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第 Ⅲ 章地域うたごえ運動の展開

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第Ⅲ章 地域 うたごえ運動 の展開

一仙 台 合 唱 団 の歴 史 を 中 心 に ‑

は じめ に

日本の うたごえ運動 については、中央合唱団をは じめとす る日本の うた ごえ全 国協 議会 の中心的活動家や運動 に関わった音楽の専門家の手 によって、 これ までい くつか の 「 運動史」がまとめ られている。全国的な運動 を代表す るこれ らの人 々によ って著 された ものは、その時 々の情勢 にあわせた啓蒙書であ り、運動の歴史的教訓 を学ぶ こ とによって、現実の運動を前進 させてい くために重要な指針 とな ってい った ものであ る。

うたごえ運動 の歴史が まとめ られて刊行 された最初 の代表的な もの と しては、雑誌

『 知性』のうたごえ運動特集増刊号 ( 河出書房、 1 956 年 3 月号)が知 られてい る。 そ こ では、社会的現象 ともいわれた運動創生期の状況が示 されているが、音楽 セ ンター芸 術局が編集 した 1 955 年 までの年表が運動の歩 み として掲載 されている。 また 60 年代 の後半 よ り、当時 日本の うたごえ実行委員会事務局長であった中央合唱団 1期生 の藤本 洋の手 によって、 うたごえ新聞に中央合唱団の 20 年の歩 みが 4 年間にわた って連載 さ れた。それは 『 歌 はたたかいとともに』( 音楽セ ンター出版、 1 971 年)とい う著書 にま とめ られて出版 され、うたごえ運動の歴史 として 1 960 年 までが示 されてい る。 また同 氏 は、その後 もうたごえ新 聞に書 き続 けた ものを 30 周年記念 として 『うたは闘いとと もに』( 音楽 セ ンター出版、 1980 年)に著 し、 1 970 年 までがまとめ られてい る. 同時 に井上頼豊の編 によ って 『うたごえよ翼 ひろげて』 ( 新 日本 出版社、 1 978 年)が 1 978 年 までのあゆみがまとめ られている。 40 周年 に際 しては、音楽 セ ンター社長 の浜 中雄 二 を代表 として記念写真集 『うたごえは平和の力』 ( 40 周年記念委員会編、音楽 セ ン・

夕‑出版、 1 988) が発行 され、 1 9 88 年 までの年表が写真 の解説 とともに添え られてい る。 このほか、自己の体験 を語 った運動家の もの としては、林学 『 大須 っ子』、宝木実

『レジスタンスの青春』、日野三郎 『レールよ高 らかにうたえ』、浜島康弘 ・ 小林一二 『ぼ くの歌 きいてよ』な どがある。第三者がまとめた もの と しては、作詞家森 田ヤエ子 の

『この勝利 ひびけとどろけ一荒木栄の生涯』、神谷国書 『 荒木栄の歌 と生涯』、小説家佐 藤貴美子の 『 母 さんの樹』 な どがある。

音楽的専門家 の もの と しては、運動の創始者であ り理論 的 ・実践的指導者 であ った

関鑑子の著作 『 歌 ごえに魅せ られて 』( 音楽セ ンター出版、 1 971 ) や、その追想集 『 大

きな紅ば ら』( 関鑑子追想集編集委員会編、音楽セ ンター出版、 1 981 ) があ り、運動 の

指導者が 目指 していた ものが歴史を追 って示 されている。関鑑子の死後、専 門家 と し

て中心的指導者 とな ってい った井上頼豊 は、『うたごえ運動の創造 ・展望 』 ( うた ごえ

新聞社発行、 1 991 ) を運動のテキス トとしてまとめ、 80 年代 までの歴史 と課題 を総括

している。 また、自らの歩みに関 しては、『 聞き書 き井上頼豊 』( 音楽之友社、 1996) に

おいてかな り率直 な意見 を語 っている。

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以上のような形で著 された運動の歩み ・ 歴史は、それぞれの立場があるとはいえ、う たごえ運動の全体像を示す上で貴重な資料 となるものである。 しか るに、歴史 をまと めるとい う作業は 「この運動の もっともお くれた分野 」( 『 愛知の うたごえ 40 年の歩み』

愛知の うたごえ四十年史編纂委員会編、 1 988 、における井上頼豊 の手記 よ り)である ことは以前か ら指摘 されていたことである。 さらに、「 実像が息づいているはずの各地 の うたごえ運動の歴史 となると、今 まではせいぜい総会討議資料的な簡単な もの 」( 同)

しかないとい う現状であ り、愛知の うたごえの 40 年史の刊行が特筆 される くらいで、運 動 における教育の重要性が指摘 されているに も関わ らず、手が着 け られていない とい って もよいのが事実である。地域の うたごえ運動史をまとめるとい う作業 は、実際の 活動家にとってみるとまとめづ らい ものであるのか、それ とも過去 を振 り返 る余裕 な どがない ( 未来 に向けた)運動をや っているのか、 うたごえ運動 の現実を示す一例で ある。

実像 として存在す る地域 での運動が整理 されないでいると、 うた ごえ運動 の実態 は 中央の運動 一中央合唱団や 日本の うたごえ全国協議会、 日本の うた ごえ祭典 の運動 な ど‑で もって語 られるこ とにな らざるをえない。それはそれで意味のあることではあ るが、全体 の正確な実態を示 しているとはいえず、運動 自体の展望 や課題をみいだす 上では不十分であるそ しりをまぬがれ得ない。特 に、運動が逆風 にあ った り停滞 した・

りす る場合、以上 のことは運動 自体 にとって も自覚 され ざるを得 ない課題 となろう。

日本の うたごえ運動の初期 ( 50 年代)にみ られたような、未熟 さゆえの混乱 ではな くて、運動 の 「 停滞現象」の現れが指摘 されるようにな ったのは、 60 年代の後半 〜70

年代初頭の ことである。 日本の数多 くの大衆 にとって、 自分たちの歌がなか ったゆえ に 「うた ごえ」を求めていた時代 は終わ りを告 げ、 日本が世界の 「 音楽市場」 と して 驚異的な成長 を遂 げ、その影響が国民生活に影響を見せ始めたといわれた時期である。

テ レビ、 ラジオ、音楽機器の普及 は言 うに及ばず、演歌、軽音楽、 フォーク、 ロック な ど大衆音楽 の大 きな変化の中で、 うたごえ 自身が大 き く変わ らざるを得ない状況が 作 り出された ことである。 またそれは文化状況だけではな くて、政治状況 と して も、

「 70 年安保」や革新 自治体の全国的な広が りに代表 されるような国勢革新の うね りを作 り出 した一方、それに対す る反動化が現れてきた時代で もあった。

1 973 年 5 月 には、運動の創始者で もあ り全国的運動の理論的 ・実践的支柱であ った 関鑑子が死去す る。運動 自体 は個人的な ものではないにせ よ、時には運動の 「 閉鎖性」

や 「 独裁性 」 ( 『 聞き書 き井上頼豊 』 よ り)の象徴に もされた存在であ ったが、いわば

芸術的よ りどころとしての運動の シンボルで もあ り、多元的、多面的運動の統一 ・団

結の シンボルがな くな ったとい うことは重大な事態で もあ った。 うたごえ運動 はそれ

までの歴史の本格的な総括が求め られた。 1 973 年 6 月に、運動の統一的全国組織であ

った 「日本の うた ごえ実行委員会」は規約を改正 し、「日本の うたごえ全国協議会」 と

名称を変更す る事 によって、恒常的に運動 を進 める協議体組織 とな ってい った。新名

称で初めて開かれた 日本の うたごえ全国協議会第 7 回総会 ( 1 974 年 2 月)は、運動 に

おける 「 狭 さ」や偏 った傾向を改めた方針を採択 し、新 たな画期 をつ くりだ してい っ

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た。それは 「 運動の大衆化 ・現代化」といわれているものであるが、次のよ うな 9 項 目 の課題を打 ち出す ことによって、新 たな発展を目指 した ものである。①普及す る曲 目 の選曲の幅を広 げる、②普及する対象を広げる、③サークル員、サークル数 を増 やす、

④専門音楽家、他団体 との協力、協同の強化、⑤他の文化サークル との協力、⑥世代 を越えた活動家の団結、⑦ 日本の うたごえ祭典の成功、⑧みんなうた う会活動 の推進、

