自然保護から資源保護へ
−加藤尚武『資源クライシス』を読む−
菅原 潤
1.はじめに
加藤尚武先生が『資源クライシス』を上梓された。周知のように加藤先生は我が国における環 境倫理学研究の第一人者であられ、3年前に出された『新・環境倫理学のすすめ』では概略的に 示されただけの問題設定が新著では深められている。
とりわけ目を引くのは、90年代に発刊されベストセラーになった『環境倫理学のすすめ』で示 された3つの原則が改められたことである。具体的に言えば、『環境倫理学のすすめ』では1.
自然の生存権の問題、2.世代間倫理の問題、3.地球全体主義が掲げられたが、新著において は1.地球有限主義、2.世代間倫理、3.生物種の絶滅回避という具合に、2つの原理が変更 を受けている。この変更が環境倫理学の展開のなかでどういう意味をもつかを考察するのが、本 稿の課題である。
先ずは加藤先生のこれまでの研究を大雑把に振り返った上で、先生が環境倫理学の枠組みでど ういう問題を考察しようとしたのかを確認する。次に、『環境倫理学のすすめ』と『資源クライ シス』、『環境と倫理』の旧版と新版の内容を比較し、先生の関心が自然保護から資源保護へと移っ たことを跡づける。これを受けて、化石燃料に代表される地下資源のみならず人的資源、生物資 源も含めた広い意味での資源の保護という主張が、従来の環境倫理学の枠組を問い直す視点を もっていることを強調してゆきたい。なお、以下では論述の都合により敬称を省略させていただ く。
2.なぜ環境倫理学なのか
もともと加藤尚武はドイツ観念論の哲学者に数えられるヘーゲル哲学を専門としている。この ことは加藤の最初の著書が『ヘーゲル哲学の形成と原理』であることからも裏付けることができ る。この本は加藤が東北大学助教授時代に書きためたヘーゲルの研究論文を編んだものである。
このことからも分かるように、東北大学時代の加藤は篤実なヘーゲル研究者だったと言ってよい。
その後も加藤のヘーゲル研究の名望は高まり、現在の加藤は日本ヘーゲル学会で重鎮をなしてい る。
その加藤が環境倫理学に出会ったのは千葉大学に転任してからのことである。その出会いがど ういうものだったかは、千葉から転任した京都大学で定年を迎えた際の最終講義のなかで次のよ
うに印象深く語られている。
千葉大学に転勤して、ドイツ留学から帰ってきた昭和58(1983)年の夏の初めに、神田の北 沢書店で、『環境倫理学』(Environmental Ethics)という本を見てびっくりした。エシックス と書いているのに緑の地球の絵が書いてあって手で囲っている。なんて変な本だろう、なん て変なことをアメリカ人は研究するんだろうと(笑)、ほんとうにびっくりした。とにかく そんな本がある以上は読んでみようというので、そこに積んであった生命倫理、環境倫理の 本を1メートルくらい買って、夏の別荘としていた仙台の家に持ち帰って読んだ。本を積み 上げて、夏休み中毎日毎日読んでいた。そして、なんとしても日本にもそういう領域をする 人間の集団を作らなければだめだと考えるようになった!。
現在の環境倫理学はある程度市民権を得ているので、加藤が「なんて変な本だろう」と言う意味 がよく分からない読者もいると思うので、この事情について若干説明しておこう。「倫理学」に 相当する英語
ethics
の語源である古代ギリシア語の「エートス」は人間の習俗・習慣を言い 表す語なので、人間社会の外部にある自然や環境は「倫理学」の枠内に入っていなかったのであ る。同様の事情は「権利」にも当てはまる。権利は胎児を含めた人間にのみ帰せられるもので、自然や動物の権利という考えは今までは想定されていなかった。したがって「環境倫理学」とか
「動物の権利」は、その内実もさることながら、この言い方自体が従来の倫理学や権利の枠組の 変更を迫る挑発的表現なのである。
