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八田生雄八田生雄

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(1)

17

︵2︶

ところで近年大衆民主主義論が政治史の文脈で注目されてきたのは︑それが﹁近代﹂に対する﹁現代﹂の指標とし

て使用可能な概念装置を提供しうるからであろう︒戦後日本における西洋史学研究の基軸をなしたものが︑﹁前近代﹂

から﹁近代﹂への歴史転換にかかわる諸研究であったとすれば︑その後に来るべきものは︑現在を単に近代社会とし

てとらえる前提の破砕ではなかったろうか︒現在を近代とは明確に異なる現代として︑﹁現代﹂概念を構想しようと

する努力の必要は︑流動する現状を眼前にしながら︑今日ますます痛切に感じられるのである︒ ある︒ ︵勺上︶マックス・ヴェー︑ハーの政治思想に関する前稿で︑わたしは︑かれの晩年の政治論文の基調の一つに︑大衆民主主

義論的発想のあることを指摘しておいた︒そこでは大衆民主主義論的発想の指摘とともに︑論文全体の枠組をヴェー

バーとナチズムとの関連の問題として設定したのだが︑わたしの意図は︑ナチズムとの脈絡でヴェー?ハーを断罪する

という倭小化された議論に本来あるのではなく︑ナチズムの出現を現代民主主義Ⅱ大衆民主主義の問題性のなかでと

らえようとするところにある︒こういうアプローチは︑ナチズムをドイツ保守主義の連続性に包摂して理解しようと

する立場とは異なり︑むしろ保守主義I伝統的支配の機能喪失がもたらす状況にこそ問題の根をみようとするもので マックス・ヴェー癖ハーの近代国家観

八田生雄

(2)

18

とはいっても︑マックス・ヴェー・ハーの政治学的研究︵﹁国家社会学﹂︶からわれわれが現代政治分析のための概念

を得ようとするとき︑われわれのシェーマとは直ちに一致しないヴェー・ハー固有の論理があることはいうまでもない︒

われわれがいう意味での﹁近代﹂と﹁現代﹂の区別がヴェー・ハーにあるかどうか即断することは困難だといわなけれ

ばならない︒ちなみに日a2pというドイツ語は︑近代・現代の双方の意味を含んでいる︒また︑近代Ⅱ名望家民

主主義︑現代Ⅱ大衆民主主義︑こういうシェーマをわれわれが考える場合も︑名望家支配をヴェー・ハーが白且日口

なものと考えていたかどうかは疑問である︒それに︑そもそも﹁ヴェー︒ハーは︑図式的になされる段階論をいつもし

︵勾○︶りぞけていた﹂ともいわれている︒

それではヴェー・ハー固有の論理における近代国家己①儲日a2pの聾四胃とはどういうものであろうか︒大衆民主

主義論を生産的に発展させるためにも︑われわれは改めてこの問いに答えておかなければならないのではなかろうか︒

この小論は右の問いを出発点として︑ヴェー・ハーの近代国家観をめぐる若干の問題について考えてみようとするもの

ヴエー零ハーの近代国家観を問題にしようとするとき︑われわれはまずヴェー・ハーの歴史観の特質をおさえておかな

ければならないのではないだろうか︒そしてできることなら︑ヴェー︒ハーの学問的方法の特色にも触れるべきである である︒

︵1︶拙槁﹁マックス・ヴェーバーとヴァィマル・デモクラシー﹂︵﹃史林﹄五一巻五号︶

︵2︶ドイツ現代史については次の害を参照︒飯田収治・中村幹雄・野田宣雄・望田幸男﹃ドイツ現代政治史﹄︵ミネルヴァ書房︑

昭四一︶︑中村幹雄﹃ドイツ現代政治史﹄︵世界思想社︑昭四四︶︒

︵3︶の冒篇烏鈩言四日o言の置々固畠︒︑胃萱・ミの冨逮ご寄韓弓等ミの︾津具愚画風乞霊ゞ切届PP冒冒.●

(3)

19

以上の論者のかみあう点・棚齢する点を行論の参考にしながら︑われわれはヴェー々ハーを読んでいきたい︒

われわれがヴェー・ハーの近代国家観を探ろうとするとき︑われわれの前に浮かんでくるのはかれの﹁支配の社会学﹂

の巨大な姿である︒かれの﹁支配の社会学﹂が︑カリスマ的支配︑伝統的支配︑合法的支配︵依法的支配︶の類型論

からなっていることはよく知られているし︑これらそれぞれの支配類型の性格描写についても︑詳しく説明する必要 わけではない︒

︵3︶

ものである︒﹂ う︒以下不十分ながらこういった点からみていこうと思う︒

さきにアブラモフスキーの言を引いておいたように︑ヴェーゞハーは直線的な社会発展の図式はこれを否定したと考

えられる︒折原浩氏はこの点について次のように述べている︒

﹁⁝⁝ウエー?ハー社会学の︿基礎概念﹀がこのようなものだとすれば︑かれの歴史観も︑けっして単純な直線的進

化論としてではなく︑︿意味覚醒﹀と︿没意味化﹀の微小波動・小波動・中波動︒大波動を含み︑大波動の境目には

﹃辺境﹄における﹃文化接触﹄が配され︑全体としては﹃合理化﹄が進展し︑その背面では︑︿没意味化﹀が深化す

︵勺上︶るダイナミズムとして把握されるであろう︒﹂

この文章にちりばめられた折原氏のヴェー・ハー解釈における特殊タームをしばらく措けば︑その文意はきわめて明

︵2︶

らかである︒すなわち︑﹁オプティミスティックな単線的・直線的進化論﹂の否定︑これである︒

これに対して大塚久雄氏のヴェーバー解釈では︑似たような論旨のようでかなり違った一二アンスをもっている︒

あざやかな論理展開を示す論文のなかでかれは次のように書いている︒

﹁もちろんヴェー・ハーのばあいには︑マルクスのいうような法則として自然必然的に継起する社会発展の諸段階︑

そうした意味での発展段階説は否定されているけれども︑彼のばあいにも何らかの意味での段階的思考が欠けていた

わけではない︒しかもそれは︑内容的にみれば︑ある点ではマルクスのそれとほとんど相似的だとさえ言えるほどの

(4)