⑨学習活動の強化。

この方針の基本的な中身 は現在 まで変わ っていない。 70 年代 の後半以降 といえば、

日本資本主義の高度経済成長が終わ りを告げ、低成長の時代である。不況、合理化、倒 産、失業者の増大 とい う傾向は確かに現在 まで長 く続いてお り、社会的な状況 と して は連続 しているといえよう。 こうした中においては、労働者を中心 と して運動 に参加 \ す る青年層 も大 き く影響 を受 けざるを得ない し、「 歌など歌 ってい られない」 ような、

ます ます深刻 さを増 している状況であ ったともいえる。一方では運動 を意識 しな くて も 「 気軽 に」歌が歌え るカラオケや音楽産業の隆盛 もあ り、手間暇をかけて人 々を歌 に組織す るうたごえ運動 にとっては、よ り大 きな困難が現れた時期 とい って もいいで あろう。「 停滞現象」がいわれた時期 に準備 され大 き く転換 された 「 大衆化 ・現代化」

の方針 は、その後、80年代 に現れた戦後第 2の反動期の中で実践 に移 されてい ったの であ・ る。

こうした経緯の中で、地域の うたごえ運動 はどのような活動の展開を見せてい った のか。 とりわけ、「 停滞現象」の克服のためにどのような営みを展開 してい ったのか。

運動の実像を明 らかにす ると‑ いうことは以上のような分析を必要 とす ることは疑 いえ ない。結論的にいえば、運動が前進 した地域 もあれば後退 した地域 もあるとい うのか 実態である。本研究が事例 とする仙台合唱団 ( 及び宮城の うたごえ運動) も、地域の うたごえ運動を示す代表例 とか典型例 とはいえないだろう。筆者が参与観察、ない し はアクションリサーチを続 けたという以外は取 り上 げる必然的根拠 は存在 しないか も.

しれない。 しか し、 どの地域をとって も 「 特殊な」事例であるといえ るが、 この対象 は次 のような条件を満た している以上、それはうたごえ運動における 「 普通 の」事例 足 りうると考え られる。

一つは、中央合唱団に代表 される日本のうたごえ運動 によって組織化の対象 とされ、

それによって育て られてきた合唱団であること。そ して、地域 における中心合唱団 ( セ ンター合唱団)としての性格を持 ってお り、地域 (この場合宮城県や東北 に対 して)の 運動を代表 し運動の組織化を担 う位置 と役割を与え られていることである。二つ 目は、

70 年代初めの運動の転換 ( 発展)の中で、 日本の うたごえ全国協議会 に団結 し、その

構成 メンバーとして方針を実践 していったという団体であることである。全 国的な文

化状況、政治状況 はまさに一様であ って、宮城県や東北がその特殊的な現れであ った

として も、全国的な課題の中で運動を展開 していったということである。仙台合唱団

( 及 び宮城の うたごえ)は以上の条件に当てはまってお り、「 独 自な運動」 と して存在

してい った ものではない。運動が前進 しているか後退 しているかは事例を選 び出す根

拠 とはな らない。仙台、宮城県においては、運動の先進地域 といわれて きた大阪、京

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都、名古屋、三多摩などの地域 と比べて、特殊的な地域的条件を持 っていただけであ って、運動上 の性格 としては同 じものとして認め られるのである。

一般的にいえば、運動が前進 してきたのか後退 したのかを歴史的 に検証す るという 作業は次の三つの検討が必要である。一つは、運動の方針 自体が正 しか ったのか どう かの検討である。 これは全国的な運動の分析であ り、地域が直接関係 は して こない性 格の ものである。二つ 目は、方針 自体が正 しいとして も、その方針通 りに実践 されて いたのか されなか ったのか、 されなか ったとすればその理 由、条件 は何か とい うこと である。 この点においては、まさに地域的条件が問題 とされ、地域を通 した分析枠組 みを必要 とす ることになる。 この点の検討においては、対象への発達論的なアプロー チを必要 とする。すなわち、対象を発達す るものとしてとらえるとい う方法であるが、

これを検討す る際には人間形成 における次の指摘が参考 になる。すなわち、具体的な 地域 において人間形成を受 ける諸個人 にとっては (これは集団を対象 と して もも当て はまると考え られる。)、「 人間形成における特殊性 ( 個性)と人格内容 における普遍性 とを兼有 しうるためには、その地域は、教育形態においては地域性を保持す るが、教 育内容 においては地域性 を克服 しなければな らない」 ことが重要 であるか らである。

「 地域的‑特殊的な教育形態は、全国的な教育内容への抽象化 ‑普遍化 による検討を経 て、その発現様式を積極的に規定 されるのであ り、また全国的‑普遍 的な教育内容 は、

地域的な教育形態への具体化 ‑特殊化 による検討 を経てその発展方 向を積極的に規定 される 」 ( 那須野隆一 「 国民教育 と生涯教育 」 『 現代 と思想』第 1 7 号 1 974) 関係があ る。全国的状況の下での運動方針は、「 地域的形態」の検討 を経て発展す るとい うこと であ り、地域的諸条件を無視 しては方針は展開 しないとい うことである。その ことか

ら三つ 目の問題 として、運動 における地域的な意義や課題を対象 自体が どのように兄 いだ していたのか、言葉を換えれば地域的な実践形態 ( 教育形態)を どのように保持

していたのかが問われなければな らない。

地域の うたごえ運動を検討対象にするという場合は、上記の第 2点 目、3点 目が中心 課題 となることは もちろんであるが、 1 点 目の課題は全 く問題外 とい うわけで もない。

1 点 目の課題 とは、全国的な運動の分析課題であるとして も、なにを もって 「 運動の前 進」 といい、また逆 に 「 停滞現象」の原因とみたのか とい うことは、分析枠組みの基 本 に関わる事項で もあるか らである。運動内部での分析 は、すでに民主的な手続 きの 中で総括 として表 されているので、それをそっくり分析枠組みにす ると、運動が述べ ている 「 歴史」 と同 じものかできあが って しまうという 「 弱点」を持 っている。そこ で、それ とは別 に 「 客観的」立場か ら分析 しようとした研究の レベルでの把握が必要 であろう。 このことに関連 して研究者 による成果は少ないが、社会教育 の研究者 であ る長浜功の指摘があるので参考 にす ることにする。同氏は、まさに 「 運動の停滞現象」

か現れた時期に論文 ( 「 大衆における自己形成の思想」北海道大学教育学部紀要第 1 8 号、

1971 ) を著 したが、そこで 70 年代の時期のうたごえ運動の ( サー クル運動 としての) 課題を述べている。

この論文 によると、 うたごえ運動は 自然発生的に成立 してきた ものではな く、戦前

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のプロレタ リア文化運動 の流れを汲み、戦後において も日本共産党の再建 によって出 された 「 文化サークルの組織方針 」 ( 1 9 45. 1 2) にみ られたように、計画 的に見通 され た文化政策が存在 していた ことがまず述べ られている。に もかかわ らず、従来 の少数 者の引き回 しというサークルの公式を打ち破 り、新 しいサークルの方向を 目指 してい たと大き く評価 している。 (レッ ドパージによる活動家の追放がさほど影響 を していな いのはこの証左である。)つまり、無 目的、無性画ではな く、文化運動 としての質を持 っていたという側面 と同時に、政党や組合か ら独立 し大衆のプ リミテ ィブな生活実感 を基軸 に したか らこそ、広範な支持 を得たという分析を行 い、そのことの意義を重視

している。

ところが、他のサークル運動 と同様 60 年代前半 には、量的な意味においては 「 停滞 期」を迎え、 ジャーナ リズムや コマーシャリ不ムか らの姿を消 し始 め、支配階級か ら の干渉や攻撃 ( 官製 うたごえ運動や職場における活動の締 め付 け等)を受 けたばか り か、サークル理論 として も対立 (日本音楽家協会などとの分裂や一部労働組合 との対 立等)が始 まったとされる。 しか しそれは、運動や理論における 「 停滞」ではな く、政 党や労働組合の届かない大衆の中に根を下 ろす というサークル本来の姿が始 まった と い うことであ り、ブル ジ ョア民主主義の実現 というサークルの 目標がある限界 に達 し た点での質的な転換を目指 している時期であったと評価 される。そ して 60 年代後半以 降は、没価値的親睦サークルの群生の中で、「たたか うサークル」にとっては政党や労 働組合 に定着化 しいかに量的拡大をはかるのか ( いかに して広範な大衆 との結合 をは か るか) ということが課題 とされ、そのために はサークルの原理的内在的分析が必要 になってきた時期であると指摘 している。

