論 説
一 はじめに
平成三〇年三月二〇日、札幌地裁第三刑事部は、恵庭OL殺人事件(以下「恵庭事件」と記す)の第二次再審請求
に対し、「本件再審請求を棄却する」との決定を出した(以下「本決定」と記す)。本決定に対して、弁護団は、直ち
に三月二三日付で、札幌高裁に特別抗告を申し立てている。私は、弁護団の好意で、本決定書と札幌高裁への即時抗
告申立書の送付を受け、半ば「信じられない」想いで内容を一読し、また何度も読み返し、その都度「またか」とい
う想いを強くしていった。
私が「信じられない」のは、研究者として再審の困難さを充分に意識しながら、それでも札幌地裁が再審開始を認 めることに期待したからである 1。こう期待したことには、それなりの根拠があった。何よりも、恵庭事件では、請求
人(以下、文脈に即して、「被告人」とも書く)が一貫して犯行を否認していたし、それに相応して、被告人が犯人
であることを直接的に示す物証は何一つなかったことである。しかし、それにもかかわらず、一・二審判決は、文字
どおり検察官の主張のままに、被告人が犯人だと認定した。ところが、被告人を有罪へと導く個別的な可能的推論の
一つ一つを見ると、その推論の「正しさ」や「妥当性」を支える具体的な「事実」がまったく示されていない。つまり、
恵庭事件
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第二次再審請求棄却決定への批判
宗 岡 嗣 郎
恵庭事件-第二次再審請求棄却決定への批判(宗岡)
有罪判決に記載された「罪となるべき事実」は、実在的な事実を記載したのではなく、頭の中で「こういう事実であっ
たのだろう」と推定された事実でしかなく、検察官が頭の中で想定した「ストーリー」どおりの認定であった 2。あま
りにも実在的事実が軽視されている。信じられないほど軽視されている。そして、私が「またか」と感じたのは、わ
が刑事司法において、この種の、実在的事実を軽視する誤った「事実認定」が蔓延しているからである。
具体的に検討しよう。たとえば、一・二審の有罪判決では、被告人の自動車に積載されていた冬用タイヤの左前輪
に残された損傷に着目し、一審はこの損傷を「高温を帯びた物体に数分以上触れていた」ことを示す証拠だとし、二
審は「被害者を焼損した際、被告人車両がその近くにあったことのほかには考えにくい」と推論し、最終的に「これ
も被告人の犯人性を示す」と断定した。一・二審の認定は検察の主張した「ストーリー」をそのまま追認しただけで
ある。つまり、裁判官は、事実を見ていないし、見ようともしない。現に、一審は、その「高温を帯びた物体」とは
何かという「事実」を具体的に示さなかった。何故か。提示できなかったからである。弁護人が指摘したとおり、遺
体の焼損現場に、そのような「高温を帯びた物体」はなく、高温になりうる「物体」もない。要するに一審が認定す
る「事実」はなかったからである 3。このように、時に、裁判官は、「ない」事実を「ある」と言う。そして、二審は、
「被告人車両がその近くにあったことのほかには考えにく」いと書いて、遺体を焼損したときの熱が直接的にタイヤ
に伝わったかのように認定する。しかし、車体の中でも、もっとも雪面に近いタイヤの一部分に向かって、熱が集中
して伝導するメカニズムは書かれていない。経験的に、「炎」の場合、こういう熱伝導はありえないので、伝導メカ
ニズムを書けなかったのだろう。つまり、頭の中で、検察官が想定したストーリーは経験的に「ありえないこと」で
あり、弁護人もそう主張したのだが、裁判官はこのストーリーを「ありうることだ」と認定したのであった。
実際、被告人車の前輪左タイヤに、高熱に由来する損傷があった。それは事実である。そして、本件では、被害者
論 説
の遺体が焼損されたので、札幌地検が想定し、札幌地裁・高裁が認定したように、このタイヤの損傷が遺体の焼損時
に発生した高熱と関連していると推論することは不可能ではない 0000000(そう想定することに論理矛盾はない 0000000)。しかし、