加藤は上述の発言の直後に、千葉大学で総合教育の企画として生命倫理学を立ち上げた状況の 話をするのだが、注意しておきたいのは加藤にとって生命倫理学の出会いは環境倫理学ほどのイ ンパクトを持たかったことである。なるほど「おまえはこのまんま神学の研究をやっていれば絶 対に就職口がない。だからおまえは生命倫理の研究をやれ」というような、哲学・倫理学の院生 であれば誰もが一度は聞く台詞を加藤は吐いているものの、学問としての生命倫理学の受け止め 方には環境倫理学ほどの切迫したものが感じられないのである。
その後の加藤の著作活動を見ても、丸善から刊行された『応用倫理学のすすめ』のシリーズの なかで断続的に生命倫理に関わる問題を取り上げるだけなのに対し、環境倫理学については『環 境倫理学のすすめ』と『新・環境倫理学のすすめ』(いずれも丸善ライブラリー)の2冊を上梓 しているし、『環境と倫理』の新・旧版(いずれも有斐閣アルマ)の編者を担当しているのだか ら、先述の述懐の通り加藤は環境倫理学に引き続き強い興味を抱いていることが推測される。
3.『環境倫理学のすすめ』における3つのテーゼ−生命倫理学との対比を通じて
それでは、加藤にとって環境倫理学はどういう学問なのだろうか。彼の書いた最初の環境倫理 学の著作に当たる『環境倫理学のすすめ』(1991年)によれば、次のような3つのテーゼによっ て定式化されている。
環境倫理学の基本テーゼは、いずれも挑発的である。
第1に、単に人格のみならず、自然物もまた最適の生存への権利をもつ(アニミズム)。 人間だけが権利をもつという近代的な権利概念を克服しようとする。
第2に、現在世代は未来世代の生存と幸福に責任をもつ(世代間倫理)。同世代間の合意 に拘束力があるという近代的な契約中心主義を打ち破ろうとしている。
第3に、決定の基本単位は、個人ではなくて地球生態系そのものである(地球全体主義)。 個人主義の原理を、根こそぎにしようとしている!。
環境倫理学のこれら3つのテーゼはいずれも「生命倫理学が前提としている個人主義的・快楽主 義的・自己決定論とは正反対の方向を向いている」として、次のように環境倫理学を生命倫理学 と対立的に規定する。
第1に、生命倫理学の基本概念である生命の質(クオロティー・オブ・ライフ)は徹底的 に現在という時間に定位している。痛いか、痛くないかという現在の感覚が、価値判断の原 点なのである。環境倫理学は、未来への責任を倫理的な原理に導入する。
第2に、生命倫理学は、生存権を人格に限定し、その人格の範囲をさらに限定するのであっ て、人格と非人格の二元論を前提としている。環境倫理学は、いわゆる客体の側にまで、権 利の所在を拡張してしまう。
第3に、環境倫理学では地球生態系の存続が個人の生存に優先するのであるから、一種の 生態系全体主義の形をとりやすい。生命倫理学では、個人の自己決定は理性的である必要は 必ずしもないとされるのであるから、生命倫理と環境倫理の対立は、個人と全体との対立な
のである"。
このように環境倫理学の何から何まで生命倫理学に対立させようとする加藤の姿勢には、先に指 摘した生命倫理学に対して必ずしも肯定的ではない態度が垣間見られる。引用文の前後で加藤は
「生命倫理学は、大まかに言えば個人主義を徹底し、相対主義の価値観の上に立って、人間と人 間の関係を平和的に維持しようとしている。たしかに一見ラディカルではあるが、近代主義に対 して倫理学的な保守主義の態度を示している」と言い、その具体的なイメージとして「生命倫理 学の学者は、たいてい背広を着て、ネクタイをしめて、革靴をはいている」のに対し「環境倫理 学の学者はジーンズ姿でズック靴をはいている」ことを挙げている。こうした言い方自体に、加 藤の環境倫理学に対する興味や期待の大きさがうかがえる。
とはいえ、『環境倫理学のすすめ』において生命倫理学と環境倫理学を対比的に論じる書き方 には、当時我が国で産声を上げたばかりの生命倫理学と環境倫理学を同等に評価しようとする加 藤の懸命の努力が感じられる。そして90年代に表明した加藤の関心は、哲学的に言えば認識論的 なもので特徴づけられる。先述したように、従来の倫理学は人間以外のものを対象としていない のに対し、環境倫理学は自然ないし環境といった人間の主体を超えた「客体の側にまで、権利の 所在を拡張」するという新しい倫理学の立場を表明しているのだから、客体の側に権利の「主体」
