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陸 奥 国 に お け る 太 閤 蔵 人 地 試 論
‑津軽地方を中心に‑
長谷川成一
はじめに
豊臣政権下の津軽地方に'太閤歳入地一万五千石が設置されたのではないかtという筆者の見通しを述べたのは'
別稿「近世初期北奥大名の領知高について」(﹃日本歴史﹄四一七号'以下別稿と略記する)においてであった。既に
山口徹氏や渡辺信夫民ら先学による豊臣期日本海々運や敦賀・小浜豪商の経営分析の中で'津軽地方の太閤蔵米の存1在が指摘されていねにも拘らず'この問題が長らく等閑にふされていたのほ誠に不思議な現象であると同時に残念な
ことであった。その原因には様々な背景が考えられようが'豊臣期津軽氏の領知高にすら従来真剣な検討が加えられ
てこなかった研究史の貧困がある。また他方には江戸時代以来'当該期の文書はほとんど地元に存在せず'研究が進勿まないのは当然であるという観念に支配されてきた結果'他地方と較べて著しい立遅れの現象が生じたといえよれ。
本稿では右の現状に対する反省に立ち'別稿の行論中で明らかにした豊臣期津軽氏の研究成果を踏まえて'陸奥国
就中津軽地方における太閤歳入地の実態を解明することにしたい。ただし文書史料の所在に恵まれない当地方にあっ
ては'太閤歳入地の存在を直裁に提示する史料が未だ発見されていないこともあって'隣国出羽国秋田氏領の史料や
蘭
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国絵図などから'分析の手掛りを得たり推論を展開する方法を'採用せざるをえなかった。本稿の論題を試論とした
のは'方法論と史料操作の有り方を顧慮してのことであって'他に意味.iあってのことではない。
なお'本稿は別稿を更に補完・充実する企図を持って執筆したものであるから'豊臣政権における津軽地方を統一
的に理解するためには'是非別稿を合わせて参照していただきたい。
一陸奥国の太閤歳入地
3太閤歳入地に関しては山口啓二氏の優れた業績をはじめとして'諸先学によって精力的な解明の努力が傾注されて細きた。最近では森山恒雄氏が九州地方の太閤歳入地の設置状況を次々に発表され'当該地方だけでな‑豊臣政権自体
の構造分析にも多大の貢献をした。翻って東北地方に目を転じた場合'出羽国は太閤歳入地を考察する上で豊かな材
料を提供する秋田家文書(東北大学蔵)がある故'当該研究については他地域の追随を許さぬ蓄積をもっている。陸
奥国にあっては'同国に所属した各県の県市町村史誌を閲覧しても'管見の限りでは太閤歳入地を念頭において叙述5した例はほとんど見当らなかっね。﹃福島県史﹄に記述はないが'天正l八年の奥州仕置にあたって'豊臣秀吉は東㈱北各大名の領域を確定せんとした際に'会津地方を一時太閤歳入地に指定したものと思われる。天正一八年七月七
小り日'富沢日向守へ宛てた伊達政宗の書状には'
今度於小田原表二仕合寓々如存分侯而下向侯'依之伝僧被相越侯'大慶二俣'然而当会津之儀関白へ申合始末侯●●●●●●●●■■而'先以御蔵所二被定置侯'殊二近日中関白当会津へ御下向侯而奥州出羽仕置之儀'政宗二可有御意見之由御内
意侯(下略)へ(傍点筆者)
とあって'会津は暫時ではあっても太閤歳入地に編入されたと'伊達政宗は考えていたことが判明する。当時の会津
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8地方は天正1七年に伊達政宗が声名義広を摺上原で撃破して'占領中であっね。ところが天正1六年の「奥両国惣無9事」令によって'両者の戦いは私戦と見倣され'政宗の占領地会津は豊臣政権の認めるところとならなかった経緯が
ある。このような背景のもとに秀吉軍の会津進駐が行われたわけであって'会津は安積・磐瀬二郡とともに没収さ榊れ'同年八月九日蒲生氏郷へ宛行われた。会津が「御蔵所」すなわち太閤歳入地と伊達政宗に認識されていたのは'
その間僅か一ケ月余りであったといえよう。
「日本賦税」(内閣文庫歳)の'慶長三年八月日本国六拾余州御検地御蔵納金銀納高目録御給人方分是によれば'
陸奥国五四郡一六七万二八〇六石のうち'御蔵納分が一万石とあって'陸奥国の太閤歳入高はわずか一万石で五畿内伽的などと比較して微小であった。山口啓二氏も陸奥国については'むしろ分析対象から除外した叙述をしているので'
陸奥国の太閤歳入地の研究は全‑白紙状態にあるといっても過言ではなかろう。また地域を特定する作業も進展して
いないのである。筆者は'当時日本海交易に従事していた小浜の豪商組屋の組星文書にみえる'津軽地方の太閤蔵米
請負販売に着目して'陸奥国の太閤歳入地は津軽に設定されたのではないかと考えた次第である。
組屋文書にあらわれた太閤歳米の請負販売に関しては'既に前記山口徹・渡辺両氏によって精考が施されているの
で'これ以上付言することはせず'太閤歳入地の石高をまず第一に検討することにしたい。文禄四年一一月二〇日の
組星源四郎米売却覚によれば'津軽での太閤蔵米は金一〇枚分二四〇〇石であり'金子一枚に米二四〇石香の払米相的叫場であった。また同年一一月二六日の浅野長吉請取状にも'金子一〇枚分二四〇〇石の数値が記載されている。文禄的四年の「於秋田御材木入用之帳」によれば'金一枚に米二四〇石の相場とあるので'右の相場は豊臣政権による公定
相場であったと思われる。組星源四郎は津軽蔵米を金一〇枚で販売方を請負っているわけで'北奥羽で米の相場が公
定されて領内でも通用していたらしい。 .r・/[fJLr.