反対に、弁護人が主張したように、その損傷は、たとえば自動車の左旋回中の急制動のように、左タイヤのロック状
態から生じる路面との摩擦熱による損傷であり、遺体の焼損とは無関係だと推論することも不可能ではない 0000000(そう想 定することに論理矛盾はない 0000000)。要するに、純粋に論理的に考察するかぎり、どちらの推論も可能であった。この場 000000000000000000000000000000
合、一体、どちらの可能的推論に依拠すべきだろうか。それを決定する基準があるとすれば、それはただ実在的事実 000000000000000000000000000000000000000000000000
だけである 00000。ところが、一審は「高温を帯びた物体」が何かという事実を示さずに、また二審は熱伝導のメカニズム
を示すことなく、このタイヤの損傷が「被告人の犯人性を示す」間接事実だと認定した。一・二審とも、自己の可能
的推論を支える事実を示すことなく、ただ「こう想定することに論理矛盾はない」という論理的可能性に依拠して、
有罪へと繋がる「事実認定」をした。
しかし、はたして、これは「事実認定」なのか。実際、「そこ・に・ある」実在的事実を見ずに認定される「罪と
なるべき事実」とは何か。それは「事実」ではなく、検察官や裁判官の頭の中にあった「表象」でしかない。正確に
は「諸表象の結合」と書くべきだろうが、私はそれを「ストーリー」と呼ぶ。この点、第一次再審請求審決定(以下
「第一次決定」と記す)において、このタイヤの損傷に関して、「確定判決等の認定は相当ではない」としたのは当
然であった 4。ところが、第一次決定では、この確定判決の致命的欠陥に気づきながら、これ以外の事実認定につき、
確定判決の論理に「誤りはない」として 5、再審開始を認めなかった。それだけではなく、弁護側が、科学的な燃焼工
学の観点から、遺体の体重が生前より九キログラム減少しているという事実を指摘して、燃焼によって体重を九キロ
グラム減少させるために必要なエネルギーは一〇リットルの灯油では全く足りないことを実証したのに対し、遺体の
恵庭事件-第二次再審請求棄却決定への批判(宗岡)
脂肪が「独立燃焼した」可能性があると認定して、燃焼工学に裏付けられた弁護側の反論を斥けたのであった。
本決定はこの第一次決定を継承している。つまり、「相当時間脂肪が独立して燃焼を継続することが起りうる」と
いう可能性判断を前提にして、一〇リットルの灯油でも、本件遺体のように高度な炭化状態まで焼損しうると推論す
ることは不可能ではない 0000000(そう想定することに論理矛盾はない 0000000)という認識であった(「本決定」二八頁以下)。しか
し、刑事訴訟における事実認定は、犯罪の痕跡たる「事実」を示し、それを「証拠」として、証拠の集積から「実行
行為」を推論し、最後に被告人がその「実行者である」ことを証明しなければならない。もちろん、事実の存在では
なく、事実の「存在可能性」しか示しえない場合もあるだろう。しかし、その時こそ、事実の「存在可能性」は、論
理的意味での「可能性」とは異なる概念内容であることに注意すべきである。それでは、この二つの「概念内容」は
どう異なるのか。この問題は、刑事法学者も実務家も、ほとんど論じていないが、哲学的な認識論の領域では、事実
の存在可能性が問われるとき、一般的な論理的可能性の概念が決定基準たりえないことは常識である。
そこで、本稿では、次に 00、可能性概念に焦点を当て、事実認定における可能的推論を支える「可能性概念」の内容 を考察する(二)。その後 000、この問題が哲学的な真理論と関連していることから、本件において、刑訴法一条の「事
案の真相を明らかにする」ための「事実」とは何かを論じ、裁判官は「事案の真相」となるべき事実を認定していな
