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国交回復交渉と「対日請求問題」

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(1)

第二次世界大戦中立国スペインの戦争被害:

国交回復交渉と「対日請求問題」

-外交史料館公開資料から-

荒沢 千賀子

Neutral Spain’s war damage during WWII: Negotiation with Japan

for re-establishment of diplomatic relations and settlement of “war damage claims”

-On the basis of Japan’s diplomatic documents open to the public-

ARASAWA Chikako

Summary:

This article examines the negotiation process for re-establishing diplomatic relations and reaching a settlement of Spain’ s claims, based on documents from the Diplomatic Archives of the Ministry of Foreign Affairs of Japan. Neutral countries’ war damage during WWII is little studied. Here, with Spain’ s case, I show how Japan led to express its

“deep regrets” officially and to pay damages individually.

It is not widely known that, in spite of Spain’ s neutrality during WWII, Spanish citizens in the Philippines suffered severe war damage during the Battle of Manila (3 February – 3 March 1945). Blaming Japanese troops’ “atrocities” in Manila, Spain decided to break off diplomatic relations with Japan (12 April 1945), particularly because of the assault against the Spanish Consulate General in Manila by a group of Japanese soldiers. After signing the Peace Treaty in San Francisco

(8 September 1951), Japan and Spain started a four months’ negotiation to resume normal diplomatic relations, with the result that Japan had no alternative but to express its “deep regrets” for the assault in notes exchanged. Finally, Japan made reparations for the individual damages

(19 February 1957).

(2)

1.はじめに

スペインは日本との間に2018年には外交関係樹立150周年

を数える関係を 築き、第二次世界大戦では中立の立場を利用して日本の「利益代表すら引き受 けた友好国

」であった。だが、フィリピンのマニラ戦

で在比スペイン国民 が深刻な戦争被害を受けると、日本軍の残虐行為を非難した

スペイン政府は、

在マニラ・スペイン総領事館襲撃事件

を主要な理由として、1945年4月12日 日本との国交を断絶した。

事件の7年後にあたる1952年2月12日、日本とスペインは覚え書きを交換し てサンフランシスコ講和条約発効と同時に国交を回復すると取り決め

、覚え 書きには、スペイン総領事館襲撃事件に対する日本政府からの「遺憾の意」の 表明、および国交回復後に被害についての交渉を行う文言が記された

。国交 回復後に交渉が始まった「対日請求権問題」は、「日西両国国交上の最大の障 害となり、通商航海条約はもちろんその他の条約の交渉もまったく不可能の状 態

」となるほどの緊張を生み、「日西国交上からも国際信用上からもまた人 道上からも」「放置を許されざる」問題と認識されていく

。最終的に日本と

1 1868年11月12日、日本スペイン修好通商航海条約を締結。

2 1956年7月27日マ秘第191号「スペインの対日クレームに関する件」与謝野香特命全権 大使より高崎達之助外務大臣代理・国務大臣宛。(旧枢軸国及び中立国の対日賠償要求 関係雑件「スペインのある種請求権解決取極関係」B’3. 1. 2. 9-4、外務省外交史料館)

3 1942年1月から日本の軍政下にあったフィリピンの首都マニラで1945年2月3日より始 まった約一ヶ月にわたるアジア太平洋戦争末期の戦い。日本軍はほぼ全減しマニラの民 間人約10万人が犠牲になったといわれ、日本兵6,555人の遺体が確認され、米軍は1010人 の戦死者と5,565人の負傷者を出した。(中野聡、2009、「マニラ戦と南京事件」、『南京 事件七〇周年国際シンポジウムの記録―過去と向き合い、東アジアの和解と平和を』、

日本評論社、p.153)

4 Política、文書No.20、1945年4月12日東京発「Envia copia reclamación sobre atrocidades japonesas en Manila」:在日スペイン公使が4月4日日本側に申入れ。(AGA (Archivo General de la Administración総合公文書館:スペインのアルカラ・デ・エナーレス)資料、

P-000464、54-15903-01「1945, Ruptura Relaciones con el Japón y Potencia Protectora」)

なお原文はスペイン語で、荒沢の訳による。(以下、同じ)

5 1945年2月12日に発生した日本兵数名による数十名殺害と放火事件。領事館員の他、ス ペイン、フィリピン、中国の避難民が犠牲となり、三人が脱出したが、二人は重傷によ り間もなく死亡し、六歳の少女だけが生き残り翌年帰国した。

6 1952年2月12日「外交関係の恢復に関する書簡について」([A-S38(2)-189]外務省外 交史料館、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(2)-189.pdf(2011.

12. 6閲覧))

(3)

スペインは1957年1月8日に合意に達し

10

、日本はスペインの人的・物的被害 に対し550万米ドルを支払った

11

アジア太平洋戦争でのスペインの戦争被害と対日断交をめぐる戦後の交渉経 過については、これまであまり研究されてこなかった

12

。日本政府には何が課 題と認識され、どのような方針によって処理されて上記の結果に至ったのか。

スペインの対日断交と戦後の国交再開、および「対日請求権問題」の中心にあ って影響を与えたのが、スペイン総領事館襲撃事件である。この事件は、交渉 の経過にどのような影響力をもったのか。本稿では、国交再開および被害の補

7 1952年2月12日に覚書交換。Francisco J. del Castilloスペイン外交代表から吉田茂 外 務 大 臣 へ の 覚 書 に は「the Spanish Government have the intention to enter into discussion with the Japanese Government, after the normal relations have been restored between our two countries, with a view to reaching an amicable settlement of the cases which involved the Spanish citizens in Manila and in other cities of the Philippine Islands at the time of the Japanese military occupation during the last war.」と国交回復後の被害についての交渉の記載、また、吉田外相からスペイン外交 代表への覚書には「I take this opportunity to express, in the name of the Japanese Government, our deep regrets for the sad incident which took place at the Spanish Consulate General at Manila on February 12th, 1945.」と、スペイン総領事館襲撃事 件への「深甚なる遺憾の意」を表明する記載がある。(日本・スペイン間外交関係雑件、

「1.外交再開関係」、A’1. 3. 0. 2、外務省外交資料館資料)

8 1957年1月8日、「スペインの対日クレームに関し閣議報告の件」、別添二(同前、B’3.

