵注一︶・

国営干拓事業は昭和二○年度に実施計画がたてられ︑翌二一年度から実施されることになった︒それと同時にこれ

まで開墾助成︑農地開発などの施設によって施行されていた補助事業もすべて国営に引継いで行なうこととした︒昭

和二三年度からは建設工事は国が施行し︑造成された土地は入植者に売り渡され︑それ以後の整地工事は民営で施行

することになり︑整地工事費に対し四○%の補助金が交付されることになったが︑同二四年度に中止された︒なお昭

和二三年度からこれまで一般開墾として委託施行していた干拓を分離し︑干拓事業として実施することになり︑これ

を都府県に代行させることになった︒ついで昭和二五年度から従来の実施方針を整理し︑国営︵代行を含む︶として

施行するものは︑一団地五○町歩以上のものに限られることになり︑五○町歩未満のものは補助干拓として民営で施

行することになって現在に至っている︒この間昭和三二年に干拓事業の早期完成︑資金調達の円滑化︑および工事の

経済性の確保をねらいとして特定土地改良特別会計法が設定され︑従来﹁正に牛歩の観を呈していた干拓事業の在り

方に大きな変革﹂︵注二︶がもたらされたといえよう︒すなわちこれまでの干拓事業が長年月を要し︑工事中途にし

て災害に遭って工事のやり直しをしなければならないことが多く︑結果的には極めて不経済であったので工事期間を

制限し︑一工事別単位毎に最長七カ年と定めたのである︒

かくして戦後法制上三種の形で行なわれてきた干拓事業の実績については左掲第一図のグラフに示した通りであ

る︵注三︶・昭和一二二四年の間は代行干拓が国営干拓を上まわっていたが︑昭和二五年度以後は国営による造成

面積が第一位を占めている︒なお全体からすれば補助干拓による造成面積の比率はわずかである︒これら各種の干拓

事業の造成面積のうち湖沼干拓によるものがどのくらいの比率を占めるかについては明らかではない︒

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−マ−−−一一一 −一一一宣一一一一一■=一一

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湖沼干拓のなかで国営事業として行なわれているものをあげると︑琵琶湖︑霞ヵ浦︑印旛手賀の両沼︑加賀三湖︑

邑知潟︑鎧潟︑八郎潟︑十三湖の以上であり︑ほとんど中部以上に限定されている︒代行干拓︑補助干拓を含めると

裏日本では中海︑宍道湖が大きく浮び上ってくる︒西日本で湖沼干拓が見られないのは早く干拓しつくしたためであ

ろう︒とにかく日本に現存する主要湖沼は後でのべるような様々な形態でもって干拓事業が実施されており︑そして 抑伽伽伽抑伽迦抑〃︵町︶

S ・ 〃 苑 2 3 罫 お 2 6 2 7 2 8 2 9 3 0 3 ノ 聖 3 3 3 平 3 6

次に干拓技術について見れば︑ごく最近までは伝統的経験的な仕法

鋤に依存しており︑多くの場合に﹁既設干拓地を調査し︑過去の教訓を

舘基に︑その長短を見きわめて設計する︵注四︶のが一般的であり︑各

積雛地域においてそれぞれ特色をもった工事のやり方が見られた︒江戸時

師畑代の干拓において代表的な工法である紀州流などは長くその影響を伝造びる及えているのである︒戦後は在来工法に大きな変革がもたらされるのでよ路に道あって︑その一つの時期を画するのは昭和一三年にはじまるサンドポ拓︐肝剛ンプによる機械化施行︑第一庭は昭和二九年オランダのヤンセン教授

