米国法におけるいわゆる﹁コオボレインヨソ﹂の概念 靭 組織の統仙性ということ
四︑﹁コォボレイシヨ∴∴﹂の独立性の限界と関連してーー1むすびにかえてー ︵以上本号︶ 一︑は L が き 二︑﹁コすボレインコン﹂ の定義
H ﹁オーソドックス﹂の立場よりする定義
国 ﹁コ︒リボレインョン﹂の属性よりする定義づけの可否
宮 近時の定義とその定義づけの困難性
三︑﹁コォボレインヨソ﹂の法人格について
日 間題の掟超
国 権利義務の帰属点ということ
田 舎社財産ということ
禍 擬制か実在かということ 蛸媚㍑いゎゆる﹁コォボレイション﹂の概念︵三︶
・− その法人性と′関連して憂−
蓮 井 良
憲︵以上本誌二七巻二号︶ ︵以上本誌二六巻四号︶
四九
五〇 第二十七巻 第二号
㈲ このようにして︑われわれほc︒rp︒ra訂en昏yほ実在し存在す牒ものであることを知りえたのであるが︑ここ
において︑あれわれは︑いわゆる﹁コォボレインヨソ﹂と人間とが︑どこかで類似した取扱いをうけ︑かつ又同じ
ような方法で把握されているのではなかろうか︑と考えざるをえないよ㌢になってくる︒法枠上︑人間が人格者と
して取扱われる場合にほ︑−般的にほ︑哲学上︒倫理学上考えられる人格概念が基礎となっており︑これを如何に
法的に評価するか︑ということが重要性をもってくるの−であって︑この場合には︑意思をもち︑目的利益を追求し︑
︵1︶
義務を負いかつ責任をもって行為する︑という点に考察の重点がおかれているのであるが︑このような立場から﹁コォボレインヨン﹂を考察してゆくとすれば︑﹁コォボレインヨン﹂もやほり同じような方法で把握せられるので
なければ︑少くとも法律上の人格者として評価しえないこととなりはしないだろうか︒すなわち︑
﹃﹁コォボレインョン﹂ほ仮定の或ほ想像上の名称の下払おけるその構成員とは別個の法上の存在をもっ多数人の
集合︵assOCi象OnOfindiまd邑s︶である﹄と判示︵BrOWn﹀ Jこin詳計<∴ 巳e昇e−−望−U・S・鼻声cit・︶
B邑antine︶Op.Ci什∴p.悪されているように︑いわゆる別個のentityたる個人の集合体が︑人格者として取扱わ
れるか否か︑いわば﹁コォボレインヨン﹂は︑かかるものとして︑それ白体において意思をもち︑目的利益を追求
し義務を負いかつ責任をもって行為しうるか否か︑ということが︑ここで究明されなければならないこととなって
くる︒
ところで︑人間は利益を追求しょうとして企業を経営し自己の負奉を按ずるのであるが︑個人企業には自ら限度
があり︑ここに同じ目的をもつ多数人の集合による資本の集中が始り︑労力の補充が行われ共同企業の形態が考え
だされてくるようになる︒いわば︑人間ほ︑利益のより多き獲得のためという共同の目的を達成せんがために︑従
って又そのことが︑生ずることあるべきいわゆる危険の分散という制麗とも関連して︑共同企業とりわけ会社企業
を営み︑その目的を最も合理的に達成せしめるような組織をつくるのである︒従つて︑そこでほ利益の追求︑目的
の達成ということは︑常に人間によって設定せられ追求せられ︑そのための便利な仕雛として︑例えば既にのべた
まうな株主有限責任と株主とほ別個独立の存在をもつ株式会社という存在乃至制度が設定されることほ多言を質し
ない事実である︒かれらは︑こうした特権を確保せんがために︑いわゆる﹁インコォボレインヨソ﹂ という特別の
︵2︶
許可証を要求してくるのである︒会社がb既にみたように︑多数人の集合体であるにも拘らず別個の entity である︑というのも︑こうした目的達成のために外ならないのであ1て︑この意味において会社という制度ほ︑実際的
︵3︶
要求から成長しかつ実際的目的のために役立つようなものでなければならない︒まことに﹁私法人とくに商業∵廃栄転ついての会社は︑純粋に任意的なものであり︑それ故に利益の要稟がその本質的部分をなん︑その形式はある
二疋の冒的のために慎重に審議せられ︑選択せられたものであって︑その日的を有効ならしめ㌃という点−を除いて
︵4︶
存在するという理由ほない﹂ のである︒いわばその多数人の集合体 − ﹁コヵボレインヨン﹂の本質的要素は︑あくまで構成員たる個人であり︑個人の
︵5︶
営利の目的達成ということがその本賀をなすのであって︑例えば︑株主とは別個独立して存在するものとしての株式会社という存在乃至制度ほ︑結局のところ︑それを適して究極的には︑その利益が個人−−構成員たる株主に再
︵6︶
帰してくるように鮒織せられ仕観まれていなければならない︒しかしながら︑そこでは構成員たる各個人の利益追求は極めて多岐にわたり常に錯雑するのであるから︑この調和・処理のために一定の組織がつくられ︑この組織に
おいて又この組織を通して各個人ほ︑夫々の利益追求をその組織において定められた業務執行人Ⅰ淑締役に信託
︵8︶ ︵7︶
し︑かつこの日的のために各個人の集合財産たる会社財産の利用・処分を委託する︒すなわち︑各個人の集合された.利益の追求のために∵定の組織がつくられ又一定の設備が周意されているのである︒いうまでもなくこの組織は︑
五一 米国法におけるいわゆる﹁コオボレインヨソ﹂の概念
五二 第二十七巻 第二号
定款によって定まるのであって︑こ︑の定款は︑米国会社法によれば︑その会社存在の基礎としてのその糾織・道営
を規制する根本規範とむなるべせ基本定款と︑会社がその業務の道営に閲し会社・機関・株主・役員の行動を規制
するための︑法によって認められた自律権能にもとづいて定める会社内部の継続的自治規範たる附属定款の二種に
︵9︶
わかたれているが︑共に会社の細線道営についての準則となるものであって︑このことの故に︑少くとも基本克款については︑州主権による法人格附与のための要素として︑その設定について今日では形式的であるにしても︑公
︵10︶
の機関による審査と認証とを必要としているのである︒ところで魔款によって︑例えば会社の名称・目的膚主たる営業所・会社の存続期間・出資関係・取締役の資格・員数などの基本的事項︵例えば︑米国統一会社法三条︶をほ
じめ業務道営に関する事項が煮り︑ここに組織が結成せられ運営の方式が形成せられるのであるが︑これは単なる
事実関係をのみ示すものでほなく︑法的人格者としての個人︵構成員︶を別個の・entity をもつ多数人の集合体え
と意味づけるにあたって︑個人相互間を規律するものとして法的評価が形成されつつあるものく︑いわばこの意味匿
おいてほ︑それほ汲的組織として考察されなければならない性格をもつものといいえられる︒ともあれ︑例えば会
社という制匿ほ︑本質的にほ各個人の利益追求のために考えだされたものであり︑そこにおける真の利益享有老ほ︑
あくまでも構成員た▼る個人︵株主︶でなければならない︒会社の利益ということほ︑一つの便宜的なものであって︑
各個人の利益の集合を便宜的に略称したものにすぎず︑又そのための組織もこのような目的を合目的的に達成せし
︵11︶
めるために考えられ認められたものにすぎない︑といいうる︒従って会社の利益保讃といっても︑芙ほある二疋の組織・方法をもって集合された構成員たる各個人の利益の保護にほかならないのであって︑いわば概念的に抽象的
な法人としての会社の利益といっても︑実践的にほ︑その利益の基準は別の実体的なものを考えているとみられる︒