1. 2. 9-4、外務省外交史料館)

9 1955年10月5日、外務省、「「サンフランシスコ平和条約の例外としての旧連合国及び中 立国の対日クレイム」中の主要案件資料説明」、「(6)スペインの対日請求問題」、(旧 枢軸国及び中立国の対日賠償要求問題雑件、B’3. 1. 2. 9)

10 1957年1月8日「スペインのある種の請求権に関する問題の解決に関する日本政府と スペイン政府との間の取極(交換公文)」、「スペイン外務大臣から日本国特命全権大使 にあてた書簡(来簡)」([A-S38(2)-190]外務省外交史料館、http://www.mofa.go.jp/

mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(2)-190.pdf(2011. 12. 6閲覧)):「日本政府は、第二次 世界大戦の間に日本国政府の機関がスペイン政府及びスペイン国民に与えた損害及び苦 痛であって日本政府が国際法の規則に基いて責任を有するものの賠償請求を満足させる ため550万合衆国ドルに等しい金額をスペイン政府に支払う。」とされ、これにより日本 政府は「損害及び苦痛のすべての賠償請求のすべての責任を完全にかつ最終的に免れる」

ことになった。

11 1957年4月16日「スペインのある種の請求権の解決に関するわが国とスペインの間の協

定に基く賠償金の支払いに関する件」欧亜局長より大蔵省理財局長宛:2月19日送金の

報告。(同前、B’3. 1. 2. 9-4、外務省外交史料館)

(4)

償をめぐる日西政府間の交渉について、日本の外交史料館公開資料が明らかに する日本政府の側から見た交渉経過を跡づけ、公的な「深甚なる遺憾の意」の 表明と個人的な補償がどのように実現されるに至ったのかを見ていく。

まず、スペイン側被害の大半を占めるマニラ戦からスペインの対日断交まで を日本側がどう認識したのかについて、スペイン側外交資料

13

を補いながら見 る。つづいて、国交再開に至る経過と被害の補償実現に至る経過の二つに分け て、交渉経過を追っていくこととする。

2.マニラ戦被害と在マニラ・スペイン総領事館襲撃事件の発生、対日断交へ:

「アメリカのプロパガンダ」

当時の日本政府は、マニラ戦でのスペインの人びとの被害をどう受け止めた のか。フィリピン・マニラでのスペイン総領事館襲撃事件発生から対日断交の 知らせが届き外交活動が停止にいたる直前の日西公信から、その反応の一端を 拾い出してみよう。

スペイン政府による国交断絶の決定を日本に伝えた資料として日本側に現存 する

14

のは、対日断交の閣議決定を報じた4月12日の各紙内容を伝える在スペ イン日本公使須磨からの公信

15

である。スペイン政府が対日断交を決定した当 時、日本では激しさが増す東京への空襲などで公電の着信が遅れていた

16

ため、

この公信の日本着信は4月22日となっている。この公信で在西・須磨公使は、

12 フィリピンにおける日本占領期の日西関係については、ロダオがフランコ政権(1939年

~75年)の国際政治上の特殊性から、また深澤がスペイン内戦(1936年~39年)とそ の結末をめぐるフィリピンのスペイン・コミュニティ内の関係から見る視点をそれぞ れ提供している。(フロレンティーノ・ロダオ著、深澤安博訳者代表、八島由香利他訳、

2012、『フランコと大日本帝国』、晶文社)、(深澤安博、(1995-6)「フィリピンのスペイ ン共和国派-上-」歴史評論542、歴史科学協議会編、p.79-92、および、(1995-7)「フィ リピンのスペイン共和国派-下-」歴史評論543、歴史科学協議会編、p.79-89)

13 なお、スペイン・マドリードの外務省文書館Archivo del Ministerio de Asuntos Exteriores 所蔵の資料については、他史料館への資料移動を理由として公開停止中であったため入 手できていない。

14 日本に対するスペインから「断交の通告ありしを報告」した須磨公使の公電第359号、

第360号は「見当たらない」。(外務省、2010、『日本外交文書』第二巻、p.1068、543「ス

ペインの対日断交発表について」、編注)

(5)

スペイン総領事館襲撃事件に言及している。

「スペイン側「ソース」の情報にして且つ公式に立証せられたるものによ れば日本軍は二月十二日在マニラ・スペイン領事館を襲撃館員及び同館に ありしもの全員を殺戮せる後同館に放火せる事実並びにその他多数のスペ イン人を殺戮

17

しその財産を破壊せる事実確認せられたり」

公使は、「かゝる類例なき重大なる事実」を「対日外交関係を断絶する」要 因として伝え、さらに「日本政府に提示せる損害賠償請求権ヲ依然留保」と賠 償請求権にも触れている。

当時日本政府は、この公電着信より先にマニラ戦でのスペインの人びとの被 害報道を知っていたようだ。当初の日本政府のとらえ方の一端が、スペイン側 資料からうかがえる。3月25日に日本の広報担当者は、「マドリードで報道さ れているマニラにおけるスペインの人びと、及びスペインの諸施設に対する日 本の残虐行為」に対し、「それらは全く根拠がなく、侵略アメリカ軍によって ねつ造されたプロパガンダ」との認識を、在日・スペイン公使に示した

18

そのころスペイン公使のもとには、本国から「断固たる抗議」をするように との指示とともに「日本の残虐行為」の報が続けて入っていた

19

。なかでも詳 細に伝えられたのが、総領事館襲撃事件であった。

「在比スペイン居留地において日本軍隊により引き起こされた言語道断の 治安蹂躙の全てに対して、断固たる抗議を表明するよう強く要請する。日

15 1945年4月12日須磨公使発、第357号「スペイン政府の対日断交発表に関する件」:スペ イン政府の非公式発表に基づいて、4月12日にスペイン各紙が、前日に政府が閣議で対 日外交関係断交を決定したと報道しているとの打電。本省4月22日着信。(第二次世界 大戦関係雑件、「(22)対日断交関係」、A’7. 2. 0. 1、外務省外交史料館)

16 電信No.36、1945年4月3日東京発。(同前、AGA資料)

17 本資料「殺戮」と記載の部分、前記資料(外務省、2010、『日本外交文書』第二巻、

p.1068、543「スペインの対日断交発表について」)では「殺傷」と記載。

18 電信No.31、1945年3月26日東京発、在日スペイン公使から本国宛。(同前、AGA資料)

19 電信No.12、No.13、No.14、No.15、いずれも1945年3月23日マドリード発、3月28日東 京着:在日スペイン公使に、在マニラ・スペイン総領事館襲撃事件の詳報を伝え(No.12、

No.13、No.14)、類似の事態が発生しているとして、日本政府に強い抗議を行うことを

要請。(同上)

(6)

本軍による都市の組織的破壊が全面的に遂行される数日前、全ての修道会 に対する行為とまさに同じころ、民間人と領事館に対して日本軍による残 虐行為が始まっていた。領事館には数グループのスペイン人たちが避難し ていたが、そこへ日本軍が侵入し、全ての避難民を殺害した。スペイン人 ヘナロ・アルバダレホ(Genaro Albadalejo)だけが致命傷を負いながら も領事館を脱出したものの、事件を報告したのち死亡。避難民の家族であ る五歳の少女…次に続く(電信No.12)」、「アギレーリャ(Aguilella)は銃 剣による刺傷を負いながらも救助されている。領事館に居た人びとは、女 性や子ども、領事館守衛も含め全て殺害された。アルバダレホの証言によ ると、その数は五十人に上るとのこと。そののち日本兵らは故意に領事館 に火をつけた。これらは全て2月12日に発生。日本兵らによる火災で火傷 を負いながらひとりの女性が近隣の家に逃れ、先の人物と同じく情報を伝 えたが、死亡。…次に続く(電信No.13)」

公使は指示通り4月4日「マニラに於ける日本の残虐行為に関するクレーム

(賠償請求)」を日本に申入れた。だが、外務省の沢田次官はやはり「アメリカ のプロパガンダ」を口にした。そこで公使が、事件は総領事の証言のほか「膨 大な証言」を根拠とする事実であると反論した。すると次官が、スペイン人に 被害が及ばないように日本軍は指示されていたとしながらも再調査依頼や