蹴幌らの来日を契機として八郎潟干拓計画樹立に対してNEDECO︵オ

図ランダ対外技術援助機関︶との技術提携が実現したことである︒この

ような背景のもとに現在数多くの湖沼の干拓事業が施行され︑あるいは計画されているが︑これを地域的に見ればその分布がかなり偏って

いることに気がつくのである︒過去においてもそうであったように今

日でも海面干拓︵主として干潟地︶は西日本に集中しているのに対し

湖面干拓は裏日本ならびに東日本に集中しているのである︒

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現在干拓事業未着手のものでも一応地元で干拓が議せら

れあるいは計画を進めていると見てさしつかえなさそう

である︒そのうちでも溌大級の規模をもつのは八郎潟の

全面干拓工事であって︑これは造成面積︵耕地︶は一万

四四町歩以上と見積もられている︒目下干拓工事施行中

のものに関しては第二図に示したが︑図中の数字は造成

予定耕地面積ならびに着工年度である︵注五︶・

これらの湖沼を干拓構造という点から分類するとすれ

ば相対的に流域面積の大きいもの︑あるいは湖面々積の

巨大なものにおける部分干拓と︑その逆の場合における

全面干拓とになる︒前者の代表例としては︑霞力浦︑北

浦地域を中心とした水郷地域に見られる︑いわゆるなし

くずしの干拓があげられる︒全面干拓ではもっともスケ

ールの大きいものは八郎潟である︒次に干拓がその地域

に対してもつ意義は必ずしも同一ではなく︑局地的な農

業構造の改善︑主として零細農民あるいは不安定な半農

半漁民の経営面積j拡大を目的とするものがあり︑また

もっと広く︑湖沼を抱く地域全体の土地改良の一環と

して例年水害に悩むことから脱却し︑安定した農業経営

+{

● 囲 曾 干 拓

▲ 代 行 .

■ 補 助 .

O‐

第二図最近の湖沼干拓(施行中の分布)

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0

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を樹立することを主たる目的とするもの︑あるいは両者を兼ねているもの︑そのほか地域開発の意図をもって大々的

に干拓事業を行なうもの︑などに分類できる︒

ここで注意されるのは戦後にわかに取り上げられた数多くの干拓事業がその後経済情勢の変化とともに次第にその

性格︑意味を変えてきたということである︒ほぼ昭和三○年頃をさかいとして日本の工業化がめざましいものがあ

り︑経済施策も次第に工業に重点を指向してきたこともあって︑農業生産と工業生産の較差は年を追うごとに増大し

ており︑農業県に見られる人口の停滞あるいは漸減の現象はこれを端的に示すものである︵注六︶︒しかし現在実施

中の干拓事業においてその主要工事の中に排水機設置が例外なく含まれているということは︑排水機なしには干拓し

得ない部分だけが今日残されているということをものがたる︵注七︶・そしてそういう場所は工事費も高価につき︑

完成後の維持管理費も多額を要する︒確かにこれまでの干拓事業はその完成までに相当長期間を要しており︑その途

中においてしばしば台風や梅雨期の豪雨などによって災害を蒙り︑災害復旧費がかさみ︑事業費が最初の設計当時よ

りもはるかに増加する結果となっている︒戦後新たに着工した地区を見ても︑平均してメートル当りの提防建設費が

九・三一八万円︑反当造成費は二四二五万円であり︑これらの地区の年々蒙つた災害復旧費は年度事業費の平均

七%に相当し︑また干拓建設事業費で実施した手戻り災害費もほぼ四%に及ぶといわれる︵注八︶・右のような事情

から干拓事業と他の諸事業と合せて︑たとえば工業用地を造成しあるいは淡水化による灌概用水︑工業用水の補給な

ど︑より綜合的な内容をもつ事業の一環として干拓を行なうことを意図するものもでてきたのである︒山陰の中海干

拓淡水化事業などはこれに該当するものである︒また工業用水としての湖沼の水資源が注目されるようになって︑干

拓が水かという二者択一に迫られているところもでてきている︒琵琶湖や霞力浦にその例を求めることができるであ

ろう︵注九︶︒

しかしながらここで考えるべきことは︑日本の工業化の進展とともに工業用地が農業にとってもすぐれた条件をも

子や■■糾一

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マ ー T ー − −−−q一一一‐一一一

I

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つ土地を次第に蚕食しつつあるということである︒また都市の工業化は近郊の農村をして次第に兼業化し︑農業の担

