丹 波 国 山 国 ・ 黒 田 地 域 に お け る 鮎 漁 の 展 開
│一七世紀を中心として│Evolution of the Sweetfish Fishery in Tamba Province Yamaguni and Kuroda Area Mainly During the 17th Century西川広平
要 旨本稿は︑一六世紀後半から一七世紀にかけての鮎漁の展開をめぐる丹波国山国・黒田地域の名主層の動向を考察し︑中近世行期における土豪と村落・地域社会との関係や︑由緒の成立に関わる事例を明らかにする︒一七世紀後半︑中世以来の特権主張する名主=土豪層は︑地域社会における地位や特権を維持するため︑領主権力との関係を構築する際︑村落の枠組みに拠する一方︑村落の住人は︑名主の由緒を利用して代網という方法により︑特権的な生業であった鮎漁に参画する権利を得いた︒このように︑名主と村落との相互補完的な関係が形成されていたが︑名主層は由緒の再構成を通して︑天皇・朝廷と雇用・売買関係による鮎献上からの転換を図り︑地域社会における地位や特権の維持を推進した︒当該時期における鮎漁の況は︑一八世紀以降の禁裏御料化に伴う鮎献上の制度的形成の基盤として位置付けられる︒
キーワード中近世移行期︑山国荘︑鮎漁︑村落︑土豪
はじめに
近年︑中近世移行期における村落や地域社会の指導層であるとともに︑領主権力と村落・地域社会とを結び付け
る役割を担った土豪を対象とした研究が︑近世史の分野において進展を見せている︒すなわち︑鈴木直樹は︑近世
関東の村落における土豪から﹁土豪家﹂への変容過程を︑土豪が領主権力から与えられた屋敷地除地や分付関係と
いった土地特権の視点を中心に考察し ︶1
︵︑また小酒井大悟は︑融通等による地域振興の主体を担う存在として︑土豪
と他の百姓との差異性を認める一方︑惣百姓を中心とした近世村落の成立と土豪の地位の維持が併存することを指
摘している ︶2
︵︒
これらの研究は︑これまで専ら中世史の視点から研究の対象とされてきた中近世移行期における土豪の実態や活
動を︑近世史の視点からも考察することにより︑中近世移行期を中世史・近世史双方から一体的に捉える契機にな
ったという点において︑高く評価される一方︑村落および地域社会において形成された︑いわゆる﹁村の侍﹂と位
置付けられる地位を占めた身分集団としての土豪層が︑その身分と自家の経営を維持するために領主権力とどのよ
うな関係を構築・模索したのかという問題の多角的な解明が未だ不十分である︒また︑村落内外において土豪が果
たした役割とともに︑村落・地域社会が土豪に及ぼした影響に注目することで︑土豪と村落・地域社会との相互補
完的な関係性を明らかにする必要もあるだろう︒
こうした土豪と村落・地域社会との関係に係る課題について︑本稿は一七世紀を中心とした丹波国の山国・黒田
地域︵京都市右京区︶における鮎漁を対象に考察する︒当該地域は︑中世山国荘の本郷︵八か村︶と枝郷黒田村︵三
か村︶・小塩村から成り︑近世にはそれぞれ山国郷・黒田郷・小塩村と呼ばれた︒当該地域で営まれた鮎漁をめぐ
る相論について︑山崎圭は宝永二年︵一七〇五︶以降︑当該地域が禁裏御料とその他の私領に二分されたことによ
り︑これまで山国郷を中心に構成されていた鮎献上を負担する村々が︑山国・黒田両郷にまたがる御料七か村に変
