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ゲルストナーの貸借対照表分析論

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(1)

ゲルストナーの貸借対照表分析論

その他のタイトル P. Gerstner's Viewpoint of the Financial Statements Analysis

著者 植野 郁太

雑誌名 關西大學商學論集

巻 33

号 4‑5

ページ 594‑609

発行年 1988‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00020570

(2)

3 0 8 ( 5 9 4 )  

関西大学商学論集第3

3

巻第

4•

5号

( 1 9 8 8

年1

2

月)

研究ノート

ゲルストナーの貸借対照表分析論

植 野 郁 太

ま え が き

ここには削除したが,本稿の末尾には昭和

1

F4

9

日の日付とともに,こ れが1

7

年度における大学院での研究成果として論文の提出を命ぜられ,急に執 筆したものであると記されていた。私は関西大学経商学部を,戦時中の大学卒 業繰上げ措置により

1 6

年1

2

月に卒業したが,在学中に先任の高木秀玄教授

( 6 2

7

月没)のあとを受けて1

8

4

月からは会計学・経営学専攻の大学院特研生

となることが予定されていた。本稿は任命時に必要とされたのであろう。

この原稿は実に45年の長きにわたり書架のすみにしまいこまれていた。しか し今度,商学論集の小生退職記念号が出されるにあたり,そこに掲載してもら うことにした。不備の点も多いが,往時を偲ぶよすがとしていっさい手を加え ず,仮名使いもそのままとした。読みづらい点,読者諸賢の御寛恕を得たい。

会計を経営指導に当つて利用せんとした最初のものはプリス

( B l i s s )

に於てである。

乍然プリスの説明する所は結局従来「企業の信用決定」の為に用ひられて居たウォール

( W a l l )の創案にかヽる財務諸表の比率分析を利用拡大したまでのものに過ぎない。こ

れがシユマルツ

( S c h m a l t z )によりドイツに紹介され「経営分析」「貸借対照表分析」

等の名を以つて,一層理論的に深められた。

乍然経営指導に当つての規準はか~る貸借対照表や損益計算書を基礎として得たも

(3)

ゲルストナーの貸借対照表分析論

( 5 9 5 ) 3 0 9  

ののみで満足され得る如きものではなかつた。それは更に原価計算を基礎とする「経 営比較」となり又経営比較の前提をなす所謂経営計算の勃興を見た。

ゲルストナー

( G e r s t n e r )

の貸借対照表分析論は此経営分析より経営比較への過渡期 に於て,従来経営分析として取扱はれて居たものの限界を「貸借対照表分析は貸借対照 表及び損益計算書上の各数字に生命を与へるものである」との見解より明瞭ならしめ たものである。此意味に於てゲルストナーの分析論は従来の経営分析論に自己反省の 機会を与へたものとして重要視されるべきであると思ふ。

以下私は此点に関し少しく述べて見たいと思ふのである。かヽる目的の下に本論文は

1 .

シュマルツ経営分析論の立場と其経営分析の二大分類説

2 .ゲルストナーのこれに対する批判及び彼の特質

3 .

ゲルストナー貸借対照表分析論の立場並に此れがシュマルツとの相進

4 .

ゲルストナーの貸借対照表及び損益計算書に対する見解

5 .

ゲルストナー貸借対照表分析に於ける客観的目標 6 .結語—貸借対照表分析乃至経営分析の限界

より構成されて居る。此処にシュマルツを引合に出したのは彼の説が一般通説となつて 居り,且つゲルストナーも理論の展開に於て屡々彼を引用して居るからである。

今日の所謂貸借対照表分析に関する幾多の著書の中最もよく纏つたものとして一般 に認められて居るのはシュマルツの「経営分析論」である。我々は先ず彼の立場の説明

I)

より初める事にする。

シュマルツは「経営分析」に対する積極的な概念規定をして居らないのであるが,彼 が「それが今日貸借対照表分析と名付けられ,又経営分析,貸借対照表批判と名付けら

2)

れようが,兎に角すべての経営経済的分析はそれ自らの目的をそれ自体の内に見出さん とする時には無意味なものとなる。それらは軍に目的に対する手段として,従つて又経

. . . . . . . . . . . . .  

営経済的諸関聯認識の為の手段として存在し得るに過ぎない……」と述べて居る事に

3)

徴しても明かなる如く,彼は「経営分析」を以つて貸借対照表並に損益計算書等に依る

. . .  

経営経済的諸関聯の分析であるとする見解を有して居るのである。

ヵ >る観点よりして彼は更に

(4)

3 1 0 ( 5 9 6 )   33 巻 第 4• 5 号

1 .   今日まで多くの経営分析論が発表され,そこに色々な手段方法が説明されて居るの は結局経営分析目的が種々である事に墓くものである。換云すれば「或る分析が他の 分析と区別されるのは夫々の場合に於て使用される資料の範囲又は特質により規定さ れる所の方法によるのではなく,分析の目的即ち其恩識目標に依るものである」とな つて居る。かくすれば認識目的の相遮により夫々に異つた経営分析が成立する事にな ると云はねばならない。此場合に於ける各経営分析は経営経済分析の特殊的実際的方 法に関する研究である。彼はこれを「経営分析に於ける実際的問題」と名付て居る。

4)