別はほとんどないであろう︒ただ行論上重要なことは︑かれのこの類型論の基礎視点をなすものが合理的な立憲・行政

国家の分析であることであり︑近代国家︑およびその非合理的︵カリスマ的︑伝統的︶﹁先行形態﹂についての構造分

析がかれの﹁支配の社会学﹂の核心をなすという点の把握である︒

というのは︑ヴェー・ハーが図式的な段階論を拒否したのは事実だとしても︑かれの物の見方はほとんどつねに︑現

︵4︶

在に視点をおいて過去をふりかえるという回顧的なH①胃○署①江ご性格をもっていたからである︒ヴェーーハーがカリ

スマ的支配や伝統的支配をとりあげるのは︑それが西ョ1ロッパ近代国家の合法的支配を理解するための︑いわば引

︵5︶

立て役として︑かれに役立ったからなのである︒だからわれわれとしては︑ヴェー︒ハーの論理における多元論的な思

考を見落しさえしなければ︑次のような支配の合理化過程を描いても許されるのではなかろうか︒すなわち︑優越的

に伝統的︑カリスマ的に規定された支配構成体︵前近代的支配︶から︑近代国家における優越的に合理的に整序され

た支配行使への発展がヴェー?ハーの論理に認められる︑と︒

次に︑﹁支配﹂というヴェー︒ハーの概念は二つのアス・ヘクトを示すことが注目されねばならない︒支配とはかれに

よれば︑㈲一定の仕方で組織され︑口一定の仕方で正当化された︑権力行使のことである︒あらゆる支配は一方で組

織︑つまり支配手段と行政幹部を必要とし︑他方で内的正当化を必要とする︒このうち後者の正当性信念による支配

の類型がカリスマ的支配︑伝統的支配︑合法的支配であることはいうまでもないが︑これらの類型それぞれに︑権力

行使と権力配置︑最高支配者・支配スタッフ・被支配者間の関係︑法観念と司法︑経済制度と社会制度︑教育と生活

︵公︒︶様式︑これらの一定の形式が対応する︒それゆえ支配の三類型を考察する場合には︑右のようなさまざまな契機の構

成を見落すことなく︑とくに組織と行政のあり方の相違に着目して︑理解を深めていかなければならない︒

以上を予備的考察として︑われわれは次に︑近代国家における合法的支配を引立たせるために︑前近代的支配につ

いてのヴェー︒ハー理論をみておこうと思う︒

(5)

21

そのままあてはまる︒

︵3︶

さて︑ヴェー︒ハーによれば︑純粋なカリスマ的支配団体は﹁激情的なゲマィンシャフト関係﹂であり︑固定した組

織と行政をほとんど完全に欠いているのが特色的である︒本来の意味におけるカリスマは組織することができず︑そ

れは﹁日常﹂へのあらゆる適合をしりぞける︒一切は現実の苦悩あるいは法悦から︑個人的霊感︑恩寵︑啓示︑使命

︵1︶

﹁合理主義以前の時代では︑伝統とカリスマとは︑行為の志向方向全体をほとんど余すところなく両分する︒﹂この

ようにヴェーバーによれば︑カリマスと伝統は︑支配正当化の二つの主要な前合理的形態として現われる︒そもそも

支配とは︑ゲマインジャフ卜行為︵I社会的行為︶の最も重要な要素の一つであるが︑その社会的行為は︑あらゆる

行為と同様に︑次の四つのうちのいずれかによって規定される︒すなわち︑㈲目的合理的画急①︒言胃さご巴︑口価値

︵2︶

合理的急関口豊︒ご巴︑同情的四顛禺冒呈︑とくに激情的①日gざ冒巳︑㈲伝統的月旦三○国巴︑である︒すぐ後

に述べるように︑カリスマ的支配は激情的な支配の関係であるから︑この目と㈲は非合理的な支配関係の形容として ︵1︶折原浩三ツクス・ウェーバーにおける︿没意味化﹀の概念﹂︵﹃危機における人間と学問﹄未来社︑一九六九︑所収︶四一︵2︶同右︑四○八頁︒︵3︶大塚久雄﹁マックス

点は原文︑以下同じ︒

︵4︶シゥ目白○尋印画︾負負

︵5︶罰田口彦四H・国①ご呂〆︾・

−﹄︵中央公論社︑昭

︵6︶シご目白○尋印画ゞ員負 二頁︒

負○・・の.届﹈.

