韓国における近代仏教と近代詩の成立
―韓龍雲の『朝鮮仏教維新論』と「ニムの沈黙」を中心に―
上 別 府 正 信
*The Formation of Modern Buddhism and Modern Poetry in Korea: Focusing on Han Yong-un’s “The Reformation of Joseon
Buddhism” and “Nimui Chimmuk”
KAMIBEPPU Masanobu Han Yong-un is now known as a Buddhist reformer, an independence activist, and a poet in Korea. The age when Han Yong-un lived was the days when it was entering the modern age and when they suffered from losing their fatherland. Han Yong-un was the one who worked to save the people by the Buddhist reforms in this extremely complicated social situation and to express it in the form of poetry while thinking about the lost country. In the 1900s, when it came to the modern age, Han Yong-un energetically fulfi lled ideological and practical contributions to the modernization of Joseon Buddhism and worked on the independence movement of the fatherland, which had almost disappeared followed by the process of modernization. And after being imprisoned for completing a major role in the declaration of independence during the 3.1 Independence movement, he actively engaged in literary activities such as poetry, literature, and criticism. However, it is widely known that he is a person deeply involved in the declaration of independence and wrote “Nimui Chimmuk”, but few know who Han Yong-un is. This study outlines what activities Han Yong-un had conducted as a Buddhist reformer, an independence activist and a poet. Then, this study analyzes evaluations of Han Yong-un’s “The Reformation of Joseon Buddhism”
and “Nimui Chimmuk”, and reveals how Han Yong-un has been remembered as a Buddhist reformer, an independence activist (social reformer), and a poet in Korea.
キーワード:韓龍雲,萬海,『朝鮮仏教維新論』,「ニムの沈黙」,3.1 独立運動
Key Words: Han Yong-un, Manhae, “The Reformation of Joseon Buddhism (Joseon- bulgyo-yusimlon)”, “Lover’s Silence (Nimui Chimmuk)”, 3.1 Independence movement
* 中央大学政策文化総合研究所客員研究員
Visiting Research Fellow, The Institute of Policy and Cultural Studies, Chuo University
150 政策文化総合研究所年報 第 21 号
1.は じ め に
文学が社会的な状況を反映することは議論をするまでもない.それは,人間の思想,ま た人間の喜怒哀楽といった感情と無関係に存在することはできないからである.近代以前 には,近代以前の人々の営みが描かれており,近代以降には,近代の人々の営みが描かれ ている.そして,そこには近代以前より,より複雑な社会的な状況と個人の内面との相互 交渉が描かれている.
韓国(朝鮮)1)においては,その社会状況はより複雑なものとして経験されることになっ た.それは,国家―もっと明確に言えば近代国家(Nation State)―,近代という明 確な意識を構築する前に祖国を失ったという試練を経験することになったからである.
この極めて複雑な社会状況の中,仏教改革によって衆生を救おうと活動し,失った祖国 を想いつつ,それを詩にした僧侶がいた.その僧侶は,近代を迎えようとしていた 1900 年 代から精力的に朝鮮仏教の近代化に思想的・実践的な貢献を果たし,近代化の過程で命脈 が絶たれそうな祖国の独立運動にも力を尽した.そして,3.1 運動における独立宣言におい て大きな役割を果たしたことにより投獄された後に詩,文学,評論といった文学的な活動 を積極的に行った.
その人物こそ,萬
マ ン へ
海韓
ハン・ヨンウン
龍雲である.
韓龍雲は,現在の韓国では仏教改革者,独立運動家,詩人として知られている.しかし,
その中でも特に関心を持たれているのは「ニムの沈黙」2 )を書いた詩人としての姿である.
「ニムの沈黙」は韓国の教科書にも載っているため韓国人なら誰しもが知っている詩人であ る.学術研究においてもその詩,文学に関する研究が,宗教や歴史の研究を量的に圧倒し ている3 ).
しかし,「独立志士であり,詩人として有名な萬海(韓龍雲)の名前を知らない者はいな い.しかし,彼の人生を完全に知っているという人は珍しい」4)と言うように,独立宣言に 深く関わった人物,あの「ニムの沈黙」を書いた詩人ということは知っているものの韓龍 雲がどのような人物であったのかの詳細を理解している人は少ない.
ここでは,韓龍雲が,仏教改革者,独立運動家,詩人としてのどのような活動を行って きたのかを概観した後,韓龍雲の『朝鮮仏教維新論』と「ニムの沈黙」の評価を分析し,
韓龍雲が近代に仏教改革者,独立運動家(社会改革者),詩人として韓国にどのように記憶 されてきたのかを明らかにする.
2.韓龍雲のイメージ形成と拡散
2 1 萬海韓龍雲の生涯
韓龍雲の生涯については,若干の不明な点,年のずれなどがあるが,ここでは萬海記念 館の韓龍雲年譜に従って整理してみる5 ).
韓龍雲(1879.8.29 〜 1944.6.29)は,日本植民地時代に活躍した僧侶で,本貫は清チョンジュ州,本 名は貞
ジョンオク
玉,得度の時に奉
ボンワン琓に改名,幼名は裕
ユチョン
天.法名は龍
ヨンウン
雲,法号は萬
マ ン ヘ
海(卍海).1879 年 8 月 29 日,忠清南道洪城郡で,韓ハン・ウンジュン應俊と温オニャン陽出身の方パン氏の次男として生まれた.幼少期か ら漢学を学び儒学の素養を身につけた.1887 年( 9 歳)には『朞三百註』や『西廂記』を 読むことができ地元で神童として知られた存在であったという.1892 年(14 歳)の時に郷 里で当時の早婚風習に基づいて天
チョナン
安の全
チョン・ジョンスク
貞淑と結婚した.1904 年(26 歳)には長男韓
ハン・ボゴク
輔國 が生まれる(後に越北し 1977 年北朝鮮で死亡).1905 年(27 歳)の時には故郷を離れ(19 歳,25 歳説もある),江
カンウォンド
原道五
オ デ サ ン
臺山の月
ウォルジョンサ
精寺,雪
ソ ラ ク サ ン
嶽山にある白
ペ ク ダ ム サ
潭寺などを転々とし,白潭 寺の金キム・ヨンゴク連谷を師として 1 月 26 日に得度(出家)した.その後も,白潭寺の全チョン・ヨンジェ泳濟によって 受戒,李
イ・ハ ガ ム
鶴庵の下で修業した.1907 年( 29 歳)に江原道の乾
コ ン ボ ン サ
鳳寺にて最初の禅修行を受 ける.この頃,海外情勢を知るためにロシアのウラジオストクに行くが親日政治団体であ る一
イルジンフェ
陣会のスパイと疑われ死線を彷徨うことになった.1908 年( 30 歳)には,日本の下 関,宮島,京都,東京,日光などを視察し,東京曹洞宗大学(現駒沢大学)で浅田教授の 斡旋で仏教と西洋の哲学を受講する.この時に留学中だった後の独立運動家の崔
チェ・リン
麟と交友 し帰国した.1910 年には日韓併合がなされ,仏教界にも大きな変化が起こった.韓龍雲は 1911 年( 32 歳)に日本の曹洞宗と朝鮮仏教の日韓仏教同盟の締結(事実上の曹洞宗によ る朝鮮仏教の吸収)に反対を表明したことで,仏教改革の表舞台に登場する.同年 3 月に 順
スンチョン
天の松
ソングァンサ
廣寺に朝鮮臨済宗宗務院を設置して庶務部長,朝鮮臨済宗の館長に就任.5 月に は朝鮮臨済宗宗務院を東ト ン ネ萊の梵ポ モ サ魚寺に移転した.また,中国に行って 独立軍 の情勢を 視察するなどしていたが,日本のスパイと疑われ撃たれて帰国した.1913 年(35 歳)には
通ト ン ド サ度寺の仏教講師に就任,そして,朝鮮仏教の改革案を提示した『朝鮮仏教維新論』を発
表した.1914 年( 36 歳)には,『仏教大典』( 1914 年)を発行,朝鮮仏教会会長に就任す るなど仏教界の中心人物として活動していた.1917 年(39 歳)には,『精選講義 菜根譚』,
1918 年( 40 歳)には仏教雑誌『惟心』6 )を刊行と仏教の大衆化のために多くの著書を出版 した.また,この雑誌の刊行を媒体にして当代の最高の名士,知識人たちとの交流を拡大 し,宗教指導者としての枠を超えて民族運動の指導者として成長するようになった7 ). 1919 年( 41 歳)には 3.1 運動時の民族代表 33 人8 )の一人として,独立宣言9 )に署名し,
152 政策文化総合研究所年報 第 21 号 逮捕された.この時,懺悔文の提出,裁判において弁護人をつけることを拒否し収監生活 を送った.また収監時に検事からの審問への回答として「朝鮮獨立之書」を書きこれが外 部に出て,独立新聞 1919 年 11 月 4 日の記事「朝鮮独立に対する感想の概要」として報道 された.1920 年( 42 歳)の公判審問において韓龍雲は 独立は民族の自尊心 と表明し た.同年,結審して,3 年の刑を言い渡され服役した(後に減刑).1921 年( 43 歳)に仮 出所すると,著作活動をさらに精力的に行い,1925 年( 47 歳)の時に詩集「ニムの沈黙」
を脱稿,翌 1926 年( 48 歳)に出版して抵抗文学の先頭に立った.1931 年( 53 歳)には,
月刊誌『仏教』10 )を取得,仏教社の社長に就任し,さらに多くの論文・論説を発表するよ うになる.1933 年( 55 歳)には兪
ユ・スクウォン
淑元と再婚,1934 年( 56 歳)には娘英
ヨンスク
淑が生まれた.