米国会社法においては・︑既にみたような基本定款の内容ほ︑それぞれ州と会社︒会社と妹主・株主相互間・の契約を
▲r
︵13︶ ︵12︶
なすものであると解されるのであるが︑このように︑会社の定款を二種の契約と考える組合契約的法理に固執し︑構成員たる各個人 ⁝ 各株主紅対し全体の利益にょっても侵害されえない固有の領域を広汎な範囲紅おいてみと
︵14︶
め1各株主の地位の強力性−−している諸事芙をもここで思いあわすべきであろう︒ともあれ︑多数人の集合体 ⁝ 会社の利益は︑本来的意味におい七存しうると考えられるべきものではなく︑若し存しうるとしても︑それ
ほ山応このような髄織による取扱乃至便宜性のため︑という意味あいにおいて考えられているにすぎないと思われ
る︒これと全く同じような意味において︑e註すとして存在する会社も︑結局のところ各個人の集合体として︑そ
こに存在するとみとめられる意思は︑究極的紅ほ各構成貝の意思に還元せられるのであって︑従ってその限りにお
いて︑それほいわゆる心理的意思となってくる︒会社が一先の組織によって︑その意思を決定するといっても︑そ
こで本質的なものほ各構成貝の意思であって︑会社の意思は︑例えば︑総会の決議といったような組織を通して抽
出 せられた︑いわば会社という集合体の観織を通してえた所産たる構成贅の共通意思を一応便宜的な意味で会社と
︵15︶
いう集合体の意思と考えるにすぎない︒このようにして便宜的にかつ劇応かく考えられる entity の利益︒意思というものは︑究極的にほ構成員たる各個人のそれであることを知りえたわけであるが︑ここにわれわれはこのょぅ
軋考えられるために欠くべからぎるものとしての組織という要素の存在勿必要性ということを知ることがで諷た︒
しかもこの糾織ほ既にみたところでも明らかなように碓に存在するもの︑実体的なものを示していると考えられる︒
ところで︑この阻織を過して各構成員の意思が定まり︑目的が達成せられるわけであるが︑﹁バランタイン﹂も﹃﹁コ
︵16︶
ォボレインヨソ﹂ほ︑より的確軋ほ法的単仙体︵−e笥−un菩である﹄ と定義づけているように︑Lの組織を通し︵17︶
て人間の集合体は新しい項︵ne司item︶をつくるのであり︑それほどこかで統㌦されるということを示す︒すなわち︑e邑甘ほこの統〟されたものいわば統山された正面︵unite−f3nt︶をあらわすものとして考えられており︑
米国法におけるいわゆる﹁コオボレイジョン﹂の概念 五三
線 技術的に使用されるen−i−yには︑このような意味における統一性を示すものをふくんでいる︑といわれている︒ この統−性という契機は︑先ず既述の組織について求められなければならない︒各構成貝の多数の利益と意思とが︑ 会社という組織を通して︑そこに会社の利益と意思とが存在すると考えられるのほ︑そこに組織の統一性が存する からであって︑この組織の統一性という要素によって︑各構成員の統一的に集合された利益と統心的紅決定される 意思とが︑夫々会社という集合体の利益・意思と考えられるようになり︑又逆に会社という集合体に帰属された各 種の権利が︑その構成員の権利に変更されてくるのであって︑この意味でほ︑相対的統一という語でよぶにふさわ
︵19︶
しいものとなると考えられる︒ともあれこのよう紅して︑組織の統産の存することによって︑人間の集合体をぬぐって展開される多様性が一にまとめあげられ︑少くとも法的観点からみれば︑﹁構成員と他の構成員全体との関
係が一構成員と単一的集合体自体との関係として︑また全株成員と第三者との関係がその慮⊥体︵u阜 と第三者
との関係として考えられ︑ある個人の行為がこの組織によって単山体としての集合体自体め行為として取扱われ︑
それに帰属せしめられるのであって︑このような意味において︑上述した意味における組織は︑人間の集合体をして へ 20︶ 権利の主体として立現われる基礎をその中に包蔵するものといいえられる︒もっともこのよデな組織の統一性とい ︵ 21︶ うことほ︑これをいわゆる組合などの中でもみいだすことが出来るのであるが︑法はこの組織の統㌦性あることに
よって︑直ち瞥﹂れに法人格を附与するものではない︒法は︑このような組織貯基礎をおいた聖体としてのen昔
に︑権利義務の帰属の統一点としての法主体性が生じたときに︑初めて法人格附与の実体が存するとみとめ︑■法人
格を附与するのである︒もっとも山般的にみて︑法主体とほ法の予定する帰属点の人柏化をいうのであるが︑何を ︵ 22︶ 法主体とし︑何に法主体性を附与するかほ既にのべたように全く法の企図に依存するのてぁって︑この意味におい
て﹁コォボレインヨソ﹂は全く法的実在・法的存在であるといいうる︒すなわち︑法ほ人間の集合体における組織 五四 讐一十七巻 軍事
の祝電従っておこる単〟体としての性格の存在を霊地し︑それあることによって人格附与の実体いわば法主体性
ありとみとめ︑これを穐利義務の主体たりうるものとして法人格を附与すれば足るのである︒ところで︑われわれ
はこの項目を初めるにあたって﹁コォボレインヨン﹂が人間と同じょうな方法で把握されているか否か︑という観点
から問題を提起したのであるが︑ここに至って︑﹁コォボレインヨン﹂−会社は人間と同じような本来的意味匿お
いて意思を窮し利益・目的を追求し義務を負うものではなくして︑むしろそれは︑法的取扱の便宜のための︑いわ
ゆる組織の続二悼経基く便宜的なもの︑観念的な思惟の産物として︑意思を有し利苧目的を追求し義務を負うもの
にすぎない︑ということを知りえたのであるが︑一それにしても︑ここにいう組織ほ確に実在し存在するものである︑
ということだけほ︑うかがい知りえたわけである︒
なお︑このようにして︑会社に法人柏が附与せられれほ︑ここに会社は法的人格者として法律関係の当事者とな
りえ︑権利義務の主体たる資格を取得し︑法上当然に能力者として取扱われる紅いたるのであるが︑この会社の能
力の問題も︑訴彗†紙上の問題と関連して︑会社の存在が単なる擁制︑にすぎないものか或は又実在するものか︑と
いう疑問を提起しているのであり︑この点と関連して考えてみても︑少くとも今日の英米両国では共町会社は実在
⁝するものとして取扱われているようである︒ ヽ
しかしながら︑この会社の能力に関する諸問題については︑既に有益な研究がなされているので︑ここでほ省略
︵23︶
することとする︒証︵1︶ 眉c訂n.︒p・Cテp・N芦 なお︑この点についてのわが国での﹁二の文献を示せば︑恒藤恭﹁前掲書﹂山五二頁以
下・鱒中新太郎﹁法得野望綱幾日﹂山四四頁以下・同﹁法律哲学論文集⇔﹂八八1九宙∵石本雅男﹁私法における法的
人格者﹂法学論叢二九巻三骨至五四頁以下・回議掲杏﹂∵貝以下・石田文次郎﹁ギー・ルケの法学﹂五〇頁以下・尾高親 五五 米国態におけるいわゆる﹁コオボレイジョン﹂の概念
▲
▲
雄﹁実定法秩序論﹂一員以下・七一貫以下・服部栄三﹁前掲﹂私法二号四八房以下等︒註︿2︶ Radin−Op・Cit=七p・琵−設Aもっとも︑この特権は﹁パアスソ﹂と考えられるぺき権利を伴うものであって︑この
権利ほ特許状というような︑何かある神聖な行為によって実在するにいたる︑ということほ︑伝来的にほ全く中世的伝
統に従うのであるが︑少くとも今日では全く形式化してしまつている︒Grange﹀Op.Citこpp.∽00etseq.