︼三一異弓さミゞ﹄苫

昭四一︶三六○頁︒

負○.︾の.届崇

︒ヴェーバーのアジア社会観﹂︵﹃大塚久雄著作集﹄第七巻︑岩波書店︑一九六九︑所収︶一八二頁︒傍

一一一 雪詩冨胃ミミ︑ミミミ夢Fopgpろ9.口謡騨折原浩訳﹃マックス・ゥエーバ

︵3︶

フト関係﹂であり︑固定した組

マは組織することができず︑そ

個人的霊感︑恩寵︑啓示︑使命

(6)

2感から起こる︒

カリスマ的支配と伝統的支配には︑支配者と被支配者間の関係が全く人格的罵H3p言嵌である点で共通性があ

る︒これはカリスマ的あるいは伝統的に正当化された人物ではなくて︑合理的な制定規則が支配している近代の法治

国家における支配行使の非人格性・没主観性と対照をなすものである︒他面︑カリスマ的支配は︑非日常的で︑伝統

に拘束されず︑また︑規則とはおよそ無縁であるという意味あいにおいて︑合法的支配からと同じく伝統的支配から

︵4︶

も区別される︒ただし︑カリスマ的支配が純粋に現われるのは初発の状態においてのみであり︑それが発展して持続

的な支配構成体になるやいなやそれは必然的に﹁日常化﹂し制度化する︒

伝統的支配は︑ヴェーーハーによれば︑総ての前合理的支配形態のなかでもっとも重要な類型であり︑真正のカリス

マ的支配と近代国家の合法的支配を除けば︑歴史に登場する一切の政治構成体をおおうものである︒その理念的基礎

は神聖化された伝統︑﹁良き古き﹂法︑きわめて古い習慣︑これらの正当化する力への信仰である︒近代の立憲・法

治国家におけるように合理的に制定された規則に従うのではなくて︑ヘルの全く個人的な︑伝統により正当化された

権威に従属するのである︒伝統的支配の類型にはさまざまな権威関係が包摂されるが︑その場合特色的なのは︑すで

に述べたように︑支配関係が圧倒的に人的に色づけられている点である︒

伝統的支配関係のもとで行政組織が形成されるところでは︑それは﹁家産制﹂型になるか﹁封建制﹂型に傾くかの

どちらかになりうる︒家産制的形態は支配者が自己の行政・軍事装置と自己の支配手段を広汎に意のままにできるこ

と︑つまり権力行使の一定度の集中化が存在することによって特徴づけられる︒これに対して封建制的形態において

は権力行使は分散され︑行政幹部が支配手段と支配権を全部ないし部分的に自己の意のままにする︒家産制的装置は

何よりもまず個人的な従属者から構成されており︑これに反して封建的﹁行政﹂は︑契約により支配に関与する社会

︵5︶

的に同等の人々により担われる︒

(7)

23

家産制的支配が厳格に実行されているところでは︑官吏のその職務における固有の権限が存在せず︑物的行政手段

は支配者のためにかれ自身の官営において経営される︒支配者は物的所有物を扱うがごとく支配権一般を意のままに

︵6︶

扱う︒支配権はそれゆえ売却し︑抵当にいれ︑分割相続することが可能である︒

総ての伝統的支配に特有なことは︑支配手段と支配権の専有をめぐるヘル縁とかれの官僚の間の闘争である︒この関

連で官吏の家産制的補充と家産制外的補充というヴェー︒ハーの区別が重要な意味をもつ・家産制的補充の場合︑大臣

およびその他のスタッフはヘルと親戚関係にある人々︑あるいはヘルの土地領主的ないし体僕領主的権力に直接服属

している人々から引出される︒ヘルがかれのスタッフを家産制外的に︑すなわち自由民︑貴族︑僧侶層から補充せね

ばならない場合には︑ヘルはかれらがかれに対する人的従属関係にあるようとくに配慮する︒なぜなら︑官吏を自由

︵7︶

な︑ないし社会的に卓越した人々から補充することは︑ヘルの行政装置に対する処置権を弱めるのが常だからである︒

家産制的行政組織には︑近代国家の合理的行政組織に比較して︑行政の合理性と正確さの決定的条件︑すなわち私

的な領域と官職的な領域︑私的財産と公的財産のはっきりした分離が欠けている︒近代の官僚行政に固有の諸原理︑

つまり厳格に規制された権限︑職階制︑審級順序︑昇進︑貨幣袷が欠けているか不完全に実行されているかである︒

同じことは家産官僚の専門教育と専門的特殊化についてもあてはまる︒

国家観の相違に応じて︑家産官僚と近代の官吏の精神も異なる︒人的従属関係に基づく家産制的官職には︑国制と

法律によりもっぱら規定され限界づけられる任務という思想が欠けている︒家産官僚の職務忠誠は抽象的規範︑非人

格的国家目的︑没主観的な行政規則への義務ではなくて︑ヘルに関連する厳格に人的なしもべの忠誠である︒﹁客観

︵8︶

的定律や︑官僚制的国家生活に見られる︒非人格的な目的を志向する没主観性は存在しない︒﹂

合理性と没主観性の不足は︑伝統的家産制的支配体制の法観念と司法にとっても特徴的である︒法とか行政上の原

則をあらたに意図的につくりだすことは厳格に伝統的に束縛された支配行使のもとではまず不可能と同じことである︒

(8)