い手をして老人および女子に転嫁しつつある︒また農村内部において多くの現代社会にそぐわない伝統や慣行は容易

には是正されない︒工業優先の現代的動向の中で農業はより条件の劣った土地︑都市よりより遠隔の地へと後退を余

儀なくされつつある︒このような事態の中にあって合理的な農業経営︑スケールの大きい農業生産というタイプを打

ち出すためには︑自由な新しい土地においてそのモデルヶースを示すことは極めて必要である︒その意味でも干拓地

農業のもつ役割は大なるものがあり︑八郎潟干拓事業が注目されている所以でもある︒事実従来施行されてきた諸地

方のスケールの小さい干拓地は結局のところ僅かばかりの地元増反に終っている場合が少なくなく︑干拓の有すべき

意義が半減しているのである︒

一 日 一 日

〆つ

一一

第 三 図 新 川 農 業 水 利 事 業 地 区 の 概 要

次に具体的な干拓事業例をとりあげて見るこ

とにする︒鎧潟干拓事業はかなり広地域の土地

改良事業の一部としてとりあげられている典型

的な例であり︑これと類似のものは石川県の邑

知潟︑加賀三湖など裏日本にその例を多く見る

ことができるであろう︒また干拓構造からすれ

ば全面干拓である︒

従来の鎧潟の周辺の水田景観については第一

章において触れるところがあったが︑ここが全

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− ‑ 一 一 一 一 一 一 一 ÷ ● 一 今 一 一 一 一 一 ‑ 一 一 一 一 一 一 一 . − − . 一 ‐ 一 ー ‐ ー − −

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面干拓を企図されるに至った本質的理由として︑潟周辺の低湿地域を洪水禍から解放し︑合せて三○七町歩の干拓田

を得るということのみではなく︑第三図にも示されているように中の口川左岸の西蒲原郡の大部分︑つまり西蒲原平

野のほとんど全域についての土地改良︵乾田化︶を有効にかつ合理的に行なうためには潟の干拓は必要不可欠のもの

であった︒西蒲原平野すなわち新川農業水利事業地区は︑その内部はそれぞれの排水系統によって七地区にわかれ︑

結局は新川によって日本海にその悪水を排出しているのである︵注一○︶︒この地区のほぼ中心部に鎧潟が位置して

おり︑図の等高線から判断されるようにこの地区の最凹所である︒市販地形図では鎧潟の平水位は二メートル︑水深

一・五メートルとなっているが︑金沢農地事務局の調査によれば既往最高水位は一・八三五メートル︑平均高水位一

・一七○メートル︑平均平水位は○・六三○メートル平均最多水位は○・五○○・五五メートルであって︑なお昭

和二七年七月I昭和二八年一月の間の月別水位変化については第四図のグラフに示してある︒水位がかりにニメート

ルに達することがあるとすれば︑もし堤防が破られればかなり広範囲に水害が

及ぶ訳である︒そして直接新川下流に排水している新川右岸地区︑新川左岸地

区︑旧広通江地区︑広通江地区を除いた南半分はすべて鎧潟に排水しているの

である︒潟に流入する主な河川は木山川︑大通川︑飛落川などである︒なお新

川右岸︑同左岸地区はその大部分は標高二メートル以下であり︑一メートル以

下のところも少なくない︒しかも七︑八○○ヘクタールの流域面積をもつ鎧潟

の悪水は勾配わずかに五万分の一内外の新川一本で排出されているのである︒

そこで新川︑大通川を結んで大排水幹線とし︑排水機によって排水することに

したのあるが︑鎧潟の流入河川のうち最大の流域面積をもつ大通川から切りは

なされた場合の潟は遊水池としての役目はほとんど要らなくなる︒第三図の鎧

第 四 図 鎧 潟 の 水 位 の 変 動

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一 ・ 一 一 ̲

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この地域の最南端大川津の分水堰の付近が標高一五メートル鎧潟沿岸は一メートルであるので僅かながら勾配があ

