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―― その憲法的問題点を中心に ――

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ベルギーの政変 crise politique

(2010 年- 2011 年)について

―― その憲法的問題点を中心に ――

武 居 一 正*

はじめに

2011 年 12 月 6 日火曜日、前年の 6 月 13 日総選挙以来、ようやくベルギー で新政権、エリオ・ディ・ルポ(Elio Di Rupo)内閣が成立した。

連立政権交渉をしてきた 6 党(PS, sp.a, CD&V, cdH, Open VLD, MR)*1 が予算について合意したと記者会見し(11 月 27 日日曜)、次いで最終合意 が成立したと伝えられた 11 月 30 日水曜夜以降、内閣成立がほとんど確実と なり、その日程として、12 月 1 日木曜、合意文書読み直し・確認、3 日土曜、

各党での承認集会(Congrès de participation)、4 日日曜、組閣、5 日月曜、

宣誓と予想された。しかし、実際には成立は 6 日になった*2

我が国でも、世界の動向に敏感な読売新聞(28 日付)とロイター(28 日 11 時 46 分配信)が、それぞれ「政治空白 500 日のベルギー、連立政権で合

 

* 福岡大学法学部教授

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意」、「予算案で合意のベルギー、1 週間以内に組閣=政党党首」とのタイト ルで速報した。

数日中の組閣が確実になった時点で、新聞各紙が新政府の成立について報 道した。例えば、12 月 4 日付毎日新聞は「5 日に政権樹立…1 年半ぶり」と のタイトルを付け、同日付日本経済新聞電子版は「ベルギー新政権発足へ、

政治空白 500 日以上」との見出しを付けた。6 日付朝日新聞は、5 日付のロ イターに拠りながら、「ベルギーで新政権発足へ、総選挙から 1 年半ぶり」

と報じた。6 日付東京新聞夕刊も「ベルギー新首相任命 政治空白 540 日で 幕」と報道した。

次いで、発足後の 7 日、産経新聞は「ベルギー新政権発足 1 年半の政治 空白に幕」と伝え、CNN.co.jp も「ベルギーで 1 年半ぶりに新政権、無政府 期間の記録でイラク抜く」と報じた。7 日夜 10 時からの NHK BS1 のニュー ス番組「ワールド Wave トゥナイト」では、特派員が長期間の政治空白と 説明し、その間に予算編成が行われ、NATO によるリビアへの軍事介入に 参加したことなどを伝えていた。

最後に、11 日付時事通信は、「ベルギー新政権が正式発足=下院で信任、

政治空白に幕」と伝えた。

残念なことに、これらの報道には誤解や基本的な間違い、不正確な情報が あると思われる*3。その影響力からして見過ごすことが出来ないものがある。

現地報道や外信を真に受けたり(確認作業を怠っている)、執筆した記者氏 の不勉強または誤解、編集者の見落としなど色んな原因を想定できるが、各 メディアが揃ってこれでは、日本の報道には根本的な問題があるのではない かと思えたりもしてくる。そこで、微力ながら誤りを正したいと考える。

先ず、イヴ・ルテルム(Yves Leterme)第Ⅱ次内閣が辞職した後、同内 閣は正確には「事務管理内閣」*4として活動してきたのだが、これを「暫定 政権」(朝日、ロイター)としたり、「暫定政府」(読売、CNN.co.jp)または

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「暫定首相」(日経)と呼んだりするものがある。しかし、暫定内閣*5と事 務管理内閣は似て非なるものであるから、これを同一視しているのが明らか な初歩的ミスである。

次に、長い事務管理の間、完全な権限を持つ政府が存在しなかったこと を、「政治空白」(読売、東京、時事通信、NHK、CNN.co.jp)と形容したり、

「政権不在」(毎日)ないし「無政府期間」(CNN.co.jp)と報じたりしてい るが、1 年半もの長期間にわたって政治が行われなかったとでも言いたいの だろうか。そうだとすれば、どの様にして国を治めたのか気になるところだ が、これについてはほとんどが何も触れていない。

説明するなら、ベルギーは連邦制の国であり、単一国であれば本来なら国 が持っている権限の多くを排他的権限として地域圏および共同体に委譲した ので、連邦政府に残された権限は少なく、仮に連邦政府が全く機能しないと しても、国民の生活に関係する日々の行政活動の多くは地域圏や共同体に よって着実に担保されているのである。だから、国民生活への影響はあまり ないのである。勿論、上記したように、連邦政府は事務管理内閣が活動を続 けており、政府が担うべき日常業務の確保はなされている。これで、どこが 空白や不在なのであろうか*6

むしろ理論に反して、事務管理内閣が空白どころか「積極的な政治」を 行っていることが確認されるのである。事務管理とは、通常、日々の管理業 務を指し、行政の日常業務の継続性の確保をいう。大臣は日々の活動に必 要とされる決済をなし、それらの実施についてその統制力を行使する。決し て新たな政治課題について決定を下すような権限を持つものではない。し かるに、ルテルム事務管理内閣は、憲法改正宣言に新たな条文を加えたり、

NATO によるリビアへの軍事介入に参加したり、予算編成さえしているの である。本当は、憲法的にはここが大問題なのである。事務管理内閣にこの ようなことをする権限があるのかどうかである。ベルギー国内では余り議論

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が活発でないとしても、そもそも立憲主義に反する行為が見過ごされて良い 筈がないのである。また、国内政治とは異なるが、この間、EU の議長職を 半年間務めてさえいる。

こう見てくると、「政治」が確かにあるのである。そうすると、報道機関 は、事務管理中に新たな政治的決定をすることが憲法的に可能かどうか疑問 を持つべきではなかったか。つまり、事務管理内閣の権限について検討して みるべきだったのである(これについては第 3 章(3)参照)。このように、

先に挙げた報道には、一見しただけで少なくともいくつかの過失または見過 ごしがあったと私には思える。 

以下では、1 年半にわたる政変について正確な事実を簡潔に伝え、この間 に生じた憲法的問題点についてどのように理解ないし解釈すべきかの私見を 示したい。また、政変長期化の原因および N-VA 抜きでの交渉に CD & V が同意した理由についても考えてみたい。なお、筆者の関心は「国家改革な いし制度改革」にあるが、今回の国家改革について合意が成立するに至った 背景等についての前提的分析が不可欠なので、先ず本稿で前提的作業として 政変を主に扱うこととする。国家改革に関する合意は別稿で扱いたい。 