この間も韓龍雲は雑誌『仏教』を中心に数多くの論説を発表し,また,文学も長編小説『黑 風』( 1935 年朝鮮日報),長編小説『後悔』( 1936 年朝鮮中央日報),長編小説『薄命』
( 1938 年 朝鮮日報)を新聞に連載するなどの活動を行っていた.1938 年( 60 歳)には,
青年仏教徒の抗日民族闘争を目的とした団体が起こした事件(卍党事件)の黒幕とされて 監視を受けることになる.その後は仏教・文学活動に専念する.
日本の植民地支配が終わる 1945 年を待たず,1944 年( 66 歳)5 月 9 日に尋
シ ム ジ ャ ン
牛莊で入寂,
忘
マ ン ウ リ
憂里に埋葬された.
1948 年には,萬海韓龍雲全集刊行委員会が結成されるが,1950 年 6 月 25 日に朝鮮戦争 が始まると中断され,ようやく,1960 年代から韓龍雲の研究書が出版されはじめた.1962 年 3 月 1 日に韓国政府は建国勲章大韓民国章(最高等級)を追叙された.1971 年には『萬 海韓龍雲全集』が刊行され,その後も,韓龍雲を研究するための学会が創設され,さらに は学術研究雑誌が発刊されるようになり,現在に至っている.
2 2 韓龍雲のイメージの形成と拡散 このような人生を送った韓龍雲について,趙
チョ・ジフン
芝薰は 1959 年には「革命家と禅僧と詩人の 一体化―これが韓龍雲先生の真骨頂であり,先生が持つこの 3 つの性格はまるで正三角 形と同じで,いずれも両者を底辺とした頂点を成し遂げたので,それらはそれぞれ独立し た面でも後世の典範となった」11 )と述べていることからも,早くから韓龍雲のイメージが 仏教改革者,独立運動家,詩人として確立していたことがわかる.
高
コ・ビョンチョル
炳哲によると,韓龍雲は仏教改革者,独立運動家,詩人として既に名声を得ていたが,
1960 年代前後には,韓龍雲は主に仏教革新論者としてのイメージで拡散されていたものが,
1970 年代になると韓龍雲の生涯は「禅僧,独立志士,詩人」の 3 つの側面から理解すべき と主張されるようになり,大衆に向けて韓龍雲のイメージが拡散していくのは 1970 年代以 降のことであるという.そして,これは当代一流の学者として知られていた白
ペク・ナクチョン
楽晴,安
アン・ビョンジク
秉直
などを擁した『創作と批評』が,1970 年代から韓龍雲の作品を紹介し,1973 年には萬海文 学賞を制定するなど文学界において詩人韓龍雲が大きな注目を浴びるきっかけを作ったこ とによるものであると指摘している12 ).
これは当時の朴正煕政権の民主化運動の弾圧の状況と無関係ではなく,文学界で韓龍雲 を「民族詩人」として説明していくことで,民主化運動の行動理論の中に組み込む試みと 理解することができる.そして,この試みが 1980 年代に拡散された民族文学論,1980 年 代の民主化運動の影響を受けた民衆仏教論,そして仏教の学問的な市民権の確保につなが っていくことになった.
金
キム・ジェホン
載弘も,1960 年代までを韓龍雲研究の形成期とし,1960 年代までは韓龍雲を記念する 無数の主体の実践が散発的に行われた.韓龍雲研究が本格化される時期は 1970 年代になっ てからだと述べている.また,1990 年代までの韓龍雲研究は文学研究が大半であり,民族 運動史ないし歴史分野が若干,そして仏教学の分野が最も少ないと思われると述べ,法寶 新聞( 1991.3.4 )によると文学研究が 90%,歴史分野が 7%,及び仏教学分野が 3%程度 であったと述べている13 ).
このような研究の偏在については,勿論,「ニムの沈黙」が大衆に大きく受け入れられ,
それに従って研究が拡大していったということが大きいと思われる.しかし,激動の時代 の仏教改革者,独立運動家としての活動とその影響力を考えるとこの偏在は簡単には理解 できない.なぜこのようなことになっているかについて明確な答えを提出することは難し いが,韓龍雲が仏教改革者,独立運動家ではあったが,帯
テ チ ョ ス ン
妻僧であったことがあるのでは ないかと考えられる.
朝鮮の伝統仏教は,帯
テ チ ョ ユ ク シ ク
妻肉食(肉食妻帯)は戒律で禁止であったが,日本の影響が強く なるにしたがって,帯妻僧が約 9 割になり,その帯妻僧が宗派の重要な立場を独占するこ とになった.大韓民国の成立後は朝鮮の伝統仏教の正統性を受け継ぐとする比
ビ ク
丘僧と帯妻 僧が,大統領を含む政治勢力を巻き込んで,法廷闘争と物理的な激しい闘争を 20 年以上に 渡り繰り返し,帯妻僧は非伝統的・親日的であるとされてこれを排除しようとする仏教浄 化運動が展開された.最終的には数的に圧倒的に少数となっていた比丘僧を中心に大韓仏 教曹渓宗(1962 年)が成立し,これが法的にも朝鮮仏教の正統を受け継ぐ団体であると規 定された.