る︒鎧潟から新川の日本海への排出口までは前記のように勾配はほとんど無いといつてもよく︑これはいかようにし

ても自然排水は困難である︒地形発達史の上からも鎧潟から以南の部分と以北の下流の部分とではその生成の条件が

かなり異なっていたと推定される︒すなわち以南の上流部では僅かながら扇状地的であり︑下流は純然たるデルタで

あって︑機械排水の不可能であった時代にはほとんど自然の暴威のままに任せるほかに手がなかった︵注二︶・そ

して潟の水位を高めておかなければ新川の排水能力がない︑そのためには堤防を高くしかつ流入する諸河川の堤防を

も嵩上げしなくてはならない・流域面積に変動が生じない限り遊水池としての鎧潟の機能を減退させることは極めて

危険であった︒しかるに大通川の土砂運搬量が大きく︑年々相当の速度で潟内の湖岸デルタを前進形成してきた︒し

たがって遊水池としての機能が減退するので堤防の嵩上げとなる︒このような悪循環が今日に至るまで続けられてき

たのである︒そのような事態の下においては水田の乾田化などは思いも及ばぬことであった︒鎧潟の水位が高ければ

沿岸耕地は地下水位が高くなり︑湛水もする︒いま潟が姿を消せばこの西蒲原平野の大部分にわたって乾田化を進め

ることができる筈で︑生産効果として計算された数字では米が五一︑五○八石︑麦二五︑一○○石︑なたね二三︑一

三九石になるという︒麦︑なたねなどの裏作がはたして期待通り行なわれるものか否かについては疑問の点がないで

もないが︑﹁一朝豪雨のため洪水となれば⁝⁝大湖水の観を呈し農作物の被害甚大であって⁝⁝︵注一二︶﹂という

ことはほぼ免れることができるであろう︒ 潟沿岸地区だけの遊水池となるので︑もはや遊水池として存続させる必要がなくなるのであった︒そこで新川への排水口付近に鎧潟をもふくめた鎧潟沿岸地区の排水を任務とする排水場を設置し潟を全面干拓しようという計画となったのである︒つまり鎧潟全面干拓計画は中の口川左岸西蒲原平野の排水系統ならびに排水設備の近代化とともに生またのである︒つまり鎧潟全面手れたものということができる︒

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一 七 一 一 一 ・ 竜 − 一 一 一 = 一 己 一 ー 、 一 一 一一 一

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度が完成予定年度である︒ 以上のように鎧潟の干拓は直接潟沿岸における水害を避け︑かつ水田が造成されるということ︑これだけではなく︑西蒲原平野の大部分がそれによって大きな利益をうけるという点からして︑単純なる干拓ではなく排水系統の近代化にともなう全面干拓であると見ることができるであろう︒

同じ全面干拓であっても鎧潟の場合とまったく対照的なのは八郎潟干拓計画である︒もちろんその規模は鎧潟とは

比べものにならぬ位雄大であり︑琵琶湖の約三分の一すなわち二二○平方キロメートル︵一三○○○ヘクタール︶の水

面面積をもつ日本第二の大湖であり︑これを調整池として残す部分を除いて一四︑一七七町歩の水田を造成しようとい

うものである︒ただし地域全体から︑すなわち八郎潟とその周辺の水田地帯を含めた面積とすれば先の鎧潟を含む西蒲

原平野とはほとんど大差のない広さである︒ただ湖面の大きさと周辺耕地との相対的な比率が逆になっているだけで

ある︒とはいうものの八郎潟干拓は湖面干拓としては我国干拓史において空前の規模のものということができる︒と

ころでこれだけ広い水面面積をもっているので︑水産資源もまた莫大なものがあり︑ここに漁業権をもつ漁業協同組合

は全部で二六組合︑漁業者も約三︑○○○戸にのぼり︑三六種を数えられる漁法でもって漁業が行なわれてきたので

あるから︑これら漁民をどうするか︑漁業補償をいかにするかということも干拓に先立って解決しなければならない

重大問題であった︒年間の水揚高は三億円とも五億円ともいわれ沿岸漁民にとって重要な漁業の場であったので︑干

拓計画が具体化するにつれ︑昭和二六年秋ついに八郎潟干拓反対同盟会の結成にまで発展したのもまことに当然であ

った︵注一三︶・この問題は結局農林省の努力の結果として解決し︑昭和三二年度から干拓事業に着手し︑同三八年

八郎潟の水深は平均三・二メートル︑最深部で四・五メートルの皿状で︑湖底は厚い﹁ヘドロ﹂層でおおわれてい

る︒平水位は○・五メートル︑最大洪水位は○︒八七メートルで︑その差は僅かに○・三七メートルにすぎず︑水位

の変動は極めて小さい︒このことは湖面面積に対する流域面積の比がわずかに三倍︵六八八・八平方キロメートル︶

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にしかならないためである︒またこの潟は船越水道によって日本海とつながっているが︑日本海の干満差が既述のよ