註︵3︶ ﹃reund︶ Op● Cit⁚pp.籍etseq.
註︵4︶ Radin︸ Op.Citこ p.設∽
註︵5︶ MacFeロ﹀Ci−こpp.N宗−N笥
米国法において︑議決権は︑株式なる財産権の価値を保障するための不可牧の手段として︑それ白身財産権であるとさ
れているのは︑参考とするに足る︒なお︑大隅健一郎﹁いわゆる株主の共益権について﹂松本先生古稀妃念 会社法の
諮問顧二四五頁以下・鈴木竹雄﹁共益権の本質﹂法協六二巻三号一貫以下・参照︒
註︵6︶ Radin−Op.Cit.︑p.票可
註︵7︶ 米国においては︑企業の所有と経営との徹底的分離と︑これに相応ずる取締役の業務執行権の確立とは︑株主が白己の
有する能力と利益追求という意欲とを正当に認識して︑自己の利益のために本来的に自己の有する権限を進ぶで取締役
に委譲した近代食梁の在り方に対応する合理的体制であると考えられる︒この点については︑例えば︑石井照久﹁企菜
形態論﹂一五〇貢以下・同﹁取締役制度改正の方向﹂株式会社法改正の諸問題六C頁以下参照︒なお︑・この点と関連し
て考えられる取締役の地位等については︑大隅健一郎﹁アメリカ会社法における取締役会﹂英米会社法研究六九頁以
下・八六貢以下・拙稿﹁英米会社法における取締役の督任﹂香川大学経済論叢二五啓二号三員以下・なお︑近時の法思
想における.社会本位的考察よりする株式会社の公共性に関すると思われるものに︑DOdd−FOrWFOma蒜CO壱○邑e
mana的erS首usteeめ﹀㌫Harく・L Reヂ七p﹂忘∽−−㌫ごBer−e andmeans﹀T訂MOdern COrpOMatiOna已P︼きate 第二十七巻 第二す 五六
P岩p2rty・︵−誤○︶p・∽∽の参照︒
註︵8︶ この点の詳細については︑句re仁nd﹀Op・Cit・﹀pp・︻虻2tS2q∴ ∽−ets2q・並びに前譲引用文献参照︒
註︵9︶ 英国会社法でも︑大略同様であるっ一九四八年法二条・六条・八灸参照︒
註︵10︶ 大森忠夫﹁アメリカ法における附属定款﹂松本先生台秤記念・会社法の諸問題二三九−二大五買春照︒
註︵11︶ 試achen・ibiP⁝Radin−ibid・
註︵12︶ 厨a亡antin2﹀ Op・Cit: pp・芝﹀ のN﹀ 澄∽いG呵ange﹀ Op﹀ Ciご pp・∽り〜缶 定款が︑州と会社との契約であることは︑
既述の﹁ダートマウス﹂大学蓼件︵山入山九年︶によって貫首せられ︑また会社と株主 ︵富たほ株主相互間︶の契約で
あることほ︑㌣i弓≡ぬS押On.く■ P己bCFY 恥JOFns﹀ CF−川㌫扇︵−符○︶以来みとめられたものである︒
なお︑南島博士ほ︑わが国の契約と米国法のそれとを同二祝すべき処までもってくるか否かは一つの課題であるとされ
る︒同﹁所掲番﹂二〇︒二心買春照︒
註︵13︶ 米国における共同企業形態は︑当初は組合方式が広範囲にわたって採用されていたが︑山九世中襲頃迄の間には︑会社
形態も漸次使用せられている︒これらの会社は一般的には特許主義転もとづいたものであって︑ノ法人格を附与された会
社といっても実は構成買た′る株主の結合という︑強い人的色彩をもつ︑実質的には︑組合契約的性格をもったもの︑い
わば組合に法人格を附与したものであった︒脚九世紀全般堅且る準則主義への移行−−⊥岡北戦争を契祷としてのー一に
▲おいでも︑各株主ほ︑会社の定款を通して契約するという︑契約的理論による会社法観がつたえられている︒株式会社
の組合化が立瀧論として妥当か否かについてほ鈴木竹雄﹁株式会社法改正の法理﹂私法二号二二貝以下︒なお︑英国に
おける諸点kついては大隅健二即﹁前掲﹂二五頁以下・七草貢以下参照︒
註︵14︶ これらの諸点軋ついては︑大隅健山郎﹁前掲藷﹂八八頁以下︒富山凍害﹁アメリカ会社法転おける株主の地位の変速﹂
英米会社法研究山四四頁以下1大森悪天﹁株主の地位の強化とアメリカ法﹂軋讐六六頁以下︒矢沢惇﹁株主の地位の親
五七 米国法におけるいわゆる﹁コオボレインョン﹂の概念
▲.