韓龍雲は,『朝鮮仏教維新論』においても,妻帯の許可を求めていたし,事実,入寂する まで妻がいた帯妻僧であった.また,独立運動家ではあったが,日本に対して完全なる闘 争を行ったわけではなく,日本の支配という枠組みの中で正当な主張を行い,現実的な利 益を獲得しようとしていた.このため朝鮮(韓国)の近代において大きな貢献をし,仏教 改革者,独立運動家,詩人として知られていのにもかかわらず,仏教学,歴史学の分野に
154 政策文化総合研究所年報 第 21 号 おいては,韓国国内の社会状況において完全な肯定的な評価を下すことが難しいことが研 究の偏在につながっているのではないかと推察する14 ).
3.仏教改革者・韓龍雲の『朝鮮仏教維新論』
3 1 韓龍雲と朝鮮仏教を取り巻く状況
韓龍雲を社会運動,ひいては,独立運動の有力な人物として浮上させたのは,仏教改革 者として『朝鮮仏教維新論』を発表したことによることが大きい.
金キム・ガンシク光植は,「今までの萬海の民族思想は民族運動,民族主義的な次元で主に言及された.
しかし,萬海は基本的に僧侶であって,彼が活動した大部分の空間は寺刹であり仏教界だ った. そのため民族思想を論じようとする場合にはこのような仏教的な基盤,活動,路線 を見逃すことはできない」15 )と述べて,韓龍雲が僧侶であったという事実を強調している.
高橋亨の『李朝仏教』は,次のように記述している.
李朝時代の仏教徒は一世より清浄自戒の生活を送ることを厳重に要望せられしが故に,
一個僧侶の体面を保つものは妻帯して淫戒を犯すが如きは夢にも思わざりし所なり.
従前敍し来りし数十の李朝の名僧は他の点は兎に角,妻妾を蓄へざるの一点には聊の 疑義なき人々なり.実に当時にありては他に幾許項の美点長所を具備する僧侶なりと も,若し女人戒を犯さば社会は之を普通の標準に在る僧侶とは認めざりしなり.然る に李朝末年僧侶の戒行益々低下し,日本僧侶との接触及び日本僧侶界の実情の知らる るに従ひ,蓄妻に対する僧侶の持戒的価値観念に変化を生じ,又実に竊に蓄妻する僧 侶数漸加し,終に公然妻帯解禁を当路に向て請願する者あるに至れり.隆煕四年三月
(明治四十三年)僧界の新人百潭寺の韓龍雲是議を以て中枢院に建議し又統監府に建白 せり.その大意,僧尼の禁嫁娶は人口蓄殖を妨ぐ.僧尼嫁娶して一家を成し生産に勤 めて恒産ある人となれば仏教々勢を発展せしむるに大に有効なり.且つ仏教は円融無 碍教なれば人生の如何なる事も其が悪事ならざざる限禁あるべからず,但だ仏如来が 下根者の為に方便として禁嫁娶を説かれしのみなりと云うにあり.16 )
京城帝国大学教授とし朝鮮の習俗や宗教を調査していた高橋にも韓龍雲の名は注目する べき人物として認識され,その活動内容を正確に把握していたことになる.
仏教改革を求めた韓龍雲の『朝鮮仏教維新論』とはどのようなものであったのだろうか.
ここでは,当時の朝鮮仏教,朝鮮仏教を取り巻く状況,そして,その仏教を改革するため に書かれた『朝鮮仏教維新論』とはいかなるものであったのかを明らかにしていくことで,
韓龍雲の思想を探ることにする.
韓龍雲を取り巻く当時の朝鮮仏教界はおよそ次のような状況であった.
1876 年の江華島条約調印を契機に日本人が朝鮮に流入してくると,これに歩調を合わせ て,日本仏教各宗派も朝鮮に入ってきて朝鮮開教の活動を活発化させていた.日本の影響 は政治的にも宗教的にも拡大された.朝鮮時代には,僧侶のソウルへの出入りが禁止され ていたが,1895 年には日蓮宗の僧侶佐野前勵が王室に働きかけ,「僧侶都城出入禁止」が 解禁された.朝鮮ではソウルに出入りすることすら許されなかったのに日本の僧侶が王室 に働きかけ「僧侶都城出入禁止」が解禁されることなど想像もできないことであり,大き な驚きと歓喜で迎えられることになる17 ).
朝鮮で日本仏教各宗派が朝鮮開教に乗り出すと日本の僧侶と朝鮮僧侶の交流も始まった.
特に朝鮮開教を最も早く始めたのは,日本仏教の中でも肉食妻帯(韓国では帯妻肉食)を 公認していた真宗大谷派であった.また,日本の朝鮮統治政策の一環として,朝鮮僧侶を 日本に視察に行かせたり,留学させたりした.それによって日本の僧侶との交流が活発に なると,日本の僧侶が妻帯しているのにもかかわらず,社会的地位を確保しているという ことを知るようになった.
こうして,朝鮮僧侶の一部に日本仏教を積極的に受け入れ,仏教の地位向上を目指す運 動が台頭した.ほとんどの日本の僧侶が妻帯していたので,朝鮮僧侶の中にも留学などを 経て,拒否感が少ない僧侶を中心に多くの僧侶が妻帯し帯
テ チ ョ ス ン
妻僧の増加が顕著になった.日 本留学を経験した青年僧は,革新的な仏教青年運動を展開した.これに対して保守的勢力 との間で葛藤が現れ,保守的な勢力は青年僧侶を避けるようになった.また,逆に帯妻青 年僧侶は仏教界の改革という名分で保守勢力を教団の中心部から排除しようという動きを 見せるようになった18 ).
1911 年には朝鮮総督府が「寺刹令」を発令して,朝鮮の主要三十本山19)の寺刹の住職の 任免や財産の処分は朝鮮総督の許可を得なければならないようにし,完全に朝鮮仏教を朝 鮮総督府の管理下に置くようになっていた.比
ビ ク ニ
丘尼戒を守る保守勢力である比丘尼僧と革 新的な帯妻僧との争いはさらに激しくなり,比丘僧は朝鮮総督府の許可を受けて「本末寺 住持被選挙権の資格規定」を制定し,帯妻僧が本末寺の住持になることができないように 規定した.しかし,この後,比丘尼戒を厳守する僧侶がごく少数になるにつれ,本末寺住 持の規定も権威を失い,朝鮮総督府は,時代の雰囲気に合わないということで 1926 年にこ の条項の削除を許可するように指示を下すことになる20 ).
このような状況下で,韓龍雲は 1910 年 4 月と 9 月に中枢院議長であった金
キム・ユンシク
允植と統監府 の統監だった寺内正毅に仏教の発展と布教のために僧侶の結婚を認めるよう要請する建議 書と建白書を提出した.また,韓龍雲は「本末寺住持被選挙権の資格規定」についても,
156 政策文化総合研究所年報 第 21 号 寺刹令の洗練された分立の原則に違反すると批判し,朝鮮仏教の障害になるので,これを 廃止すべきだと主張したのであった.
3 2 韓龍雲の『朝鮮仏教維新論』
このような朝鮮仏教のおかれていた状況が,韓龍雲が 1913 年(脱稿は 1910 年)に発表 した『朝鮮仏教維新論』にも反映されている.
韓龍雲は『朝鮮仏教維新論』で朝鮮仏教の自覚を促して改革を求めた.そしてこの『朝 鮮仏教維新論』は「改革運動の推進と民族社会に及ぼした功績などにより,近現代におい て仏教界はもちろん,韓国社会の変革に最も大きな影響を与えた作品の一つである」21 )と 評価されるようになった.
『朝鮮仏教維新論』は序論と結論を含めて 17 章から構成されている.「緒論」,「仏教の性 質」,「仏教の主義」,「仏教の維新は当然破壊から」,「僧侶の教育」,「参禅」,「念仏堂の廃 止」,「布教」,「寺院の位置」,「仏家で崇拝する塑繪22 )」,「仏家の各様儀式」,「僧侶の人権 回復は必ず自生から」,「仏教の将来と僧侶の嫁娶について」,「寺院住持の選挙法」,「僧侶 の団体」,「寺院の統轄」,「結論」がそれである.