うに僅小であるということも︑湖面水位の安定化に大きく役立っているのである︒

干拓計画の概要について触れれば︑湖面面積二二︑一七三ヘクタールのうち中央に一五︑八七○ヘクタール︑周辺

に一︑三○六ヘクタールの干拓地を造成し︑残余の四︑九九七ヘクタールを調整池︑東部承水路︑船越水道として残

すことになっている︒調整池と船越水道との間には防潮水門が設けられる筈で︑これは調整池を淡水化し干拓地およ

び周辺の既耕地の一部の用水源として役立たせる目的からである︵注一四︶︒すなわち調整池は流域から流れ出る悪

水を調節するということよりも︑灌厩用溜池としての機能をより強くもつのである︒

を獲得すること自体に最大の目的および意義があるのである︒

第 五 図 八 郎 潟

八郎潟は上場の第五図にも見られる

ように︑湖岸デルタといえば僅かに馬

場目川の作ったもの︑およびその南に

続く部分のやや巾広くあるもののみ

で︑この部分を除けば細いベルト状

に水田が取りまいているだけであっ

て︑沖積平野の埋め残りである新潟県

の福島潟などとはその条件には大きな

違いがある︒したがってここでは八郎

潟干拓による周辺既耕地の利益という

ことは相対的に軽徴であって︑干拓田

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一 一 一 一 − − − − 一 一 一 一 一 一

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潮来町では戦時中に農地開発営団による内浪逆浦の干拓が行なわれており︑これは昭和一八年に着工し︑同年度内

に排水し終っている︒干拓面積二○○町歩のうち一三○町歩は東京からの転廃業者︵企業整備にともなう︶の入植用

とし︑残余は地元増反に向けるというもので︑完成は昭和二四年二一月であった︒入植戸数六三戸であるが離農者が

一三戸あり四六戸が残留した︒離農者の耕作地は地元農民に経営面積の最高限度三・七町歩の範囲内で国が再び売渡

しを行なった︒売渡しをうけた農民は五年目に成功検査をうけ︑不合格であった場合は国が再び買戻し︑更に希望を

つのって売渡すという形をとった︵注一五︶・

北利根川をはさんだ南側の市和田浦も内浪逆浦干拓地と同じく昭和二○年に農地開発営団によって干拓事業が始め

られ︑戦後営団が解散すると農林省の手によって完成されたものである︒入値戸数は五五戸でうち東京からの入植者 る︒ここでは造成予定面積はや

合併漸来町の地元増反である︒ 部分干拓は全面干拓にくらべ技術的にも容易であり︑資本も少くて済むので代行干拓や補助干拓にはこの種のものが多く︑一般的︑伝統的なやり方であるが︑既に述べたように経済情勢の変化から種々の難問題を抱え︑中にはより綜合的な地域開発と結びつけようという動きを示すものも出てきている︒

霞力浦は利根川の遊水池としての機能を果しており︑かつては広大な水面面積を有する内陸海であったが︑沖積作

用によって次第に埋積され北浦ともわずかに北利根川をもって通じるのみとなった︒この両浦ともに古くから周辺に

新田開発が進み︑その後は部分干拓という形式でもって今日に至っている︒いわばなしくずしの干拓ともいうことが

で︑きよう︒

国営で事業が進められている延方干拓はその現代版であり︑着工は昭和三四年度で︑完成予定は三九年となってい

・ここでは造成予定面積は水田二○八町歩であるが︑干拓予定地が北浦の平水位よりも低く︑目的とするところは

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ー − − − − 一 一

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は五○戸であった︒与田浦は霞力浦の低水工事として北利根川の河川改修が昭和二七年に建設省の手で行なわれ︑同