2 .   他方或る一つの経営経済に見られる根本的諸関係,諸関聯は此等全ての分析に対し 同一のものである事は多言を要せぬ所である。唯或る目的の為にする分析に於て重要 視される関係が他の目的の為にする分析に於ては餘り重要視されるに至らないと云ふ 事が生ずるに過ぎない。故に一應此等の具体的目的から離れて,全ての根本的諸関係 諸関聯を見て行く事も必要である。即ちこゞに於ては「各経営分析目的は一應無視せ られ………経営経済の静態並に動態に於て与へられて居る経営経済的諸関係,諸関聯 が解明されねばならない。此意味に於てそれは経営経済理論とも云い得べく,又かヽ る研究の成果は,それが経営経済の諸関聯の認識である限りに於て,それ自体存在理 由を有するものである」となし,彼はこれを先の第一類のものに対して「経営分析に 於ける根本的問題」と名付けて居る。

5)

以上に於て我々は,彼の云ふ経営分析は二つに大別される事を知つたのであるが,更 に先にも一言した如く此第一類は其目的の異なるに依り夫々の経営分析が存在する事 になるのであって,彼はかヽる目的の重なるもの,並にそれに基く各種の経営分析を 一覧的に

1 . 内部目的の為にする経営分析 2 . 外部目的の為にする経営分析

a . 信用授与者の見地からする経営分析,主目的は短期信用授与に当つての企業の 信用能力の批判

b . 資本授与者の見地からする経営分析,主目的は長期倍用授与又は祉債株式等の 引受に当つての当該企業の確実性,収益性の批判

c . 経済新聞の見地からする経営分析,主目的は資本授与者の利害関係を十二分に 考慮した経営指導及び其経営収益の判断及び批判

d . 官庁統計に基き国民経済的見地からする経営分析,主目的は企業全般の発展的

(5)

ゲルストナーの貸借対照表分析論(植野)

傾向の判断並に共決定 等を示して居る,

注6)

以上の如き目的の分類は,大体米国に於けるかゞる研究に関する諸著書より帰納的 に得られたものと云ふも過言ではない。元来シユマルツの分析論は米国に於ける分析論 から出発して居る。彼は先ず「米国に於ける貸借対照表分析と経営分析」なる一書を発

7)

表し,次にそれに一歩を進めて「経営分析の理論的問題を解明する」目的を以つてもの

注8)

したのが,此処に引用しつヽある「経営分析論」である。かくの如しとすれば展々指摘 されたる如く,彼の分析論が米国の分析論の色彩を多分に含んで居る事も又止むを得

( 5 9 7 ) 3 1 1  

ない所である。経営分析目的の異なるに従ひ,夫々の経営分析が存在するに至ると説明

注9)

するのもかヽる米国の分析論発展の跡付けの結果得た結論であろう。又かゞる結論より 一歩通つて考へる事により,先に述べたるが如く,それに何と云ふ名称が与へられよう とも兎に角今日行なはれて居る分析論は何ら自己目的的なものではなく, 目的に対す る手段としてのみ存在理由を有するものであるとしたのであると思はれる。

(注

1) S c h m a l t z ,   B e t r i e b s a n a l y s e ,   S t u t t g a r t ,   1 9 2 9 .  

(注

2)

此用語はJレ・クルートの初めて使用せる所である。

v g l .   l e   C o u t r e ,   P r a x i s  d e r  B i l a n z k r i t i k ,   B e r l i n ,   1 9 2 6 .  

(注

3) S c h m a l t z ,   a .  a .  0 .   S .  3 .

尚傍点は私の勝手につけたものである。

(注

4) " P r a k t i s c h e  P r o b l e m e  d e r  B e t r i e b s a n a l y s e " ,  S c h m a l t z ,  a .  a .  0 .   S . S .  3 ‑ 5 .  

(注

5) " G r u n d s i i t z l i c h e  P r o b l e m e  d e r  B e t r i e b s a n a l y s e "  S c h m a l t z ,  a .  a .  0 .   S .  S .   3 ‑ 5 .  

(注

6) S c h m a l t z  a .  a .  0 .   S .  7 .  

(注

7) S c h m a l t z ,   B i l a n z ‑ u n d  B e t r i e b s a n a l y s e  i n   A m e r i k a ,   S t u t t g a r t ,   1 9

(注

8) S c h m a l t z ,   B e r i e b s a n a l y s e ,   V o r w o r t .  

(注

9)

シュマルツが米国分析学者中特に大なる影響を受けたと思はれるのはプリス である。特に

B l i s s ,F i n a n c i a l  and O p e r a t i n g  R a t i o s  i n   Management, New  Y o r k ,   1 9

磁.は彼の「経営分析論」中に於てでさへ尚属々引用されて居る。

I I  

米国の経営分析論を見る時我々はシュマルツが指摘せる如く,経営分析に当つての目

1)

(6)

3 1 2 ( 5 9 8 )  

3 3

巻 第

4 ̲ • 5

的が最後決定的,第一次的役割を演ずるものででもあるかの如き感を懐かしめられる のである。各分析論の著者の夫々の立場観点の相遣により共処に展開される分析の方 法及び内容等に大いなる相遮を来して居る事は,何人も此れを見逃し得ないであろう。

ウオール

( W a l l )

,シュルクー(S

c h u l t e r )等の分析論とプリス ( B l i s s )

,グレゴリー

2) 3) 4)