24

完全に発達した封建制は︑精神と心情において︑本質的に家産制から区別される︒封主と封臣は自由な契約関係の

うちにある︒封臣は家産君主の個人的なしもくとは違って︑独立の︑社会的に有力な人々であり︑かれらは随意には

取上げられないレーエンヘの固有権をもっている︒﹁封建制は︑行為の構成的動機として︑﹃名誉﹄と︑自発的に捧げ

︵岨︶

られかつ守られる人的な﹃誠実﹄とに訴えるものである︒﹂封主と封臣間の忠誠関係は騎士教育の中心となる名誉と義

務の法典によって規定されている︒身分的品位感情︑﹁個人的なもの﹂への特殊封建制的崇拝は︑ヴェー?ハーにとっ

ては︑ブルジョワ生活の非人格的没主観性︑冷静な合目的性と対立するものである︒職業的な営利仕事と没主観的I

︵u︶

事務的な諸関係は︑あらゆる封建的倫理にとって︑﹁すぐれて品位なきもの・下賤なるもの﹂とみなされた︒

それでは支配体制としてのレーエン封建制は︑合理的制定規則︑合理的官僚制︑一切の支配権と支配手段の集中を

もつ近代のアンジュタルト国家に対してどういう関係にたつのだろうか︒なるほど双方の契約と誠実関係による支配

︵皿︶

関係の固定化はレーエン制に︑家産制の﹁盗意的﹂な形態と比較して︑相対的に﹁法治国﹂的性格を与えた︒しかし 法は合理的に制定されるのではなく︑発見される︒事実上の新創造は︑良き古き法の再来︑あるいは一般的な伝統的法意識の展開として自らを正当化しうる︒伝統的規範の外では︑しかし︑家産制裁判は自由裁量により衡平・合目的性・政治の見地に従って行なわれ︑欠欽のない法典の形式合理的規範に従って行なわれるのではない︒それは人物を顧慮して裁くのであり︑﹁カーディ裁判﹂がその理念型である︒司法と行政はしばしば区別されておらず︑家産君主

︵9︶

の行政官吏は同時に裁判官であり︑君主自身が﹁勅裁裁判﹂の名で窓意的に裁判に関与したりする︒主体的権利︵特

権︶と公の権利︑公法と私法の明確な分離が欠けているのである︒

とくにヨーロッパ史との関連で重要な意味をもつ伝統的支配をヴェー︒ハーは封建制のうちにみている︒封建制の一

般的メルクマールは権力行使の分権化された形式である︒支配手段と支配権の重要な部分が地方の権力の担い手の掌

中にある︒

(9)

25

近代の法治国家が客観的な︑国家アンシュタルトにより制定された︑一般的に妥当する規範の基礎の上に基づいてい

たのに対して︑封建的団体の﹁国制﹂は︑個々人の既得権の寄せ集めであり︑さまざまな内容をもつ主体的権利の合

計にすぎなかった︒個々人の主体的権利と客観的国法︑公法と私法間の明確な区別が欠けていた︒さらに近代の事情

︵皿︶

と対立して︑人と職業︑私的財産と官職経営手段とのはっきりした分離が存在しなかった︒封建制は︑それが理念型

︵皿︶

的に純粋に刻印されているところでは︑家産制支配と同様に︑一切の支配権を﹁私的な経済的チャンスの専有﹂とし

て取扱ったのである︒

︵1︶三mx三g①円.﹃覇忍闇胃員︾瞳蕎QQQ馬雰暮ミ零︵以下ミミ︒と略記︶︾陣屋g①目扁隠言︾尻竺冒・国の邑言ご窪ゞの.﹄缶↑

浜島朗訳﹃権力と支配﹄︵有斐閣︑昭四二︶四四頁︒

︵2︶毫冨︒︾の.弓.阿閉吉男・内藤莞爾訳﹃社会学の基礎概念﹄︵角川文庫︑昭二八︶三八九頁︒

︵3︶弓冨⑦ゞの.届P﹃権力と支配﹄四一頁︒

︵4︶駒言苫暑.﹃権力と支配﹄四二頁︒

︵5︶堀米庸三弓ツクス・ウェーバーにおける前近代的支配I封建制と家産制l﹂︵安藤英治・内田芳明・住谷一彦編﹃マッ

クス・ヴェーバーの思想像﹄新泉社︑一九六九︑所収︶参照︒

︵6︶弓冨の.の﹄己.﹃権力と支配﹄二六頁︒

︵7︶弓冨⑦ゞの当雪.世良晃志郎訳﹃支配の社会学﹄I︵創文社︑昭三五︶一九一二頁︒

︵8︶三宮︒︾の.認い﹃支配の社会学﹄I︑二○頁︒

︵9︶弓冨⑦.の.缶瞬小野木常編訳﹃法社会学﹄︵日本評論社︑昭三四︶三一八頁︒

︵Ⅷ︶弓冨︒︑の.認・世良晃志郎訳﹃支配の社会学﹄Ⅱ︵創文社︑昭三七︶三八七頁︒

︵Ⅱ︶弓冨︒︾の.紹式﹃支配の社会学﹄Ⅱ︑三八八頁︒

︵旭︶弓震の︾切紹﹄.﹃支配の社会学﹄Ⅱ︑三七六頁︒

︵昭︶ミミ⑦ゞの&弓.﹃支配の社会学﹄Ⅱ︑三三六頁︒

︵M︶ミミ︒︾の﹄計.﹃権力と支配﹄三二頁︒

(10)

26

前節でわれわれは前近代的支配についてのヴェー¥ハー理論をみたのだが︑その際近代国家における合法的支配との

対比を必要と思われる限り試みてきた︒本節でも同じく主としてヴェー︒ハーの﹁支配の社会学﹂によりながらかれの

近代国家観を探っていきたいと思う︒

さて︑合理的支配としての近代国家はヴェー々ハーによれば次の諸点により特色づけられる︒

口正当な権力使用の独占化︒

同合理的I官僚制的行政組織︒

︵1︶

㈲﹁合理的規則﹂すなわち法と国制による支配行使の正当化︒

伝統的支配から近代国家の合理的支配への移行は︑ヴェー︒ハーにとっては︑まず支配正当化の﹁没主観化﹂のうち

に表現される︒前合理的支配において支配行使を正当化していたカリスマ的啓示︑神聖なものとされている伝統︑良

き古き法︑個人的な支配者の意志の代りに︑近代の合理的国家においては﹁没主観的Ⅱ非人格的﹂法が登場する︒近

代の支配行使は︑総ての国民に対する拘束力を要求し︑国家機関の活動をも拘束する制定された合理的規則の体系に︑︑︑︑︑︵2︶訴える︒合理的支配は﹁制定規則による合法的支配﹂だとヴェー︒ハーはいう︒