時に本流利根川の河道付け替え工事が行なわれたので︑その廃土をもって埋め立てた︒ここはもっぱら地元民の共同

耕作という形式で稲作が行なわれている︵注一六︶︒このように霞力浦北浦のいわゆる水郷地域ではなしくずしの部

分干拓が今日なお続けられ景観は次第に変貌しつつあるのである︒琵琶湖の干拓型式もこれと大同小異であるという

同じ部分干拓ではあるが︑上述のものとは異なり︑地域開発という

ねらいをもつものとして島根県中海干拓淡水化事業計画があげられ

る︒ここは隣接する宍道湖の利用開発との関連のもとに計画されてい

るもので︑この二つの湖沼は切りはなして考えることはできないので

ある︒中海は水面面積が一○四平方キロメートルあり︑宍道湖は八○

平方キロメートルであって︑両者を合せば霞力浦よりもなお広い︒水

位は中海の方がほとんど海水面の高さであり︑宍道湖は夏は○・五○

○・五五メートル︑冬期は○・二○○・三○メートル︑なお夏期

の水位が高いことに従来から悩まされてきたのである︵注一七︶・両

湖を結ぶのが大橋川で延長は約六キロメートルある︒

はじめ宍道湖の干拓計画が昭和三一年たてられたが︑これは干拓田

を得るとともに湖岸最大のデルタである斐川平野にほとんど例年おこ

るところの洪水禍を防ぎ︑合せて土地改良による増産効果をねらった

ものであった︵注一八︶︒しかし斐川平野を形成した斐伊川は︑宍道 ことができよち︒

Eヨ干拓予定地

ⅢⅢ重用地予良地 匿国畑潅 鰯水田受益地 E三千綱

ⅢⅢ重用j 匿国畑乳 鰯水田受

段一海

雪奮

中 海 ↑

一 伝 拓

中 海

︾薑奉癖エ匹

潮上調詣向

鰯水田受 大槌

霊静溌霊静雫 中 海

闘道湖 、蹄

# 毎

垂造川

111

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, . 川

第 六 図 中 海 干 拓 淡 水 化 事 業

(13)

一 今 や 一 一 一 ' ■ − − − − 一 一 ‑ − − マ ー ー マ ー ー ー 一

I凸

57

湖に流入する諸河川のうちで最大の流域面積を有し︵三︑六五九・八平方キロメートル︶︑梅雨期や台風期には氾濫する

のが常であった︒そして年間七○九○万立方メートルという莫大な流下土砂が下流に堆積するので全国でも有数な

天井川を作っているし︑また最大洪水量は毎秒三︑六○○立方メートルにのぼるのである︵明治二六年︶︵注一九︶・

上記の干拓事業計画はこの斐伊川をつけかえて直接日本海に注がしめ宍道湖に五︑○○○町歩の干拓田を得るという

ものであったが︑実現は困難と見られ中止となった︒

宍道湖には夏季には中海を経て塩水が侵入し︑塩分の濃度は千分の二千分の三・五前後となり塩害をおこす危

険が増大する︵注二○︶・中海は部分的に違いはあるが︑:塩分濃度は海水の濃度にくらべ約二分の一であって灌厩用

水とはならない︒両湖とも湖岸には部分的に代行あるいは補助干拓という形で数カ所の干拓事業が行なわれてきた

が︑これらはごく小面積のものであった︒

さて今回計画を進めているのはその名称が中海干拓淡水化事業と呼ばれているところからも知られるように︑部分

干拓を行なうと同時に淡水化しようとするものであって︑合せて工業用地を造成せんとするものである︒すなわちそ

の排水口である境水道を拡張して排水能力を増大せしめ湖岸の数カ所を干拓し︑同時に塩害を防ぐため汐止樋門を設

けて淡水化する︒かくして得られた水は周辺既耕地︑干拓田の灌漉用水に利用するとともに工業用水に振り向ける︒

こうして工業用水と︑干拓地の一部を割いて工業用地とし︑もって工場誘致しようとするのである︒干拓を予定され

ているのは中海の中央よりやや北にある大根島を利用した北部干拓︑これを本庄工区と呼び干拓予定面積は一・九二

四ヘクタールで最大である︒このほかに弓浜工区が一五七・三四ヘクタール︑揖屋工区が三三一ヘクタール︑米子工

区の四一三・七五ヘクタールなどである︒これらは水田造成を目的とするものであるが︑境水道に近い本庄工区の東

側の一部と揖屋工区の一部を工業用地に振向け︑なお山陰線の沿線で中海に臨む小湾入を工業用地として埋立てる︒

(14)