五入 第二十七巻 第二号
化﹂株式会社法改正の諸問題九六東以下・なお︑鈴木竹雄﹁析掲﹂私法二号二石頁以下・松聖一郎﹁株式会社法の改
正について﹂法律時報二二啓三号一三員以下︒
註︵15︶ ﹃reund︸Op・C芦−pp・ひN〜∽ダ ∽00〜∽り
証︵16︶ 出a−訂ntine−Op・C芦﹀ p・N・
〟般に人間匿関するものでなく人間の団体に関する︒ibid・n・P 法的単一体は椎利をえ︑義務を負うものであり︑
註︵17︶ RadiP Op・Cit・V p・監∽・
証︵18︶ Latty﹀Op.Citこp.∽憲⁝句reund︼︒p・Cit・∵pp・忠㌣入ロ・↓べいHa象Op・Cit・﹀邑1pp・N隕〜誓
註︵19︶ 句re仁nd﹀Op﹀ Cit:pp・ヨ1筈︵管ea−呂tureOf cO壱○芯te巨ity︶
註︵20︶ ヴイノグヲドフ﹁前掲書﹂訳本六〇員以下︒
Fre喜d.〇p.C幕こ pp.Nの.et seq.−∽∞et seq∴ ヨ〜∞∽
譜︵飢︶ ︺苫eund.〇p.Citこpp.N賢seq:Mac訂n−Op・Ci汁−p・∽肴は比喩をもって︑この点を説明している・︒
註︷こ 法主休性をみとめるのほ︑複雑な社会組織・経済碑織のもとにおける各楷の法律関係を善処するためのものであって︑
如何なる組織・目的を有するものに︑これなみとめ︑法人格を附与するかは︑全く︑法の自由の立場から決するもので
あり︑その意味で法人格は仙つの法技術・権利義務の帰属点・統二見と考えられる︒従って︑現実の利益ほ仙応会社紅
帰したとしても︑究極的には︑この会社なる帰属点を通して︑実質的利益草有者たる株主に帰属するように仕締まれて
おれほ足るのであって︑必ずしも経済的利益の直接的事有者紅︑法主体性あり・とし︑これを権利の主体として取扱わな
ければならないものでもなく︑かえって︑間接的権利の主体にとどまったとしでも︑そのために︑法主体性の承認の可
否︑従ってヤ﹂る法人格附与の意義が失われるものでほない︒
註︵牢︶ 会社の能力について問題視されるのほ︑已tra昌㈹Sの理論に関してであるが︑この点については︑田中誠二﹁会社の権
四
以上﹁コJパボレインヨン﹂の定義をたずね︑法人格の理論を求めてえたところは︑法人格は︑結局のところ︑制
定法・定款の規定に従って結合した多数人の集合体すなわち単産としての多数人に与えられた便宜的な法律上の
概念にすぎないのであって︑﹁コォポッィレヨソ﹂例えば株式会社が成立するということは︑構成員たる株主を離
れて︑その組織のうえに法人格が創設され︑法上能力者として取扱われる︑ということ︑いわば︑それが権利義務
の帰属点として︑株主から独立した存在となり︑ここ町会社の権利義務と株主のそれとが︑それぞれ帰属点として︑
別個の周を構成するものとして裁然区別して取扱われる払いたる︑ということであった︒と同時に︑愈社の法人格
ほ︑既に述べた意味に好ける組織﹂−法的組織を通して統盲れた組織体︵聖体︶の国家︵州主権︶による確認 五九 米国法におけるいわゆる﹁コオボレイジョン﹂の概念 利能力の目的による制限の否定論﹂一橋論讐へ巻五∴ハ号二貝以→・同﹁会社の計的外の行為と改正会社法﹂松本先 生古稀記念会社法の諸問題山元頁以下・上柳克郎﹁アメリカ株式会社法転於ける邑ra各es理論﹂英米会社法研究 二三二頁以下二間﹁英米法における会社の能力﹂法律文化遍九・一〇骨壷谷川雄一﹁会社の髄カと目的外の行為﹂ 愛知大学法経論集託集一恵九頁以下︑なお︑会社の不法行為蔓俺蔽ついては︑上柳﹁前掲﹂二四三軍ヴイノグヲドフ ﹁前掲蛮﹂訳本六二貝以下・フィーフツート﹁前掲苔﹂訳本二八三・ニ八四東︒﹃詔∈已r︵p・Cit⁚pp・空etseq⁝ヵ乱in− Op●Clごpp票N﹀票∽⁝BeHan−首e−Op・C芦u pp・N3etseq・ 刑事責任については︑フィーフツーr﹁前掲譲﹂訳本二八五・二八六貞︒ Radin.〇p.Citこpp.買気a−ぎtl声OpCil:pp・N謡etseq奈川︒なお︑服部栄三﹁会社の権利能力・行為能力及び 不法行為能力﹂松本先生台稀記念 会社法の諸問題八五貢以下︒
第二十七巻 第三Y
乃至承認であって︑会社という形態に結合した多数人の有する特殊の法律上の能力を意味し︑恰も自然人の法人格
と同じく︑それほ法によって作られた擬制的なものでほなくして︑実在し存在するものを示すものとして考えられ
ている︑ということであった︒
ところで︑周知のように︑米国会社法においてほ会社は株主七は別個独立の存在︵separateentityこega㌫n叶ity.
︵1︶
entityseparate賀ddis旨象fr︒mit∽Sすe邑ders︶であるということ︑瀧びにその別個独立の存在は︑究極のとこ ︵ 2︶ ろ︑ある場合にほ否認しうるということが︑判例・学説でくりかえされ主張されており︑少くとも会社法に関する著書でこの点紅論及しないものほないといってもよいぐらいでぁる︑︒そこで以下では︑しばらく従涌の形而上学的
観点よりする考察の立場を離れて︑この後者の点をも考慮にいれつつ考察をすすめてみよう︒けだし︑ここでの考
●●○● 察ほ概念それ自体の分析というよりは︑むしろその概念の使用方法に関して発生する法上の諸問題のより妥当な解
︵3︶
決という点に関連しているのであって︑しかもこの間腰を解決すべき鍵ほ︑結局のところ︑ある会社法学者によって示唆されているように︑﹁会社人格の否認というよりは︑むしろ会社制度本来の用途・機能に曝して︑会社独立
︵4︶
性の特権の行使に関する限界の発見にある︑﹂ というほうが適切であり︑問題ほ会社人格の否定というよりほ︑むしろそ虻独立性の限界というほうがより適切と思われ︑従って既述の法人柏の附与乃至法人柏そのものの取扱いの
資にむなると考えられるかむであるり 如何なる場合に︑この法人格の否認−−ノいわゆる絶縁体としての会社独立
︵5︶ 性の限界− が考えられているかという︑具体的な判例を適してみた結果は︑既にこころみたところでもあり︑か
っ与えられた紙数もつきかけたと思われるので︑ここでは︑ある会社法学者によって提起されたこの会社独立性の
限界という点に関連すると思われる二・三の問腰点を示すことによって王というのほ︑会社をめぐる︹れら溜州に
関する種々の論争では︑時に重要な点がみおとされ︑問題の係争点は真実の係争点でほなくして単に心の中に描か
・′
︵6︶
れた︑いわば想像上のものにすぎないさとれ︑批難されることもあるからであるーこの拙い小稿の﹁むすび﹂笹かえたい︑と思っている︒
註︵1︶ 完世紀後半期における︑いわゆる米国会社法の古典期といわれる時期において︑法はこの別個独立の存在としての法
人格の整調にすこぶる恩賞に従っており︑会社に対する第三者の権利は︑独立の人格者たる会社に対してのみ有する稚