第 1 章 遠 因

589 日。恐らくもう破られることはないであろう、前人未到の記録。それ ほどの長さ、いわば歴史的長さ*7の今回の政変の「遠因」は、ここ数年来の 政治的な事件、特に「2007 年の政変」*8、にあると思われる。フランス語系 政党がオランダ語系政党の要求する制度改革を全く受け入れなかったことが、

今日の問題(フラマン世論の先鋭化による)を生んだ。

フ ラ ン ド ル の 独 立 を 最 終 目 標 と す る 新 フ ラ ー ム ス 同 盟(N-VA、 オ ランダ語系右翼政党)とカルテル*9を組んだ、更に進んだ連邦制の形

(Confédéralisme)を追求する CD&V は、任期満了に伴う 2007 年 6 月 10

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日の総選挙*10で、フランドルで 29. 64%、全国では 18. 50%の得票をし、フ ランドルで第一党に返り咲いた*11

796, 521 票の記録的な個人票(voix de préférence)を獲得したルテルム 党首は、その勢いをかって組閣者(formateur)として、1999 年のフラマン 議会の決議を具体化する地域圏への大幅な権限分割を提案したが、フラン ス語系政党、特に cdH、は徹底的に反対した。フランス語系政党は、当時、

早急に国家改革をするよりも、今の制度の下でもう少し改善の努力してみる べきと考えていたからである。この見解の相違が交渉を長期化させ、難しく した理由の一つである。他にも様々な要因があり、ルテルムの個人的資質*12 のみならず、交渉方法*13についても異議が申し立てられた。

フランス語系政党は今回は要求する側ではないので、見返りが十分でなけ れば、フラマン側の提案に応じないとの原則的立場を崩さず、フランス語系 の人々の権利を侵害しかねない全ての改革に反対した cdH の党首ジョエル・

ミルケ(Joëlle Milquet)は「マダム・ノン」との異名を取った*14

11 月 7 日、 この日迄に BHV 問題*15について合意の見込みが立たなけれ ば、下院内務委員会で BHV 分割法案の採決を行なうとの N-VA の最後通牒 通り、フランス語系議員が退席した後、数に勝るオランダ語系議員のみで可 決してしまったのである。フランス語系政党が断固として反対している重要 な制度改革をオランダ語系政党が数を頼んで一方的に押し付けるということ は、制度改革の歴史において初めてのことであった。これにはフランス語系 議員が猛反発して、憲法上取りうる対抗手段として「利害対立解決手続(憲 法 143 条 §2)」*16を開始した。本来決定の延期は解決策の模索のためであ るのに、そうはならなず、そのまま手続期限が来ると、次々と新たな利害 対立解決手続が各申立権者から取られて、結局塩漬けにされてしまうことに なった。次いで 11 月 14 日には、フラマン政府内務大臣マリノ・クールン

(Marino Keulen)が、フランドルでのフラマン語使用の義務付けに関する

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「ぺータースの通達(circulaire Peeters)」に反して、2006 年の地方選およ び 2007 年の連邦選についてフランス語による選挙人の招集状を送付したこ となどを理由に、ブリュッセル周辺の言語便宜措置が認められている 3 つの コミューンの市長の任命を行なわないと発表した。これに未任命市長側が激 しく反発するなどした。

交渉が上手く進まない苛立ちから挑発的な事件が起きて、BHV 分割を要 求するオランダ語系政党と、これに対抗してブリュッセル地域圏の拡大を要 求するフランス語系政党との間の緊張が高まり、対立および相互不信が頂点 に達し、全ての議論が中断(blocage)されてしまった。

このような状況下で、結局ルテルムは、組閣者への指名および辞職を 2 度 も繰り返す羽目になったのである*17。80 万のフラマン人からの支持と期待 を十分に自覚したルテルムは、これに応えるためにフランス語系政党に大制 度改革の実現を迫ったが、フランス語系政党にとって提案の内容が過剰で、

しかも交渉が性急すぎて失敗した*18

制度改革交渉が長引いたので、社会・経済問題への対処も放ってはおけな いためこの問題を担当する暫定政権を作り、その間に選挙で勝利した政党間 の制度改革交渉がまとまるのを待つということになった。ルテルムはいった ん組閣を中断し(12 月 1 日)、代わりにこれまで事務管理をしていたヒー・

フェルホフスタット(Guy Verhofstadt)が暫定内閣(フェルホフスタット 第Ⅲ次内閣)を成立させた(12 月 21 日)*19。6 月 10 日の総選挙から 194 日 目のことであった*20。その後、翌 2008 年 3 月 20 日に漸くルテルム内閣が成 立した。

他方、制度改革の深化は 1999 年のフラマン議会の決議以来の悲願*21であ り、多数のフラマン人の望みにも拘わらずこれが叶えられなくて、2007 年 以降フラストレーションは沈潜し、積み重なって、フラマン世論は急速に先 鋭化していったのである*22

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政治が先鋭化しやすい環境は、「現行の選挙制度」が整えてしまっている という皮肉な状況がある。選挙区が言語によって分けられているので、フラ マン語系政党はフラマン人達のみを対象として政策を立案し、支持を訴えれ ば良いので、全国的な視点で物事を考える必要がないのである。つまり、フ ランス語系の人々の事やワロニーの事は視野に入れなくて良いのである*23 従って、自分たちだけの論理でものを考え、政治活動をすることになり、全 国的かつ総合的な視野を欠いた全く自己中心的な議論に至りかねないのであ る。しかも、選挙ではどうしてもポピュリズム的傾向は避けがたく、フラマ ンの大義を振りかざす政治的ポーズが受ければ、議席獲得のためにそうする ことになるのである。

CD&V のルテルムもしかりであった。主張の過激な右翼政党が勢力を伸 ばすにつれて、長期低落傾向にあったこの政党は、一層保守化したフラマン 人を取り込もうと自らも右傾化した発言をするようになったのである。遂に は右翼の N-VA とカルテルを結ぶことによって、票を集めることに成功し たのである。

ところで、この時に話に乗っていれば、過激な分離主義を唱える N-VA はまだ中央政界で力を持っていなかったから、フランス語系政党にとって交 渉はやりやすかった筈である。後知恵だが、フランス語系政党はこの時に判 断を誤ったのである。その後、2008 年頃にはフランス語系の人々も制度改 革もやむなしとの判断に次第に変わっていき、遂にはむしろ改革すべきとの 判断に至る者さえ出てきたのである*24。こうしてフランス語系に国家改革を 議論する準備ないし心構えが出来た頃には、交渉すべき相手は今度はモンス ター化していたのである。   