− ヨ ー ー 一 一

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次に一般産業においては立遅れているが︑観光資源としてこれを有効に利用している湖沼地域における干拓はどう

であろうか︒加賀三湖干拓建設事業と呼ばれる石川県の今江潟︑柴山潟の干拓事業︵目下実施中︶において今江潟は

全面干拓されることになっているが柴山潟は湖面の一部を残存することにしたのは︑これに注ぐ動橋川の流域面積が

大であって調整池をどうしても必要とすることもあるが︑いま一つには湖畔に立地する片山津温泉が水郷景観を売り

ものにしていることから来ているのである︵注一二︶・観光資源としての湖水の風光を失うことは耐えられないこと

なのであった︒この加賀三湖の場合と同じような立場に立たされているのは鳥取県の東郷池干拓の問題である︒

東郷池は裏日本海岸潟湖の一つで︑海岸には低い砂丘が発達し一条の排水路によって日本海とつながっている︒水

面面積は四一○ヘクタール余あり淡水湖であるが︑海岸潟湖の常として高潮の際には海水が浸入することがある︒流

域面積は五︑三五○ヘクタールもあるが排水路である橋津川の排水能力は良好ではなく︑しかも池の水位が低いので

冬の季節風によって漂砂のため河口閉塞をおこすことが常である︒そのときは周辺の耕地や宅地などにも浸水するの

で年々被害は少なくなかった︒北陸の諸潟湖と同様湖畔には堤防を欠くので水位が高まれば氾濫するのであるが︑な 以上が中海干拓淡水化事業と呼ばれるものの概要である︒これは計画中のものでこの通り実現するものかどうかはわからない︒しかし従来の干拓計画が︑それが農林省関係の仕事であったこともその理由の一つであるが農地造成︵主として水田︶が目的であったが︑中海の計画は日本経済の新らしい動向に即応し後進地域を開発しよう︑そのためにより綜合的な地域開発という形態をとらうとする︑この新らしい試みは注目に値するであろう︒この中海干拓淡水化事業と相似た趣旨ならびに目的をもつのはいまのところデスクプランにすぎないが︑地元として強い要望を示している石川県の七尾西湾干拓計画︑金沢港の建設と結びつけて考えられている河北潟の干拓計画である︒これらは工業化において比較的おくれている地域において干拓事業が計画される場合の一つの指針を与えるものとして注意すべきものであろう︒

6

(15)

一・・・卜

|︲

一●●一.羊一年●田︾己

59

あるが︑両町とも第一次産業従事戸数の比率が高く︑農業のみで羽合町五五%︑東郷町六

七%︑平均六二%になるが︑経営規模は零細で羽合町では三反未満のものが最も多数を占

め︑一・五町以上のものはほとんどない︒また東郷町でも三反未満のものが約二○%︑一

町歩以上のものは五%にすぎないのである︒平均反別は羽合町で六・二反︑東郷町で六・

四反で鳥取県平均よりは約一反すぐない︒

次に東郷池の水産資源について見れば︑うなぎ︑こい︑ふな︑その他えび︑︑あまさぎな

ど年々二万四○○○貢程度の水揚高があるが︑そのうち商品化されるのは一部にすぎな

い︒かつては池の泥土と水深の繁茂が魚類の繁殖に通していたので漁獲高も今日よりもは

るかに多かったといわれる︒漁獲高の減少の大きな理由としては湖尻の閉塞︑海水の逆

流︑農薬の普及などがあげられる︒東郷漁業協同組合が組織され組合員は六七○名を数え

'一日率I農I

彦彦=/診多〆 彦彦=/診多〆

診〆

︶境へ︶境へ 兎霊豊東兎霊豊東

111︑111︑

第 七 図 東 郷 池 干 拓 予 定 地

お古くから埋立︑干拓などが盛んに

行なわれたので水害がより甚しくな

ったのであろう︒明治三○年現在に

至る間でも三○件にのぼる埋立︑干

拓事業が行なわれ︑造成面積も三七

ヘクタール以上に及んでいる︵注二

一一︶○・

湖畔の水田地帯を占めているのは

二つの町すなわち羽合町︑東郷町で

(注23)(昭35.12センサス)