( G r e g o r y )等の分析論とが,同じく分析論であり乍ら内容的には非常に大なる距りが

5)

ある事は争へぬ所である。前者にに於て見られる「信用決定」なる語は後者に於てはす でに「企業管理の為に」と置換られて居る。かヽる相遣はシュマルツの所謂外的目的の

6)

為にする経営分析と内的目的の為にする経営分析との相遮に外ならない。

シユマルツがかヽる事実に注目し,分析目的の異なるに従つて,夫々の経営分析が成 立するとなしたのも一應尤もである。乍然我々は此処にかヽる分析目的の相遮に基き夫 々成立するとされる所の経営分析が相互に本質的に又根本的に異なるものであるか否 かに付き検討を加へる事が必要である。 ゲルストナーのシュマルツ批判も先づ此点よ り初められる。彼は云ふ「もし色々な見地よりする貸借対照表分析に於て夫々の尺度が

7)

存在し得るならば,分析的研究及ぴ判断の方法も夫々の目的に役立ち得る如く組織的 に形成され得又統一され得るであろう。乍然一般には或る種類に属する分析は,又それ が確立の為の機緑の研究に従事し乍ら,それが更に他の種類の分析に属すべき成果の 一部を与へるとか,又かヽる成果に対し特に重要なる意義を有するに至るとか云ふ事 になるのが普通である。されば敢へてこれ等を区別する必要はない。否寧ろかく区別す る事は却つて誤りに陥るものと云はねばならない。 …•••実際の分析に於て種々の目的 を利用するのは軍に分析的成果を説明するに当りかくする事が一應便宜であると思は れるからであり,又此限度内に於てかくするに過ぎないものと云はねばならぬ」と。

8)

即ち彼はかヽる相遮は何ら本質的なものではなく,便宜的なものに過ぎないとの見解 に立つて居るのである。

かゞる見解よりすれば,分析目的が最後決定的なものであるとするシュマルツの説 明は訂正されねばならないが,此は結局次の二点に要約されると思ふ。

1.  最後決定的な役割を演ずるものが分析目的以外にあり得るか否か,ありとすればそ れは何か。

2 .  

分析目的が最後決定的なものでないとする事は,更にシュマルツが経営分析は何ら 目的的なものでなく目的に対する手段に過ぎないとする点に迄影響を及ぼすものであ るか否か。

(7)

ゲルストナーの貸借対照表分析論(植野)

( 5 9 9 ) 3 1 3  

ゲルストナーはこれらの点に関し,「各々貸借対照表分析者及び利害関係人の見地は

(それが資本授与者であろうが,信用授与者であろうが,将又企業指導者であろうがそ れに拘る事なく)貸借対照表分析に対し何ら最後決定的なものであり得ない。さりとて 年度末決算書の検査官等の国民経済的利害の代謡者がかゞる役割を演ずるものでもな い。最後決定的なものは貸借対照表,損益計算書上の各項目,数字,更には両者の相互 関係により示されて居る経営的,財務的諸方策の内部有機的関係それ自体より当然に帰 結されて来る所の客観的顕照に基く経営的諸事象の分析的構成のみである。かヽる客 観的分析により得られたる諸関係が差当ての利害関係人の主観的立場より種々の外観 を呈せしめらるヽに至る。換云すれば夫々の特殊的顕照効果を有するに至るのである」

9)

と説明して居る。

即ち彼は此処に於て,最後決定的なものは貸借対照表並に損益計算書それ自体の内 に示されて居る経営的諸事象の分析的構成なりとして居る。而してかヽるものは,シュ マルツが経営分析に於て最後決定的なものは経営分析目的であると云ふ場合のそれと は少しく事が遮ふ。ゲルストナーが最後決定的なものとして提示せる所はすでにそれ 自体経営分析の終局目標とも看倣され得る所のものである。彼自身も又かく考へて居 るものの如く「経営分析の目標は多くの人にとかく無味乾慄な貸借対照表上の数字,

項目に示されて居る経営的諸関聯を読者に理解せしめる事である……」と言明して居

注10)

る。即ち彼に於ては最後決定的なものとして示された所のものは同時に最終目標とし て生きて居る。かヽる最後決定的なものを解明するのが彼の貸借対照表分析なのであ る。

かくして彼は貸借対照表分析(シュマルツの所謂経営分析)を以つて何らかの目的 に対する手段として考へる事なく,「貸借対照表並に損益計算書上の各数字,各項目に 生命を与へるもの」即ち此両者の実質的内容把握なりとして其自体に自己目的を有す

注11)

るものなりとする見解を有して居るのである。ゲルストナー分析論の特徴は此処に求め る事が出来るのである。

而してこ叶こ尚注意すべきはシュマルツが各種実際的経営分析目的とは一應分離さ れた「経営分析に於ける根本問題」を提唱して居り,ゲルストナーの説く所はこれと 如何なる相途を有するかの問題である。

(注

1)

米国に於てそれは一般に「財務諸表分析」

A n a l y s i s   o f   F i n a n c i a l   S t a t e ‑

(8)

3 1 4 ( 6 0 0 )   第 33 巻 第 4 • 5 号

mentsと呼ばれて居る。しかし,これに統一されて居ると云ふのではない。

( 注 2‑6

参照)しかし経営分析なる術語は全然使用されて居ない。

( 注 2) W a l l ,   The B a n k e r ' s  C r e d i t  M a n u a l ,   I n d i a n a p o l i s ,   1 9 1 9 .  