フランドルの独立を最終目標とするなど共同体問題に強硬な立場を取る N-VA は、支持を飛躍的に伸ばしており、2010 年の選挙前の各種世論調査 では更なる党勢拡大が予想されていた。

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第 2 章 激 震

(1)6 月 13 日の総選挙結果

結果は余りにも明瞭だった。フランドルの分離・独立を主張する右翼 N-VA が圧倒的な勝利を掴んだ。これまでにも同様の主張をする政党はあっ たが、これほどまでの成功を収めることは出来なかった(71 年に Volksunie がフランドルで 18. 83%取ったのが最高であった)。ベルギー政治史上初め て、 伝統的な政党ではなく、最近組織されたばかりのフラマン・ナショナリ スト政党が第一党になったのである。

下院では、フランドルで N-VA が大勝し(得票率 27. 8%、22 議席増の 27 議席)、緑の党(groen!)が僅かに得票を伸ばした(1 議席増の 5 議席)。ワ ロニーでは PS(6 議席増の 26 議席)が勝ち、MR が敗退した(5 議席減の 18 議席)。もう一つの特徴は、近年台頭していた極右 Vlaams Belang が明 らかに退潮へ転換したことである(5 議席減の 12 議席)*25

この選挙結果を「与野党関係の観点」から説明するのは困難である。と言 うのは、連立政党に対する制裁投票とは言えないからである。連立与党で あった PS はかなり票を伸ばした(2007 年と比べると、ブリュッセルで得票 率 21. 30%から 26. 34%へ、ワロニーで 29. 48%から 37. 69%へ)。その他の 連立 4 党は敗退し、中には手痛い敗北を喫した党もあった(Open VLD5 議 席減)。

また、「左右対立の図式」でも説明しがたい。二つの勝者は全ての点で正 反対だからである。N-VA は明らかに分離・共和主義であり、社会・経済的 には保守である。対する PS は、王制も含めたベルギーの現行制度(国の統 一)を支持する左翼政党だからである。

では、どのように考えるべきかというと、N-VA の勝利は、上記(第 1 章 遠因)したように共同体問題の進展がないことへのフラマン人の不満の表明 であり、PS の勝利は、伝統的に弱い立場にある者の保護者のイメージがあ

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ることに加え、フラマン側の共同体問題に関する要求の激化を前にしてフ ランス語系の人々の利益保護に敏感だとの評価から、有権者が同党を選択し たものと思われる。従って、2010 年の選挙は共同体問題が主な争点であり、

フランドルおよびワロニーで多くの有権者がこの争点を念頭に置いて投票し たということになる。  

(2)N-VA について

選挙前の世論調査から、N-VA の勝利は予測されてはいたものの、これほ どまでの勝ちを収めるとは誰も想像だにしていなかったであろう。それだけ に驚きをもって迎えられた。マスコミもフランス語系とオランダ語系に二 分されているので、ブリュッセルやワロニーではフランドルのニュースは 断片的にしか報道されず、N-VA という政党についてよく知っているワロン 人は実際にはほとんどいなかった。フランドルの分離独立を主張し、王制に 反対しているナショナリスト泡沫政党くらいの認識しかなかった。党首のバ ルト・ドゥ・ヴェーバー(Bart De Weber)についてだけでなく、同党の社 会・経済政策なども皆目見当もつかなかった。それが大勝利を収め、何と第 一党に躍り出たのである。激震ないし驚愕というよりは、「未知との遭遇」

に対する戸惑いであったかも知れない。フランス語系政党の指導者達の誰一 人として、 ドゥ・ヴェーバー党首と話したこともなかった。当然ながら、関 心は、同党と党首に向けられた。

a)N-VA とは、2001 年のフランドルの民族主義政党 Volksunie の分裂時 に、その右派が作った政党である。欧州連合の枠組み内でのフランドルの 独立を、民主主義のルールに則って、達成することを主要な目標としている。

政治的にはフラマン民族主義を掲げて極右に近いところがあるが、民主主義 を標榜し、これに則って活動しているので極右とは区別される。最低得票率 5%をクリアするために CD&V とカルテルを組み、2003 年に初めて国政に

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挑戦して下院で 1 議席を獲得した。その後地方選挙で次第に力を付け、2007 年の国政選挙では 5 議席を獲得し、この時ドゥ・ヴェーバーも下院議員に なった。2008 年に共同体問題の処理方法で対立しカルテル解消。

b)党首ドゥ・ヴェーバーは 1970 年 12 月生まれ、41 歳。オランダ語系 ルーヴァン・カトリック大学卒業(歴史学士、高校教員免許)。歴史学博士 を目指すが、政治活動に専念するため断念。2001 年に N-VA を同志と共に 創立。2004 年にフラマン議会議員となり、同年党首。2007 年に下院議員初 当選。2009 年地方選で、フラマン議会議員に再当選。得票数 12. 3 万票で第 2 位。2010 年の国政選挙で、785, 771 票の個人票を獲得して上院議員に。中 央政界での政治経験は浅いが、フランドルで圧倒的な支持を得ている政治家。

テレビのクイズ番組に出演して最終まで残るなど、その豊富な知識と賢さの 印象付けに成功し、人気を得る。フランス語でも当意即妙にマスコミのイ ンタービューをこなすなどのそつのなさもある。反面、自分の信念は曲げず、

国王への拝謁にも日頃の服装、上着にノー・ネクタイ、で行くなどの徹底し た共和主義者ぶりを見せたりもする。

第 3 章 迷 走

選挙の結果、水と油ほどに政策が異なる勝者 2 党、極右に近いフランドル の民族主義政党と社会主義を掲げるワロニーの社会党、が政権交渉すること になったのである。立場の隔たりの大きさから最初から交渉の難航が予想さ れた。その通り、連立交渉は長くなり世界記録を樹立したが、その長さだけ でなく、他にも記録ずくめとなった。①交渉中に事務管理内閣の権限が拡大 されたこと、②国王のイニシアティブが交渉に大きな影響を与えたこと、③ 久しぶりにフランス語系政治家が首相のポストに就いたことなどである。