を認める不思議な問題設定に加藤は強い知的関心を抱いていると推測される。こうした問題意識 のもとで加藤は旧版の『環境と倫理』において、アルド・レオポルドの土地倫理やミューアの自 然の保存の思想の紹介に紙数を多く費やしているのである!。
4.『資源クライシス』における3つのテーゼ−資源への眼差し
こうした3つのテーゼは、『環境倫理学のすすめ』が刊行されてから17年後に出版された『資 源クライシス』のなかで次のような3つのテーゼに書き直される。
1.地球上の資源が有限であることを正面から受け止める(地球有限主義)。その有限性 の意味を[……]具体的な様相で描き分ける必要がある。
2.未来世代の生存可能性に責任を負う(世代間倫理)。[……]生存に必要な最小限度の ものとは何かという基準の設定の可能性を考えていかなくてはならない。
3.地球上のすべての生物種を絶滅からまもる可能性を追求する(生物種の絶滅回避)。 化石燃料が枯渇した後の世界で人間がどのようにして資源を管理・利用・開発していく可能 性があるかという問題は、生物種がどの程度絶滅を免れて存在しつづけるかによって、大き な影響をうける"。
ここで挙げられているのは『環境倫理学のすすめ』と同じく3つのテーゼであり、世代間倫理へ の言及は残っているし、地球有限主義と地球全体主義は一見すると似通ったテーゼと思えるかも 知れないが、新しい3つのテーゼを貫く精神は17年前のそれとはかなり異なっている。
1つ注意しておきたいのは、『環境倫理学のすすめ』の段階では「環境倫理」という言い方に 象徴される異種混淆的な概念に対する好奇の念が影を潜め、資源保護の観点から問題が捉え直さ れていることである。例えば『環境倫理学のすすめ』では、かつては自然中心主義的な「保存」
と人間中心主義的な「保全」が対立関係にあることが強調されていたが、現実に切迫している資 源枯渇の危機を前にすれば、今度はそうした対立関係を言い立てることは無意味だと言われる。
自然物を資源と見なすことは、人間がそれを利用し、加工し、消費するという視点で自然を とらえるということを意味する。自然を利用するという視点でみるか、自然を畏敬の念で見 るという視点でみるか。哲学的には、プラグマティズム対ディープ・エコロジーの対立となっ て表現されている。「ディープ・エコロジー」(ノルウェーの哲学者、アルネ・ネスの立場)
だけが、自然保護を主張しているわけではない。プラグマティズムの立場で、ひとがどのよ うな自然を、どれほどの期間を想定して保護することを求めているのか。長期的な存続を求 めるなら、この2つの立場を対立させる意味がなくなってしまう#。
要するに、資源の「長期的な存続」がままならない現在、哲学的にどっちの自然観が正しいかを 決着させる時間はなく、現状で有利なプラグマティズムの立場に立って資源保護を行うべきだと
いう旨のことがここで述べられている。こうした原理原則にこだわらない態度は、90年代の加藤 には見られなかったものである。
加藤の焦りの背後には、京都議定書をめぐる世界情勢の変化がある。『資源クライシス』の内 容を先取りした『新・環境倫理学のすすめ』によれば、京都議定書が採択された1997年の段階で は、米ソの冷戦後の比較的平穏な世界の状況を受けて、各国の協力により環境問題は解決される という見通しが立っていた。けれども、温室効果ガスの削減と地球温暖化の阻止の因果関係が確 定できないこと、アメリカとロシアという大国が石油資源を豊富に有するがゆえに京都議定書の 批准に慎重な姿勢を示すことなどの事情が重なって、議定書の発効の見通しが不透明になった。
周知のようにアメリカの離脱はあったもののロシアが批准して京都議定書はかろうじて発効し、