20

信 頼関係による解決への志向を示したため、公使は「悲観的」でない印象を受け たと打電している

21

当時は、激しさが増す東京への空襲などで公電の着信が遅れ

22

、12日マドリ ード発の対日断交決定の口上書が在日スペイン公使に届くのは4月19日であっ たので、公使は13日頃の米国のラジオで対日断交決定を知った。翌14日、まだ 日本側も正式な通知を受領していなかったが、日本側広報担当官は「フィリピ ンでの日本軍の行為」とされるものは「米国ラジオ放送によって流布された軍 事プロバガンダ、および根拠のない作り話にもとづいたマドリードの新聞報 道」によるとの認識を繰り返し

23

、当時のスペイン政府の「非友好的」な行動

24

に不快感を示した。

20 電信No.37、1945年4月4日東京発、マドリード宛。(同上)

21 電信No.38、1945年4月4日東京発、マドリード宛。(同上)

22 電信No.36、1945年4月3日東京発。(同上)

(7)

スペイン政府による以下の対日断交の口上書が在日スペイン公使に届いたの は、4月19日であった。

「内閣は、つぎの通り口上書を発表する。スペイン人から直接提供され、

且つ公的に証明された諸情報に基づくと、日本の軍隊によって、2月12日 に在マニラ・スペイン総領事館への襲撃が行なわれ、総領事館のすべての 職員とその場に居た人びとが殺害され建物が故意に放火されたことは、全 く疑いようがない。そして、そのあとさらに多くの人びとが殺害され、ス ペイン市民の財産が意図的に破壊された。これら類を見ない重大な事実を 前にして、スペイン政府は、これらが両国の正常な友好関係の維持とは両 立し得ないものであると判断し、日本政府との外交関係を断絶することを 決定した。しかしこれとは別個に、すでに日本政府に提示済みの、スペイ ン国民が被った生命と財産の損失に対する賠償請求は維持されるものとす る

25

。」

当初からスペイン政府は、スペイン総領事館襲撃事件をはじめとするマニラ での「日本の残虐行為」と対日断交を結びつけ、その賠償請求を強く主張して いたのである。一方、日本側が「アメリカのプロパガンダ」「根拠のない作り 話」として、これをなかなか受け容れようとしなかったことが、スペイン側の 資料からうかがえる。

3.国交回復の交渉:「遺憾の意の表明」をめぐって

国交回復交渉では、当初からスペイン側が要求した「遺憾の意の表明」が問

23 電信No.45、1945年4月13日東京発。(同上)、および、Política、文書No.21、1945年4月 21日東京発「Ruptura de Relaciones Diplomáticas con el Japón」(同上)

24 ロダオは「戦争中に最も日本を助けた国(p.415)」であったスペインがアメリカでの日 本の利益保護を辞めた(1945年3月22日)などこの期のスペイン政府の動きの裏に対日 参戦の可能性の模索をみる。(同前、p.415)

25 電信No.25及びNo.26:なお、上記文書No.21にこの口上書が1945年4月12日マドリード発、

4月19日東京着であると記載。No.21には、日本の情勢悪化に伴う内閣交代等の政治危

機を原因とする、スペインからの日本の残虐行為へのクレーム対処の遅れや、マドリー

ドでの日本側への断交公式通告を日本各紙が4月21日に報道との記載もある。(同上)

(8)

題となった。この問題を軸に、交渉経過を見ていこう。

1)国交回復交渉の開始:日本が「一々遺憾の意を表さなければならない」の は「極めて辛い」

戦後のスペインとの国交回復交渉は、1951年10月22日在京スペイン外交使節 団のカスティーヨ代表が「国交を再開すべき時期が到来した」として来訪して 開始された

26

。これは、1951年9月8日サンフランシスコで日本に対する平和 条約が調印された翌月である。

このときスペイン側は「友好関係の宣言」と「スペイン国民の損害の補償の 問題」を提起し、後者については「国民を納得させるためにどうしても必要と 考える」というのであった。外交関係の再開は「対日平和条約の効力発生と同 時に」と決められ、この点に問題はなかった。最大の問題は、スペイン側の交 換公文案の「深い遺憾の意deep regret」という字句にあった

27

日本側は、「スペイン国との間には戦争状態はなかった」ということを理由 として、「単に外交関係再開を謳う」こと、スペイン国民の損害については

「具体的に問題に言及することなく、単に戦争の結果生じた問題の解決のため 協定を結ぶ意向がある程度の、一般的記述に止める」との考えを表明した。し かし、スペイン側は、差し当たっては「物質的な補償」を要求してはいない ものの、「遺憾の意」の表明は「国民感情を納得させるため」の「精神的補償」

として必要であると主張し、譲らなかった

28

日本側はスペインの「希望に沿って交渉を進める」としていたものの

29

、最 初 の 日 本 案 に 表 明 さ れ た の は「 遺 憾 の 意regret」 で は な く、「 同 情 の 意 sympathy」であった

30

。この日本案に、「カスティーヨ公使」は「自分として は本国政府に取次ぐわけには行かない」と強い拒否感を示した。「日本政府に

26 1951年10月22日付「外交関係再開関係国交回復に関する在京スペイン外交使節団長申入 に関する件」(「日本・スペイン間外交関係」、「1.外交関係再開関係」、A’1. 3. 0. 1、外 務省外交史料館)

27 1951年10月31日、「Normas para tener presente(考慮すべき原則)」(同上)

28 1951年10月31日:マルティン・アロンゾ一等書記官の来訪についての記録。(同上)

29 1951年11月27日「高裁案」:「外交関係再開に関するスペイン政府及び日本政府間の往復 書簡に関する件」(同上)

30 1951年11月28日「Resumption of Normal Relationship between Japan and Spain (Draft)」

(同上)

(9)

よる遺憾の意の表示」は、「自分としては絶対に譲ることはできない」もので、

日本案の「同情の意」では「本国政府及び在比スペイン人にとっては一顧の価 値なしと言う外なく、日本政府は事件について何等遺憾の意を持っていないと いう感じを受けるであろう」と言うのだった。日本側は、「中立国との最初の ケース」であるスペインとの交換公文に「遺憾の意」を表すると、「全部の中 立国との交換公文に当り日本政府は一々遺憾の意を表さなければならない」こ ととなり、「日本側にとって極めて辛い」と主張したが、公使は「頑としてそ の態度を改めなかった」

31

日本側内部で、方針が再検討された。「国交再開は素々先方から申出て来た」

のだから日本が「万難を排して迄即刻合意に到達しなければならない必要乃至 理由はない」としつつも、「意見が一致しなかったという理由だけ」で決裂さ せスペインとの国交だけが「断絶したまま」となるのも、「カスティーヨ代表 に悪感情を抱かせる」のも「得策でない」。こうして「支障のない範囲内でな るべく先方の希望にも應ずる」方向へと修正がなされていく。