「緒論」では,「朝鮮仏教は維新するものがないせいだろうか,それとも維新するに値す るようなものがないということなのだろうか.よく考えてみてもその理由がわからない.
嗚呼,しかし,これもやはり私自身に責任があることには間違いない.…(中略)…私は 事を成すは天にある という説に疑いを抱くようになってからというもの,はじめて朝鮮 仏教維新の責任が天運や他人にあるのではなく,われらにあることを覚った.そしてその 後,責任を回避することができないことを覚り,維新しなければならないという考えに至 った.そして,この維新論を書いて自分を戒めるとともに,これを僧侶同僚たちに知らせ る次第である」23 )と述べ,朝鮮仏教維新の責任が自分たちにあることを自覚して,自らの 責任を果たそうと決意を述べている.
「仏教の性質」では,「仏教維新を論じようとする者は当然,最初に仏教の性質がどうか を考察し,これを現在の状態と将来の状況に照らして検討しなければならない.そうして こそ,この問題に対処することができる」と述べつつ,宗教的な性質と哲学的な性質とい う二つの面から仏教の性質を分析している. 宗教的な性質では,他の宗教が持つ迷信を
「迷信に一本の希望をかけるしかないということは悲哀の中の悲哀であるに違いない.迷信 は人類に功があるようにも見えるが,実は弊害があまりに大きい」と批判しつつ,「仏教は 知恵として信じる宗教であり,迷信の宗教ではないことを知るべきである」と仏教を評価 する.また,哲学的な性質では,仏教理論を中国の梁啓超,ドイツのカント,イギリスの ベーコン,フランスのデカルトなどの学者,哲学者の哲学理論と比較しながら,「宗教であ
り,哲学である仏教は未来の道徳・文明の原料品の役割を着実に担うことになるだろう」
とし,仏教が道徳文明において大きな役割を担うと評価した24 ).
「仏教の主義」では,仏教の主義を平等主義と救世主義と分析し,平等主義とは反平等主 義の反対の概念であり,救世主義とは利己主義の反対の概念であるとした.そして,仏教 はこの平等主義と救世主義を兼ね備えたものであるとし,仏陀の平等精神が止むとこはな く,仏陀が救世の一念を徹底したのだから,我々衆生はこの恩に報いなければならないと 述べる25 ).
「仏教の維新は当然破壊から」では,「維新とは何なのか,破壊の子孫であり,破壊とは 何なのか,維新の母だ.世の中,母親のない子はないということは間違いないことである が,破壊のない維新はないという点に至っては知っている人がいない.…(中略)…しか し,破壊といっても,すべてを破壊しつくしてしまうということを意味しない.ただ旧習 の中で時代に合わないものを直して,これを新たな方向に進むようにするということだけ である.したがって,名前は破壊だが,実際には破壊ではない.…(中略)…維新の程度 は,破壊の程度と正比例すると言うことができる.維新において最初に手をつけなければ ならないことは破壊である」26 )と述べ,まず維新,すなわち改革を実行するためには,旧 習の中で時代に合わないものを勇気を持って破壊し,新しいものを作り上げなければなら ないと強く主張した.そして,「仏教の維新に志を持ったなら維新できないことを憂うので はなく,破壊できないことを憂うべきである」27 )と述べ,表面的な変化だけを考えている 現在の状況を批判しながら維新のための行動,すなわち破壊することを躊躇してはならな いという意思を示した.
「僧侶の教育」では,「教育が普及すれば,文明が発達し,教育が普及されていなければ,
文明は衰退するのだから,教育がないということは野蛮禁輸になる道である」と述べて,僧 侶の教育の重要性を強調しながら,①普通学(教養)を実施すること,②師範学を確立す るために師範学校を設立し,適切な者を選抜して勉学させること,③外国留学を実施する ことの 3 つの提言を行った28 ).そして,「僧侶の兄弟たちに,私は大声でこう絶叫する.教 育を阻害する者は必ず地獄に落ち,教育を振興させる者は,当然,仏道を成すであろう」29 ) と述べて,今後を担う若者たちの教育を怠っていると非難した.
「参禅」では禅室を備えていない寺院はほとんどないほど禅が発達したが,これは必ずし も禅の振興を目的として生まれたものではなく,禅室を備えることが寺院の名誉,禅室を 介して利益を得るためのものである場合が多いと指摘する.さらには,本当の禅客は全体 の 1 割に過ぎず,食べるために入ってきた者が 2 割,愚かで怠惰な上に食べるために入っ てきた者が 7 割の状態である.このような状態を改革するために,朝鮮各地の禅室財産を 含めて,まず規模が大きい禅学館を建てて,その場所で毎日 1 〜 2 時間,座禅するように
158 政策文化総合研究所年報 第 21 号 することが望ましいと提言した30 ).
「念仏堂の廃止」では,「朝鮮でいわゆる念仏とは,仏を呼ぶのことであって,仏を念ず るものと考えることはできない」と述べて,衆生たちの仏の名を呼ぶだけの偽り念仏を廃 して,真の念仏を確立する必要があるとした.韓龍雲は真の念仏とは,仏の心や教え,行 について自分も仏と同じように念じ,真仮権実を明らかにして自分が本当にそれを所有す ることができるようになることとして,空念仏,そして現状の念仏堂の在り方を批判し た31 ).
「布教」では,「朝鮮仏教が蹂躙された原因は,勢力が低迷したせいであり,勢力の不振 は教えが布教されていないために原因がある」32)とし,朝鮮仏教の布教問題を指摘した.ま た,現在の朝鮮仏教の状況を「僧侶の総数はわずか朝鮮人の 3 千分の 1 に過ぎない.これ は 3 千人のうち僧侶となる者がわずか 1 人ということであるが,僧侶になる者はいかなる 人たちであろうか.貧賤に苦しめられている人でなければ,迷信に惑わされている輩で,
怠惰なうえ愚かで弱く混乱していて精神を集中する術を知らなくて,最初から仏教の真相 が何なのか全くわからないありさまである.このような人々は人類の下等ではなくて何で あろうか.このように 3 千人の中で最も下等に属する 1 人だけを集めて,仏教界全体を構 成し,また信徒と言えば少数の女性だけで男は…(中略)…非常に珍しい」33 )と分析する.
韓龍雲は,このような状況は布教することができる人材が不足しているためであると考え て布教の重要性を指摘した.そして布教する者は熱誠,忍耐,慈愛を持つ必要があり,布 教方法は,演説,新聞雑誌,経典の翻訳,慈善事業などを通じて展開していかなければな らないとした34 ).
「寺院の位置」では,寺院が山中にある場合には進歩の思想,冒険的な思想,救世の思 想,競合する思想を失うことになると指摘し,寺院は各都市に進出して布教教育などを行 うことを促した35 ).
「仏家で崇拝する塑繪」では,塑繪(彫刻や絵画)は迷信から出てきた偽りの姿だからす べてを焼却し,暗黒時代の迷信を一掃するのが良いと言う者もいるが,そこは冷静に判断 すればよく,行き過ぎがあることが恐ろしいと述べ,塑繪は焼却する必要はないが,塑繪 は迷信的なものとして福を祈るものではないし,それに対する崇拝は辞めるべきであると した36 ).