利であって︑その請求権が契約虹よる場合たると︑不法行為による場合たるとを問わず︑会社財産のうちからのみ充足さ
れねばならぬとされていた︒なお︑この点と関連して︑株主有限責任制靡の確立11これが山般的になった・のほこ九世
紀末期−−をも併せ考うべきであろう︒
註︵2︶ この考え方は︑判例法によって発学科正されたものであって︑これがみとめられる基準は︑﹁法人なる観念が公共の便
益を打破し︑不正を正当化し︑詐欺を擁護し又ほ犯罪を防讃するために利用﹂される︑いわゆる法人格の濫用の場合であ
るとされている︒︵SanbOrnl:C・S・ヂMi−wa仁訂eRe叫rigera−Or→ransitCO・︵C・C・甲∴P Wis・こぉFed・N∽∽︶
なお︑この点についての初期打判例は︑謬nkO杓U・S・ヂ謬還宗︵U・S・−00○ゆ︶∽n黒岩C野のーであるとされている︒
WOrmSer.qp.Citこ p.料彗
証︵3︶ WOrmSer︸Op・Cit:p・島の
註︵4︶ 謬Hantine﹀Op・C芦−p・N提
要5︶大隅健義﹁前掲書﹂表三頁︒拙稿﹁前掲﹂法商学部論叢二竺号二亨・大浜信泉﹁従属会社の独立性とその限界﹂
早大七十同年配念法学論文集四五頁以下・同﹁一人会社の混用とその法人格否定の頚論﹂藤井先生還歴記念 法政の諸
問題三四九頁以下︒
註︵6︶ Latty﹀Op・Cit・p・∽浣なお︑法人格の否認に関する判例で屡々遭遇するのは︑技術的な使用におけるent苫という
′ 六㌦ 米国法におけるいわゆる﹁コオボレインョソ﹂の概念 簡∵
六二 第二十七巻 第l山号
語が説明な要求するということである︒entityは抽象的概念における実在︵e詠teロCe︶の概念な意味するのか︑粛ほ
又︑具体的概念における実在・存在︵e誅tence︶の概念を意味するのか︑すなわち︑それはe訃tenceかe詠tbeing
︵e已sニどng︶か?法禅家は︑entiny t訂Oryという表現ほ同じであつても︑会社の ㌔数s紆nce︑言訂○苛 や ㌔已s訂nt
訂ing︒theO苛 については︑のべていないからである︒この点についてほ︑ibid・︵ciご Canfie声 Tbe ScOpe and
Limits Of tFe COrpO巧ate Entity TheOMy・COi・L・R2く.召︼・︸↓︵−讐↓︶﹀−N00︶
H 法人格に関すると思われる種々の判例を整理してみれば︑会社は︑戎ほ株主とは別個独立の存在である︑
れ︑或ほ個々人の集合体にすぎない︑とされているのを見出すが︑前者ほ普通法上考察されたところでも︑かつ又衡平
法上その否認が考えられうるところでもうかがわれ︑後者に泳いても︑entityは結局統﹁された正面︵u邑edfrOnt︶
いわば個々人の﹁アンチイデーゼ﹂としての絃二体 − entity の他の外貌たる単仙体︵−egalunit︶ − を示すこと
は十分うかがわれうるのであって︑両者ほ大略ひとしいことを意味するとも思われるが︑この単副体としての会社
の概念ほ︑﹁パァスン﹂としての会社紅対する関係の理解えの道を容易ならしめ︑ここにcOrpO邑eenti首=aggr・
ega訂Ofindiまd仁已s拍−ega−仁nit⊥ega−︵cOrpOra旦扇rS昌=COrpO⊇te nameと交互に使用されている事実を見出し
︵1︶
ぅる︒従って︑ここにおいては︑当然︑普通法上いわれるCOrpOra訂ent首はその構成員とほ別個の存在をもつ︑又は別個のなにものかであるという︑いわゆる構成員とは絶縁された存在であるという点を強調すること紅ついて
あ反省が考えられ︑この点を強調すれほ︑株主の絶対的挟殺を導く危険を伴うこと︑又それにも拘らず︑裁判所は
株主の実在を見逃してほいない︑と小うことを知りうる︒つまり︑法技術上のものとして使用せられるcOrpOrate
entityほ︑恐らく山方においては集合体の合成的性翠駕 他方においてほその法的統一性を総計するための便宜な
方法であって︑これらの判例を通して知りうることは︑entityほ株主とは別個の存在であるということが︑会社の
一外貌にすぎない︑ということを心にとめる判例より▲は︑会社が株主とほ別個の存在であるという=醍に承認され ︵2︶
た普通法上の原則め発展的例外を通して→株主との同一性をみることのほうが︑より困難であるということである︒
およそ企業を営む場合︑それが個人企業であれほ︑すべての権利義務は︑法的人格者としての個人︵営業主︶妃帰
属するのであるが︑これに反しで︑会社とくに株式会社企業の場合にほ︑既に述べたように︑会社も亦法的人格者
モて権利義務の帰属点とされる結果︑ここでは︑法的人格者としての構成員たる株主と会社とが︑それぞれ権利
義務の担い手としてあらわれ︑考えられてくるようになり︑しかも会社を構成し会社に存在の基礎を与ゝ乙るの恨株
主であって︑株主を離れて会社ほ存在しえないわけであるから︑例えば︑いわゆる﹁山人会社﹂のような場合には︑
少くとも事実において同山自然人が二重の人格︵d邑pⅧrS¢n賢y︵眉aCity︶︶をもちその利益を草有しうることとな
り︑同じ理由から﹁親会社︵持株会社︶︒子会社︵従属会社︶﹂の場合でも同一会社が二兎・三蚤の人格をもちうる
︵3︶
こととなる︒ところで︑上記の普通法上の原則によれば︑会社に法人格が附与されれば︑会社は法的人格者として権利義務の主体となりえ︑その結果︑会社における各種の権利義務は︑すべて会社の︑かつ会社切みの権利義務と
して︑その構成員たる株主とほ全くきりはなされて考えられるにいたるⅥであるが︑これは︑かくすることが︑よ
りよく社会正義を実現し︑社会の福祉を増大するであろうという社会の璧氷に基き︑かつこの点を嶽威したまでの
ことであって︑この意味において︑会社の法人格は︑社会の要求によりよく適応せし励んがための方便乃至擬制と
︵4︶
も考えられる︒ともあれ︑実は︑/会社ほ株主にとってはその利益追求の目的達成のための一つの手段として考えら︵5︶
れ利用されているにすぎないのであって︑比喩を以てすれば︑株主が会社をあやつる主人であり︑会社はむしろ︑主人たる株主の目的達成のためにあやつられる人形︵使用される従僕︶にすぎない︒この故に︑会社は株主の分身 ︵6︶
︵詩﹃egO︶とか道具︵i邑rGme邑i−y︶とか︑代理人︵agent︶とか︑蒜︵identi竺とかいわれうるのであって︑ 六享 米国法におけるいわゆる﹁コオボレインョヱの概念
第二十七巻 第二号
株主こそ会社の実質的所有者であり︑しかも株主の会社に対する支配関係も所有の法理によって律せられているの
である︒ところで︑法人格の否認の想像しうる必翠性は︑一方の側における会社の存在と他方の側における醸圭の
実在との間に矛盾がある︑ということの仮定である︒山方を否認㌧法人なる﹁ベール﹂を取除けほ︑他方ほ自動