「遺憾の意regrets」の表明を避けた理由は、次の三点から説明されてい る。(1)「平和條約においても戰争責任を認めるような字句は含まれておら ず、連合国に対しても少なくとも表面上は頭を下げた形になっていないこと」、

(2)「スペインとの間に用いられた語」が今後の類似公文に影響し、「中立国 には我方から陳謝して国交を再開して貰った形となる虞れがあること」、(3)

「regretsの表示は事件解決措置の一つ」であるので、まだ解決方法について話 し合われていない現在には適当でないことである。だが、検討の結果、「過去 のこととして一切頬かむりで通すというつもりでもない」として、「同情の意 Sympathy」の表明にかえて、イタリアの場合に倣い、国交回復後の話し合い に応じる用意があることを字句として入れる方向へと向かうことになる

32

こうして、スペインからの公文に関する次の日本案には、「先の戦争中の日 本軍占領期にマニラ及び他のフィリピン各地で発生した事件の友好的解決に向 けて

33

」「話し合う意図

34

」などの字句が入った。また、日本からの公文に関す

31 1951年11月28日「スペイン国との国交再開に関する件」。なお、問題は日本側提示案の

「同情の意our heartfelt sympathy for the hardship」だけでなく、「heartily welcome the intention of the Spanish Government」の部分に「感謝の意が表されていない点」

にもあったことが、欄外の書き込みから知れる。(同上)

32 日付記載なし「スペイン国との国交再開に関する件」:1951年11月28日の「カスティー

ヨ代表」との話合いを受けて。(同上)

(10)

る日本案には「日本政府はスペイン政府に感謝する

35

」と、感謝の意を明示し た。さらに、公文交換の際には「口頭を以て遺憾の意を表明する用意がある」

こともスペイン側に伝えた。これらによって日本側は、公使から「自分として はこの案で結構」「できるだけこの案で本国政府の同意を得るように努める」

との言葉を引き出すことに成功したのであった

36

2)スペイン総領事館襲撃事件の浮上と日本側の調査:「肯定あるいは否定す る資料を全く欠いている」「事実であったか、又は大体類似の事件が発生 したものと推定」

ところが、事態は急展開する。12月27日と翌1952年1月4日、マドリードの 日本在外事務所長に対してスペイン側から提案があった。「マニラ事件」での

「スペイン人一般居留民」の問題とスペイン総領事館の問題を別扱いとし、前 者はスペイン側公文をわたす際に日本側が口答で遺憾の意を表明し、後者は日 本側公文の中に遺憾の意を表明する字句を入れるという内容であった

37

日本でも1月4日に公使が総領事館襲撃事件に言及した。そこで、日本側が 事件の詳細情報を要求すると、1月7日にスペイン側から文書で回答が届いた

38

。 ここに至って、ようやく日本側は、「之より先客秋スペインとの国交再開に関 する覚え書き交換の問題が起った時からスペイン側は比島における自国人の生 命財産に対する日本軍の侵害を重要視していることが判明した」と認識したの である

39

日本側は自ら調査に乗りだした。しかし、記録は「戦災のため焼失したか又

33 訳文は荒沢による。原文は「with a view to reaching an amicable settlement of the cases which involved the Spanish citizens in Manila and in other cities of the Philippine Islands at the times of the Japanese military occupation during the last war.」1951年 12月3日、「Resumption of Normal Relationship between Japan and Spain (Draft - 3 December 1951)」(同上)

34 同上。原文は「the intention to enter into discussion」。

35 同上。原文は「the Japanese Government thank the Spanish Government」。

36 1951年12月5日「スペイン国との国交再開に関する件」(同上)

37 1952年1月5日普通第一号、「エリセ外交局長との會談に関する件」、および1952年1月 5日普通第一号(乙号)、「マニラ事件の処理」(旧枢軸国及び中立国の対日賠償要求関 係雑件、「スペインのある種請求解決取極関係」、B’3. 1. 2. 9-4、外務省外交史料館)

38 Note Verbale、No.1、1952年1月7日、および「AIDE MEMOIRE」(同前、A’1. 3. 0. 1)

39 1952年1月7日、「在マニラスペイン總領事館の被害に関する件」(同前、B’3. 1. 2. 9-4)

(11)

は終戦時焼却せられたか」で現存せず、関係者の聞きとり調査を実施する。し かし、外務省関係者は全員1945年1月中にマニラを離脱しているため詳細は不 明であり、スペイン総領事館の事件については、誰も知らないと判明する。つ ぎに、軍関係者に聞きとりが行われ、1月4日にはマニラ派遣軍の参謀副長

(渉外担当)宇都宮少將から次の回答を得た。

「スペインに対するア トロシティーは相当にあったものと思うが、その下

(ママ)

手人と思われる人は殆ど全部戦死したか又は生存はしていても名乗り出る 人とてなく、一方的にスペイン側の言い分を承る以外に反証の挙げようも ない。自分達のマニラ滞在中はスペインに対しては特別の優遇をしたほ どで特別な不祥事件もなかったと記憶するが、山下裁判の時に検察側から たくさんスペインに対するア トロシティも持ち出されて自分たちも始めて

(ママ)

そういうことを耳にした次第である。バギオに逃げてからマニラのスペイ ン・クラブに日本兵が侵入し、スペイン人多数を殺害した事件を調査する よう東京からの訓令を受けたので、現地部隊に調査せしめたことがある。

それは四五年二月頃と記憶し、スペイン人が比島人のゲリラをかくまった というのが口実であったらしいが、相当ひどいことをやったもののようで ある。然しスペイン總領事舘を侵犯したということは全然聞いていない。」

この時点では、スペインクラブの事件との何らかの関連が推測されたものの、

「總領事舘以外のスペイン権益侵犯に対しても残念乍らスペイン側から申し立 てがあればこれに対し反駁を加え得る根據は殆どないものと思われる」と締め くくられている

40

上記宇都宮参謀の脱出後もマニラ市に一番遅くまで留まった比島陸軍準指令 部の渉外係加納中尉にも、1月16日に聞きとりを行った。

「自分がマニラを离脱したのは四五年二月五日であり、スペイン側申出の

如き事件は今まで全然耳にしたことはない。スペイン総領事館とスペイン

クラブとは隣であり、仝地域は米軍の砲擊爆擊の最も苛烈な所であった為

惨憺たる有様であった。当時マニラの防衛は海軍士官の指揮下に陸海両軍

が従っていたが、我が防衛軍の篭城している地点に対する米軍の侵入路上

40 同上

(12)

に丁度右スペインクラブ、総領事館があったので、右総領事館では激戦が 行はれたものと思はれる。但し右最后まで頑張った部隊員は数名を除き全 滅したので、今更当時の情況を確める方法は先づないと思はれる。スペイ ン総領事館以外のスペイン人生命財産に対する比島内に於ける不祥事件は 何も聞いたことがない。」

ここに至って、「本件要するに日本側としては眞疑の調査が不可能なりと思 はれる」との認識から、「スペイン側に対しては「若しあったとすれば」とい

ふ前

( マ マ )