W a l l   &  D u n i n g ,  R a t i o  A n a l y s i s  o f  F i n a n c i a l  S t a t e m e n t s ,   New Y o r k ,   1 9 2 8 .  

W a l l ,   How t o   e v a l u a t e  F i n a n c i a l  S t a t e m e n t s ,   New Y o r k ,   1 9 3 6 .  

( 注 3) S c h u l t e r ,   C r e d i t ‑ A n a l y s i s ,   New Y o r k ,   1 9 2 5 .  

( 注 4) B l i s s ,   F i n a n c i a l   and O p e r a t i n g  R a t i o s   i n   Management,  New Y o r k ,   1 9 2 3 .  

B l i s s ,   Management t h r o u g h  A c c o u n t s ,   New Y o r k ,   1 9 2 4 .  

( 注 5) G r e g o r y ,   A c c o u n t i n g  R e p o r t s  i n   B u s i n e s s   Management,  New Y o r k ,   1 9 2 8 .  

( 注 6) K r a f t   &  S t a r k w e a t h e r ,   A n a l y s i s  o f  I n d u s t r i a l   S e c u r i t i e s ,   New Y o r k ,   1 9 3 0 ,   p p .   2 3 ,   e t c . ,  

( 注 7)

ゲルストナーは経営分析なる語をさけ,貸借対照表分析と云つて居る。其理 由は後に触れる所である。故にこゞでは軍にゲルストナーの云ふ貸借対照表分 析はシュマルツの経営分析に相当するものである事を指摘するに停める。

( 注 8) G e r s t n e r ,   B i l a n z ‑ A n a l y s e ,   B e r l i n  und L i p z i g ,   1 9 3 3 ,   S .   3 6 3 .  

( 注 9) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .   3 6 3 .  

( 注 1 0 ) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .   3 6 1 .  

( 注1 1 ) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .   3 6 2 .  

I l [  

次に我々はシュマルツが第二類として掲げた「経営分析の根本問題」に対しゲルス トナーが如何なる態度を採つて居るかを見なければならない。乍然彼はシュマルツの此 第二類に関しては餘り言及して居ない,唯シュマルツが此を以つて「経営経済の静態 並に動態に於て与へられて居る根本的経営経済的諸関係,諸関聯の解明」であるとな

I)

し,経営分析とは「経営経済の分析の全範囲に亘る」ものなりと述べて居るに対し,も し彼の言ふ如く,「経営経済の全範囲に亘るものとすれば・・・・・・・・・其出発点は軍なる年度 末決算書以上のものでなければならない」と述べて居るに過ぎない。故にこヽに於ける

2)

両者の相遮を明瞭ならしめる為には,両者の分析論に於ける立場出発点とでも云ふべき ものを遡つて見なければならない。

(9)

ゲルストナーの貸借対照表分析論(植野)

( 6 0 1 ) 3 1 5  

シュマルツの立場はすでに本論文の最初に於て説明した。彼の狙ひは要するに貸借対 照表並に損益計算書による「経営経済の分析」である。換云すれば貸借対照表並に損益

. . .  

計算書の綜合的判断による経営経済的諸関係,諸関聯の解明と云ふ事である。彼が「経 営分析の実際的問題」に対し「経営分析の根本的問題」を掲げたのも結局に於ては,

前者に於ては共経営分析目的に制約され全ての経営経済的諸問題が取上げられないと 云ふ不都合に陥るが故に,此を補ふ意味に於て,後者を持出したものと考へられる。

いづれにしても両者共に貸借対照表並に損益計算書を手段として経営経済的諸関係,

. . . . .  

諸関聯を認識する事を目的とするものなる事は疑問の余地なき所である。此立場に於 ては其目的を捉へて来て「経営分析」と称するも又其処に利用させる手段を捉へて来て

「貸借対照表分析」と云ふも,其意味内容は同ーである。両者いづれを可とするかは軍 に術語の詮索に過ぎない事となる。

此に反してゲルストナーは「貸借対照表分析の目標は多くの人々にとりとかく無味 乾燥なる貸借対照表上の項目,数字に示されて居る経済的諸関聯を読者に理解せしめ る事である。 ……換云すれば貸借対照表上の各数字を経済科学的認識と云ふ松明を以 つて照す事である。かく見れば分析的研究の目標は数字に生命を与へる事に存するの である。 ……すべての企業関係者に各企業批判に当つての客観的批判の触手を与へる 事である」と明言して居る。即ち彼は貸借対照表並に損益計算書の実質的内容把握を

3)

問題として居る。換云すそばそれは貸借対照表並に損益計算書それ自体の分析的判 断に関するものである。それは言葉の正しい意味での「貸借対照表分析」であって「経

4)

営経済の分析」と云ふ意味に於ける「経営分析」とは別個のものとして考へられねば ならない。彼自身も此点を指摘し,経営分析に関しては「1

9 2 8

年出版の私の別著「経 営分析論ー経営経済に於ける合法則性隠識の為に」に示されて居る私の全く独創的見 解を参照され度。そこに於て私は営業中の経営分析的研究をなさんと試みた。そして 箕慨料限衰令炉ぎヲれがさ全く別個の目的を有する事を知らねばならないのである」

5)

と述べて居る。要するに両者の相遣はこれを一言にして云へばシュマルツが貸借対照 表,損益計算書を手段として経営経済的諸関係,諸関聯を解明せんとするに対し,ゲル ストナーは,貸借対照表並に損益計算書それ自体の実質的内容把握を目標として居る

. . . .  