的に法的観点の対象となってくるのであって︑ここにel−ityなる概念の使用をめぐって︑少くとも実践的機能の ︵ 7︶ 問題と関連して主として一人会社や持株会社についてであるが困雉性を生じることとなる︒
註︵l︶ Latty−Op・C昔:pp・∽岸∽諾い句濁und−Op・Cit⁚pp∃et seq・
証︵2︶ Latty.〇p・Ci汁︑pp・∽¢p 告○
註︵3︶ 拙稿﹁前掲﹂法商学部論叢二啓二号二大貢以下︒
註︵4︶ 法が一定の社会的存在に人格を附与するのほ︑それが一定の社会的作用を担うことを予定しているからである︒例えば
わが民法六八条・中二衆参照︒このことは会社についても同芸理である︒なお︑拙稿﹁前掲﹂法商学部論叢二巻一号
二七頁︒
註︵5︶ 句armers戸Oan酔T⊇S︷C〇.﹂戸 P野s︒n・−∽OMisc・ご〇・−−p NNNセ・Y・S・∽∽N
註︵6︶ Baantine﹀Op・C−t:N諾﹀ ∽−−
註︵7︶ Latty豆.Cit.︸害なお︑S−e諾nSこp・Cテpp岳etseq・∵bid﹀︒p・Cit・−pp・筈ひeけseq・参照︒
⇔ 米国における多くの法学者転よって説かれるように︑会社はその株主とほ別個のentityである︑という理論
は︑定義というものは︑すべての目的のために事物の本質を明確に定むべきであるという観念に︑又陳述というも
のほ︑必要な真実であって︑それがなされる目的に拘りなく十分に記述さるべきであるという観念によってあらわ
︵1︶
される通常の哲学的絶対論に依存している︑と思われる︒例えば︑既にみたように︑脚軒の家ほ︑その構成部分たJr マ
る煉瓦をとりかえても廟である︑というように︑全体は単なる一部の合計とは別個のものであるということほ素
案であるノが︑それほ又ある日的のためにの・み存するということも真実である︒このことは︑住むぺき目的のために
︵2︶
木造家屋を購入すか場合と︑新木をうる目的のために︑それを購入する場合とを比較考鼓すれば十分であろう︒取扱われるべきenti首が会社である場合でも︑このことは本質的には異ならない︒山例として︑ⅩとYとが株主と
なってZ会社を設立した場合を考えてみよう︒もしAがZ会社に首万円の債権を有しており︑弁済期にいたっても
Z会社が︑この債務の文私をなさず︑かつそのための十分な資本を炊く場合︑株主たるⅩ・Yから︑その弁済なう
けうるであろうか︒おそらくⅩ・Yは株主としての有限責任性を主張して︑これを拒否するであろう︒ところが︑Ⅹ
︵会社︶とY ︵会社︶ とが株主となつてA鉄道会社の手をへて貨物輸送をするために︑Z会社を設立し︑このZ会社
が鉄道会社の代理店として︑Ⅹ︒Y ︵両会社︶ の貨物を二手に引受け︑これに対する手数料をA鉄道会社からうけ
るように仕親まれていたような場合︑手数料は︑Ⅹ・Y︵両会社︶に帰することとなるから︑兜極のところ︑実質
︵3︶
的には︑Z会社を通して手数料の形式で運賃割戻し ︵rebate︶ をうけることとなる︒すなわち︑前者の場合にほ︑構成部分としての株主は重要性をもたないが︑後者の場合紅ほ︑非儒に顕著な重要性をもってくることとなる︒つ
まり︑﹁コォボレインヨソレ例えば会社は︑単粒一つの目的のため軋のみ存在しているものではなくして︑多くの
目的のために存在しているのであり︑従ってその観点も︑或ほ財産のそれに閲し︵会社債権者・株主の有限責任と
︵4︶
いう点と関連して︶︑或は管理のそれに閲し ︵数万という株主の存する場合にはむしろ管理・経営という点と関連して︶︑或は株主のそれに閲し︵家族会社・山人会社という点と関連して︶︑ここに会社ほ︑実際上興った自的のた
︵5︶
めに異った様相を呈することとなってくる︒従って︑ここでみおとしてほならない大切なことは︑如何なる目的のために会社ほその構成員たる株主と別個独立の存在となるか︑ということである︒会社が株主とは別個の独立した
米国法転おけるいわゆる﹁コ戊ボレインヨソ﹂の概念 六五
\
▲
六六 第二十毒欝毒
︵6︶
き︑なんらかの制度は︑それ自体が目的でほなく︑先ずなんらかの目的が予め措定せられ︑その実現のための一 存在であるという▼ことは︑ある目的にのみ関しているのであって︑他甲目的には関レないのである︒ごく二鱒酌に
方法としてつくられるものであり︑従って︑制度の利用には︑その日的と関連して︑ある二冠の方向と限界とか予め 措定されていなければならず︑このことは︑会社企業の場合にも亦ひとしく妥当したものとなることは疑いえない
︵7︶ ことである︒
註︵3︶ 註︵1︶ Latty−亭Cit⁚pp・芸−etseq・ 註︵2︶栗をうる目的の場合でも︑恐らくその売渡証蛮︵biご︒fsalヱは﹁その家﹂に閲し︑﹁各個の板・警どの構蛋分し
設閲しないとしても︑問題となるのは︑その構成部分である︒ibi㌢壱ach2n﹀OpCit⁚pp・N岸N∽¢
註︵4︶
註︵5︶
賢6︶
註︵7︶ u.s.ヂMilwaukeeRefringeratOr→rans芹CO:︵P c・Wis・−冨︶−転句2㌢∴迂↓⁝出aごantine︸Op・Cit⁚p・∽○ご WOrmSer﹀ Op.Citこ p.g00 BeユeandMean00ーT訂MOdernCOrpO−a−iOnandPr−邑ePrOp2rty ︵−笠∽︶pp・00手写N∽∽et詫q﹀ ㌣atty−Op.Citこ pカ告00︸ 告¢ 匿in︸Op.Cit:pp●畏軍票ごMacben﹀Op・Cit⁚pp・N串Nぞ訂睾Op・Cit⁚pp・芦睾のN−n態 けだし︑屡々の芸ように︑法が人の集合体に︑法の目を通して法人格を附与し︑これな法的人格者として取扱ゎんと
するのも︑かかる会社という集合体をめぐって展開是る諸種の法待関係を画十化し明確化し︑かくすること誓って︑
株主の目的達成農ならしめ︑ひいて︑社会的価値の増殖に警しめ︑以て公共の福祉雷増大せしめん写る′ために
ほかならないからであって︑不正を正当化し︑詐欺な擁護←︑公共の使誉打破すべきことな許容するためのものでは
ない︒
甲 既に﹁コカボレイジョン﹂の定義をたずねてえたところでもうかがわれうるように︑現実の法上生起する諸間
琴を解くにそれ自体十分である︑と思われるような概念︵cOr琶⊇訂tFeOry︶ は︑これを見出しえないのであって︑
会社は株主とは別個の存在であるとして考察する必要ほないということが論議されるならば︑逆に正反対の概念は︑
q
︵1︶
棒主の完全な忘却に導かれる結果を伴い易いのである︒会社ほ株主とほ別個の独立した存在である︑という立場に立った判例ほ︑その当然の結果として︑株主の完全な忘却に導かれ易く︑従って会社はある法的特権の附与せられた
株主の集合体である︵∽露eく.∽昏ldardOi−P.一念OFiOSt.−彗a叶忘qu ∽○芦E.誓¢︵忘器︶︶︶という種類の判