庭の許に適当に対応する(仮定的陳謝、先方の出方によっては若干の見舞

金支給等)より方法のないものと思はれる。」ということになった

41

さらに、第二復員局残務処理部にも調査協力を依頼し

42

、文書での回答(2 月13日付)を得た。それによると、保管する公文書からは事件を確認できるも のはなく、同部はマニラ市街地の戦闘状況の調査を行った。これによると、南 北からマニラ市内に突入した米軍が2月11日頃合流して日本軍を包囲したため、

それ以降マニラ市内の日本軍は、外部と「僅かに無線連絡を保つ程度」となっ ており、このような事件の報告も存在していない。そこで、マニラで米軍に包 囲されながら戦後帰国できた人物にも調査したが、誰も事件を知る者はいなか った。報告書の最後に「参考事項」として、永井隆著『長崎の鐘』(1949年出 版)掲載の連合軍総司令部諜報課の提供資料「マニラの悲劇」を紹介して

43

、同 部は次のように結んだ。

「事件の発生したといわれる二月十二日は日本軍が米軍に包囲された直後

41 1952年1月16日、「在マニラ スペイン総領事館の件」(同上)

42 1952年1月17日、「いわゆる一九四五年二月十二日の在マニラ、スペイン総領事館襲撃 の件」(同上)

43 1952年2月13日、「いわゆる一九四五年二月十二日の在マニラ、スペイン総領事館襲撃 の件について(回答)」:1949年1月30日日比谷出版、永井隆著、『長崎の鐘』の後半、

第一章「スペイン人居住民の蒙りたる被害」中、一九四五年三月三日「マニラ」での僧 正トマル・タスコン教父の陳述の引用部分:「コロラド街六二二番地にあるスペイン領 事館はスペイン国旗が悠然と掲げられていたにもかかわらず破壊された。領事舘に避難 していたスペイン人若干を含む五十名以上の人々は生きながらも焼かれ、または銃剣で 刺し殺された。その中にはつぎの家族の人々が含まれている。―アギレイア・ベルラン ガ及びアバダレホ。屍体のうち身許の明らかになったものはわずか十五にすぎなかった

(p.205)。」(同上)

(13)

の事であり、約一万名の日本軍が約二週間の内に殆ど全滅してしまった當 時の戦況より見て極度の混戦乱戦状態にあったことは推断に難くなく、拠 ってかかる事件が絶對に発生しなかったとはいい得ないものと認められ る。

44

この第二復員局の回答は、文書回答より先に口頭で伝えられていた。前述の 調査に、1945年4月12日付の在スペイン須磨公使の緊急打電

45

中の総領事館事 件の報告も加えて、日西の資料を総合的に検討した日本側は、スペイン総領事 館襲撃事件についてこう結論した。「肯定あるいは否定する資料を全く欠いて いる」が、「先方ないし関係者の申立ては大体一致しており、当時の同地の状 況からしてもこの種事件は事実であったか、又は大体類似の事件が発生したも のと推定される

46

」。

3)覚書の交換:「日西国交断絶の直接の原因」スペイン総領事館襲撃事件へ の「深甚なる遺憾の意」の表明

それでも日本側は、スペイン側による「遺憾の意の表明」の要求に対して、

国交再開の交換公文とは別の公文による遺憾の意の表明を希望したり、「もし それが事実ならば」という「留保を附ける」可能性に言及したりしている

47

。 日本側にとって総領事館襲撃事件は、1月4日に初めて提示されたものであり、

「その前二ヶ月余に亘り話合継続中、一度もメンションされたことがない」た め「日本側の方がむしろ驚いて直ちに調査を行った」と認識される事件であっ た。一方、これらの日本側の申し出を退けたスペイン側にとって、総領事館襲 撃事件は「日西国交断絶の原因になったもの」で、国交再開の交換公文の中に

「日本側が自発的に遺憾の意を表することは国交再開の絶対的条件」なのであ った。

結局、「わが方としても、交換公文中に遺憾の意を表示する字句を入れるこ とに大体同意する方向」に向かったと1月25日の文書に記されたのは、「本件

44 1952年2月13日、「いわゆる一九四五年二月十二日の在マニラ、スペイン総領事館襲撃 の件について(回答)」(同上)

45 1945年4月12日須磨公使発、第257号「スペイン政府の対日断交発表に関する件」(同前、

A’7. 2. 0. 1)

46 1952年1月24日、「在マニラスペイン総領事館の被害に関する件」(同前、B’3. 1. 2. 9-4)

47 1952年1月25日、「スペインとの国交再開に関する件」(同前、A’7. 2. 0. 1)

(14)

が日西国交断絶の直接の原因であったことに鑑み」たからであった

48

。最終的 には、「関係資料は全然なかったが、客観的に見れば何等かこの種の事件が起 こったものと考えられるので」として、遺憾の意の表明を日本側は受け容れた。

それでも、国交再開と遺憾の意の表明を切りはなそうとの最後の試みがあった ことが、つぎの記述から見てとれるが、スペイン側の固い意志に阻まれて断念 したようだ。「本事件について遺憾の意を表明するが、国交再開とは別個にこ れを取扱いたい旨主張したところ、先方はどうしてもこれを承諾しなかったの で覚書中に入れることとした」

49

「一般スペイン人の被害」に関しても、すんなり決着したわけではない。先 述のように、はじめ日本側は「一般居留民の被害については覚書交換の際次官 より口頭で遺憾の意を表明せんとのわが方の提案」を出していた。これに対し スペイン側は「大臣自身これをなすべき」と主張し、さらに「被害の補償を将 来研究する意思を併せ述べることを要求したため覚書交換が遅れていた」とい う状況であった。ところが、「二月八日に先方は口頭の遺憾の意の表明の条件 全部を撤回し」とあり、その結果「二月一二日は単に覚書の交換が行われたの みであった」

50

。スペイン側が急に「条件全部を撤回」したのは、総領事館襲 撃の当日である2月12日に覚書交換を実行することへの、スペイン側のこだわ りの結果であったのかどうかは不明である。

こうして「遺憾の意の表明」の問題は決着した。事件発生のちょうど7年目 の1952年2月12日に日西両国は公文を交換し

51

、先述の通り、スペイン側覚え 書きには外交関係再開後に「先の戦争中の日本軍占領期にマニラ及び他のフィ リピン各地で発生した事件の友好的解決に向けて」「話し合う意図」が盛り込 まれ

52

、日本側覚え書き

53

には1945年2月12日の在マニラ・スペイン総領事館 事件に対し日本政府の「深甚なる遺憾の意を表明

54

」するとの字句が入った

55

48 同上

49 1952年2月14日、政策四第三号、吉田大臣発、在マドリッド矢口所長宛、「スペインと の国交再開に関する件」(同上)

50 同上

51 1952年2月12日、電報第912号、吉田大臣発、在マドリッド矢口所長宛、「スペインとの国 交再開の件」、および、同日、情報文化局発表、「スペインとの国交再開の件」(同上)

52 1952年2月12日、「覚え書き」、フランシスコ・J・デル・カスティージョ(Francisco J. del

Castillo)スペイン外交代表より吉田茂外務大臣宛。(同上)

(15)