事である。

次に我々はかヽる立場の相遣は最後まで持続され得るか否かの問題に触れて見なけ ればならない。貸借対照表並に損益計算書は共に,或る経営経済の活動を勘定形式に基

(10)

3 1 6 ( 6 0 2 )   第 3 3 巻 第 4• 5 号

きて貨幣数値的に把握せる諸会計組織の総元締である。此限りに於て,ゲルストナーの 所謂両者の実質的内容把握は即ち経営経済の諸事象の把握と云ふ事にならざるを得な ぃ。此処に於て彼の求むる所のものはシュマルツの「経営分析の根本問題」として探究 する所に著るしく接近して来る。乍然此場合に於てもゲルストナーの求むる所は貸借 対照表それ自体の分析的把握である。それが結局に於て「経営経済の分析」と一致して 来るとしてもそれは貸借対照表,損益計算書に表はされて居る限りに於ての経営経済 的諸事象の把握と云ふ事であり,「経営経済的諸事象の全範囲」に亘るものではない。

又かゞる意思は毛頭存在しない。更に又夫々の分析者の主観的立場即ち「経営分析目 的」の如何は第二次的なものとならざるを得ない。後者は本論文の I l に触れた如く,ゲ ルストナーのシュマルツ分析論の第一類に対する真正面からの反対として表はされて 居る。後者は,ゲルストナーが彼自身の「経営分析論」に於て主として原価計算並に其 他の統計を利用し当節の最初に於て触れた如く,もしシュマルツの云ふ如く,経営分析

6)

が「経営経済の全範囲に亘るものならば••…•其出発点は軍なる年度末決算書以上のも

のでなければならない」と云ふ一句となつて表はれて来て居るのである。

以上要するにシュマルツとゲルストナーとは其出発点に於て全く異なるものである。

而して両者は貸借対照表,損益計算書それ自体に固有な性質に制肘され各々が実際に・

説明せる所は非常に接近するに至ったが,尚完全な一致を見出す事は出来ない。此事 は具体的には,シュマルツに於ける「経営分析」と「貸借対照表分析」との同ーなる に反し,ゲルストナーに於ける両者の峻別となつて表はれて居ると云ふ事が出来よう。

注 7)

( 注 1) S c h m a l t z ,   a .  a .  0 .   S .  4 .  

( 注 2) G e r s t n e r .   a .  a .  0 .   S .  3 6 2 .  

( 注 3) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S . S .  3 6 1 ,   3 6 2 .  

( 注 4) 一般に「貸借対照表分析」と云ふ時の貸借対照表とはこれを広義に解し,所 謂貸借対照表と損益計算書とを含むものであるとするのが普通である。此点ゲ ルストナーも同ーである。尚此点に関しては本論文 N の所に触れて居る。

( 注 5) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  3 6 2 .  

( 注 6) G e r s t n e r ,   B i l a n z ‑ A n a l y s e ,   B e r l i n  und L i p z i g ,   1 9 2 8 ,   S . 1 2 .  

( 注 7) 小菅教授は共著「貸借対照表分析論」 2 頁術語に閲する説明の所で,シュマ

ルツとゲルストナー両者の「経営分析」が同一内容のものであるかの如く説明

されて居るがそれは誤りである。

(11)

ゲルストナーの貸借対照表分析論(植野)

( 6 0 3 ) 3 1 7  

以上述べた所より明かなる如く,ゲルストナーの貸借対照表分析論は其出発点に於 て一般通説と異つて居る。彼の分析論は文字通り貸借対照表及び損益計算書の分析的 判断である。故に彼の分析論を説明するに当つては先ず彼の貸借対照表並に損益計算 書に関する見解より初めねばならない。

彼の貸借対照表観より初めよう。彼は語源的観察より入り,貸借対照表とは二つの皿

注 1)

のある天秤なりと云ふ。今此天秤の一方の皿に財産を,他方の皿に負債を乗せて見る。

もし財産が負債より大なる時には,天秤の性質上共差額に等しいだけのものを負債を 乗せた側の皿に追加しなければならない。此追加分を今純財産と名付けるとする。此湯 合の純財産はそれが負債的性質を有するとか,又財産的性質を有するとか云ふが如き ものではなく,軍に均衡化目的

B i l a n z i e r u n g s z w e c k

の為のものに過ぎない。軍なる天 秤として見た形式的意義に於ける貸借対照表は大体以上の如くである。

次に我々は其内部有機的本質は何であるかを研究せねばならない。此為には商人の 経済的活動とは如何なるものであるかを知らねばならない。ドイツ商法第

1

條によれば それは商人がより高価に他に譲渡する目的を以つて財を取得する事,並びにこれを実 際に他に再譲渡する事,の二つより成立つて居る。即ち経済活動の手段は交換であり.