すなわち、運動の 「 停滞現象 」 ‑一部 はマスコ ミに流れ商業化の道をた どり、一部 は うたごえ喫茶での憂 さ晴 らしというタコ壷化の道をたどっているとい うことの克服 のためには、攻撃や分裂 に理 由を求めるだけではな くサークルその ものについての検 ・ 討が必要であるとい うことである。それは、歌 による自己主張 という運動 その ものが、

民衆の生活実感をよ りどころとしていたか らこそ、感性的認識か ら理性的認識への道、

言 い換えれば生活実感か ら 「 歴史化的現実認識 」 ( 上原専禄)への道へ と進 める課題が 発達論的に存在 しているが、それが達成できないでいることを問題 に しているのであ る。 これはまさに、サー クルにおける教育 ‑学習の問題で もある。そ して、 うたごえ 運動における学習の本質問題 として以上のことを検討 した場合、「 生活実感 一文化要求、

日常性の レベル と歴史化的現実認識 一価値選択水準、政治的水準 とは相容れない もの なのか どうか、とい う難問を うたごえ運動は解決できなか った。」と長浜は結論 づけて いるのである。その原因 と しては、両者をつな ぐ媒介原理を運動 その ものが兄いだせ なか ったことを指摘 しているが、 これは主 として運動を進 めている大衆の側 に責任が あ り、文化的退廃攻撃の中で も矛盾が怒 りに転化 しないでいることや、運動がそれ ら のメカニズムも解明できていないという評価を下 したのである。

ここで述べ られている 「 大衆の側」 とは、サークルの理論家ではな く、実像 と して

存在 している地域のサー クルで活動 している側の人 々の ことである

地域の うたごえ

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運動を対象にす るとい うことは、長浜のい う 「 大衆の側」を問題 にす ることにはかな らない。本研究の課題 は、長浜の指摘が正 しい ものであるのかを仮説 と して実証す る とい うい うわけではないが、地域 においてサークル的基盤の中で活動 している集 団を 教育 ‑学習活動 を通 して分析す る上での課題 として受 け止 めることとす る。

その際に問われ るものは、 70年代以降の地域のサークル ( 合唱団)では長浜の以上 の指摘を受 け入れる基盤が存在 していたのか どうかであると同時に、「 運動 ( サークル) が解決できなか った」のかそれ とも 「 運動を担 っていた個人が解決できなか ったのか」

ということである。 うたごえ運動が民主的なサークル運動であるな らば、個人を シン ボル とした運動か らは脱却す る過程があ り、その流れの中でサークル と して も発展 し てきたはずである。 ( 中央合唱団における民青か らの独立、関鑑子死後の 日本の うたご え全国協議会の結成な ど)そ うした大 きな流れでみた歴史的発展 と、具体的サークル においての歩みの整合性が問題 になる。また、 70年代はいざ知 らず、50年近 くに もわ たる運動 にな って くると、そこには個人 ( 特 に リーダー層)の世代交代がはか られ る ことは必至である。「 専従」とい う言葉に代表 されるような、人生を うたごえ運動 にか けた生活をす る活動家 と、 自己の発達 ( 変革)や成長 の糧 として うたごえに飛 び込ん できた青年 は同 じように論 じることはできない。様 々な要求、関わ りかたで集 まった 成員 ( 青年が中心ではあるが青年ばか りではない)が様 々な成長の姿を見せているの か具体的なサークルの実態である。一方では 「 専従」 になろうとす る青年 もお り、一 方では 1 年未満でやめて他の道を 目指す青年 もある。 こうしたサークルの構造を理解 し ないと長浜の指摘 は当た らない。全国的な もの として語 られるの とは違 って、地域の

うたごえ運動の歴史を とらえるとは、サークル 自体 の展開 と同時 に比較 的長 くサーク ルをやめずに活動 した 「 人物」の歴史 としてとらえ られるともいえよう。いわば、「 サー クル構造の展開史」 と 「 人物史」の両面の分析が必要 とい うことである。集 団を通 し た個人の発達 ( 長浜の指摘で言えば生活実感か ら歴史化的現実認識への発展)ではな

くて、集団の発達 ( 歴史)自体 を問 う場合にはこの両側面を問題 にす る必要があ り、運 動 自体が地域で実証 されなければな らない根拠 にな っていると考 える。 うたごえ運動 50年 ということは、 どの程度 「 人物」か ら独立 した運動 ( 集団)にな っているかがや

っととらえ られ る くらいの期間を持 った と言 うことではないだろ うか0

以下の記述 は、仙台合唱団を中心 とした宮城の うたごえの歩 みを、前史か ら東北音 楽セ ンター創設 までにわたって 5 期 に分けて整理 してみた ものである。運動の画期を も

って分 けてあるが、「 人物史」が中心であることは否めない。 しか し、 リーダー層を代 表 として担われた歴史であ りなが ら、 50年近 くにわた っての運動 は着実 にサークルの 構造、運動の構造を変革 した ものとな っている。 こうした歴史の整理が、運動が抱え

る困難や 「 停滞現象」を克服す る課題の一助 になれば幸いである。

*なお文中は敬称を略す る。仙台合唱団団員は普段団内で使われているサークルネー

ムを用いているが、たとえば 「 ○○ ちゃん」 と呼ばれている場合 は 「 ○○」 だけを

記 している。

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第 1 節 中心合 唱団への歩 み

1. 前史 一青共文工隊どん ぐり座発足から正史 による仙台合唱団の創立 まで 1948. 9‑1953. 4 1 期生

日本の うたごえ運動の歴史 は中央合唱団の結成か ら始 まった とされている。敗戦後 の 日本の中でわき上が った革新的な青年運動や、職場、地域での新生 日本の方 向を 目 指す闘いの中か ら様 々な文化要求、音楽要求が芽生え、その文化運動を代表す る形で 東京 に中央合唱団が創立 されていった。 しか し、それは自然発生的に生 まれたのでは な く、戦前の共産主義青年同盟の伝統を受け継いだ青年共産同盟 ( 青共 ‑4 6 . 2 結成)や、

プロレタ リア文化運動の流れを汲む民主主義文化連盟 ( 文連 ‑4 6 . 5 結成)の組織があ

り、その背景 には再建 された 日本共産党による 「 文化サークル組織方針 」 ( 4 5 . 1 2 )

いう計画的に見通 された文化政策があったことは、今や常識的理解である。青共 の組 織拡大のために様 々な青年行動隊 ・文化工作隊が組紙 されたが、中央 に全国の運動 を 指導す る合唱団を建設することが 目的 とされ、文壇 の音楽責任者であった関鑑子を指 導者 として迎え 「 青共 中央 コーラス隊」が発足、青共創立 2 周年文化集会で 「 青共 中央 合唱団」 として登場 した。 この時を もって中央合唱団の創立 とされている。 ( 4 8 . 2 )

中央合唱団は、関鑑子を学院長 とした青共 中央音楽院を設立 し研究生の養成 を始 め ると同時に ( 4 8 . 7 ) 、その年の 8 月に第 1 回関西 ・東海公演を行 い、関西合唱団、名古 屋合唱団、京都 ひまわ り合唱団、神戸合唱団など現在 まで活動 を続 けている地域の中 心合唱団を組織 していった。 11 月か らは北海道、東北、関西、中国、九州 に常任活動 家のオル グを開始 し、その流れの中で仙台にも青共の合唱団ができる0

当時の宮城県内の状況は 、1 9 45 年 1 2 月に日本社会党宮城県連合会 と日本共産党宮城 地方委員会が早 くも組織 されたのをは じめ、労働組合 も日本労働総 同盟宮城県連合会 ( 総同盟県連 ‑4 5 . 1 2 結成)や宮城県地方労働組合協議会 ( 労協 ‑産別系 、4 6 . 2 結成)が

結成 されてお り、 46 年 2 月には労働戦線統一を目指す宮城地方労働組合会議 ( 組合会 請 ‑県下 80 の全組合参加)が生 まれていた。組合会議は 2. 1 ス ト及 び労働戦線統一 を 目指す宮城地区労働組合共同闘争委員会 ( 宮城地闘)へ と組織を変え、 47 年 2 月 には 宮城県労働組合合同協議会 ( 合同労協)へ と発展 していった。 しか し、 2. 1 ス ト禁止 の 情勢変化の中で 、48 年 5 月には産別民主化同盟宮城県支部が結成 され総同盟、電産、国 労仙台支部など 1 0 組合が脱退 し、仙台地方労働組合協議会 ( 仙台地方労協 ‑4 8 . 1 2 結成)