2010 年 4 月 26 日(ルテルム内閣辞職)から 2011 年 12 月 6 日(ディ・ル ポ内閣宣誓)まで、この 1 年半以上の期間を分ければ、大きく「3 つに区

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分」できると思われる。

第 1 は、「2010 年 6 月 13 日総選挙から N-VA 抜きで制度改革交渉するこ とになった 2011 年 7 月 21 日まで」である。

この期間は、既存政党にとって新たに台頭した右翼・民族主義政党とどの ように向き合うのかが問われた期間であった。これを通じて「制度改革交渉 の枠組み」が最終的に決まった。

第 2 は、「7 月 21 日から制度改革交渉に合意した 10 月 4 日まで」である。

この期間は、オランダ語系の人々とフランス語系の人々の間の「共同体対 立」を如何に解決するかが模索された期間であった。第一党の N-VA が自 ら交渉の席から去ったので、交渉政党は必ず合意しなければならないとの思 いから議論を重ねた。

第 3 は、「10 月 4 日から社会・経済問題交渉に合意した 11 月 26 日まで」

である。

この期間は、伝統的な「左右の対立」で説明されなくてはならない。年金 改革などをどのように進めるかについて、 社会主義と自由主義という伝統的 な政治思想ないし政策の違いから対立が生じた。

第 1 節 第 1 期間、制度改革の交渉枠組みが決まるまで

(1)長期化の原因

第 1 期間は、最も長く、色んなエピソードに富むが、言わば「民主主義の 負の部分」の苦しみに喘いだものであったと言うことが出来よう。1 年強の 長さになったが、なぜ長期化したかについてみると、いくつかの「原因」を 指摘できる。

先ず、極右に近い民族主義政党とは、社会党ならずともどの政党も連立交 渉に手を焼く筈である。これが「長期化の原因その 1」である。

次に、何であれ、国民の選択は尊重されなくてはならない。はっきりとし

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た民意が示されたのだから、民主主義社会においてこれを最初から無視した り迂回するようなことは許されない。従って、極端な主張をする政党を政権 および制度改革交渉から事前に排除出来なかったこと、これが「長期化の原 因その 2」である。

実は、総選挙後辞職した連立政権は、下院で 76 議席を擁し、過半数を維 持していた。しかし、N-VA の勝利とその他の政党の敗北から、現在の連立 政権が続投することは不適切だと考えられた。確かに、国会で多数を占める ためだけなら、最初からその他の政党と連立工作をして、N-VA を野党に追 い込むことも出来たのである。多数派形成のための数合わせとしてはあり えたが、民主主義的には奇策であったし、全てのオランダ語系政党が N-VA による主導権発揮を求めてもいた。特に CD&V が N-VA が交渉の場にいる ことを求めたので、憲法改正(制度改革)に必要な 3 分の 2 の特別多数を将 来的に確保するためにはフランドルの有力政党 CD&V の協力が不可欠であ り、その求めに応じて N-VA と交渉することになったのである。

しかし、筆者の見るところ、N-VA には第一党としての責任を十分に果た す用意も心構えもなかった。第一党に躍り出たことはドゥ・ヴェーバーに とっても青天の霹靂であり、これ程の勝利は想像もしていなかったのではな いか。そういう意味では、全く未知ないし未経験の領域で判断を求められ、

主導権発揮を求められて実際には窮したのではあるまいか。と考えれば、第 一党の党首が自ら首相のポストに就こうとせず、端から首相のポストを第二 党の社会党党首ディ・ルポに譲り、大臣のポストすら要求せず、自分から連 立のための積極的な提案をしたりもせず、大きな政治的要求のある側が受け 身に回って、自らが求める制度改革についての提案を待つという、全く奇妙 なことが起きたことを理解できる。

いずれにしても、第一党がこの様な態度だと、交渉は大変難しい。これま でにない形の交渉を強いられるからである。ディ ・ ルポもまた想定外の立

(13)

場に置かれたのである。ポストを要求しない者への条件提示はどうすべきか、

迷うところである。結局のところ、相手の要求をどこまで飲めるかにかかっ てくるが、ポストを要求しない分だけ多く相手の要求に応えることを強いら れる羽目になるのである。相手が妥協せず原則的立場を崩さなければ、こち らにも立場や言い分はあるので、対立は激しくなることはあっても、交渉が 易しくなることはない。一層話がまとまらなくなるのである。

この様な状況の下で、N-VA の要求や最終目標がどこにあるのかを手探り で見極めながら*26、馴れない形の交渉をしなくてはならなくなったことが、

「長期化の原因その 3」である。これが最大の原因であったと思われる。

最後に、この N-VA が付けた唯一の条件が、フランドルの求める大幅な 制度改革についての合意が先に得られなければ、連立交渉に応じないという ものであった。制度改革交渉は 2 つの共同体の考え方が完全に対立していて、

これによって何年も前から、特にルテルム前内閣の下では、政権内の話し合 いでは合意に至ることが不可能なので、「共同体間対話」によって合意を模 索するということになりながら、少しの進捗も見られなかった曰く付きの躓 きの石である。この条件が、「長期化の原因その 4」 であった。

確かに、N-VA が、従来の交渉方法の反省として、政権内に取り込まれて しまう前に最重要課題である制度改革について交渉し、可能な限りの譲歩を 勝ち取り、予め合意しておく方が得るものが大きく、確実な成果が期待でき ると判断したことは理解できる。政権内野党の立場では、発言力や影響力に 限りがあるが、組閣前であれば、議席数の多さを武器に最大限の要求をする ことが出来、要求実現の可能性も高い。また、選挙民の期待に応えているこ とが明瞭で、何のために戦う党であるかのアピールが分かりやすい。この点 はしたたかであった。この N-VA の後ろに控えた CD&V も、この交渉手順 に賛意を示した*27

ここに至って、先ず制度改革についての合意を目指し、次に連立交渉をし

(14)

て組閣を目指すという方針で大方の一致を見たのである。そして、今回の政 変の間、この方針はずっと維持されたのである。

(2)首相任命に関する国王のイニシアティブ

第 1 期間において際だったのは、国王のイニシアティブであった。首相 任命までの組閣情報収集過程において、先ず N-VA 党首のバルト・ドゥ・

ヴェーバーを組閣情報提供者(informateur)に、次いで PS 党首のエリオ・

ディ・ルポを組閣準備者(préformateur)に、ディ・ルポの失敗後、上・下 両院議長を調停者(médiateur)に、更に再びドゥ・ヴェーバーを論点整理 者(clalificateur)に、その覚書が拒否された後、sp.a の元党首のヨハン・