洞爺湖サミット以後はポスト京都の環境政策が話題になっている&。
こうした世界情勢の変化から垣間見られるのは、石油のみならず天然資源の確保をめぐって世 界の各地で紛争が起きているということである。この危機感が『資源クライシス』のトーンを規 定している。最近話題になっているのは、石油、金属、食糧の価格が高騰していることである。
加藤によればこの現象は今始まったばかりのことではなく、資源を有する国は自国の資源を囲い 込んでなかなか他国に売る渡そうとしない。加藤はこの立場を資源ナショナリズムと呼び、天然 資源をめぐる国家間の争いが将来激化すると予想する。
けれどもこうした未来世界の予想図に対して、加藤は意外にも楽観的な見通しを立てている。
つまり「資源のある国は、資源のない国に対して、当面は優位に立っているが、やがてその資源 を使い果たすか、譲り渡して、自ら資源のない国に変わっていく」と想定し「皮肉なことに、資 源のない国は、資源のある国に対して、常に先進国なのである」と言い切る。資源を持たない日 本にとってまことに頼もしい発言だが、加藤は資源問題に対する短期的対策と長期的対策を次の ように対比して、いずれはどの国も資源をもたない国の方策をとらざるを得ないと言う。
資源問題は、短期的な視野での基本戦略としては、次のような資源の囲い込み政策群を必 要とする。
!
自国資源の囲い込み"
メジャー(国際的大手鉱山業者)への探鉱開発投資#
上流(資源の第一次産出過程)確保のための企業買収・企業合併(MA)$
資源確保のためのあらゆる形での長期契約%
自国(経済水域)内新資源開発これは資源ナショナリズムの高揚を不可避にもたらすような政策群である。しかし、もっ と長期的な視点でみれば、次のような政策群が要求されるだろう。
!
消費の抑制"
資源利用の効率化(省エネ)#
リサイクルの徹底による完全循環型社会の実現$
新技術の開発による枯渇型資源使用の回避'そして「資源問題に対処することは、有限な資源に対する合理的な管理を、100年、200年と長期 にわたって管理しつづける体制をつくること」だと結論づける。
5.「人間中心主義」の捉え直し−ディープ・エコロジーとプラグマティズムの両立
『資源クライシス』における環境倫理学の加藤の原理規定はこのように、十数年前の認識論的 規定から資源に着目した実践的なものへと変貌した。こうした加藤の態度変更は環境倫理学の原 理的考察を廃棄して、切迫した資源問題に対処しようとするものとして受け取れるかも知れない。
けれども他方でこうした原理的転換は、見ようによっては環境倫理学の展開にとって興味深い観 点を提供しているようにも見える。『資源クライシス』では希少金属や水資源や森林の保護につ いても興味深い議論を呈示しているが!、以下では原理的考察に絞って話を進めていきたい。
先ず確認したいのは、『環境倫理学のすすめ』において環境倫理学の原理が生命倫理学のそれ と対立的に規定されていたことである。厳密に言えば環境倫理学と対立させられていたのは生命 倫理学そのものではなく、生命倫理学の原理として採用された「個人主義的・快楽主義的・自己 決定論」、平たく言えば功利主義である。ここで少し生命倫理学における功利主義の取り扱いに ついて触れておこう。功利主義は19世紀のイギリスにおいて展開された倫理学の学説で、快楽を 追求し苦痛を避けることを原理とする。追求されるべき快楽が個人的なものか集団的なものかに ついてミルとベンサムの立場が対立するが、両者とも苦痛の除去については意見が一致している。
そしてこの苦痛の除去を動物にまで適用しようとするのが、最近台頭した動物の権利論である。
こうした快楽主義的な功利主義としばしば対立的に論じられるのが、カントの義務論である。
カントによれば、功利主義の快楽追求は目前の現象的な因果性に左右される言説に過ぎず、いつ いかなる場合でも道徳法則を遵守しようとする厳密な道徳観に達していない。言い方を換えれば、