農 家 戸 数 及 び 経 営 面 積

71 町 ' 11 5 1 1 53 1 35 1 そ の 他 毫F 薮 │ 専 業 ' 03 反 L §§ 」

5 〜 7

217 129 23267 18977 133243 110206 2423 14

東 郷 町 羽 合 町

362 290 1

註:関係地区のみ

(16)
(17)

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 −

I

61

以上記してきたところは太平洋戦争終了以後計画されあるいは実施されている湖沼干拓の概要である︒これまで見

てきたように日本の国土は湖沼のみをとり上げても︑著しい景観的変遷をとげてきており︑その変遷のプロセスをあ

とづけることは地理学を志すものの任務であろう︒本文執筆中はデスクプランにすぎなかったもので︑昭和三十九年

より着工された河北潟干拓事業については機会を改めて発表する積りである︒

業資料︑一九二九︑

︵一二︶前掲書︵注一○︶

︵一三︶高橋謙三・.八郎酒 ︵九︶経済安定本部資源調査会:琵琶湖開発に関する報告l付属資料集一︑一九五二︑二三頁︒︵一○︶農林省新川かんがい排水事業概要図︒︵二︶西川以東の地はもと信濃川に直接排水していたので現在よりも更に甚だしい湛水状態であった︒天明︑寛政度に今日のよ

うな堀割を作る計画を樹てたが幕府から許可が得られなかった︒ようやく文政元年に至って内野に暗閾を作ることができ︑

湛水は幾分緩和されたという︒なお本格的な疏通工事は明治に入ってからである︒l農林省農務局:明治年間灌概排水事

業資料︑一九二九︑一五二一五三頁︒

ヘ ヘ ー へ

八 七 六

一 一 一

︵五︶前掲書︵注二一および注三︶より作成した︒

︵六︶農林省:農業の動向に関する年次報告昭和三六年度︑

︵七︶前掲書︵注三︶一四八一六一頁︒ ︵三︶農林省農地局:農地の頭︵四︶前掲害︵注二︶九五頁︒ ︵一︶全国干拓期成同盟会:干拓︑一九五一︒︵二︶農林省農地局:干拓総覧︑一九五九︑九六頁︒︵三︶農林省農地局:農地の開発改良および管理に関する統計︑一九六二︑一四六一四七頁︒

前掲書︵注三︶

前掲書︵注二︶

高橋謙三・.八郎潟干拓と漁業補償︑農業朝日一三の六︑一九五八︑三八四○頁︒

九六頁︒ むすび

の﹁現況﹂

0

(18)

62

︵二五︶前掲書︵注一三︶二八頁︒

︲︵二六︶前掲書︵注一三︶三八頁︒

︵追記︶本稿ならびに金大法文論集哲史篇第一○号所載の﹁本邦における湖沼干拓史の断片し︵一︶は筆者の学位論文可本邦湖沼干

拓の地理学的研究Lの第三章近代の湖沼干拓である︒なお︵一︶︵二︶に分割して掲載した為︑若干手が加わっていることを断って

おく︒ ︵一六︶佐原市役場資料による︒︵一七︶斐伊川右岸土地改良区:土地改良事業要覧︑一九六一︑五頁︒︵一八︶鳥取県島根県:中海臨海地区を中心とする綜合開発計画について︑一九六二︑四四頁︒︵一九︶前掲書︵注一八︶五九六○頁︒ ︐︒︵一四︶友宗忠雄:八郎潟干拓︑土地改良の動向︑一九六○︑三八七四一五頁︒︵一五︶潮来町役場資料による︒︵一三︶鳥取県:東郷池干拓︑一九六○︑︵一三︶前掲書︵注一三︶二一二頁︒︵二四︶前掲書︵注二二︶一三頁︒ ︵一二︶農林省加賀三湖干拓建設事業概要図より︒.三コ烏攻旱・・東郷池干妬︑一九六○︑三頁︒ ︵二○︶前掲書︵注一七︶五頁︒

参照

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