其目的は成果獲得である。例へば商人は貨幣を以つて財を取得する。即ち商品購入に 振向ける為に一定金額の貨幣を支出す・る。こヽに於ては貨幣支出と貨幣の振向け即ち 商品一

Geldaufwandund Verwendung a l s  Ware

とが対立する。而してかヽる貨幣支 出はかくして得た商品の他への販売により取戻さんが為である。此目的は,再度の交換 により実現される。こゞに於ては貨幣に振向けんが為に商品が支出される。換云すれ ば財産の支出と財産の振向けられたもの即ち貨幣ー

Verm6gensaufwendungund V e r ‑ m6gensverwendung

ーとが対立する。かくしてこゞに経済活動の循環が行はれる事に なる。

今一定時点に於ける営業的経済的状態の瞬間的描写をなすとすれば,一方に於ては 共時点に於て一企業で振向けられて居る全財産が如何なる価値物より構成されて居る かを研究しなければならず,他方に於ては何人がかヽる価値物を支出したか,又それが 如何なる財産の源泉を構成して居るかを確定しなければならない。而してかヽる財産

(12)

3 1 8 ( 6 0 4 )   第 3 3 巻 第 4• 5 号

の源泉には他人手段と自己手段とがある。前者は固有な意味に於て負債であり,総財 産から負債を引いた残り,即ち純財産とか資本とか呼ばれるのが後者である。かくし て貸借対照表とは会社金融の為に支出されたる一定の手段と,当該企業内に於けるか ゞる手段の経済的振向けとの結合である。より正確には「一定時点に於で企業に支出 されて居る会『 d : 金融の部面たる自己並に他人手段と,これら手段の瞬間的経済的振向 けたる現存の財産有高部面とを,秩序ある薄記の諸原則に基き勘定形式に於て対照せ しめたものである」と定義され得る。

2)

かく所謂静的貸借対照表観の立場に立ち「貸借対照表は財産決定を任務とするもの である」とする彼は損益計算書を如何に説明するのであろうか。彼はこれに対しては

3)

定義らしい定義を与へて居らない。唯「損益計算書とは或る会計期間に亘る全損費と 全収益とを対照せしめたものである。かヽる対照表示により我々は当期間の経済的成 果が訣損であったか,又利益であったかを知る事が出来る」と述べて居るに過ぎない。

4)

即ち貸借対照表が或一定時点に於ける財産表示であるに対し,損益計算書はすでに経 過せる一会計期間の全損費全収益,更に両者比較の結果たる峡損又は純益を示し,成 果決定を其任務とするものであると説明して居る。而して「かヽる成果決定なる任務 を充分に達成せんが為には,かヽる損費並に収益を細大洩さず計算せんとする所謂経

営計算の力を借らねばならないのであって…•••かヽる経営計算により得られた結果の

概括的な一覧表としての損益計算書こそ真に成果対照表の名に値するものである」の

5)

であって,彼はかヽる損益計算書に関る概略的説明を加へ,終りに「不幸にして秩序

6)

ある簿記の諸原則により作成される今日一般に見られる所の損益計算書は即ちドイツ 商法 2 6 1 條

C

の規定と合致せる損益計算書は,かヽる経営計算の結果として示されて居 るそれとは一致しない」と云つて居る。

7)

兎に角彼は貸借対照表は財産決定を,損益計算書は成果決定を其任務となし,両者

は併列的重要性を有するものと解すべく,両者相倹つて,初めて会計本来の目的は達

成され得るもの也との見解を採つて居るのである。かく見れば彼が貸借対照表分析と

云ふ場合の貸借対照表とはこれを広義に解し,財産決定貸借対照表ー Ve r m o g e n s e r ‑

m i t t l u n g s b i l a n z ーたる所謂貸借対照表と成果決定貸借対照表ー E r f o l g s e r m i t t l u n g s ‑

b i l a n z ーたる損益計算書との両者を含むものと解するのが妥当なりと考へられる。又

事実彼の貸借対照表分析は此両者を含んで居るのである。

(13)

ゲルストナーの貸借対照表分析論(植野) ( 6 0 5 ) 3 1 9   注

( 注 1) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  S . 1 ‑ 9 .  

( 注 2) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  9 .   尚山下勝治教授はゲルストナーのかヽる見解を資 本調達運用説と名付けて居る。(ドイツ会計学理論, 50‑54 頁 )

( 注 3) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S . S .   7 7 ,   u s w . .  

( 注 4) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  2 1 2 .  

( 注 5) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  2 1 2 .  

( 注 6) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  S .  2 1 1 ‑ 2 2 0 .  

( 注 7) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  2 2 0 .  

さてかヽる見解に立つ彼が「貸借対照表分析」と名付けてなさんとする貸借対照表 並に損益計算書の分析的判断の内容は如何なるものであろうか,以下彼の所説を略述

して見よう。

1)

1. 

資本並に財産の構造 K a p i t a l ‑ u n d  V e r m o g e n s s t r u k t u r  

2)

先に述べた彼の貸借対照表観より当然に「支出されたる手段(自己並に他人手段)

が綿密なる営業指導の原則に従つて如何に当該企業に於て振向けられて居るか」と云 ふ事が先ず第一に究明されねばならない。即ち此処に於ては資本並に財産の構造描写 がなされるのである。而して此目的の為には資本及び財産の構成を先ず明瞭にする必 要がある。即ち

資本の側に於ては

( イ

) 自己資本と他人資本との分析的関係

( 口

) 自己資本の下位構成関係

V ) 他人資本の下位構成関係 ヽ 財産の側に於ては

( イ

) 固定財産と流動財産との関係

3)

口 ) 固定財産の下位分類項目間の内部的関係 い ) 流動財産の下位分類項目間の内部的関係

を示すのである。かくして得られたる分析的数値から有奴なる比較が生じて来,且つ

種々の下位集団の比較及び一期間から他期間への比較が可能となる。かくして資本及

(14)

3 2 0 ( 6 0 6 )   3 3 巻 第 4• 5 号

び財産の構成が一層明瞭ならしめられ得る事になる。

2 .  