「仏家の各様儀式」では,齋供養の儀式(梵唄四物及び作法體懺など)や祭祀時の礼節
(対霊及び施食など)は非常に煩雑混乱して秩序がなく,平時の儀式(已時供仏,朝夕拜 仏,念誦・誦呪など)も混乱して真実性を失っているから,複雑で煩雑な儀式を一度,整 理して,簡潔な儀式を作り出して,これを実行することを提案した37 ).
「僧侶の人権回復は必ず自生から」では,「数百年以来,僧侶たちは大変な圧迫を受けて
人でありながら,人扱いされなかったが,何もせず服を着て,何もせず食べてきたことも,
その大きな原因となったことを否定することができない」と僧侶の怠惰を反省し,朝鮮僧 侶のこれまでの禍福や布施などの言葉で愚昧婦女子を騙し生活する欺取生活と他人に施し を受ける丐乞生活を批判して,僧侶が自活することができる労働をすることによって生活 しなければならないと述べた.特に寺院で共同生活する僧侶は,造林事業(果物・茶・桑・
どんぐりなど),共同経営(株・合資・合名などの会社)が適していると指摘し僧侶が自立 した生活基盤を持つことを求めた38 ).
「仏教の将来と僧侶の嫁娶について」で,韓龍雲は「私に仏教をどんな方法で,今後,復 興させていくのかと尋ねたら,私は必ずこのように答える.僧侶の結婚禁止を解くことも 重要であり,早急な対策の一つであると.その後,おそらく私は非難されるだろう.あな たはなぜこのような間違ったことを言って,仏の戒律を汚すのか」39 )と述べて議論を開始 する.韓龍雲は批判を覚悟して僧侶の婚姻を禁止することは現実に合わないと述べつつ,
婚姻を禁止することは倫理の害,国家のために害,布教のための害,教化の害などがあり,
その解禁を要求した.そして,韓龍雲は請願書(大韓帝国の中枢院に建議書,統監府に建 白書)を提出した40 ).
「寺院住持の選挙法」で韓龍雲は,住持(住職)は「一寺院の庶務を統治する職責」であ り,「それゆえ優れた人が住持になると寺院の事業が円滑に行われ,逆に資格のない者が住 持になる場合には,寺院の事業が萎縮する」と重要な役割を担う職責と述べている.しか し,これまで住持の職は輪回住職・依頼住職・武断住職といった形で選出されてきた.こ れらの方法は,持ち回りによる停滞,賄賂の温床になる,暴力による弱肉強食という弊害 が内在された選出方法である.このような問題がある選出方法を廃止し,住職は選挙で選 ばれるべきだと主張した41 ).
「僧侶の団結」では「ある僧侶が何かしようとすれば,そのことの可否と道理の得失を論 じることもないまま,互いに妬み疑って互いに排斥して,何かが東で起これば,誹謗が西 で起き,議論が朝に合致すれば,趣旨を夕方に変えて,犬の歯を剥き出して飛びかかるが ごとく逆らい,1 つも成すことがないのが実情である」と現在の僧侶たちの状況を批判し て,今こそ僧侶が団結すべきものと主張した42 ).
「寺院の統轄」では,統轄の欠如により仏家で実施されるのは何一つ統一・整備されたこ とがないと現状を分析し,これを解決するためには,寺院を統轄する必要があると述べて いる.統轄は仏教全体を 1 つの統轄権の中に置く混合統轄と全体を複数に分割して統轄す る区分統轄の 2 つの方法があり,それぞれ長所と短所がある.理想的な統轄方法は,混合 統轄だが,今,朝鮮では「統轄が何かすら知らない」状況であり,現実的に無理があると 述べた.また,区分統轄も仏教界の分裂につながる恐れがあるとして仏教統轄の方法につ
160 政策文化総合研究所年報 第 21 号 いて方策を導き出すことができないと,その苦悩を記述している43 ).
「結論」で韓龍雲は,「あまり言いたくはなかったことであるが,内面の衝動を抑えるこ とができなくなって書いたのがこの論文」と『朝鮮仏教維新論』を書いた理由を述べる.
そして,「この論がすべて正しいものなのか,すべて正しくないものなのか.その正誤は私 がむやみに判断するところではない」として,この論文の批判は,他の人に任せるとした.
また,「また一言を私たち僧侶の仲間たちに送ることができる.この論が少しでも採るべき ものがあるとすれば,その旨に沿って,私の同志と私が一緒に実践すればよい」と仏教界 の維新を革新とともに推進していくことを促すのであった44 ).
以上のように韓龍雲は,この『朝鮮仏教維新論』において,仏教の性格を東洋哲学,西 洋哲学などと比較することにより,仏教を近代の思想の潮流の中に位置づけようと試みた.
また,その内容は思想的な思索にとどまらず,朝鮮仏教の置かれている状況を冷静に分析 し,教育,組織,人事,経済,経営的な問題といった範囲にまで言及し,当時の朝鮮仏教 がもつ矛盾を克服し,どのように仏教の近代化を図るかといったことについて非常に具体 的な行動内容を含み提示しているのである.韓龍雲にとって,近代の仏教の在り方は,思 想にとどまらず,具体的な組織の改革をともなうものであり,その組織を改革するには,
その社会を改革しなければならないというものであった.
このように韓龍雲は『朝鮮仏教維新論』を通じて,朝鮮仏教の改革運動を主導していっ たのだ.そして,「当時は具体的な成果を上げることができなかったが,多くの仏教者に勇 気と希望を与えた行動指針であった」45 )との評価を得るようになるのであった.
勿論,韓龍雲は,後に 親日 46 )仏教として批判受け,仏教浄化運動の中心的な問題と して浮上する最も象徴的な妻帯の問題に関してはこれを積極的に推進していた.独立宣言 文に韓龍雲とともに仏教界から名を連ねた白
ペク・ヨンソン
龍城は妻帯に関しては基本的に反対の立場を とっていたが,比丘僧にある程度の寺院を割譲して管理させた場合は帯妻僧の存在も認め という柔軟な姿勢を見せており,朝鮮仏教界の抗日運動を担う中心人物の間でさえも帯妻
=親日(倭色)という構図は,この時には,まだ完全に成立していなかったのだ.その後,
朝鮮仏教界の僧侶の約 9 割が妻帯したことを考えると,帯妻=親日(倭色)仏教というよ り帯妻=進歩・近代仏教という構図として理解されていたということも見逃せない.しか し,この帯妻僧の存在と,その帯妻僧と比丘僧との対立は,解放後の韓国仏教でも大きな 問題を生み続ける主要因として残っていくことになるのである.
4.詩人:韓龍雲「ニムの沈黙」
韓龍雲が朝鮮仏教の近代化を目指し仏教改革をするために『朝鮮仏教維新論』を書き表
して,さらに仏教を取り囲む社会を改革するために独立運動に関わるようになった.そし て,独立運動に関わり投獄された時から,韓龍雲は新たに詩,小説といった文学を使って 彼の仏教的な思索,仏教や社会改革を新たに表現していく.そこには日本統治下の厳しい 言論弾圧,表現の自由の抑圧に対して文学的な手法をとって抵抗するという極めて現実的 な方法として取られた方法であったかもしれない.しかし,そこで生み出されたのが,今 では韓国人の誰しもが知る「ニムの沈黙」であった.「ニムの沈黙」は序文である「贅言」
と後記である「読者に」,他 88 首の詩を集めて発表した詩集『ニムの沈黙』( 1926 年)に 収載されている.
「ニム」とは,あなた,いとしい人の意味であるが,韓龍雲はそこには祖国や民族といっ た意味を投影したと多くの学者が指摘している.