いことを示そう(三)。その上で、最後に 000、「裁判」という制度を根底で支える「対話」としての弁論を考えるとき、
本決定は、論理的に完全な誤謬であるのみならず、「対話」を崩壊させ、それ故、対話すなわち弁論をベースにして
成り立つ「裁判」が崩壊する可能性まであることを概説して、簡単な結論を導こう(四)。
論 説
二 論理的可能性と実在的可能性
まず、一般的な可能性 0000000の問題と事実の存在可能性 00000000の問題とを比較するとき、二つの問題領域で使用される可能性概 念は異質だということを考察しよう。哲学的には、前者は論理的可能性(logische Mӧglichkeit)、後者は実在的可 能性(reale M.)と呼ばれる。私は、三〇年ほど前、いわゆる危険犯の基礎である可能性概念として、犯罪論の中に 実在的可能性概念を取り込むべきだと主張した 6。当時、具体的危険説が通説となる中で、危険概念の事実的基盤が崩
れ、未遂犯の解釈が決定的に主観化していった。その理由は、具体的危険説が実在的事実から切り離された論理的可
能性の概念に立脚したからである。ただ、刑法学の主流は、その問題の深刻さに気づかず、具体的危険説を客観主義
刑法学の中に位置づけていた。しかし、私のように、犯罪の実質は法益侵害という「事実」だと考えれば、法益侵害
結果発生の危険性(可能性)は、事実から切り離された観念的な地平ではなく、「法益侵害」という事実に基礎づけ
られた現実的な地平で考える以外なかったからである。
約三〇年を経て、再び実在的可能性の問題を論じることになったが、ここでは、論理的可能性と実在的可能性を区
別するカントの論理を一瞥しておこう。もっとも、私はカントの徒ではなく、カントの核心であるアプリオリスムス
に関し、強い違和感がある。率直に述べれば、経験的な総合判断であっても、カントのアプリオリスムスに依拠して
普遍的な妥当性を考える必要はなく、自然科学や社会科学が獲得してきた経験知の蓄積によって総合判断の「正当
性」や「妥当性」は判断できると考えるからである。実際、刑事裁判の「事実認定」も、それが最終的に「被告人は
犯人である」という判断形式で示される「総合判断」だが 7、この総合判断の「正しさ」や「妥当性」は、アプリオリ
恵庭事件-第二次再審請求棄却決定への批判(宗岡)
な必然性など知らなくても、アポステリオリ(経験的)に確証可能である。このことを疑う法律家はいないだろう。
そして、この確証は、認定事実が実在的事実と合致することによって保証される。このことさえ銘記しておけば、可
能性の諸問題に関し、カントの透徹した思考を参照することはむしろ有益である。とりわけ、一八世紀末のドイツに
おいて、当時の形而上学の独断論を厳しく批判し、形而上学の再生を目指したカントの論理は、恵庭事件で示された 0000000000000000000000000000000000000000000000
裁判所の独断論を批判する視座になりうる 0000000000000000000からである。
はじめに、論理的可能性と実在的可能性の概念的な相違を確認するために、カントが例示する「二直線で囲まれた
図形」という概念を考えよう。「二直線とその接合という概念は図形(という概念)の否定を含んでいない」ので、
この概念は論理的に矛盾しない。カントは、概念や判断に「自己矛盾を含まないかぎり、(それは)常に可能である」
と述べて、論理的無矛盾性を「可能性」と捉える 8。だから、「方形の円」のような論理矛盾を含む概念は「不可能」 でも、「二直線で囲まれた図形」の概念は「可能」だろう 9。しかし、論理的な無矛盾性が概念の可能を示すとしても、
概念の可能性が経験的対象の可能性と同じでないことは自明である
。実際、経験的対象として、「二直線で囲まれた 10
図形」が可能かを考えればよい。そもそも「二本線」では、経験的に何物をも囲めないだろう。だから人間はそのよ
うな図形を直観できない。誰もそれを見たことはない。そして、感性的に直観できないものは実在性をもたないの