補償度合乃至流動性度合

Deckungsgrad und L i q u i d i t a t s g r a d  

以上の如く資本並に財産の構成が明瞭ならしめられ得たならば更に其れが構造を即 ち「資本支出と資本の振向け,即ち資本と財産との間の内部有機的関係を研究しなけ ればならない。」彼は資本支出なる語を

( イ

資本が企業に入り来る過程,換云すれば企業に対する資本の提供即ち支出された る資本一aufgewendetenK

a p i t a l  

口 )

かかる資本を支出して財産を購入する過程,即ち財産に振向けられたる資本一

Kapitalverwendung 

の二義に使用して居る。今此前者を見る場合「資本支出は資本源泉を示す」事にな り,それは更に後者に於て具体的財産への移行,そこでは「各資本提供者は一應夫 々の提供額に應じて此等具体的財産に対する請求権を有する」に至る。

4)

故に我々は貸借対照表の消極側に示されて居る自己並に他人資本と共積極側に示さ れて居る財産栂成部分とを比較する事により「資本支出が当該財産価値物より補償 される度合」に付て分析的研究をしなければならない。 「補償度に関する研究」こ

5)

れである。而して此問題は更に具体的に検証して見れば「諸々の資本は或る一瞬間 に於て資本の振向けであり,且つ換金性を有する所の諸々の財産の如何なる部分に より償却され又僻済され得るか」の問題となつて来る。即ち「流動性度合に関する 研究」である。而してこヽに所謂流動性度合とは「何も無條件的に短期負債と換金 性大なる取引財産との間の関係のみを示すものではなく,それは補償度合に関する 研究から展開されたものなる事に基き,そこには種々の流動性度合が区別し研究さ れねばならぬ」事になる。要するに「貸借対照表の消極側の積極側に対する関係」

6)

の分析的研究である。

3 .  

循環可能性.循躁速度と財産利用度

Um s c h l a g s m o g l i c h k e i t ,  U  m s e h l a g s s c h n e l l i g ‑ k e i t  und Vermogensnutungsgrad 

此処に於ては資本及び財産と当該期間に於ける総取引高との関係を見んとするもの であつて.彼は前者,即ち資本と取引高との関係に「循環」なる語を使用し,後者即 ち財産と取引高との関係に「利用」なる語を使用する。尤もこゞでは損益計算書上に 取引高が表示されて居るものとして考察を進めて居る事に注意しなくてはならない。

彼が真に成果決定貸借対照表の名に値するものとして居る経営計算に基く損益計算書

(15)

ゲルストナーの貸借対照表分析論(植野)

( 6 0 7 ) 3 2 1  

に於ては「共の結びとして」取引高が表示される事になって居る。

7)

さて我々が資本の循環速度を研究するのはそれにより「取引高を基準として測定さ れたる資本需要高を認識し」得るからであって.,「自己資本並に長期他人資本の合計

と取引高との関係」「営業資本と取引高との関係」等は特に重要である。

他方財産の利用度の研究に於ては「固定財産と取引高との関係」流動財産中特に

「平均的な在庫品有高と取引高との関係」「平均的な受取勘定有高との関係」等が其 の主なるものである。これらにより我々は「平均的在庫品の経営経済的に好ましき高 さ及び其循環速度並に受取勘定の経営需要に合致せる高さを決定するに有益な帰結が 得られるのであり」更に「平絢的商品有高と平均的受取勘定額との間の有機的関聯が 考察」される事になる。

4 .

収益性度合

R e n t a b i l i t i i t s g r a d

1

及び

2

に於て専ら静的に貸借対照表の分析的考察を進め,

3

に於て動的な損益計 算書上の取引高を含むに至つた分析的研究はこゞに至つて益々損益計算書の分析的研 究へと進み,それだけ動的色彩も濃くなつて来る。

此「収益性の分析的研究は真に動的な経済的成果の判断を実際的に可能ならしめる もの」となるが,それが「貸借対照表上に表はされて居る資本並に財産」と「経営計 算の集積たる損益計算書上に示されて居る経済的成果」との結合より得られたもので ある限り,そこに得られるものは

H) 

「株主から企業に投下された資本の収益性」即ち「金融的収益性」

( 口 )

「全資本支出と年度純益との廃係たる」「全企業の収益性」

り 「総取引高と純取引利益との関係たる」「個有の経営目的から生ずる経済的収益 性」の三者に限定されざるを得ない。そこに於ては今日最も喧しく云はれて居る経 済性測定の問題には大して触れ得ないのである。

ゲルストナーが貸借対照表分析の客観的目標として示して居るのは大体以上の如くで ある。

(注

1) G e r s t n e r ,   a .  a .   0 .   S .  S .  3 6 4 ‑ 3 6 6 .  