「深甚なる遺憾の意」の表明を実現させた要因は、何であったのか。交渉経 過からわかるのは、まず、スペイン側の固い意志と在マニラ・スペイン総領事 館襲撃事件のインパクトの大きさである。さらに、スペインが中立国であった ことや、スペイン側被害の大半がマニラ戦に集中し、「約一万名の日本軍が約 二週間の内に殆ど全滅」し「肯定あるいは否定する資料を全く欠いている」と いう戦いの最中であったというような事情に拠るところも大きい。

いずれにせよ、ここで日本側が、交換公文により国交回復後スペイン人の被 害に関して交渉に応じることを約束し、スペイン総領事館襲撃事件について遺 憾の意を表明したことは、この後の交渉で常に参照され、交渉を方向づける役 割を果たしていくことになる。

4.「対日請求権問題」:「マニラ戦の被害をいかに算定するかにかかっている」

サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日、日本はスペインとの 国交を回復し、スペインとの交渉の焦点は「対日請求権問題」に移った。ここ では、個人補償実現までの交渉過程を見ていこう。

1)スペイン総領事館「外交官」被害を「他と切り離して先に」:「「モラル」

の問題」、「差別待遇」

まだスペインから公式に交渉要求が来ていなかった1952年8月末に、まず動 いたのは日本側であった。スペイン総領事館の被害者の中で「外交官として取

53 1952年2月12日、「覚え書き(英文)」、吉田茂外務大臣よりフランシスコ・J・デル・カ スティージョ(Francisco J. del Castillo)スペイン外交代表宛。(同上)

54 1952年8月29日提案、9月5日決裁、「高裁案 マニラにおけるスペイン国外交官殺害 事件に関する弔慰金支出の件」(同前、B’3. 1. 2. 9-4)

55 日比関係から日本軍の戦争犯罪をみる永井によると、この時期は、日本政府にとって

「デリケートな問題」であったフィリピン戦犯問題の転機である。フィリピンでの対日 戦争裁判(1947年8月から49年12月)の死刑囚79名のうち17人の処刑が1948年8月か ら1951年1月に執行されたのち、2月には賠償を要求してきたフィリピンの「反日感 情」を知る日本政府は、フィリピンに「誤解」されないよう「慎重姿勢」をとっていた が、講和間近の1952年2月になると外相が戦犯への「同情」を語り、講和条約が発効

(同年4月28日)すると、日本国内では戦犯を「「戦争犠牲者」とみて同情を寄せるムー ド」が広まっていた。(永井均、2013、『フィリピンBC級戦犯裁判』、講談社選書メチエ、

pp.183-190)

(16)

扱うことが妥当とみなされる」書記生と館員の二名だけを「他と切離して先に 扱う」ことにして、この二名への「弔慰金支出」は、同年9月5日に決済を得 て、早々と予算が確保されている

56

。提案理由は、「同じマニラにおける中華 民国総領事等殺害の損害補償

57

が近く取り上げられることになったのに鑑み」

とある。

ところが、これに対してスペイン側の反応は、「喧しく云ってくる一般被害 者の問題を後にするのは「モラル」の問題であるのみならず、政府が役人だけ を先に保護して差別待遇を行うとの感じを与えることになり、之は政府の政策 として甚だ面白くない」ので、「同意しかねる」というものであった。これに 対し日本側は、「某国外交官」の同様のケースでは「一般の補償問題と切離し 解決済み」であり、スペイン外交官の件についてもその際に一定金額を特別留 保してあるとまで示唆している。それでもスペイン側の意見は変わらない

58

ど ころか、「従来の主張を一層明確に且つ強く主張して外交官先議に反対の趣旨 を重ねて明らかにした」という。そこで日本側は「折角予算上の御配慮を得た ことではあるが、本件は一般案件と同時に解決する」ほかないと断念した

59

この一連の経過は、中立国であったかどうかを問わず戦後補償の経過が互い にかなり連動していたことを示している。この経緯が何を意味するかについて は、個別の研究成果に立ちながら、中立国もふくめた総合的な見地で検討する 必要があるだろう。

56 同前

57 1942年マニラ占領直後に日本軍が中華民国の総領事ら8名の領事館員を殺害、1945年に は北ボルネオで在サンダカン中国領事一名を殺害。日本と台湾の国民政府は1952年に日 華平和条約を結んで国交樹立し賠償請求権は放棄されたが、平和条約交渉中に台湾は日 本の自発的な対応を求め、これに応じた日本政府は1953年台湾政府を通じ弔慰金を支払 った。総領事の遺族には9000ドル、在サンダカン領事の遺族には8000ドル、その他七名 には各4000ドルであった(日本の戦争責任研究資料センター事務局、「戦争中の個人補 償に関する日本外交文書」、『季刊 戦争責任研究 第44号(2004年夏季号)』pp.74-83、93)

が、本件では「同地及びサンダカンに於ける中国外交官の例にならい被害者一名当り各 一萬弗、計二萬弗の邦貨相当額を支出」と記載。(同上)

58 1953年3月12日、マ秘第81号附属 別添甲、「「イトラルデ」政務局長との、マニラ事件、

友好条約、及び文化協定に関する会議録」(同上)

59 1953年3月18日マドリッド発、第23号 岡崎大臣宛、渋澤大使発、「マニラ事件におけ るスペイン外交官殺害事件に関する件」(同上)、なお「渋澤大使」の姓の漢字表記には、

資料により「渋澤」「渋沢」があるが、以下本稿では「渋澤」に統一する。

(17)

2)日西合同委員会:「100%日本側の責任」「50%日本側の責任」「無理なこと を云うとの印象を与えぬ様日本側に対して凡て資料を示し公正な立場をと るに努めた点は之を認むべき」

スペインからの正式な要求は、1953年2月17日付口上書でもたらされた。日 本側が要求額の根拠となる資料の提供を求めると、スペイン側は「三人の事 務員が抱える程」の膨大な量の資料を示し

60

、この資料検討のため、「西日合 同委員会」設置を提案してきた

61

。しかし日本側は、補償問題で多数の国から

「クレーム」の要求が来ているので「他国との振合い」から「スペイン丈けを 切離して特別扱い出来憎い」、「現段階ではその時期でない」として、同意を渋 った

62

これにスペイン側は強く反論し、日西合同委員会設置を譲らなかった。論拠 とされたのは、スペインの要求が通常の戦災補償とは異なり「国際法及び人類 共同生活の原則の蹂躙行為」によること、旧交戦国間の問題とは何の関係もな い「日西両国間のみの問題」であること、そして、マニラ戦被害発生当時スペ インと日本は「正常且つ極めて友好的な関係」にあっただけでなく、「スペイ ンは多数交戦諸国で日本のため利益代表を行っていた重要事実」があることで あった

63

。最終的に日本は、日西合同委員会を諮問的な性格で政府を拘束しな い機関とするということで設置に同意した

64

こうして日西合同委員会はマドリードで開かれ、1953年10月22日の1回会合 から

65

翌4月13日第86回会合によって審議を終えるまで、精力的に活動した

66

60 1953年2月23日、マ秘第51号、岡崎大臣宛、渋澤大使発、「「マニラ」事件の賠償に関す る件」(同上)

61 1953年4月10日、マ秘第110号、岡崎大臣宛、渋澤大使発、「比島事件に関する混合委員 会設置の件」(同上)