金
キム・ハクヒョン
学鉉は,「ニムという言葉は古代の詩歌にもよく使われた.朝鮮人の心の琴線にふれ る,感傷を抱かせる伝統的な言葉」であると指摘しつつ,「『ニムの沈黙』全篇を流れるモ チーフはニムを待ちわびる,いわば「待」の思想で貫かれている.多くの詩が別れて行っ たニムを恨むエレジーであるが,けっして諦めて絶望するのではない」と述べ「ニムの沈 黙」に「待」の希望があると指摘している.さらに,「毎日毎日,あてもなくニムを待つ
―,だがニムは沈黙したなりいつあらわれるかわからない.それゆえ彼の詩にはいらだ ちと期待,絶望と希望が交錯する」とし,「それは民族文学の一つの主流をなしている」,
「「恨
ハン
」と「離別」,「沈黙」と「待」の織りなす文学様相である」とし感傷主義の伝統を継 承していると指摘している47 ).その一方で,感傷主義の伝統は「韓龍雲の場合,それがあ る理念の暗示体として近代的に象徴されており,現実に対する一種の抵抗となって強く訴 えかけてくるところに,まさに現代性がある.いわば,当時の状況に対するアンチ・テー ゼとしてニムの存在は性格づけられている」と述べており,感傷主義的な伝統を継承しつ つも,近代性・現代性を内包していると指摘している48 ).
また,白楽晴も「 3.1 運動が韓国的市民意識を初めて達成した事件であったことは,植 民地時代初の韓国文学がその運動に参加した世代によって書かれたという事実にも表れて いる.同時に 3.1 運動時,韓国的市民意識の貧困はその文学的成果の貧困にも反映されて いる」と述べ,詩の分野では,わずかに韓龍雲のこの『ニムの沈黙』をはじめとして,
李
イ・サンファ
相和,金
キム・ソウォル
素月,陸
ユ ク サ
史(李活)などの数少ない成果しか存在しないと指摘する.そして,
「韓龍雲は韓国初の近代詩人であり,3.1 運運動の生んだ最大の市民詩人と言うことができ る.そのような萬海が同時に古の韓国の最後の偉大な伝統詩人だったという事実は,彼だ けが享受できる栄誉であり,伝統の継承を望む私たちのすべての大きな幸運に違いない」
と詩人韓龍雲を韓国最初の近代詩人,かつ最後の伝統詩人と評価している49 ).
1980 年代でも,大学生に「ニムの沈黙」は「序詩」50 )の次に人気があり,詩人韓龍雲は
162 政策文化総合研究所年報 第 21 号 尹
イ・ドンジュ
東柱・金
キ ム・ジ ハ
芝河・朴
パ ク・ノ ヘ
勞解の次に人気を集めた.1990 年代にも韓龍雲は尹東柱・金素月・
徐
ソ・ジョンユン
正潤の次に人気がある正に国民的詩人と言われるに相応しい詩人であり,「ニムの沈黙」
は韓国人にもっとも愛されている作品の 1 つと言える51 ).
韓国近代詩に大きな功績を残し,国民的詩として愛された「ニムの沈黙」52 )は次のよう な詩である.
ニムは行きました.ああ,わたしの愛するニムは行きました.
青い山の彩りを裂いて 楓の林に向かって延びている小路をたどり とうとう振り 切って行きました.
黄金の花のように固く輝いていた昔の誓いは 冷え切った塵埃となって 嘆息の微 風に飛び散りました.
最初のロづけの鋭い追憶は わたしの運命の針を狂わせておいて 後ずさりして消 え去りました.
わたしは香しいニムの話し声に耳を塞がれ ニムの花のかんばせに盲
めしい
にされました.
愛とて人のことなれば 出会いのときにあらかじめ別れのときのことに気を遣い 用 心しないではいなかったけれど 別離は思いもかけぬこととなり 驚いた心は新たな 悲しみに引き裂かれます.
けれども 別離を無用の涙の泉に変えてしまうのは みずからの愛に目覚めたこと を知ったからで,取りとめもない悲しみの力を転じて 新たな希望のつるべに注ぎこ みました.
わたしたちは 出会いのときに別離を気遣うのと同じく 別離のときにまたふたた びの出会いを信じます.
ああ ニムは行ってしまったけれど わたしはニムを送りませんでした.
おのずと節回しが湧いてくる愛の歌は ニムの沈黙を押し包んでまわります.
金載弘も「ニムの沈黙」はニムの喪失がそのモチーフとなっているという.そして,「こ こでの喪失は単純な別離であるかも知れない,ニムの死であるかも知れない.それとも祖 国喪失のような大きな民族的意味であるかも知れない」とニムはさまざまな事象を暗示し うるものであると分析する.金載弘はさらにニムの喪失は無化の衝撃を抱かせると述べ,
「この詩でそれは〈振り切っていきました / 飛び散りました / 消え去りました / 耳をふさ がれ盲にされました〉という句のように否定的・絶望的な表現として現われる.特に〈運 命の針を狂わせておいて 後ずさりして消え去りました〉という句はそのような無化の衝撃 が,いかに人生行路に決定的な影響を及ぼしたのかを示し,またそれは〈耳をふさがれ,
盲にされました〉という表現によって絶望的な世界認識として連結される.だから,〈離別 は思いもかけぬこととなり 驚いた心は新たな悲しみに引き裂かれます〉という句につな がり絶望のひとつの極点に到逹するようになったと理解される」と分析している.そして,
その挫折と絶望は,〈けれども〜〉以後で新しい局面を迎え,「無の発生による悲嘆と絶望 は,無が通過する過程で〈悲しみの力〉を獲得して,ついには〈新しい希望〉に転移する ようになる」と述べる.さらに「〈離別のときにまたふたたびの出会いを信じます〉という 句の中にはもう無の超克が成就しているものと理解」できるとしてしている.このため〈ニ ムはいってしまいましたけど わたしはニムをおくりませんでした〉という句は,「出会い への確信,または復活への信念」を読み取ることが可能になるとし,さらに「〈おのずと節 回しが湧いてくる愛の歌〉としての人間的な恨
ハン
の悲しみは,巨大な〈ニムの沈黙〉という 無の世界へ導かれていく」ことで,「超越と克服を果たしたものとして解釈される」と分析 している.そして,ここでの恨の克服,無の超極は,宗教的な想像力の力によって得られ ると述べ,「ニムの沈黙」には韓龍雲の宗教的な思想が込められていることを指摘している
53 ).
また,白楽晴は,「萬海の仏教思想を正しく理解すれば,彼の〈ニム〉が果たして誰であ るのかといった疑問は自然に解ける.〈ニム〉が一人の女性が愛する男性であり,詩人の失 った祖国と自由であり,また,仏教的真理であり,再生でもあると言うこと―すべての ものでありながら,それが,その時その時,異なって見えたり,重なって見えたりするの は,上に述べた萬海の思想による場合,単純な詩的な技巧やニュークリティシズム的〈曖 昧性〉の追求ではなく,最も理想的な考え方であり,存在の真の姿に対するもっとも妥当 な解釈である」と韓龍雲の「ニムの沈黙」が仏教的な性格を帯びていることを指摘してい る54 ).
金載弘,白楽晴と同様に,リュ・ヤンソンも韓龍雲を「仏教的思惟に土台を置いている 詩人」として,詩集『ニムの沈黙』は,「愛の道と真理の道を同時に含んでいることを暗示 している.言わばこの詩集の創作自体が菩薩道の実践としての書であった.解脱と回向を 繰り返して真諦と俗諦を合わせもつ詩人の中道的実践に相応して,この詩集は隠喩と象徴 の次元を果てしなく拡張させて近代性と超越性を同時に成就する驚くべき成果を納めた」55)
と評価している.