例と矛盾する︑といわれ︑裁判所も亦︑前者が会社に関する普通法上の基礎理論であるに反して︑∴後者はむしろ異
︵2︶
端である︑としている︒しかしながら︑後者の判例の立場が異端であると解するよりも︑前者の判例の立場が基礎︵3︶
理論であると解するほうが︑より困雉であるともいわれており︑この二つ.の理論の間の選択は︑相当の考慮なくして︑しかく簡単に説明付けらるぺき筋合のものではなく︑問題ほむしろ︑これらの法的特権を吟味することである︑と
もされている︒′∨第一に︑会社は株主とは別個独立の存在である︑という前者の立場にたっても︑裁判所は叫般に︑
﹁他の人々の行為あるいは他の人々との共謀に対する責任に関する通常の原則﹂ によって︑後者の立場によると同
じような願わしい結論に達しうるのであって︑例えば︑株主が債権者を詐害し︑制定法を回避し︑又は不公正な利
益をえんがために︑会社をその代理人として使用する場合でも︑裁判所が代理の技術的原則で︑大なる障害なくし ︵ 4︶ て敗北しなけれほへ十分希求する結果に達しうるし︑第二に︑しかしながら︑会社ほ株主とは別個独立の存在であ
笥︑ということを主張し︑この理論を救済支持せんがために︑a鴨enCyを亜解することは︑殆ど無僻傭ど思われる
のであって︑正義は︑この別個独立の存在性を否認することなしにほ達しえられない︑と主張する判例の立場も正
︵5︶
当であるし︑第三に︑個々の訴訟手続においても︑この会社の株主よりの絶対的分離という技術性とは別個の︑そ六七 米国法におけるいわゆる﹁コオボレインョソ﹂の執念 ︑ す √︶︑
六八 第二十七巻 第二号
の判決を説明し︑証明するための豊富な理由−トトある法的措置は︑第三者を保護し︑多数の構成員を都合よく取扱
うために︑樟成員の諸権利に効果をあたえようと試⁚みられておこること︑構成員はcO−訂象孟1repreSentati孟がな
︵6こ
んらかの援助をなすのでなければ︑cOrpOr旨とよばれるにとどまるものをもつこと︑会社によって適せられる如何なる目的が︑法律上是認せられるか︑ということは︑正確には︑山般に法原則を決定する言っともこの決定は︑
例えば︑なすべき法上の義務ありや否や︑ある行為をなすことを差控えるべきや否や︑というne亀gen籍の領域
におけるものであるが︶と同じ原則によって決定されるものであること︑などの方法がとられれは︑同じような結
︵7︶
論に達しうる1も存するのであって︑米国における多くの判例は︑確軋何が目的であるか︑何が問題であるか︑ということを無視して︑仙般に無条件に株主とは別個独立の存在としての会社を強調することほない︑ということ
を暗示している︒極めて一般的にいいうることは︑既▲に述べ・たように︑会社は株主とほ別個の独立した存在である︑
ということ︑しかしその集合に等しい︑ということ︑及び多くの目的にとって︑個々の構成部分たる株主の性質・同
一性の調査は本質的なものではない︑ということ︑しかし又その調査も重要であり都合のよい場合もある︑
こと︑並びに法人格を附与せられた会社け株主の集合体にひとしいのであり︑只裁判所は︑便宜上この会社に附与
せられた法人格を取除くことを便宜的に否定するまでのことであって︑問題ほ︑この関与せられた法人格が取除き
︵8︶
えない︑と考える点に存するのである︒もしも︑人が︑この法人格否認の法理の係争点が︑会社由別個独立の法的存在という附与せられた抽象的な法人格そⅥものによって定まキと信じているならば︑米国における︑この点匿
︵9︶
濁する多くの判決の正当性ほ問題視してよいであろう︒しかしながら︑この法理は︑必ずしもそのように理解され把握されてはおらず︑このことほ︑この法理︑の大部分をしめると思われる∴一人会社や子会社︵従属会社︶の場合を
考えてみても︑一人会社たる㌃と又ほ子会社︵従属会彗たることそれ自体において︑当然.にこの法理が適用せら
︵10︶
れていない事実に徹しても明らかであろう︒ところで︑もしもこのいわゆる株主の法上の滅却すなわら会社の別個独立の存在ということが︑経験の基礎いわば決定された判決より虻帰納的推理に基礎をおいていないならば︑そ
︵11︶
れほ何か合理的根拠に基礎をおくのであろうか︑あるいは又︑自明の原則から演繹的に従われるのであろうか︒英米とりわけ米国の法学者によって述べられた種々の理論 − 擬制説・実在説1の何れによ?ても︑極端に論理を
推し進めてゆけば︑会社は株主より絶対的に分離した別個独立の存在となってくるが︑しかし何れの立場に立って
︵12︶
も︑必ずしもそうする必要はない︑と考えられる︒既に述べたような意味において︑会社に附与せられた法人格はいわぼ法禅的操作を容易にするための一種の作業概念にすぎないのであるから︑それ自体において︑何れの理論に
よる場合でも︑同じ目的に役立ち︑又反対の目的に役立つために︑主張せられるであろう︑ということを心に留め
︵13︶
ておけはよい︑と思われる︒註︵1︶ 例えば︑COntinenta−Tyre料RubberC〇.ヂOaぎーerCO: ︵−望∽︶−戸B・怒∽事件参照︒本件において︑原告はド
イツ人によってドイツにおいてなされるタイヤ販売を目的として︑英国において設立された会社であったが︑本件で︑
裁判所が決定しなければならない問題点は︑当該会社は︑英国会社であって︑英国会社として被告会社を訴えうるか香
か︑いわば︑当該会社ほ︑英独両国間の戦争勃発にも拘らず︑その構成員とほ別個独立の法人︵artificia−e象ty︶とし
て英国会社として有紀しうるか否か︑ということであった︒下級審及び控訴院でほ︑これが肯定されたが︑貴族院であ
﹁会社は申立の権限ほこれを有しえない︒それほ構成員紅よってのみなされる︑問題になっている構成員はドイツ人では
る︒従って︑それは形式は英国人であっても︑実質ほドイツ人である︑﹂というBuc已ey卿による控訴院の少数判決を
採用し︵−警の︸NA−C◆∽○ご︑﹁問題は︑その訴訟行為の特発︑Daim訂r会社は︑大陸会社に請求された相当額を支払
わなければならないことほない︑ということが︑・本判決に本質的なことか香か︑﹂ ということであった︑こ﹂れは法人格
六九 米国法におけるいわゆる﹁コオボレインヨン﹂の概念
第二十七巻 第二号 七〇 の否認をふくむだろうか︑英国会社となった大陸会社は敵でほない︑ということを認めるに難くはない︑費族慌はこのよ ク ぅに判決した︒この時︑問題は︑一英国会社は︑他の英国会社に︑その会社が敵国を利する目的のためであ︑つたとして
も︑金銀支払をなさなければならない︑ということである︒人は﹁何人も敵を利するために︑又敵のために金銭を支払
ってほならない﹂という規定︵料詳∽Ge〇・声e・篭・脚忘︵−寧苧 embO首ngaROya︼Pr邑aimati苫OfSept.↓.