62 1953年5月26日、マ秘第145号、岡崎大臣宛、渋澤大使発、「比島事件の補償問題に関す る件」(同上)

63 1953年6月18日、第59号、昭和二八 六一三九、岡崎大臣宛、渋澤大使発、「比島事件 の補償問題に対する西外務省よりの口上書に関する件」(同上)

64 1953年7月17日、第57号、渋澤大使宛、岡崎大臣発、「比島事件に関する日西合同委員 会に関する件」(同上)

65 1953年10月21日、マ普通第272号、岡崎大臣宛、渋澤大使発、「比島事件に関する日西合

同委員会に関する件」:スペイン側は大使と書記官の二名、日本側は在スペイン日本大

使館員二名が参加。スペイン側アギラール大使は1946年初代フィリピン大使で、在任中

の1946年に実施した被害調査が委員会の主要な資料となっている。(同上)

(18)

審議はまず物的被害から始められ、審議状況についてはその都度報告が出され ている

67

。これによると、物的損害検討に際して「被害原因の申告不十分なも のについては交戦者間の責任を分担し、日・米各50%又は日・米・比各三分の 一の責任」としたほか、基準を設けて要求額を削減している

68

第85回会合では「人的被害」について審議され、死者330名、負傷者61名の 件がとりあげられた。この審議の結果、死者の235名が「100%日本側の責任」、

45名が「50%日本側の責任」と認定され、負傷者は42名が「100%日本側の責 任」、11名が「50%日本側の責任」と認められたことが、110頁にわたる詳細な 報告書に記載されている

69

審議を経て渋澤信一大使が、「本使の見解」を付記していることが注目され る。そこには、「委員会がパスした被害案件の大部分は公平な立場から見ると 一応日本側の行為に起因すると認めざるを得ない。即ち被害の起こった場所、

時日、原因等についての各人の申立てが共通して居る所が多いからである」と ある。そのうえで大使は、「人道的見地から人的被害については成可く補償を 厚くしたい」と希望し、「被害者側も躍起となって西当局に運動して居る」こ とを指摘して、「日本側の誠意を示す」為にも早期の補償額提示を求めている。

66 1954年4月13日、第19号、昭和二九 四二二四、岡崎大臣宛、渋澤大使発、「比島事件に 関する日西合同委員会審議状況に関する件」(同上)

67 1953年10月30日、第107号、岡崎大臣宛、渋澤大使発、「比島問題日西合同委員会に関す る件」:「物的損害より審査を開始し、週五回各一時間半を当て現在まで六回の会合によ り総計六五〇件中二七件の調査を終了」と記載。さらに1953年11月7日、マ秘第285号、

岡崎大臣宛、渋澤大使発、「比島事件日西合同委員会審議状況報告(第一号)」:11月5 日までの十回の会合の報告。スペイン側提出資料は「可成り詳細な記述」があり、「1946 年3月25日の在マニラ西総領事館の公示に対して同年四、五月頃領事館に提出せられた もの」。(同上)

68 1953年12月1日、マ秘第315号、渋澤大使発、岡崎大臣宛、「比島事件日西合同委員会に 関する件(第三号)」(同上)

69 1954年4月21日、マ秘第92号、重光大臣宛、渋澤大使発、「比島事件日西合同委員会の

審議状況報告の件(第9号)人的被害について」:人的被害でスペイン側が提出した主

資料は①在マニラ・スペイン総領事による被害報告(1945年11月7日提出。60頁余りの

詳細資料)で、ほかに②総領事による死亡者リスト公電(1945年4月17、18日付。日本

軍による殺害約140名、爆撃以外の原因による死者約40名)、③1946年4月総領事館の公

示に応じて提出された本人や遺族による被害申告書、④「タバカレラ」会社が提出した

従業員による被害状況報告書、⑤殺害事件に関する証言記録(スペイン人又はフィリピ

ン人が総領事に行った)などがあった。(同上)

(19)

なかでも目を惹くのは、大使による最後の記述である。「何等反証となるべ き資料を有さず」「八十数回の奮闘を続けた」日本側の二名の委員の「努力」

への充分な「アプリーシエイト」を本省に願っているだけでなく、スペイン側 を「無理なことを云うとの印象を与えぬ様日本側に対して凡て資料を示し公正 な立場をとるに努めた点は之を認むべきであらう」と評価する文言が、わざわ ざ記されている

70

。日西合同委員会の審議の一端を垣間見せる記述であるとい うだけでなく、渋澤大使がこのような文言を練って打電した意図からは、この 委員会の審議が、担当した人びとにあたえたインパクトが思われる。

3)合同事実調査会:「供述を警戒する念」と「フィリッピン人の讒言」「暴 徒」「米軍の砲弾」から、「絶望的な、かつ異常な心理状態」へ

日西合同委員会の結果に基づいて、スペイン政府は1954年6月に正式な請求 額を提示してきた。一方、スペインでの動きとは別に、日本側は独自の事実調 査に着手している。その際、次のような困難に直面したと記録されている。ク レームの大半は1945年2月のマニラ戦に関連するものであるが、「当時マニラ 附近の戦に従事した日本軍人の殆どが戦死乃至は戦争犯罪人として処刑

71

」さ れ、しかも、僅かな生存者がいても、「マニラ関係の旧軍人には未だ戦時中の 事件に関する供述を警戒する念が消えず、証人を忌避する傾向」があって「適 切な証人」を得るのに時間がかかった

72

。しかも、こうした遅れは「スペイン 側当局は我方調査の遅延について不満の色強く」という状況につながってい く

73

このような状況で「合同事実調査会」が実施されたのは、ようやく翌1955年 5月(第一回)

74

、6月(第二、三回)

75

である。この調査について見ていこう。

70 1954年4月19日、マ秘第89号、岡崎大臣宛、渋澤大使発、「比島事件日西合同委員会に 関する件」(同上)

71 永井によると、対日戦争裁判での死刑判決は有罪の60%の79名であったが、刑が執行 されたのはそのうち20%の17人にとどまり、1953年7月に恩赦で終身刑に減刑されて 日本に生還し、同年12月のさらなる恩赦によって特赦・釈放されている。(永井、同前、

p.210)

72 1955年6月3日、欧米局第五課、「スペインの対日クレームに関する件」(同前)

73 1955年6月1日、第23号、昭和三〇 六七六五、重光大臣宛、渋澤大使発、「スペイン の対日クレームに関する件」(同上)

74 1955年5月22日付文書、於外務省、「第一回合同事実調査会要旨(マニラ戦)」、(1956年

1月19日 別添(二))(同上)

(20)

調査対象には「軍関係責任者」と書かれているほか、詳細は記載がない。調 査方法については、「物的資料」もなく「直接間接にして生存しているものも 皆無に近い」ため「作戦状況、一般治安状況を聴取し」「具体的損害事実の有 無を推測」する方法をとったと記されている

76

ものの、どのような状況を知る 人物に、何人くらい聴取し、どのように推測されていったのか不明である。

第一回合同事実調査会ではマニラ戦について取り上げている。要旨報告文書 でまず注意を引くのは、項目である。全五項目で構成されているが、「一、日 本軍の兵力」「二、米軍の攻撃」でマニラ戦での戦力状況を概観し、そのあと