ヴァンドゥ・ラノット(Johan Vande Lanotte)を仲裁者(conciliateur)に、

その失敗後、MR 党首のディディエ・レンデルス(Didier Renders)を組閣 情報提供者に、何も進展しなかったことを踏まえ、今度は CD&V 党首のワ ウター・ベーケ(Wouter Beke)を交渉者(négociateur)に、そして最後 に再びディ・ルポを組閣者(formateur)にと任命したのである。このよう な介入は如何なる根拠に基づくのであろうか。

憲法上、首相も含めた大臣の任免権は国王にある(憲法 96 条Ⅰ項)。では、

具体的にどのような手順で任命するかというと、憲法には関連規定が全くな く、「憲法慣習*28」では次のようになっている。

首相辞任や総選挙に伴う場合を念頭に置くと*29、国王は、

①まず首相および各党党首、両院議長を始めとして各界を代表する人々を 王宮に招き、意見を徴する。ここから目下の政治状況および政治勢力の関係 を把握し、政党の現有または獲得議席数に基づくだけでなく、政治的、言語 的、社会・経済的などの観点からも可能で望ましい連立政権*30についての 大体の目星を付ける。

②次に、有力な政治家(多くの場合は勝利した政党党首、政治混迷時には

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熟練した政治家や元首相など)を「組閣情報提供者」に任命し、どのような 連立が可能なのか探らせ、それを実現できる首相候補者について報告を書面 で提出させる。なお、政局が混乱している場合には「調停者」や「論点整理 者」を任命したり、更に長引く場合には「交渉者」や「仲裁者」を任命して、

見解の相違を解消させ、特定の論点についてコンセンサスが得られるように 仲介させ、結果を書面で報告させる。

③これに基づき、「組閣者」を任命し、連立交渉をさせ、組閣に当たらせ る。連立交渉が合意に達し、連立政権プログラム(連立政権綱領)が成立す ると、組閣者(ここに至ると首相候補)が、連立各党に大臣ポストを配分し、

政党の推薦を考慮して、具体的に内閣の構成を決定する(組閣)。

④続いて、国王は政府の辞職を認めるアレテに署名し、新たに組織された 政府構成員任命のアレテに署名する。つまり、辞職を申し出た首相の提案に 基づき新首相を任命する国王のアレテに署名する。続いて、新首相の提案に 基づき前首相および前閣僚の辞職を承認する国王のアレテおよび新閣僚を任 命する国王のアレテに署名するのである。

⑤その後、新首相以下は、国王の面前で宣誓を行ない、この時点で内閣が 成立する(憲法 96 条Ⅱ項)*31

この課程の全ての段階で、憲法慣習により、国王は必要と判断すれば様々 なイニシアティブを取ることが出来るのである。

今回の政変では、最初の情報収集過程において、組閣情報提供者に続いて、

対立を考慮して組閣準備者を任命したが、その激しさにより連立の見込み が立たないので 調停者、論点整理者などを状況に応じて次々に任命するこ とになった。それは、更に政局を混迷させないためまたは時間を稼ぐためで あったり、対立の中で互いに信頼感を失った当事者を宥めたりなどの意図で の介入であった。任命を受けた者は、国王より委嘱された任務中に何回か中 間報告をしたりしているので、任命時および途中で、国王から具体的な指示

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や要望が伝えられていると思われるが、拝謁時の会話の内容については厳秘 とされているので、詳しいことは分からない。ただ、国王が、積極的な介入 を適宜行ない、相応の成果を挙げていることが確認される。

ここに微妙な問題が存在していることを指摘しない訳にはいかない。ベル ギーの国王は立憲君主であるから(憲法 106 条)、憲法によって授権された 権限を、大臣の助言があって初めて、行使できるのである。大臣助言制に基 づく国王の行為であるからこそ、国王は不可侵で、大臣がその責任を負うの である(憲法 88 条)。このことは、個人的には国王は何らの政治的権限を持 たないということである。これは、国王は政治的には中立でなくてはならな いということをも意味している。とすると、この原則と他の憲法規定、例え ば国王の大臣任命権、とをどのように調和させるかという問題が生じる。慣 習では、広く色んな人の意見や考えを聞いた(聴聞 consultation)後に、こ れに基づきいくつかの任命をするが、この場合には「中立性」を欠く訳では ない。何故なら、政治的な色彩のある「交渉」などをする訳ではないから である。そこでは「中立的な国王としての影響力行使(haute magistrture d'influence)」をしていると言えよう。ただ、国王の指示が、特定の政治的 傾向への判断を含むかのように解釈されては問題である。政治的袋小路から 一日も早く抜け出すためとはいえ、広く意見を聴聞することなしに、様々な 介入を行なうと、個人的判断を基にしているのではないかとその中立性に疑 問が投げ掛けられる場合が生じうる。いずれにしても、国王との会談内容は 秘密であるから、この問題には永遠に答えがないということになろうか。

過去においては、閣僚に推薦された者を拒否したり、被推薦者以外の者を あるポストに推したり、例えば首相への就任をためらっている者を説得した りなどしたことがあったそうである*32

欧州諸国の国王の権限が制限されているのに反して(例えば、デンマーク やルクセンブルグ、ノルウェーでは、特に英国においても、内閣の成立に

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際し宣誓を受けるだけであり、スウェーデンでは関与すらしない*33)、ベル ギー国王は、以上のように、政府の任命時だけでなく辞職時*34にも、場合 によっては本質的とも言える非常に重要な政治的役割を果たしていることが 確認されるのである。

 

(3)事務管理内閣の権限について

そもそも事務管理内閣とは、内閣の辞職から次の内閣の成立までの間、

日々の行政活動と国家行政の継続性を確保するために、辞職を表明した内閣 に活動することを認める場合を言い、その為、内閣としては正規の完全な権 限を持つことがない。つまり、次期内閣を拘束するような新たな決定をする ことが出来ないとされるのである*35。本来、短期間の活動が想定されている ものである。

さて、辞職を表明した内閣がなぜ権限行使を許されるかというと、いささ か形式論ではあるが、辞職は国王により認められたとしても、王宮のコミュ ニケによって公表されたに過ぎない非公式のものであり、官報に搭載される 国王のアレテによる正式なものではないからだと言える。