で、誰も、この概念によって考えられる「対象」や「物」の可能を経験的に認識しえない
。つまり、概念はありえて 11
も、概念の対象が実在しないので、それを直観できない。要するに、「二直線で囲まれた図形」という概念の可能が
主張しうるとしても、その主張には「経験や経験的法則を欠いている」ので、それは「根拠のない主張」だというこ
とになる。
こうしてカントは論理的可能性と実在的可能性に明確な定義を与える
。簡潔にまとめると、可能性は、それを広く 12
論 説
捉えれば、「思惟の諸条件(Bedingungen des Denkens)」との一致だとされ、原則として、それとの一致は可能で
あり、不一致は不可能である。そして、思惟の諸条件の内、分析的な諸条件との一致は論理的な可能であり、経験的
な諸条件との一致は実在的な可能である。ところで、分析判断の最高原則は「矛盾律」だから、それに反しないこと
が論理的可能性の本質となる。これに対して、「事実認定」のような総合判断は経験判断だから、実在的可能性は「思
惟の諸条件」のみならず「経験」の諸条件が関連してくることになる。そして、経験は直観に与えられた対象の実在
性を基盤とするから、「物の可能性」が問題になるとき、物の実在性が大前提になる。
つまり、単に「概念の可能」だけを示す論理的可能性ではなく、経験的な「物の可能」を示す実在的可能性を主張
するためには、実在的事実を判断の基礎とし、経験的法則に依拠した判断である必要がある。だからカントは言う。
実在的可能性の判断について、そこに経験や経験的法則による基礎づけが欠けるのであれば、たとえ判断内容に論
理的な矛盾がなくとも、その判断は「勝手な思考の結合(willkürliche Gedankenverbindung)」にすぎず、とても
「客観的実在性を要求できる分際のものではない」
、と。このようなカントによる実在的可能性の把捉に対し、ハイ 13
デガーは、率直に、それをオントローギッシュな可能性概念だと解説している。カントの可能性は、「事象の事象内
実性(Sachhaltigkeit einer Sache)」に関わっているが故に、レス(res:事物)に帰属しており、それ故に、レアー リス(realis:実在的)であり、レアリタス(realitas:実在性)だと考えられる
、と。このように、実在的可能性 14
概念が伝統的存在論で考察されてきた「可能態」とか「可能的存在(Mӧglichsein)」の問題とパラレルに捉えられ
るならば、カントが、「物」すなわち「経験の対象」の可能性を考察する中で、論理的可能性と実在的可能性の概念
内容を明確に区別して、「概念の(論理的)可能から物の(実在的)可能を推論してはならない」と警告しているこ
との重要性を理解できるだろう
。この警告は、経験的な事実の認識において、ただ論理的可能性に依拠して考察する 15
恵庭事件-第二次再審請求棄却決定への批判(宗岡)
だけであれば、「勝手な思考の結合」に帰着し、認識を誤らせる危険があることを戒めている。カントのいう「勝手
な思考の結合」とは、思考が客観的な実在を捉えず、客観的な実在とは無関係に、ただ頭の中で表象を「もてあそぶ」
ような状態であり、別の文脈でカントが使っている「妄想(Hirngespinst)」という言葉と同じ意味である
。 16
カントの警告は、ドイツの哲学が「独断論」に陥る可能性を警告したものであるが、恵庭事件の諸判決・諸決定の
中にも、この種の根拠なき「勝手な思考の結合」もしくは「妄想」をいくつも指摘しうる。先のタイヤの損傷に対す
る一・二審の事実認定は「妄想」の好例である。さらに、第一次決定が、被害者の遺体は「独立燃焼」したと判断し、
一〇リットルの灯油でも本件遺体のように高度に炭化する可能性を認めたこと、本決定でも、脂肪の独立燃焼が生じ
る可能性を認めたことは、いずれも、カントが指摘する「経験的法則による基礎づけ」を欠いている点、やはり「妄