ここでヴエー・ハーの﹁法社会学﹂に一瞥を与えなければならないが︑そこで問題なのは近代立憲国家における合理

的正当性信念と密接に関連する法の合理化ということである︒すなわち︑カリスマ的法啓示︑伝統的法発見︑非形式

︵3︶

的非合理的カーディ裁判から︑専門教育をうけた法律家が体系的に法を定立し︑専門的に裁判を行なう段階への発展

に注目しなければならない︒さきにも触れたように伝統的支配下での法観念には法規範を合理的規準により意図的に さて︑合理的支配と︲日支配手段の独占化︒

(11)

27

アンシュタルトとしての国家の名実ともの完成は︑客観的な法秩序と主体的権利︑公法と私法の明確な区別をも可

能にした︒この分離は︑われわれがすでにみたように︑前合理的支配構造の本質にはまだ無縁のものであった︒行政

と司法の分離も完成し︑立憲国家に特徴的な国家権力の質的分業的機能分化が行なわれた︒

合理的国制と合理的形式的実定法による支配行使の正当化と制限は︑近代国家の本質的指標である︒他の指標をヴ

ェー・ハーは閉鎖的な支配領域内での合理的に整序された国家アンシュタルトによる正当的権力行使の独占化のうちに つくりうるという思想が欠けていた︒﹁伝統的規範に反する新たな法を作ることは︑原理的には不可能と考えられている︒しかし︑新法の制定は︑実際上は︑ある命題を﹃昔から妥当しているもの﹄として﹃認識する﹄という方法に

︵4︶

よっておこなわれる︒﹂これに対して近代の合理的法は実定法である︒それが妥当するのはそれが﹁古くかつ良い﹂か

らではなくて︑その職に任ぜられた国家機関がそれを制定したからである︒

合理化過程の行着くところは一切の法規範の﹁国家化﹂︑すなわち法創造と司法の国家による独占化である︒近代

国家は﹁主権﹂国家として一切の実定法の源泉である︒

国家による︑しかも国家のみによる︑国家的﹁強制装置﹂の支援でもっての法規範の保障と︑いざ必要な場合には

強制装置が発動して規範を強制しうる可能性は近代法の本質に属する︒﹁今日では実力による法強制は︑国家アンシ

︵5︶

1タルトの独占するところである︒﹂とくに近代の資本主義経済は国家による法強制の独占化と規制を助成した︒とい

うのは市民階層は非合理的な行政盗意や︑具体的特権による非合理的な妨害を蒙らない︑なかんづく契約による法的

拘束を確実に保障する︑一義的で明確な法︑そしてこれらすべての性質の結果︑﹁計算可能に﹂機能する法を要求せ

みる︒ ︵6︶

ざるをえないからである︒

正当的権力行使のこの独占化の本質的前提は支配・行政手段の独占化︑すなわち支配行使の財政的行政的軍事的基

(12)

28

礎がはじめは絶対主義君主の︑ついで近代のアンジュタルト国家とその政治指導者の手中に集中することである︒近

代国家の発展は︑絶対主義君主が自らの軍隊︑自らの行政装置と財政源を創りだし︑その際かれと並び立つ地方の支

︵万I︶配手段と支配権の所有者からそれらを収奪することを通じて進行した︒

近代国家の発展史はヴェーバーにとっては近代官僚制と合理的官僚制的行政の歴史と密接に結びついている︒官僚

︵︽U︶制は﹁近代西欧国家の萠芽﹂である︒産業的﹁合理的﹂資本主義の成立が経済の近代化を見定める一義的な尺度であ

るのと同様に︑行政の合理化は支配の近代化を見定める尺度をなす︒﹁合理的﹂支配と﹁官僚制的﹂支配をヴェー︒ハ

ーはそれゆえしばしば同義の概念として使う︒今日の国家においては支配はなかんづく行政としてあらわれる︒行政

活動は近代国家の日常の顔であり︑行政官僚制の姿で近代国家は公民に向かい合う︒

以上われわれはヴェー・ハーの近代国家観を前近代的支配との対比において︑合法的支配の典型として描いてきた︒︑︑b︑︑bbb︑﹄︑﹄U︵nコ︶かかる合法的支配の中核を構成するのが官僚制的支配であり︑﹁没主観的な官職義務にもとづく職業労働﹂として遂

行されるものである︒このようにわれわれは政治意志の執行過程I行政のあり方に着目しながら支配現象を眺め︑最

後にはその論脈で近代国家において行政過程の重要性が増大する必然性の指摘に及んだ︒逆にいえば︑以上の叙述は

︵︑︶

とくに行政過程に視点をおいて近代国家を前近代的支配から描きわけたものである︒それでは政治現象の他の側面︑

つまり政治意志の統合過程はヴェーゞハーの論理ではどのような様相を示すであろうか︒この点を見落してはヴェー︒ハ

ーの近代国家観は十分に描かれないであろう︒これに答えることが次節の課題である︒

︵1︶シゥ国目5尋︑画.