組閣交渉が長引くと想定された 2010 年 10 月 5 日、国王は、ルテルム首相 に対し、「事務管理内閣が、国会と緊密に協力して、長期の事務管理中、市 民の経済的・社会的安定(bien-être)を図るため全ての有益な措置を取るよ う」命じた*36。次いで、2011 年 2 月 2 日、国王は、政変の長さに鑑み、「首 相に対し、事務管理内閣が 2011 年予算を国会に提出するよう命じ、また来 る数年間の予算措置および構造改革に関する欧州の要求に近い将来に応える ために必要な規定を定めるよう」命じた。同様に首相に対し、「事務管理内 閣が市民の安定を保持するために経済・社会・財政的に必要な全ての措置を 取るよう」命じた*37

この命令に基づき、ルテルム事務管理内閣は予算編成したのである。ま

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た、2011 年 3 月 21 日から NATO のリビアへの軍事介入に参加した(6 機 の F-16 による空爆および地中海への掃海艇一隻派遣)*38。因みに、これら に先立ち 2010 年 5 月 7 日には憲法改正宣言に新たな条文を加えてもいた。

「継続性の確保」という観点からすれば、既に取りかかられていたものを 引継ぎないし踏襲または完成させる行為は、新たな決定などではなく、継続 性そのものだと考えることが出来るであろう。

では、翌年度の政府の活動を拘束することになる予算編成や空爆への参加 などをどのように正当化できるであろうか。「緊急性」を援用して、「国家や 市民を重大な危険に曝すとき」には許されるとする考え方がある。論者は

「危険性が重大であるなら、如何なる逡巡も許されないし、如何なる措置も アプリオリには排除されない。」とする。「事例毎に、緊急性や一定数の措置 を取る必要性を内閣が判断すべきである。例えば、法案の提案趣旨説明にお いて、国民に説明すべきである。それが予算であろうと他の法令であろうと 変わりはない。」*39とする。

考え方としては現実的であるかも知れないが、「重大性」や「危険」の概 念が曖昧だと思われる。「国家が重大な危険に曝されるとき」とは、国家緊 急権を発動すべき場合をいうのであろうが、この場合でも、「国の独立が損 なわれるとき」および「領土が侵害されるとき」または「国家行政の通常の 執行が脅かされるとき」などの条件、これでもまだ曖昧であるかも知れない が、を付加しないと、判断者(内閣)の恣意に陥る可能性がある。次に「市 民を重大な危険に曝すとき」とは、どのような場合が想定されているのか判 然としないが、いずれにしても、「生命や健康に対する重大な侵害の蓋然性 があるとき」や「重大な人権侵害のある場合」などの例示的表現を用いるべ きである。これも上記と同じ理由からである。

a)ベルギーから遠く離れたリビアへの軍事介入がどのように正当化され るのか疑問である。介入しなくても、直ちに国家を重大な危険に曝すとは思

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えないからである。確かに、放置すれば、カダフィー政権側のベンガジへの 攻撃が成功し、情勢に大きな変化が生じ得たということは言えるかも知れな いし(政治的緊急性?)、NATO 内での肩身が狭くなるという政治的判断も あるやも知れないが、いずれにしろ「緊急性」では説明できないと思われる。

「緊急性」の要件を厳格に考えないと、何でも可能になり、歯止めがなく なってしまう。成る程、ベルギーにとって空爆参加には先例があり、その意 味ではハードルは高くなかったかも知れないが、政府は、事務管理の目的に ついて自問すべきであった。その上で事務管理は例外的なのだから、その活 動領域を拡大せずに、限定的な領域でのみ活動すべきとの判断に至るべきで あった。政治的に必要ならば、国会の承認を取りさえすれば何でもできると なれば、憲法を定める意味などなくなり、これこそ立憲主義に反すると言わ なければならない。

b)憲法改正宣言の対象拡大については、将来の内閣を拘束することにな るのは明白で、事務管理の枠をはみ出していると思われる。この意味で、デ ルペレ上院議員が拡大について反対したように*40、これが憲法的に正しい態 度であった。

c)予算に関して言うなら、緊急事態が生じたので、これに対処するため に補正予算を組むというのであれば、まだ理解できるが、翌年度の新たな予 算作成まで認めてしまって良いものであろうか。

政変が長く、年度を跨ぐことがあるとしても、国王の発言を根拠として、

そのような政治的必要性から、事務管理内閣が新たな決定をなし得るのであ れば、何でも可能になってしまう。正式には辞職していないとは言っても、

既に辞意を表明しており、国会はどのような政治的統制*41を加えうるであ ろうか。辞意表明済みなので、不信任は有効ではない。だからこそ、政治的 に必要だからと新たな決定を認めてしまってはならないのである。

このように考えると、国王の予算編成に関するイニシアティブは憲法的に

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は大変な問題があったと結論せざるを得ない。国王が個人的に国政について 懸念を持つことがあるのはむしろ人間として自然なことだと思われるが、そ のことをきっかけに、大臣任命の場合のように、政治的な影響を持ちうるイ ニシアティブを取ることは、国王の役割を逸脱していると言わざるを得ない。

憲法的または法的根拠などどこにもないのは勿論、政治的に国民の意思を代 弁するというような媒介的役割を担っている訳でもないからである。

このように憲法にも民主主義にも反する国王のイニシアティブによって、

事務管理内閣の権限が事実上拡大されてしまったことが由々しい問題なので ある。これに対する有効な方法がないからである。先例として扱われるのか どうかも今は分からない。

以上のような次第で成立した、つまり違憲の瑕疵がある、予算が執行され ると、それが行政訴訟などの対象となり、憲法違反と判断される場合がある であろうが、その時に、そもそもの問題についてどのような解決が与えられ または処理がなされるのかは、誰にも分からない。従って、待つより他に方 法がないのである。

  

(4)国会解散という選択肢について

対立が激しく、交渉が一向にまとまらないので、時間の経過と共に打開を 図るためにやはり解散・総選挙以外にないと考える者が出てきた*42。次善の 策を考えるということ自体は悪くはないが、憲法的には問題がある。

先ず、政治的観点から、総選挙の後、勝利者がはっきりしているのに、連 立が組めないというのは、それは交渉に当たっている政党に問題があるので ある。国民(有権者)の判断は既に示されているので、更にもう一度尋ねる に及ばないし、前回の選挙からそんなに時間が経ってもいないのに、新たな 選挙で国民の判断が変わることもあるまい。