に結 びつ く労働戦線の分裂が始 まりつつある状況 もあった。

2. 1 ス ト以降の情勢 は、日本共産党や労組青年部で活動 していた青共 において も路線

上 の混乱 を もた らしていた。 47 年には 4 万人の同盟員を数えていた青共 も、青年層 の

中では孤立が始 まっていた。 このような状況の中で、中央か らのオルグによって作 ら

れた仙台の青共合唱団の 「 創立」は時期的にも不明であるが、合唱団 とい うよ りも青

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共の文工隊 とい った性格が強 く、「どん ぐり座」と名の って活動が行われていた。歌 と ダ ンスを中心 とした青共の班づ くりの工作隊 といった性格の もので、歌集の普及など を主 に行 った。創立時には、谷宏 ( 仙 台高等工業専門学校学生)、佐 々木‑司 ( 青共地 区委員)、扇谷 くに ( 宮城学院学生)、伊藤辰雄 ( 全建労専従、後中央合唱団第 3 期生へ 転出)、神谷‑ ( 借地借家人組合)などのほか東北大、宮城学院、女子師範、宮城師範 学生などを中心 とした 1 0 数人のメンバーであった。職場 としての拠点は電産 ( 配電、日 発)が大 きな ものであ った。団事務所は青共事務所があった元寺小路の朝鮮総連事務 所に間借 りし、後に白百合学園北門の地 に移 ったが、 この事務所 は レッス ン場 もかね ていた。

青共 はその後民主主義学生同盟、全 日本民主青年 同盟等他の青年組織 と合流 し新 し い組織を作 る方向を打 ち出 し、 51 年 5 月に日本民主青年団 とな ってい った。青共か ら 民青団への組織移行 に際 して宮城県内で も合 同大会 ( 準備会 ‑4 9 . 4 ) が もたれ、全民 青か ら代表で参加 した斎藤亀一郎 ( 逓信省、後 4 9 . 8 に定員法で蔵首)が文化部責任者 として加 わる。その後佐 々木が民青 中央常任委員 とな り中央の仕事が中心 とな ったの で、谷 ( 当時は中央合唱団に転出 した伊藤の後を うけ全建労専従)が合唱団の責任者 となる。 49 年 7 月の中央合唱団 1 周年記念音楽会の翌 日第 1 回全国合唱団団長会議が 開かれ ( 中心合唱団代表 20 名参加)、うたごえ運動の全国的統一の方向が示 されるが、

そこには仙台か らも参加 している。 ( 参加者不明) 49 年 1 0 月には中央合唱団 も民青 中 央合唱団 と名称を変更 し機関誌 「うたごえ」を全国に向けて発行 した。 これが 「うた ごえ」の名称の始 ま りとな っている。 これを受 けて 「 民青仙台合唱団」を名のるが、 50 年 11 月に中央合唱団が民青団より独立す る方針を持つ と、同様に全国一斉方針 により 民青の名前 をとり 「 仙台合唱団」 とな ってい った。

しか し、名称 は変 わ って も実質は文工隊活動であ り、 レッ ドパ ー ジ等の情勢の中、

1 952 年頃まで数閏年合唱団活動 としては停滞 したま串であった。 この間中央では全国 か ら 250 万 円に及ぶカ ンパを集め音楽セ ンター会館を完成 させた。 この ことによ り全 国の運動のセ ンターを作 り出 していったが、歌集を始め うたごえの音楽 出版物 などを 取 り扱 う場所を各地 に開設 した。仙台で も 「 東北音楽セ ンター」が 51 年 7 月頃田町借 地借家人組合事務所内に創設 され、谷が専従 となる。( 全建労東北総支部専従 は斎藤 と 交代 したが、専従 とい って も給料が出たわけではなか った。)

合唱団活動の停滞後、佐 々木、谷、斎藤 ( 三羽か らす と呼ばれた。)が中心 にな って

独 自の機関紙 「うたごえ 」 ( 歌集の内容で4号 まで 5号か らは新聞形式の機関紙 ‑3号

は民青仙台合唱団発行 とな っている)を発行す るなど、再建活動を展開す る。 51 年 7

月に東京で開かれた第 5 回世界青年平和友好祭に呼応 した平和合唱祭 において、うたご

え祭典を全国的に開 く方向が打 ち出された.「うたごえは平和の力」とい うスローガ ン

が確認 され、「 若者 よ」が全国的に大流行する中で、中央合唱団 4 周年記念音楽会で も

あ った 「 1 952 年 日本の うたごえ」に宮城か ら 5 名 ( 仙台合唱団 2 名、東北大 1 名、坂

病院 ・全建労 2 名)が参加 し運動のいぶさを伝えていった。翌 日か ら 2 日間開催 された

第 2 回全国合唱団会議ではうたごえ運動の大衆路線が確認 され、谷は常任幹事 となる。

(9)

1 953 年か ら壇上 さわえ ( 中央合唱団 1 期生)がオルグに入 り、合唱団の組織化 は大 き く前進す る。合 唱団事務所 を北三番丁全建労東北総支部 内におき ( 5 3 . 1 ) 斎藤 が責任 者 とな り、一部 ・ 5 円で売 る機関紙が定期的に発行 された。 ( その後、組合 内で他 団体 は 出てい ったほ うがいい とい う意見が出て、田町借地借家人組合事務所へ移転 。5 4 . 4 頃)

「 仙台合唱団」を名の って大衆的 に舞台 に上が ったのは、 53 年 1 月映画 「自毛女」上 映 会での歌唱指導 ( 「シアールの歌 」 「 心 の歌 」 ) であるとい う記録 がある。 また職場 に も 積極 的にオルグ活動 を展開 し、最初の創作曲 「 仙台 ゴムの歌 」 ( 仙台 ゴム労働者詩)杏 作 っているが、実際は 「ハ ワイ ・マ レー沖海戦」の替え歌 であ った。 その ほか地域 に 対 しては、東北合 唱団連盟合唱祭 ( 5 3 . 6 ) に塩釜汐風合唱団 ( 5 2 . 9 坂病 院等 が 中心 とな って結成)有志 とともに全員合唱に参加、平和 と友好 のための音楽 の集 い ( 5 3 . 8 ) に も 出演 している。 8 月 には関東の うた ごえに仙台合 同合唱団 と して出場、 7 名 を派遣 して いるO また‑ 、県 内の米軍基地撤去 の課題を中心 と した反戦平和 の大集会 であ る大平和 祭 ( 宮城軍事基地反対期成 同盟、県労評主催 ‑5 3 . 8 ) では構成戯 曲 「 平和 の うた ごえ」

を発表 し、谷が指揮を して 1 00 名の合唱隊を組織 している。 この間中央合 唱団か らは 小野光子、渡辺 昌子が指導 のために釆仙 した。

合唱団 と しての体裁を持つまでにな ってきた仙台合 唱団は、49年 8月 に引 き起 こさ れた松川事件 の裁判 に際 して、特 に公正判決を要求す る東北地方 での松 川裁判闘争支 援 の運動 に参加 してい った。 53 年 1 0 月に合唱団 としては作詞作 曲の創作 曲第 1 号 とな る 「 真実 の勝利のために 」 ( 「 20 人を救え」改題)をつ くりだ した。作 曲の 中心 は佐 々 木 であ ったが、裁判所 でブラスバ ン ドを指導 していた長谷峯治が補作 した。 曲の公表 に際 して合唱団の創設 を明記す ることが必要 とな った とい う事情 があ り、正式 な 「 合 唱団」の形式 を整え るとい うことにな り、綱領、規約 を決定す るための討議 が行 われ、

53 年 4 月創立 とす る正史が さかのぼ って作 られることとな った。初代 団長 は谷宏 とい うことにな る。

谷 宏 1期生

4 8 .9 青共仙台合 唱団 (どん ぐり座)創立 に参加 ( 仙台高等工業専 門学校学生)

4 9 .7 第 1 回全 国合唱団団長会議

4 9 佐 々木 が民青 中央専従 にな ったため合唱団の責任者 にな る ( 県庁組合専従

‑全建労専従)

5 1 .7 東北音楽 セ ンターが作 られ専従 ( 給料 な し)

5 2 . 1 2 「 1 952 年 日本 の うた ごえ十 に参加

第 2 回全 国合唱団会議 日本の うたごえ実行委員会常任幹事 とな る

5 3 . 2 「 仙台 ゴムの歌」集 団創作 ( 仙台合唱団創作曲第 1号)