想」というべき「独断論」である。つまり、第一次決定でも本決定でも、「脂肪の独立燃焼があった」と認定されて
いるが、各々の認定を支える実在的事実は、決定書のどこにも特定されていないし、「脂肪の独立燃焼があった」こ
とを科学的な経験知によって証明している箇所もないからである。
いうまでもなく、脂肪は可燃物だから、「脂肪の独立燃焼があった」という判断は、矛盾を内含しないので、論理 00000000000000000000000000000000000000
的に可能である。しかし、決定的に重要な論点だが、この論理的可能性を超えて、実在的可能性があったことを裁判 000000000000000000000000000000000000000000000000
所は示していない 00000000。実際、本決定のどこにも、独立燃焼があったという裁判官の認識に一致する事実は示されていな
い。それは、カントの論理から見れば、「独立燃焼が生じた」という実在的可能性が証明されていないことを示す
。 17
つまり、本決定は、「脂肪は独立燃焼しうる」という命題の無矛盾性つまり論理的可能性から、如何なる実在的事実
を示すことなく、本件遺体に「脂肪の独立燃焼が生じた」と推論しているだけである。本決定は、「独立燃焼」があっ
たという理由で再審開始請求を棄却したが、その推論の内容をみれば、カントが指摘した「概念の(論理的)可能か
論 説
ら物の(実在的)可能を推論してはならない」という警告を無視した「勝手な思考の結合」であったことがわかる。
本決定は、認定すべき実在的事実を認定していないだけでなく、あきらかに論理則に違反した「独断論」である。
これに対し、弁護団は、二人の燃焼工学者の鑑定意見を提出し、「脂肪の独立燃焼があった」という認定事実に対
し、科学のレヴェルで反論していた。その見解を簡単に確認しておこう。まず、弘前大学I教授の鑑定意見は、冒頭
に少し引用したとおり、一〇リットルの灯油の燃焼エネルギーでは、体重を九キログラム減少させ、本件遺体のよう
な高度な炭化状態を惹起することは不可能だと理論的に実証した。これは、恵庭事件を考えるとき、基準とすべき科
学的知見の一つである。I教授は、その上で、脂肪の独立燃焼に関しても意見を述べ、外部から供給された入熱量に
応じて脂肪が溶け出るので、入熱源である灯油の燃焼が終われば、その後も、脂肪が燃焼し続けることは不可能だと
主張した。さらに、豊橋技科大N教授の鑑定意見は、雪面上の死体に一〇リットルの灯油を掛け、五リットルの灯油
が衣服に残存したという前提で、灯油に点火し、二〇〇秒間、最大燃焼状態を継続して燃焼させたとしても、皮下脂
肪層(皮膚下六ミリメートル)の温度は一〇〇度に達する程度であり、脂肪の引火点である三〇〇度に達しない。し
たがって、本件では、皮下脂肪が燃えだす状態にまで至らず、それ故、遺体の体重が九キログラム減少することもな
いと指摘した。
このように、有罪を導いた裁判所の可能的推論が論理的可能性のレヴェルにとどまるのに対して、弁護団は、遺体
焼損に関する実在的な事実と検証実験から得たデータを示して、脂肪の独立燃焼を認定した第一次決定の論理は科学
的に成り立ち得ないと批判した。しかし、本決定は、I教授およびN教授の燃焼工学的な知見に真正面から反論する
ことなく、各々の鑑定意見書で設定された前提が「燃焼条件を過小に見立てている」が故に不適切だと批判し、脂肪
の独立燃焼は証明されていないとする弁護団の主張を退けた
。 18
恵庭事件-第二次再審請求棄却決定への批判(宗岡)
たとえば、燃焼に関して、I教授やN教授による鑑定意見の前提では、炎は死体の上にあることになっている。し かし、遺体の背部が高度に炭化している事実を考えれば 0000000000000000000000、雪面と背部との間に空間ができて、そこに空気が入って燃 焼が生じ、遺体の下からも炎が生じたはずであると指摘し、弁護団の鑑定はそこを見落している 000000000と批判する。また、