次に法的観点から、そもそも誰がどのようにして解散するのであろうか。

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ここに憲法上大きな問題があるのである。辞職を表明した内閣に実質的解散 権があるとでも言うのであろうか。この本質的問題が横たわっている上に、

憲法 46 条によって解散できる場合が限定されているから(建設的不信任)、

首相の判断のみでの解散はなし得ないのである。

確かに、憲法 46 条Ⅲ項は、「国王は、連邦政府辞職の場合、下院議員の過 半数の同意を得た後、下院を解散することができる。」と定めている(1993 年に導入された手続だが、まだ適用されたことがない)。これは、一種の

「自主解散」に関する規定と言えるかも知れない。だが、重大なのは、この 手続を取ると、国会から憲法制定(改正)権を奪ってしまうことである。論 者はこの点に考えが及んでいないのである。制度改革、当然に憲法改正を必 要とする、を話し合おうとしているのに、国会から憲法制定(改正)権を 奪ってしまっては元も子もなくなってしまうではないか。従って、この方法 も採り得ないのである。他に採り得るのは、憲法 195 条の場合だが、それは したばかりである。憲法的にも政治的にも、同じ事をまたする必要がどこに あるだろうか。

こう考えてくると、解散という選択肢は少なくとも憲法的にはあり得ない のである*43

 

(5)制度改革交渉の枠組みの決定について

レンデルスが組閣情報提供者に任命された 2011 年 2 月から、それまで 社会党のディ・ルポによって 9 ヶ月近くも交渉から仲間外れにされてい た自由党が加わることになった。こうして従来の 7 党(PS, sp.a, N-VA, CD&V,cdH, Ecolo, Groen!)に代えて、9 党で交渉することになった。伝統 的政党の自由党が加わったことで下院での余裕ある多数が確保され、憲法改 正の条件が整いつつあった。

ただ、何と言っても交渉停滞解決にとって一番大きな影響を与えた要素

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は、「N-VA 抜きでの交渉」になったことである。妥協しようとしない政党 を相手にしなくて済むようになったことが、交渉促進の契機となった。従っ て、問題は、N-VA 抜きでの交渉はありえないとしていた CD&V が、7 月 4 日月曜から 20 日水曜までの 17 日間に、どのようにして態度変更に至ったの か、その背景ないし理由は何かなのである。

ディ・ルポの覚書発表の 7 月 4 日以降の CD&V の動きに焦点を当ててみ たい。

N-VA が デ ィ・ ル ポ の 覚 書 を 拒 否 し た 7 月 7 日 木 曜 の 夜、CD&V 党 首のべーケは VRT テレビの番組 Terzake で次のように述べた。「もし N-VA が交渉の席に着かないのなら、我々はオリビエ・マンガン(Olivier Maingain)の党*44に引き渡されてしまう。」「マンガンと距離を置こうとし ない MR などと共に BHV を分割できると誰が信じるだろうか。」このように、

N-VA 抜きで国家改革交渉に参加しない自党の立場を正当化しつつも、同時 に「残念なのは、N-VA がそれを信じないことではなく、代替案を示さない ことだ。」*45とべーケは感想を漏らした。

オランダ語系およびフランス語系双方のメディアの覚書に対する評価は 好意的で、バランスが取れていて、勇気のあるものと評価するものもあっ た。例えば Le Soir 紙は、「バランスが取れているのは、皆で痛みを分かち 合い、各人にタブーを取り除くように求めている点である。…相互の譲歩 を求めており、これは社会党党首の覚書ではなく、争いを超越したところ にいる組閣者によって署名されたベルギーのための設計図である。」とし *46。カルル・デヴリース(Carl Devlies)不正に対する戦い担当連邦政務 次官(CD&V)は、「我々はこの覚書を深く検討することになろう。私は、

ディ・ルポが多大な努力をし、念入りな準備をしたとの印象を持っている。

挙げられた数字は現実的だと思う。」*47と述べて、CD&V もこの覚書受け入 れに傾くものと思わせた。社会党の気象 ・ エネルギー相のポール・マニエッ

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ト(Paul Magnette)さえ「この覚書は党首のものではない。党内において、

労働組合や共済組合においても、かろうじて受け入れられるものだ。」*48 感想を述べた。ディ・ルポが大胆にも社会党にとっての多くのタブーを放棄 しようとしていることを示すものとなった。

他の 7 党は既に覚書を叩き台とする交渉に同意していた*49。総選挙から 1 年以上経ってしまった今や、覚書への批判はあっても、交渉に反対するこ とは、国の将来と国民の繁栄を危険に曝すことになるとの認識が生まれつつ あっただけに、N-VA の拒否はそれだけ際立っていた。

実はこの日ちょっとした事件があった。

午前中、CD&V では“G4”、党の戦略的な決定を下す非公式機関、の会 議があった。つまり、党首ワウター・ベーケ(Wouter Beke, 74 年 8 月生)、

連邦政府首相イヴ・ルテルム( Yves Leterme, 60 年 10 月生)、フラマン政 府首相クリス・ペータース(Kris Peeters, 62 年 5 月生)、連邦外務大臣ス テーヴン・ファンアッケレ(Steven Vanackere, 64 年 2 月生)の 4 人が会合 し、ディ・ルポの覚書の分析を行なった。「交渉を受け入れるが条件付("oui, mais")」に一応傾いて、散会した。彼らとしては、N-VA の回答を「交渉を 受け入れるが条件付」と予測しており、これに乗ろうと考えていたのであ る。この時には誰も N-VA の回答を知らなかった。しばらくして、べーケ は N-VA の答え“ノン”を知らされ、同時に午後直ぐに記者会見するとの 情報を得た。正午に記者会見を予定していた CD&V は、慌ててキャンセル して、今度は“G20”を開いた。これも非公式機関だが、より多くの主立っ た者、連邦大臣や様々な議院の党代表など、をメンバーとする。緊張した雰 囲気のなか、べーケが情報を伝えた。どうすべきかと迷っている時に、主導 権を取ったのがクリス・ペータースだった。G4 の首相と外相は外務委員会 に出席していて、N-VA の回答を知らされていたのに、この会議に来なかっ た。ルテルムには、ペータースの考え、N-VA に従うこと、が分かっていた。