(注

2)

此処でゲルストナーが一般に使用されて居る構成

( A u f b a u )

なる語を使用 せず特に構造

( S t r u k t u r )

とした点に注意しなければならない。彼は此点を シユマルツやル・クルートはたヽ•財産構成,資本構成に関してのみ説明する

(16)

3 2 2 ( 6 0 8 )   3 3 巻 第 4• 5 号

が,両者の内部有機的結合性を重視する我々はかヽる結合性を取扱ふが故に 敢へて構造なる語を持出したと云つて居る。

a .a .   0 .   S .  4 0 8 .  

(注

3)

彼は設備価値物

( A n l a g e w e r t e )

と経営価値物

( B e t r i e b s w e r t e )

とに大別 して居るが,それは大体に於て一般の固定財産と流動財産とに相当するもの なる故,こヽではかヽる変更を加へた。

a .a .  0 .   S .  6 4 .  

(注

4) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  4 0 9 .尚 P a t o n

はこれに着眼「財産と財産権」

( " a s s e t s and e q u i t i e s)

に基く物的二勘定学説を形成して居る。

c f .P a t o n ,  Account‑

i n g  T h e o r y ,   New Y o r k ,   1 9 2 2 .  

(注

5)

ゲルストナーは資本の財産による補償度は考へ得られるが,シュマルツに見 るが如き財産の資本による補償は考へ得られないと主張する。

a .a .   0 .   S .  4 0 9 .  

(注

6) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  4 0 8 .  

(注

7) G e r s t n e r ,   a .  a .  0 .   S .  2 1 5 .  

V I  

次に我々はこれをシュマルツの所説と比較し,そこに結語として貸借対照表分析の 限界とでも云ふべきものを引出して見たいと思ふ。

(注I)

ゲルストナーに於ける

1 .

と2

.はシユマルツが「経営経済の静態の分析」として述べ

て居る所を更に一層徹底したものとして,

3

.と4.とは彼が「経営経済の動態の分析」と して述べて居る所の

1 .  

「利益と取引高との関係」

2 .  

「取引高と資本との関係」(こヽには輩に資本と取引高との関係のみならず,在庫 品有高並に受取勘定有高等財産と取引高との濶係も扱はれて居る)

3 .  

「資本と利益との関係」

と略一致して居ると見て大過ないが,更に最後に

4 .  

「生産過程に於ける経済性の分析並にこれが測定の可能性」

がシュマルツにはあるが,これはゲルストナーには見得られない所に問題があるのであ る。シュマルツはこゞに来て,流石に問題を一應従来の所謂財務諸表の分析から切離し て,一般的に,経済性測定に関する諸種の見解を検討し,其結果「経済性の展開傾向に 対し一つの足場を与へる一定の表徴の説明はあり得るが,それは経済性が上昇して居る か,下降して居るかと云ふ事に過ぎないのであつて.経済性それ自体の絶対的数値とし て表現する事は不可能である」との結論に達し,「レーマンの所説に従ひ経済性に影響

(17)

ゲルストナーの貸借対照表分析論(植野)

を及ぼす最重要なものとして 1.  生産過程に於ける労働組織

2 .  

生産過程に於ける流動資本の循環速度

3 .  

固定資本の操業度又は利用度

4 .  

生産過程に於ける技術的組織

2)

( 6 0 9 ) 3 2 3  

の四者を掲げ前三者に付説明して居るが,そこに使用されて居る諸資料を一瞥するも.

かゞる問題が「内部経営執行の為に損益計算書を主たる材料とする貸借対照表分析」

によりなし得ないものたる事は明白である。シュマルツは此処に来て,固有の意義に於 ける貸借対照表の分析の限界を一歩踏越へて居る。而も「経営分析の根本的問題」の解 明はすでに「純経営経済理論である」と彼が言明したのも,結局此処に経済性の問題を 真正面から取上げて居るに外ならない。蓋し,今日の経営経済理論は此経済性の問題を 中心として動いて居る。これに全然触れざる,否これを全面的に取扱ひ得ざる経営経済 理論等は全然考へ得られないからである。我々はこヽに在来の貸借対照表理論の限界 を腿めざるを得ない。経済性測定なる問題は在来の貸借対照表分析論のよくなし得る 所ではない。それが為には更に大なる飛踊がなされねばならない。それは「経営比較 論」の任務とする所であり,ゲルストナーが「経営分析論」と名付けて試みんとしつ

ゞある所である。

一般通説に見るが如き貸借対照表.損益計算書による綜合判断としての「経営経済の 分析的研究」も結局ゲルストナーの唱へる「貸借対照表,損益計算書の各数字,項目 に生命を与へんが為にする貸借対照表分析」の範囲を一歩も出得ない事を銘記すべき である。兎に角ゲルストナーの貸借対照表分析論は在来の貸借対照表分析論や所謂経 営分析論に対し,自己反省の機会を与へ,自らの限界を明瞭ならしめたものとして重 要視せねばならぬと思ふ。

(注

1)

シュマルツは「経営分析の実際的問題」は色々の経営分析に関する著作に於 てすでに相当詳細に述べられて居る関係上,これらに関しては唯序説に於て触 れて居るに過ぎず,本文はすべて「経営分析の根本問題」に関し論述して居る。

故に以下貸借対照表分析の限界に付て見んとする時には唯彼が本論として取扱 つて居るものとゲルストナーの所説とを比較検討すればいい事になる。

(注

2) S c h m a l t z ,   a .  a .  0 .   S .  1 6 2 .  

参照

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