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「執筆禁止時代のケストナー(1)」
佐 藤 和 夫
1.はじめに
本稿は1933年から1945年にかけてのいわゆるドイツ第三帝国下でのエーリヒ
・ケストナーの活動の跡をたどろうとするものである。その間に公けに発表さ れた,あるいはされなかった作品に関する考察は次稿で第H部として取扱うこ ととする。
この時期の活動をたどる上での基礎的な文献はケストナーの二っの全集,
① Gesammlte Schr ifter17Bde.1959
② Gesammlte Schriften f廿r Erwachsene 8 Bde.1969
であり,特にそのうち新聞・雑誌への寄稿文と講演原稿は貴重な記録となって いる。そしてこれらには収録されていない彼が母に宛て出した手紙を編集した
《Mein liebes, gutes Muttchen, Du!》,1981
は十分とはいえないが,期日を同定し,行動を確謬する上で重要である。
伝記としてはケストナーの伴侶であったルーイゼロッテ・エンダーレの
《Erich K苔stner in Selbstzeugnissen und Bilddomenten》,1975
がある。これは妻が夫のことを述べた伝記であるので批判する研究者がないで ヘないカi,刊行本として長らく些のまとまった伝記であ6,ケストナーの生 涯と作品を概観する上で重宝なものであった。これを無視してケストナーについて書くことはできない。
最近になってようやくエンダーレの記述を批判的に消化しながら,独自に収 集した資料を駆使した詳細な伝記が登場した。それがヘルガ・ベンマンの
《Humor auf Taille Erich Kastner−Leben und Werk》,1983 である。本書の著者は東ドイツに所属しているので,資料の点ばかりでなく,
叙述の上でもユニークな視点を提供してくれている。
そして邦文文献としては高橋健二氏が長年のケストナー紹介と彼の個人的交 流の上に立って書き下ろした
『ケストナーの生涯』(1981)
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がある。
本稿(第1部)は主としてこれらの文献に依拠しながら,特に第∬部につな
げる上で重要な事項を取り上げ,問題点を整理した。
2.1927年〜1933年のケストナー
筆過事件による1927年のライプツィヒからベルリンへの移住はケストナーに とっては災難のはずであった。しかし当初の惨めな状況は一転して順調な歩み をたどることになった。それまで新進のゲルマニストそして詩作する駆け出し のジャーナリストにすぎなかった彼はベルリンで詩人としてまた作家として地 位を確立するに至る。ケストナーは文筆家として公然の活動ができなくなるま での間に4つの詩集,長編小説を一編,それに5冊の子どもの本を出し,彼の 文学者としての生涯のうち最も多産な時期を送った。事態が何事もなくこのま ま推移すれば,おそらく彼はさらに円熟した作品を我々の前にみせてくれたこ
とであろう。しかし実際は周知のようにそうはならなかった。
ナチがしだいに権力に近づき,それを獲得し,やがて自分自身の本が公衆の 面前で焼かれるに至る過程をケストナーは次のように簡潔に記している。
「彼ら,あの権力の花火師たちは拒火と火をいじくりまわしたのでした。そ
れは国会議事堂が燃えることで始まり,総理官房が燃えることで終わりました。それはたいまつ行列で始まり,火葬で終わりました。国会の火事から焚書
の間,つまり1933年2月27日と5月10日の間は,彼らはマッチもガソリンも 用いずに活動しました。タールもイオウも要りませんでした。こんなふうにうまくいったのです。陸軍元師兼大統領は軍営教会で降伏しました。3月21 日のことでした。2日後には社会民主党を例外として他の諸政党が降伏しま した。一週間後には諸州がr統合』されました。4月1日にはユダヤ人のボ イコットが演出されました。この演出はうまくいかなかったので,一時的に この血なまぐさい演目は上演計画からはずされました。4月7日にはナチの 地区指導者が地方長官とされました。5月2日には労働組合が解散されまし た… 万事,事もなげに運びました。5月10日にはまた火が必要になりまし
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ス。本のために。」
この5月10日のゲッベルスの音頭取りによって行なわれた火刑によってケス トナーを含めて24名の著作家の書物が焼かれた。そのとき火刑執行側がケスト
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ナー他2名の作家の本を焼くにあたって唱えたスローガンは
「退廃と道徳的堕落に反対して!