物理的な仮言命題ではなく無条件的な定言命法で道徳性を追求すべきだというのがカントの立場 であり、しばしば義務論とも言われている。
このように義務論と功利主義は対立的な関係にあるが、規則功利主義の立場に立てば両者は緩 やかなかたちで両立するとも言われている。既に述べたように、功利主義は結果として快楽を得 ればいいとする立場だから、この点を重視すれば帰結主義とも言い換えられる。だとすれば、帰 結が好ましければその帰結を得るための前提はいくらでも変更することができる。つまり、一見 すると快楽を追求する主体から見れば不都合な約束事でも、その約束を遵守すると望み通りの快 を手に入れられることが分かれば、目前の快楽追求を抑制して規約にしたがうことができる。そ うすると、功利主義は帰結として好ましい結果が得られるという条件つきではあるが、義務論が 呈示するような道徳法則にしたがえるという訳である。内心はどうであれ対他関係に不都合な態 度もそれなりに道徳的だと見なすことも可能だから、こうした規則功利主義は十分道徳的だと考 えることができる"。
こうした生命倫理学における義務論と功利主義の取り扱いを念頭に置けば、『資源クライシス』
における第1テーゼの変更もそれなりに理解することができるだろう。既に述べたように、加藤 は環境倫理学における原理的な対立関係としてディープ・エコロジーとプラグマティズムの関係
を挙げている。ディープ・エコロジーが自然それ自体に価値を認め自然の価値を畏敬するのに対 し、プラグマティズムは人間の利益になるように自然を利用する。こう考えれば、ディープ・エ コロジーは人間社会のみに認められていた価値づけとは別に自然を価値づけるという意味で自然 中心主義であるのに対し、プラグマティズムはあくまでも人間の立場から自然に関わるという意 味で人間中心主義となるので、両者は両立できないかに思える。けれども、人間中心主義を目前 の利益獲得のための立場に限定せず、人類全体の共存や次世代の生存を考慮したものと解釈し直 せば、自然を収奪せず持続可能な開発のなかで自然を利用する見地を打ち出すことが出来、その 態度はそれなりに自然を尊重する態度と言うことができる。
こうした人間中心主義の再解釈は、先述した規則功利主義の規定と似通ったものである。改め て言えば、従来の功利主義は目前にある快楽の対象を獲得することを目的とするが、何らかの規 則を遵守する規則功利主義は、規則を守ることで確かに一時的には欲望を抑制しなければならな いものの、長い目で見ればより多くの快を得られるのだから、当初的な目的はやや間を置くもの の達成されるというわけである。だから従来の功利主義と規則功利主義は目的の達成という点で は一緒であり、違うのは達成の時期だけだということになる。これと同様に加藤の提唱するプラ グマティズムは、従来的なそれに較べると確かに迅速な利益の貢献につながらないものの、持続 的に財を獲得し享受できる点を強調すれば、快楽主義的な立場と自然の保護を共存させられるこ とになるのである。
こう考えれば、『資源クライシス』におけるプラグマティズムの再解釈はプラグマティズムの 幅を広げるとともに、環境問題にも対処できるようにその立場を構築し直したものだと捉えるこ とができる。ここでの議論におけるプラグマティズムとディープ・エコロジーの関係の再構築が プラグマティズムからのアプローチだけでなされ、ディープ・エコロジーからの歩み寄りがない のが少し気がかりだが、現実の社会を動かしているのはディープ・エコロジーではなくプラグマ ティズムなのだから、加藤がプラグマティズムのみを問題にするのは加藤のそれこそプラグマ ティックな情勢判断ゆえのことだと考えられよう。
6.人的「資源」と生物「資源」の観点
プラグマティズムの再解釈に関わる『資源クライシス』の第1テーゼの意義については了解し たものとし、次に第3テーゼの問題について考察しよう。第3テーゼで加藤は生物種の絶滅回避 を取り上げるが、このことは今まで述べた資源問題やプラグマティズムの規定と何らかの関係が あるのだろうか。