化したこと︑また寛政期における鮎献上の﹁村の由緒﹂化の進展に対して︑中世以来の鮎献上の由緒を主張する名
主層が抵抗した結果︑名主による大堰川での特権的な御用鮎漁が広く承認されたことを明らかにするとともに︑鮎
献上の枠組みをめぐり︑御料と私領︑本郷と枝郷︑名主と小前層等との間で様々な対立・分裂が発生したことを指
摘し︑名主層の宮座への結集を強調した先行研究を批判した ︶3
︵︒
また吉岡拓は︑山国郷に居住した名主層が︑主に一八︑一九世紀に鮎漁の特権的地位︵網株︶を守ることを目的
に︑鮎を朝廷に献上するため網株を付与されたとする由緒を主張した経緯を考察した︒この中で吉岡は︑宝永二年
︵一七〇二︶の禁裏御料化を踏まえ御料七か村による朝廷への鮎献上が開始されるとともに︑その費用の村請化によ
って︑自らの特権的地位を脅かされた名主層が︑寛政四年︵一七九二︶の相論を期に京都代官所より鮎献上という
固有の役を担う﹁名主﹂身分を獲得したこと等を指摘し︑天皇・朝廷の権威化に言及した ︶4
︵︒
これらの先行研究により︑中世以来村落の運営や開発に携わった村落レベルの土豪と見做される名主 ︶5
︵の特権の側
面から︑当該地域の鮎漁の研究が進展した一方︑先行研究では一七世紀末︵元禄期︶以降︑特に一八︑一九世紀の
状況を主な考察対象としており︑一六世紀から一七世紀にかけての中近世移行期の状況の解明に至っていない︒
また︑鮎漁をめぐる相論について︑名主・非名主層間における対立の展開を中心に論じており︑相論における村
落や地域社会の関与︑並びに由緒の成立状況の側面から分析する視点が欠如している︒
そこで本稿では︑このような先行研究における課題を踏まえて︑一六世紀後半から一七世紀にかけての鮎漁の展
開をめぐる山国・黒田地域の名主層の動向を考察し︑中近世移行期における土豪と村落・地域社会との関係や︑由
緒の成立に関わる事例を明らかにしたい ︶6
︵︒
1一七世紀前半以前における鮎漁と名主職
山国・黒田地域から天皇・朝廷への鮎献上は︑天皇や禁裏の女官︵女房︶を中心とした﹁家の年中行事﹂の用途
として賦課された節供の公事物に含まれており︑女房によって記された﹃御湯殿上日記﹄には︑文明十五年︵一四
八三︶六月二十五日条から天正七年︵一五七九︶七月二十六日条までの間に鮎を中心とした魚類献上の事例が二十六
件を数え︑主に七︑八月の公事物として禁裏領であった山国荘の両奉行より納入されたことが記されている ︶7
︵︒
このように︑禁裏による山国・黒田地域からの鮎調達は︑一五世紀後半まで遡ることは確実である︒しかしなが
ら︑当該地域に一四〜一六世紀の年記を有する史料が多数現存している中で︑漁猟に関する史料は︑管見の限り一
通しか確認できない︒そこで︑まずは現地に伝来し︑中世の年記を有する唯一の事例である史料
1の分析から考察
を始める︒
︻史料
1︼ ︶8
︵
黒田川阿見之事︑我々か方より一そくの分︑其方ヘ出申処実正也︑於此儀︑何様之儀申物候共︑於此上者︑別
儀有間敷候︑為其一筆認候て申候て遣候︑仍状︑如件︑ 津々野 天文十七年七月廿日 兵庫︵略押︶ 同和田 左衛門二郎︵略押︶ 井ノ本 太郎二郎殿方へ まいる
史料
1は︑天文十七年︵一五四八︶七月二十日付で︑﹁津々野兵庫﹂と﹁同和田左衛門二郎﹂の両名が連署して︑
﹁黒田川阿見﹂︵川網︶の権利一束分を﹁井ノ本太郎二郎﹂に譲渡したことが記載されている︒差出人のうち﹁津々