家庭と国家における訓育と風紀のために/
ハインリヒ・マン,エルンスト・グレーザー,エーリヒ・ケストナーの著作 4を炎にゆだねる」
というものだった。
3.1933年におけるケストナーの判断
1933年2月27日,国会議事堂が炎上したとき,ナチへ権力が移ろうとする重 大な時期に,ケストナーは休暇旅行でスイスのチューリヒに滞在していた。そ の滞在先ヘドイツから続々と亡命者たちが到着した。彼らは当然ながらこれか ら再びドイツへもどろうとするケストナーに思いとどまるように説得した。し
かし彼はそれに応じないでベルリンにもどった。
この時点でかなりの人たちがドイツの政治体制の危険性を認識し,その体制 下で生きることに見切りをつけたわけである。それにもかかわらずケストナー がドイッへもどったことは戦後も問題とされた。ドイツ国内でしか作家として 生活が成り立たないわけではなかったからである。さらにケストナーが亡命で きるチャンスはこの時ばかりではなかった。1937年にはすでに亡命していた画 家のヴァルター・トリアーと協同で新しい作品をつくるためにザルツブルグへ 出かけており,翌1938年には再びチューリヒ,そしてロンドンへ旅行している のである。この点については戦後アメリカ軍のCIC(防諜部隊)からも疑惑の 目を向けられ,ケストナーは尋問をうけた。そのときの主尋問官はドイツ国内 は危険だったのだから当然亡命するべきであったという観点からケストナーを 責め,一方ケストナーはヒトラーは必ず敗れるはずだから「時代の目撃証人」
でありたかったのだとする彼の持論を展開するが,両者の食い違いは結局かみ
あわないままに終わっているξ
ケストナーを良く知る一人である作家のヘルマン・ケステンはケストナー全 集に寄せた解説文で亡命しなかった理由を4つ掲げている竃
① 母のため
② 将来起こるであろう残虐行為の目撃証人となるため
③ ナチ独裁の小説を書くつもりだったこと
④ 将来,その独裁の告訴人となるつもりだったこと
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36 佐 藤:「執筆禁止時代のケストナー (班
このように理由はいくつか列挙できるが,結局,ベンマンがその伝記の中で 認めているようにナチのシステムにひそんでいる危険性を過少評価したことが
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ナ大の原因であろう。事実ケストナーと同じ判断に立っていた仕事仲間の画家 エーリヒ・オーザー,編集者・作家のエーリヒ・クナウフは戦争末期に捕えら
れ,死を免かれることができなかったのである。
では,ケストナーがナチ体制下をかろうじて生き延びることができたのは偶 然だったのだろうか。そうだと単純には言えない。というのは彼は禁止された 作家ではあったが,完全に孤立して生活していたわけではない。ケストナーに 近づいた後のたたりを怖れて離れていった人もいた反面,相変わらず彼のこと
を気づかってくれる友人,その才能を利用しようとする知人も少なくなかった。
1945年3月にケストナーをベルリンから脱出させた映画会社UFAのロケ隊のリ
一ダー,エーベルハルト・シュミットもその一人である。マンクのようにケスト
ナーが絶えず,表向きはともかくとしてUFAの関係者とコンタクトを持ち続け 彼らの仕事に協力したことが,結果として生命の安全につながったという解釈をする人もいるξ
4.執筆禁止
4.1 ケストナーを禁止するための準備
ケストナーを執筆禁止にするための具体的な準備は1933年2月から3月にか けて行なわれた。ゲッベルス宣伝相の依頼を受けた図書館員ヴォルフガング・
ヘルマンがその処分に値する作家のリストを作成していたのである。このブラ ックリストには第3帝国で望ましくないとされたすべての作家が載せられた。
そのねらいは
① 望ましくない作家の出版を禁止し,図書館から排除すること。
② 「マルクス主義」と「ユダヤ主義」の本を焼却すること。
だった。
ケストナー以外にこのリストに載せられた著作家はブレヒト,ハインリヒ・
マン,トーマス・マン,プリーヴィエ,レマルク,シュニッツラー,トゥホル スキー,ラーテナウ,エルンスト・グレーザー,ボルガー,レルネット・ホレ 一ニア,ホイス,フロイトらであった。その他にシンクレア,バルビュス,ゴ 一リキー,ウェルズ,ジャック・ロンドン,ドス・パソス,ハシェク,ヘミン 9
Oウェイ,ジョイスの翻訳も載せられていた。