ここで注意したいのは、『資源クライシス』において加藤が「資源」の意味を通常想定される 化石燃料等の天然資源だけでなく、生物や人間も「資源」に数え入れていることである。加藤は
「資源ナショナリズム」と銘打った第5章のなかで映画『ブラッド・ダイアモンド』を取り上げ、
アフリカのシエラレオネ共和国の子どもたちが軍隊によって無理矢理軍資金となるダイアモンド の採掘に駆り出される問題を論じている。ここで取り敢えず問題になるのは戦争という愚かな目 的のために大切な天然資源が大量に採掘されることだが、これとは別にこれから人生の様々な可
能性を模索するはずの子どもたちを強制労働させることで、子どもたちの将来の夢を奪っている とも受け取れる。つまり天然資源だけでなく「人的」資源も搾取されていると言えるわけで、二 重の搾取がシエラレオネでなされていると考えられる!。
このように第5章では天然資源の搾取が人間の疎外と結びつけられるが、同じように第10章で は人類の生存と生物種の保護が結びつけて論じられている。生物種の保護を主張するための倫理 的な後ろ盾は一般に、人間にとっての有用性とは別に生物種の存在が掛け替えがないことだと思 えるので、生物種の保存と人類の生き残りは直接的には結びつけないように見える。けれども加 藤は、多様な生物が生息する環境が単独の生物が生息する環境よりも持続するという生物学者 ウィルソンの仮説との類推から、人間の食生活の多様性の意義を強調する。
ウィルソンによる多様性の実用的な擁護論は、食糧危機を見込んだものである。「世界の食 糧供給は、細い生物多様性の糸にぶらさがっている。食糧の90パーセントは、存在が知られ ている25万種の植物のうち、わずか100あまりの種によって供給されているのだ。20種が負 担のほとんどを引き受け、そのうちのわずか3種(小麦、トウモロコシ、米)が人間社会と 飢餓とのあいだにたっている。……より一般的な意味においては、25万種の植物はすべて(さ らに言えば生物種はすべて)、遺伝子操作によって収穫量をあげ、栽培種に転換できる遺伝 子の潜在的なドナーである。……私たちの間にあるのは、自由と安全を脅かすファウスト的 な取引のわなにおちいることなく、これから数十年のあいだに増える何十億という口をどう 養うか、それと同時にほかの生命をどう救うかという問題である」[……]。ウィルソンの論 旨では、ヒトの雑食性の水準は低い。もっと多様な食料品を開発する余地が大きい。その未 知、未使用の生物を絶滅から救うのは、人類にとって恵みとなるだろうという趣旨である。
世界中のすべての生物が保存されているとき、そこから遺伝子ライブラリーを作成して、
さまざまな新生物を作ることによって、伝統的な穀物の壁を破れという主張でもある。穀物 だけではない。医薬品も、エネルギー資源も、生物から作り出される可能性をもっている"。
こうした加藤のユニークな提言は、われわれが現在抱いている生物保護の観念に大きな修正を迫 るものである。先ずは環境倫理において動物の権利論がさしたる意味をもたないことをこの提言 は示唆している。動物の権利論とは人間中心主義を脱するために人間に準じた権利を類人猿など の高等動物に拡大せよというものだが、加藤から言わせれば生物の保護とはある生物種の一個一 個の個体の生存を求めるものではなく、そうした一個一個の個体を含む種がある生態系のなかで 別の様々な種と共生する状態が続くものだとされている。逆に言えば、そうした生態系が長期的 に存続するなら、ある種の個体の生死は問題にはならない。保護されるべきはあくまでも生物種 であって個体ではないという主張が加藤の提言から確認できる。
次に注意すべきは、人間と自然が食生活の多様性を介して関係づけられているという論点であ る。既に論じたように、環境倫理においてはディープ・エコロジーとプラグマティズムの対立に 象徴されるように、自然中心主義と生物主義が相容れないものとして扱われることが多かった。