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。.㈹秋田家文書の「秋田之内御蔵入御算用状」にみえる荒免の解釈については'渡辺氏の所論(荒免=年貢率)を支持的したい。天正一九年から慶長六年に至る秋田氏領太閤歳入地の荒免の平均は'一ツ七分(一七%)になる。津軽地方
にも右の荒免が適用されたものとして'同地方の太閤歳入高を'組崖文書中の物成高二四〇〇石=一ツ七分として逆
算すれば'蔵人高は一万七〇〇石に算出される。秋田氏領の荒免は一ツ成(一〇%)から二ツ成(二〇%)までの幅
があって'各々の免から逆算すれば'二万一六〇〇石から九七二〇石までの太閤歳入高となる。津軽地方の太閤歳入.
高は恐ら‑右の範囲内であったことが'想定されよう。
山口啓二氏によれば'出羽国では秋田氏の版図の三分の一'即ち秋田氏の「当知行」のまさに三分の一きっかりが的歳入地として設置されたという。天正一九年正月一七日の太閤朱印状によれば'湊安藤太郎の知行地は五万二四四〇細石'同人を代官に任命した太閤歳入地は二万六二四五石であって'秋田氏領の二分の一が歳入高に該当する。またこ
の様式は小野寺氏の領知宛行の状況でも'同様に採用された。小野寺氏の領知高は'三万一六〇〇石(仙北の内'上%浦郡三分の二)の二分一の一万五八〇〇石が太閤歳入地であったことが知られており'出羽国の太閤蔵人高はその代
官を命じた大名の領知高の二分一に相当した。このほか由利郡の岩屋氏領でも'
其元三ケ壱御蔵入之事'前者御理侯へ共'御手透無之付て'清川迄御打送罷越'披露申侯'尤被進置由御意侯'汀山h■当毛才可有御所務侯'(下略)
とあって、かつて同氏領の三分一が太閤蔵人地であったことが'右の文書によって明らかであろう。
出羽国の事例に乗取って津軽地方を考察してみると'次のように結論づけられるであろう。別稿にて詳述したよう
に'豊臣期津軽氏の領知高が三万石であったことは'まず間違いない。秋田・小野寺・岩屋三氏の朱印高の二分一が
太閤歳入地として設定されたことからして'恐ら‑津軽氏が代官として管掌した歳入高は'同氏の高の二分一すなわ
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ち一万五千石程であったと推定される。荒免による太閤蔵米高二四〇〇石から逆算した高二万一六〇〇石〜九七二〇
石の範囲にも'右の数値は該当する。つまり津軽地方の太閤歳入地は一万五千石程であって'津軽氏の高三万石と合
わせて津軽地方の高〝四万五千石〃と'豊臣政権によって決定されたとみて差し支えないであろう。
元和五年'福島正則は改易後'津軽への転封を命ぜられたが'同年七月に国替は中止された。その際'福島正則へ8,,,,,,,,,宛てた幕府年寄連署奉書には'「津軽之高四万五千石」とあって'津軽家の拝領高と記していないことに吾々は注目
すべきであろう。別稿でも述べた通り'「津軽之高四万五千石」は当時の政治動向の中で定数として機能しており'
津軽氏の領知高としてよりも'むしろ津軽地方総体の石高として認識されていたと考えるのが至当である。それは'
豊臣政権によって太閤検地を実施された時点での石高が'徳川政権にあっても継続して踏襲されたことを意味するも
のであった。
徳川政権下にあって'太閤歳入地が如何に処置されたのかについては'未だ全国的には明らかにされていない部分
が多い。出羽国の場合'佐竹氏が慶長七年に入部した段階で'徳川家康の宛行状によって仙北・秋田両所が同氏に宛S行われ'太閤歳入地は自動的に佐竹氏領とされた。また領内三分一を太閤歳入地とされた由利郡の岩屋氏領でも'
前掲文書を参照すれば'自領に編入してもよい旨の認可が最上氏から下されているので'岩屋氏領となったのであろ
う。津軽地方でも太閤歳入地一万五千石は津軽氏の領地に編入され'ここに幕藩制における津軽氏の本高四万五千石
が確定したといえよう。
次に太閤歳入地の設定型体にふれる。山口啓二氏は蔵人地の諸類型を'次の五型体に分類した。一軍政型'二番城
城廻型'三外様大名領内設置型'四大名領地型'五吏僚代官型で'隣国秋田氏.のそれは三の外様大名領内設置型に所糾属するとしている。本稿の論旨からいえば'津軽地方の太閤歳入地も秋田氏のそれにはぼ連なるものであるとする認
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