︵ワ白︶ご﹇画×ごく①ワの屋

匂⑤寄負︑電匂︑︑琴︑︑

︵3︶﹃﹃富⑦︾の.①一切 国.負.○・ゞの﹄路一国・︾国①且寅.§.⑤鳶・ゞ口全蝕邦訳︑三八八頁︒豆の号凰尉の旨9月望月目号埼﹈侭三日①ご園の目印o富津.旨皿Q︑のミミミ津︑﹄ミ葛討︑壁︑弓房の§︲︵以下⑦垂蜘弓倫と略記︶℃いシ己﹈・ゞ弓菩旨帰国乞霊︾皿合切﹃支配の社会学﹄I︑三三頁︒﹃法社会学﹄三六八九頁︒

(13)

29

﹁封建制は一つの﹃権力分割﹄を意味している︒但し︑それは︑モンテスキューの権力分割とはちがって︑ヘル権

︵1︶

力の分業的・質的な分割ではなく︑単に量的な分割である︒﹂封建制の一般的メルクマールが権力行使の分権化された

形式であるという時︑この﹁権力分割﹂は︑近代的立憲主義の意味での﹁分業的・質的な分割﹂︑つまり統一的に考

えられた国家権力の︑立法・行政・司法の職能にしたがった分割ではなくて︑土地と人民に応じた支配権の﹁量的な

分割﹂にすぎないのである︒このように前近代的支配においては立法・行政・司法の三権は未分化のままであって︑

政治意志の統合過程I立法部門が独立した機能を演じはじめるのは近代国家においてであるといわなければならな

い︒そしてこの部門を構成する主要な要素は︑近代国家においては議会と政党に他ならないのである︒

すでにみたように近代国家における支配はなかんづく行政としてあらわれ︑行政官僚制の形で近代国家は公民と向 ︵4︶︵塞醐ミド.の.亀P﹃支配の社会学﹄I︑三九四○頁︒︵5︶弓富⑦ゞの.圏切﹃法社会学﹄八頁︒︵6︶雪冨⑦.の切窒少臼の.s吟震・﹃法社会学﹄二八○︑三一二︑三一二︑三七○頁︒ぐ巴..ミミ⑦ゞのの.忠P①密.︵7︶ぐ巴・ゞ因o言算宍の言.圃昌の①ロの里の号埼冒①匡雷︑︒言ご国胃o貢胃席宮口1号の詞の︒茸のの冨四誌﹀旨皿ロミ︑ミミミ号︑

誉蔦愚︒ミ尋︑痔里冒ご霊↑の.望齢

︵8︶ぎぎ︒︾の﹄霞.﹃権力と支配﹄一四頁︒

︵9︶Q煙いミドゞい合・﹃支配の社会学﹄I︑三三頁︒

︵Ⅷ︶なぜこうなるかといえば︑それはわれわれがヴェーバーの﹁支配の社会学﹂によりながら叙述を進めたからである︒次のよ

うなヴェーバーの言葉を参照︒﹁ここで﹃支配﹄がわれわれの関心をひくのは︑まず第一には︑それが﹃行政﹄と結びつい

ている限りにおいてである︒いかなる支配も行政として現われ︑行政として機能する︒﹂︵弓宮⑦ゞの.$式﹃支配の社会学﹄I

一六頁︒︶なお︑次節では﹁支配の社会学﹂を離れ︑かれの﹁国家社会学﹂に関心が移る︒

(14)

30

それでは強力な議会︑おしゃべりするだけを能とするのではなくて仕事をする議会の近代国家における職能は何で

あるのか︒それはまず︑近代国家において間断なく重要性を増す国家官僚制をコントロールする機関であるべきであ

︵4︶

る︒﹁官僚層をコントロールすることが︑議会のなすべき第一の根本的な任務﹂である︒

ヴェー?ハーにとって第二の問題は官僚制組織に活動の目標を与えうる強力な政治指導者の選出をいかにするかであ

るが︑この指導者選出の機能もまずは議会に託されている︒それは議会が次のような原則を実行する場合に果される

ことである︒﹁すなわち︑行政指導者がまさしく議会の内部から選び出されねばならないという原則︵本来の意味で

の﹃議会主義的制度﹄︶︑もしくは︑行政指導者がその職に留まるためには︑議会多数派の明白に宣言された信任の必︑︑︑︑︑︑︑要︑ないしは少なくとも不信任の回避の必要という原則︵指導者の議会主義的選択︶︑それ故︑行政指導者は議会ま︑b︑︑︑︑︑たは議会の委員会の再審査の下に詳細に答弁するという原則︵指導者の議会主義的責任︶︑そして彼は議会に承認さ︑︑︑︑︑︑︑︑︑b︑

︵5︶

れた方針に従って行政の指導を行なわねばならぬという原則︵議会主義的な行政の統制︶︑がこれである︒﹂

ヴェー・ハーは右の文章に続けて次のように書いている︒﹁このような原則が実行された場合には︑議会においてそ ︵ワ︼︶関である︒ かい合う︒ところで被支配者層のうちで少なくとも社会的重要度の高いものからある最小限の内面的同意を得ることが︑あらゆる支配が存続するための前提条件だとすれば︑近代国家においてこの最小限の同意を外的に表明する手段が議会なのである︒つまり︑近代の議会は︑なによりもまず官僚制という手段によって支配されている人々の代表機である︒ とはいえ︑この点が明確に貫徹されるのは︑議会権力が確立されている限りにおいてである︒なんとなれば︑議会の水準の高低を決めるものは︑大きな問題が議会で議論されるのみならず︑権威をもって決定されるかどうかにかか

︵3︶

っており︑ひょっとすると議会は︑支配する官僚層がいやいや認めている可決機関にすぎなくなるおそれがあるから

(15)