このように韓龍雲の「ニムの沈黙」は,自己の内面と社会との関係をその詩の中に映し 出すだけでなく,それに仏教的な普遍性を込めること成功したのである.ともすれば,曖 昧であると指摘される「ニム」の概念は,その曖昧さ故に,大きな広がりをもつことにな り,現代の人々にまで愛される詩として記憶されているのである.
164 政策文化総合研究所年報 第 21 号
5.最 後 に
これまで,韓龍雲が仏教改革者,独立運動家,詩人としてのどのような活動を行ってき たのかを概観し,韓龍雲の『朝鮮仏教維新論』と「ニムの沈黙」の評価を分析し,韓龍雲 が近代に仏教改革者,独立運動家(社会改革者),詩人として韓国にどのように記憶されて きたのかを見てきた.
僧侶であった韓龍雲は,仏教界を改革するために行動を起こし,仏教界を取り囲む社会 状況を改革するために独立運動へつながる民族運動を行い,その挫折を経験したことによ って,その活動を小説,詩などの文学活動へ広げていくことになったのである.韓龍雲が,
韓国において近代の仏教改革者,独立運動家,詩人として記憶されているのは,偶然では なく,必然であった.
しかし,その一方で,「ニムの沈黙」の詩人韓龍雲 としての突出した認知度と文学研 究に対する大きな偏在は,韓龍雲が後に 親日 僧と認識され,大きな弾圧を受けるよう になる帯妻僧であり,「日本帝国主義に対抗して民族主義を唱えながらも,決して盲目的ま たは排他的ではなかった」56 )こと,「朝鮮の独立を熱望しながらも,文明史的に朝鮮が日本 より遅れているという事実を認めて受け入れる開放姿勢を持っていた」57 )ことによること に原因があるかもしれない.
僧侶である韓龍雲の仏教思想は平等と救済を希求するものであり,その仏教思想は必ず しも,国や民族という枠に閉じ込められるわけではない58 ).朝鮮王朝の下,崇儒廃仏で山 林仏教としてかろうじて命脈を保っていた朝鮮仏教の前に近代的な仏教を持ち込んだのは 他でもない日本であり,その日本仏教の近代性に対し一定の評価を与えていたため,自ら も朝鮮僧侶の妻帯を求めたのであった.
また,韓龍雲は「被植民地の朝鮮人として日本帝国主義に抵抗したのだが,その抵抗の 目標は日本や日本人の絶滅にあったわけではない.むしろ彼は全体主義的属性を持つ日本 の軍国主義が日本人自らを含むすべての東アジアの民衆に苦痛をもたらしていると考えた.
その平等主義と救済主義は朝鮮のためだけではなく,日本を含む戦争で苦しむすべての衆 生のためのもの」59 )であり,決して朝鮮人だけのものではなかった.
こうした韓龍雲の態度が,これまでの韓国での韓龍雲のイメージと文学研究への偏在を もたらしたのではないか.
近年,毎年のようにノーベル文学賞の候補に上る韓国の詩人高コ・ウ ン銀は『韓龍雲評伝』にお いて,韓龍雲に対する無条件の崇拝を批判している.キム・ヨンソクは高銀の韓龍雲に対 する評価について「(韓龍雲が)演説に優れていて,志操が強く,指導者的能力を備えてい
たことは認めたが,たびたび破戒をした僧侶らしくない行動,最初の妻と息子に対する冷 たい仕打ち,文学的に自分より進んだ崔
チェ・ナムソン
南善に対する嫉妬,彼を崇慕して訪ねて来た青年 に対する冷たい対応などに対しては一切の修飾なしにそのまま伝えている.このような内 容について多くのこれが反論を提起しているのも事実だが,一生妻帯せずに修業に精進し てきた僧侶の立場では萬海がいくら偉人と言っても高い評価を与えるのは難しかったはず である」として,「 偉人の無条件の神格化も私たちの目を覆う行為 と一喝する」と高銀 の韓龍雲へ対する厳しい評価をまとめている60 ).これは,韓国成立後に比丘僧を中心とし て成立し朝鮮仏教の正統性を継ぐことになった仏教界の最大の団体の僧侶たちや民族主義 的に近い人々の立場からは,韓龍雲は決して手放しで評価できる存在ではないという立場 があることを窺わせるものである.
しかし,韓龍雲が,朝鮮・韓国の近代において仏教的な思想を現実の社会の中で実現し ようとしたことは間違いなく,その過程で生まれた『朝鮮仏教維新論』や「ニムの沈黙」
といった作品,彼が行った様々な社会運動は,朝鮮・韓国の近代化の過程においての金字 塔と言うべきものであり,これからも極めて重要な意味と価値をもつものである.
朝鮮・韓国の近代に現われた韓龍雲という思想と行動,そして芸術の面でも大きな才能 を発揮した異才をより正確に捉えるためにも,均整の取れた研究活動, 反日 親日 と 言った民族主義的な枠にとらわれない冷静な研究が我々研究者に求められているのである.
注
1)時期区分によって,朝鮮,大韓帝国,日本( 外地 ),大韓民国,朝鮮人民共和国であるが,
本論文では,一般名称として朝鮮もしくは韓国と記述する.
2)詩集 『ニムの沈黙』(1926 年)に収載.「ニム」とは,あなた,いとしい人の意味であるが,韓 龍雲はそこには祖国や民族といった意味を投影したと多くの学者が指摘している.
3)高炳哲(コ・ビョンチョル)は,1978 年から 2012 年まで韓龍雲に関する博士論文 55 編のう ち 3 編を除けば,すべて文学作品を扱っていると述べている.고병철 2015 「만해 한용운 연보의 쟁점과 주요 사례」『정신문화연구』38( 3 ) 한국학중앙연구원 p.81 を参照.また,2018 年 2 月 時点での韓国の国立中央図書館の学術論文(連続資料)の資料分類によると「韓龍雲」は 756 件 中,文学 178,語学 60,宗教 29,歴史 31,社会科学 19,哲学 2,残りはその他・未分類(総合 件数には同姓の研究者による全く異なる分野の論文等を含む)となっている.韓国国内最大のポ ータルサイトNAVERの図書検索においても,「韓龍雲」は人文( 491 )で,その内訳は,文学 論( 393 ),言語学・記号学( 46 ),文学一般( 41 ),哲学( 31 ),教育学( 16 ),宗教学( 11 ),
心理( 4 ),神話( 1 )となっている.これらのデータは異なる分野に重複して分類されているも のもあり正確なものではないものの,研究分野のおおよその傾向は把握できるものと考えられ,
基本的には詩,文学の分野での研究,出版(露出)が多いことを示している.
4)김영식 2008 「미민족대표 33인 한용운과 박희도」『新東亞』2008.08.25〈http://shindonga.
donga.com/Print?cid=107696 〉(Accessed : Jan 26, 2018 ).
5)萬 海 記 念 館 2013 「 韓 龍 雲 年 譜 」〈http://www.manhae.or.kr/history.html?html=history1.
166 政策文化総合研究所年報 第 21 号
html 〉(Accessed : Dec. 27, 2017 )なお,年譜の差異に対する検証として고병철 2015:pp.79
114 がある.韓龍雲の詳細な年譜に対する研究では唯一の研究であり,その価値は極めて高い.
6)ただし,『惟心』は 12 月まで 3 巻を発行して中断.
7)배경식 2014「1930년대의 문화지형과 한용운의 삶」『불교문예연구』3 동방문화대학원대학교 불교문예연구소 p.220 を参照.