野兵庫﹂は︑下黒田村の大堰川左岸に位置する鶴野垣内の住人であり︑国里名の名主であった鶴野兵庫を指すと考
えられており︑また﹁同和田左衛門二郎﹂も︑﹁同﹂という表記から鶴野家の同族と判断され︑下黒田の小字鶴野
に居住する和田家の人物に該当するとされる ︶9
︵︒一方︑宛所の﹁井ノ本太郎二郎﹂は︑下黒田村の大堰川右岸に位置
する塩野垣内の住人であり︑塩野中ついで井本を名字とし︑後には﹁左近﹂を称している ︶10
︵︒すなわち︑黒田村を流
れる大堰川における網漁の権利は︑名主であった鶴野家の同族集団が所持していたが︑史料
1により井本家に譲渡
されたのである︒
本史料の当事者である鶴野兵庫と井本太郎二郎︵左近︶は︑兵庫の娘さいまが太郎二郎の妻となり婚姻関係で結
ばれていたが︑享禄四年︵一五三一︶から天文十九年︵一五五〇︶にかけて︑井本太郎二郎・さいまは︑鶴野兵庫・
同兵衛二郎から︑彼らの所有する土地や名主職を売却・譲渡されており︑井本家による鶴野家の家産継承を確認で
きる ︶11
︵︒したがって︑この二年前に行われた史料
1に見える川網の権利譲渡も︑井本・鶴野両家間における家産継承
の一環であったと判断されよう︒
先述したように︑史料
1以外に︑一六世紀以前に遡る大堰川における網を使用した漁猟の権利に関する古文書を
確認することはできず︑この内容を特異な事例と判断する見解を完全には排除できない︒
しかしながら︑一六世紀当時に当該地域で鮎漁が行われ︑天皇・朝廷に献上していたことは︑先述のとおり史実
であり︑漁猟の権利そのものを否定することはできない︒したがって︑大堰川における網を使用した漁猟の権利
は︑本来名主の特権として名主職に付随して一体的に継承されていたが︑史料
1の事例は︑鶴野家の家産や所職が
細分化される過程で︑漁猟の権利が単独で証文化され︑井本家に譲渡されたと考えることが妥当であろう︒また︑
後述するように名主が天皇・朝廷に納入する鮎漁の権利を主張していることを踏まえると︑本事例も鮎漁を対象と
していたと考えられる︒
史料
1に続いて︑当該地域に伝来する漁猟関連の史料として確認できるのは︑次の史料
2である︒
︻史料
2︼ 12︶
︵
︵前欠︶ 一︑今ゟ後︑山国名主之外ハまへ〳〵の諸事にも□□ ︵間︶敷事︑ 右之式目背申者有之ハ︑末代網の立相仕間敷事︑仍如件︑
井戸村 江口︵外四名省略︶ 小塩村 とちう左近 大野村 彦大郎︵外十名省略︶ ひかへ村 ひかへ︵外七名省略︶ 塔村
﹇ ﹈︵外一名省略︶ 中江村 小畠︵外四名省略︶ 辻村 新大郎︵外四名省略︶ 鳥居村 鳥居︵外四名省略︶ 下村 よこた︵外五名省略︶ 元和九年六月九日
元和九年︵一六二三︶六月九日付で作成された史料
2は︑前段部分が欠損しており具体的な内容を把握すること
は困難であるが︑山国郷の名主層が︑仲間外の者への規制を定めるとともに︑﹁式目﹂に背いた者に対して末代ま
で網漁からの排除を取り決めた内容が記されている︒すなわち︑井戸・小塩・大野・比賀江・塔・中江・辻・鳥
居・下の九か村の名主四十八名が連署しており︑山国郷を構成する八か村︵以下﹁山国八か村﹂という︶および枝郷
小塩村の枠組みで名主層が結集していたことがわかる︒
このように︑一七世紀前半に網漁の特権を有していたのが名主層であったことを︑史料
2は如実に表しており︑
山国郷では庄屋・年寄という村役人とは別に︑名主層が鎮守山国五社明神︵山国神社︶の宮座組織に結集していた