「三、ゲリラ・暴徒の横行」「四、我が軍の軍紀」「五、フィリッピン人の讒言」

と続き、全五項目のうち二つがフィリピン人に言及するものであるからである。

「三、ゲリラ・暴徒の横行」には、マニラ戦開始とともに蜂起した「フィリッ ピン人のゲリラ」が「掠奪・暴行等をほしいまヽにした」とある。「五、フィ リッピン人の讒言」には、「当時の強い反日感情及び本人の利欲」から「平気 で事実に反するような証言」をする「フィリッピン人の讒言」によって、「一 方的且つ出鱈目なもの」もあるのに、「明らかに米軍の砲爆撃」によるものが 日本軍による破壊とされ、金銭目当てに「日本軍により殺害」と「申告」する 等が、「戦犯裁判」で起こったとされている

77

。ここには、フィリピン人への 強い不信がうかがえる。

「四、我が軍の軍紀」では、日本軍による「掠奪暴行」と「一般家庭の破壊 放火」について説明がある。日本軍は「極めて貧弱な装備」であったので「劣 勢を補うべく軍紀の厳正保持に留意した」、圧倒的優勢の米軍に抵抗していた ので「掠奪暴行を加える余裕も意欲もなかった」と、気持ちのあり方を理由 にこれらが日本軍の行為であることを否定している。また、「少くとも1945年 二月中旬までは殆ど発生しなかった」とあるが、「1945年二月中旬」の根拠や、

その後については記載がない。また、日本軍による破壊は「作戦の必要上」

「極めて限られた特定建造物」であり、「一般家庭の破壊放火などは全然発生し

75 1956年6月20日、21日付文書、「第二、三回合同事実調査会要旨」、(同上別添(三))(同 上)

76 1955年6月29日付文書、「在比島スペイン人の被害に対する補償問題」(同上):わが方 の調査は「当時の軍関係責任者にして生存している者又は、身をもって戦線を離脱した 者から作戦状況、一般治安状況を聴取し」「具体的損害事実の有無を推測」する方法に 拠った。

77 前記1955年5月22日付文書、「第一回合同事実調査会要旨(マニラ戦)」

(21)

ていない」うえ、スペインなど「中立国人一般の生命・財産の保証」には「厳 重に注意するよう末端まで指令が行き渡っていた」とあるが、「指令」が実行 されたとする根拠や検証については説明がない。

「第二、三回合同事実調査会要旨」でも、人的損害も物的損害も米軍の爆撃 とフィリピン人暴徒によるという基調は、第一回と同じである。新たに「住民 の退去命令」、「日本軍による接収・徴発」の項目が加わり、海軍が「戦争直 前」に「一部地区」で避難命令を出していたとの記載や、接収・徴発では「正 当なる補償措置」がとられ「特に開戦当初においてはすべて補償済みのはず」

との記載がある。ただし、現実に補償が実施されていたのかについての説明は ない。

個別の人的損害では、在マニラ・スペイン総領事館襲撃について、「2月12 日頃総領事館附近の治安は十分保たれており、まして中立国人の生命財産の保 護については特に注意するよう末端まで司令が徹底していたので、白昼堂々と 日本軍が放火殺人をやったとは考えられない」とある。イントラムロス・サン チャゴ要塞の事件について、「米軍の砲撃による死亡者の遺体を日本軍が防空 壕等に集めて埋葬したため、これが戦後発掘されて日本軍による集団虐殺と誤 認されるに至ったものではないかと考えられる」との見方が示されているが、

そう推測する根拠や説明は書かれていない。

これらから、どのような「具体的損害事実の有無を推測」したのだろう。上 記「第二、三回合同事実調査会要旨」の直後に出された「在比島スペイン人の 被害に対する補償問題(1955年6月29日付)」は、これまでの全ての経緯の記 載とスペイン側要求の分析の上に立って、「わが方の査定方針」の基本と査定 額の案を具体的総合的に示した重要な文書である。このなかに「わが方の調 査」との項目で「軍関係責任者につき調査した結果、明らかにされた状況」の 記載がある。これが、上記三回の「合同事実調査会」から導かれた解釈であり、

「わが方の査定方針」を練りあげる根拠になったと考えられる。

「(4)マニラ防衛部隊は視界清掃のため不要の民家、倉庫等を焼却し戦闘 に入ったが、勝敗の数は最初から明らかであり、死を目前にして絶望的な、

かつ異常な心理状態にあった。

(5)日本軍の秩序は戦争の進行とともに失われ、又比島人がにわかに敵

対的行動に出るに至ったため、異常な心理状態は一層昂進し、平常状態に

(22)

おいて想像し得ない行動があったことは充分考えられる。」

「事実調査会」で述べられたであろう内容を、そのまま事実判定の材料とし てはいないことがわかる。むしろ証言から、「勝敗の数は最初から明らか」で

「死を目前にして」いたという「状況」を拾い出し、そこから日本兵士の「絶 望的な、かつ異常な心理状態」を「推測」している。それだけでなく、さらに 日本兵たちを追い込む作用をもった「比島人がにわかに敵対的行動に出るに 至った」という「状況」にまでていねいに目を行き届かせていることが、印 象的である。事実調査会で、「軍関係責任者」には「ゲリラ化したフィリッピ ン人暴徒」と見え、そう証言したのであろう、その証言の意味をむしろ、「異 常な心理状態は一層昂進し、平常状態において想像し得ない行動があった」と の、日本兵の心理を「推測」する鍵を提供するものととらえている。この視点 は、(4)に加えて(5)に書かれた「状況」を拾い出すことなしには、見え てこない。こうして文書は、「事実調査」の要旨報告文書の関心からは抜け落 ちていたようにみえる、現場の日本兵士たちの心の現実に近づこうとこころみ たのだといえる。 

4)「わが方の査定方針」と「水掛け論」の日西会議:人的被害は全て「要求 をそのまま認め」、物的損害は「大幅に圧縮」

上記「状況」を「推測」した1955年6月29日付文書は、さらに「わが方の査 定方針」の提案へと進んでいる。人的損害の殆ど全部、物的損害の大部分は マニラ戦中に発生しているのだが、人的損害は333件「全てについて先方の要 求をそのまヽ認め」、物的損害は「大幅に圧縮」し、マニラ戦中の物的損害は

「戦闘行為中の損害であるとの立前」から「要求額の30%程度」、その他比島各 地での物的損害は「信憑性」や「疑義」を「立前」にして「要求額の60%程 度」を認めるというのである。

この査定方針には、どのような意図があったのか。「スペインの対日クレー ムに対する補償額の査定」(1956年3月7日付

78

)には、つぎのような説明が ある。人的損害の333件については、「日西混合委員会」の検討で「すべて日本 軍の不法行為によるもの」との結論に達し、その後の「我方の事実調査の結 78 1956年3月7日付文書、欧米局第五課、「スペインの対日クレームに対する補償額の査

定」、上欄外に「大蔵省提出用」との記載あり。(同上)

参照

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