31

︵6︶

のときどきの決定権を握っている政党の指導者が︑国家権力の積極的な共同の担い手となるのは必然である﹂と︒そ

こでわれわれも次にヴェーバーの﹁政党社会学﹂に眼を転じよう︒

ヴェーバーによれば政党は今日︑官僚機構に支配される人々︑すなわち﹁公民﹂のあらゆる政治的意志のもっとも

重要な担い手たる役割を演じるものである︒にもかかわらず政党とは法律上あるいは契約上︑はっきりと限界を画さ

れている団体とは違って︑党員の自由意志によって創立された本来的に自発的な集団である︒そして政党の目標とす

︵7︶

ろところは︑政治的地位へ︑あるいはなにかの決議機関へ進出するために︑つねに投票を獲得することである︒

このように政党はその成員の自由意志性︑その任意主義的性格によって︑そこに生れて来たすべてに対してその秩

序を強制する国家からは本質的に区別されるものである︒しかし他面では政党も︑国家の支配組織と同様に︑官僚制

化という一般的傾向を免れることができない︒政党の官僚制化をヴェー︑ハーは︑ゆるく結合されア︒ハラートを欠いた

﹁名望家政党﹂から官僚制的に組織された﹁大衆政党﹂ないし﹁政党マシーン﹂への発展として理解する︒

︵○ひ︶﹁名望家仲間の支配というこの牧歌的状態﹂に終りを告げたのは︑最初アメリカでアンドルー・ジャクソン大統領

の下で作られた多かれ少なかれ厳格に組織された政党マシーンだった︒前世紀の七○年代以降チェン・ハレンとグラッ

ドストーンの下で発達した﹁コーカス・システム﹂がイギリスの政党の構造変化に対して似たような結果をもたらし

た︒ョ−ロッパ大陸では最初社会主義政党が官僚制的政党組織に移行し︑一方ブルジョワ的自由主義政党は伝統的な

名望家制度を保守し︑このことはそれの大衆への影響力を大いに傷つけたのだった︒﹁部分的にはドイツにおいても

地方的な名望家行政の組織を固守している政党がいまもなお存在しているが︑これは政党のあり方という点では没落

︵9︶

を宣告された状態なのである︒﹂近代国家と同じく政党もまた官僚制化の道を進まねばならず︑政党の力は党官僚の資

質に依存することになる︒なぜなら︑﹁あらゆる組織の中で実質的な仕事をしているものは︑あらゆる種類の有給職も︑︑︑︑︑︑︑員﹂であり︑﹁大衆団体の管理においては︑専門教育を受けた常勤の官僚層がつねに機構の中核を形成すること︑そ

(16)

32

︵︑︶してこの官僚層の﹃規律﹄が成果を生み出す絶対的な前提条件をなしている﹂からである︒

こういう官僚制化された政党組織を生み出したのは﹁民主制︑普通選挙権︑大衆獲得と大衆組織の必要︑指導にお

︵u︶

ける最高度の統一性ときわめて厳しい規律の発達﹂である︒選挙権の拡大と選挙人大衆の増大は政党徴募活動と選挙

戦の強化へと導き︑これらの要求に対しては規律あり教育あるアパラートをもった政党のみが適合しうるのである︒

それではこのような政党組織の変貌は何を意味するのか︒一つは巨大化した政党内部での寡頭制的傾向の登場︑つ

まりカリスマ的な政党指導者の拾頭がこれであり︑他は議会の構造変化へのはねかえりである︒代表制的議会民主制

から︑議会の比重の相対的低下を意味する政党国家への転換がこれである︒

以上われわれは近代国家における議会と政党についてのヴェー・ハーの論述をたどり︑これまで述べてきたヴェー︒ハ

ーの近代国家観を別の視角から補おうと努めてきた︒かくしていまやわれわれはヴェー◆ハーの近代国家観を総合的に

批評できる地点にまで到達したように思う︒

︵1︶三ざ︒︑の雪・﹃支配の社会学﹄Ⅱ︑三三四頁︒

︵2︶冨四〆雪①ず関ゞ弔四己四目の昌巨目Q宛①巴①儲宮口m員自国①厚い①貝・国風の邑己の匡厨o三色ロg旨亜Q鴎S旨ミ︑弾︑︑︒毎忌め︒琴①の︒香︑黛瀞苫

︵以下⑦もめと略記︶︾いシ巨建・ゞ弓菩旨鴨ご乞認ゞのと弓.中村貞二・山田高生訳﹁新秩序ドイツの議会と政府﹂︵﹃ウェー

バー政治・社会論集﹄河出書房︑昭四○︑所収︶三三五頁︒

︵3︶︒︑のゞいぎP中村・山田訳︑三一九頁︒

︵4︶○℃の︾切詮P中村・山田訳︑三四六頁︒

︵5︶︒︑の.の.宙P中村・山田訳︑三三六頁︒

︵6︶国富言昔.中村・山田訳︑三三六頁︒

︵7︶︒︑の.の.望い中村・山田訳︑三二二頁︒

︵8︶三四浅雪9日︸勺○寒涛四万国胃昌.言Qものゞ切紹P脇圭平訳﹁職業としての政治﹂︵永井陽之助編﹃政治的人間﹄平凡

(17)