5 3 . 8 大平和祭構成組曲 「 平和 の うたごえ」指揮

5 3 . 1 0 綱領規約 を確定 ( 時期不明) し、主宰者 ( 団代去) とな る

5 3 . 1 1 日本 の うたごえ祭典 に仙台合 同合唱団 と して初参加、指揮

5 4 .6 仙台合 唱団の初代常任 とな り、東北合唱団会議等 を リー ド

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5 5 .7 六全協後壇上 と論争 うた ごえの一線 か ら退 くよ うにな る

5 5 .8 仙台労音結成 に参加 「 手古奈」上演

5 6 .2 活動 困難 にな り常任 をやめ る 仙台合 唱団顧 問 とな る 中華料理店経営 トロイカ経営

5 8 .6 日うた全 国常任 を志子 田 と交代

5 8 .1 1 宮 うた祭典実行委員長

5 8 .1 2 国鉄祭典実行委員会委員

5 9 .6 宮城県合 唱サー クル協議会第 2 回総会 で副会長 とな る

5 9 . 7 中尾 さんを送 る夕べ発起人

6 0 .8 仙台 うた ごえ協議会結成 し個人加盟

6 0 . 1 0 宮 うた祭典実行委員長

6 1 .9 宮 うた祭典実行委員長

6 2 .6 仙台合 唱団を励 ます会発起人

6 2 .6 仙台合唱団第 1 回演奏会実行委員

6 3 .9 宮 うた 1 0 周年記念祭典実行委員長

佐 々木一司 1 期生

4 8 .9 青共文工 隊 どん ぐり座創立 に参加 ( 青共地 区委員)

4 9 . 1 0 民青 団中央常任委員 にな る

5 2 .1 2 「 1 952 年 日本 の うたご え」 に参加

5 3 . 1 0 「 真実 の勝利 のために」 を中心 にな って作 曲

5 3 .1 1 日うた祭典 で伴奏 その後 中央 に転 出

5 6 .4 受験勉強 し東北大 医学部 に入学 その後再 び民青専従 にな り中退

大泉 房‑沼波 1 期生

5 3 .4 入 団 ( 二女高生)

合 唱指導 な ど音楽 的 に リー ド

5 5 .2 財政部長 とな る

5 5 .4 高校卒業後合唱団常任 とな る

5 6 .2 合唱団常任 をやめ る

5 8 .3 再建時の新委員会 で財政 と技術部 を担 当

5 9 .4 常任委員 とな り財政部担 当

5 9 .7 国鉄祭典地元合 同の うた ごえで指揮

5 9 .8 総会 に際 して財政 自書製作 ( 第 2 次 も)

6 0 . 3 6 期生教育担 当

6 0 .4 宮 うた実行委員会事務局

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6 0 .4 結婚退職後、再び常任活動家 となる 安保闘争 にうたごえ行動隊 として参加

6 0 .6 第 1 回団活動家会議を自宅で開催

6 0 . 1 0 宮 うた祭典常任実行委員、事務局長

6 0 . 1 0 7期生教育担当

6 1 .5 出産のため 1 1 月まで休団 6 1 . 1 2 複団 し総会で芸術局員

6 2 .2 総会で書記長 になる ( 芸術局員、財政部員)

6 2 . 3 労音民謡教室参加

6 2 .6 第 1 回演奏会実行委員 企画、指揮

6 2 . 1 2 日うた祭典合唱発表会指揮 6 3 .2 総会で副委員長

6 3 . 5 全国教育活動者講習会参加 6 3 .7 宮 うた祭典実行委員

6 4 .1 総会で副委員長

6 6 . 1 2 教育担当の委員 として復帰

6 7 .7 臨時総会で委員 6 9 .4 第 2 回演奏会 に参加

その後活動困難 となる 7 1 .5 退団

斎藤亀一郎 1 期生

4 9 .4 青共、全民青、民学同三者 による組織合同のための大会で、全民青 か ら参 加、

文化部の責任者にな り、合唱団に参加 ( 逓信省労働者) 4 9 .8 定員法 により逓信省を戦首、復職運動を展開

5 1 谷の後を受 け全建労東北総支部専従 となる

5 2 . 1 2 「 1 9 5 2 年 日本の うたごえ」に参加

5 3 .1 責任者 とな って機関紙 「うたごえ」を発行

5 4 .6 壇上の指導で東北音楽セ ンター強化 され代表

5 5 .2 その後組合活動に専念のため合唱団をやめる

2. 常任体制 ( 専従)の確立 とその崩壊

1 953. 1 0‑1 956. 2 1‑3 期生

1 9 5 3 年 に討議 されて公表 された綱領では、「うたごえ運動の東北の中心 にな って、誇 らかに進んで行」 くことが宣言 され、そのために( D新 しい音楽 うた ごえの勉強②祖先 の遺産民謡の勉強 ・掘おこし③ うたごえを広めるための指導 ・公演 ・うた う会 の開催

④ お互いの成長のための勉強 ・話 し合い⑤平和的諸運動えの うたごえでの参加( 参其他

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必要 と認める諸活動、が明記 されている。また、規約 によると、団は 「 期生 」 「 研究生」

「 常任」によって成 り立つ とされる。「 期生」は原則 として募集 とされ 1 年間の教育期間 を求め られたが、 2 期生が募集 された 5 4 年 11 月までに入団 した ものを便宜的に 1 期坐 と呼んでいる。 1期生には、前述 した以外に大泉 とも子 ( 房妹)、那須拡正、伊藤昭七、

大橋力 ( いずれ も 5 4 年 4 月に結成 された東北大学翠生会 メンバ ー、大橋 は現 「 芸能 山 城組」代表)等のメンバーが確認 されている。 ( いずれ も入団時期不明)また、高平つ ぐゆき ( 電電公社) もこの時期 に参加 している。 2 期生 ( 5 4 . 1 1 よ り募集)には、志子 田 幹人 ( 学校生協)、野田俊次 ( 県職員)、登場千枝、斎藤二郎 ( 東北大、後 「どん ぐり」

結成)、茨木ふみ ( 「どん ぐり 」) 、田茂勝一 ( 国鉄) らがいる。 3 期生 ( 5 5 . 5 より)には、

佐川邦夫 ( 「どん ぐり 」) らがいる。

「 常任」とは期生を終えた後に選抜 されるいわゆる専従のことであるが、「 研究生」と い う性格が唆味な ものであ ったために、期生を終えて も団に残 り運動 に専念す る団員 とい う性格が強 い。谷 と同時に レッ ドパージ後壇上 に誘われて合唱団の専従 にな った 加藤駒幸 ( 55 年 2 月か ら書記長)が初代常任 とな り ( 5 4 . 6 ) 、二女高を卒業 した房 と八 巻喜代子 ( 宮城学院短大学生)がこれに続 く ( 5 5 . 4) 。決 して給料が支給 された専従で はないが、合唱団の初期 には 4 名の専従が存在 していたのである。

県内の組織化では、第 2 回青年合唱祭を 「 宮城野の うたごえ」として成功 させ、これ が宮城の うたごえ祭典の発足 とな っていった。 ( 実行委員会 ・仙台市教委が主催 し、県 労評、社青 同、仙台芸友会後援 による。 6 団体参加 ‑5 3 .l l ) 第 1 回 日本の うたごえ祭 典では、仙台合同合唱団 として 3 6 名が参加 し、谷指揮、佐 々木伴奏によって 「 多賀城 音頭 」 「 仙台 ゴムの歌 」 「は らか らよ 」 「 真実の勝利のために」を発表 している。

この時期、全国合唱団会議常任委員会で中央合唱団 1 期生の地方派遣 を決定 し ( 5 4 .