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どういう理由からかルテルムはそれを黙認した(N-VA 寄りのペータースと の決定的対立を避けようとしたのかも知れない…。)。案の定ペータースは、

覚書が 2014 年に 28 億ユーロもフランドルに払わせることを予定しているこ とは受け入れられないと、最初に反対した。少なからずの者が条件付受け入 れに賛成したが、ペータースは、ルテルムのいないところで、断固として反 対し、その影響力を行使した。それで、べーケも反対に回り、結局ピーター スは自分の判断を押し付けることができた。党首ベーケは、急いで記者会見 して党の判断を、N-VA の会見前に、何とか発表することができた*50

いつも後追いしているばかりではないという形を作れて党としての体面は 一応保てたかも知れないが、この一件で党としての判断がはっきりしないと いうことを如実に示してしまった。つまり、党の実質最高機関の G4 にあっ てさえ、意思は統一されていないのである。思えば、1999 年の野党への転 落後から、党改革も思うような結果が出ず、N-VA とのカルテルにまで至っ てしまい、まるでキリスト教民主党とは言えなくなってしまった感があっ *51。特に 2010 年 6 月の選挙敗北以来、まだ若い党の指導者達はアイデン ティティーを見失ったかのようである。彼らの「戦略」といえば、N-VA の 後ろに控えて、自らは行動しない消極主義そのものだからである。現実的 な路線を取ろうとする者と N-VA と近い路線を維持しようとする者の間で、

決定的な対立を避けるために、先ずは様子を眺めるという事なかれ主義に陥 り、問題を先送りして、決断をしてこなかったのではないか。

現実的な妥協派はルテルムに代表される。2007 年以降、彼は随分変わった、

つまり中央政界での経験が彼を現実主義に変えたと思われる。自らと異なる 立場の者の意見をよく聞き、互いに妥協をしなければ、何も実現できないこ とを彼は身をもって知った。ファンアッケレもこちらである。ただ、2 人と も、はっきりとものを言わないところがある*52

N-VA と近い路線はペータースに代表される。彼はフラマン政府首相とし

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て N-VA と連立している。彼にとって N-VA との関係維持は自らの地位の 将来とも関係する。2012 年 10 月には地方選挙も控えており、今は大事な時 である。従って、フラマン政府を危機に陥らせることには全て反対である。

フラマン政府の財政負担について敏感なのは、N-VA の大臣が担当している からでもある。そこに彼は十分気を遣っている。もし N-VA が他党、特に sp.a、と連立を組みでもすれば大変である。また、保守的な彼には「フラマ ンの大義」を追求するという錦の御旗があり、これには誰しも抗し難いので ある。そこで、ペータースが大体において主導している*53と見られている。

G4 の中で最も若い党首のベーケは、両者の主導権争いの中で、間を取り 持つまでには至らず、必要なときに両者にお伺いを立てて身を処すしかない のである。従って、「制度交渉の過程で、交渉の席にいなくても、CD&V 内 で支配的影響力を持っていたのはペータースだった。何かにつけてベーケは 中座して彼に電話し、指示を仰いでいた。我慢がならないのは、朝 3 時過ぎ に彼が寝ているときには、何もできなかったことである。」とのある交渉者 の証言*54があるのも頷ける。真面目なだけに彼は言付けをよく守った。

さて、ただ反対するだけで、代替案を示さない N-VA の態度は建設的と は言えない。これまで、交渉に乗ると見せかけてはいるが、本音は交渉を長 引かせるだけ長引かせて、失敗させることにあるとか、妥協する気が全くな いなどと指摘や非難をされてきたが、「残念なのは…」と漏らしたところに 同じように感じ始めているべーケの批判的心情が表れていた。N-VA の政党 としての姿勢への疑問が湧き、党首ドゥ・ヴェーバーに対する政治家として の評価が揺らぎ始めていた証左ではなかろうか。N-VA 抜きでの交渉には参 加しないと公式には言明するものの、政党 CD&V の判断は、覚書が交渉開 始に値するものということではなかったか。ベーケには、ドゥ・ヴェーバー が間違っていることが分かっていた。でも、彼には従わねばならない…。

7 月 8 日金曜、憲法改正に必要な特別多数を確保できなくなったので、

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ディ・ルポは国王に辞職を申し出たが、保留となった。

7 月 9 日土曜、N-VA 抜きでの交渉を求める意見が各党から表明されてい た。Open VLD 党首のドゥ・クローは、「N-VA にはうんざりだ。この党は どんなものであれ妥協案に賛成することがない。彼らとは共に進むことがで きない。もうやり方を変える時だ。」と述べていた。

既に選挙後 13 ヶ月が経とうとしていた。十分過ぎるほどの時間をかけて 選挙の勝者 N-VA と話し合いを続ける努力をしてきた。ディ・ルポの覚書 は、左右どちらに偏するものでもなく、全体的な立場から作成されたもので ある。これを拒否するのは、責任ある政党としての態度ではない。いまこ こで N-VA との対話を中止したとしても、N-VA 自らの判断による拒否によ るものであるから、たとえ選挙結果を尊重しない結果になるとしても、それ は、民意を無視する訳でも、民主主義に反する訳でもない。国民へのちゃん とした説明が可能である今こそ、CD&V を N-VA から切り離さねばならな い。問題は、CD&V の体面を傷付けずに、どのように事を運ぶかであった。

選挙結果の尊重という、いわば民主主義の当然のルールに従い、 あるいは ここまでそれに囚われてきたが、13 ヶ月後でも連立交渉が一向に進んでい ない。それは民主主義の負の部分が現れたと言えよう。勝者がその勝利を 以て自らに有利に事を運ぶことができなかったということが、いま明らかに なったのである。ならば、他の党は今こそ選挙結果の拘束から解放されて、

勝者抜きに自由に交渉することができる。ディ ・ ルポの社会党もそう考えた。

CD&V を合理的な方向へ導くためのあらゆるコンタクトが試みられること になった。

7 月 10 日日曜、フランドルのフランスとの国境に近い町コルトレイク

(Kortrijk)で開かれた「黄金の拍車の戦い(1302 年)」を記念したフラン ドルの祭日で、大喝采を浴びたのは他ならぬバルト・ドゥ・ヴェーバーだっ た。彼が喝采を受けている間、フランドル政府首相のクリス・ペータースは、

参照

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