そして「人間は自然生態系の一部をなしている」という単純な生物学的事実を倫理的規定のうち
に盛り込むことができなかった。けれども加藤はウィルソンの多様性の議論を援用することで、
単一種の食物よりも多様種の食物を摂取すれば、たとえ幾つかの種が絶滅しても残った種を摂取 することで人類は生き残れると主張する。こうした主張は、一般に同じ土地で同じ種類の食物を 栽培し続けるとその土地の土壌が疲弊する事実を受けているし、資源が枯渇しないという条件を つけるとはいえ、未使用の植物を食料資源に限定せずに広く医薬品やエネルギー資源として新た に利用する研究の余地を残すことで、従来的な生活を維持するという保守的な意見から一線を画 するものとなっている。新版の『環境と倫理』の第8章「自然保護」のうちに生物の多様性の議 論が付加されているのは、こうした生物種の保護の議論が新たに考えられたためだと思われる$!。
また、このように人類の生存と生物種の多様性を結びつける議論の視点から、次のようなこと も言われている。
生物多様性保護の二面性として、生物種の道具的な価値(食糧、燃料、医薬品)に着目する 立場と、内在的な価値(バイオフィリア、万物一体感、森林浴、花、蛇などに魅せられる気 持ち)とを指摘することができるが、そのどちらかにしなければならないという理由はない$"。
こうした生物種に関わる価値対立を斥ける姿勢には、先に論じたディープ・エコロジーとプラグ マティズムの対立を廃する立場とつながるものがある。先の議論では人類全体の生存や次世代の 生存を考慮し、功利主義的な考え方を長期的なスパンで読み替えることで人間中心主義と自然中 心主義を両立させようとしたが、今度は人類の(医薬品やエネルギーの使用を含めた、広い意味 での)雑食性を介することで自然の道具的な価値と内在的な価値の対立をなくそうとしている。
このように考えれば、90年代で加藤自身も対立的に捉えていた「環境」と「倫理」は両立すると いうことになる。
7.未来志向の倫理学
最後に、加藤尚武における環境倫理の把握の以上のような変遷を評者がどう特徴づけるかを述 べてゆくことにしよう。評者は90年代の『環境倫理学のすすめ』で示されていた3つのテーゼの うちで、第1テーゼと第3テーゼが狭い意味での自然環境を扱っているのに対し、第2テーゼの 世代間倫理が必ずしも自然環境にはとどまらない、社会環境、歴史環境、文化環境を扱う視座を 有すると考え、世代間倫理と風景を結びつける環境倫理学を提唱している。その環境倫理学の詳 しい話は拙著を参照してもらいたいが、評者が拙著で主張したいのは広く「風景」で代表される 記憶を次世代に伝えるべきメッセージと捉え、そこから環境問題をめぐる世代間の対立を架橋し ようとすることである$#。
これに対して近著『資源クライシス』で加藤が新たに定式化した3つのテーゼによれば、なる ほど第2テーゼのなかで世代間倫理は残されているが、第1テーゼと第2テーゼにおいて自然保 護を資源保護の問題として捉え直し、資源の永続的な使用を様々な価値観を調停する主張だと見
立てて、そこからディープ・エコロジーとプラグマティズム、自然の道具的な価値と内在的な価 値の対立を架橋しようとしている。こうした主張は既に述べたように功利主義を規則功利主義的 に解釈し、長いスパンで人類の永続的な幸福を願うものに改変した上でなされているから、こう した加藤の主張は人類は長期的な自らの生き残りを冷静に判断できるほど賢明な存在だとする確 信に裏打ちされていると思われる。
これに対して評者は、加藤よりも環境の保護をやや後ろ向きに考えていて、先行世代の思いを 後続世代が継承することに期待することに傾き、後続世代が新たな価値を生み出すことに悲観的 な見通しを有している。このように評者より年長の加藤の方が未来志向の倫理学を提唱するとい うのは皮肉だが、加藤の近著をきっかけに人類が守るべき「資源」とはどういうものかについて の議論が今後深まることに期待したい。