3) 、仙台では壇上 さわえが中心 にな って総評 と提携 したオルグ活動 を展開す る。芸友 会 コーラス、コールブル ンネル、中江、西多賀、七郷年どにうた う会が発足 したほか、

国鉄 スワローコーラス、電通を始め各職場にコーラス続 々生まれる ( 約 20 カ所)。仙台 合唱団は国鉄を始め在仙の職場サークルだけではな く、中新田や古川の うた う会など 20 近 くのサークル指導を行 っている。また東北音楽セ ンター も強化 され斎藤が代表 と なる。その後、仙台合唱団が中心 とな って東北合唱団会議を組織 ( 5 4 . 4 ) し、東北全体 の運動へ と展開 してい く。東北の うたごえ祭典をとの声 もあったか、県労評が支援 し た 「みちの くの うたごえ 」( 5 4 .1 0 ) は県 レベルの うたごえの組織化を重点 としたため宮 城の祭典 とな り、職場の うたごえが多数参加 し 40 団体 1 000 名の祭典 とな った。芥川 也寸志や中央合唱団が特別出演 したほか、青森、山形、岩手な どのサークル も参加 し た。 9 月には弘前で東北農村青年男女の集いも開催 されるなど東北の うたごえの組織化

も始 まった。 ( 5 4 年 1 月に福島合唱団の前身である福島どん ぐり合唱団結成、 7 月 には 第 1 回五色の集 い も開催 されている。) 54 年 日うた祭典は東北合 同として参加 し、「そ うらん節 」 「どじょっこふなっこ 」 「 真実の勝利のために」を歌 ったほか、その後民族 歌舞団はうねん座 ( 7 0 . 4 結成)を主宰 していった武藤桃州が率いる坂病院 うた う会は、

郷土舞踊 「 大漁 うたい込み」で参加 した。

(13)

恒常的全 国組織 と しての 日本の うたごえ実行委員会 は 55 年 2 月 に発足 し、全 国の運 動 を祭典 だけではない 日常 の運動 と して組織 してい ったが、仙台合唱団 もその方針 を 受 けて、みんな歌 う会の運動 ( 第 1 回は 5 5 . 3) 、合唱サークル協議会 の組織化 や労音 問 題 ( 5 5 . 8 仙台労音 の結成)の取 り組み等を展開 していった。 55 年 には平和 と友情 の う た ごえ祭典 ( 2 4 団体参加)や第 2 回みちの くの うたごえ祭典 ( 宮城県の部 2 7 団体、東 北 の部県別 6 団体、産業別 1 0 団体)を 2000 名規模で開催 してい った。

しか し、社会運動 においては、共産党六全協 ( 5 5 . 7) の議論が まきお こっていた時代 であ った。 その中で、 うた ごえに対す る反共攻撃 ( 河北新報 に 「うた ごえは 日共 の新 戟術」とい う記事掲載 。5 5 . 3) や読売新聞に載 った芥川也寸志の 5 つの提言 ( 「巾広論」

とい う名で議論 されたが、 うた ごえ運動 の弱点 として、①理論 の欠如、②政治闘争 と の結 びつ きの非現実的側面、③無理矢理歌わせるや り方④音楽 的な高 さを追求す る姿 勢 の弱 さ、⑤専門家 との協力 の不十分性などが指摘 された。)、雑誌 「 知性」の うた ご え特集 ( 5 6 . 3 ) な どをめ ぐって、文化運動の方針での論争が続 け られていた。八巻 は結 婚準備で専従をやめ ( 5 5 . 7 ) ていたが、「巾広論」の立場 に立 ち、仙台労音結成 に力 を注 いでいた谷 も壇上 と論争 を くりひろげた結果、その後第‑線か らは退 くこととな る。

また、好意 で借 りて きた白百合学園北門の朝鮮総連事務所 は、事務所拡張 に伴 って レッス ン場 と しては使用不可能 とな り ( 5 5 . 7 ) 、合唱団は レッス ン場 を失 って しまった。

これに財政問題等 もか らんで 、55 年秋 より音楽セ ンターは崩壊状態 となる。 さらに、加 藤駒幸が個人的問題で合唱団をやめたほか、房 も就職準備のため常任 をやめ、56年 2 月 までに全 ての常任がいな くなるとい う結果にな って しまった。

加藤 駒幸 1 期生

5 4 .1 壇上 に誘 われ電報局 を辞 めて入団 5 4 . 6 仙台合唱団常任 にな る

5 5 . 2 書記長兼組織部長 となる

5 5 個人的事情で合唱団をやめ、その後東北 ラジオ商会勤務

高平 つ ぐゆ き 1 期生

5 4 .9 東北農村青年男女のつ どい後入団 ( 電電公社職員、夜間学生) 5 5 . 2 技術部責任者 とな る ( 宣伝担当)

5 5 .6 入院

5 6 ピアノ購入のため トロイカでアコーデ ィオ ン伴奏始 める 5 7 作曲活動 を開始

5 7 .1 2 日うたで 「よろこびの歌」発表 5 8 .3 再建時の新委員会 で指揮者 となる 5 9 .3 総会 で常任委員 となる ( 技術部) 5 9 .74 期生終了 とともに終了

6 0 .6 ア コ教室を始める

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安保闘争 にはアコーディオ ン伴奏で うたごえ行動隊に参加 電通 コーラスで活躍

6 0 .7 仙台 うたごえ協議会準備会 に参加 6 0 .8 仙台 うたごえ協議会 に個人加盟

6 0 . 1 0 宮 うた祭典審査員

6 2 .4 アコ教室 1期生募集 伴奏者 として活躍 6 2 .6 仙台合唱団第 1 回演奏会実行委員 伴奏 6 3 .9 宮 うた祭典審査委員

6 4 .5 電通の うたごえ仙台祭典企画部長 ・創作セ ンターメンバ一 日音協か ら 「 君 は胸を張 って」の ソノシー ト発行

6 5 清瀬保二か ら作曲法を学ぶ

6 6 .8 新専従 となる高橋宏君 を励 ます会発起人

6 6 . 8 仙台合唱団に復田 「 人のいい恋人たち」等創作

6 6 . 1 1 日うた祭典合唱発表会指揮

6 7 .8 臨時総会で委旦 となる

6 7 . 9 オペ ラ沖縄制作委員会 よ り推薦 され派遣要請 6 8 .8 臨時総会で教育部長 になる

6 8 .9 宮 うた合唱創作発表会で 「 ベ トナム参戦国の母や妻 に 」 春の使者」発表 6 8 . 1 1 日うた祭典で 「 春の使者」激励賞

6 9 . 1 自発的に演奏会実行委員会を作 る

6 8 .2 第 2 回演奏会企画部長 以降演奏会で指揮 6 9 .7 総会で教育部長

7 0 .2 仙台労音合唱団 ( 後の仙音 アコール)常任指揮者 となる

7 0 . 1 2 日うた祭典で 「 私 たちの青春 」 「チェロのためq ) 小品」創作 70 年賞

7 0 . 1 2 総会で副委員長

7 1 .2 井上頼豊 チ ェロの夕べで作品が演奏 される 7 1 .5 東北創造活動者講習会参加

7 2 . 5 総会で副委員長

7 2 民族歌舞団はうねん座結成 作曲者 として参加 7 3 .5 総会で委員長 になる ( 教育、 うた協 も担当) 7 4 .3 総会で委員長

7 5 .1 総会で委員長

7 5 . 1 1 高乎つ ぐゆき作品集 を発行

7 6 . 1 高乎 リサイタル開催

7 6 . 4 総会で委員長

7 6 .7 指揮者交流で京都 ひまわ り合唱団演奏会で指揮

7 6 . 1 1 高乎 LP 全国制作委員会発足

7 7 .1 福島市で レコーデ ィング

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7 7 .1 レコーデ ィングで東北放送出演

7 7 .5 総会で委員長 7 8 .8 総会で団長

7 8 .9 宮 うた祭典実行委員長

7 8 . 9 臨時総会で三役か ら降 りて創造委員長 になる 7 8 利府のお母 さん コーラス 「コールマ リー ド」指導 7 9 .5 新 メーデー歌 「 国のすみずみか ら 」 2 位入選