遺体に残された「大小深浅様々な割れ目や裂け目」を考えれば、燃焼過程で、熱が「割れ目等の隙間から皮膚組織内
部により直接的に及ぶことがあったこともほぼ間違いない」ことだが、N教授の前提では、「割れ目や裂け目」を通
して遺体に作用した複合的な熱伝導が考慮されていないと批判する(「本決定」二四頁)。つまり、本決定は、背部の
高度な炭化という実在的事実を示し、現実の燃焼は、I教授やN教授が設定した前提より、さらに複雑な過程を経
て、脂肪の独立燃焼を伴いながら、より効率的に遺体を燃焼させたと認定している。
このようなI教授やN教授への反論からも了解しうることだが、本決定は、遺体の背部にみられる高度な炭化を伴
う燃焼痕と、遺体に「大小深浅様々な割れ目や裂け目」ができているという実在的事実を重視し、本件での「燃焼条
件」は、脂肪の独立燃焼を併発した結果、遺体の上からも下からも、激しく燃焼したかのように書いている。しかし、
遺体の現実が示す実在的可能性は、遺体がきわめて高いエネルギーで燃焼したことを示すだけである 00000000000000000000000000000000000000000000。つまり、遺体 からわかることは、遺体がかなり激しく燃焼したという事実のみであって、本決定のように、この事実から、一〇リッ 0000000000
トルの灯油のエネルギーに脂肪が独立燃焼したエネルギーが加わって、本件遺体のような状態を惹起したのだと推論 000000000000000000000000000000000000000000000000000
すること自体、単なる論理的可能性に基づく推論でしかない 00000000000000000000000000。それはただ「脂肪の独立燃焼」という概念の可能を示
すのみで、「脂肪の独立燃焼があった」という事実は、依然として、立証されていないのである。このような本決定
の「事実認定」に「真実性」は皆無であることを次に検証しよう。
論 説
三 真理の論理学と仮象の論理学
カントは論理的可能性から実在的可能性を推論してはならないと警告した。そのような推論は、「勝手な思考の結
合」に帰着し、「妄想」を生み出す母体である、と。私は、このカントの警告ほど、日本の刑事司法が真摯に反省す
べきことを示す箴言はないと思う。本稿では検討しえないが、古くは帝銀事件や松川事件、近くは東電OL殺人事件
や足利事件など、多くの誤判事件や誤判が疑われる事件において、裁判官は、論理的可能性をベースとした検察官の
「ストーリー」があたかも実在的事実であったかのように認定し、「ストーリー」が「ストーリー」のまま「罪とな
るべき事実」として有罪判決に記載された。
恵庭事件でも同じことが繰り返されている。本決定は、確定判決の「罪となるべき事実」を大筋で認め、さらに「脂
肪の独立燃焼」が生じたという第一次決定の認定も肯定した。しかし、いずれの認定についても、論理的可能性から
「脂肪の独立燃焼」という概念を推論するだけであり、その推論は直観に捉えられる実在的事実に支えられた「脂肪
の独立燃焼」を示していない。しかし、カントが指摘するとおり、直観なき概念は空虚である。空虚な概念は、論理
の「正否」を判定できても、論理の「真偽」を判定できない。カントによれば、「真理とは、認識とその対象との一致」
だから
、刑事裁判の場合、刑訴法一条が求める「事案の真相を明らかに」するために、「裁判官の認識」と「認識の 190000000000000000000000000000000000
対象たる実在的事実」とが特定された上で、両者の「一致」が証明されなければならない 000000000000000000000000000000000000。 つまり、カントによると、「真理」を明示するためには、個別的な認識内容を度外視した 00000000000000ところに成立する形式論 理学(カントは「一般論理学」と呼ぶ)ではなく、それとは別に、個別的な認識内容に関連した 0000000000000ところに成立する論