−冨ゆ∽︶を心風持して︑この判決を考えている︒支払が英国会社に対してなされたかドイツ会社に対してなされたか︑
戎ほ又︑支払が英国人に対してなされたか︑ドイツ人になされたかは︑どれ程の相連があるのであろうか︒疑もな
く︑支払はドイツ人の利益のために生じ︑特別の陳述による行為が妨げらるべく立案されたの︑は︑この利益である︒
もし下級審及び貴族院の少数意見が︑当該会社をして︑現実檻受理した財貨に対して︑支払をなさしめざるよう隠せし
める観念をさけたならば︑森に︑支払ほ︑外国財産は疑もなく︑財産が外国人によって所有されると全く同じように外国
人によって管理された財産となるから︑外国人財産管理人肘二致し︑義務院によって黙許され迅速に没収されたであろ
チ︒従って︑もし︑欲しられたとしても︑何人も﹁法人格の否認﹂をしようとしなかったのである︒いわば裁判所ほ︑
会社すなわら別個独立の存在を愛したのである︒Radin︑Op︐Cit.︑pp.宗¢︸票○∴Latty.〇p.Cit.−pp.芸ゆ.のー○
なお︑ある土地濫対する特権は︑有色人種直供してはならない︑という制限付契約は︑ネグロ人のみによって構成され
た会社に対する譲渡紅よって侵きれることはない︑と判示したP2旦e蒜2−2aSロ蒜ParkC〇・イ誉E2derこ○⁝1a・
缶り﹀空S・E・↓澄︵忘○00︶も同旨︒
註︵2︶・︵3︶ Latty.〇p﹀ Ci沖こ pp.空〇.巴−
註︵4︶ ibid∴村adin・︒p・Cit■−p這ぷBaan旨e﹀Op.Citこp.∽−N
註︵5︶ ibid・︵cit・Canfie−dこぶSc︒pea且﹁imit⁝f−訂En音→JeOry﹀C已・ト・Reく・鼻−ご当︶彼のこの論文ほ︑今
手許になく︑これを引用しえないが︑これは棲めて多くの判例を駆使して︑会社の別個独率の存在という普通法上の理
㈲ 会社ほ株主とは別個の法的人格者として存在するという概念を否認しうるか否か︑ということに関する理解え
の通が︑時に真実の目的を隠蔽しやすく︑ためにある具体的事件が生じた場合︑単に形式において︑それが恰もある
先決例におけると同じ類型に属すると思われるような現象がみとめられ存在するとすれば︑その先灘例におけると
同じような判決をくだす︑という機械的法禅学への方向を生じやすく︑従ってその結果として︑別個の汝他人格者と
七−
米国法におけるい︑わゆる﹁コオボレイン︑ヨソ﹂の概念 論の正当性を承認しょうとするものであり︑同時に︑ここにいうような類型も亦これをみとめている︑.pp・−N00etめeq・︶註︵6︶ 誉2und−︒p︸Cit: pp⁚NNetseq・
註︵7︶ ㌣atty−Op.Cit:p・のーーn・∽料︵cit・C琶fie声︒p・Cit:pp・㍍芦㌫−︶︶pp・空N〜の㌫
註︵8︶ ibid−名・Cit:p・のー∽⁝Radin︶Op・Cit:pp・宗∽−采の
整9︶ ibiチOp.Cチpp.のー↓忘㌫⁝Ba−−a旨neこp・Cit:p・N誤こ町・Ra巴ヂ︒p・Cit・pp・雷﹂−冨夕
註︵10︶ 拙稿﹁前掲﹂法商学部論攣一撃専一一六貢以下・なお︑松田博士は︑一人会社ほ社団法人としての実体を軟くため︑
その社員︵株主︶は有限諜任の利益をうける案質的根拠を有しえないとして︑一人会社の社員︵株主︶は会社債権者に
対して直揮賓任を負担すべきものとされるが︑︵同博士﹁会社法概論﹂一入頁・二九頁参照︶沿革的理由ほともかくと
して︑なお十分首肯しえられないところである︒なお︑1a−−y︸Op・Ci−・︸p・の謎㌢ぷ眉ci−・A已2rSOn−EmitatiO読
Of t訂COrpOrateE已ity−︵−豊−︶pp・p賃−NあーNひ○︶参照︒
証︵11︶ ibiチ n・た
註︵12︶ 英米匿おける諸家の見解などについてほ︑ibid−名︶Cit:pp︶のーPのNO
経︵13︶ ibiチop.cit.−p.のN−mひ∽︵ci−.宮wey﹀TFeHi旨ric厨ackgrOu邑OfC︒rpOrateLega−PersO邑ity︑Ya−eL l・・
召l・∽∽︵−∽Nの︶p・望芯︶
在
七二 第二十七巻 第二号
して存在するという会社に関するこの主義のみが︑この点に関して法上生起する諸問題を解く鍵である︑と思わし
めるような習慣におちいりやすい︒ここに︑表面上︑会社の法的人格者としての技術性を伴う非妥協的概念論におけ
︵1︶
る欠陥が︑法的思考上の危険の源泉ともなる︑といわれる理由が存するとも考えられる︒たしかに︑既にこころみたように︑普通法上又は制定法上の︑株主とは別個独立の法的存在であるという会社の概念は︑固定しやすい傾向
をもっており︑この立場に固執する限り︑現実に生起する法上の諸問題に遭遇して︑極めて妥当したものと思われ
るような結論をうることは困難祝される場合も生じ︑その限りにおいては︑上記のような批辣をこうむりやすいこ
とも十分うかがわれうる︒しかしながら︑いわゆる普通法と衡平法との▼二元的構造を有しっつ発達してきた米国法
におぃては︑時に法のドグマ盲gma︶に執着してことを処理するが︑又時にーー1例えば法人格を否認しようとす
るとき ー そのドグマから演繹され︑又そこからドグマが演繹される法の原則に注意を集中して︑ことを処理しょ
うとしている︒もっとも︑これが如何なる場合であるかほ困難な問題であって︑その場合の相当な自由は︑衡平の
︵2︶
見地からする裁判官の自由裁量に侯つべきものが多いであろう︑と思われる︒ともあれ︑会社ほ株主とほ別個む法的人格者であるということが︑これをめぐって生起する一切の法上鱒諸問題を解きほぐす鍵であるという仮定のも
とに︑法人格の迷信 − これは法人格そのものが非常に技術的なかつ説明しえない不可解なものであると信ずると
ころ紅おこるものであるが︑1を不正当にも礼讃すべきでほなく︑しかもこのような考え方妃は︑たしかに無限
︵3︶
の傷害がつきまとうので㌧ぁる︒屡々述べたように︑法が人の集合体に︑法の擬制によって法人格を附与し︑権利能力者となすのは︑かかる集合体をめぐって展開される諸種の法律関係を南二化しかつ明確化し︑かくすることによ
って︑その日的達成に便ならしめるとともに︑社会的価値の増殖に資し社会正義を実現し︑もって社会の福祉を増
進せしめんとするために外ならない伊であって︑法人格そのものは︑事物ひ本質的内容を明らかならしめるいわゆ
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