7 9 . 5 東北教育者懇談会参加

7 9 壇上 さわえ リサイタルで作品発表

7 9 .7 総会で創造委員長、常任委員会 には適時参加 となる 7 9 . 1 1 日うた祭典で 「自由なる朝へ」を全国合同で指揮

8 0 .2 日うた常任委員 になる

8 0 . 4 金冠のイエス」公演協力

8 0 .8 第 1回平和 と文化の集 い実行委員長

8 0 .8 第 1回東北 うたごえ教育者懇談会開催

8 0 . 1 0 電通祭典 ( 仙台)企画責任者 8 0 . 1 1 宮 うた祭典実行委員長

8 1 .2 教育部長代行 となる

8 1 .4 第 2 回東北教育者懇談会参加

8 1 .8 第 2回平和 と文化の集 い実行委員長 8 2 .3 一身上 の都合で休団

8 3 . 1 0 復 団

8 4 .1 1 0 回演奏会 に音響、編曲で参加

8 4 . 3 84 連帯 と交流の集 いで地底の うた合唱団指揮

8 4 .4 団総会で委員 ( 宮 うた担当) となる

8 4 . 7 コールマ リー ド小 さな音楽会指導

8 4 . 9 星空 コンサー ト I N 長町で指揮

8 4 . 1 0 星空 コンサー ト I N 泉で指揮

・医療の うたごえ 「セデス」指導

8 5 .2 電通長 岡事件裁判 「 対談 と合唱の集 い」で組曲 「 母 さんの樹」指揮 8 5 . 4 団総会で委員 ( 副指揮者) となる

8 5 .7 な くせ NUKES コンサー トで 「 原爆の 日より」発表

8 6 .6 一身上の都合で休団

8 6 組曲 「ビキニの海 は忘れない」浜松セ ンター合唱団によ り初演

8 6 . 1 0 童謡集 「 子 どもの四季」作曲 その うち 「 風」が第 2 回三木露風賞受賞 8 7 横浜 ・鳩の森愛の詩保育園 「 卒園する子 どもたちへ送 るうた」作曲に参加 8 7 全国電通労働者合唱団 「 ザ ・ナ ッツ」結成 常任指揮者 となる

8 8 組歌曲 「 胸の深 くに披よせて」初演

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8 8 . 1 0 電通 の うたごえ仙台祭典音楽責任者

8 9 福 田由美子氏 による高平作品 リサイタル開催

9 0 合唱組曲 「 告発」東京南部合唱団により初演

9 0 .3 鳩の森を巣立つ子 どもたちへ」発刊

9 0 .5 「 ザ ・ナ ッツは じめての コンサー ト」指揮

9 1 .5 合唱団美樹 によ り合唱組曲 「この星はぽ くらの星だ」初演

9 1 .8 「 高平つ ぐゆき作品集」発刊

9 1 .8 作 曲活動 30 周年を祝 う 「 鳩の森愛の詩 コンサー ト」

八巻喜代子‑佐藤 2 期生

5 4 . l l2 期生 と して入団 ( 宮城学院短大学生)

5 5 . 2 宣伝部長 となる

5 5 .4 合唱団常任 となる

5 5 .7 結婚準備で常任をやめる

5 8 .3 再建時の新委員会 で機関紙部 を担当

5 8 .6 合唱サークル協議会結成大会参加

5 9 .3 総会 で委員 に再選

3. 宮城県合唱サークル協議会の結成 と合唱団の再建

1956. 3‑1958. 6 4 期生前半

常任体制が崩壊 したとはいえ、残 った団員によって職場オルグ活動などは続 け られ ていた。戦後間 もな くか ら活動 していた県庁や農林碕計等職場の合唱団 とともに、国 鉄 スワローコーラス ( 5 4 . 3 ) や翠生会合唱団 ( 5 4 . 4 ) 、坂病院が主体 とな った塩釜合 唱団

( 5 5 . l l ) な どが結成 されていたが、仙台合唱団の停滞期には期生修了生 も加わ って伊勢 堂 コーラス ( 伊勢堂下青年会の手 によって発足、その後合唱団 「どん ぐり」となる0 ‑

5 6 . 7 ) や、労音 と協力 して作 られた合唱団 「 い ずみ 」( 5 7 . 9 結成)な どが地域の中で組織 されてい った。

「 いずみ」に関 しては労音 と仙台合唱団の協力で結成 されたと理解 されているが、「 宮

城の うたごえ運動 における動揺 と混乱の時期の典型的な産物」 とい う評価 もあるよう

に、 うたごえ運動 における中心合唱団の内容、役割に関する理論的弱 さがあ った こと

は事実であろう。 その弱 さが 「巾広論」 と結びついた時に、大衆化 と運動化の接点を

もとめ、中心合唱団型ではない新 しいタイプの地域合唱団が 目指 されてきた とい うこ

とで もある。仙台合唱団では歌えないが地域では歌えるという青年層を作 り出 してい

ることである。一時宮城の うたごえのサークルの中では、 「 『 いずみ』の様に美 しく、仙

台合唱団のように戦闘的に歌 お う」 とい うスローガンが語 られたこともあった。 しか

しこの傾向は、70年代か ら80年代前半にわたる労音合唱団 ( 後の仙音アコール)との

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関係や、仙北、仙南の地域サークル と仙台合唱団の関係を巡 って、その後 も同 じ様 な 位置を占めることにな っていた ことに注 目したい。 これ らは うた ごえ運動 の大衆 的な 広が りであるのか、それ とも中心合唱団の拡散なのであろうか。仙台合唱団は第 1 回 目 の停滞期を迎えたのである。

しか し 56 年 11 月 には、以上のサークルとともに宮城県の うたごえを開催 している。

これはイベ ン トにあわせてサークルを集 めるとい う典型的なスタイルで もあ った。 日 うた祭には、「どん ぐり」の斎藤二郎 ( 2 期生)が、東北合 同 と して 「 外 山節 」 「夕焼 け の歌」の指揮を行 っている。同様 に、 57 年 に も日うたの取 り組 みの組織 と して 「 宮城 の うたごえ協議会」を結成 し、宮城県 うたごえ集会を開催 した ( 5 7 . l l ) 。 日うた祭 では

創作音楽会 に 「どん ぐりさん 」 ( 斎藤作曲)のほかに、高平の作 曲による 「よろこびの 歌」を発表 したが、全国合同 「 砂川」には参加で きなか った。 ( 高平 は同年 の 日本 の う たごえ記念創作 「 我等の願 い」が後 にプ ロの作曲家 とな ったいずみた くと並 んで優秀 作で入選 している。)

57 年 3 月 に県労評主催で中央合唱団公演 「 春の集 い」が もたれ、関鑑子やわ らび座 も出演す るイベ ン トが催 された。 この取 り組みの中で仙台合唱団の再建が課題 とな り、

総会を開催 し困難を打開す るために 4 期生募集 の計画が もたれた。 4 期生 は 40 名の規 模で集め られ入団式を行 ったが ( 乳銀杏保育園 5 7 . 6 ) 、この募集 において も合唱団の内 容がはっきりしてお らず、「団員 と期生 との間の隔た りがあ った」 と総括 されている。

しか し、一方では労評青婦協 に支援 された職場の合唱団が力を強め、また、「巾広論」

の立場 に立 って活動 を展開 してきた地域 サークルが前進 して くると、一 県 内サークルの 協議会結成の気運が高 まっていた。 うたごえサークル協議会 に対す る議論 は 58 年初頭 か ら検討 され、 1月には合唱団白樺の指揮者北川剛を囲んでの懇談会が うた ごえ喫茶 ト

ロイカで もたれ、「いずみ」、労音、翠生会、 グ リー ンウ ッ ドな ど多数 のサー クルが集 まった。中心 にな ったのは 2 期生の志子 田である。志子 田は 57 年 11 月 に団機関紙 「う・

たごえ」を復刊 させ責任者 にな ってお り、第 1回 日うた総会 ( 5 7 . 1 2 ) に参加す るな ど、

実質的に谷 と交代 して委員会崩壊期の仙台合唱団の代表 とな っていた。 まず 58 年 3 月 に仙台合唱臥 「 いずみ」、「どん ぐり」、翠生会、農林統計 うた う会、長町 コーラスな どが加盟 し 「うたごえ春の集い」を開催 し、その後討議 を重ねた結果、「うた ごえサー クル協議会」ではな く、当面 は交流 ・援助のための連帯組織 である 「 宮城県合唱サー クル協議会」が結成 される ( 5 8 . 6 ) 。後 に 41 団体 1020 名が加盟す ることにな るが、発 起人の中か ら志子 田が初代会長 とな り、副会長 は 「 いずみ」の手塚昂吉であ った。

これ らの動 きの中で、仙台合唱団の役割 も再検討 され ざるを得ず、 3 月の総会でア ン ケー トを実施 した うえでの規約 ・綱領の検討を開始 し、 4 月の総会では、以前 か らの団 員 5 名を別 に し残 りを全員 ( 4 期生を含む)か ら選挙す るとい う方法で新委員を選 び、

5 月の新委員会第 1 回会合で 2 代 目委員長 に野田、指揮者 に高平、組織部長 には志子田 を選 出 し、新 しい体制が確定 されることになる。新たに選 ばれた役員 には、中元良子、