8)33 人の内訳は,民族宗教の天道教から 15 人,キリスト教から 16 人,伝統のある仏教からは 韓龍雲と白龍城(ペク・ヨンソン)のわずか二人だけであった.これは当時の日本仏教に取り込 まれつつあった朝鮮仏教界がおかれていた立場を象徴している.
9)韓龍雲は崔南善(チェ・ナムソン)が作成した独立宣言の字句の修正をして公約三章を付け加 えるという役割を果たした.公約三章は次のような内容であった.「一.今日の吾らのこの挙は,
正義,人道,生存,尊栄のための民族的要求であるから,ひとえに自由の精神を発揮するもの で,決して排他的感情に逸走してはならない.一.最後の一人まで,最後の一刻まで,民族の正 当な意思を快く発表せよ.一.一切の行動はもっとも秩序を尊重し,吾らの主張と態度をしてあ くまで光明正大にせよ.」.
10)『仏教』は財政難により 1933 年 7 月に休刊.1937 年 3 月 1 日より再開.
11)趙芝薰 1959 「韓龍雲論」 『詩와 人生』 博英社 p.149.元の論文は 1958 年に発表.
12)고병철 2015 : pp.81 82 を参照.また,萬海韓龍雲先生全集刊行委員会は,1970 年代には,韓 龍雲の生涯は「禅僧,独立志士,詩人」の 3 つの側面から理解すべきと主張するようになった.
13)김재홍 1991 「만해 한용운 연구 어디까지 와있나」『출판저널』 Vol.80 대한출판문화협회 pp.20 21 を参照.
14)これらを検証することはこの研究の範囲を超えるため今後の研究課題としたい.
15)김광식 2012 「한용운 민족사상의 연원」『선학』31한국선학회 p.152 金光植は続けて,「また 萬海の作家的な力量,作品の側面でもこのような性格は同じように現れている.萬海の文学の偉 大性を論じて文学的普遍性は取り扱われたが,彼に込められた民族思想という特殊性は疎かだっ たように思われる.このような筆者の立場は萬海の民族思想は民族運動,仏教,文学などの方面 で一緒に挙論されなければならないということである」と文学,民族運動に偏りがちな研究状況 を仏教を含めた 3 つの側面から研究しなければならないと述べている.김광식 2012 : pp.152 153.
16)高橋亨 1973 『李朝仏教』国書刊行会 pp.951 952.初版は 1929 年に宝文館より刊行.原文の 片仮名を平仮名に,旧漢字を常用漢字に変更.
17)国号も朝鮮から大韓帝国に変わった 1898 年には,反動勢力によって再び「僧侶都城出入り禁 止令」が下されたが,この禁止令を守ることはなく有名無実化した.大韓帝国は 1899 年に東大 門外に元興寺(ウォンフンサ)を朝鮮仏教の総宗務所として創建し,これを大本山として全国の 寺院の統一を試みた(後,朝鮮仏教の統一機関ともいえる圓宗宗務院設立の母体).1902 年には 光武 6 年寺刹令を発布し,全国の寺院を国家が管理しようと試みる.また,「僧侶都城出入禁止」
解禁時には,水原の龍珠寺の僧釋尚順は佐野前勵を「大日本大尊師閣下」と記し感謝の文を送っ ている. 高橋亨 1973 : p.898 を参照.
18)金光植 1998 『韓國 近代仏教의 現實認識』民族社 pp.179 180 を参照.
19)1924 年に一つ追加されて三十一本山になる.
20)以後,1929 年までに約 8 割が寺法改正を申請してこの条項を削除した.
21)朴敬勛 1994 「근대불교사의 성격과 전개」 불교신문사편 『韓國仏教史의 再照明』 불교시대사 p.405.
22)塑繪とは寺院に祀られているすべての像や絵画の意.
23)한용운 이원섭 옮김 2007 『조선불교유신론』운주사 pp.11 12,初刊本 影印 pp.2 3 を参照.
24)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.13 27,初刊本 影印 pp.3 12 を参照.
25)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.30 35,初刊本 影印 pp.12 16 を参照.
26)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.34 35,初刊本 影印 pp.15 16 を参照.
27)한용운 이원섭 옮김 2007 : p.36,初刊本 影印 p.17 を参照.
28)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.41 46,初刊本 影印 pp.20 23 を参照.
29)한용운 이원섭 옮김 2007 : p.46,初刊本 影印 p.23.
30)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.47 54,初刊本 影印 pp.23 27 を参照.
31)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.55 61,初刊本 影印 pp.27 31 を参照.
32)한용운 이원섭 옮김 2007 : p.64,初刊本 影印 p.33 を参照.
33)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.55 61,初刊本 影印 pp.27 31 を参照.
34)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.66 68,初刊本 影印 pp.34 35 を参照.
35)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.69 81,初刊本 影印 pp.36 43 を参照.
36)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.82 93,初刊本 影印 pp.43 50 を参照.
37)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.82 93,初刊本 影印 pp.43 50 を参照.
38)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.100 107,初刊本 影印 pp.53 58 を参照.
39)한용운 이원섭 옮김 2007 : p.108,初刊本 影印 p.58.
40)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.108 122,初刊本 影印 pp.58 66 を参照.この請願書は『朝鮮 仏教維新論』の「仏教の将来と僧侶の嫁娶について」の中にもそのまま記載されている.
41)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.123 126,初刊本 影印 pp.66 68 を参照.
42)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.127 137,初刊本 影印 pp.68 75 を参照.
43)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.137 141,初刊本 影印 pp.75 77 を参照.
44)한용운 이원섭 옮김 2007 : pp.142 145,初刊本 影印 pp.77 79 を参照.
45)申昌浩 2002 『韓国的民族主義の成立と宗教―東学・親日仏教・改新教(プロテスタント)の 分析を通じて―』国際日本文化センター p.83 を参照.
46)朝鮮,韓国で言う 親日 とは「日本の統治に協力した民族の裏切り者」の意味で使われている.
47)金学鉉 1980 『荒野に叫ぶ声―恨と抵抗に生きる韓国詩人群像』柘植書房p. 55 を参照.また,
「恨」は極めて韓国的で複雑な概念であるが,ここでは悲哀と言う意味として理解しておけばよ い.詳細は上別府正信 2008 『韓国のアイデンティティ論としての恨 : 恨の言説の形成過程を中 心に』 中央大学博士学位請求論文を参照のこと.
48)金学鉉 1980:p. 29 を参照.
49)白樂晴 1982 「市民文學論」『創批新書 19 白樂晴評論集 민족문학과 세계문학1』創作과批評社 p.47 を参照.さらに,白楽晴は「韓龍雲の真骨頂が〈革命家と禅僧と詩人の一体化にあったと いう事実は,すでに多くの人が指摘している.筆者はこの一人三役が曲芸ではなく,真の〈一体 化〉であり,それはすぐに 3.1 運動が成し遂げた市民意識の本質」と述べ,韓龍雲の革命家,僧 侶,詩人といった視点を強調している.
50)尹東柱を代表する詩.1941 年 11 月 20 日に作られ,彼の遺稿詩集 『空と風と星と詩』( 1948 ) に収録.
51)고병철 2015 : p.83 を参照.
52)韓龍雲 安宇植訳 1999 『ニムの沈黙』 講談社 pp.13 14,金載弘 1984 「韓國의 恨과 그 克 服의 양상」 『韓國文學』 12 月号 한국문학사 p.326 を参照.なお,『朝鮮仏教維新論』は漢文 で書かれているが,『ニムの沈黙』はハングルによる国文で書かれている.
53)金載弘 1984 「韓國의 恨과 그 克服의 양상」 『韓國文學』 12 月號 한국문학사 pp.326 327