33

近代国家を合法的支配の典型としてとらえるとき︑そこにおける法とは︑とりわけ近代法とは一体どういう性格の

ものなのだろうか︒ヴェー︒ハーの﹁法社会学﹂の末尾近くに︑次のような言葉が書きつけられている︒

﹁⁝⁝現におこなわれる法を︑合理的な︑したがって︑いつでも合目的的に改造できる技術的な装置であって内容

︵利且︶上の神聖というようなものは少しもないのだという見方がしだいに強くなることが法の避けがたい運命である︒﹂

近代法とはヴェー↓ハーにとって社会的政治的利害闘争の平和的解決のための技術的な道具を意味した︒﹁法は︑そ

の規定の大部分において︑しかも︑まさに︑原理的にとくに重要な多くの規定において︑利害の妥協の所産であり技

︵2︶

術的手段であるということを今日ではあまりにも如実に理解しうることである︒﹂このことは﹁運命的に﹂︑つまりざ

し当りは非可逆的な仕方でそうなのである︒近代国家の合理的正当性というヴェー◆ハーの概念は︑このような近代の

法観念に照らしてはじめてその問題性を明らかにするであろう︒

同じようなことは近代国家の立法過程についても指摘しうるであろう︒ヴェー?ハーによれば政治とは﹁利害関係者

︵3︶

の経営﹂である︒そして政党とは自由な徴募活動を本質とする利害関係者の組織である︒こういう組織が肥大化し国

家内に聲立して互に権力闘争を演じる︒しかもこれらの議会や政党を維持することはヴェー・ハーによれば政治の合理

性を保持するために必要なことである︒﹁新秩序ドイツの議会と政府﹂のなかでヴェー︒ハーは次のように断言してい 社︑昭四三︑所収︶二八三頁︒

︵9︶︒︑の.の.望刃中村・山田訳︑三二六頁︒

︵肋︶固言曽替.中村・山田訳︑三二六頁︒

︵皿︶⑦ものゞの.認P﹃政治的人間﹄二八三頁︒

一ハ

(18)

34

﹁指導者選択の今日のごとき条件のもとにおいてこそ︑強力な議会と責任ある議会政党︑いいかえれば国政担当者

︵4︶

たるべき大衆指導者の選択と実力証明の場としての︑議会と政党の機能は︑安定した政治の根本条件である︒﹂

安藤英治氏はヴェー・ハーの学問を主体的に支えていた動機を探求し︑﹁近代化の要請﹂と﹁マス化の批判﹂という

︵5︶

ものがそれであったと述べている︒こういう具合にヴェー・ハーの問題意識にまで掘下げて考えてみると︑これまでみ

てきたヴェー︒ハーの研究が近代化の要請I伝統主義批判という動機に裏づけられているのをよむことは比較的に容易

なことである︒しかし本節でみてきた近代法︑あるいは近代国家の立法過程についてのヴェー・ハーの理解の仕方から

は︑単に近代化の要請というだけではすまされない近代国家の問題性についてのヴェー¥ハーの鋭い感覚を感じさせる︒

ところで︑一番はじめに触れた近代Ⅱ名望家民主主義というシェーマはヴェー︑ハー固有の論理からはでてこない︒

︵6︶

なぜならヴェー・ハーによれば名望家支配は伝統主義的支配の特殊形態であって近代的なものではありえないからであ

る︒したがって近代Ⅱ名望家民主主義なるシェーマが一方でなりたつということは︑ヴェー・ハーの論理からすれば近

代国家に残る前近代的支配というにすぎず︑そこから予想される伝統主義批判と︑われわれがさきに示した近代国家

の問題性についてのヴェー零ハーの感覚とでは次元が違うと思われる︒

それではヴェー↓ハーが鋭敏にも感じとっていた近代国家の問題性とは何か︒まえに引用した折原氏のヴェー・ハー解

釈︑すなわち﹁合理化﹂過程が進むにつれてその背面で︿没意味化﹀が深化するダイナミズムが︑ここで想起される

かもしれない︒ヴェー?ハーの宗教社会学的研究企投の意味は︑かかる︿没意味化﹀にたいするく覚醒予言﹀にあると

いうのが折原氏の解釈だが︑同じことはヴェー︒ハーの﹁支配の社会学﹂にも﹁国家社会学﹂にもいえるのではないだ

ろうか︒というのはカール・レヴィットの次のような指摘がこの文脈で念頭に浮かぶからである︒

﹁ヴェー・ハーの意図からすると純粋に︿歴史的な﹀研究だとされた︑かの﹃宗教社会学﹄においてはまだそうでも プ︵︾○

(19)

35

︑b

ないが︑ひとたびわれわれが彼の政治論集︑とくにそのなかの論文﹃議会と政府﹄の第二章および︹これとは別の論

文集における︺一つの討論に目を転ずるとき︑あれほど彼にとって積極的意味をもっていた合理性が︑あたかもその

逆の意味をもっていたかのような感じをうける︒この二つの論文では︑官僚制化および国家化という政治形態におけ

︵7︶

る合理化に対して攻撃の矢がむけられている︒﹂

このように考えてくれば︑ヴェー︒ハーを単に近代合理主義の使徒ととらえるのではなくて︑かれは近代合理主義の

孕む問題性についても盲目ではなかったといわなければならないだろう︒それが﹁マス化﹂の問題とどう関連するか

は︑稿を改めて論じなければならない︒

6

ー へ

7

5 4 3 2 1

… ー … … …

弓謹︒︾の&認.﹃法社会学﹄三九○頁︒

雪塁︒︾餌窪騨﹃法社会学﹄三六三頁︒

⑦︑い謡.銘P望○中村︒山田訳︑三七六頁︑﹃政治的人間﹄二八○頁︒

⑦もの.切窓﹄中村・山田訳︑三七八頁︒

安藤英治﹁ヴェーバーにおける悪き冒巴童の目侭の概念一つの三○雪g言皿︒言侭I﹂︵大塚久雄編ごツクス・

ヴェーバー研究﹄東大出版会︑一九六五︑所収︶

三四深雪①冨笥︾Q2Qミミミご﹄尽酔ミ麺①壁︑記里碕︽§の8豐呈飼狩.国具炉画シニ.︑弓菩旨帰国己認.切目騨林武

訳﹁﹃世界宗教の経済倫理﹄序説﹂︵﹃ウェーバー宗教・社会論集﹄河出書房︑昭四三︑所収︶一五一頁︒

カール・レヴィット﹃ウェーバーとマルクス﹄柴田治三郎・脇圭平・安藤英治訳︵未来社︑一九六六︶六○頁︒

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