相沢輝明 ( 技術部、いずれ も 4 期生)、大槻宇多子 ( 組織部 ・4 期生、その後 中央合唱

団常任になる) 、佐 々木春子 ( 組織部 ・ 3 期生)、佐藤 ( 八巻)喜代子、佐川 ( 機関紙部)、

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早坂玲子 ( 財政部、 4 期生)などがいる。房は、技術部 と財政部 をかね る。 4 期生入団 以降 1 年を経過 したが、残 ったのは 1 4 名で しかなか ったので、新たに 4 期生を追加募 集 し期成 としての教育を もう 1 年続 けることとした。 レッス ン場は花京院の朝鮮総連事 務所を借 りることとなる。

以上のように、仙台合唱団の停滞期 において も宮城の うたごえは活動 していた。 こ の間社会党県連の統一大会 ( 5 6 . 1 ) 以降急速に県労評の組織が拡大 し、労評青婦協 ( 5 6 . 3 ) や仙台地区労 ( 5 7 . 7 ) が結成 され、宮教組、県職組、全逓 など多数の組合員を要す

る労働組合が加盟す ることによ り、労働運動 は大 き く伸びようとしていた。労評の推 薦 によって大沼県知事や島野仙台市長が当選 していった。 また、宮城県原水爆禁止協 議会 ( 5 7 . 7 ) や宮城県松川事件対策協議会 ( 5 8 . 7 ) の結成を始め、勤評反対闘争や警 職法反対闘争など、地域 と結びついた運動 も展開されてい った。その流れは59年 4月 の 日米安保条約廃棄 ・改定阻止宮城県民会議の結成に結 びつき、 60 年 には 「このころ、

官 ・民労組の春闘最高の もり上が り 」 ( 『 宮城県労働運動史』 よ り) とい う情勢 を作 り 出 していた。 60 年安保闘争前夜 とい う社会状況 の中で、多 くの青年 の革新的エネル ギーが満ちあふれていた時代であったとはいえるが、後の宮城の うたごえ協議会組織 の端緒 とな った合唱サークル協議会結成の運動の中で、仙台合唱団 も再建 されてい っ たのである. ( 58 年 7 月には古川、涌谷、岩出山、小牛田、南郷、中新 田の各地域のサー

クルが結集 して大崎地方合唱サークル協議会 も結成 されている。)

斎藤二郎‑川田 2 期生

5 4 .4 東北大翠生会合唱団創設 に参加 ( 東北大農学部学生)

5 4 . l l 2 期生 として入団

5 6. 7 伊勢堂 コーラス結成‑合唱団 「どん ぐり 」 となる

5 6 . 1 2 日うた祭 に参加 「 夕焼 けのうた」指揮 ( 農学部研究生)

5 7 . 1 2 日うた創作発表会で創作曲 「どん ぐりさん 」 発表

5 8 .1 オ リエ ンタル酵母工業株式会社 に就職、東京へ転 出

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野 田 俊次 2期生

5 4 .1 22 期生 と して入団 ( 県庁職員) 県庁合唱団、「いずみ」 な どに も参加 5 8 .3 再建のための総会 で新委員長 に選 出され る 5 8 .5 合唱サークル協議会準備会 に参加

5 8 .9 宮 うた祭典財政部長 5 9 .2 東北合唱団会議参加

5 9 .3 合唱サークル協議会事務局長 になる ( 仙台合唱団代表 を志子 田 と交代)

5 9 .9 宮 うた祭典財政部

6 0 .3 古 川 に転勤 のため団委員長 を藤村 と交代‑古川合 唱団へ

6 0 . 4 宮 うた実行委員会 に参加

6 1 .6 宮 うた祭典 で大 崎の うたごえ指揮 6 2 .6 第 1 回演奏会 に参加

志子 田幹人 2期生

5 4 .l l 2 期生 と して入団 ( 学校生協)

茨木ふみ ( 2 期生) らとともに民青 団役員 と して活動 委員会崩壊期 に仙台合 唱団を代表

5 7 .1 1 機 関誌 「うたごえ」 を復刊 させ責任者

5 7 .1 2 第 1回 日うた総会 に出席、実質的に谷 と役割交代 とな る 5 8 . 2 日うた実行委員会 に参加

5 8 .2 宮 うたサー クル協議会発起人会 に出席 5 8 .3 再建総会 を高平、野 田 とともに リー ド 5 8 .5 再建委員会 で組織部長 となる

5 8 .5 宮城県合 唱サー クル協議会準備会世話人 5 8 . 6 全 国合唱団会議 に参加

5 8 . 6 宮城県合唱サー クル協議会 を絵成 し会長 とな る 5 8 .1 2 須藤五郎後援会世話人

5 9 .1 全 国合 唱団会議 に参加

5 9 .3 合 唱サー クル協議会総会 で会長 を交代

5 9 .9 宮 うた祭典組織部 5 9 .1 1 日うた祭典運営本部

6 0 . 4 宮 うた実行委員会事務局

6 0 . 1 0 宮 うた祭典事務局長代理

6 0 . 1 1 日うた祭典実行委員 茨木 ふみ 2期生

5 4 .l l2 期生 と して入団 ( 東北大)

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志子 田とともに民青団役員 として活動

5 6 .7 伊勢堂 コーラス結成、その後合唱団 「どん ぐり」に移行 し会員 になる

5 8 民青合唱団代表 になる

5 9 .4 総会で委員 に選 出 ( 情宣部)

5 9 . 6 うたごえニ ュース発刊

同時に合唱サークル協議会機関紙 「コーラス宮城」担当

・ 宮 うた祭典実行委員 ( 総務部) その後仙台か ら転出

4. 綱領 ・規約 の確定 まで

1958. 6. ‑1961. 3 4 期生後半 〜7 期生

うたごえ運動 における中心合唱団の役割は、「うたごえは平和の力」をスローガ ンに して全国的統一 をめざ した第 1回 日本の うたごえ実行委員会総会 ( 5 8 . 1 2 ) において確立 された といえ るが、各地で実践 されるためには、具体的な方針 として提示 され る必要 があ った。大衆路線 は 「巾広論」を含む必要があったとして も、その中では、運動 の 組織者 としての基本的役割を、団員一人一人に自覚 させることが求め られた。すなわ ち、職場合唱団や労音、 「 いずみ」などの地域合唱団との違いをどうとらえるかである。

一方では運動 に対す る反共攻撃 が強 まる中で、新 しい綱領や規約を 自らが作 り出す こ と、そのためには団員一人一人の うたごえ運動に対す る意見を集約す ることが必要で あ り、以上 の点 に関わ る全団討議が機関紙上で も展開され、活動の方向が模索 されて い った。

日うた実行委員会 にとって も、仙台合唱団の再建 は重要課題であった。 58 年 7 月に 東北地区 うたごえ活動者会議が宮城、山形、福島、青森か ら 30 名 ほど集 まって仙台で 開催 されたが、仙台合唱団は東北地区の連絡のセ ンターになることを求め られていた。

(この時には井上頼豊が来仙 し合唱講座を開いている。)さらに、第 6 回国鉄の うたごえ 祭典の仙台開催を決定 し、中央合唱団の中尾富子がオルグとして 8 カ月にわたって滞在 し、仙台合唱団は レッス ンも含めた専門家による定期的な指導を初めて受 けることと なる。 ( 5 9 . 3 ‑l l )

59 年定期線会 は、中心合唱団へ と発展するための意思統一が課題 とな り、常任委員 会体制を確立す る 。( 5 9 . 4) 野田委員長の もとに、常任委員には高平 ( 技術部)、房 ( 財 政部)、佐 々木 ( 情宝部)に加えて、山形で うたごえ運動の経験があ り 5 8 年 4 月か ら東 北大の大学院に研究生 として進学 し 4 期生 となった藤村三郎が、志子田と交代の形 とな って組織部 を担 当す ることにな った。委員には、佐藤喜代子の他に、針生喜太郎 ( 4 期)、茨木、をは じめ、 4 期の後半か ら入団 した佐久間和男や高橋勤 らが入 った。また、

レッスン場 は電通会館 ( 五 ツ橋) とな り、乳銀杏保育園、花京院朝鮮総連事務所 と移

動 していた状態 を解消 した 。( 5 9 . 2 ) 合唱団事務所 も、国鉄祭典の取 り組みのいきさつか

図 I V 研 究 生 の 組 織 化 1 2 3 4 5 6 7 8 91 0111 2131 41 51 61 71 81 92021222324252627282930313233343536373839404142434445464 7 4 8 49 期 注‑‑ ‑1 期生か ら 4 期生 までは研究生 としての性格を持 っていないため、確認 されている入期者数をあげた。 1 640‑∽∞‑

参照

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